技術スレ 第二刷改定at BUN
技術スレ 第二刷改定 - 暇つぶし2ch200:名無し物書き@推敲中?
05/11/10 04:20:30
200ゲト―(゚∀゚)

201:名無し物書き@推敲中?
05/11/19 18:42:15
復活乙!
知らない間に消えててしょんぼりしてた。


202: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:35:54
 どうも、お待たせしております。といって私の解説を鶴首(かくしゅ)して待って
おられる方は少ないと思われますが、のこりわずかの年の瀬を数えて、ちょっとヤバイ
なんて言ったり言わなかったり、そんな季節になりました。
 しかしなんです。前スレの誤脱を直すといって直ってないどころか、誤脱が部分的に
増えてるのはいったいどういう節穴の仕業でしょう。
 ええ、もちろん、無駄口というのは進捗かんばしくないところによくわいて出る現象
であることは周知のとおり、三島の解説ぜんぜん書けてません。イエイ

 とりあえず、いじることがないだろう解説の頭のところだけアップしますね。
(てゆか、まともに書いてあるのがそこだけという有様(´・ω・`)

>>201しょんぼりさせてごめんなさい。私もしょんぼりしてました。

203: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:38:10
      『永すぎた春』 第二部 ―物語られる物語―


 つた子をめぐる出来事は、作中最初の山場であった。そのたとえでいえば、
山の向こうは当然谷となるだろう。
 ピ――――…と鳴る試験電波に、私たちは音の楽しさを感じないし、
緊張は弛緩のあとのやってくるのが道理である。
 起承転結といい対立の技法といい、人はなにかと 「盛り上げる」 部分に策を
弄するし注目をするが、実はそれよりも留意すべきことはいかにうまく話を
「盛り下げる」 かである。盛り下げながらしかし、ここで次の山へ向けての準備
を怠ってはならない。(中編以上の)娯楽小説の出来映えは、この盛り下げの按配
にかかっているといってもいい。

204: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:40:07
 百子の兄、東一郎は、大学を卒業しても就職せず、家に引きこもって小説家を
目指している文学青年である。ウソかホントか、文学とは世間から脱臼している
はみだし者の生業(なりわい)であるらしく、それは、ヤクザに刺青といったいか
にもありがちなイメージを想起させる。でも、そこは娯楽性を求める作品の仕様
であるから、大げさにこれを指差して、瑕疵(かし)とあげつらうのもやぼ天で
あろう。それに、どうやら文学を志しているらしいというバイアス(先入観)を
かけられた読み手は、物語終盤の読解において、策士三島の罠にすぽっとはまる
仕掛けになっている。そこらへんのカラクリはまたあとで話そう。

205: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:42:11
 文士と病は相性がよいという御多分に漏れず、東一郎もなにやら盲腸炎なぞ
を患ってみたりして手術入院の沙汰となる。このもやし育ちの殿様がベッドの
上でおとなしくしていればいいのだが、じっとしていると体の節々がこってくる
だの、体のどこかに触ってもらっていないと不安だのと訴えるから困りもの。
さようかと、うっちゃっておくわけにもいかず、家族の手を煩わせるハメに。
百子も徹夜で兄の体をもんだり触れていたりと、身内とはいえあまり気持ちがよい
とはいえぬ看病の日々である。
 「贅沢きわまるわよ。百子をタダでこんなに使って」
 しかし、そう言う百子にも一分の利はあった。つた子との一件で露呈した、郁雄
のもろさ弱さに対する不安や怖れが、さらに不信や軽蔑へと化膿せずに済んだのは、
ひとえに東一郎の看病に打ち込むことの効能、つまり疲労による精神の消耗のおかげ
である。

206: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:46:04
 郁雄も手伝いにやってきた。ここは罪滅ぼしにもいいところを見せねばなら
ない郁雄は、積極的に東一郎の看病を買ってでる。このようにして、二人でひ
とつの物事に取り組むことは、お互いの距離を縮めるのにけっこう役立ったり
する。

 さて抜糸も済み、体力も回復し、もう退院してもいいというのに、東一郎は
なかなか退院しようとしない。病院の陰気くささがそんなに気に入ったのかと
いうとそうではなく、なんと、担当の看護婦(これが美人と決まっている)の
「浅香さんと結婚させなければ退院しない」 と、ふざけたことを言う。
 ところが本人いたって大まじめ、さすが凡俗のちりを厭う文士の風上、男女
のなれそめをしっぽり描くようなまわりくどい大根芝居はしない腹である。
 どうやら東一郎は、郁雄と百子がイチャついているのを見て、自分も献身的に
尽くしてくれるお嫁さんが欲しくなったらしい。それでもって、なんやかやで
浅香さんと東一郎は婚約してしまう。んなアホな(うらやましい)という話だが、
小説では書き方しだいでんなアホな(ねたましい)ことも自然にまかり通ってし
まうのである。
 まあ、この小説は書下ろしではなく連載なので、紙幅のつごうもあって筋の傍流
にかかずらっていられないというのが実のあらましであろう。一見強引な展開も、
人物の性格(造形)によってフォローされる。話の筋と人物の性格は、表裏一体の
関係にあるところを知徳してもらいたい。

207: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:49:42
 東一郎の結婚話に、がぜん乗り気で後押ししたのが宝部夫人だ。木田の夫婦は、
浅香家の素性が卑しまれて当初反対であった。けどそれがなんだろう。この豪腕
マダムにかかれば、白だって黒になるんだから。
 「私、御見舞いに行って浅香さんって人と話もしたけど、実にいい娘さんだと
思ったわ。美人で、気立てがよくて、働らき者で、落ち着いていて、あんな人は
今どき珍しくてよ。それに身分ちがいとは又、木田の御両親も、この民主々義の
時代に何て頭がお古いんでしょう」
 ベタぼめである。だが、この言いようは自らのブルジョア的偏見を一時的に棚上
げにしたもので、彼女は他人の色恋を自分のおせっかいで成就させたいだけなので
ある。そもそも夫人からみれば、たかが古書店の分際である木田家と貧しい浅香家は、
庶民の五十歩百歩でしかない。家柄云々なんてお笑い草よ。その上、この縁談は宝部
家とは直接関係しないところなので、変などぶ泥がこちらに飛び散ってくることも
あるまいという楽観があるのだ。だから、このいかにもさもしい 「民主々義」は、
のちにあっさりと転覆してしまうのである。

208: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:51:16
 なにはともあれ、東一郎と浅香さんは婚約し、宝部夫人は上機嫌で、郁雄と
百子を連れて熱海の別荘へと避暑に向かうのであった。物語は、しあわせそうな
風を受けて順風満帆にすべりだすかと見えるも、季節は夏にしてこの国土、避け
るに避けられぬ凶風の、やがて来たることを予感する。


209: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:53:53
 ではまた来ます。年内に、必ずや、その決意で、いやホントよ。

210: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 18:19:50
 <知徳→知得> また間違えてるし。

211:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 11:49:08
f

212:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 13:44:17
間に変なレス入ったら見にくいので、レスを控えていましたが、
秋頃にこのスレ見つけて全部読みました。続きも楽しみにしてます。

213:名無し物書き@推敲中?
05/12/20 23:01:46
     ____
    /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴∴,(・)(・)∴|
  |∵∵/   ○ \|
  |∵ /  三 | 三 |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |∵ |   __|__  | < うるせー馬鹿!
   \|   \_/ /  \_____
      \____/


214: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:12:57
>>212 ありがとうございます。なにかひとつでも糧になるものがあればと思います。

215: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:17:02
          〔前回からの続き〕

 熱海では、郁雄の誕生パーティーが催された。昔なじみの友達が四、五人女子
同伴でやって来た。その友達の一人が吉沢である。
 吉沢には、夏の若者のハツラツさとか、浮かれた馬鹿さ加減といった稚気はなく、
宝部夫人に言わせると、「あの人はなんだか神秘的」 で 「あなたの友達の中ぢゃ
一番魅力があ」り、「あの人に比べれば、あなた〔郁雄〕なんか、ガラスの箱み
たいなもんだ」
 連れの彼女は三十がらみの美人であるが、どうも吉沢への惚れようが尋常の様子
になく、性格もギスギスしていて、百子はこの女が好かなかった。だが、吉沢は
ちょっと気になった、のだけれど、彼はなぜか百子を避けた態度をとる。

 夜にダンスがはじまって、めいめいパートナーを替えながら踊るのであるが、吉沢
はここでも百子を無視していた。私がもう予約済みだからって興味のないふりをして、
カッコつけて(そりゃたしかに顔はいいけど)、バカにしてるじゃない?
 《『いいわ。いちばん後で申込んできたら、きっぱりことわってあげるから』
― ところがこんな百子の決心を見抜いているように、吉沢は最後から二人目
に百子に申し込んだ。》
 そして、吉沢はダンスをしながら、百子に打ち明ける。
 「僕ね。あの女のおかげで、めちゃくちゃにされてしまいそうなんです。秋
まで命があったら、会いましょう」
 「大げさね」
 「本当ですよ、秋まで生きていたら、あなたに会いたいな。僕、こんな精神
状態で、あなたみたいなイキイキとした人に会うのが辛かったんです。だから僕、
あなたを避けていたんです」

216:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 15:19:28
cdr

217: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:19:36
 百子とつた子が明と暗の対照であったように、郁雄と吉沢も同様のちがいがある。
となれば、物語の力学はまたもや類同する危機を演出するだろう。しかし、単に鏡写
しのエピソードを反復するような構成では、芸がなさすぎる。事は少々入りくむ。
そして残された紙幅はあと四回分、のんびりと話を進行させる余裕はない。

