08/02/14 19:32:37 0dUwVb6u0
いずれにいたしましても、このように見ていきますと、歴史、住みよい、にぎわいが駅前周辺まちづくりの商店主、または住民、地権者のキーワードのように思えます。
そこで、一つ目の質問に入りますけれども、そもそも約40年前、昭和39年の昔に戻ります。そのときに都市計画決定された25メートル道路がなぜ今日のまちづくりに出されてきたのでしょうか。
だれしもが思う疑問だろうと思います。
当時の決まった経過を伺いたいと思います。
この25メートル道路が都市計画道路に決定されたのは昭和39年です。
このときの関係者は、どんなイメージのまちを想像して25メートル道路を考えていたのでしょうか。
当時の陳情、要請書などがあるのでしょうか。
もしありましたら、教えてください。
そこで、私も少し調べてみました。
このことを知っている人はほとんどおりませんでした。
その中で80歳過ぎの方に聞いたお話ですけれども、「25メートル幅道路の話は、当時人口10万人を目指したいということから出た話を聞いたことがあるよ」と私に話してくれました。
人口10万人都市の話は、この人以外からも二、三人の人にもお聞きしました。
当時の市会議員でまだご健在でいらっしゃる方がちょうど私の西部地区のすぐ近くに2人おります。
稲木の○○○○さん、そして、野田の××××さんのお二人にちょっと聞きました。
当時の市会議員の定数は30名だったそうですけれども、その方にお聞きしました。
「25メートルの道路についてはほとんど知らない」と言っていました。
○○○○さんは、そこで、「その当時の自分は40歳だった」と、「すごく若くって、自分の人生の中で非常にいい時代だったよ。栄町はものすごく栄えていていい時代だった」
「『新富』という映画館もあり、『昭映』という映画館もあって栄えていた」というお話がありました。