技術スレ 第二刷改定at BUN
技術スレ 第二刷改定 - 暇つぶし2ch407: ◆YgQRHAJqRA
07/02/14 01:54:06
 『運命論者』 の魅力は、その率直でてらいのない説話体の語りにある。三人称形式の
小説は、基本的には読者との対話性をなくす方向で発展してきた。『ボヴァリー夫人』
を嚆矢(こうし)として、写実主義・自然主義は語りを透明なものにしようと努めてきた。
作品世界─語り手─読者、この真ん中の存在を極力薄めることで、語り手(作者)の介入
がなく、あたかも作品世界それ自体が読者の眼前で駆動しているかのようなリアリティ、
漱石が 「空間短縮法」 と呼んだ技法である。しかし空間短縮はなにも三人称形式の十八番
ではなく、むしろ一人称形式においてその効果は絶大である。つまり作品世界のなかに
語り手を隠すのではなく、語り手のなかに作品世界を沈める。

 <僕>の話は、小説上の人物<自分>に対して語られるものであるが、この<自分>は<僕>の語りに
ほとんど割り込んでこない。ここで告白という形式をとる説話体の威力が出てくる。<僕>が
自分=読者に相対して切々とその秘密を語ってくれている、読者はそんな錯覚をおこす。
人にもよろうが、これがかなり強い感情移入を招くことがある。深刻な様子をにじませていれば
なおさらである。読者との対話性を最前面に出すことで、読者と小説の間にある虚構感、どこか
向こうの話という隔たりが一気に縮まるのだ。二人称で語る小説もこれと同様の効果を期待して
いよう。
 ただ、日本語は、縦の人間関係を重んじる文化を反映してか英語のような中性的な二人称と
いったものはなく、老若男女、地位身分による自他の立場を鑑みもっとも適当な人称代名詞を
選ばねばならず、花袋はなれなれしくも紅葉を 「きみ」 呼ばわりしたがために遠ざけられたの
であって、目上の人に対して二人称はまず使えない。そういう日常的な使い勝手のわるさから、
必然的に 「先生」 や 「奥さん」 といった社会的な呼称がそれに代わって通用され、二人称は
ますます使うシチュエーションが狭くなり、よってアナタアナタと無闇にこちら(読者)に呼び
かける小説がはたして日本人の耳に心地よく聞こえるかは疑問である。もちろん小説中の対話は
日常会話のトレースではないので、二人称が入るとリアルじゃないとかおかしいと変に窮屈にとら
える必要はない。

408: ◆YgQRHAJqRA
07/02/14 01:55:09
 話がずれた。
 この種の説話体の威力は、あれこれ説明するより漱石の 『こころ』 や 太宰治の
『人間失格』 あたりを読めば実感されることと思う。その作品の心酔者の多いこと
をみてもわかるだろう。図書館で借りてみると、傍線やメモやコメントなどで
まあ汚いこと!
 仮に文語体で書かれていたらどれほどの読者を得られたか、口語体であるからこその
感化力といえる。
 しかし、一面それだけ通俗的な汚れがこの文体に付着してしまっているという
ことでもある。安直に用いてもありきたりなので、各自工夫して文体をアレンジ
してみてほしい。例えば、ちょっとした口癖的なもの─春樹の「やれやれ」とか─を
混ぜるだけでも文体の色味が変わるだろう。

409: ◆YgQRHAJqRA
07/02/14 01:57:19
 独歩は文壇で認められ、いよいよこれからまた創作に力を入れようとしたとき、
悪運の鬼は惨酷にも独歩を突き落とした。
 明治40年4月、経営していた独歩社が破産、心身の疲労重なり体調すぐれず、
8月医師から肺結核と診断される。結核は、当時不治の死病であった。一葉や子規を
若く黄泉路へと送った病である。

 「僕は衰えたよ。まるで骨と皮になったよ。君が見たらびっくりするぞ、ひいき目
なしにみて 「長くはあるまい」 が適評ならん。僕も少々くやしくなって来た今死んで
たまるものかと思うと涙がぼろぼろこぼれる。しかし心弱くしてはかなわじと元気を出して
これから大に病と戦い遠からず凱歌を奏するつもり也」(明治40年8月26日 小杉未醒宛書簡)

 この頃の作では 『窮死』 が傑作である。日露戦後、日本はロシアに勝利したものの
当てにしていた賠償金を得られず、すっかり国力を使いはたし、不況の嵐が巷に吹き荒れて
貧富の格差がひどくなっていた。
 『窮死』 は社会の底辺で生きる人間の末路を描いている。どん底にあってなおそこに咲く
人間の美質に独歩は光をあてる。しかしそれは容赦なく過酷な現実に圧し潰されてしまうのだ。
その筆致には、一抹の同情もない。だからこそ、人間そのものがそこに浮かび上がってくる
ように見える。当初、自然派が目指していた小説とはこれだったろうが、実際にはかなりちがう
方向へと自然主義は走っていくのだった。

 明治41年、独歩の評価は、「文豪」 の称を得るまでになっていた。これは自然主義全盛期の
過褒(かほう)ではないだろう。彼が健康でもっと永くその才筆をふるっていたならば、きっと
その称号は大げさな冠とはならなかったはずだ。
 同6月、国木田独歩は帰らぬ人となった。三十七歳であった。


410: ◆YgQRHAJqRA
07/02/14 02:03:40
行きつ戻りつジワジワと、つづく。

411:桜子 ◆6d2EwylCkI
07/02/14 18:34:51
>>402◆YgQRHAJqRA さん
こちらも年度末接近で慌しい毎日となりました。
忙しさに感謝しつつ、お互い頑張りましょう。
↓ラッピングしている途中なのですが☆ 本日お約束のチョコレートをどうぞ。
           
     /⌒ ̄ \     作品紹介は創作文芸板クリスマス祭りの参加作品が
.    ((.((.`、ト、ヽ.i    対象で、「アリの穴」 というサイトの81~84ページに
     || |  | |.| |     公開されています。
    __ヽ. lフ くヾ!、    技術の勉強を始めてからは、作品を書いている作者の
  ⊂《__~/($)V~ヽ, ))   姿も目に浮かぶようになりました。
 く   \⊂《__,.イ|イ     取り急ぎ、ご報告まで。
  \ /レ' ヽ| ヽ!、
 ̄ ̄ (《`⌒) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     \/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

412:名無し物書き@推敲中?
07/02/14 20:47:37
独歩はひとつも読んだ事がなかったので慌てて青空で二つ読んできた
「運命論者」と「牛肉と馬鈴薯」だ
なる程、文豪に生り得たかもしれないが、いわゆる自然主義とは違うのじゃないの?
疑問に思うので…

413:412
07/02/15 21:43:20
独歩「少年の悲哀」 美しい、こんなに美しい小説があったなんて
おしえてくれてありがとう、もう三回読んだよ

414: ◆YgQRHAJqRA
07/02/16 01:17:49
>>411
チョコレートどうもありがとう。
ますますガンバって書くぞっ。男って単純なのだ。

>>412
独歩は、いわゆる自然主義の、いわゆるその私小説的な作風には流れませんでした。
独歩の「嘘を書かない」という考えは、あくまで小説のフィクショナリティを土台と
したものであったのです。
たしかにその意味では前期自然主義の流れをくむ作家であって、そうした作風上の
区別で言えば、後期自然主義、一般に単に自然主義と言っているものには属さないよう
にみえます。
ただ文学史的には、広い意味での自然派の作家として位置づけられています。
私は独歩研究家ではないので、なお疑問な点はご自身で調べください。
もしなにか誤謬があったらご指摘していただけると幸いです。

415:名無し物書き@推敲中?:
07/02/22 13:23:22
なかった

416:名無し物書き@推敲中?
07/02/24 02:35:33
スレッドの最初の方が面白いね。
例文と歯切れのいい技術的な解説が楽しい。

しかし最近の文芸評論っぽい書き込みは?

文学史的な「根拠」などいらないから、「文体」についても、
最初の頃のようにザクザク例文を切り刻んで解説すればいいのに。

417: ◆YgQRHAJqRA
07/03/01 21:49:35
私も同感です(笑
喩えていえば、それは書くことの苦悩からくるテクストの苦味です。
それが熟成の珍味なのか、単に腐っているのか、本人も定かでありません。
なんてね。
よく筆が滑りすぎるとか浮ついているとか言います。
最初のころの文章は、やっぱり滑りすぎているという感じがして修正して
きたんですね。感覚的なものですけど、なんとなく嫌なんです。スラスラ~
と書けると。
わがままでしょうか。

>>318からはじめた一連の解説は多分に講義的で、すでに相当の知識を
お持ちの方は読み物としての新鮮さはないでしょう。
ただ、412さんのような「発見」の一助になればよいと思います。

文体については、別枠でまた解説するつもりです。
歯切れが良くなるかはわかりませんが……

418:ぎ
07/03/02 06:35:46
じゅつ

419:416
07/03/03 17:20:44
>>417
「根拠」と言ったけど、「起源」でも「発生」でもいい、
そういったものを意識し始めるとスムーズには進まなくなるはず。

もちろん、スムーズに進むのが良いとは限らないわけで、
既知の主題についてスラスラと書けてしまうのは、
頭はいいが何も考えていないとも言えるわけで(笑)

しかし、「元」技術スレとしては、
既知の技術解説はそれなりに需要もあってよかったと思う。
「文体と語り」についても「根拠、起源、発生」をあえて「括弧に括る」
ということをしたうえで、技術解説に徹するという方向もありではなかったかと。

420:416
07/03/03 17:31:00
>>419
もちろん断言した技術解説の「根拠」を問われた場合には、
「起源」なり「発生」なりを屈指して答えるなり、
無視するなり(笑)、
様々な対応があり得るわけだが。

さて416はこれで消えます。

421: ◆YgQRHAJqRA
07/03/05 22:11:49
文学史や近代古典のちょっと眠い話が続いてなかなか終わりが見えない、という
のは書いてる私自身も感じているところでして(汗)、予想外に間延びして
しまっています。
たぶんもっと速いペースで更新できれば問題ないんだろうけど、まあそれが
出来ればとっくにやっているわけでして・・・

けれども、無駄なことを書いているとは思っておりません。
現代口語がどこから出発してどのような変化をたどり、近代の作家たちがどの
ように文学に取り組んだかを、大まかにでも知っておいて損はないでしょう。

とりあえずもう少し要約的に書いて今の解説を終わらせ、文体そのもの
に関する解説に移ったほうがいいかな。416さんと同意見だという声が
あればそうしたいと思います。



422:名無し物書き@推敲中?
07/03/05 22:27:36
いや、せっかく自然主義まで来たのだから、現代までの解説をきぼんぬ
ゆるゆるとでも構いませんとも、ええ

423: ◆YgQRHAJqRA
07/03/05 23:04:44
すみません、現代まで行く予定はないのです。
近代文学の終わり、芥川が死ぬあたりかその手前くらい、言文一致運動が
一応の完成をみるあたりまでを予定しています。

424:名無し物書き@推敲中?
07/03/05 23:41:48
う~ん、庄司薫の赤頭巾ちゃんって知ってる?
あれをサリンジャーのライ麦のパクリ(雰囲気)だと言ったら
あれはあれで日本語の第二次言文一致だと反論されて
んなバナナと思った俺がいるのだが、、そこまでは無理か…w

425:名無し物書き@推敲中?
07/03/08 12:46:46
文体とは何ぞや。
文体って何ですか。
文体? 何それ?
彼は文体が何かを問うた。

いくらでも書き分けられそうで、
ではいくつに書き分けられるのかとなると見当が付かない。

言い換えれば、文体の体系的な説明ができない(俺だけかもしれないが)。

426:名無し物書き@推敲中?
07/03/08 12:48:45
俺なんか、文法すら体系的な説明が出来ないよ。

427:名無し物書き@推敲中?
07/03/08 15:22:03
「体系的な説明ができない」のではなく、体系が無いのでは?
文体はもちろん、文法も。

文法については誰か有名な人が、そういう意味のことを言っていたはずだが。。。
システムを成す集合ではなく、ただの雑多な集まりだとか何とか。。。

文体についても同じかな(結構文法がベースに有りそうだし)。
人称と視点の問題とか、
描写/語りと現在形/過去形の問題とか、
科白と直接話法/間接話法の問題とか、
湿度と形容詞の問題とか。

でも文体論はよくわからんな。
ある種の物語論なら文法との関連は明らかなのにな。

428: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:28:03
桜子さんへ

|∧_∧
|・ω・`)
|o○o ・・・アメ食べる?
|―u


うう…こんなAAしか貼れません(つдT)

429: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:28:55
>>424
不勉強なもので庄司薫についてどうこうは言えないのだけど、
69年-『赤頭巾ちゃん気をつけて』におけるポップな口語体の「目新しさ」
と明治20年代における言文一致体の「革命性」を同列に取り込もうというのは、
左翼的な思惑が入っているのか単に言ってみただけなのか知らないけれど、
そりゃおかしいよね。

たしかに権威化したハイカルチャー(文学)に対して、サブカルチャーあるいは
ポップなスタイルが反逆性や批判性を持ちうることは認められる。言文一致体
も最初は軽薄なものとして守旧派から冷罵された。
その構図を69年当時の庄司薫とお堅い文学者に当てはめてみることは容易い。

