09/07/04 19:48:39
瞑想は仏教では本来メインではなかった。
縁起を正しく理解する、そしてそれに従った生き方をするというのがブッダの教えで
縁起を理解するために深く考える、それが仏教の瞑想であって
瞑想自体が苦を滅する答えではなかった。
だが、仏教がインドの国教になり、ヨーガ行者がみな仏教に合流した。
結果部派仏教はどんどん瞑想のロジックを深め、それが中心かのようになっていった。
瞑想で超越的な境地を会得できるというような考え方は、むしろバラモン教の行者的とも言える。
瞑想を極めたと言われる師を捕まえて、爪の間に線香押し込んでみ?
泣いて許しを請うだろう。人の体はそうできているから、当然だ。
瞑想してもなにも超越的な境地になどなりえない。
人の体や世の理から何も脱せていない以上、苦は当然ある。
師が飯を食わずに生きれるくらいに人の体の仕組みを超越していたら信じたらいいだろう。
けど、飯を食わないとやってけない程度にしょせん俗だし、なにも変わっていない。
少し我慢強いだけです。
瞑想や考え方というものは、その程度のものであり、それでまたいいのだと思います。
瞑想で何か完成があるように言う人らは間違ってるし、そんな言説を真に受けて
そうなれないことを気に病むことはありません。