07/08/26 00:14:28
エイズなんて病気に罹患する奴はクズだ。そんな風潮は少なからずある。体裁は同情を装っても、オマエの放埓な生活が導き出した罰がそれだよ、と無言の内に責められている気がして、とてもじゃないが告白する気になんてなれない。
陽性反応が出て、ご家族にご連絡を、と担当の医師は勧めたけれど俺は猫のようにひっそりと野垂れ死ぬつもりだった。
処方薬を毎食後、十錠ほど摂取する。
抗HIV薬剤を初めに、低下した腎機能を補うためのプレドニン、サイクロスポリ―最近は手慣れたもんで、機械作業のようにそれらを処理していくが、当初は苦痛で苦痛で仕方がなかった。
一つ錠剤をかじるたび、一口液状薬を嚥下するたび、細胞の一つ一つが薬剤に犯されていく気がして、病院特有の薬品臭さが体から漂ってきやしないものかと何度もシャワーを浴び、皮膚をかぶれさせた。
死の恐怖は、ヒトをナイーブにする。
生の有様を強く実感すると共に、我慢の制動は次第に効かなくなっていく。
「おまえは変わったよ」―幾度も幾人にもそう告げられ、告げられるたびに周りから一人ずつ人は減り、気がつけば理想的な孤独を手に入れていた。
起床、錠剤、バイト、錠剤、TV、錠剤、就寝、時折通院の日々を延々と繰り返して、鬱々と日々は磨り減っていく。不幸にもエイズに罹患した血友病の少年が記したエッセイや、重病人が読むスピリチュアルケアの啓蒙書を紐解いても、なんら心に変化は起こらなかった。
最早、俺は終わっていく人間で、変化は内側にしか生まれない。
どんな素晴らしい言葉も、どんな美しい景色も、触れられない影のように素通りしていく。あと太陽を何度目にすることができるだろうか。
メンテナンスを怠りがちだった中型バイクにまたがりながら、目を閉じて考える。このままリヤブレーキがぶっ壊れて天寿を全うする前に、ガードレールに激突して死ねないだろうか、とか。
されど、何一つとして成せることはなかった。
試しても、心の根深い部分が抵抗の悲鳴をあげるのだ。目を閉じていることができない。死は圧倒的な圧力を伴って、ありとあらゆる敗北感と無情を俺に明け渡す。
……明日、再び目を開くことはできるだろうか。
猫のように死にたい俺は、意識が眠りに落ちる直前にいつもそれを思う。Memento mori。
ヒトは、どのように生きても罪深い。