しかし、その対立は、紙上における書記言語の領土を奪いあう明治期のような
対立では決してないし、そもそも言文一致体は「おしゃべり」を文章化しようと
したものではなかった。
庄司薫の口語体を、わざわざ言文一致体と言い換えるのは、なにか「特別」な
ものがそこに含まれているみたいでやはり胡乱だ、
 とひねた私見を添えてみました。


430: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:31:48
 竜土会のメンバーのなかで藤村、独歩に後れをとった感のある花袋であったが、
明治40年(1907)に発表した 『蒲団』 は、自然主義文学の指標となる斬新な
スタイルを確立した作品で彼の出世作となった。

 『蒲団』 の主人公、竹中時雄は花袋自身がモデルとなっている。時雄は、彼の
門下生のなりたいと熱烈な手紙をよこしてきた女学生芳子を弟子にする。上京して
きた芳子に会ってみると、これが思わぬ器量よしで、細君が動揺するほどであった。
あくまで師弟の関係と思いつつも、密かに激しく高まる時雄の恋情とその破綻まで
が描かれる。それらは、実際花袋の身の上に起きた経験をもとにし、それをほぼ
そのまま小説の体裁にして表出したものである。

 今では珍しくもないが、当時自分のことをもろに書いて小説にする手法、小説に
なるという発想は、それまでの 「小説」 の概念を変える新しい発見といってよい
ものであった。
 純然たる自伝とは異なり、作中の人物は架空の名前かイニシャルで表されるのが
普通である。そのため予備知識がない読者や作者周辺の人間以外は、その小説が
作者自身の言うなれば 「自画像」 であることに気づきにくい。実名では書きに
くいことも、匿名性があると書きやすくなる。大胆になる。露骨になる。書き手の
心理は今も昔もさして変わらないようだ。
 匿名性があるといっても完全なものではないから、自分(身辺)のことを小説に
するのはけっこう勇気がいる。また自分を飾らずに表現するには、自己の客観化が
不可欠である。たいていの人間は自分のことがかわいいため、己の醜い部分を直視
したがらない。無意識に美化したり表現をぼかす。偽善的になる。(藤村はこう
いう傾向であった)
 さらに、「正直」 は自分だけでなく他人をも傷つける場合がある。他人を描く
こともまた難しい問題をはらんでいて、プライバシーや人権意識の高まった今日では、
その取り扱いを軽く考えてはならない。恥知らずな暴露趣味が文学としてまかり通って
はなるまい。
 かといって、遠慮ばかりしていては読者に何も伝わらないのである。他者をきちん
と描けなければ、そこから独立した個我─私も実在的に浮かび立ってはこないだろう。

431: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:33:43
 この手法(私小説)には、花袋が 「皮はぎ」 と呼んだ苦しみが伴い、それが
また文学的強度ともなっていた。『蒲団』 からひとつ引用してみよう。

 「三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽くした」
 「出勤する途上に、毎朝邂逅(であ)う美しい女教師があった。渠(かれ:時雄)
はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽しみとして」いた。
 「細君が妊娠して居ったから、不図(ふと)難産して死ぬ、その後にその女を
後妻に入れることが出来るだろうかなどと考えて歩いた。」

 通常の、つまり作り事の小説であれば、上記のような主人公の心理を描いた
とて、なんてことはない。主人公は平凡な日常に飽きたらず、結婚生活の倦怠期
にあるのだ。
 しかし、周知のように 『蒲団』 は作り話ではない。妻子ある諸兄は、たとえ
嘘でも同じような裏切りを書き連ねそれを妻に見せて平気でいられるだろうか? 
もちろん、花袋にとって、あとからこれは冗談でした、潤色でしたと弁明する
ことは、自分の文学に対する背信となろう。
 ほかの若くてきれいな女と一緒になりたいから都合よく妻が死んでくれれば
いいのに、なんて考えていたことを、ありのままに書いてしまうのは怖ろしい。
これはプライベートな日記ではないんである。公に発表され、となり近所知人が
読むかもしれないのだ。もし世間の人に尊敬されたいと思うなら、こんなことは
書かない方がよいに決まっている。
 女弟子への劣情や憤りを抱いて悶々とする時雄=花袋の姿は、滑稽でもあり
憐れでもある。それは捨て身の自己表現と言ってよい。花袋の露骨なる描写、
自然主義はここに行きついた。

 文壇は、『蒲団』 を嗤(わら)って黙殺しなかった。不道徳な作法と排斥
しなかった。むしろこの作り事ではないリアリティ、切実さ、真面目さに感化
された作家は少なくなかったのである。
 ヨーロッパに発した科学的自然主義はここでまったく変形して、日本的・経験的
自然主義として小説界の一大トレンドとなってゆく。


432: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:35:30
 『蒲団』 の登場をみて抱月は、「日本では自然主義が正にプレゼント・テンスだ」
 「真にその意義を理解し味得するのはこれからである。」 と述べ、『蒲団』を
「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」 「已みがたい人間の野生の声」 「自意識的な現代
性格の見本」 であると認めた。
 そして、「僕は自然主義賛成だ。」 とこの主義への肯定的態度を鮮明にした。
 「早稲田文学」 は自然主義評論の牙城となり、作に触れて論が起こり、論にまた
作が応えるという相互補完的な二人三脚によって、自然派は文壇をほぼ独占する勢力
に発展する。芝居的、技巧的、虚飾的な硯友社系の小説はまったく否定され、その
旧套(きゅうとう)を脱し得ない作家はしだいに追い込まれて居場所を失っていった。

 紅葉の一番弟子であった泉鏡花は、明治39年より体をこわして逗子に療養すると、
そのまま三年間中央文壇とは疎遠となり、乞食みたいな生活を余儀なくされた。
自然主義とは真反対の作風を示す鏡花などは、居ようが居まいがどうでもよいので
あった。もし居たとしても相手にされなかっただろう。
 同じ硯友社作家で名をなした小栗風葉や徳田秋声は、なんとか生き残るため作風の
転向に努めねばならなかった。そして、秋声は認められたが、風葉は認められず文壇
から去っていった。
 風葉の 『世間師』(明41)などは今読めば面白くていい小説なのだが、話が義理
人情に落ちて読後のすっきりするところなど、やはり自然主義ではないと低くみられ
たのだろう。
 「この〔自然〕派の人の言論には自分の見のみ正しくして、他はほとんど芸術家で
ないような口吻(こうふん)があるのは宜しくない。」 と上田敏(うえだびん)が
苦言を呈するも梨のつぶてであった。

433: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:37:29
 さて自然主義ではないと言えば夏目漱石もその一人であった。初期の代表作と
言えば 『坊っちゃん』(明39)をあげる人が圧倒的だと思うけれども、この頃は
「猫」 の擬人化小説をはじめ、二人のセリフばかりで進行する 『二百十日』(明39)
など、実験的な小説も多く、「文体」 という面でみれば 『草枕』(明39)を
素通りするわけにはゆくまい。


 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安き所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくい
と悟った時、誌が生まれて、画が出来る。


 『草枕』 を開いて五、六ページで挫折した人も、この書き出しだけは忘れて
いないだろう。直接読んだことがない人でも、智に働けば─の名文句はどこかで
耳にしたことがあるのではないかと思う。不覚にも今知ったという人は五、六回復唱
して憶えておこう。 

434: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:40:21
 これは、人間のもつ知・情・意の働きにとらわれた人づきあいほど煩わしいもの
はなく、そんな俗世間の煩わしさを超越した心境─この小説で説かれる非人情─
の内に芸術は生まれるのだ、というようなことを言い表しているのだが、そんな小賢
しい読みはしかしどうでもよく、この文章の本体はなんと言ってもその語路のよさ、
言葉の小気味よさにある。
 読者は、漱石の筆からしたたる言葉の美妙をそのまま賞翫(しょうがん)すれば
よい。そうして気持ちよく次のページに行くと、一転一般読者を寄せつけぬような
筆致が現れる。
 「摎鏘(きゅうそう:左側の字は正確には王ヘン)の音(おん)」 だとか
「霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を
清くうららかに収め得れば足る。」 だとか言われても、何の音だか何が足るんだか
さっぱりである。たちまち浅い美の感性は無知の知におびえだす。書いてあることが
解らないと嫌になる。解ろうと頑張ると苦痛でたまらない。
 それが読者の 「人情」 である。
 『草枕』 は非人情の芸術(文学)であるから人情で読むと挫折するのである。

 「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいです。こうして御籤(おみくじ)
を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
 
 と作中主人公に語らせ、漱石自身 『草枕』 を 「ただ一種の感じ─美しい感じ
が読者の頭に残りさえすればよい。それ以外になにも特別な目的があるのではない。
さればこそ、プロットもなければ、事件の展開もない。」 と言い、これを 「俳句的小説」
と呼んでいる。
 この近代小説のフレームを破ろうとする実験は、スターンの 『トリストラム・シャンディ』
と向こうを張る文学を自分の手で創出しようとした漱石の野心による。ほかの作家が
近代のなかで人間の 「真」 をいかに描き出すかにもがいていたとき、漱石は半世紀先の
言語遊戯としての文学を夢想していたのである。

435: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:41:08
 『草枕』 は、写生文的な描写と主人公の饒舌な思弁で、異なる筆致を見せる。
ここで取り上げるのは、後者の文体、同語(類語・縁語)の連鎖・連想によって
構成される饒舌体である。次の文章はその特徴をもっともよく表していると言えよう。

436: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:42:12
 初めのうちは椽(えん)に近く聞こえた声が、次第々々に細く遠退いて行く。
突然と已(や)むものには、突然の感はあるが、憐れはうすい。ふっつりと思い
切ったる声をきく人の心には、矢張りふっつりと思い切ったる感じが起る。これ
と云う句切りもなく自然(じねん)に細りて、いつの間にか消えるべき現象には、
われもまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なん
とする病夫の如く、消えんとしては、消えんとする燈火(とうか)の如く、今已む
か、已むかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨みを悉(ことごと)く
萃(あつ)めたる調べがある。

 〔春の恨み:漢詩の「春恨」の訳。春愁。春のものうさの意〕


437: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:44:27
 この連鎖語法はかなり意識的であるが、この文体はなにも小説用に新規に編み
だしたものではなく、作家になる前から漱石はこういう書き方をするクセがあった。
それを文学的なレベルまで高めたのが 『草枕』 である。
 核となる語の連鎖連想によってひとつの情景を展開させる技法は、古く連歌に
その源をみることができよう。喩えて言えば、初めの─、一文が発句ということ
になる。このうちの 「声」 と 「細」 をうけて後続の文が展開、変化されていく。
ここでは、細い→切れる→消える→死、と連鎖連想が働いている。
 「死」 への連想は作品全体にも及んでいる。いたるところで死が暗示され、
やがてそれは戦争という現実の形をとって迫ってくる。そして憐れのうすいこの
「声」 の主、エキセントリックな言動で周囲からキチガイと思われている那美の顔に
最後、─戦地に送られてゆく元夫の顔に出会って─ 「今までかつて見た事が
ない 「憐れ」 が一面に浮」 くことにもなろう。
 しかし柄谷が指摘するように、『草枕』 の主人公は結局その現実をも 「画」 の
なかに回収してしまうのだ。

 このような反リアリズム、もしくは言語中心主義は、「心細さの細さが細る」
といった表現に端的にあらわれている。漱石は、「心細さ」 という意味を視覚的
な 「細さ」 に転化して、その 「細さが細る」 と表現を異化してしまう。
テクストの具体性をちぎり捨ててしまう。つまり漱石は 「細」 という文字その
ものに目を向け、通常の意味作用を脱構築してしまうのである。そこでは、文が
もつ論理性─筋が否定される。いわゆる 「意識の流れ」 との関連を考えてみても
面白い。
 難解な漢語表現も、美文やインテリを気取るために多用しているのではなく、
テクストを非日常化させるためのものだ。自動化された読み─意味はそこで断ち
切られ、文字はそれこそ 「画」 のようになる。もちろん親切な注解など当時の
読者は参照できない。

438: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:45:59
 小賢しい分析の正否はともかく、今でこそ、『草枕』 をこのように評価し、
文学的に解釈することも可能であるが、当時の(きっと今も)一般読者にはやはり
わけの解らない小説でウケは良くなかった。一部の知識人がそのペダンティックな
ところを珍重したくらいで、大方は失敗作と受けとめた。一言で言えば、早すぎた
のである。

 明治40年4月、漱石は教職を辞し、朝日新聞に入社して専業作家となる。その後も
『坑夫』(明41)や 『夢十夜』(明41)など、実験的な小説を書き、自然派からは
「余裕派」 「遊び」 と難じられ二流作家扱いされた。自然派のこうした態度は
愉快ならざるものであった。

 「いったい今の自然派はローマンチシズムを攻撃するんでなくて、積極的に自派
の主義を主張している。もうローマンチシズム対自然主義じゃない。絶対的に自然
主義万能論となって、その余のものは一顧の価値もなく擯斥(ひんせき)されてい
るのだ。」 「我々の書くものでは悪くて、自分たちの作物でなければ文学ではない
かのごとくなのだ。」
 と不満を漏らしたがどうにもならなかった。

 次回はその自然派の主張を取り上げたい。


439: ◆YgQRHAJqRA
07/03/15 00:57:23
わかると思うけど一応訂正。

>>433 誌が生まれて→詩が生まれて

440:名無し物書き@推敲中?
07/03/15 20:56:37
今の私小説と言えば藤村からの私小説なのかもしれないが
一方で漱石からの私小説もあるのではないのだろうか?
夏目漱石→志賀直哉つう流れも考えていいのじゃないか?
漱石の明暗などは志賀の暗夜行路と同じテーマと思える