 九月になって、やっぱり吉沢は生きていた。あっさり死ぬような人物に焦点を当て
たりはしないので、ここはお約束どおりである。
 吉沢は偶然を装って百子の前にひょっこりと現れた。百子には吉沢と会う義理など
ないのだが、あの女との関係がどういう顛末になったのか、そのことが気になって
つい話に付き合ってしまう。
 女は、自分を裏切るようなことがあれば、毒を密かに盛って吉沢を殺し、そのあと
自分も毒をあおって死ぬ、と本気の形相。ハンドバッグに毒薬を常備する物騒な女
であった。 「僕はそれまでさほど深入りしていないつもりでいたこの情事に、すっ
かり溺れてしまったんです。いつ殺されるかわからないっていうスリルと、セックス
が一緒になったものって、あなたにはまだおわかりにならないかもしれないけど、
(この一言は百子のプライドをいたく傷つけた)、一寸今まで経験したことのない、
すごく暗くて甘い、魅力のあるものだったんです。それに僕が浮気をしなければ殺さ
れる心配もなくなるわけですから、無理にも浮気をしましたが、又その浮気のスリル
たるや、何ともいえないんです。」
 その女も、九月はじめに父親の仕事でアメリカへ行ってしまった。つごうよくこの
厄介な情事から解放されたので、こうして元気を取り戻して百子に会いに来たという
わけである。そしてこの男は、次のスリルを百子に求めたのである。
 吉沢の下心は見え透いたが、殺すの死ぬのという男女の生々しい話と雰囲気にあて
られて、百子はうっかりまた吉沢と会う約束をしてしまう。

218: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:21:49
 約束の日になってみると、百子は一度踏み外した足をしっかりと元に戻していた。
アバンチュールといえばなにか都会的な耳当たりのよさがあるけれど、現実的な立場
から百子の良心はそれを許さなかった。郁雄のしでかしたまちがいへの意趣返し、
好機到来とほくそ笑むような、心根の腐った女ではなかった。しかし、別に腐った女
が一人いた。
 浅香つたである。東一郎と浅香さんが婚約して以来、彼女はなにかと木田家に出入
りしていた。木田の夫婦がいろいろと世話を焼いていたからだが、百子は直感的につた
を信用していなかった。〝つた〟という名前もいやな連想を(読者に)させる。
 百子は、風邪をひいたから行けないと、ていのいい断りの電話を入れた。吉沢とは
これでおしまい、と思う。いかにもそんな少女らしい目算が通るほど、吉沢は純情で
はなかった。
 店先に吉沢がやって来たのを見て、百子はうろたえた。家には、百子のほかつた
しか居ない。
 「吉沢さんって方の御約束をお断りしにくいので、私病気ということにしてあり
ますの。そう仰言って、断っていただけないかしら」
 百子は仕方なくつたに頼んだ。つたも承知した。


219: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:23:31
 面従腹背。つたは断りを入れるどころか吉沢に、百子が嘘をついていること、
そしてまんざら吉沢に気がないというのでもないこと、あることないこと、しゃ
べくり散らし、あげくのはてには百子を三万円で世話すると言ったときには、
さすがの吉沢もこのやり手ババアに呆れたが、そこで話を打ち止めにするほど
の道徳家でもなかった。ふむ、百子を三万でものにできるなら安い。

 そして十月、いよいよ吉沢とつたの毒手が百子に迫る。つたは百子を食事に
誘う。よもや自分の純潔が三万で取引されているなどとは、いくらつたに心を
ゆるしていない百子とて、想像の埒外である。百子はつたの誘いを断らなかった。
 「― 小綺麗な料理屋なんですのよ。今夜はお嬢さま、仲良く一杯やりま
しょうよ」 と言うところの店には、「割烹御旅館」 という看板がかかっていて、
どことなく連込み宿っぽい色があったが、女二人のこと、百子は気にとめなかった。

220: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:27:43
 ここにいたって読者は、もうテクストから目が離せなくなっているだろう。
娯楽小説とはこう書くんだよ、諸君。やに下がった三島の台詞が聞こえてき
そうだ。
 このあとどうなったかは、読了している方はすでにおわかりだろう。未読の
方は、立って本屋に走るか図書館に駆け込み、本文をご覧あれ。
 『永すぎた春』 は、昭和31年1月号~12月号の 「婦人倶楽部」という雑誌
に発表されたものである。どのような読者を相手にしていたか、察しがつくだ
ろう。性風俗に対して、今日の女性ほど免疫は高くなかったろうから、エロス
したたる描写や不道徳きわまる筋書きといった煽情性は無用である。そんな
制限のなかで小説を書くのは、文学者の名折れであろうか。商業主義への迎合
であろうか。その答え、いましばらく引き伸ばしたい。

221: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:33:49
なかなか本題に入っていきませんね。年内、ヤバいぞ。
でも、たぶん、大丈夫でしょう。また来ますよ(ちょい弱気)


222:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 17:20:17
このスレなんとかしてくれ

レイプ前科あるけど、なんか質問アル?
スレリンク(news4vip板)


223:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 20:09:35
楽しみに読んでいた者です。
時折書き込みもさせていただきました。
「ボバリー」「異邦人」とためになりました。
しかし、今回、何故これなのか、と疑問に思っていましたので、
あえて書き込ませていただきました。

224:名無し物書き@推敲中?
05/12/27 03:22:00

      :: _, ,_
     :(゙( ^ё^)'):  アッ!!
    :ノ⌒', -、'^', 
    :(,,人,_,,ω,_人,,)




     _, ,_
   ( ^ё^) ヤダァ、見ないで!恥ずかしい…
     (つ/ )
      |`(..イ ミ サッ
     しし' ミ





225: ◆YgQRHAJqRA
05/12/28 15:45:38
>>223 なぜ『永すぎた春』なのか。ということですか?
まあ、ほかのもそうですけど、単に私が面白いと思ったものを使って
いるだけですw
 解説の趣旨に対する疑問であれば、今回の一連の解説は、読むことの多様性
を示したいというのが一番にあります。今までは、「どう書くか」 を主眼
にしていたわけですが、「どう読むか」 ということもひとつの技術といって
いいかと思います。この二つは実際別々の次元にあるのではなくて、読める
ことが書けることにもつながっていくでしょう。
 ここ二回の解説は、ちょっと粗筋を追う形になっているので、本文を読みつく
した人にとっては退屈だったかもしれませんね。
 でも単純にストーリーが面白かった、よかったというだけの解説で終わら
せるつもりはないので、よかったら次も読んでやってください。

226: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:42:28
ぎりぎり間に合ったー。ちょっと息あがってます。
ではつづきです。

227: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:44:37
       〔前回からの続き〕

 「浅香つたのやったことは、実際は間の抜けた結果におわったが、意図としたら
可成まじめなもので、彼女は永年にわたる階級的なひがみを爆発させてみたかった
のである。」

 つまりこれは資本階級(ブルジョア)である木田家に対するプロレタリア(つた)
の階級闘争なのだ。と声を大にして言えば、この悪事もなんだかもっともらしく聞
こえてくるのか。否、それは単におのれの醜陋(しゅうろう)さを政治思想に転嫁
しいるにすぎない。つたの悪意を説明するには、いささか説得力に欠ける。三島も
テキトーだ、とあなどるには合点が早い。でもそこは少し横に措いて(なんだかす
でにいろんなものが横に溜まっている気がするが)、話を進めよう。

 つたの、吉沢を使って百子を手込めにする計画は破綻したが、これで危機が去っ
たわけではない。つたは、計画の失敗を取り繕うために宝部家を訪れ、この事件に
関してのデタラメを郁雄に吹き込んだ。この時点で、つたは最初からすべてを破壊
する確信犯というわけではなく、典型的な小悪党の小心さとずるさとがうかがえる。
階級云々なんて思想が、このバアさんの行動原理でないことは明白である。
 つたの話を聞いて、郁雄は打ちひしがれた。この苦悶が郁雄の内部にとどまり、
物語がそこへ反転して落ち込んでいくならば、物語はもっとよどんだ方向へと流れて、
いかにも文学然とした手つきになるかもしれない。
 だが、そこには宝部夫人がいた。困ったときの神頼み。郁雄は当然悲しみの一部
始終を母に吐露する。あわれな息子のために、夫人はこの事態の解決に介入する
こととなるが、これがさらなる危機の引き金となってしまう。

228: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:46:12
 翌日に郁雄は百子と会って、じかに事の真相を聞いた。それはつたの非道を物語る
ものだった。百子とつたの言い分のどちらを信じるかは、問うまでもない。郁雄はこ
のことを母に報告するため、家に戻った。もちろん宝部夫人は百子の潔白を信じて
いて、「そらごらんなさい。そんなことだと思ったわ。」 と、案外とあっさりした
様子。そしてもうじき吉沢がやってくると言う。
 つたの姦計にのって百子を買った張本人が、郁雄の前に現れる。さすがに死線を
越えてきた男だけあって、この気まずい状況にも吉沢は落ち着いていた。むしろ生
き生きしているくらいであった。
 吉沢の話は、百子のそれとたがわなかった。いよいよつたの破廉恥ぶりが動かし
がたいものとなる。
 「僕をなぐってくれ」
 吉沢は友情にもとる行為の罰を求めた。ここは黙ってなぐり倒すのが男のロマン
というものだが、太宰嫌いの三島の頭にふと 『走れメロス』 がよぎったか、郁雄
はなぐらない。
 「いいんだよ。なぐる理由はないんだ。僕は一度も百子を疑っていないんだから」
 「こいつは一本まいったな」


229: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:47:34
 ちぇ、つまんないの。とこっちが盛り下がる一方で、逆に盛り上がっている人間
がいた。宝部夫人である。かねてより贔屓(ひいき)にしていた吉沢もつたに利用
されていたと知ると、いきおい宝部夫人の憤怒はつた一人の上に降りかかることと
なった。
 「つたなんて下劣な、醜悪な、おそろしい、溝泥(どぶどろ)のような女! 世界
中で一番汚い女! ― 私はあんな女と親戚になるのは絶対イヤですよ。金輪際おこ
とわりよ」

 変などぶ泥が思わぬ方向から飛び散ってきて、宝部夫人の逆鱗に触れたのである。
こうなるともう自然現象と同じで、だれにも止められない。事態は最悪の方向に動き
だし、物語は佳境に入る。

 《つまり夫人は、あんなにまで積極的に自分がまとめた浅香さんと東一郎との婚約
を、破棄させようと心に決めたのである。それは忽ち、百子と郁雄との婚約も、浅香
さんと東一郎との婚約が破棄されない限り、夫人の手で断たれてしまうことを意味し
ていた。》

