天才についてat KYOTO
天才について - 暇つぶし2ch300:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/05 19:48:00

解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。




301:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/05 19:48:46
495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる
。─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去って
もはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

302:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/05 19:49:21

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々

303:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 21:26:56
501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。
─そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。─バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

504 (マーガがいった)、「実にわたくしの質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、
わたくしに説いてくださいました。先生! あなたはこの世ですべてのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、
福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、
どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。
祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。

507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、
無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

304:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 21:31:03

自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。

『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』

ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。

尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。
祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。


305:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 21:32:02
508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 
何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、
説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。
真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、
施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

 このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。
すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、
方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって
暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」

306:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 21:33:29

尊き師は答えた、「そのような人は、・・・・・・・・・・・
梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

307:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 23:24:26
 わたしが聞いたところによると、─或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。
そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、
─「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、
汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、
次の[六師]のもとに至って質問を発した。すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、
パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、かれは<道の人>
あるいはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。

[しかるに]かれらは、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、
怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、
「これらの<道の人>またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、
多くの人々から立派な人として崇められている。かれら、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子である
ニガンタに至るまで人々は、わたしに質問されても、満足に答えることが出来なかった。満足に答えることができないで、
怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、わたしに反問した。さあ、わたしは低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。

 そのとき遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、
有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。さあ、わたしは<道の人>ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。




308:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 23:25:17
 さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる<道の人>・バラモンがたは、
年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、長老であり、経験を積み、出家してからすでに久しく、
衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、かれらは、わたくしに質問されても、
満足に答えることができなかった。満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、
かえってそこでわたくしに反問した。<道の人>ゴータマはわたくしの発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。
<道の人>ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。

 次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。さあ、わたしは<道の人>ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。

 そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所に
おられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、
かれは傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。─

510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょう

309:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/06 23:26:26
510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。
わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」

511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、
それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。

512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」

 そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、
─わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。

513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? 
どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか? 
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、
(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、─かれが<修行僧>である。

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、
流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、─かれは<温和な人>である。

310:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 16:59:15
516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ
身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、─かれは(自己を制した人)である。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、
塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、─彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」
 そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび
、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? 
どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか? 
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、
輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、─このような人は<バラモン>と呼ばれる。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、
─このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。

521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と
人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、─かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

311:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 17:01:16

全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、
身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、─かれは(自己を制した人)である。

あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、
塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、─彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」



師が答えた、「、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、─このような人は<バラモン>と呼ばれる。
生と死とを超越した人、─このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。

時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、─かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

312:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 17:04:07
522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、
いかなることにもとらわれることなく解脱している人、─このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 
何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、
一切の田の根本の束縛から離脱した人、─このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。

525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、
─このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。

526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり
、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、
人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、─かれは<聖者>である。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、
嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

313:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 17:05:43

いかなることにもとらわれることなく解脱している人、─このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」


一切の田の根本の束縛から離脱した人、

一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、
清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、
人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、─かれは<聖者>である。」


314:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 17:15:33
528 サビヤがいった、「何を得た人を<ヴェーダの達人>とよぶのですか? 
何によって<知りつくした人>となるのですか? いかにして<勤め励む者>となるのですか? 
<育ちの良い人>とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、どうかわたくしに説明してください。」

529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、
一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、─かれは<ヴェーダの達人>である。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、
一切の病いの根源である束縛から脱れている人、─そのような人が、まさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである。

531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、─そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、
─そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のない
ありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。



315:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/07 17:18:44

すべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、
一切の感受を超えている人、─<ヴェーダの達人>である。

内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、
また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人

内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、

あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>


316:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/09 16:51:09
535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。
三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、─かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、
解脱していて、害しようとする心の存在しない人、─かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、
偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、─かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、
座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とに
もとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。
あなたは完全にさとりを開かれた方です。あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。
あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。
わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

317:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/09 16:53:25

智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない

常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人

<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人



318:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/09 16:54:39
541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。
聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、
身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、
すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。
神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。
あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。
何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、
雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、
─「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、
方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と
いって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
ここでわたくしはゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。
わたくしは師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」

319:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/09 16:56:56
 (師はいわれた)、
「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。四カ月たってから、
もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、
修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」

 「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住み、四カ月たってから、もういいな、
と思ったならば、諸々の修行僧がかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるよう
にさせるのであるならば、わたくしは(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年
たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はわたくしを出家させて、
完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせてください。」

 さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、
この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、
やがて無上の清らかな行いの究極─諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て
家なき状態に赴いたのであるが─を現世においてみずからさとり、証し、具現して日を送った。


「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

320:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:00:25
わたくしが聞いたところによると、─或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ
[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ケーニヤは
こういうことを聞いた、「シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、
修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。
そのゴータマさまには、次のような好い名声がおとずれている。─すなわち、かの師は、
真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を
調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。かれは、みずからさとり、
体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や<道の人>・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。

かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で
清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人に見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」

 そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の
ことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、
元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、
師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

321:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:01:19
 そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、
「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、
千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、
しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、
千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、
千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、
しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」
師は沈黙によって承諾された。

 そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。
それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたくしの
ことばをお聞きなさい。わたくしは<道の人>ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招
待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたくしに手伝ってください。」

 結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者は竈
の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設
けた。また結髪の行者ケーニヤはみずから(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。

322:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:02:28
 ところでそのときセーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義に達し、
語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文
法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。そのとき
結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

 ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労
を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。
そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、
或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、
また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の
行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の
嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? 
あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」



323:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:03:38
 「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、
マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。
そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、
シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともに
アーバナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。
─すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・
無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。
わたくしはあの方を修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>(ブッダ)と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」
 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」

 そのときセーラ・バラモンは心に思った。「<目ざめた人>という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。
ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、
その他の途はありえない。[第一に]もしもかれが在家の生活を営むならば、かれは転輪王となり、
正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわちかれは
輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。
またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てるに至るまで、
この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。[第二に]しかしながら、
もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。

324:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:05:09
 「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」
 かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、
「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

 そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。
そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「きみたちは(急がすに)小股に歩いて、
響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。
そうしてわたしが<道の人>ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばを挿んではならない。
きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

 さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、
思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは
師の身に三十二の<偉人の相>があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、
ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。
ただ二つの<偉人の相>に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、
(<目ざめた人(ブッダ)>)であるということを)信用せず、
信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。



325:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:05:32
 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、
ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、
(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

 そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。
次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。

 そこでセーラ・バラモンは思った、─「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、
不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるか否か』ということをまだ知らない。ただわたしは、
年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の<尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人>は、
自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、わたしは、適当な詩を以て、
<道の人>ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。
そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。─

326:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:12:48
548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。
黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。

549 実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。

550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、
光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。

551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。
このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。

552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、
四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。

553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。
ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王としてね人類の帝王として、統治をなさってください。」

554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。わたくしは王ではありますが、無上の真理の王です。
真理によって輪をまわすのです。─(だれも)反転しえない輪を。」

555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは<完全にさとった者>であると、みずから称しておられます。
ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは<無上の真理の王>であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。

556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? 
あなたがまわされたこの<真理の輪>を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の<真理の輪>
(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは<全き人>につづいて出現した人です。



327:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:14:08

無上の真理の王です。
真理によって輪をまわすのです。─(だれも)反転しえない輪を。」


わたしがまわした輪、すなわち無上の<真理の輪>
(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは<全き人>につづいて出現した人です。

328:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:15:31
558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、
断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。

559 わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

560 かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、
いとも得がたいことであるが、わたしは、その<さとった人>なのである。バラモンよ、
わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

561 わたしは神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、
あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。」

562 (セーラは弟子どもに告げていった)、─「きみたちよ。眼ある人の語るところを聞け。
かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。

