07/06/28 10:58:50
我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説な
り。乃至 善男子、我が所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。
~ 善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅
にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性
あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説、
またしかなりと。これを随自他意説と名づく。(真仏土の巻 親鸞)。
釈迦の教えは十二の部門に及んでいる。その中には、随自意説と随他意説と随自他意説と
がある。決してひととおりではない。
「仏法を勉強し始めたが、まだ小乗の悟りには至らない十住の菩薩は、少し仏性が見えてくる。
しかし、まだしっかりとは見えないだろう」。釈迦はそのように説くことがある。これは、聞き
手の心に合わせて法を説いているのだ。また、「あらゆる生き物には仏性がある」。釈迦はその
ように説くことがある。これは、聞き手の心に合わせているのではなく、話し手つまり釈迦は、
釈迦の知見で話しているのだ。聞き手の心に合わせて説いている法と、釈迦の知見で話している
法とは、中身が異なる。「一切衆生不断不滅にして、阿耨多羅三藐三菩提を得る」。これも随自意
説である。
「全ての生き物は、ことごとく仏性がある。しかし、煩悩が覆っているからそれを見ることがで
きない」。こう言えば、釈迦の知見と、聞き手の知見とに矛盾が無くなる。これは、聞き手の考
えと釈迦の知見とを調和させている教えである。随自他意説という。
教えは様々である。随自意説と随他意説と随自他意説とは、互いに矛盾している。アンチが、
一部だけを取り出して分かったと思えば、危険なことだ。釈迦の真意をしっかりと理解していく
ことが必要である。