230: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:48:59
 宝部夫人の胸ひとつで、どちらかの結婚が御破算になる。そんなの横暴だ、許さ
れない、と思うのは現代人の理。この 「民主々義」 の時代に、そんな封建的なや
り方が通ってはたまらない。しかし思い出してほしい。夫人は親の言いつけを守っ
て、好きでもない男のところへ嫁いできたことを。東一郎が浅香さんを諦めるのは、
夫人にとってなんら不思議のない道理なのである。個人の幸福よりも家の沽券が
優先される。

 東一郎は激怒した。この暴君に真向から反抗した。しかし宝部夫人も一歩も譲ら
ない。
 「とにかくあなたの仰言ることはよくわかりましたよ。ブウルジョア的偏見、ブ
ウルジョア的けちくさい護身術のために、人を踏みにじることなんか何とも思わな
い……」
 「おや、あなたが共産党だったとは初耳ですわ」

 これは宝部夫人との口論に登場するセリフである。もうひとつ、百子に語る東一
郎のセリフ。

 「― 今さらその破談を強制して来て、それを条件にお前の結婚を邪魔するよう
な、あんなブウルジョアの我儘婆アなんか勝手にしろ。」

231: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:50:48
 よく考えると、東一郎がブルジョアを批判するのはおかしい。宝部家はたしかに
ブルジョアと呼ぶにふさわしいが、木田家とて無為徒食の息子を養ってなお結婚さ
せてやるだけの財力がある。その富の上に、当の東一郎もあぐらをかいているので
はなかったか。
 つたの階級的ひがみといい、こうしたイデオロギッシュな言辞は、物語自身の圧力
から出てきたものではないといえる。それは、三島の政治姿勢と当時の政治状況の
背景から投入されたのである。
 非時間的な物語の読みから、私は再びこの小説をテクストの外部へと開こう。歴史
のなかへ。

 1950年代、アメリカは 「共産中国」 への恐怖と警戒心で凝り固まっていた。まる
で致死性の未知なるウィルスにおびえるのに似ていた。赤いものに触れると共産主義
に感染するといったら笑われるだろうが、そんな迷信も通用しそうなくらいの過剰反
応である。GHQは日本政府政府に命じて中国との貿易を一部禁止にし、戦略物資の対中
禁輸措置をとった。
 この時代に吹き荒れた 「レッドパージ(赤狩り)」 はすさまじく、民主主義とは
なかば反共産主義の代名詞であって、反共のためなら自由や権利の拡大といった理念
は平気で反古にされた。日本もそうした風潮の例外ではなく、共産的思想の持ち主と
された人々が次々と職場を追放され、公民あわせてその数は一万三千人を上まわると
される。
 そして1955年、つまりこの小説の舞台背景となっている時代に、保守合同による
自由民主党が成立し、今日につづく五十五年体制が発足する。これによって、反共の
防壁としての日本の政治体制はゆるぎないものとなった。


232: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:53:45
 いまでは共産主義などと言うと中国人ですら笑う時代になったが、当時は、いつ
革命が起こるかということに本気でおびえていたのだろう。それが、この半世紀の
没落・妥協ぶり、笑えるといえば笑える。そして、『資本論』をろくに 「読めない」
懶惰(らんだ)な共産主義者どものおかげで、一般にマルクスまで白い眼で見ら
れがちなその憤懣(ふんまん)を、例えば柄谷行人に語らせてみれば一冊の本にな
るだろう。
 三島がマルクスをどう捉えていたかはとりあえず、共産主義を毛嫌いしていたこと
はつとに有名で明らかである。
 例えば、百子のファッションに対して郁雄が次のように独白するとき、
 『どうしてこんな芝居じみたことをするんだろう。赤いベレエなんか、ちっとも
似合わないのに』
 実はこのベレエが似合わないのではなく、まさしく 「赤い」 とわざわざ書き
込まれるその色ゆえに、ブルジョアの百子に似合わないという意味になろう。
つまり、学問的な思索とはほとんど無縁であるはずの浅香つたが、なぜ階級的な
ひがみを持つ必要があるのか。自らもブルジョアに位置する東一郎が、なぜブル
ジョアを批判し、宝部夫人から 「共産党」 のレッテルを貼られ 「向こう側」
につくならこちらから手を切ると宣言され疎外されるのか。その答えがみえて
くる。
 まさにそれは、三島のイデオロギーの表出であり、時代の(歴史の)圧力に
よるものなのだ。しかもそれは明確な反共としてではなく、ほとんど自然にテ
クストに織り込まれているため、読者は知らずのうちにこうした反共的イデオ
ロギーに巻き込まれていくのである。
 すくなくともこれは、ただ軽いだけの娯楽小説の筆つきで成されるものでは
ない。文学的筆力というものが、単に面白く書くことや巧みな比喩を創出する
能力にあるのではないということに、あらためて感服するのであった。

 気分よくここで終わりたいところだが、もうちょっとつづけよう。

233: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:56:06
 二者択一の困った問題に、郁雄と百子もなんとかいい解決法はないかと、宮内に
相談してみるも、なかなか現実的なアイデアは出てこなかった。それでも、二人は
いま自分たちの幸福を噛みしめるくらいの余裕があった。デカイ山を二つも越えて、
今度もなんとかなるという妙な楽観思考が身についたのだろうか。
 のっぴきならない境遇に神経をすり減らしていたのは、やはり東一郎である。
浅香さんはあの事件以来、木田家に顔を出さなくなっていた。東一郎は、浅香さん
の家に行くことにした。しかし独りで行くのは心細く、百子に一緒に行ってくれる
よう泣きついた。
 いかにも貧しいたたずまいのアパート。

 「まあ、いらっしゃいまし、ようこそ」
 つたは悪びれる様子もなく、さらぬていで二人を迎えた。百子は、すっかりひな
びた老女に、たいした恨みを感じなかった。口が達者なところは相変わらずで、く
だらぬ世辞を並べたりしてしゃべくるのだったが、浅香さんは突然耐えかねたかの
ように、
 「母さん、もうやめて! 黙ってて頂戴。みんな私からお話するから」
 
 浅香さんは、もうすべてを承知していた。そして、努めて他人行儀に、東一郎と
はもう会わないとむげに答えた。食い下がる東一郎に、しまいにはつたと一緒になっ
て悪たれ口をきく。
 浅香さんの愛情を信じていた東一郎は、この仕打ちに狼狽した。

 「それじゃ、君は僕を全然愛していなかったんだな」
 「さあ、全然ってこともないでしょう。でももうおしまいなのよ。帰って頂戴
ね。おねがいだから」

234: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:58:24
 そこで持ち前の癇性に火がつき、東一郎は席を蹴った。このやり取りを横で眺めて
いた百子だけが、浅香さんの悲しみに沈むうつろな目を見ていた。例によってこの
最後のセリフに、すべてが表現されている。
 ある意味をはっきり言うことがはばかれると思うとき、人はよく否定表現や婉曲表
現のレトリックを使う。
 例えば 「まずい」 と鋭く言うかわりに 「おいしくない」 とやんわり言い、さらに
思いやりをこめて 「まずくはない」 と遠慮がちに言う。
 宝部夫人の性格は彼女もよくわかっているのだろう。目の前の百子を見て、「おね
がいだから」 あなたも妹のしあわせのために諦めて。浅香さんは、自分が憐憫をみ
せれば、東一郎が決断できないことをわかっているのである。
 「全然ってこともないでしょう」
 これが浅香さんの、東一郎に対する辛苦に満ちた最後のやさしさ、愛情なのだった。

235: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:01:12
 「バカにしてる! アバズレ女め!」
 鈍感な東一郎は、浅香さんの真意を読みきれず、事態は一気に解決へと向かう。その
足ですぐさま宝部家にのりこむと、浅香さんとの婚約解消を夫人に宣言した。

 百子は、東一郎の鈍さにつけ込んで自分の幸福を選んだことに気が引けていた。浅香
さんの真意を知れば、東一郎は心変わりするだろう。郁雄はその話を聞いて、それはそ
れでいいじゃないか、またぞろ話をややこしくする必要はないよ。(もうあと2ページ
しかないんだから) そして、T大生らしい見識の深さを披露してみせた。
 「僕は思うんだけど、兄さんは知っていたんじゃないだろうか? 浅香さんを訪ねれ
ば、浅香さんがいつわりの愛想づかしを云うことを。そしてその場に君がいれば、兄さ
んは心おきなく怒って諦めて、次の行動に移れることを」

 つまり、東一郎はみんなわかった上で、この決着劇を演じてみせた、と読者にもうひ
とつの読み方を提示して終わる。むろん、それを確証させるような証拠はないから、読者
はこのどっちつかずの結果に引きずられていろいろな思いをよぎらせることになる。
東一郎と浅香さんの物語は、終わりのない想像へと流れてゆく。
 なぜか。黙説の技術>>70 がここで炸裂し、読者を物語の空白に引き寄せているからで
ある。それも東一郎という人物を構成しているその性格や文学というパーツが組み込まれ
てあるからこそ、例えば文学を書こうという者が人間観察においてそんな鈍感であるは
ずがないとか、いや、いきなり浅香さんと結婚させろなどとド直球を投げる東一郎がこ
んなできた芝居をするはずがないとか、まさに物語を物語る言説を方々から導くことに
なろう。なるほど、よくできたカラクリである。

 だが、もう少しむごい分析をしてみよう。最近世間を震撼させている偽装建築ではな
いが、もし、三島がこの小説をもとから解体させるような仕掛けを仕組んでいたとしたら?

236: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:03:38
 それはAprilにあらわれる。

 《すでに四月、あたりには蝶が飛び、桜の花時が来て、新しいランドセルの革の
匂いをさせ、その尾錠のきらめきをはねまわらせて、私たちの横を小学校の新入生
が ― あの三月の確執の成行きを、私たちはもう少し辿ってみなければならない。》

 《……こうして私たちは、のどかな四月の光りの中にいるわけである。》

 しかしいったいどうして、この小説のなかに 「私たち」 がいるのだろう。この小説
は三人称視点である。よくよく考えると、これはあまりのどかな景色ではない。
 小説とは、嘘をまことしやかに語って読者に信じ込ませるひとつの幻想である。どん
なにうまく書いても、読者の協力なくしては、小説はうつろな言葉の羅列でしかない。
このくらいの文体のほころびは、寛宥(かんゆう)に読み流すのがよい読者。

 《さて四月のある日の、銀座でひらかれていた個展にまつわる話のつづきである。》

 話? つづき? あんただれ?

