08/03/16 16:24:05
676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、
と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。
678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。そ
れ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、
恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。
680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか? どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?
681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように
身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?
682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれる
あなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」
683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、─シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。
351:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:25:13
罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。そ
れ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである
(神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、─シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
352:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:15:53
684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、
ゆがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。
─猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」
685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」
686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。
─溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。
687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、
雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。
688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。
689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。
─その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。
690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、
(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。─「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」
691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った
、─ 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」
692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、─
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。
またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。
353:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:17:06
693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、
あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。
694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)
中途でわたくしは死んでしまうでしょう。わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」
695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。
かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なき力ある人の教えに従うようにすすめた。─
696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、
そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」
697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。
698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、
出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 序文の詩句は終った。
699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。
故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。
700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。
聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。
354:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:18:40
701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげようるしっかりとして、堅固であれ。
702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。
703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。
704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、
強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。
705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、
わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。
かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。
708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。
709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、
樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。
710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。
(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。
711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。
話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。
355:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:21:15
罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。
婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。
(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
凡夫は欲望と貪りを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
瞑想に専念し樹の根もとで瞑想し、
356:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 10:54:33
712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。
713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。
714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。
715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」
716 師がいわれた、
「あなたに聖者の道を説こう。─(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。
717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。
718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。
357:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 10:56:14
720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。
721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。
722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。
723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」
修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。
そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。─『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、
一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。修行僧たちよ。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。
─ 尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
358:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:00:16
(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」
独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。
聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。
二種[の観察法]を正しく観察して、、専心している修行僧にとっては、果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。
359:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:01:23
724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、─
725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、─
727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
360:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:02:44
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
361:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:54:11
727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、
苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」─
362:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:55:56
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなれけばならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、
一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、
733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
363:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:57:25
734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。
735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、
一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。
364:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 19:05:21
心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』一つの観察[法]
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]である。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』一つの観察[法]
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』一つの観察[法]である。
『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、
一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。
正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
365:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:13:28
736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。
737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、
739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、
このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。
366:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:14:30
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。
740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。
741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、
すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が
残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。
367:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:16:24
743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、
すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。
745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、
746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。
368:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:21:28
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
この迷いの生存に戻らないことである。」─
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]である。
この迷いの生存に戻らないことである。」─
執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。
それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、
生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。
369:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:23:34
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、
749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、もはや苦しみの生ずることがない』というのが
第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
370:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:25:22
750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属することのない者は、
たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、
怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。
753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。
『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
371:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:26:21
754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧を
もってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・
神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は
<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
372:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:35:53
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』一つの観察[法]
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』一つの観察[法]
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、もはや苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]
『従属することのない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]
『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』一つの観察[法]
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』第二の観察[法]
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』一つの観察[法]
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>
と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』第二の観察[法]
「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って一切の食料にたよらない、
諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。
「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。
従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。
物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
373:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:29:30
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。
759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、─
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。
また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
374:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:30:25
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。
(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。
あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。
764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。
この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。
実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。
[二種の観察]まとめの句
真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、
妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。
<大いなる章>第三おわる
まとめの句
出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、
矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と─
これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。
375:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:35:01
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。
かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
376:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:27:14
766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。
769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、
770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。
それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。
船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、
─このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれる
のではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。
774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、─「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。
775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、
そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。
776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。
下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。
377:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:28:23
777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)
ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、
「わかもの」という思いを離れて行うべきである。─諸々の生存に対して執著することなしに。
778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、
自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、
(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。
780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って
(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。
781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。
かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、
自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、
世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。
784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りが
あると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、
容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。
378:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:29:56
786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか?
かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。
人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、
清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを
捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が (正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちの
どれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。
かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、
ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。
793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、
覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
379:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:30:50
794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、
執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、
それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、
自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、
それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
380:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 21:41:06
801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、
願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、
微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのない
そのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって
導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは
常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
806 人が「これはわがものである」と考える物、─それは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、
愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。
それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。
810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域の
うちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
381:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 21:41:52
811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。
悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、
それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。
かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
◆<7、ティッサ・メッテイヤ>◆ 814 ティッサ・メッテイヤさんがいった
、─「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。
816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、
車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
817 かってかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。
818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。
819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。
820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
382:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 21:44:05
821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。
822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。
(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。─かれは安らぎに近づいているのだが。
823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、
諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」─
824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、
論争を交わす。─みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。
826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、
(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、
論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。
828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。
ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、
かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
383:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 21:50:03
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、
微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのない
そのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって
導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
人が「これはわがものである」と考える物、─それは(その人の)死によって失われる。
わかものという観念に屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、
愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。
384:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 21:50:25
聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。
「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、
論争を交わす。─みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。
論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、
(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
論争には得意と失意とがある。
ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
385:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/25 14:39:37
831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。
勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、
汝はかれに言え、─「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。
833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、
かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。
834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、
邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。
835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、
愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」
836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、
あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、
<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
386:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/25 14:40:51
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、
固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、
戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、
知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの (内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
─かれらはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
─かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって
誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、
諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。
387:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/25 14:43:16
『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、
固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの (内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
─かれらはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
─かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
388:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/26 19:44:40
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、
それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、
水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。
かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。
847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、
迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
◆<10、死ぬよりも前に>◆ 848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が
『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」
849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、
現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、
よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。
[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
389:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/26 19:45:42
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、
怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。
また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。
857 諸々の欲望を顧慮することのない人、─かれこそ<平安なる者>である、
とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、
かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、
『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。
かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」
862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、
どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」
863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。
また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか?
