07/05/23 23:05:39
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霊魂が存在すると主張する人がいようと存在しないという人がいようと一向に構わない、
そういう立場を与えてくださるのが仏教ではないでしょうか。
釈尊は、前者を有の邪見、後者を無の邪見と退けられ、「正見」を示されます。
正見、仏の智慧の眼こそが、分別で分からないことを分かりたい自分を照らし出し、
分別で分からないことは分からないままでいいという安心を与えてくれます。
私という「我」をたて、それに執着している人間にとって、生死はどこまでも分別されるものです。
そんな私にとって、「霊魂」という概念はいかにも都合がいいのでしょうが、霊魂が存在し、
心霊写真が真実であっても、往生浄土のみ教えにはなんら関係ないし、霊魂がなく、
心霊写真がうそっぱりであっても、また往生浄土にはなんの関係もありません。
問いは、なぜ問われるのか。
死後の世界を妄想し、畏れたり、はたまた夢みたりしている私をこそ問われているのではない
のでしょうか。
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