07/06/30 01:10:45
「文章の芸で人を怖がらせる」という定義をした時点で、恐怖の源であり支配者であり仕掛け人
であるのは、その文章技芸を駆使する著者そのものということになる。
創作怪談は著者が「それが作り話である」ということと「自分の創作である」ということが、
イコールで結んで保証ができる点で、描かれた恐怖は100%あり得ない(=現実には存在しない)ことが担保される。
一方で、実録怪談は「それが作り話ではない」と「自分の創作ではない」が必ずしも一致しない。
自分の創作ではないが、作り話である可能性は否定できない、というねじれがある。
自分の創作ではないが故に、それが作り話であるかどうかを作者が担保できない。
創作怪談は作者の着想と技芸によって書かれた100%作者のものという保証があるのに対して、
実録怪談は「作者が保証できない領域」が残る。
>>886はその「保証できない領域」(100%真実ではないが、100%の創作とも断言できない)の部分を
評価の対象から外し、「もっともらしく嘘を吐く技術=技芸」として、技芸の部分を肯定的に評価しようとした。
その結果、技芸=アートという呼び方で、技術論だけを重視評価する形になってしまっているのでは。
オカルティストは、「保証できない領域」に想像・考察を巡らせることに愉しみを見いだしている点で、
文芸・技芸を重視する読み方とは違った読み方をしている。そのあたりを、技芸の視点からだけ語ると、
結局はオカルティストという、怪談本の一大消費者を取り込むことができない。
てのひら怪談が文芸書としては鶏口であっても、一山いくらの猥雑なオカルト怪談本の牛尾にしか
なりえない現実を突破する鍵はそこのあたりにあると思う。