08/03/08 23:02:18
>>309
全然違うね。
真言では仏像や仏画を本尊とできる根拠は「加持」であって
三千一念ではない。三千一念には以下のような疑がある。
1つ目。「一念」に拘る余りに「実体概念」を最後まで否定しき
れていない。これは大乗仏教として致命的な欠陥。
2つ目。「一念三千」は観念的な成仏のきらいがある。天台チギ、
最澄、日蓮のいずれの祖師が「社会的な事業」を行ったかは寡聞。
3つ目。崇拝の対象を「無情」に拡大するならば、本尊は何でもいい
ことになる。石でも山でも樹木でもそれを通して仏界に通ずるとすれば
本尊はこれ(日蓮/曼荼羅/題目)だけ!とかいう根拠はなくなる。
四つ目。一念三千は華厳経の「一即他」「三界唯心」や愉伽唯
識派と何が違うのか。何か大きな違いはないように思うが。