441:名無し物書き@推敲中?
07/03/18 00:39:12
草枕については上記のような感想ではなく
漱石が三十にして西欧的な教養のみならず、一種の悟りと言おうか
要するに全てを理解している事に感嘆した
たぶん、だから非人情なのだ、つまり唯物論だ、これが逝き着いた先
でもそこから本当の苦悩が始まるんだな、つらいな、現代人も同じだ

442:名無し物書き@推敲中?
07/03/18 00:42:15
ああ、何が言いたいのか、草枕が非人情ではなく
非人情の元だと言いたかったのだ

443: ◆YgQRHAJqRA
07/03/18 20:25:55
>>440
藤村や花袋、その他自然派の作が私小説であることを裏付けるため(小説を
読んだだけでは、実際それが「事実」に基づいているのか確定できないため)
地道に調査取材した今までの研究結果が、みんな間違いだったという仮定に
たてば、そのような考えもできるかもしれません。
また、「私小説」は創作スタイルのひとつでありまして、作品の「テーマ」
の類似とはあまり関係がないと思います。

>>441
「唯物論」とはいいえて妙かもしれません。初期の漱石はそんな感じがしますね。
晩年になると「唯心論」みたくなっちゃうんだけどw

444:名無し物書き@推敲中?
07/03/18 21:52:32
何のための私小説か、つう問題がある
私小説にする理由は、心の奥底を探ろうとしてるのじゃないの?
そう考えれば漱石や志賀が私小説だと言ってもいいだろう?
むしろ本命だと思うのは私だけじゃないだろう

445:名無し物書き@推敲中?:
07/03/20 13:16:55
だけじゃない

446:名無し物書き@推敲中?
07/03/20 13:28:30
だけかもよ

447: ◆YgQRHAJqRA
07/03/23 23:34:21
巷間流布されている文学史を否定する理由もない私としては、>>443のように答える
ほかありません。
でも>>444ではなんだか話がちがってますね。
自己の内奥を小説に事寄せて表現するというのは、なにも私小説だけに許された
方法ではありませんので、私小説の意味をそのように拡大しては何でも私小説
と呼べてしまいます。

漱石が自伝的スタイルで書いた小説は、『道草』(大4)でこれ以外にありません。
これとて、自伝風とか私小説風とか、なんだかお好み焼きみたいなこと言って、
はっきり「私小説」と明言する論者は少ないんだね。発表年も志賀直哉の
『大津順吉』(明45)よりだいぶあとです。自然主義の影響をまったく無視して
二人の関係だけをみるにしても、漱石→直哉と私小説が継承されたとするのは
無理があるでしょう。

私小説というスタイルは、誰がというより自然主義文学運動全体を通してつくり
出されたものだと考えたほうがいいと思いますが、一応その新生面を切り拓いた
作と作者をあげれば、花袋の『蒲団』ということになるようです。藤村の『春』(明41)
とする説もありますけど、どちらにしろ自然派が生みの親なわけです。

私小説についてはまた解説のなかで言及する予定です。

448:名無し物書き@推敲中?
07/03/24 23:05:49
芥川の「幻鶴山房」は漱石山房をもじったものだと思うが
逆に漱石の中の主人公の、あの高等遊民のモデルは
実は志賀直哉ではないのかな? 漱石自身ではないだろう
漱石は志賀の文章を認めていたらしいからな
その意味では漱石の文章の継承者は志賀と言ってもいいのでは?
私小説論、楽しみにしています

449:名無し物書き@推敲中?
07/03/27 22:40:36
◆YgQRHAJqRA さんは渡部直己に私淑しているそうですが、
スレッドの前半に渡部の香りがしますね。スレッドの後半は柄谷でしょうか。。。
ところで、中条昌平とかはどうですか。あと、元灯台総長はお嫌いそうですね。
いや、独り言ですw 続きを楽しみにしています。

450:名無し物書き@推敲中?
07/04/10 01:05:55
雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも

451:名無し物書き@推敲中
07/04/11 13:01:06
開発

452: ◆YgQRHAJqRA
07/04/26 22:36:54
いやあどうも。久々にインフルエンザにやられてしまいました。なかなか体調が
よくならず億劫で、やっと今から続きを書こうかなという具合です。

中条省平はよく知らないので、一冊それらしいのを借りてみました。
『小説家になる!』 実に爽快なタイトル。中身は極めてまっとうな小説指南本で
ありまして、わが渡部直己のような毒や皮肉はありません。そこは学者先生の品格
(キャリア)を大事にされておるのでしょう。

「正確さを目指して、余分なものを削りに削った末に、様々なテクニックが一見した
のでは分からない形で埋め込まれていくようにすること。そういう努力を不断に積み
重ね、一生懸命工夫を凝らさなければいけない。ただ思いついた場面や会話や説明を
書き連ねればいいというものじゃないんです。」

この本の方針は上の訓辞に尽きていて、CWS(クリエイティブ・ライティング・スクール)
の初心者生徒に、小説の、いうなれば工芸的な実践例と職人気質をまず叩き込もうと
する講義は、このスレの178までの趣旨と似たもので、なるほど449さんが
「中条昌〔省〕平とかはどうですか」と言った意味も―この一冊でのみで断定はでき
ませんが―なんとなくわかる気がします。

現スレに、前・後の区切りをつけるとするなら、178が境になるかと思います。前スレ
では一旦ここで終わってるんです。細かい書き込みはコピペしなかったので、こっち
では唐突に解説の方向が変わったように見えるかもしれませんね。

453: ◆YgQRHAJqRA
07/04/26 22:38:25
それにしても、この本の副題にある「天才教師 中条省平」なる不正確にして
余分な、むしろこれ自体は手垢にまみれて凡庸な尊称を、著者はなぜ削らずに
放置してしまったのでしょう。
誇張法としてのユーモアもなく内容が一貫して真面目なものであれば、こういう
コケおどしは無用であり、「タイトルは冒頭や最後の一行を書くのと同じくらい
重要」という本文の誠実さを裏切っているのは残念です。
裏を返せば、先生もこういうつまらないミスから逃れられないことを暴露して
ちょっぴり私たちを安心させてくれるのでした。

真の天才か能天気な書き手以外は、この表現上のミスの乱発をおそれなければ
いけないし、実際おそれるようになって「書けなくなる」場合もしばしばですが、
これは大抵の書き手がぶち当たる壁というか山でありまして、見わたせばみな、
このおそれ山の登山者なのです。平地を行く人は時々こう問います。
なぜそんな山にわざわざ登るんだ? と。


454:名無し物書き@推敲中?
07/04/27 01:01:45
インフルエンザからの復活、おめ
タミフルは飲んでないようだね、まあ山だが、そこに山があるからだろうw

455:449
07/04/30 02:20:09
なるほど、お読みになったのは単行本のほうですね。
実は文庫化にあたってタイトルが混乱気味に変更されています。
ただし「天才」の表記は裏表紙の紹介文に健在です。
そして、実はより「高度」な続編もあって、しかしそこにも「天才」の文字が読める。
つまり、これはもはやミスなどではなく、確信犯だと思われますw

その常習犯的な振舞いの反復が、
内容の真面目さや誠実さをますます裏切っていくことになるわけですが、
しかし、そうしてみると「天才教師 中条省平」の存在までもが
何やら虚構めいてくるわけで、誠実なはずの教師がいつしか、
見てきたような嘘を語る小説家の側にまわる。。。

これは深読みし過ぎましたw
ではでは。


456::名無し物書き@推敲中?:
07/05/07 23:43:45
なかった

457:イラストに騙された名無しさん
07/05/24 23:39:26
なかなか

458: ◆YgQRHAJqRA
07/05/26 11:06:00
霖雨に緑も濡れてつやめく季節柄、つとにやる気のしめりがちな
私の筆も黴の生えたようで、春眠をむさぼること二月。

 もうちょっと 幾度か言わんこの先を 月並月並 花も散りけり

459: ◆YgQRHAJqRA
07/06/24 22:52:35
風邪ひいたあとから、完全にやる気がキレてしまいました。
どうしよう、と言ってどうにもならないし、こまつたものです。人大杉です。

やる気ください(爆)

460:名無し物書き@推敲中?
07/06/26 01:47:20
>>459

>>117 ではご自分には向かないとおっしゃられていますが、
やる気が出ない間は、どこかにまとめてみるのも気分転換にいいのでは?

461: ◆YgQRHAJqRA
07/06/29 23:56:20
気分をほぐすちょっとした泣き言ですから(^^ゞ
気を遣わせてすみません。お言葉、ありがたいかぎりです。
でもまとめサイトは無理っぽいですよ(^_^;)

462:名無し物書き@推敲中?:
07/07/11 23:36:59
ます

463:tina ◆OcfLN77Pak
07/07/17 01:13:38
>>◆YgQRHAJqRA さん
こんばんは。桜子です。
久々の出席なのですが… ぜんぜん、進んでいませんね。
もしかして、芳子を冬の岡山へ帰国させた後の花袋先生の心境、
だったりして 从^ 。^从
冗談はさておき、創作の方、忙中有閑を呪文のように繰り返すばかりです。
本業は黄信号。大阪淀屋橋の○友村からはまだ追い出されずにがんばってます。
ああ、天然自然に人を和ませるキャラになりたい。

パステルカラーに愛歌ふるうや茶髪の童 水無月水無月 何をさがしに行こうかな

では、続きを楽しみに待っています。
今日も1日おつかれさまでした☆ おやすみなさい

464: ◆YgQRHAJqRA
07/07/19 22:47:00
面目ないです(´・ω・`)

今月中には更新したいと思ってる、けど、思いの外に筆が走らない、まま、
カレンダーをめくる手が虚しい。なんて、軽くポエムしてる余裕感?
ヘッ、ていうこのスタンス、綿矢りさ。

そんな冗談はよし子さん(古)として、本業のほう事情はよくわかりませんが
うまいこと居座れるといいですね。

創作のほうは、なかなか長いものを書くことが厳しいのであれば、ショート
ショートのような原稿用紙10枚以下の小説を書いてみるのもいいかもしれません。
文学的な深さとか超絶技巧とか難しいことは考えずに、単発のエピソードに
ちょっとした落ちをつける構成で、文体はだれかのをマネしてみてもいいです。
表現の形がある程度イメージできていると楽だし、習作だからオリジナリティ
にこだわる必要もありません。

とりあえず何かひとつ作品を完成させる。この「達成感」がまた次の創作
(長いものも含めて)へのモチベーションになるんじゃないかな、
と解説滞ってる私が言うといまいち説得力ないね(苦笑)

465: ◆YgQRHAJqRA
07/07/31 23:47:01
 もっと人間の内実をえぐり出し、もっと人間の真に迫り、もっと偽りなく人間を
描かなければならない。今も文学のメンタリティとして、生々しい人間の実感や
把握を求める向きがあるのは否定できない。それは、客観的実証精神とも結び
ついてリアリズムの根幹をなしている。
 ありのままに人間を暴き出せ。自然主義が強力に唱えたこの理念は、当時の
小説家に大なり小なりの影響を与えずにはおかれない強迫であった。当然そこに
起こるもろもろの抵抗も含めて、多くの文人を巻き込んだ文学イデオロギーは
かつてなかった。
 そして、また、これを機に文壇は特殊閉鎖的なギルドへと次第に変貌していく。
今っぽく言うなら、「ギョーカイ」 の不文律や党派性や馴れ合いに満ちた、技能
とか才能の有無とは別に、実社会とかけ離れているという意味での 「玄人」 集団を
形成してゆくのである。

 では自然主義時代の主な評論を並べてみよう。

466: ◆YgQRHAJqRA
07/07/31 23:51:20
 明治39年10月、天渓は 「太陽」(「早稲田文学」と並んで自然主義の拠点と
なった雑誌)に、「幻滅時代の芸術」 と題して、ロマンチシズムや理想主義の
幻像が科学によって破壊された今―幻滅時代において、それらに代わる芸術の
要件はいかなるものであるかを説いた。

「幻像の勢力を有したる時代に生まれたる芸術の遊芸的分子を排除して、真実
そのものに基礎を定めたるもの、これ将来の芸術ならざるべからず。幻滅時代の
世人が欲する物は、真実を描きたる無飾芸術なり。」


 片上天弦(かたがみてんげん)は、「平凡醜悪なる事実の価値」(「新声」明40・4)
で、台頭してきた自然主義の特性をこう述べる。

「畢竟するに自然派の主張は、芸術の理想を真実という一点に帰して、人生内面の事実、
究極の真実という如きものをとって、飾らず構えず、ありのままにこれを表現せんと
するに在るであろう。」
「自然主義の芸術は、平凡醜悪なる人生の事実を表とし、裏に不可測の人生の理想を
蔵して、その中に何物かを探り索(もと)めしめんとするものである。」


 次は抱月の「今の文壇と新自然主義」(「早稲田文学」明40・6)である。

「技巧主義は一面において情緒主義と連なる。」
「情味の濃厚に応ぜんため、専ら助けを伝来の情に富める語句に借らんとする。
またややもすれば誇大の語句を多く用うる。」
「小説壇は漸く大胆なる技巧無用論によって大半を領せられんとしている。近来の
小説壇において、最も著しい傾向は何かと問わば、その一答は疑いも無くこれで
あろう。技巧無用論は、言うまでもなく一の自然主義である。自然を忠実に写さん
がため、技巧を人為不自然として斥ける。」

