09/04/25 19:00:33
822 :神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 16:17:37 ID:5E1a69tY
ここを見て、感じたこと・・・なんだろう・・上手く言葉にできないが・・
俺はこれができる、俺はこれを知ってる、お前より上だ、というような子供っぽい自尊心っていうのかな・・・
何かを学べば学ぶほど、それを披露したい、他人に優越したいっていう自我が暴れ出して・・・鼻高々に講釈してしまう・・・
その作用はほとんど、欲望からやってきているから、学べば学ぶほど、人は本来の目的から遠ざかってしまう・・・
これはこう言うんだぞ、知らないだろ、これをやってるか?できないだろ?っていう優越感をえるためなのか、
はたまた、完全なる慈悲心からやっていることなのか・・・そうだったら、それはいいのだろうけど・・・自分にはわからない。
経典を学べば解脱できるのなら、学者はみな解脱してることになるが、どうもそうではないらしい。
優越するために悟りを求める人は、全員が悟りを開いたら、きっとそれを求めないの・・・それでは優越できないから。誰もができることができても優越できないから・・
誰もがやるように、仏壇に花を飾って「南無阿弥陀仏」とか唱えるだけ、ってのは我慢できない・・・一つの自我の装置として・・・
だからこそ、「仏法は造作の加えようもない、ただ平常のままであれば良い」
なんて臨済さんは言ったのかな・・・
これに思い当たる人が「誰」だかわかりますよね?
皆さん自分の胸に手を当ててよく考えてみてください。