 《ここで作者ははじめて打明けるのだが、郁雄は童貞ではなかった。》
 《折も折、作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない兄が、盲腸炎で
入院するというさわぎが起こった。》

 作者様でした。やっちゃった。いや、郁雄のことじゃなくて。
 どこかの社長なら、見逃せと言うかもしれないが、私は見逃さない。今までさり
げなく示していた虚構性というものを、ここでついに、おおっぴらに、表立って登場
して 「打明ける」 のである。
 俺が作者だ!

237: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:06:09
 これはまさしく、物語を物語る、どこからが本当の物語なのかを決定しえない、
メタフィクションの手口に通じる。要するに、ご婦人方やお嬢さん方が心ときめ
かしたこの恋愛譚、結局はすべてお芝居だったのさ。というなんともいぢわるな
解釈上のぶち壊しを三島は施していた。現にこの小説は、「芝居」 という言葉が
何度も出てくるのである。
 いやらしいのは、語り手はこれ以降ではしれっと三人称のポーズをとりつづけ
てボロを出さない。お話のうわずみのおいしいところだけを楽しみたいと思って
いる読者の期待は裏切らない。だが、この文体につまづく論理的な基盤を持つ者
には、この小説は娯楽性を破壊して 「文学」 たることを突きつけるのである。

 この二重のカラクリを読み解いたとき、なんて作家だと、私は驚き、三島由紀夫
の前に、「天才」 という、だいぶ濫用されてすり減ってしまった言葉を、あえて
使うのも悪くないと思うのだった。

 ちなみに
 「ときどき、天才だとかなんとか言われますが、小説なんて、才能じゃない、努力
なんですよ。ぼくも血みどろの努力をして小説を書いているんです」
 とは、天才三島由紀夫の告白である。


238: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:09:36
これで 『永すぎた春』 の解説は完了です。
次回はいよいよ最後の解説となります。また近いうちに会いましょう。

では、よいお年を

239: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:50:51
 ちょっと思い当たったことを別枠で書きたいと思います。

 「私たち」 という一人称複数形の語りは、小説ではあまり使われることのない形式
ですが、かの 『ボヴァリー夫人』 はこの 「私たち」 から始まるのでした。
 「語り手=作者=私」 という図式が成り立っていた19世紀の小説では、物語の冒頭
にこの三位一体のナレーションが入るのは珍しくありません。その後に三人称の手筋
で書くことになっても、それは一時的な非一人称としての語りであって、確固とした
形式がそこで守られる保証のない書き方といえます。
 読んでもらえればわかると思いますが、『ボヴァリー夫人』 の「私たち」 は、物語
から超越した存在ではありません。シャルルが入学してくる学校の、一生徒の視点から
それは始まります。物語の内側にいる 「私たち」 によって、主人公シャルル・ボヴァリー
の登場が語られるわけです。教室での一連のシーンが終わると、この 「私たち」 も
消去されて三人称の語りへとスイッチしてゆきます。フローベールのことですから、なん
らかの意図があってのことでしょう。(ここから先は、たぶんフランス語の文体論が
必要になると思われます)

 先の解説では、「私たち」 という語が作者と結びつく古典的な原理を逆手にとって、
小説の虚構性を前景化する手法をみました。たとえるなら、カメラマンをわざと鏡の
前に立たせるようなやり方です。




240: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:51:54
 この一人称複数形にはもうひとつ別の顔があります。エッセイなどの、書かれた
ものと作者の同一性が前提されている読物では―分析哲学の上からはこのことも
否定されるのですが、それはともかくとして―しばしばレトリカルな使い方をさ
れます。例えば、「人間」 とか 「人類」 といった語を用いるといかにも大仰で、
かえって文意の信憑性を損ねるという場合、つまりはそういう言語感覚が働いたと
き、「全体」 としての抽象性を保ちながら印象としてはさほどでしゃばらない感の
ある 「私たち」 や 「われわれ」 といった一人称複数形を持ちだします。また、
〝たち〟という類には、それをいま読んでいる読者自身も含まれるニュアンスを与
えます。例えばどこかの立派な学者が、「私たちの抱えている問題について云々」
と表記するとき、読者はなんとなくこの立派な学者と同じ問題を共有しているかの
ような感じになり、自分も立派にその言説に参加しているような気になるでしょう。
ひいてはそれが、どのテクストへの肯定感を呼ぶことにもなりましょう。もちろん、
最初から否定的な構えで読む読者には、そうした効果は期待できませんが。

 使い勝手がいいのでつい多用してしまいがちになるのですが、決まりきったかのよ
うに使う、読む(聞く)ことには注意が必要です。ラディカルに 「われわれ日本人
はァ」 などと弁をぶつとき、はたしてそこに子供や女性、老人、障害者などの社会的
弱者までが含まれているのか、在日朝鮮人やアイヌ民族といったマイノリティーを射程
に入れているのか、安易に同調する前に一歩立ち止まってみなければなりません。
暗黙の差別が、「われわれ」 にはいつもつきまとうのです。

241: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:53:52
 さて、『永すぎた春』 の解説は特定の技術について考察するものではありません
でした。ひとつの小説を材料に、どこまで 「読み」 を広げられるかという試みで
した。
 そんなの小説を書くことと関係ないや、と思う方もいるかもしれません。まったく
他人の本を読まずに小説を書くということも、やってやれないことではないかもしれ
ません。 でも、自分の文章を読まずに書くということはできませんね。批評性を持
たねば、自分はいったいなにを書いているんだろうという珍事を招きます。
 私たちは書きながら、同時に読み解くわけです。 だれしも自分の文章には甘く寛大
になるものです。大事なのは、自分の文章にあ然とする感覚、文体に対する感度です。
フローベールなら、「文章はだめ。まったくだめだ。とにかく 『ボヴァリー』 がさ
しあたり発表できないのは残念だ。どうしたものだろう」 と友人に愚痴をこぼすで
しょう。
 「自分を描いてはならない」 「人目についてはならない」 「いまこそ厳密な方法
により、芸術に物理学の正確さを与えるべき」 だと彼は考え、それを 『ボヴァリー
夫人』 において実行したわけですが、もともと叙情趣味の強い 「わたしにとって一番
むずかしい問題は、それでもやはり文体であり、形式であり、イデアそれ自体に由来し、
プラトンのいうように、真なるものの輝きである、定義しがたい美ということになるの
です」
 情の流れるまま、思いつくままに筆を走らせる自然主義的筆法から決別することで、
フローベールは近代小説の文体の一生面を切り開いたのでした。

242: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:54:58
 話を戻して、読みの多様性が必要と説いてみても、それだけでは具体的な実践性に
欠けます。ガンバレ、と言っているのと同じようなものですね。
 じゃあ、その多様な読み方ってやつをここでドドーンと紹介・解説してくれるのかな、
なんて期待してはいけません(笑) 私も物好きでこうやっていろいろなことを書いて
きましたが、そこまではできません。
 なので、文芸批評をするのに押さえておくとなにかと役に立つ知識、学問等を、テク
ストへのアプローチ別に、三つのカテゴリーに分けて紹介するにとどめたいと思います。
あとはみなさんの努力に任せます。

243: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:56:16
 
 作品と個人 ― 形而上的アプローチ
  (経験・印象・恣意性) 現象学 実存主義 作家論(伝記含む)
  心理学 倫理学


 作品と言語 ― 共時的アプローチ
  言語学  形式・(ポスト)構造主義  脱構築論
  記号・テクスト論


 作品と歴史・文家 ― 通時的アプローチ
  ジェンダー  サブカルチャー  神話 宗教 イデオロギー
  マルクス主義 (ポスト)モダニズム  (ポスト)コロニアリズム


244: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 22:01:33
 もちろん、ここに挙げたもの以外にも、それこそ学問なんて腐るほどあるわけで、
考えようによったら生物学や量子論なんてものも批評手段に使えるでしょう。けど
そんなこと言いだすとキリがないですからね。
 この三つの分類も絶対というものではありません。例えば社会言語学なんかは、
文化的な要素なしには語れないでしょう。まあ、わかりやすくカテゴライズすると
こんな感じになりますよ、ということです。

 「作品と個人」 の、経験と印象と恣意性がマル括弧でくくってあります。これが
学校作文の範囲、嫌な言い方をするとガキの作文ってやつですか。みんなここ
から始まるんですから、バカにしちゃいけないんですけどね。
 でも、読みの多様性や批評の強度というものを上げるには、この括弧を開かなけれ
ばならないのです。それは、理屈っぽい主知主義になれというのではありません。
印象や経験だけに閉じこもっている感性を、悟性へと開きつなげていくことなのです。


 次回大喜利に出でますは、ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の代表的作家、
クロード・シモンであります。読むということを考えずに読むことのできない
小説について、語りましょう。


245: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:03:16

 ある文学がそこで手をつけられるまさにその瞬間に、すでに変性は
 始まっているのだ。終わりが始まる。
 終わりが始まる、これは引用である。たぶん引用だろう。
                    ― ジャック・デリダ


246: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:06:37

   『フランドルへの道』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳


 そして彼の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするように
しゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者の
いうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの
手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で
手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、
といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者す
なわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業
を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階
を通過し、イギリス国民のように外交販売員の株式会社的なものに変容する
前に、それぞれ一度はヨーロッパを兵火と流血のちまたと化しており、いず
れにしろ戦争も商業もどちらも人間の貪婪(どんらん)さの表現にすぎず、
その貪婪さ自体先祖伝来の飢えと死との恐怖から導きだされた結果で、そう
考えてみれば殺人盗み略奪も売買もじっさいはおなじただひとつのもの、た
だの単純な欲求自分の安全を保ちたいという欲求にすぎず、ちょうど腕白小僧
たちが夜森のなかをとおり、自分を勇気づけるために口笛を吹いたり大声で
歌をうたったりするのとおなじで、なぜ合唱が兵器の操作や射撃練習とおな
じ資格で軍隊の教育課程の一部をなしているかもそれで説明がつき、それと
いうのも沈黙ほど手に負えないものはないからだが、とそこまでいい、その
ときジョルジュがかっとなって 「わかってるよ、そんなこと!」 というと、
彼の父は相変わらず見るともなしに薄明のなかにかすかにわななくはこやな
ぎの木立を眺め、たなびく夕靄(ゆうもや)はゆっくりと谷底に沈んでいっ
てポプラの木々をひたし、丘々がますます影を濃くし、「どうしたのかね?」
というので、彼 「どうもしませんよぼくはとにかくむやみやたらに意味も
ない言葉ばかり並べ立てる気持ちはありませんねそもそもお父さんだってそん
なことには飽きあきしないんですか」、すると彼の父 「どんなことにかね?」、
そこで彼 「駄弁にですよいくらまくしたてて……」、といいかけ口をつぐみ、

