09/08/03 16:40:45
>>507突然変異禅ぼーずさん、
先ず最初に書いておきますが、禅を否定しようとしている訳でも、
貴方を論破しようとしているわけでもありません。
ただ、お互いの意見を出し合うことにより、より高みにのぼりたいだけです。
是非最後までお読み下さい。
さて、なんで>>497のような事を書いたかというと、
体験してみた結果、497の状態は「悟り」自体では無いんじゃないかと思ったからなんです。
ジル・テイラーという人が病気にかかり、脳の内、自己境界を司る部分と、
言語を理解する部分が一時的に止まった結果、497の状態に陥ったそうです。
(おそらくこのような状態を人工的に作ることはそんなに難しいことではないと思います。)
そして、その状態こそが仏教で言う「涅槃の境地」であり、「悟りである」と思ったそうです。
しかし、私は、病気や、薬物などで人工的になれる「忘我の境地」が「悟り」であるとは、思えません。
なぜなら、その状態を脱してしまえば、また元の苦しみの状態に戻ってしまうからです。
むしろ、「悟り」は、この状態から得られる知見の「先」にあるのではないかと思ったのです。
私があの状態になったとたん、自己というのもが余りに儚い存在であり、
「我」というのもが幻想に過ぎないということが、直感的に理解できました。
故に、そのようなものに執着する事が、余りに愚かな事であるように思えたのです。
(まあ一瞬で現実に戻ってしまいましたが。)
執着しているモノが、執着する価値の無いものであることを理解する為の「手段」が、
497のような状態になる修行なんではないでしょうか?
是非、禅僧としてのご意見をお聞きしたいと思い、誤解を恐れずに書き込んでみました。