563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、
だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。
わたしもすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」

565 (セーラの弟子どもが言った)、─「もしもこの<完全にさとった人>の教えを、
先生が喜ばれるのでしたら、わたくしたちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」

566 (セーラは言った)、─「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。
『先生! わたくしたちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』

567 師(ブッダ)が答えた─「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。
それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」

329:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/11 14:17:59
568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]は
ヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。
修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。

 師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。

 そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、
精励し専心していたが、まもなく─諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく
家を出て家なきに赴く目的であるところの─無上の清らかな行いの究極を現世に
おいてみずからさとり、得し、具現していた。「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。
清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を
受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

 そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、
衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。─

570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、
七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身をととのえました。

571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。あなたは悪魔を征服した聖者です。
あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから渡りおわり、またこの人々を渡してくださいます。

572 あなたは生存の素因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。
あなたは執著することのない獅子のようです。恐れおののきを捨てておられます。

573 これら三百人の修行僧は、合掌して立っています。健き人よ、
足をお伸ばしください。諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」

330:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/12 11:10:14
574 この世における人々の命は、定まった相なく、
どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。
老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、
生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りには
すべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、
すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

579 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、
父もその子を救わず親族もその親族を救わない。

580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、
人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。
それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

583 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、
もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。
ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

331:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/12 11:12:37


このように世間の人々は死と老いとによって害われる。
それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、
もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。


332:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/12 11:13:18
585 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。
かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。
壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、
終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、
立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。─譬えば風が綿を吹き払うように。

592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、
あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。

333:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/12 11:15:03

死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、
あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。

334:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:38:37
600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、
順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、
「我等は木である」とか)言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。
かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、
人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

335:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:39:29



人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

336:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:40:06
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、
音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。
人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

337:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:40:51

人間の間ではこの区別は存在しない。
人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。



338:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:41:59
619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。
かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、─かれをわたしは<バラモン>と呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

339:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/13 19:44:13

無一物であって執著のない人

すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人

怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人
諸々の欲情に汚されない人

すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人

明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人

在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人

─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


340:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/14 16:40:08
629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、
殺さず、また殺させることのない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、
執著する者どもの間にあって執著しない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、
ことばによって何人の感情をも害することのない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、
浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、─かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、
瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

341:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/14 16:40:59
639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、
欲望の生活の尽きた人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

640 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、
愛執の生活の尽きた人、─かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、
すべての絆をはなれた人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、
全世界にうち勝った健き人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、
覚った人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、
煩悩の汚れを減しつくした人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、
何ものをも執著して取りおさえることのない人、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・
沐浴した者・覚った人(ブッダ)、─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、
─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

342:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/14 16:47:26

・強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、
・敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、
執著する者どもの間にあって執著しない人、

・愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、
・ことばによって何人の感情をも害することのない人、
・現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、
・さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、
・この世の禍福いずれにも執著することなく、歓楽の生活の尽きた人、
・この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、
・瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、
・欲望の生活の尽きた人、
・愛執の生活の尽きた人、
・人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、
・<快楽>と<不快>とを捨て、全世界にうち勝った健き人、
・生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、
・煩悩の汚れを減しつくした人、
・すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、
欲望のない人・覚った人(ブッダ)、
・前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、

─かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

343:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/14 16:48:27
648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。
(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、
誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)と
なるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。
行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。
行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。
生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--進み行く車が轄に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。 
これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、
諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

344:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/14 16:50:50

世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。

(姓名は、かりに付けられたものにすぎない

生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。
行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

行為によって傭人となるのである。

賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。

熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、
これによって<バラモン>となる。 これが最上のバラモンの境地である。

三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、
諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。このとおりであると知れ。

345:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:13:50
師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、
夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。
それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナと
に対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。サハー世界の主である梵天は
このように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」

346:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:15:08
657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、
─かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。
しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの
[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら、わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。
風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。─かれ自身は、信仰心なく、
ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、
不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を撒いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、
また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

347:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:18:41

愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

聖者をそしる者は、地獄に赴く。

嘘を言う人は地獄に墜ちる。行為の卑劣な人々 地獄に墜ちる)。

害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる

口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、
不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。



348:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:19:34
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、
(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。
さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしいことばをかれることなく、
(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、
鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。
火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、
つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、
手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。
その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、
泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

349:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:21:11

けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、
(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。



(地獄に墜ちた者どもは)、・・・・・・・・・・・・・・・・








350:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:24:05
676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、
と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。そ
れ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである



679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、
恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか? どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように
身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれる
あなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、─シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。

 だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

351:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/16 16:25:13

罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。


ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。そ
れ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである


(神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、─シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。



352:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:15:53
684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、
ゆがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。
─猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、 
「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。
─溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、
雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。

 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。
─その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、
(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。─「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った
、─ 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、─
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。
またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

353:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:17:06
693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、
あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)
中途でわたくしは死んでしまうでしょう。わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。
かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なき力ある人の教えに従うようにすすめた。─

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、
そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、
出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 序文の詩句は終った。

699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。
故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。
聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。

354:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:18:40
701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげようるしっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、
強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、
わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。
かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、
樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。
(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。
話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

355:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/17 22:21:15

罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
凡夫は欲望と貪りを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

瞑想に専念し樹の根もとで瞑想し、


356:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 10:54:33
712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた、
「あなたに聖者の道を説こう。─(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

357:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 10:56:14
720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」



 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。
そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。─『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、
一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。修行僧たちよ。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。

 ─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。
─ 尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

358:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:00:16

(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。
聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。


『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。

『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。

二種[の観察法]を正しく観察して、、専心している修行僧にとっては、果報が期待され得る。

 ─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。


359:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:01:23
724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、─

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、─

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─

360:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 11:02:44

かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。

かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。


『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─

361:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:54:11
727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、
苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」─



362:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:55:56
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなれけばならない。どうしてであるか? 
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、
一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。




363:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 18:57:25
734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、
一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」

師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

364:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/21 19:05:21

心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』一つの観察[法]
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]である。
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』一つの観察[法]
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』一つの観察[法]である。
『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─

苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、
一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。

正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。




365:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:13:28
736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、
このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。



366:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:14:30
 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。

740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、
すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が
残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

367:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:16:24
 743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、
すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。





368:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:21:28

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
この迷いの生存に戻らないことである。」─

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。



『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]である。
この迷いの生存に戻らないことである。」─


執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。


「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、
生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

369:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:23:34
 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、もはや苦しみの生ずることがない』というのが
第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

370:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:25:22
750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属することのない者は、
たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、
怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
 『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。


371:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:26:21
754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧を
もってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・
神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は
<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。─すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

372:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 15:35:53
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』一つの観察[法]
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』一つの観察[法]
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、もはや苦しみの生ずることがない』第二の観察[法]
『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]
『従属することのない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]
『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』一つの観察[法]
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』第二の観察[法]
 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』一つの観察[法]
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>
と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』第二の観察[法]


「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って一切の食料にたよらない、

諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。


373:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:29:30
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、─

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。
また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

374:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:30:25
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。
(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。
あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。
この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。
実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、
妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、
矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と─
 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

375:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/22 22:35:01
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が
<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>
と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』─これが第二の観察[法]である。

かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。

他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。

生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。




376:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:27:14
766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。
それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。
船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、
─このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれる
のではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、─「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、
そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。
下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

377:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:28:23
777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)
ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、
「わかもの」という思いを離れて行うべきである。─諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、
自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、
(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って
(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。
かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、
自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、
世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りが
あると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、
容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。




378:名無しさん@京都板じゃないよ
08/03/24 14:29:56
786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? 
かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。
人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、
清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを
捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が (正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちの
どれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。
かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、
ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、
覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。







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