10/03/04 02:59:58
>>544
>>546
推古朝は無理としても、奈良朝には「なんらかの寺」は遡れることが遺跡ではっきりしている。
そして、門前集落として一定の規模があったことも「吾妻鏡」などの史料でわかる。
要は、近世都市・江戸の成立以前から隅田川(宮戸川)の川べりの小さな寺町。
>>545
そして、近世の江戸になっても、朱引・黒引のぎりぎり、江戸の北東隅、千住の手前の街。
だから、浅草田圃、入谷田圃(歌舞伎に出てくるね)だし、山谷堀の「地方橋」もその名残り。
(「町方」=町奉行支配と「地方(ぢかた)」=関東郡代支配の境界の意味)
浅草北方の日本堤(そもそもこれが江戸を旧荒川の氾濫から守る防禦線だったわけだから場末)、
の近くに、芝居小屋群と遊廓が日本橋あたりから「隔離」されて来てから、いよいよ殷賑を極めた。
これは間違いない。
ただ、それ以前の段階から相当、人は住んでいて、江戸の一角を為していた訳で
「ド田舎」と迄は言えないし(今の言問通り以北は、街道沿い以外は田圃と武家屋敷、寺)
例えば、江戸博蔵の17世紀(=天保の改革前)の江戸屏風数種類なんかみてもそれなりに
混んだ市街、境内として描かれている。