07/09/05 14:38:52
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奈良時代までは有力者をはじめほとんど土葬だったと思う。
それが平安時代になると、陰陽道の影響で土葬が忌避されるようになる。
陰陽道では、その土地には土神、土公という神がいて、土を掘り返したり
遺体を埋葬すると祟りを為すという信仰がある。
そこで、遺体を四辻や特定の場所に放棄するようになり、墓場は遺体が散乱。
餓鬼草紙などの絵巻物に描かれた世界だ。そこで有力者は土神の祟りを恐れ
仏式に火葬に付された。
土葬が再開されるようになるのは中世以降。
そうした遺体処理の変遷に伴って、死者儀礼を行う集団の性質も
変化して言ったんじゃないかと思う。
穏亡は墓堀人でもあり、もがり期間中の墓守でもあった。
ほかに天皇の葬礼に関わる「八瀬の童子」も、もともとは死者儀礼専門集団
だったのではないかと思う。