247: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:09:30
明日出発するのだということを思いだして自分をおさえ、彼の父はいまはだまっ
て彼を見つめ、それから見つめるのもやめ(トラクターはいまや終点にたどり
つき、騒音をたててあずまやのうしろを通過していて、作男は高い位置にあ
る運転席に坐り、そのシャツのぼんやり明るい色だけが木陰の濃い闇のなか
にわずかにほの見え、まぼろしのように宙にふわりと浮いたまますべりすぎ、
遠ざかり、穀物倉の角にかくれて見えなくなり、そのあとすぐにモーターの
音がやみ、すると沈黙が寄せかえしてきて)、彼にははや老人の顔も見分け
がつかなくなり、輪郭のおぼろな顔面だけが、肘掛け椅子にぐったりした巨大
なぼんやりした肉塊の上に宙づりになっていて、こころのなかで 「しかしお
父さんも悲しんでいてそれをかくそうとしやはり自分の気持ちを引き立てよ
うとしているんだなだからこそこんなにしゃべりまくるんだなにしろ彼が頼
りにできるのはそれだけつまり他人が彼のかわりに学んでくれた知識つまり
本に書いてあることは絶対にりっぱなことだというあの鈍重で執拗で迷信的
な軽信―というかむしろ信仰―だけだからなお父さんのお父さんはただ
の百姓だったからそんなむずかしい言葉は読んでもわからずそれでそんな言
葉に一種の神秘的な魔術的なちからを仮定し想像していたっけ……」 彼の父
の声はあの憂愁、あの手のほどこしようのない破れかぶれのしつっこさ、自
分の言っていること自体の効用とか真実性とかまではいわないが、すくなく
ともその効用を信じるというそのことの効用だけでもなんとか自分自身に信
じこませようとするしつっこさをみせて、依然としてまったく自分ひとりの
ために― 子供が闇につつまれた森を横ぎるとき口笛をふくようにと彼自身
もいったが―執拗にしゃべりつづけ、それがいまも彼の耳にまで聞こえつ
づけるのではあったが、そこはもはや八月のどろりとよどんだ暑さにひたる
あずまやの薄暗がり、なにかが決定的に腐敗つくして、すでに悪臭をはなち、
うじむしでいっぱいの死体のようにふくれあがりやがてくずれだし、あとに
まったく意味もない残滓(ざんし)、もうとっくになにひとつ判読すること

248: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:11:48
もできなくなっている新聞紙の山(目じるしになる文字や記号さえ、センセー
ショナルな大見出しの文字さえ判読できず、灰色の紙面にいくらか灰色が濃
いだけのおぼろな汚点(しみ)、影となって見えるだけで)そんなものしか
存続させない腐臭ただよう夏の薄暗がりではなく、(その声、それらの声は)
いまは冷たい暗闇、目に見えないながらもまるではるかの昔から行軍をつづ
けるかのような馬たちの、長い行列が延々とつづいている暗闇に立ちのぼり、
あたかもそれは彼の父が決して話しやめるということをせず、ジョルジュが
その間に通りがかりの馬の一頭をつかまえ、まるでただ椅子から立ち上った
だけとでもいうふうにその馬にとび乗り、有史以前の大昔から歩みつづける
そのまぼろしのひとつにまたがって、老人がからの肘掛け椅子に向かってな
おもしゃべりつづける間に遠ざかり、姿を消してゆくかのようで、老人の孤独
な声だけがそれでもなお執拗に、なんの役にもたたないうつろな言葉を発し
つづけ、秋の夜をいっぱいにみたすなにかありのひしめきのようなもの、荘
重で冷ややかな足音のうちにすべてをひたし沈めてゆくありのひしめきのよ
うなものと、押しつ押されつしながらいつまでも

249: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:13:58
 
 つづく言葉の散弾、あるいは瓦礫、というか吐気。
 だれよりも熟読しているはずの訳者も、こと解説に臨んで語りぐさにできる
人物、情のもつれはなく、むしろ一番もつれているのは、テクストのほうであった。

250: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:16:42
 つまり
 「年代記的順序にしたがって巧みに展開された筋、終始一貫統一がとれ輪郭
のはっきりした作中人物、人間の心理も因果関係も社会のメカニズムもすべて
見とおす力をもった神の視点からなされる分析や描写、そういった約束ごとか
ら成り立ついわゆる 《伝統小説》 に慣らされた読者が本書を読んで感じるもの
は、まずおどろきであり、当惑であろう。」
 それは
 「《いくらかあきれはてた、しかしいくらか感嘆と非難とが同時にこもった一種
の茫然とした感じ》 ならまだしもで、《茫然自失というか、絶望というか、落ち
つきはらった嫌悪》 であるかもしれない。」
 だから
 「《小説とはこういうものだ》 という固定観念をもって筋だけを走り読みし、
なるほど、人間とはこういうものか、世界とはこういうものか、という図式的
理解を得て自己満足にひたる読者のために書かれたものではなく、現実の不可
解で不条理な生にたいするとおなじように、安易な期待を満足させてくれない
からといって目をつぶらず、虚心に一字一句をたどってこの小宇宙の構造と意味
をさぐろうとする読者しか相手にしていない」
 わけで、シモンいわく
 「記憶のなかではすべてが同一平面に位置し、会話も、感情も、まぼろしも
同時的に共存します。ぼくが意図したのはそうした物事の見方に適合し、現実
には重層化しているそうした諸要素を逐次的に提出できるような構造をつくり
あげること、それによって純粋に感覚的な建築構造を再現することだったんで
す。》」
 そう
 「つまり虚無の深淵を 《描く》 のではなく、言語そのものが虚無の深淵の
構造をもっている。」

251: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:18:08
 なるほど、シモンの小説とはそういうものか。と、おおむね大体、頭と尻尾
の位置くらいはわかったような気になろう。解説とはそういうものだ。
 宇宙のはてから河原の石ころまで、人の理解の矛先はどこにでも向けられる。
いくらかあきれはれるくらいに。

252: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:21:28
 日頃、私たちがなにげなく 「小説」 と呼んでいるその体裁の輪郭を破り、
型枠の外へドロリと流れでる文=体。ゆえに、シモンの小説は大衆をよろこば
せる媚態を一切放棄している。俗耳に入りやすい感動話をふりまいて賛辞を頂
こうなどとは、これっぽちも考えていない。
 「去年のわたしの印税は、全部でも五十万円〔邦貨に換算して〕ぐらいだっ
たよ」(1995年当時)とは、ヌーヴォー・ロマンの旗手にしてノーベル文学賞
受賞者(シモン)の弁である。

 『路面電車』(クロード・シモン)のあとがきで、訳者の平岡篤頼はこう気炎
をあげる。

 「ヌーヴォー・ロマンがあまりにも技巧を弄し、小説を窮屈で息苦しいもにし
てしまった結果、小説の息の根をとめたとするたぐいの批判がしばしば行われる
が、むしろ 《早く読める》 わかりやすいタイプの小説だけを 《小説》 と呼び
たいならば、ヌーヴォー・ロマンは小説と呼ばれなくても差し支えないのでる。」

 たしかに、自分にとっては格別の価値を持つ物でも、他人にはそれがゴミや
ガラクタにしか見えないということがある。そういう他人のものさしをへし折っ
て粉砕してやりたい気持ちになることも少なくない。
 さもありなん、そうした 「容易で手っとりばやい」 野蛮なやり方がネット上
でも(あるいはだからこそ)好まれているようにみえる。その不毛さと蒙昧さは
千古より人間の宿痾(しゅくあ)としてはびこっているのだけれども、最近になっ
てなんとか知恵をつけてきた人間は、それに替わるもっとスマートなやり方として、
交換という手段を用いる。よりよい物差しをショーケースに並べて見せることが
できれば、相手のものさしをわざわざへし折る(しかもそれは大抵うまくゆかない)
ようなことをしなくても済むだろう。外在する物と同じように、内在する価値観
(ものさし)も交換することができる。

253: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:26:24
 柄谷行人は言う。
 《古典派経済学者〔アダム・スミス〕にとっては、一つ一つの商品はすべて
使用価値と交換価値を持っている。が、それは現に交換されねば存在しないの
だ。この使用価値と交換価値の 「綜合」 は、キルケゴールがいう、「有限と
無限の綜合」 に類似するものである。たとえば、売れなかった商品とは、他者
との関係に背を向け 「絶望的に自己自身であろうとする」(『死にいたる病』)
もののことである。》

 マルクスが唱えるように、「その人間労働が他人にとって有用であるかどう
か、それゆえその生産物が他人の欲望をみたすかどうかを証明してくれること
ができるのは、商品の交換だけである」
 その表現(プロの作家にとってそれは商品である)が、交換性を有して、そし
て現に交換されて他者に知覚(所有)されなければ、言葉は言葉としての機能を
十分にはたすことがない。その意味で、私たちはすでに引用され与えられている
ものの、他者の言葉しか持たないというのは正しい。

 されば、市井の垢とかすにまみれた銅貨に似て、すっかりその輝きを失った
表現というものもある。その交換性の増大は、文芸において陳腐であり、月並み
であり、ステレオタイプであり、価値の下落を意味する。ここに奇妙な逆転、
いうなれば価値の弁証法があらわれる。飛躍が、そこに求められる。

