虚空蔵菩薩at KYOTO
虚空蔵菩薩 - 暇つぶし2ch578:ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y
08/10/22 21:11:00
チョット一言

空海師と最澄師の経の解釈の仕方の違い
空海師の一切経開題という文章を見ると、経典に対して空海師が一切の想念は本心より生じ、本心は主であり、想念は客である。
心を本心と想念とにわけ、本心が主なるものであるにも拘らず、想念が主であると勘違いして想念が自分の心だと思ってるが、本心が自分の本当の心なのだと云われている。
そして本心を仏心と云っているのです。
仏心とは悟りのことで、その心の本心を知る事が悟りであるとの認識していたことが分る。
つまり空海師は経典を読みはするが、叙述はたどってはいないように見える。
空海師は般若心経から何の教義も引き出していないようにみえるからだ。
然るに思想は経文の中になく、むしろ空海師の側にあると考えるのが妥当ではないか。
経典の 内容は解釈によって定まり、解釈はその思想によって定まる。
従って般若心経の内容などというものは存在しないとさえとれる。
あるの は読んで得た理解だけであろう。それなのにどうして経典の注釈が書けたのか。
いや、書かなかったのではないか。般若心経秘鍵は注釈なのだろうか。
もしかしたら、当時の政治的配慮がなされてのことなのだろうか。
この般若心経を読んで判つたと思う人が居るのだろうか。
判ったという人が居るなら、それは少なくとも自然に生まれた解釈に賛同しただけではないのか。
悟りという言葉をよく使う人が居るが、どう定義して使っているか興味のあるところでもある。
注釈≠解釈


579:ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y
08/10/22 21:12:36
前項で覗えるように空海師は経を包括的に取り込み、その解釈により個々の句が表すものが異なってくると]
云っているようで、人それぞれの身丈に合った解釈もありうると述べているように思われる。
超簡単に表現すると、例えば赤ちゃんの足と大人の足では使い方が異なる。
赤ちゃんは、這い這いする為に脛を床につけて這ってあるく。
大人は足の裏を床につけ赤ちゃんの何倍もの歩幅で歩く。
その時、手を考えた時、赤ちゃんの手は上体を支えるために使用し、大人の手は歩行時の重心のバランスを
とるために使われる。
目線もしかりで、異なる視界を認識している訳である。
その事は空海師の行動にも出ているようだ。
空海師が自分の大日経研究の正しさを確かめることのみの為に渡唐したのかもしれないのに、
虚空蔵菩薩求聞持法を修法していたが故に仏に惹かれ導かれ密教に遭遇し移行したのは偶然とは言えず
必然であったと考える。
それは霊界からの指図と本心(仏心)が共鳴して、没頭して言ったとみることができる。
我々は往々に自分の考えで行動しているように思っているようだが、本心が霊界の情報を無意識で感じ取り、
記憶の底にある前世の生き様のレガシーが今の自分の行動に大きく作用している事を認識する必要が
あるように思う。
その結果、仏心即ち悟りへとの道が繋がってゆくのではないか。


580:名無しさん@京都板じゃないよ
08/10/22 21:54:55
>>578-579

解説:
まともに般若心経の説明できないから、般若心経は顕教でなく密教と強弁して
説明しなくてもいいように誘導しよう。

581:名無しさん@京都板じゃないよ
08/10/23 01:20:01
>>579
一言の意味から勉強してこいよ。
(・∀・)

582:ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y
08/10/23 18:21:16
チョット一言


自分の心の波動を広範囲に変化でき尚且つその波動の振幅(強さ)を高める為に修行をしたならいろいろな
事を感じ取れるようになりましたが、、自分の修行を見返し、どのような過程をへて波動の変化と振幅、感度
の向上が出来たか、その根幹となった修行の一部を紹介しましょう。
第六回虚空蔵菩薩求聞持法修行     2005年11月18日成満
第七回虚空蔵菩薩求聞持法修行     2008年6月16日成満

第六回虚空蔵菩薩求聞持法修行に際して
虚空蔵菩薩求聞持法は、弘法大師空海の一生を決定し密教が完成した大きな要因だったのです。
この法の修法とは、中国密教の善無畏訳の経典を根拠とし、虚空蔵菩薩の真言 ノウボウ アキャシャ
ギャラバヤ オンアリ キャマリボリ ソワカ を毎回一万遍唱えることが組み入れられたお参りを通常百座
五十日でするのです。
一回真言を唱えるのに一秒長くかかったとしたら、一日に二万遍唱えるので二万秒すなわち五時間半多く
かかるわけで、しかも五十日の間五穀を断ち、日に一食のみでも、私の場合は蕎麦がきも断って精神集中が
続くわけである。
五十日で百万遍の真言を唱えるということは、想像を絶する状態が行者を襲うことが容易に想像がつくこと
でしょう。
ゆえに死に至った行者も過去に数多くいたのでしょう。
そして、この究極の密教の修行は、諸願を満足せしめ、仏陀の教えの神髄を体得することができるとあります。




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