07/09/21 18:31:43
<コピペ天国編寺子屋~その7~>
ところが、である。醍醐山の先師は、
そのような『率直な疑問から
生じる視線』それ自体を一先ず否定
してしまう。
否定作業だけでなく、醍醐三宝院に
おいて預かる修験恵印の行儀において
『金胎一如不二』(八●師)というレベル
にまで推し進めて、ともかく醍醐流の
教学によって、首尾一貫させたことは
重大である。
このような徹底して不二に帰納
する発想は、派祖聖宝理源大師が
遺された『理智不二界会礼讃』の
タイトルにあるような一元論的な
構想がなければ、伝統教学として
生じ得ない。
『仏としてある』(アビサンボーディ
=現等覚)ことを強く意識することで
菩薩として『下向衆生』の実践に向かう
下地ができたということである。