467: ◆YgQRHAJqRA
07/07/31 23:53:56
 さらに抱月は、技巧を斥けようとするだけではまだ不十分で、小説を書く作家の、
主体性からくる作為(作意)さえ 「一種の邪念として斥ける」 ことを主張する。

「曰わくただ無思念と。私念を去るなり、我意を消すなり、能うべくんば我れの
発動的態度の一切を抑えて、全く湛然(たいぜん)の水の如くならんと工風する。
禅家が三昧の境はどうであるか知らんが、自然主義の三昧境は、この我意心を削った、
弱い、優しい、謙遜な感じの奥に存するのではないか。」

 いくらか神秘主義へ傾いているが、上の言は、小説に禅の精神に通ずるような、
諦観的で明澄な文体が漠然とながらイメージされているのだろう。


 再び天弦は 「無解決の文学」(「早稲田文学」明40・9)で事実重視の論を展開する。

「前期の文学、就中(なかんずく)謂うところの観念小説または傾向小説の如きに
おいては、作中の事件ないし問題は、その結末に至って何等かの処分解決を見、
読者はその結末の解決によって一種の満足を得た。」
「その中心生命たるものは一個道徳上の観念理想という如き、第二義道徳上の主張
である。」
「然るに自然派は全然これと根本の態度を異にしている。自然派の中心生命とする
ところは所詮事象そのものである。」
「単に自然の発生、自然の事実として厳存し、しかもそれ等の批判の如何に関せず、
なおかつ吾人の生活と切実なる交渉を有しているものが少なくない。」

 そこに描かれる人生は人工的解決のないものである。自然派の文学は、無解決の
文学だというわけである。

468: ◆YgQRHAJqRA
07/07/31 23:57:24
 相馬御風(ぎょふう)は、上記の各論を踏襲しながら 「文芸上主客両体の融会」
(「早稲田文学」明40・10)を書いた。

「道徳的判断も、宗教的信仰も、既に遠く没し去って、あるものは只鋭き観察の眼
のみである。かくて、あるがままの自然、あるがままの人間、さてはあるがままの
我が主客の限界を失って写され描かれるに至った。即ち自然に対しては冷ややかなる
純客観の態度をとるに能わず、我にありてはまた単なる情緒の活動に随う能わず、
我が中に自然を観、自然の中に我を託すに至ったのである。」
「客観と主観の限界が複雑にからまって、ほとんど解き難いまでになったのである。
これをしも、主客両体の融会と謂う」
「ありのままに自然を写すと云い、露骨に人生を描くと云い、どれも写実自然主義
の共通点であるが、写実主義は単にそれ等を全く我れより離れたる知識の対照として
これを写し、自然主義は凡てを我れと同一融会せるものとして描く。主客両体の融会
また知情渾一の妙境はそこにある。」

 もともと自然主義の基本となるのはまずその客観性であるが、御風にはそれが
高じて 「偏狭なる知識主義」 に至り、自然(その一部としての人間)を干から
びた味気ないものにすると考えた。そこで御風は、自然な主観(ここでは感情と
ほぼ同義)までは押し殺さずに、客観(ここでは知識とほぼ同義)と調和を図る
ことを唱えるのである。
 簡単に言うなら、客観を装おうとする過剰な意識が、返って文章を作為的なもの
にし、自然の趣を失するとの見方である。

 この評論の前月、つまり明治40年9月に花袋の 『蒲団』 の発表があった。彼ら
自然派論客にとって、『蒲団』 は格好の見本となり材料となった。元をただせば
彼らの論も、花袋の 「露骨なる描写」 を受け継いで発展させたものであるといって
よいし、自然主義を自認していた花袋がこれを機に一躍文壇の中心に座ることと
なったのである。

469: ◆YgQRHAJqRA
07/08/01 00:01:08
 天渓の 「論理的遊戯を排す」(「太陽」明40・10)は自然主義の勢いを示す
評論だ。

「文芸上における自然主義の立脚地は、正に破理想の境に在らねばならぬ。即ち
破理顕実これがこの主義の大眼目である。」

 と定め、世の宗教・道徳・哲学はみな理想の所産であり、「現実を離れて、論理的
遊戯を行う」 として、この 「バベルの塔を破壊して現実界に降らねばならぬ。」
とぶつ。

「然るに理想派は心を上として肉を賤(いやし)み、肉の征服を以って究竟(くきょう)
の理想として居る。したがって肉的方面の描写の如きはこれを避け、よし描写しても
悪徳と現してある。何ぞ知らざる、肉が心を征服する現実あることを。これを悪とし
醜とするのは、無用の長物たる理想に執着するからのことだ。」

 言いたいことはよくわかるが、少し過激な表現が散見され、この論は批判の的とも
なった。このような言説はやがて無政府主義につながる危険思想として、当局の監視の
目を引きつけることにもなるのだった。

470: ◆YgQRHAJqRA
07/08/01 00:06:48
つづく。
今までの遅れを取り戻すべくがんばります。

471:;
07/08/12 23:36:09
o

472: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:04:01
 自然派が唱える文学の要件を整理すると、おおよそ以下のようになる。

〈作者は、事実および現実をありのままに見つめ、自然―人間の真の姿を描出する
こと。そのためには、世間的道徳にとらわれず、理想を求めず、話の筋に安易な
解決を与えないこと。文章には、これ見よがしな技巧や美辞麗句、ふざけた
言葉遊び、作者の主観をいたずらに加えないこと〉

 小説を、「しょせん芝居さ」 と割り切った紅葉の通俗性から脱却するためにも、
彼らは 「生きた人生に触れる」 小説こそ文学の正道だと考えた。この点で
漱石もはじめ自然主義に共感し、あの 『破戒』 賛美>>396ともなるわけだが、
勢いづいた自然派が他の作風に対する寛容性を失っていくと漱石との関係は悪化した。
 多様な小説形式や表現技術にも言語芸術の一面があり、そこに己の理想
(漱石の抱く人生観)をどう合致させるか。漱石は自然主義とはちがう切り口で
文学に臨み、それを実践実験した。
 自然派からすると、初期漱石の作品はことごとく 「遊び」 であった。
その上、人気と名声があったのでこいつは憎たらしい敵と映らないでもなかった。


473: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:07:07
 昭和の戦後、自然派最後の生き残りとして 「自然主義盛衰史」(昭23)を
著した正宗白鳥は、そのなかでこう書いている。

「ある立場から批判すると、「坊っちゃん」 も 「草枕」 も、浅薄な作品、
座興的芸術品と云えないこともない。現実の中学における教師生活は、決して
「坊っちゃん」 にあるようなものではない。(中略)鴎外の歴史物や漱石の
「坊っちゃん」 に含まれている思想、人生観、道徳観は、時代並みに凡庸なの
である。「坊っちゃん」 の正義観は卑俗であり大衆向きたるに止っている。
芸術は芸術だから、そんなことはどうでもいいので、芸術としての面白味があれば、
それでいいのだが、このごろのように、鴎外論や漱石論が頻繁に出現して、彼らの
思想が他の作家よりも深刻であるらしく、物々しく論ぜられるのに、私は同意し
得られないのである。」

 「ある立場」 が自然主義を指していることは言うまでもない。白鳥の評が
正しいかどうかはともかく、漱石を取り巻いていた文壇の文学観は、時に彼の
繊細な胃を無遠慮に傷つけた。文壇一のビッグマウス岩野泡鳴(ほうめい)は、
本人を前にして、漱石の小説より石ころのほうが内容が充実しているなどと
嘲弄する始末だった。


474: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:11:13
 久しく過去の作家となっていた二葉亭四迷が再び小説の筆を執ったのは明治39年
のことである。日本とロシアを結ぶ実業家たらんとして果たせず、大陸から戻った
あと朝日新聞のデスクで悶々としていた二葉亭に、朝日の主筆が小説を書くよう
勧めたのだった。

 『浮雲』 以来の創作となった 『其面影』 に続いて、明治40年10月から朝日に
連載したのが 『平凡』 である。二十年経っても創作の苦心は変わるところが
なかったが、このとき文壇に興った自然主義の大合唱は少なからず二葉亭を助けた。
 題の「平凡」 は、まさに自然主義を象徴するような言葉である。平凡なる
口語体がようやく芸術化して根付きだした時代を表してもいよう。こうして
二葉亭も自然主義を構え、いよいよ自然派の陣列に大家の光背が燦然とするかに
見えて、実は中身は一種の風刺小説なのだった。

 『平凡』 は、作者をモデルにした主人公 「私」 がその半生を綴る体裁である。
 二章ではこう宣言する。

「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にもつかぬ事を、いささかも
技巧を加えず、有のままに、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ。
好い事が流行る。私もやっぱりそれで行く。/〔改行〕で、題は 「平凡」、
書き方は牛の涎。」


475: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:30:21
 七章ではこうだ。

「……が、待てよ。何ぼ自然主義だと云って、こうどうもダラダラと書いていた
日には、三十九年の半生を語るに、三十九年掛かるかも知れない。も少し省略
(はしょ)ろう。/で、唐突ながら、祖母は病死した。」

 どうみてもこれは自然主義をおちょくっている。この文体の軽妙さ、諧謔、
そして適宜織り交ぜられる文明・社会批評など、それはむしろ漱石に近い作風で
自然主義とは呼び難い。
 また小説の設定やエピソードは自伝的な要素をもつが、二葉亭は主人公と作者が
あまり同一化しないよう意図的に自己を欺瞞する小細工を施している。表面的に
自然主義を借りて、生な自己表現という新しい文学を皮肉りつつ、しかし書き進む
うちにその手法に筆を引きずられる自分が居、また抗いながらついに疲れ果て、
自然な文学なんてくだらねえと言わんばかりに最後いかにもわざとらしく
メタフィクションを強調し、二葉亭は小説を終わらせる。
 ちょっと長いが引用しよう。



476: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:38:21
 文学は一体どういう物だか、私には分からない。人の噂で聞くと、どうやら
空想を性命(せいめい)とするもののように思われる。文学上の作品に現れる自然や
人生は、たとえば作家が直接に人生に触れ自然に触れて実感し得た所にもせよ、
空想でこれを再現させるからは、本物ではない。写し得て真に迫っても、本物では
ない。本物の影で、空想の分子を含む。これに接して得る所の感じにはどこかに遊び
がある、即ち文学上の作品にはどうしても遊戯分子を含む。現実の人生や自然に
接したような切実な感じの得られんのは当前(あたりまえ)だ。私が始終こういう
感じにばかり漬(つか)っていて、実感で心を引締めなかったから、人間がだらけて、
ふやけて、やくざがいとどやくざになったのは、或は必然の結果ではなかったか?
然らば高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子もそこなわれる。
況(いわ)んやだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇のヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
                                (終)
 二葉亭が申します。この稿本は夜店を冷やかして手に入れたものでござりますが、
跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、
致方がござりません。


477: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:40:18
 これは彼の本心を吐露したものだろう。二葉亭は、文学〝だけ〟に身を投ずる
生き方に、どうしても人生の実感を得られない人であった。どんなにもっともらしく
描かれた小説であっても、それは所詮言葉によって作られた二次的な世界にすぎない。
直接生身を投じる現実界の実感には遠く及ばない。
 このような実存主義的な鑑賞態度のなかでは、リアリズムに則る小説はその魅力を
まったく失うだろう。
 しかし、文壇は自然主義こそ今の芸術だ、真実の文学だと叫び、二葉亭もこれに
韜晦(とうかい)して 『平凡』 を書いた手前、自分もまただらしのない人間の一人に数えられるのだ。
そして、彼の文学に対する疑問は解決されぬまま置きざりにされる。

478: ◆YgQRHAJqRA
07/08/13 21:42:09
 とまれ、創作の汗は二葉亭にまた生きる活力を与えた。
 明治41年、二葉亭は朝日のロシア特派員として、ペテルブルグへ赴任すること
となった。日露の架け橋となるやりがいのある仕事がめぐってきた。が、結果として
これが彼の命取りとなってしまった。

 7月にペテルブルグに到着。夏の白夜に慣れず体調を崩しノイローゼになる。
明けて明治42年快癒もつかの間、2月に風邪をこじらせ、3月肺結核を発病。
 日本へ帰国する船の途上、ベンガル湾でその四十六年の生涯を閉じたのである。



479:名無し物書き@推敲中?
07/08/14 03:47:46
こんばんは。
ペルセウス座流星群と聞いて、仰ぎ数う流れ星一つ二つ三つ、と閃いたの
ですが、台風の前触れみたいな生ぬるい南風が雲を運んでいます。

>>466 平凡醜悪なる人生の事実を表とし、裏に不可測の人生の理想を蔵して
とは、ロドルフの抱擁を得たエンマの、束の間の幸福でしょうか。花袋先生
の悲哀と相俟って、胸がちくちくします。
>>468 純客観には、…有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、
始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ…、という
草枕の一節を思い出しました。

>>464 ということで、頭の中が書きたいことで大渋滞しているのでした。
アドバイスをありがとうございます。
もう少し粘ってから寝ます。おやすみなさい☆☆☆

480: ◆YgQRHAJqRA
07/09/03 18:34:49
明治40年代はホントごちゃごちゃして、あれやこれやでもう
私の頭も渋滞中です。

そういえばスレッドの容量には制限があるんですよね。まだ大丈夫かな。
何KBでパンクするんでしたっけ。


481:名無し物書き@推敲中?
07/09/03 23:32:16
Wiki の2ちゃんねるの項には500KBとありますが、
板毎に調整があるようです(容量消費の激しい板と過疎ってる板では違うとか)。

