08/04/18 15:55:31
著書 「仏教の中のユダヤ文化」P216~
救世観音と呼ばれた聖徳太子
聖徳太子はまた、「救世観音」の名でも呼ばれている。「救世観音」とは、
観音の一種にそういう名の者があるという意味では無い。それは聖徳太子に
つけられた別名である。聖徳太子は、観音の生まれ変わりと宣伝されたのだ。
つまり、「聖徳太子は救世観音である」は「聖徳太子は救世主=メシアだ」
の意味である。
それ故、聖徳太子を語る際に「新約聖書」の中のキリストに関する表現は、
いつもぴったり合った。先に筆者は、聖徳太子のこのメシア化の背景には、
祟りへの恐れ、つまり怨霊信仰があったと述べた。非業の死を遂げた
聖徳太子が祟らないように、太子をメシアの座に祭り上げたのである。
メシアとして拝し、感謝し。あがめれば、霊は鎮められ、祟ることも
なくなるだろうというわけだ。
この観念を示すものが、法隆寺の「夢殿」にある。夢殿とは、むかし
聖徳太子がそこにしばしばこもって、政治や宗教に思いをめぐらせたと
いわれる八角円堂の建物を再建したものである。そこに、聖徳太子に似せて
作られたとされる「救世観音像」がある。
ところが、その像は1200年間も封印されたままで、だれも見たことが
なかった。秘仏だったのだ。
しかし、明治17年、東洋美術研究家E・F・フェノロサ(アメリカ人)
が、岡倉天心とともに夢殿を訪れ、その救世観音像をを安置した所を開ける
よう、寺に迫る。
「そんなことをしたら、大地震が起こって寺全体が崩壊してしまう」と
僧たちの反対にあうが、フェノロサは彼らの反対を押し切って鍵を開け
させた。彼らには明治政府の許可があったのだ。多くの僧が恐怖にかられて
寺から逃げ出したという。そして扉を開けて出てきたのは、なんと、
「包帯でぐるぐる巻きに巻かれた救世観音像」
だった。