09/06/20 23:59:11 16c6/GrW
>>624
あなたは個人や集団のための規制という事を強調しているようだが、
まず、個人や集団にとっては規制など無い方が自然な状態である。
それで問題が生じた場合、
それに対応する制限を仕方なく設けるというのが個人や集団のための規制である。
既存の規制が絶対であり、
それに対応する規制をさらに設けるという考え方は体制のための規制である。
「問題が生じるから仕方なしに制限を設ける」という
消極的なスタンスこそが個人や集団のために規制を設ける者のスタンスであり、
「規制が侵されるからさらに規制しろ」と喚くのは体制の犬としてのスタンスである。
それと、表現の世界の中にまで
こちら側の世界の規制を持ち込むのはナンセンス極まりない。
主観と客観は完全な別世界であり、世界が異なればルールも異なるのだ。
まず各々の絶対的な主観というものがあり、
それぞれの主観同士が円滑にやり取りするために、
主観同士が折衷した暫定的な客観という世界を設けているのだ。
だから主観に対して客観が介入するのは、個人にとって好ましい事ではない。
異世界のルールでとやかく言われる筋合いなど無いのだからな。
主観の行為が他の主観に対して直接的な被害を及ぼす場合、
客観が 仕 方 な し に 主観の行為に対して制限を設ける。
表現というのは文字通り「主観を表現すること」であり、
表現や言論の規制というのは、主観(脳)への行き過ぎた介入である。
世の中のルール云々や道徳や倫理を問題にするのはお門違いであり、
個人への直接的な被害の有無が問題なのだ。
「女性」という実体の無い「概念」に対する被害などはただの被害妄想である。