でも、このスレが今何KBか? というのはどうやって調べるのか。。。
まあ、テキストベースで概算くらいはわかりますかね。。。

私は専用ブラウザのギコナビですが、
レス480までをコピーしてテキストに落してサイズを見ると。。。

378KB

レス1000まで行かずして500KB超えそうですね。

482: ◆YgQRHAJqRA
07/09/05 00:54:44
どうもです(^_^)

500KBまでならなんとか保ちそう。少なくともあと30~40レス位は使う
目算なので、途中でこれ以上書けません、dat落ちなんてことになると
またスレ立て直しコピペコピペコピペ(以下繰り返し)
そんな、助けて!ドラえもん的展開はぜひとも避けたい不安で筆がちっとも進まない
というは半分言い訳も混じっているけど、まあしばらくは大丈夫みたいなので
もう寝ます。

483:名無し物書き@推敲中?:
07/09/11 20:25:13


484:名無し物書き@推敲中?
07/09/12 17:19:58
◆YgQRHAJqRAは真性の馬鹿age

485: ◆YgQRHAJqRA
07/09/22 22:03:27
 藤村二作目の長編 『春』 は、明治20年代を舞台にした 「文学界」 同人、
北村透谷(とうこく:作中青木)、馬場孤蝶(こちょう:作中足立)、平田禿木
(とくぼく:作中市川)、戸川秋骨(しゅうこつ:作中管)、そして藤村(作中岸本)
らの青春群像を描いた小説である。この作で藤村は、『破戒』 に有ったしっかり
とした構成や大掛かりな虚構―物語を捨て、「みんなが集まって談笑している
ような処ばかり書くつもり」 で筆を起こした。『破戒』 のような気負った小説
を続けて書く気にはならなかった。さらに、わずか二十五歳で自殺した友人透谷
のことを書きたい、その内的な要求が 『破戒』 執筆当時から高まっていたの
であった。

「「破戒」 を書きました時は結構も始めからチャンときめて置いて、ここをこう
書き、あすこをこうと十分に案が立って居りましたが、「春」 には一切そんな結構を
建てるのをよして、只こんな人物を見ようということだけボンヤリ頭に浮かべて
この章にはこれをかこうということなどは腹案すらもたててないのです。」

 上はよく引用される 『春』 の創作談話である。藤村は表向き自然主義について
どうこう論じる作家ではなかった。といって自然主義に無関心であったわけではなく、
花袋の 『蒲団』 のセンセーションは、少なからず藤村の矜恃を刺激した。小説
の筋立てを否定し、『春』 で確立したと本人もいう平明で素朴な文体など、排技巧、
無理想無解決をスローガンとした日本流の自然主義をみごとに体現してみせた。
 面白いのは、漱石が藤村と似たようなことをより強い口調で書いていたりすることだ。

486: ◆YgQRHAJqRA
07/09/22 22:06:51
「普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然として補足
すべき筋が貫いて居らん。しかし彼等〔写生文家〕から云うとこうである。
筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないものゝうちに筋を立てゝ見
たって始まらないぢゃないか。喜怒哀楽が材料となるにも関わらず拘泥するに
足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋の様なものも、また拘泥するに足らん訳だ。
筋がなければ文章にならんと云うのは窮屈に世の中を見過ぎた話しである。」

 これは 「写生文」(明40)の一節である。作品名は出してないが、鈴木三重吉
(漱石門下)の 『千鳥』 や自分の『草枕』 を念頭に置いた反駁、擁護とみられる。
 筋否定のコンセプトは同じでも、『春』 と 『草枕』 の作風はそれこそ天と地
ほどの懸隔がある。芸術のベクトルはまったく逆なのだ。
 漱石はそのこねくり回した文体と知的な趣味性によって物語の貧弱さをカバーし
文学の強度を失うまいと努めるのに対して、藤村にはそうした匠気がない。あくまで
真摯に、自然体でいこうとする。その意味で、「遊び」 がない。自伝的小説
という内容の面からも文体は虚飾を嫌うだろう。
 理想に破れて首を吊った青木、自分の教え子で微妙な恋愛関係にあった勝子の
病死。本来小説の強いアクセントになるはずの出来事も、藤村は筆を極力抑えて
目立たぬように書いている。

 文章の俳句的趣についていえば、『春』 のほうが洗練の度で優るようなところ
もある。『春』 の最後のくだりなどは、漱石も名文と讃えている。

487: ◆YgQRHAJqRA
07/09/22 22:09:15
 汽車が白河を通り越したころには、岸本はもう遠く都を離れたような気が
した。寂しい降雨の音を聞きながら、いつ来るとも知れないような空想の世界
を夢みつつ、彼は頭を窓のところに押し付けて考えた。
 「あゝ、自分のようなものでも、どうかして生きたい。」
 こう思って、深い深いため息をついた。ガラス窓の外には、灰色の空、ぬれて
光る草木、水煙、それからションボリと農家の軒下に立つ鶏の群れなぞが映ったり
消えたりした。人々は雨中の旅に倦(う)んで、多く汽車の中で寝た。
 またザアと降って来た。
『春』―終


 枯淡な文章のうちに絶望でも諦めでもないもの悲しさが滲んでいる。浪漫派詩人
として世に出、愛読者も多かった藤村だけに、詩情したたる場面を書かせるとその
才能を見せつける感がある。
 漱石は、こうした筆致がもっと全体に及んでいたらよかったと惜しんだ。しかし、
もしそうなっていたら 『春』 は叙情散文詩のようなものになり―それはそれで
美しいかもしれないけれど―自然主義小説ではなくなってしまうだろう。
 『蒲団』 の、芳子の夜着に顔をうずめて泣くラストにしてもそうだが、この
情調を払拭しきれないところに、日本の自然主義の不完全さがあった。


488: ◆YgQRHAJqRA
07/09/22 22:12:30
 『春』 は、瑣末な日常ばかりを写し、自身とその家族、友人、知人を等身大
に描く作法を印象深く示した。「身辺雑記」 「茶の間小説」 「友達小説」
などと半ば侮蔑を含んで呼ばれた諸小説は、やがて大正期の 「私小説・心境小説」
へと合流し昭和にまで続いていく。この点で 『蒲団』 よりも 『春』 に私小説
の原型があるという見方もできる。

 また平野謙のように、『蒲団』 の結末は不自然で常識的に考えておかしくアレは
作者の妄想だと断じ、花袋の赤裸々な告白も芳子のモデル、岡田美知代が花袋を
神のごとく尊敬していたため、何を書いても大丈夫だという安心の上に立った打算的
自己暴露であったとし、『蒲団』=私小説の始源説は過ちだとする見解もある。
 これは私小説をどう捉えるか定義の問題であるが、ただ、自己を白日の下にさらけ
出す文学風土を築きあげたのは間違いなく 『蒲団』 を先陣とした自然派であった。

 軽蔑や批判を顧みず、誰がその一歩を踏みだし道をつけたのか、平野謙も
「しかし、またそれは 「ほんの小説」 の上だけのフィクションだともいいきれぬ
のである。そこにはたしかに花袋自身の血と汗が流れている。自己解剖による真実
追求という作家の態度は、やはり紙背に歴々としている。」
 ことは認めざるを得ない。それが今日ほど容易くなかったことは、白鳥が曰わく
「自分のしたことを、何でも、臆面なく書けば、それが新時代の小説であると思う
のは浅はかな文学観であるにちがいないが、しかし、こういう浅はかな文学観が
起こらなかったら、近松秋江の面白い小説も、岩野泡鳴の面白い小説も出なかった
にちがいない。彼らに傍若無人の創作熱意があったにしても、田山花袋が敢然
として、衆人環視のうちで自己の行動と心理を暴露した、「蒲団」 のごとき
作品を世に示さなかったら、彼らの作品がああいう形を取っては現われなかったに
ちがいない。「田山が範を示したから、君なんかも随(つ)いて行ったのだろう」
と、私は一度泡鳴に訊き糺したが、泡鳴も、「それはそうだ」 と、首肯した。」
 という同時代人の証言にも明らかであろう。


489: ◆YgQRHAJqRA
07/09/29 08:18:53
なにげなく読み返していたら、すごい間違い発見。
>>391最後の段落、〈子規は小説を書いてみないかと言った〉の子規は、
《虚子》の誤りです。
すでに亡くなった人が漱石に話しかけるって、ホラーだよねw

490:tina ◆OcfLN77Pak
07/10/03 03:17:24
いえいえ、バック・トゥ・ザ・フューチャーにもっていったらコメディーです。
せっかく一本とれそうなエピソードだったのに、気づきませんでした 从^ 。^从

>>482
"TO BE CONCLUDED" な雰囲気です。”TO BE CONTINUED” の展開
でしたら、かいがいしいか騒々しいか知れませんが、私がスレ建てを代行
させていただきます☆
>>不安で筆がちっとも進まない
電車男か独りカラオケか、スレ主さん次第で物語の展開も違ってくると思います。

山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける

では、
今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい

491:名無し物書き@推敲中?:
07/10/04 22:45:34
さい

492: ◆YgQRHAJqRA
07/10/07 12:06:10
 昨年の われまた拾う まつぼっくり

いつになったら終わるのか、即行レンジでチンするみたいに書け自分。
と鼓舞するも、腹が減ってはなんとやら。急にやきいも食べたい秋の空。

それはそうと

もし450KBを超えてまだ解説が終わらないときは、新たにスレッドを立てて
そちらで続きを書こうと考えています。TO BE CONCLUDED ですが……

493: ◆YgQRHAJqRA
07/10/15 19:35:57
「『生』 の筆を私は明治四十一年の三月一日から執った。/その四五日前から、
島崎君の 『春』 が朝日に連載されたので、従って、一層奮闘しなければなら
ないような気がした。」
「『生』 の題材は、私が数年前から心がけて持っていたものである。自分の周囲
の人達のことであるだけに、想像は用いなくても好かったけれど、それだけ書き
にくいところがある。ことに母親のことに関しては、情において忍びないような
ところがある。しかし、これを突破しないで、どうしよう。こう思って私は何も彼も
かくすところなく書こうと決心した。」
「国木田君は茅ケ崎の病床で、「どっちもまづいな。まあ、しかし拙い旨いは
言わないとしてもあんなだらだらしたものを新聞小説にかくものがあるもんか」
と言ったそうだ。」
「『生』 はしかし反響はかなりにあった。無論褒貶区々(ほうへんくく)で
あったけれども、「まア、兎に角、あれだけのものならば―」 というふうに
文壇から認められた。夏目漱石氏は、「裏店長屋の汚ない絵のようだ」 と言った。」
.                      (以上『東京の三十年』大6)

 『蒲団』 は自己の内部をあけすけにした告白的小説であったが、『生』 は
明治32年頃の田山一家の内部、底意地の悪い癇癪もちの母親や兄嫁と小姑の
確執などを直視した、より自伝色の濃い小説である。因襲や旧道徳の住みか
ともいえる 「家」 の葛藤を、なんら美化することなくありのままに描いて、
自然主義の面目を躍如たらしめた。『生』 には、『春』 の微温的な自伝性とは
ちがう現実暴露の気概があった。
 花袋は、例えば次のような描写で、世間が今まで信じまた願ってきた慈母の
幻想を容赦なく打ち砕く。

494: ◆YgQRHAJqRA
07/10/15 19:39:20

(中略)ある時、銑之助〔せんのすけ:花袋〕が少し気に入らぬことを謂ったら、
『馬鹿! 馬鹿! 小説を書くの何のッて、生意気だ。そんなことで小説が書け
るか』 と罵る。
 この間までは女の児が少し位泣いても、『小児(こども)の泣くのは仕方が
無い』 と謂って居たが、この頃は 『喧しい餓鬼だ、お米をもう帰して了え』 と
よくいう。実の娘ながらお米の苛々(いらいら)した調子が煩(うる)さく、
大きな腹を抱えて居る醜い形に顔を顰(しか)めて、『本当に人間の屑だ。満足
に育てることも出来ないで、餓鬼ばかり産むなら犬猫でもする』 などと悪罵を
加える。

(中略)病人は痛い腹を押さえながら 『くっついて寝て居るばかりが能ぢゃないぞ!』
 お桂は聞かぬ風(ふり)をして、
『押さえましょうか』 と近寄ると、さも汚らわしいと言った態度(ようす)をして、
『鐐(りょう)! 鐐!』
 主人〔あるじ:長男〕が起きて来ると、
『鐐! お前は親の恩を覚えてるか』
『………』
『女房と寝るばかりが能ぢゃあるまい。親がこうして苦しんで居るのを、知らず
に寝て居て、それで孔子様に済むか』
 主人は答える術を知らなかった。
『親が……子供を育てるのは一通ぢゃないぞ。御前達がこうして成長(おおき)く
なったのは、誰のお蔭だ』
 病人とは思えぬ程辞色(じしょく)が烈しい。
『母様(おっかさん)、そんな無理を仰ったって困りますな。つい、寝込んで
了って、眼が覚めなかったんですから』
『もう、好い、御前達の世話にはなりません。寝てお出で……』
『そんなこと仰らずに……』
『好いよ、世話にならない、私は一人で死ぬから』
 万事が総てこういう風に難しい。

