09/09/03 10:41:26 8L164KS4
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、
その人間のところで文化は完結してゐる。
その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
136:名無しのオプ
09/09/03 10:42:53 8L164KS4
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、
これこそ自分であるといふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、
今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。
或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。
自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、
それが即ち今日の行動の本になる。
…「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いたことがあるのです。
しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。
三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
137:名無しのオプ
09/09/03 11:11:27 8L164KS4
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。
…ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。
これは又、人間の行動の強さの源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふのは、
人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
138:名無しのオプ
09/09/03 11:13:19 8L164KS4
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。
これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、
生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。
ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、
又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると思ひます。
三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
139:名無しのオプ
09/09/08 11:05:34 /ODB2om6
「分倍河原の話を聞いて」
私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。
視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、うつさうとした森があつて、
遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。
白く細く見えるのは鎌倉街道である。
遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。
元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて
其の代りに陣太鼓の音や骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。
《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。
其の時、足下の草の中から、小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。
益々空は青い。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
140:名無しのオプ
09/09/08 11:06:17 /ODB2om6
「支那に於ける我が軍隊」
七月八日―其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。
懐来より大同へと我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。
我国としても出来得る限りは、事件不拡大を旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、
第二の日清戦争、否!第二の世界大戦を想像させるが如き戦ひに遭遇した。
~~~~~~~~
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
141:名無しのオプ
09/09/08 11:07:21 /ODB2om6
「支那に於ける我が軍隊」
飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、
苦戦に苦戦を重ねて居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。
たとへ東京に百二十度の炎暑が襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。
それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。
浦塩(ウラジホ)には、東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。
我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫!世界は既に動揺してゐるのだ!
~~~~~~~~
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
142:名無しのオプ
09/09/09 16:02:56 7KCG6TEY
「菊花」
渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、自然と園芸家によつて造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、
自然の造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、長い睫毛の下から無邪気な
瞳を覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、
大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
~~~~~~~~
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も恐れずに微笑む時である。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
143:名無しのオプ
09/09/13 12:17:13 mrE3c6f9
「三笠・長門見学」
船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。
艦前に来て再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ!此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。
艦頭の国旗は、うすらな風にひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。
一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。
伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
144:名無しのオプ
09/09/13 12:17:53 mrE3c6f9
「三笠・長門見学」
私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。
手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。
とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。
艦の全体にペンキで戦痕が記されてある。
こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、天皇の御稜威のいたす所であらう。
艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
…其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。
先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、余りにその設備の新式なのに驚いた。
艦上には四十サンチの素晴らしい大砲がある。
…あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、日本の海は安全なのであらう。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
145:名無しのオプ
09/09/13 13:47:39 Au3WS2k3
百二十度の炎熱酷暑の中で戦える将兵は最強だね
146:名無しのオプ
09/09/13 21:25:18 E/MMDPqw
三島が難解だとか高尚だとかまったく思わない。最初に高尚な文学に違いない
と思いこまないととても読めた代物では無い気がする。潮騒なんて読むと人物描写の
底の浅さというかこいつまるで取材してないなと言うところばかり目立つ。
あの時期の実力の妖しげな有名文士同士のほめっくらが無ければまったく価値の無い作家
ではないかと思われる。
147:名無しのオプ
09/09/13 21:47:27 mrE3c6f9
三島は神島に長期滞在して綿密に取材してるよ。
創作ノートみれば三島が作品を書く前にどれだけ熟考した上で洗練させているか解る。
148:名無しのオプ
09/09/13 22:16:50 RxCyra64
三島が底の浅い作家だとは思わないが、
>>147のいうような取材や熟考は底の浅い作家でも
普通にやることなので特筆する意味はないような
三島の問題は、疑いようのない天才なのに
才能の使い方を最後まで理解していなかったところだと思うな
149:名無しのオプ
09/09/13 22:54:01 mrE3c6f9
三島の才能を生かすも殺すも、後世(現代人)の手に委ねただけのことだよ。
150:名無しのオプ
09/09/25 11:14:58 /nNhj69p
「東健兄を哭す」
十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに―さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
151:名無しのオプ
09/09/25 11:16:33 /nNhj69p
「東健兄を哭す」
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。
おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり至純であつた人を寡聞にして私は知らない。
私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道のさきざきに
常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の謝すべき人を失ふとは。
……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、以て範とするに足るものであつた。
幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、却つて病床の兄の決してあやまたない
足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
152:名無しのオプ
09/09/25 11:17:58 /nNhj69p
「東健兄を哭す」
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。
文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる母君であられ、
今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間のまれまれに、
余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、ふともらされたその御呟き
―かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで改めまゐらせん)―といふ一句を、
なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の
奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、
御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずにはゐられなかつたのである。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
153:名無しのオプ
09/09/25 11:19:21 /nNhj69p
「東健兄を哭す」
…初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。
平家物語のあれらのふしぎなほど美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかに
なほ文学のおもはれるのを、心のゆとりとしもいはばいへ。
兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに
―昭和十八年十月九日深更―
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
154:名無しのオプ
09/09/26 02:14:07 i61PrhNe
見てる方がはずかしくなるような文章コピペするな。目障りだ。
155:名無しのオプ
09/10/01 23:17:53 ECdn8Fie
劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、
その時点でもうおしまひである。
かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、
「宇宙蟲」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
いつたい、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
「もーれつア太郎」のスラップ・スティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。
ヤングベ平連の高校生と話したとき、「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、「あれは本当に心から
笑へますね」と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。
大人はたとえ「ア太郎」を愛読してゐてもこうまで含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。
赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。
三島由紀夫
「劇画における若者論」より