 すでに競争は始まっているのだ。

254: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:29:11
 自分の言葉で書け、とはよく説かれる作文の要諦である。言い換えれば、他人
の言葉で書くな、ということである。
 自分の言葉とはなにか。それはもはやひとつの思想であり、柄谷は文学の倫理
という。>>102 〔補足:最大多数の理解(利益)を求めることがはたして最大善
となるのかという問題―倫理〕

 しかし、どこまでも自分自身であろうとする在り方を求めると、結果的に
はどれも似通った姿となる。人知を拒み、人の理解を超えるもの、何者の容喙
(ようかい)も許さず、脱商品化されることの逆説的な価値観を絶対視する
こと。そこにあるのは、絶望(孤独)であり、他者(外界)の否定であった。
いわゆる芸術家や原理主義者、民族主義者などがよくおちいる陥穽(かんせい)
といえる。文学的には、例えば 『午後の曳航』(三島由紀夫)の少年たちや
エヴァンゲリオンの世界観となってそれはあらわれよう。

 使われない細胞(言葉)が、まさに死(語)にいたるように、言葉は、人と
人との間を流通する状態において、その価値を作り出す。そのなかで、詩的言語
の営みは常套化したパターン(技巧)を鋭く嗅ぎわけるだろう。大事なのは、
そのパターンを拒絶するのではなく、多様な幅を持つずれ(差異)をそこにも
たらすことである。無限にずれ行く変化。それは、バルトのいう 「テクストの
快楽」 やデリダの 「差延」 と呼ぶところにもまた接続するだろう。

255: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:31:13
 いかな本好きといえども、シモンのテクストには難儀するにちがいない。三
ページ目には挫折を感じ、不覚にものび太の境涯をここに悟ってしまう。まち
がっても読書感想文にこれを選ばない。
 「よくわからなかった。」 と一行に書き捨てるほかないからだ。
 交換不可。見なかったことにしよう、と無視を決めこむ。それが一番安全な
処世術である。
 もしインテリがそんなていたらくであれば、文学―芸術はすぐに自己満足と
内輪うけのたこ壺に安住してしまう。そのたこ壺に揺さぶりをかけることが、
メタ言語たる批評の役目であろう。もちろんそれは、根拠もなく悪口雑言を
並べ立てることや、ろくろく味わいもせずに 「うまいうまい」 とわめく味覚
のたぐいをいうのではない。

256: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:33:02
 ひところ福田和也が流行らせた点数批評も、彼の師である江藤淳の言を借り
れば、「文壇というか文芸ジャーナリズムというのは、ひどいことになってい
るなと思う。もう骨までしゃぶって、賞を出したり褒めそやして、何も自分じゃ
頭を働かせないで、―スカスカにな」った書き手と読み手ばかりなら、あえ
て視覚的、直観的にわかりやすい点数でもって、掛け値なしに小説の価値(ね
うち)を決めつけたってOKだろ? という福田流のあてつけ(皮肉、その他
もろもろ)であった、が、なにやら点数をつけるというその 「お手軽」 なと
ころだけを取り入れて、いっぱしの批評を気取る二番煎じ、またそれをヘヘーと
拝受するような神経は、やはりいただけない。そんなところに、なにかを構築
するような力はない。
 余人が語りがたいその暗闇を語る術をもつことが、文学(批評)の〝感性〟で
あろう。

 《望ましいのは、「感じる」 ことと 「考える」 ことを分離してしまうので
はなく、「考える」 ことを 「感じる」 ことに基礎づけるか、あるいは 「感
じる」 ことを言語化(思想化)することである。》
 と柄谷行人は言う。


257: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:35:05
 はっきり言って、シモンの小説は面白くない。面白かったら、つまらないの
だ。その倒錯した文体によっていやでも気づかされるのは、私たちがいかに
「小説」 というものの形、コード、典型的な構造性を意識せずに空気のよう
に呼吸しているか、ということである。
 シモンの小説が息苦しいのは、いつものように電車で運ばれていくような、
楽な読書行為を読者に許さないためだ。どこへゆくとも知れぬ路面電車のあと
を追いかけて、さあ走れ、と尻をひっぱたく。
 読書は運動だ!

258: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:37:00
    『路面電車』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳


 そしてふたたびそれが起こったが、べつに出しぬけというわけではなくて
言うなればじわりと寄せてきたのであり、つまりわたしがそれを意識したとき
にはすでにそれは始まっていて、わたしがそこへきて二度目か三度目だがまる
でとぐろの輪を巻いた蛇とでもいったものが徐々に腕を締めつけてきて、その
作動はなにかの自動記録装置、ちょうどある種の精密機器の展示ケースに見ら
れるようなゆっくりと回転する円筒上に記録された気圧や気温の曲線みたいな
ものに従っているらしいと了解し、漠然とながら(といってもべつに痛みはな
く)病院のなかで誰かが一時間ごとにそれを監視する役をつとめ、いつでも駆
けつけようと身構えているのだろうか、それとも朝の回診の前にそれを一瞥する
だけなのだろうかと自問するのだったが、しかしわたしはべつに痛みもなく、
顎までシーツを引っぱりあげて仰向けに寝ていて横向きでなければ眠れないわ
たしは寝つけず、だから眠れなかったのだと了解しといっても

259: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:38:18

 やっぱりなんのことやらすんなり呑み込めない。とりあえず要約すると―
病院のベッドの上で寝ていると、血圧やら心拍やらを自動で計るような装置が
また作動して、蛇みたいに巻きついているバンドが腕を締めつけてきた。その
装置に関して、とりとめもないことを私は考える。仰向けに寝かせられている
せいで、どうもよく眠れない。

 こう書けば多少とも意味は通りやすくなるが、わずらわしくもこうして文章
を平明に整え直して読むほどヒマじゃないと、たいていの読書子は思うにちが
いなく、仮にそうしたところで、この小説の面白さが倍加するわけでもない。
まず必要なのは、根性と気合と忍耐力であり、趣味が読書という堂々たる文系
の人間にはおよそ似つかわしくない汗臭さである。だから、従来の小説の楽し
さを味わおうとする構え方からして心得違いであり、そのためにがっかり(と
いうかげっそり)するのはもっともなことである。

260: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:45:06
 言うまでもなく、シモンの小説を特徴づけている常軌を逸する息の長いセン
テンスは、ジョイスの 「意識の流れ」 と地下茎でつながっている。言葉の意味
とイメージは生成するそばから次の言葉によって塗り替えられ、ゆさぶられ、
分裂し、ちぢこまり、押し流されてゆく。骨格なき語りのアメーバ。記号の絶え
間ない流入と散逸の構造による非線形のエクリチュール。
 当然、この脱コード化の模様から、ポストモダニズムやポスト構造主義といっ
た言説を導き出すこともできるだろうが、私の稚拙な筆をふるって学究的な論を
展開する由はないので、そこはほかに譲りたい。

 書き方そのものは、根気さえあればだれにでも模倣可能だ。放縦に、闇雲に、
言葉をただ連ねていくのは、むしろたやすい。
 昔、書店でひょいと手に取った本をパラリと開くと、この手法で、映画の評論
とおぼしきものが延々と書かれてあった。なかなか血迷っている。外見上は、シ
モンやジョイスのそれと同じく見える。だが、文学的な強度まで安く簡単にまね
できるほど甘くはない。そんなものは前衛趣味のちんけな模造品(「SQNY」とか
「HONGDA」とか)にすぎず、所詮はその場限りのたれ流し、二束三文の仕業なの
である。

 斬新な手法の形式化は陳腐化を促進させもする。
 個性を前面に押し出したスタイルは、概してその作家のみの、あるいはその
作品のみの一回性の芸術として成立し、他の追随を亜流やまがい物にしてしまう。
ピカソの画風をいくら上手にまねしたところで、それは 「ピカソっぽい」 域を
出ることはないだろう。同様に、シモンやジョイスとはちがうベクトルで文体
を異化させなければ、文学の新たなパースペクティブ(展望)にはならないので
ある。
 なにもこうした高踏的でストイックな文学を勧めるわけではないが、安易に
奇態な造形に走ることと個性の表出とを履きちがえてしまわないようにしたい。


261: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:46:23
 いつだったか(TVで見たのだが)ロシアの高名なアニメーション作家、
ユーリー・ノルシュテインが来日した折、好きな俳句として小林一茶の

 「痩蛙 まけるな一茶 是に有」

 という有名な句をあげ、その蛙はきっとこんなふうに鳴いたのだと、池のほ
とりにカエルポーズでしゃがみ込み、ギィェー ギィェー と奇怪なオノマトペ
を披露してみせた。あごが落ちるのを禁じえなかったが、なんだろう、古きよき
社会主義リアリズムでも表現したかったのであろうか。
 彼は日本語を解せないから、一茶の句をロシア語訳で読んだのだろう。そして
ロシア語の詩として、なにがしかの感銘を受けたのであろう。

 日本語はローカルな言語である。非漢字文化圏の外国人にとって、かな漢字混
じりの日本語のテクストは、決してやさしくない。よって翻訳に頼るのは当然で
ある。しかし翻訳の難として、もとの言語が背負っている文化や表現の機微、ま
た技巧の効果が減じたり脱落してしまったりする場合がある。このことは、今まで
の技術解説のなかでもいく度か触れているので、細かく説明する必要はないだろう。
 ここで、ことさら翻訳の不可能性を取り沙汰して自国言語を美化するとか、そ
んなせせこましい話をしたいのではない。大体、日本語を母語とする現代人にし
ても、予備知識なしに江戸時代の文脈をその字面だけから読み取るのはむずかし
い。その意味では、翻訳で読んでいるロシア人と大差はなかろう。

262: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:47:50
 「痩蛙」 を、一茶の感傷的な擬人化として捉える人は多いかと思う。俳句の
心は、言外の趣を誘いだすことにある。ならば、痩蛙からどんなイメージを浮
かべようが、解釈しようが、自由ではある。とはいえ、実のところこの蛙、池
のほとりで独唱するのでも、一茶の感傷的自己投影でもなかった。