495: ◆YgQRHAJqRA
07/10/15 19:43:25
 『生』 の主役はこの強烈な性格をした母親である。小説は、この母親の死
をもって、その束縛から解かれた家族の、新たな生活の営みをみて筆がおか
れる。同時にそこには、道徳のしがらみから脱する芸術―自然主義の生成も
暗示されていよう。
 作法面では、自己だけに焦点を合わせず、母親を中心とした家人それぞれの
肖像を周りに配置させ、ひとつのタペストリーを編もうとする目論見に、高い
客観性に基づいた叙法が意識されるのであった。

「私があの『生』 を作するに当たって自ら取った作の方針というようなものを
云って見ると、それは今迄にも主張した事のある通り、いささかの主観を交えず、
結構を加えず、たゞ客観の材料を材料として書き表すと云うやり方、それをやって
見ようと試みたのです。単に作者の主観を加えないのみならず、客観の事象に
対しても少しもその内部に立ち入らず、また人物の内部精神にも立ち入らず、たゞ
見たまゝ聴いたまゝ触れたまゝの現象をさながらに描く。云わば平面的描写、
それが主眼なのです。(中略)そう云う風に書こうとするにはおのづからそれは
印象的にならざるを得ない。したがって私の試みた描写の仕方を印象的である
とも云えましょう。」

 花袋は 「『生』 於ける試み」(「早稲田文学」明41・9)で上のように述べて
いる。だが花袋のいう平面描写は十全に実現されてはいない。次の銑之助の心理
(あからさまな心内語)などは、無駄に教訓と同情を誘う風で自然主義の態度
すら失している。

「理由(わけ)なしに涙が滴(こぼ)れる。子は親の為めに果たして何を尽したか。
母は難しかった。けれど難しい以上に温情であった。われ等の為めに、真心から
悲しみ、真心から憂い、真心から怒(いか)った。難しかったのは優しかった為
である。……であるのに、子等は何を以てこれに酬(むく)いた?」

496: ◆YgQRHAJqRA
07/10/15 19:49:00
 明治は今以上に儒教的道徳観が強く残っており、父母への孝、年長への敬、
上下の別といった教えを軽んじることは、下劣なエゴイストと嫌悪されて
おかしくなかった。道徳意識の高い漱石がこの作を汚いと評したのも無理はない。
芸術のためとはいえ、さすがに実母の醜態を散々描いて花袋もこころ苦しく、
恨んでくれるなおっかさんという気持ちが、かような悔悛となってせり上がった
のであろうか。花袋はこの筆のゆるみを引き締め直すかのようにすぐあと、
「少時(しばらく)して思返して、「けれどこれが人間である。これが自然で
ある。逝くものをして逝かしめよ、滅ぶべきものを滅ぼしめよ」」 と書き加える。
これも取って付けたような感慨でうまくない。
 花袋の平面描写がそれなりの形になるのは、次の長編 『妻』(明41)以降である。

 先の 『生』 の創作談話のなかで花袋は、平面描写つまり純客観風の叙法に
ついてそれが印象の抽出であるかのように言っている。他の箇所でも、「私は
たゞその経験した事実を事実それ自らとして印象のまま平面的に書いたのです。」
と述べている。印象とは個人的な主観を指し、本来、写実客観とは合しない。
 花袋のこうした用語のルーズさは、のちに漱石の 「客観描写と印象描写」(明43)
で批判されるものであった。

497: ◆YgQRHAJqRA
07/10/15 19:54:25
「元来純客観な描写と称するものは厳密に云うと小説の上で行われべき筈(はず)
のものではないが、それは兎に角俗に客観的な事柄と云うのは、我々の頭の中
に映る現象のうちで、甲にも乙にも丙にも共通の点だけを引き抽(ぬ)いて、
便宜名づけた約束に過ぎない。云い直すと、主観のうちの一般に共通な部分が
即ち客観なのである。」
「もし客観的描写を主張して極端迄行くとすると、彼は頭を下げたとは云えるが、
彼は感謝したとは書けない訳になる。感謝の積(つも)りで頭を下げたのだか、
人を茶化す積りで頭を下げたかは、向こうの心理状態をこちらで好い加減に想像
したに過ぎないからである。(中略)これと同じく只笑ったとは書けるが苦笑
したとか冷笑したとかは決して書いてならんことになる。苦笑とか冷笑とか云う
や否や吾人は先方の心理を揣摩〔しま:推量〕する事になって半ば客観の現象
を離れるからである。」
「所が印象描写々々々々としきりに振廻されている印象と云う字は、全く反対の
性質を帯びたものである。」
「印象的の事実と云うものは十人が十人、百人が百人に共通であるとは限らない。
否十人十色と云う位に違うべきものである。」
「両描写を兼用することはできるが、主張としてこれを併立させる事は性質上
不可能である。」

 漱石の説明は的確でありほとんど反論の余地はない。絵画のそれと同じく、
印象描写とは作者の受けた感覚や感動を前面にあらわす能動的な試みをいう。
事物に対する客観性の欠如を問題にしない態度である。
 しかし 「印象」 の語は、もう一方に、人の記憶に強く刻みこまれるもの、
という受動的な意味での 「印象」 がある。花袋のいう印象描写は、印象に残る
記憶―経験をそのまま描くというほどの意味で、そこに客観の目を通しても
彼のなかでは矛盾しないのだった。むしろ主観と客観の融合したところに
「大自然の主観」 をみたいとも言い、御風の主張>>468とも呼応するわけだが、
これも白鳥に用語の不調法さを責められている。
 自然派作家にとって、「描写」 は単に小説上の丹念な叙法というにとどまらず、
自己の党派や創作理念を示す物差しなのであった。

498:名無し物書き@推敲中?:
07/10/26 17:38:39
なかった。

499: ◆YgQRHAJqRA
07/11/02 00:18:50
ふと思いついて、このスレのタイトルでググってみた。
ダラララララ…(効果音)
13位です。ポケモンより上だ。
うそーっ!!

いや…そんな驚くか? 13位で。
え、まあ、そうですね。ちょっと取り乱してしまいました。
アメリカの企業ウェブデザイナーかなんかが、グーグルの上位15位に
入らないサイトは存在しないも同然だ、なんてことをTVで言ってました。
営利目的のサイトと一概に同列視はできませんが、まさかこんな上のほうに
出てくるとは、意外でした。
だって、何年か前に一度検索したときは、おもいっきりランク外でしたからね(笑)
さすがのグーグルさんも、こんなどマイナースレッドは無視ですねヘヘヘ……モウケンサクシナイ
ところが今回この結果、なぜだ?(企業秘密らしいです)

500:弧高の鬼才 ◆W7.CkkM01U
07/11/03 00:20:06
ケータイ小説とラノベと一部山田ゆうすけ的エンタメは、この程度の基本的技術も
備えていませんね、そういえば。

501:名無し物書き@推敲中?
07/11/03 06:23:05
ガッシ


502: ◆YgQRHAJqRA
07/11/04 18:51:22
スレのサブタイ、今になって間違えていることに気づいた(つдT)

×改定 〇改訂

何度も何度も目にしていながら、まるではじめて見たようなアハ体験orz

 知らぬまに 秋すぎゆきぬ 辞書の冷たさ


>>500
喩えはわるいけど、100円ショップはしょぼいと言ってもそれなりに需要が
ありますでしょ。
むしろその敷居(技術)の低さが一定の読者を惹きつけもするという、
技巧派にとっては、にわかに認めたくないような現実もあるわけでして。
いきなり『草枕』じゃ胸焼けしちゃう人もいるでしょうし、自分の体質にあった
小説を人は自然と選ぶものなんですね。

503:tina ◆OcfLN77Pak
07/11/06 02:52:54
 あっと感づき はっとひらめく あは体験

宮崎県知事☆ かな、これは。
次いで、>>492への返歌

 松風に 吹き寄せらるる 木の実かな

もひとつ

 懲りもせず 羽衣を置く 天女かな

 このスレッドって、ROMっているかた多そうで、なにかきっかけを見つけた時だけ
書き込みボタンを押しています。では、

今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい



504: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:45:07
 ホソウミチ
 舗装道や 水面へ落つる 空高し

tinaさんのレスに、いつも心なごませて頂いている私ですので、気の召された折
書き込みボタン、ぽちっとしてくださるとうれしいです(^-^)

505: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:47:28
 描写論を盛んにした作家にもう一人、岩野泡鳴がいる。彼独自の芸術観は、
まず明治39年 「神秘的半獣主義」 にまとめられた。内容を一読して理解する
のは難しい。それは、学問的に高度であるため、ではなさそうだ。
 泡鳴はエマーソンに傾倒しその影響を強く受けながら、仏教、キリスト教、
神話、哲学をごっちゃにして、己れの理屈がさも自明であるかの如く語り、措辞
の粗さに一向無頓着なのである。この論説を捧持(ほうじ)して用いる者は
今も当時もまれであり、これに敬服しては自分の見識にしみがつきそうな、
少し離した扱いがあるのも故なきことではない。
 例えば 「大天才の産物には、刹那的流転を悲しむ大宇宙が現じないでは居られ
ないのだ。」 「表象その物を離れては宇宙は全滅する」 等なかなか珍妙であり、
もうちょっと他の言いようはないのかしらと首を傾げたくもなる。
 ある意味 「神秘的半獣主義」 とは、 芸術は爆発だという内部燃焼的個人主義
表象芸術の宣言とみてとれなくもない。だからその論の雑駁さや独り合点、
大言壮語で自画自賛なところも、彼の芸術表現のひとつとみなすこともできようか。
 そしてさらに、現実暴露や無理想無解決といった自然主義のデカダン風な主張
と相混合したのが、泡鳴自称の 「新自然主義」 であった。泡鳴は、刹那に流転
する生命・宇宙を感得してその刹那の生の燃焼を表現し、霊肉一致、主観第一、
芸術即実行といった持論を一貫して曲げることがなかった。
 一応、泡鳴は自然派の一人に数えられているけれども、平面描写を実践する
花袋にはいつも不満であり、藤村には人生の熱がないと突き放し、わずかに白鳥を
自分の刹那主義に近い作家として評価するくらいで、ほかの群小作家どもは勝手
に書いていろとまあ、唯我独尊の人であった。

506: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:50:12
 泡鳴が小説家として認められたのは、明治42年2月 「新小説」 に発表した
『耽溺』 による。竜土会のメンバー中では少し時流に乗り遅れた作家であった。
『耽溺』 は、明治39年、脚本を書くため日光に滞在した折、なじみになった地元
の芸者を下心から女優に仕立てようとして失敗した体験を小説にしたものである。
 他の代表作、いわゆる五部作と呼ばれる 『放浪』(三・明43)、『断橋』(四・明44)、
『発展』(一・明44)、『毒薬を飲む女』(二・大3)、『憑き物』(五・大7)は、
明治41年半ばから42年末にかけての人生遍歴である。(漢数字は各小説間の時系列順)
 田村義雄(泡鳴)は、実家の下宿屋にやってきた若い女お鳥を囲ってずるずる
べったりの関係になり、まったく妻子を顧みず打ち捨てて、樺太で蟹の缶詰事業
に乗り出すもこれまた失敗し、北海道に渡って金策に走るが行き詰まり、淋病が
治らないことで自暴自棄になったお鳥と一緒に鉄橋から飛びおりるのだが深雪の
おかげで命拾いし、ほうほうの体で東京に戻って憑き物のようなお鳥とようやく
別れる、という話である。

 泡鳴の小説は男臭く粗野でときに汚らしい。特に彼の妻は、作中義雄の態度
および語りの表現態度において、二重の酷薄さに晒されていて容赦がない。
愛想が尽きている。『憑き物』 の最終章には、「これがなお一つ残ってるところの
憑き物ではないか? この妻が?」 などと露骨に書いている。お鳥と別れたあと
泡鳴はすぐにまた新しい愛人をつくり、妻とは大正元年に離婚している。
芸術即実行である。
 五部作を通じて、泡鳴は自身の創作理論をしだいに深めていった。

507: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:52:13
「文芸は作者の主観の情調、及ち、態度で決まる。情調を単に情緒的と考える
様なものは、到底技巧の徒に過ぎない。作家の態度は、僕の所謂心熱的全人格的
実行でなければ、真剣ではない。真剣な作家の主観を離れて、真剣な人生描写は
ない。作家の主観が内在的に深刻であればあるだけ、偉大であればあるだけ、
表面的技巧や小経験を内部から破壊して、それ相当な深刻もしくは偉大の文芸が
出現する。そういう様な主観―それがむしろ客観的態度の問題よりも重大
である―を僕は破壊的主観という。」

 「現代小説の描写法」(明44)で説かれているのは、具体的な方法論というより
態度論である。泡鳴にとって、小説は作家と直結する芸術でなければならない。
そこにおいてなされる表現すなわち描写は作者の主観をかたどる役目をもつ。
ただしそれだけでは前時代のロマンチシズムに逆戻りしかねない。現実から遊離
した情調を斥けるには、作者の生きた偉大性が発揮されればよい。作者が偉大
であり深刻であれば、その主観を反映した小説もまた偉大の生命を顕すにちがい
ない。偉大なる主観の前には、女々しい主観やくだらない技巧などは破壊されて
しまうのだ、という考えである。
 ゆえに主観を避けて客観描写にいそしむことは、へなちょこな凡人作家のする
作法であり、そうして作られた小説はつまらない技巧の産物ともみえた。

「試みに、同氏〔花袋〕の 『髪』 を読んで見給え。わざわざ白鳥氏の傾向など
には遠ざかって、情けないほど藤村氏へ傾いて行って、後者が 『家』 でうるさい
ほど使った無内容の説明句、『考へ深い眼付き、』 何々 『したような眼付き』
など云うことまで同じように連発している。」
 と、泡鳴は 「描写再論」(明45)で花袋藤村がする眼の書き方に客観の無理
と苦しさを見抜いた。

