【江戸・上野公園】 寛永寺 【徳川家&天海】 at KYOTO
【江戸・上野公園】 寛永寺 【徳川家&天海】  - 暇つぶし2ch378:名無しさん@京都板じゃないよ
07/12/28 12:07:15
では、天海とはどんな人物だったのか。
将軍、徳川家康がはじめて天海に会った慶長15年、「会えることの遅きを恨む」という句が記録に残っているという。
家康は天海の仏法上の理論を好んだ。大阪の陣に出ていくときも、二条城で仏法を聞いてから出陣している。
浦井さんによると、天海は宗教理論家であって、政策に口出しをしていたのはむしろ京都南禅寺の僧、金地院崇伝である。
「黒衣の宰相というなら天海ではなくて崇伝の方で、幕閣はじめ大名にまで恐れられた希代の傑物だった」
しかし、家康の死は天海の地位が劇的に上がる。天海は家康を「東照大権現」に神格化し、
亡きがらを日光に移して関八州をにらむことの重要性を説いた。「東照」は東を照らすのであって、江戸の行く末を見守ってもらう。
天海案を採用した二代秀忠は、崇伝を閑職に追いやった。
続く三代家光は秀忠に嫌われていた関係で、家康の威光をもつ天海を重用した。
こうして天海は、徳川三代のブレーンになったことで政権を操る悪役モデルになりやすかったようだ。
実は崇伝も天海もいわば民間登用の「政治顧問」であり、戦国を切り抜けてきた徳川幕府には欠かせぬ行政能力だった。
これが4代将軍の世になると、幕府の官僚機構が整って民間人起用は必要がなくなる。
「いつの世も、崇伝のようにやりすぎると失脚し、天海のように人の和の上に立たないと足下をすくわれる」
浦井さんは新たに「天海伝」を執筆して、世の悪役説に挑戦するつもりだ。
(ゆあさ ひろし)(2007/05/11 07:50)



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