08/05/23 17:56:16
天台は五時八教としたが、これは当時存在した中国語経典を「すべて釈尊の直説」と見立てた結果。
また、世の仏教宗派の多くは大なり小なり「教判」をしているから、五時八教を非難することはできない。
各経典は、釈尊の教えの各部分に着目してそれぞれ発展(異質なものも入り込んでいるが)させたものと見ることができる。
つまり、各経典は部分論。
天台においては、その部分論のうちどれが核心部分について正しいのか突き詰めた結果が法華経。
もっとも、釈尊の核心(出世の本懐)は法華経としたが、天台の核心は摩訶(円頓)止観であり、違うものである。
>>681
極楽浄土の住人である阿弥陀仏は、穢土である娑婆世界に縁がなく、娑婆世界の人間を救うことはできない。
それどころか、阿弥陀仏は、娑婆世界に一切手を出すことはできない。
(浄土宗では、念仏を唱えて娑婆世界⇒極楽浄土と転生し、そこではじめて阿弥陀仏の教化を受けて成仏することになっている。)
>阿弥陀仏はこの世界全ての表れを意味するから
これは、法華経第一とした天台の解釈を選択することで、はじめて正しいものになる。
しかし、浄土宗他では、法華経を難行道とする、あるいは捨閉閣抛といって捨てている・・・・・「重大な矛盾」