508: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:54:01
 小説上のある人物が作者自身であったりする場合、つい作者の心境をあれこれ
と出してしまいたくなる。のちの私小説はこの道をたどるわけだが、写実客観の
主義を強く意識する作家は、不意に顔を出すその主観がたぶんひとよりも、
大きく、でしゃばっているように見えてしまう。

「かれはこう思って居るとかあゝ思っているとかいう風に書きたくない。作者が
作中の人物を人形つかいが人形をつかうようにつかって動かして居るのを見ると、
興味が索然として了う。作者は説明しても好いが、少なくともその説明は作者の
説明であってはならない。」

 「描写と説明」(明42)のなかで花袋はそう述べている。しかし、さまざまな
心理をいちいち別の表現(象徴・動作等)に代替させて書くことは易しくないし、
読み手に伝わるかもわからない。まったく心理に触れないのも書き手にとっては
窮屈にちがいない。主観も表したいがそれを直接的説明的に書くのは自分の主義が
許さないジレンマ。
 そこで、眼は口ほどにものを言う、そんなことわざを地でゆくような 「眼付き」
で語らせるわけだ。語り手は人物の心内に入らずとも、「眼」 という便利な
外物に心理や主観を、説明ではなしに描写で投影することができる、と考える
のはいささか都合がよすぎるだろう。やっぱりそれは心理の説明であって作者
から見た主観なのであった。

509: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 20:55:50
 さて、泡鳴の描写論の極めつきはなんと言っても一元描写だろう。
 「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」 なる、いかにも彼らしい
思い上がった題の論稿を発表したのは、だいぶ時を飛ばして大正7年のことである。
泡鳴は、自分とほかの作家との描写のちがいを、次のような図で示す。

 (第一図)   (第二図)

   作       作
   者       者
  /|\      |
 丙 乙 甲     甲
  \|/      /\
   概      丙 乙
   念       \/
   的       具
   人       体
   生       的
.           人
.           生


 第三、第四の図もあるがそれは第一、第二の図を複雑にしたもので基本は
変わらないため省略した。
 第一図は、「作者が公平にそして直接に仲間〔作中人物〕の諸分子の気ぶんや
人生を達観もしくは傍観するのだ。比喩の例で云えば直喩に当たるようなもので、
これは単純な鳥瞰(ちょうかん)的もしくは平面的描写論」 である。
 第二図は、「作者がまず仲間の一人の気ぶんになってしまうのである。それを
甲及ち主人公とすれば、作者は甲の気ぶんから、そしてこれを通して、他の仲間
を観察し、甲として聞かないこと、見ないこと、もしくは感じないことは、」
叙述しない。「第三人称を与えていても、実際には甲をして自伝的に第一人称で
物を云わせているのと同前だと見れば分かりよかろう。」

510: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 21:04:29
 花袋流の平面描写は人生を浅く散漫に把握するために、「概念と説明とを
脱し切れない」 しかし作者が一人物のみに定めて不即不離(隠喩的)の関係と
なる一元描写は一段と深く、「物に具体性を与える。」 と説く。
 その論拠は、「人間の世界なり人生なりは、実際には万人が万人として知ってる
世界や人生ではなくて、彼等がてんでに自分一個の主観に映じて持ってるそれで
ある。云い換えれば、自分を帝王とした世界であって、そこには他人の主権を
許さない。」 という主観絶対思想にある。先にみた花袋の 「描写と説明」 とは、
著しくその言葉の捉え方が異なっている。
 作者と甲の関係については、「作者とその選定の一人物とは別であるけれども、
作者は自分の概念を以ってこの両者を区別
しない。たとえば、おれは道徳論者であるけれども、おれの書いてる人物はわざと
不道徳家にしてあるとか、また、おれは理想家だがちょッと無理想家を書いて見た
とか、こんなことは考えない。」

 さらに 「一元描写とは?」(大8)でこう論じる。
「小説の上丈けでは出て来る人物を凡て同じように知っているふりを作者がして
見せなければならぬという要求は、頭から人生そのものを知らないのである。
只空想によって理屈丈けで無制限に考えて見れば、そりゃ満遍なくどの人物をも
知ってるに越した事はない。が、それを作に現わして見れば、返って不自然に
なって了うのである。作者が神様であれば知らず、やっぱり人間である以上は、
そういう事は実際上出来ない。また実際の芸術理論上出来ない。」

 続けて 「描写論補遺」(大8)を引こう。
「なお念を押して置くと、作者がその主観の仲介者を多元的に持ちたければ、
その多元の数だけの別々な創作をしなければ具体的作物にはならぬ。」
「観察点もしくは気ぶんの中心は動いてはいけないと僕は云うのだ。従って、
この中心が動けば、もう、別な作、別な人生の表現なり創造なりになるべきである。」

511: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 21:07:59
 仮に主人公が異性であろうがはたまた動物であろうが、そこに作者の人生観
を合一さすことが一元的態度である。霊肉一致の小説である。異性や動物の
〝ように〟装って書くのではない。あくまで小説の中心は、第二図にみる作者―甲
の主観でなければならない。
 以上が泡鳴の 「最高芸術の標準」 たる一元描写の要旨である。

 今日、泡鳴が提唱した一元描写は視点として論じられることのほうが多い。
一元描写とは、人間の真を写すという自然主義の理念に基づく泡鳴流の創作手法
であった。どういう経路で広まったのかわからないが、現在ネットで流通して
いるらしい 「一元描写」 には、このあたりの意味は完全に脱落している。
そう言って、私は誇らしげにその過誤を突こうというのではない。泡鳴の定義に
忠実に従うと、この用語はかなり使いづらいものになる。小説の幅をかなり狭く
してしまう態度・理念の部分が除かれ、視点のみに単純化されるのは当然かも
しれない。これは対立する多元描写についても同様である。泡鳴とはもはや関係
のない用語になっている。

512: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 21:12:19
 花袋は、平面描写の平板さを補うために、描写にひとつの知覚主体を設定して
対象をとらえる方法を考えた。下は花袋の 「描写論」(明44)である。

 梅が咲いて居る。これでは記述であって描写ではない。白く梅が見える。こう
なるといくらか描写の気分が出て来る。吾々(われわれ)の前に咲いて居る梅の
状態が分明と眼の前に見えるようになって顕われて来るように心懸けるのが描写
の本旨である。
 かれは雨戸を閉めた。
 雨戸を閉める音が聞こえた。
 波の音がした。
 波の音が聞えた。
 何方も後の方が描写の気分に近い。

 まったくの初心者ならばいざ知らず、ある程度小説をわかっている書き手に、
これが描写だよと言ってもなかなか納得はされないだろう。一般的に描写とは、
ある対象なり事象なりを形容するさいの、言葉の密度や明細さをいう。
 例えば詩、ことに俳句のような短詩型は、言葉の数ではなく、絞り込まれた
語句とその配置、取り合わせによって描写を実現する。一方散文は、どちらかと
いうと言葉の数をつくして多角的に対象を写しとろうとする。
 花袋が示した例は、どちらが描写らしいかの対比というより描写の一手法例で
ある。つまり知覚表現の加味が、描写を非人間的な観察点から人間的な認識点へと
変化させる。それによって叙述に消極的な主体性を与えて、主客混合描写の 「気分」
となるのかもしれない。これも、今では描写と呼ぶより視点として扱われる叙法だろう。

513: ◆YgQRHAJqRA
07/11/07 21:14:29
 この時代、「描写」 はかようにマルチな活躍をして、文学の価値と作風を左右
したのであった。その描写傾向を、具体性と客観性に求めれば写実主義となり、
空想や情緒で塗り固めればロマンチシズムに、印象や感性に従って奇抜な比喩
などを駆使すれば象徴主義となる。
 現在では、このような区別や主義を立てて描写する作家は少ないであろう。
描写手法をみて、作品の優劣や作家の党派をとやかく言う時代でもないからだ。
しかし、描写の仕方がその小説の個性、ひいては作家の個性としても受けとめ
られ、文体ともなることは今も変わりがないのである。


 ひとまずまとまった描写の話はこれまで。今回は技術スレの流れでしたね。
次回はまた明治40年代初めに話題を戻します。段々、文学史を縷述(るじゅつ)
する格好になってきました。なるべく簡明に書きたい。

514:名無し物書き@推敲中?
07/11/08 03:05:10
>>511
>どういう経路で広まったのかわからないが、現在ネットで流通して
>いるらしい 「一元描写」 には、このあたりの意味は完全に脱落している。

今、手元にないので曖昧なんですが、
渡部直己とすが秀実の『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』中に、
三人称一元とか三人称多元とかありませんでしたっけ?
しかも泡鳴とは異なる単なる視点の意味で。
93年刊なので、ネット「前史」だと考えていいと思いますが。

515:名無し物書き@推敲中?
07/11/09 00:28:41
>>514
確かに『それなりガイド』にあるね。
脚注で微かに泡鳴っぽい説明があるけど、二人の対談内では完全に視点の意味だ。
まあ、だからと言って、この二人がこの本で初めてそういう使い方をした、という感じでもないなあ。
もう当然といった感じで視点の意味で使ってるからw

516: ◆YgQRHAJqRA
07/11/09 20:35:40
やっぱり渡部直己が一元描写の卸問屋なのかな。
新旧「それなり」は、レクチャー本の類では異例のベストセラーなんですよね。
あと、一元描写・多元描写を視点として技術指導している「漱石に学べ!」
私も含めこっちのほうが影響強そうですね。
『不敬文学論序説』では泡鳴に言及してますから、知った上で使っているのは
間違いなしです。

私は小説のレクチャー本を読みあさっているわけではないし、ほかにこの用語を
好んで使う評家や学者、作家も知りません。
で試しに一元描写で検索したら、けっこう出てきた。小説の視点として書いて
いるものを少し見た限りでは、どうもその説明が渡部直己のそれと似ている。
表記のゆれはありますが、「三人称一元描写(多元描写)」とか、まんまです。
ネットで自然発生したとは思えないから、誰かが引用しまたは孫引きをして
広まったと推察されます。
ただそれが実際渡部直己ひとりに帰結するのかは、私には断定できない。

思うに、≪本の企画や紙幅の都合上≫まず泡鳴論をあげて原義の理解を読者に
うながし、泡鳴の説くような作者の主観の絶対性あるいは神話がもはや崩れ去って
久しい由、今の時代に合った視点の区別のみの用語に一

517: ◆YgQRHAJqRA
07/11/09 20:43:16
失敗w
上のつづき

……用語に一元描写を再定義する、なんて手続きをいちいち踏んではいられ
ないんですね。
だから渡部直己は、とりあえず、三人称小説の視点には主人公中心の書き方と
主人公には特に限定しない書き方とがあって、前者を一元描写、後者を多元描写
と便宜的に呼び、ざっくりこの区別がつけばよいと。初級中級ではその一長一短
の理解で十分まともな小説が書けますよってね。

しかし先生いつになったら上級編出してくれるのかなw

518:名無し物書き@推敲中?:
07/11/22 17:43:06


519:名無し物書き@推敲中?
07/11/26 19:53:59
よくわからんがこのスレは

チンコと書いた後にマンコと書くと
読者が勝手にセックスを想像してくれるよ!って言うようなスレなの?

520:かちゅ@ウェイトレス(休憩中)
07/12/24 15:55:20
       ,,.、 _、、
      /  };;゙  l ))
.      ,i'  /  /
     ;;゙  ノ  /. ノハヽ☆
    ,r'     `ヽ(‘ 。‘ 从   三
   ,i"       ⊂   )     三
   !:. ‘   ‘   ,!''し'´';;⌒ヾ,     (⌒;;
 (⌒;;.   o    ,::''    |⌒l゙ 三 (⌒  ;;
  `´"''ー-(⌒;;"゙__、、、ノヽ,ノ


521:tina ◆OcfLN77Pak
07/12/24 20:25:34
こんばんは。
早いもので、季節をひと巡りしてクリスマスイブです。
>>155
>>464
地下で書きまくっていた頃のレスを、去年の騒動のあと、下書きやネタ帳も含めて
パソコンからすべて削除してしまいました。
◆YgQRHAJqRA さんの言葉をつづめて心に刻まれているのは、どうやら、「面倒
がるな、言い訳をするな、読者を大切にしろ」 と諭されたことみたいです。
ブログが生まれてミクシィが人気化して今の携帯小説ブームにつながる流れは、
技術を識らず紋切り表現やありきたりのストーリーにも気づかずに、熱に浮かされ
るまま文字を並べていた自分を思い起こさせます。
小説を書くことは辛くて苦しくて、時間と気力と体力とをどんどん消費してしまいます。
集めたネタはもったいないのでおしゃべりとエッセイに転用となり、技術はびじねす
文書の味付けに活用しています… 逃げてるかな。。。
とりあえず、ご報告まで。林芙美子さんに自分を重ねてみながら、これからも創作
がんばります☆
では、よいクリスマスイブの夜をお過ごしください。

今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい

522: ◆YgQRHAJqRA
07/12/27 10:15:31
力耕不吾欺(りきこうわれをあざむかず) 陶淵明(とうえんめい)

なにか学んだことを少しでも活かし、また試みる。それは決して「逃げ」では
ありません。むしろ前進です。挑戦です。
新しい経験や知識に出会うとき、それを積極的に自身に取り込もうとするとき、
人はいつでも成長するのです。自己を耕すのです。

