07/02/14 01:54:06
『運命論者』 の魅力は、その率直でてらいのない説話体の語りにある。三人称形式の
小説は、基本的には読者との対話性をなくす方向で発展してきた。『ボヴァリー夫人』
を嚆矢(こうし)として、写実主義・自然主義は語りを透明なものにしようと努めてきた。
作品世界─語り手─読者、この真ん中の存在を極力薄めることで、語り手(作者)の介入
がなく、あたかも作品世界それ自体が読者の眼前で駆動しているかのようなリアリティ、
漱石が 「空間短縮法」 と呼んだ技法である。しかし空間短縮はなにも三人称形式の十八番
ではなく、むしろ一人称形式においてその効果は絶大である。つまり作品世界のなかに
語り手を隠すのではなく、語り手のなかに作品世界を沈める。
<僕>の話は、小説上の人物<自分>に対して語られるものであるが、この<自分>は<僕>の語りに
ほとんど割り込んでこない。ここで告白という形式をとる説話体の威力が出てくる。<僕>が
自分=読者に相対して切々とその秘密を語ってくれている、読者はそんな錯覚をおこす。
人にもよろうが、これがかなり強い感情移入を招くことがある。深刻な様子をにじませていれば
なおさらである。読者との対話性を最前面に出すことで、読者と小説の間にある虚構感、どこか
向こうの話という隔たりが一気に縮まるのだ。二人称で語る小説もこれと同様の効果を期待して
いよう。
ただ、日本語は、縦の人間関係を重んじる文化を反映してか英語のような中性的な二人称と
いったものはなく、老若男女、地位身分による自他の立場を鑑みもっとも適当な人称代名詞を
選ばねばならず、花袋はなれなれしくも紅葉を 「きみ」 呼ばわりしたがために遠ざけられたの
であって、目上の人に対して二人称はまず使えない。そういう日常的な使い勝手のわるさから、
必然的に 「先生」 や 「奥さん」 といった社会的な呼称がそれに代わって通用され、二人称は
ますます使うシチュエーションが狭くなり、よってアナタアナタと無闇にこちら(読者)に呼び
かける小説がはたして日本人の耳に心地よく聞こえるかは疑問である。もちろん小説中の対話は
日常会話のトレースではないので、二人称が入るとリアルじゃないとかおかしいと変に窮屈にとら
える必要はない。