また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」
390:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/26 19:48:53
ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。
かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、
現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。
[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。
聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、
『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。
かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。
391:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/28 17:14:56
864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは
何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」
865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。
また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」
866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか?
怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には
正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。
868 怒りと虚言と疑惑、─これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。
疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか?
また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。
生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか?
何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?
872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、
<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」
873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか?
どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。─わたくしはこのように考えました。」
392:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/28 17:15:53
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、
想いを消滅した者でもない。─このように理解した者の形態は消滅する。
875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。
われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。
─この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』と
われらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」
876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。
さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。
877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、
知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、
互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
─「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。
これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、
これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、
かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
393:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/28 17:16:54
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
─かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、
見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。
899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。
(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
394:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/28 17:21:21
「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。
また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」
「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には
正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。
怒りと虚言と疑惑、─これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。
「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。
生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、
<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」
「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、
想いを消滅した者でもない。─このように理解した者の形態は消滅する。
「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。
さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。
395:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/28 17:21:50
かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、
知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、
互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
─「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、
これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、
かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
─かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
(たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
396:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/29 20:41:39
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。─安らぎを固執することもなく。
901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、
声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存しない者、─かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ─かれはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは
一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論が
そのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。そ
れ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、
と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
397:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/29 20:42:54
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、
多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、
かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。
かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。─他の人々はそれに執著しているのだが。─
912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。
かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。─他の人々はそれに執著しているのだが。─
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。
賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
915 [問うていわく─]「太陽の裔である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、
遠ざかり離れることと平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の
根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
398:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/29 20:46:20
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。─安らぎを固執することもなく。
ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存しない者、─かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ─かれはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは
一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論が
そのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。そ
れ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。
かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。─他の人々はそれに執著しているのだが。─
聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。
かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。─他の人々はそれに執著しているのだが。─
賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。
399:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/31 20:07:16
917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって
慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、
また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。
内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、
静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」
921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、
危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」
922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。
味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。
923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。
生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。
924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。
またそれらがえられないからとて心配してはならない。
925 こころを安定させよう。うろついてはならない。あとで後悔するようなことをやめよ。
怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。
ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。
927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。
鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
400:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/31 20:07:59
928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、
高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。
929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。
また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。
930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)
遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。
931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、
知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、
あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。
933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した
状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。
934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。
それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」
─このように師(ブッダ) はいわれた。
401:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/31 20:11:21
内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。
それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
自己を妄想せずにおれ。
修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。
内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。
こころを安定させよう。うろついてはならない。あとで後悔するようなことをやめよ。
怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。
また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。
虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、
知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、
あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。
かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。
402:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:03:35
935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。
936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。
937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。
938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。
940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。─世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。
941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。
942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。
943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。
944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。
945 わたくしは、(牽引する者のことを)
403:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:04:02
945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼び、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。
946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。
947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。
948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。
950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、─かれは実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、─かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。─動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。
953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。
954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。
─と師は説かれた。
404:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:07:57
世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。
聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。
高慢な態度をとるな。
また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。
滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。
バラモンである聖者は、真実から離れることなく、かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。
かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。世の中で何びとをも羨むことがない。
名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人
「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、
─かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。、至るところに安穏を見る。
405:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:08:50
955 サーリプッタさんが言った、─
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。─このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。
956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。
957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。
958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。─修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。
960 未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。─修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。
961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか? ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?
962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ─譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。
964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
406:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:09:32
965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。─たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。─また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なま人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。
967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。
969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。
970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』─家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
─と師(ブッダ)はいわれた。
407:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/04 13:13:13
一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。
あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。
智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。
『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』
憂いに導く思慮を抑制せよ。
罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
ことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。
善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。
408:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:01:17
976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。
977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、─落穂を拾い木の実を食って。
978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。
979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。
980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごけ、頭は塵をあびて、かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。
981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。
982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」
983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」
984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。
985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。
409:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:01:41
986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、かれのためを思って、かれのもとに近づいて、次のように語った。
987 「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」
988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、わたくしに話してください。われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」
989 「わたしだってそれを知っていませんよ。それについての知識はわたしにはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」
990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうかわたしに話してください。」
991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまするかれは甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。
992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。
993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、それを説明するでしょう。」
994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。
995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。「世間の主は、どの村に、またどの町に、あるいはとせの地方にいらっしゃるのですか?そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」
410:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:02:26
996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」
997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。
998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」
999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。われらは知らないのです。」
1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。
1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、─かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。
1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。
1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。
1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。
1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」
411:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:05:24
世間の主
どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう?
もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」
412:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:08:12
1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン─アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、
ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、
バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、─
かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。
髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し、またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。
ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、ゴーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサというところへ、
またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。
さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。
1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。
1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。
1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。
1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。─
1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」
1019 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。
1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」
413:名無しさん@京都板じゃないよ
08/04/05 22:09:05
1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。わたくしに疑いを残さないでください。」
1022 [師いわく]、「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。かれの隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」
1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのに、(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。─
1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ─神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ─また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?
1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」
1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」
1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。
1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」
1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。
1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」
1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。