まあ、卑下も自慢のうちという言葉もありますけれど(汗)、焦らず、たゆまず、
力耕不吾欺の気持ちでいきましょう。

523:tina ◆OcfLN77Pak
07/12/31 22:49:07
こんばんは。大晦日です。

>>378 
自然主義作家は作品の背後に完全に身をかくす 『ボヴァリー夫人』
>>407
作品世界のなかに語り手を隠すのではなく、語り手のなかに作品世界を沈める 『運命論者』
>>383
日本的自然主義
自分とその身辺の人間関係に材をとり、それをほとんどそのまま写し取って小説に仕立てる 『蒲団』

こうして並べてみますと、もしかして藤村さんと漱石さんは解説の寄り道でしたか(汗
寄り道ついでに傾きましたのは、赤裸々な日記をならべて小説風にまとめた『放浪記』  プロットも
なければ、事件の展開もなし、ぱっと開けて、開いた所を人情で読ませます。…とは、私の感想。
食い物が欲しい、オトコが恋しい、でも、シャルルみたく頓馬でのそのそして話が5W1Hな奴って
超MM~☆

>>504 舗装道や 水面へ落つる 空高し
二十代のころ研修で訪れたことのある河口湖畔のポプラ並木を思い出します。レスが遅れまして、
もうすっかりから坊主になっている季節ですが、年内ぎりぎり間に合いました。自身の言動で人の
こころをでこぼこ道にしてしまうこと反省しきりな私ですので、とても嬉しく思いました。

では、技術スレでの解説を一年間、おつかれさまでした。
どうぞ、よいお年をお迎えください。

524: ◆YgQRHAJqRA
08/01/01 02:00:34
≡あけましておめでとうございます≡


自然主義を語る上で藤村は外せませんし、漱石は触れずに通ることのほうが難しい
明治文学の巨人ですから、特に寄り道をしたとは思ってないんですけど、面白く
なかったかな(^_^;
知名度からいったら泡鳴こそ異例の大扱いだと思います。ここら辺、解説の方針が
いかにも偏っております。

『放浪記』は、森光子のでんぐり返し(もう封印したようです)しか存じてないので、そのうち機会があったら読みましょう。

さてと…サボってた解説書かなきゃ〆(・ω・` )カキカキ

525:名無し物書き@推敲中?
08/01/04 16:04:35
技術と言うなら、例えば漱石、草枕や坊ちゃんよりも
抗夫、この方が基本的だ。
高邁な理論よりもこんなものの分析を聞きたい。
今年の希望

526:tina ◆OcfLN77Pak
08/01/04 23:58:35
こんばんは。明日から職場復帰です。

私の『放浪記』 は尾道めぐりの習慣と下記レス番の解説文が勧進元で、女優さんの
デフォルメとも明治文学とも無関係ですので、もうずうっと先送りしてください。
>>430
それらは、実際花袋の身の上に起きた経験をもとにし、それをほぼそのまま小説の体裁
にして表出したものである。
>>488
『蒲団』 の結末は不自然で常識的に考えておかしくアレは作者の妄想だと断じ、花袋の
赤裸々な告白も芳子のモデル、岡田美知代が花袋を神のごとく尊敬していたため、何を
書いても大丈夫だという安心の上に立った打算的自己暴露であった

>>525
もしかして、干支のねずみに因んで、鉱山の穴の中で働く『坑夫』 ですか。高校生の頃
読んでそれきりでしたので、さっそく青空文庫でさがしてみました。
俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下の事情
と云うものは、転瞬の客気に駆られて、とんでもない誤謬を伝え勝ちのものである。自分
の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、
気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと
出された義理じゃない。

去年、BILLY'S BOOT CAMPを会社でちょこっと実演しましたら、しっぽで床掃除だとか、
どんぐりを胸の前でくるくる回して落とさないように空に突き上げ、まるでウサギのダンス
だとか評されました。そんな心境。。。

では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。おやすみなさい。

527:名無し物書き@推敲中?
08/01/12 16:42:25
抗夫は漱石の経験ではなく、ある人物が訪ねてきて小説にならないかと打診したものらしいよ
最初、自分で書いてみたら? なんて言ってた漱石が小説にしちまったらしい
つまり想像力でリアルを追求してるんじゃないの?
そうゆうものが技術でなくて何なんだよ

528: ◆YgQRHAJqRA
08/01/13 01:59:20
落ちてきたのでageます。

>>525 >>527
『坑夫』 執筆のいきさつは、「「坑夫」の作意と自然派伝奇派の交渉」(明41)
に明らかです。青空文庫にはまだ入っていないようですね。

「「坑夫」の謂われはこうなんだ。―ある日私のところへ一人の若い男がヒョッコリ
やってきて、自分の身上にこういう材料があるが小説に書いてくださらんか。
その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのですという。」

それで漱石はその見ず知らずの男の話を買うわけですが

「私は個人の事情は書きたくない。相手の言ったとおりに書けば好いけれども、
小説にするにはどうしても話を変化させなきゃならん。」

というわけであの冗長な心理小説、一種の冥界譚、手法的にはより「意識の流れ」を
意識した小説が書かれました。これも実験性が露わで、「知力上の好奇心がない
人は、これをあまり面白がらん」と漱石自身も言っています。

漱石の基本かどうかはわかりませが、いま書いているのは個々の作品の技術解説
ではないので、『坑夫』についてこれ以上取りあげる予定はありません。スレの
趣旨と異なる解説であることは、重々承知の上のわがままであります。ご希望に
添えぬところは、浅学菲才

529: ◆YgQRHAJqRA
08/01/13 02:05:36
のいたらなさゆえご憐察ください。

あれ、文字制限にひっかかるのか。削られるようになってしまったな(´・ω・`)


530: ◆YgQRHAJqRA
08/01/13 02:06:28
>>526
tinaさんのウサギのダンス、ウケまくりでよかったですね(ちょっとちがう?(^^;)
きっとかわいらしかったと想像します。
そうじゃなかったらほら、もっとえげつない動物で比喩することも出来るじゃないですか。

 初春のうさぎと踊るかぐやかな

実際の月でも、日本の月探査衛星「かぐや」が活躍していますね。
tinaさんもそのような年になりますように。

531:tina ◆OcfLN77Pak
08/01/20 02:54:24
こんばんは。

かわいらしい、には思わずドキンとしたのですが、”人大杉” で日が経つにつれ、
♪泣きながらちぎった写真を、手のひらにつなげてみるの~ 
想い出は、ことごとく、間接キッスみたいな味気なさです。例えばですが恋人が、
新婚旅行に日本からカップめん持参でさあこれから指と指をからませてのロマン
チックな夜って時にお湯が無ぇお湯が無ぇ、と騒ぐタイプでしたら、もう、きりりっと
意地の張りまくりです。
とりあえず、専用ブラウザを復活いたしました。

読書のほうは>>526 に続けて『三四郎』 です。

ユーミンの歌にたたむは恋ならで 「ストレイシープ、ストレイシープ」 と呟いており

では、おやすみなさい☆

532:名無し物書き@推敲中?
08/01/23 14:51:37
漱石なら「こころ」も分析すると技術がたっぷりと詰まってるぞ
先生の心理がどう変化してゆくのか、それをどう配置しているのか
技術が分析できるぞい

放浪記は高校一年生のころ、カバンにいつも入れていて読んだなぁ…

533: ◆YgQRHAJqRA
08/01/27 15:11:54
>>531
とりあえず、落ち着いて書きましょう(;^ω^)

>>532
また漱石ですか(^^;
『こころ』は取り上げるかどうか未定です。たとえ触れても技術云々の話には
ならないでしょう。
私よりご自身で技術解説をしてみたらいかがでしょうか。詳しそうですし。
別の「技術」のスレは保守しているだけの寂しい状態ですので、532さんひとつ
筆をふるってみてはどうかな(^-^)

続きの解説、手が回らず半分ほど書いて放置状態……イヤハヤ

534:名無し物書き@推敲中?
08/01/29 15:08:08
その解説が不満なのだよ
曲がりなりにも作家を目指している以上
日本文学の慷慨くらいは知っている
それとも素人に説明してるのかい?
こんなことを言うとまた怒るのかい?
とにかく、もう一歩、踏み込んだ解説が欲しいな

535: ◆YgQRHAJqRA
08/01/30 00:15:34
怒る理由はないので怒っていませんよ。そんな風に感じました?
顔文字入れたんだけどな(´・ω・`)

>それとも素人に説明してるのかい?

それはあります。基本的に前スレからそういう心掛けで書いています。どれだけ
実現しているかは判りませんが…
私は学者じゃないので、高度かつ斬新な解説を望まれても困ってしまいます。
もっと高い水準のものをという気持ちに応えられたらいいのですが、近代の有名
作家や作品はあらかた語り尽くされていて、評論家もなにか新しい評点を加える
のは難しいとボヤきます。
素人のトンデモ論をここで展開してみるのも
面白いけど、そういう解説を書くには物理的(文献収集)にも時間的にも厳しく、
第一それを書いてやろうという動機、あるいは衝動が私には湧いてこないので、
ほんと申し訳ないです。

536:名無し物書き@推敲中?
08/02/03 15:27:56
どうも噛み合わないな、独自の視点があるから読めるのじゃないの?
独自の解説もありじゃないの? それは水準とは関係ないよ

尚、別に批判しているのじゃないよ、要望として言ってみただけだよ

537:tina ◆OcfLN77Pak
08/02/12 01:19:03
こんばんは。
休日ですが、会社やお客さんや協会宛てに、報告書や納品予定や提案書を書いています。
集中できなくなりましたので、ちょっとひと休みです。
一例を挙げますと改善提案です。業界のマイブームなのか知れませんが、巡回に備えて
実績と進捗とを、累積時間やトピックスを報告できる形に記録しておかないといけません。
でも、こういうのが出たとしたらどうでしょう。

①最初の接着面の外周を合わせる ②基準の線を引く ③カウンターをゼロにしメタルに合わ
せる(外周とメタルとのズレの数値を覚えておく) ④裏側に最初の接着面の基準線と同じ
ところに線を引く ⑤基準線を中心に外周を合わせる ⑥カウンターをゼロにし③の数値を
動かす ⑦カウンターをゼロにする(この位置が最初の接着面のメタルの中心) 以下略

早く仕上げてしまいたい時は、長靴に履き替えて雪道を踏んで100m 離れた工場棟まで
赴いて、この目で確かめるのですが、とりあえず先へ進みたい時は、どうみても日本語として
変でない限り、原文のままパソコンに入力します。

>>532
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
芙美子さんを守ってあげたくなりませんでしたか? 同情などお断りですが、心の底では
誰かに養ってもらいたいと思っています。

>>525
何度か読み返してみますと、なるほど、『坑夫』 が基本的とおっしゃる意味を私なりに解釈
できました。解説は無理ですが、感想だけ後日ここに書いてみたいと思います。

では、休憩おわり☆

538:名無し物書き@推敲中?
08/02/12 15:26:22
林芙美子、『晩菊』に参りました。

物語の基本、鴎外の高瀬舟で気づきました。
以外ですが宮崎ハヤオの初期作品も壺は同じだと感じます。
ハイジが都会で病気になって田舎に帰る回は特にです。

539:桜子 ◆OcfLN77Pak
08/02/14 23:54:17

 (∴* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *∴)
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 (∴*  ☆ノハヽ *o○★◎☆。∂∇。|   // |´:/          *∴)
 (∴*   从‘ 。^)☆◎。.:☆◇*.::::::::::::::\//|  |              *∴)
 (∴*.  (__)~~∞~ ) ・☆◎。:::::::::::::::::::::::::::: ̄ /   |          *∴)
 (∴**ノ∪ ★。。.:*・☆*・\::::::::::::::::::::::::::::::/  ̄\/         *  *∴)
 (∴*  ∩           \::::::::::::::::::/             ∩  *∴)
 (∴*⊂●⊃            \:::::/                 ⊂●⊃*∴)
 (∴*  ∪  *           `´   from Sakurako * .∪. *∴)
 (∴* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *∴)


540:tina ◆OcfLN77Pak
08/02/15 02:41:13
こんばんは。

なんとか、AAだけは間に合いました。オリンピック特需で本業が慌しい創作暦
6年目のスタートです。
引き出しには普段からマイチョコを入れてまして、いらいらの伝染予防に齧って
います。「お茶いかがですか?」 にパソコンに向かったまま「…白湯」 と返した
だけで、桜子さん今日機嫌わるいよ、になるそうで(汗
銘柄は『チャーリーとチョコレート工場 』 でおなじみのウォンカです。ネット通販
で見つけました。

では、返レスなどまた後日☆
今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい

541: ◆YgQRHAJqRA
08/02/17 01:07:11
力作のチョコレートありがとうございます(^-^)
不器用な私にはとても真似できないので、すごいなあと感心するばかりです。


 現解説の方針について
例えば『草枕』でしたような分析を毎回することは端から目的にしておらず、
文体と語りに多少目線を配りつつほぼ近代文学史概説と化してさほどの独自性も
目新しさも打ち出せないその点は、私の力量不足をどうぞ憐れんでいただくより
ほかなく、またこの時代の文学に関して相当の知識を有する方にあっては、
現解説の面白さは期待なさらぬよう、すでにおことわりしているところご理解
願いたく存じます。

ちょっと半端ですけど解説更新します。


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