09/11/02 07:37:51
>>987
> 心経や羯磨加持はいくら説明したところで死んでもおまへには理解できんと思うが、
> 神供など小難しいことではなく、聞いたらおまへでも理解できることだろうが。
>>989
> 普通の真言僧だったら、おまへが朝に神供してると聞いたら
> 「ニセ坊主決定」と思って相手する気無くなるかもな。
酉頭とはよく言ったもので、自分が教えられた事意外は真実がないとしか考えられない単細胞のようだ。
頭が悪いようなのでたとえ話を。
富士登山は登山道を上るのみと思い込み、8合目まで夕方に到着し翌早朝に起きて頂上に向かう。
これに合わぬ行動は、富士山登山に非ずと言うようなものだ。
私なら、ヘリで富士山の頂上を目指すのだが、それが密教の修行の真髄でもあるのだが、修行を
重ねない者には理解出来ないのだ。
しかも酉酉、私の突っ込みを恐れ、自分の主張を話そうとしない。
そのそも、神供は何の為にするのか?
酉酉は、形式のためにするものと思っているようだが、私の神供は12天との関係をより円満にし、親交を
深める為であり、密教ゴッコをしているのではない。
酉酉は秋の実り、果物の写真を撮ってプリントして、それを眺め続け、どうしたらこの果物を食べられるか
と考えているようなもの、それとは異なり私は果物の生る木に手を伸ばして果物をもぎ取り食べるのだが。
宗教、特に密教においては、教学優先の間違った考えから、往々にして果物の写真を眺めている学僧が
多いのには呆れるばかりだ。
密教は、机上の学問即ち知識ではなく、知恵の実践で感応体得できる宗教なのだ。