10/02/14 02:39:27
>>509
寺のおこりは、浅草寺の方が圧倒的に古いのはいうまでもない。
ただ、江戸期のみ、上野寛永寺が、日光と併せて事実上幕府直轄の「官寺」として、
また、天台宗の中心も、座主法親王(一品親王宮、輪王寺宮)を頂き、
比叡山から上野東叡山に移ったといっても過言でない訳で、
そういう大きな時代状況を考えないと。
(明治以降の天台宗の近代化、再建プロセスをみれば、その苦心並々ならず)
その後の寺社境内地の公収、官有地化、漸次返還、戦後の返還、となりますが、
これはどの寺社も同じことで、浅草寺に限ったことに非ず。
戦後の宗教法人法前後で、大きな戦禍を被った、四天王寺、浅草寺が
天台との関係を保ちながら、それぞれ「和宗」、「聖観音宗」※として独立、
(※「観音宗」は先に小さい教団が称してた)、
延暦寺とも提携を保ちながらも、本末関係を事実上解消してしまうプロセスの方が、
紆余曲折あって面白いと思います。
くだらないことですが、真言宗などと違って、天台宗は「天台宗○○寺派」
とはいいませんね。他宗の、例えば真言宗智山派、真言宗善通寺派、的にいえば、
和宗=天台宗四天王寺派、聖観音宗=天台宗浅草寺派、ということですね。
理解の一助とすれば。
面白いのは、例の忠運事件以降、別当代を置かれた浅草寺は別当への報告として
「日誌」をつけることになり、これが貴重な史料になっている、ということ。
今、翻刻して刊行されてますね。