 岩波文庫の 『一茶俳句集』 によれば、くだんの句には次のような前書きが
ある。

 「蛙たたかひ見にまかる、四月廿日也けり」
 その 「蛙たたかひ」 の注解。
 「蛙合戦。蛙が群集して生殖行為を営むこと。一匹の雌に数匹の雄が挑みかかる」

 発情期の蛙の雄どもが、ぬめぬめした体をぶつけ合い、本能むき出しで雌に
襲いかかるのを眺めるという、その有様を想像するに、あまり気色のいいけしき
ではなさそうだ。まあ、一茶も男だし、江戸の世には刺激的なビデオなんてもの
はないわけだし、別の想像力をたくましくすれば、そんなのでもけっこう興奮
しちゃったりするのかもしれない。そこで、一茶は、おそらく体の小さい弱そ
うな雄蛙に肩入れして、例の句を詠んだのだ。
 「一茶 是に有」 も、軍談・講釈などの口調に擬したもの、という注解があ
る。もはや清らかな情緒を語れる場所に一茶はいない。
 やや下劣な意訳をすれば、こうなる。

263: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:54:32
 「痩蛙 ち○ぽぶちこめ まけるなfuck 一茶がここについてるぞ」

 これに眉をひそめるのが、たしなみある大人の品性である。一応、そういう
ことになっている。
 俳句のようなミニマルな定型詩は、みだらでグロテスクで毒々しい表現、良
くいえば野性的な俗趣を描くのに向いていない。そうしたリビドー・エナジー
は、そもそも小さな型に押し込められるものではないからだ。雅趣繊細の引算
とは逆なのである。

 常識的には、上のごとき句は俳句の名に値しないし、かような意訳をほどこ
す眼識に憮然とする御仁もいよう。それは、シモンのような小説を訳してなに
が伝わるのかという疑問、こんなもの文学じゃないという非難、無理解にも通
じるところがあるだろう。
 もっと世界とか人間とかの、わけのわかるドラマ性が欲しい。そういう心情
は、一般感覚としてよくわかる。まったくもって文学の徒には、「素直」 の
二字が抜け落ちて、替わりに 「衒気」 の二字がはめ込まれてあったりする。
あるいは 「反俗」 かもしれない。だから売れないんだと言われれば、その通り
だろう。難解=高級とする浅薄な思いちがいもあるだろう。
 しかし、やはり「世界」 やら 「人間」 やらというのは、もともとが解かり
にくくて伝えがたいものではなかったか。その深淵を、美妙を、あるいは絶望
を、本来言葉では言い尽くせないそのものを、あえて言い表そうと試みること。
語りえないことの孤独を越えて語りだす、その解りにくいエクリチュールもまた、
世界であり文学なのである。

264: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:56:40
 「翻訳ではわからないが、現在分詞のおびただしい使用もシモンの文体の大
きな特徴で、それに関してはすでに一篇の論文さえ書かれている」 「そのよ
うな文体論的興味をそそるシモンの言語の特殊性を、意識的だからといって知
的遊びとか形式主義と断じるのは早計で、むしろ作品内容そのものが、こうし
たはてしない模索と問いかけの文体を生んだといっていい。」 「このような
特殊な文体で書かれた作品を、言語構造のまったく違う日本語に移すことは予
想以上の困難を伴ったが、また予想以上の喜びを味わったことも告白しなけれ
ばならない。」(『フランドルへの道』)

 私たちがシモンのような作品に触れる機会を得るのも、翻訳者の奮闘があっ
てこそである。言語と言語のはざまで 「押しつ押されつしながら」、訳者は
相互の共鳴を図ることに肝胆を砕いておしまない。「なんの役にもたたない
うつろな言葉」などひとつとしてない。それは、「虚心に一字一句をたどって」
創られた、もうひとつの小宇宙なのだ。

265: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:57:20

   2005年、平岡篤頼は五月に、またクロード・シモンは七月に、
   鬼籍に入られた。


266: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:59:12

ながらく惰性的につづいてきた私めのちょこ才な解説も、これをもって
幕となります。
いやしくも芸と名のつくものであってみれば、そこには陰に陽に働く技術
のあることを書きつけてきました。文章表現の新たな広がりやひらめきを、
ここから得てくれたなら、これ以上の喜びはありません。
そして、なおいっそう飽き足らず、文芸の道に励まれんことを


267:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 08:50:15
z

268:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 08:52:06
馬鹿なコテだ。

269:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 08:58:13
未消化のままうんこ垂れ流してるわけだ。

まあ、ちょっと読んでみるか。流しで。やっぱやめとくか。

ショーペンハウアーが書いてたがヘーゲルを読むと馬鹿になるそうだ。

意味もない無茶苦茶な概念で頭がいっぱいになってその何の意味もないもんで物事を見ようとしてしまって。
そんで完全な馬鹿になるらしい。

まあでも暇だからちょっと読んでみるか。それに桃白白がこうも言っていた、
「殺しのプロの恐ろしさに気づいたときにはすでに遅かったわけか」と。

270:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 09:06:11
やっぱ読めんかった(笑)

>◆YgQRHAJqRA

ぐだぐだ言ってねーであんたの理論をもとにさっさと小説書いて、晒してみろ。

271:覗く男
06/01/08 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

274:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:19:55
創作技術、作品の評価

覗く男>>>>>>>>>>>悪夢聡史
これはこの板の共通認識

275:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 09:20:33
馬鹿だな。
オレの名作群をよんでねーだけ(笑)

276:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:22:18
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)


277:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:23:00
アリのクソ作家代表w


278:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:24:44
覗く男と>>273『地獄』が繋がっていない件について。

279:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
URLリンク(www.geocities.jp)

280:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ
06/01/08 09:30:32
『蠅車掌』『変な涙』『退屈だし。恥辱。だが愛。だが気のせい』『marker world』『互いの傷を癒しあうように研ナオコとファッくしたい』『自然死ボールZ』

この順で読んだとしても、俺の全貌の5分の1もわからない。それほど深い。

281:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:32:09
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ
272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)
273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)
278 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:24:44
覗く男と>>273『地獄』が繋がっていない件について。
279 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
URLリンク(www.geocities.jp)

282:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:32:53
outsiderは部外者、傍観者という意味だが?
どこが「そのまんま」なんだ?

283:バルビュスそのまんまのコテ名だなって(笑)
06/01/08 09:34:29
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

284:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:34:35
アウトサイダー列伝 w
「列伝」の意味くらいわからないのか?
困ったやつだ。
いいからロムに徹しておけ>悪夢聡史

285:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:34:39
雑談でやれ

286:バルビュスそのまんまのコテ名だなって(笑)
06/01/08 09:35:33
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ


272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)


273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

287:バルビュスの『地獄』そのまんまのコテ名だぜこいつ(笑)
06/01/08 09:36:59
271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

279 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:29:44
アウトサイダー列伝:アンリ・バルビュス
URLリンク(www.geocities.jp)

288:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:37:07
つくづく恥ずかしい人間だなw
悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ


289:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:38:00
作品名に『覗く男』などないだろwww

290:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:55:49
バルビュス『地獄』について。『バルビュス 地獄』で検索してみんももっと、もっとこの名作について知ろう。語ろう。

URLリンク(66.102.7.104)

291:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:58:40
『地獄』≠『覗く男』だろ
詭弁もここまでくると見苦しい。
消えてくれないか、このスレから。

292:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:58:42
269 :悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 08:58:13
未消化のままうんこ垂れ流してるわけだ。 まあ、ちょっと読んでみるか。流しで。やっぱやめとくか。
ショーペンハウアーが書いてたがヘーゲルを読むと馬鹿になるそうだ。 意味もない無茶苦茶な概念で頭がいっぱいになってその何の意味もないもんで物事を見ようとしてしまって。 そんで完全な馬鹿になるらしい。

271 名前:覗く男 :2006/01/08(日) 09:07:16
あー、このスレはこの板にしては珍しく建設的なスレなので荒らさないように。
創作技術に興味のある人はじっくりROMってみよう。
そんだけ。んじゃ、ノシ

272 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:12:28
覗く男か。バルビュスそのまんまのコテ名だな(笑)

273 名前:悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ :2006/01/08(日) 09:17:05
バルビュスの『地獄』な(笑)

293:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 09:59:38

291 名前:名無し物書き@推敲中? :2006/01/08(日) 09:58:40
『地獄』≠『覗く男』だろ
詭弁もここまでくると見苦しい。
消えてくれないか、このスレから。


294:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 10:00:42
>>291
>『地獄』≠『覗く男』だろ

『地獄』>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>『覗く男』だしな

あんな馬鹿はとっとと消えて欲しいもんだ

295:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 10:10:43
フシハラ=悪夢聡史 ◆5edT8.HnQQ は基地外

みんなほっとけ


296:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 12:39:41
>>266
お疲れ様です。

小説の解説、もしくはネット上の書評や批評なんかでは
みんなに当たり前のように使われていながら、
実は適当に使われていることが多い、そんな基本的な事柄が、
解りやすく簡潔に説明されていて、非常にためになりました。
ためになるだけではなく、実に刺激的で楽しく読めました。
また読み返したりもするとも思います。

ずっと続きを楽しみにしてたので終わってしまうのは残念ですが、
こういうスレに出会えて本当によかったです。

297:名無し物書き@推敲中?
06/01/08 13:11:30
うるせえぞ美香自演すんな。きもい。

298:名無し物書き@推敲中?
06/01/15 05:51:50
z

299:みすず
06/01/16 18:28:46
ageるのでR

300:名無し物書き@推敲中?
06/02/04 18:01:54
日常→戦闘→日常→戦闘→以下ループ
な構成で、ストーリー展開していくんだけど、構成の繰り返しってやっぱマズイですか?
それぞれ、話は繋がってて違うエピソードなんだけども。

301:名無し物書き@推敲中?
06/02/04 23:42:04
実作を読まないと何とも言えないが、
繰り返しでも構わないだろう。それが発展的なものであれば。
まずいのは同じような調子で、ただループしていくことだ。
本人がそういう疑問を持っていること自体が、その可能性が大きいとは言える。
書き手が面白いと思えなければ、読み手はもっとそう感じる、
と見なした方がいい。

