08/10/10 00:13:21 ymbKkQvf
確かに、人の好き嫌いというのは誰にもあります。そして、誰かが誰かをいじめたいと思った場合、
その対象は自分が好ましいと思う人間ではなく、嫌いな相手ということになります。
だから、いじめられたくなければいじめる人間に好かれるタイプに変身することだ、ということになるのでしょう。
そもそも、最初の前提に戻りましょう。世の中には、人に嫌われる人間が居る。いじめられるのは、そんな人に嫌われる性格の人間だからだ、
という考え方。
なら、人をいじめて喜んでいる人間は、人に好かれる性格なのでしょうか? 私にはとてもそうは思えないのです。
もし、人に好かれるタイプの人間が集まった集団があったとして、そこでいじめは起こらないでしょう。もちろん、
人間関係のトラブルはあるでしょうが、村八分的ないじめは、まず起こらないでしょう。いじめの発生する集団というのは、
そもそもその集団自体が病んでいるのです。
嫌いなタイプという言い方にしても、本当にその人が嫌いなタイプである場合と、いじめ始めることによってその人が嫌いになっていく場合
とがあるような気がします。自分が誰かをいじめるための理論武装として、いじめられる子の欠点を探していくのです。
そう考えると、やはりいじめはいじめる側の問題と考えざるをえなくなってきます。いじめられる側にいじめられる理由があっていじめが発生するのではなく、
誰かを、とにかく誰かをいじめていなければ自分を保っていられない人間が存在するということなのです。
ですが、広い意味でいじめという現象を考えた場合、この考え方は間違っています。
こういう言い方をする人は、単に、今いじめられているAさんがいじめられなくなるにはどうすればよいかという
レベルで発言しています。ですが、今までいじめられていたAさんがいじめられなくなるということは、
今までいじめられなかったBさんがいじめられ始めるということです。AさんもBさんもいじめられなくなれば、
これまでなら絶対にいじめられるはずのなかったCさんがいじめられることになります。
結局、いじめる側の人間を変えていかなければ、いじめはなくならないということです。