06/05/11 11:30:47 8fWUpvZi
日本でも、経済的停滞と景気回復による恩恵が限られた層にしか行かない現在、
よりよき明日が待っていない人たちや、それをみなに約束できない政治家どもは
みんなで滅びるあの戦争や、みんなで貧乏な昭和30年代にやたらにあこがれる。
レクサスディーラーが近所にできたり、勝ち組負け組や下流社会と言われる毎日で、
みんなで感動できる物語や、みんなで上書きできる過去に目が行くのも仕方がない。
さて話しを戻すと、「男たちのYAMATO」によって、精神的インポになっている
男たちを、自ら犠牲になることを厭わず、奮い立たせる効果があれば、それは幸いだ。
だが、彼らが従軍体験者や靖国神社の英霊たちを敬うふりをするのは、あくまでそれは
他人の苦労や他人の犠牲という人ごとであるからに他ならず、共感するふりをすることで
自らの苦労や面倒から逃げてきた人生を、他人のそれで上書きしようという意図からなのだ。
以前に流行った「最終兵器彼女」や「世界の中心で、愛をさけぶ」という作品も、
あくまで女が理不尽に戦争にかり出されたり、不治の病に冒されて死んでいったりして、
それを支えて感動する自分という、自分ではなく女にじっさいの苦労を背負わせる物語だ。
まさに「ダメんず」である。「主夫」である。メディア環境ホルモンによる「雄の雌化」だ。
「タイタニック」の主人公の世間知らずの令嬢とは、単なるひきこもりの男性であり、
退屈な毎日を変えてくれるのは、大きな船のような電網空間で通りがかった人たちであり、
迫ってくる氷山は財政破綻や隆盛する隣国であり、犠牲になる貧乏画家は、あくまで他人なのだ。
眠りの森の美女ならぬ、引きこもっているブサイクに、白馬の王子様など来るはずがないではないか!
他人が死んで感動する自分に浸るのも、自らを悲劇のヒロインに仕立てるのも、女の腐った男でしかない。