07/05/06 15:49:06 VtxTVyf+O
しかし、弁当を作り始めてくれてから半年くらい絶つと、急に弁当が雑になってきた。
おにぎりの形も不格好で大きさも不揃いだし、おかずも全体的にべちゃっとしていて、正直美味しく食べられる内容ではなかった。
それでもしばらくは我慢して食べていたが、1ヶ月もするとさすがに閉口して弁当を受け取っても中身はゴミ箱に棄て、昼食は学食ですませていた。
秋も深まってきたある日、彼女は笑顔で「今日は冬樹くん(僕の名前)の好きな玉子焼き入れておいたよ」と言って、弁当を渡してきた。
昼頃になって弁当箱の蓋を開けてみると彼女の言う通り玉子焼きは入っていたが、白身と黄身がちゃんと溶かれてないうえに形もグシャグシャで、食べれた代物ではなかった。
僕は舌打ちをするといつものように弁当をゴミ箱に放り込んだ。
だが、その日弁当箱を彼女に返す時、珍しく彼女が「玉子焼きどうだった?」と感想を求めてきた。
始めは適当に流していたが、しつこく聞いてくるので、日頃の弁当の鬱憤やまた進路のことでイライラがたまっていた僕は思わず「あんな玉子焼きが食べられるわけないだろう!?
大体最近の弁当は何なんだ、もう作ってこなくていいよ」ど、思わず怒鳴ってしまった。
その瞬間、彼女は大きな目を伏せると「ごめんね…」と呟いた。
そんなことがあって、気まずい雰囲気のまま、僕たちは次第に疎遠になってしまった。
彼女に申し訳ない気持はずっと抱いていた。
しかし、僕は彼女に謝ることも出来ずそのまま大学受験を向かえ、僕は東京の大学に進むことになった。
時を同じくして、彼女は持病が悪化して入院し、数ヵ月後に亡くなってしまった。
通夜と葬式が終わり、空港に向かおうとしていた時、彼女の母親から一冊の日記が渡された。
その日記には僕と付き合うようになってからのものだった。
僕と一緒に過ごせて病気がちだった自分の生活がどんなに明るく幸せなものになったか、そんなことが震えた字で克明に記されていた。
僕は放けたように、日記を読んでいた。
そして最後のページに、ほとんど震えて読めない字で「最近病気で指の震えがひどくて、玉子焼きもつくれなくなった。
冬樹くん、お弁当ごめんね」とあった。
それが最後の日記だった。