302:名無し物書き@推敲中?
06/03/01 13:00:59
石でも詰まってる

303:名無し物書き@推敲中?
06/03/21 10:34:43
ワープロ写経

304:名無し物書き@推敲中?
06/04/09 11:32:00
読もうよ

305:名無し物書き@推敲中?
06/04/24 11:37:29
いや、書け

306:名無し物書き@推敲中?
06/04/27 12:46:41
好みに合わない

307:無名草子さん
06/05/26 12:03:01
どこへ行っても

308:名無し物書き@推敲中?
06/05/27 01:23:56
朝日新聞夕刊06/5/24
陣野俊史「ある下読み担当者の呟き」

ある小説賞の下読みをやっている。下読みとは集まった応募原稿の
中から、私のようなフリーの本読み(ちょっとヘンテコな表現だが)
が百篇なら百篇読んで、数篇に絞り込む作業。………

応募しようという人のためにいうと、今はエンターテイメントも
純文学も区別ない状態で小説は読まれる。だから、歴史物ならば
主人公がどれくらい現代人としても魅力ある人物か、
ファンタジーならその独特の世界観がどれぐらい精密にできているか、
現代小説ならそこで扱われている問題に解答が与えられているか、
が問われる。

私は少なくともそういう判断基準で選んだ。

意外と多いのがいじめを扱った小説。
「野ブタ。をプロデュース」以来の傾向かもしれない。
だが、たいていはいじめに対して解決策がない。
解決がない小説はエンターテイメントとして成立していない。
陰湿なだけだ。

エンタメ小説を志す方々、心されよ。


309:名無し物書き@推敲中?
06/06/22 13:36:11
hou

310:名無し物書き@推敲中?:
06/07/22 11:00:45
絞り込む作業

311:名無し物書き@推敲中?
06/07/27 04:20:07
あげ

312: ◆YgQRHAJqRA
06/08/23 18:43:15
久しぶりにカキコ。
保守してくださっている人(たち?) 
どうもお手をかけさせてすみません&ありがとうございます。
しかし
書くべきか 書かざるべきか それが問題だ。

313:(^o^)/ Катюша ◆6d2EwylCkI
06/08/24 08:17:36
お久しぶりです!
ゆっくりで構いませんので、ぜひ、書いてください。
よろしくお願いします。
私のほうは、
カフェを復活すべきか、せざるべきか、从^ 。^从

314: ◆YgQRHAJqRA
06/08/24 23:32:55
わあ懐かしい(って変か)
あたたかいお言葉、胸に沁みます。

 ぜひ
この一言だけで作家はきっと勇気百倍です。ご飯三杯おかわりです。
言葉の不思議とまたおそろしさ。
私からも、お返しの
 ぜひ
をあなたに。

315: ◆YgQRHAJqRA
06/08/24 23:43:09
たまには自分であげとこ

316: ◆YgQRHAJqRA
06/08/26 20:59:27
「文体と語り」
というテーマでなにか書こう。
企画倒れにならなければいいんだけど。(無計画)
では、基本的に、マッタリのんびりとお待ちください。

317: ◆YgQRHAJqRA
06/09/07 00:14:38
スレッドを新しく立てるのも不経済のゆえ
前は前、これはこれとして一筆とりまして
再びお目汚しの拙文をこのように晒す運びとなりました。

318: ◆YgQRHAJqRA
06/09/07 00:18:08
        ― 文体と語り ―


 物が形をともなうように、文章には文体がともなう。一口に文体といっても、
その指すところは多様である。文体の中身を広げると、ざっと次のようになる。

 【文章の装飾、修辞、技法。個人の言葉の癖や特徴。標準的文章。集団内や
ジャンルにおける言葉遣いの一貫性(たとえば方言、時代劇など)。文法、語彙、
音韻の構造的形態(たとえば詩文の韻律の分析)。】

 いわゆる文体論というのは、種々の言語学問の知見を横断的に利用しつつ文章が
どのように文体を獲得しているか、いうなれば私たちがどのように文体を認知して
いるか、その仕組みを研究し論証するものである。
 私は、もちろん言語学者でもなんでもないから、しかつめらしいアカデミックな
論の唾きを飛ばすというわけにはゆかない。しかし、情報技術の革命的発展によって、
私たちには自らの言葉を解放するトポス(場)を得た。表現の自由は、もはや専門家
やアーティストばかりが享受する権利ではなくなった。
 言葉を綴る人は、意識するにしろしないにしろ、文体と無縁ではいられない。
いっちょ小説でも書いてみるか。そんな人はなおさらであろう。

 日常、日本語を操ることにさして不自由を感じていなければ、品質はどうあれ、
現代語で小説を書くことに特別な訓練や素養は必要ない。それは、話し言葉と
書き言葉の隔たりが小さいということ、いわゆる言文一致の恩恵であり、共通語が
全国的に普及しているおかげであると言えよう。
 ここまで来るには、先人たちの苦心と模索があった。私たちが日頃つらつら造作
なく書いている文章も、およそ140年前に端と発した文体革命の上に立っている。
独自の文体を云々する前に、私たちの書き言葉の根幹である言文一致体の、その
成り立ちを概観しておこう。

319: ◆YgQRHAJqRA
06/09/07 00:23:12
 明治維新前後、西洋から摂取した小説、学問書がおおむね言文一致体で書かれて
いるのに対して、それを翻訳表現する当時の日本語には、それに見合う言文一致体
の書き言葉がなかった。それどころか、西洋文化の鍵概念である 「社会」 「自由」
「個人」 「権利」 「哲学」 といった訳語も定まらず、それらの概念を説明する
言葉にすら不自由する有様で、日本語を使っていては文明開化など成しようがない
と悲観し国語廃止論さえ出たが、1500年以上にわたる自国の言語文化を、一昼夜の
うちに滅ぼそうなどという日本沈没的暴論が受け入れられるはずもなく、とにかく、
地道に国語を改良していく外はないと、知識人たちの苦闘がここから始まった。
 難解な漢文体や和漢混淆の文語文は、新時代の知識博覧、文意平明の用に適さない。
かくして、だれかもが平易に読み、書ける、言文一致の新文体の創出が叫ばれる。

 話されている言葉をそのまま書き言葉にして写すといえば簡単そうに聞こえるかも
しれない。統一的な話し言葉、言い回しでみながしゃべっていたのなら、たしかに
苦労はなかっただろう。しかし人は、なかなか行儀のよい言葉遣いをしないもので
ある。言文一致とはつまり口語体のことであるが、この口語体というのは日常談話的
口語体(俗文体)ではなく、あくまで 「話すように書く」 書き言葉である。
 無論、まったくの想像で新しい文体を創るのはむずかしいから、一応、東京の教育
水準の高い人たちが用いる上品な話し言葉を基として文章の口語化が企てられた、
と同時にそれは、書き言葉の側からも話し言葉の変化をうながし、両方を接近せしめる
ということも視野にあり、国語の標準化とも並行する言語の革新運動であった。

320: ◆YgQRHAJqRA
06/09/07 00:24:48
 言文一致の理論には大きく二つの方向があった。話し言葉と書き言葉の完全な一致
を提唱する人たちと、ある程度書き言葉的な部分も残そうという人たちである。
当初、言文一致といえば前者の試みを指していたが、時代を経るに後者が優勢となり、
そのうち言文一致=話す〝ように〟書く、という直喩的な認識が主流となった。
それは、言文完全一致の文体が、拙さもあって冗長で要を得ない文章になりがちで
あったためとみられる。

 明治維新から始まった言文一致運動は、1946年、敗戦を機にそれまで旧文体を墨守
していた官庁の公用文、新憲法が口語体に改められ、全的に完了したとみる。
 新旧の文体転換は、日本の歴史における近代の全期間を費やしたのである。

321: ◆YgQRHAJqRA
06/09/07 00:25:41
次に、近代文学史上での言文一致の流れをみたいが、ひとまず今回はこれまで。

322:名無し物書き@推敲中?
06/09/07 22:59:29
このスレでまた始まるのか。素直にうれしいな。

323:名無し物書き@推敲中?:
06/09/14 11:47:50
当たり

324:名無し物書き@推敲中?
06/09/14 16:13:13
どうでもいいよ。

325:一受講生
06/09/20 09:47:25
ここではなく、ミクシィなどのソーシャルネットをご利用なさいませんか。
ご招待いたします。

326:一受講生
06/09/20 09:57:19
>>322
もし引っ越しすることに決まりましたら、ご一緒しましょう。

327:名無し物書き@推敲中?
06/09/20 13:15:04
町の自治会に情報部会というのがあって、各ご家庭にパソコンを無料貸し出しし、
今でいうソーシャルネットをやっていました。8年ほど前のことです。
お目付け役の女子大の先生が、なんでもご自身への匿名攻撃に憤慨で、原則
実名使用のこととなっていました。アドレスに地域名入っていましたし、いま考えると
オソロシイ。。。
以前は町のホームページからも入れたのですが、現在は消されています。

ミクシィですが、出会い系サイトと勘違いされている方が多そうです。詳しくは、
2ch内のソーシャルネット板へどうぞ…

328: ◆YgQRHAJqRA
06/09/22 01:48:23
 [訂正] 漢字を用いた日本独自の表記法(音訓混淆)は、8世紀はじめの
『古事記』 が濫觴(らんしょう)でありました。
 >>319の<1500年>は、いかにも私の無知なる妄断から筆をすべらしたものです。
 なので、当該箇所は500年ばかし削り落としてお読みください。m(__)m


 ご好意まことにありがたく存じます。以前にも、ブログで書いてほしいとの
ご意見がありました。ミクシィもたいへん人気なようで、会員が500万人だとか、
最近株式を公開してストップ高だとか、なにやら景気のいい話は耳にしております。
私もそんなITの波に乗れればいいんだけど…。

 ただ、あるとき、私はネットのために時間を消尽するのは止めようと思い立って、
ネットの魅力的なコンテンツをずっと避けるようにしています。自分の意思の薄弱さ
はよくわかっているので、これは徹底しないといけません。もちろん、これはネットや
ネット社会を否定するという意味ではありません。
用があるときだけちょっと使う、2chくらいが私にはいいのです。

 そんなわけなので、申し訳ありませんが、またしばらくここで書かせてください。
私の長たらしい愚考拙文を読んで下さっている方には、まことに感謝しております。


329:名無し物書き@推敲中?:
06/09/28 11:45:19
no

330: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:36:40
 散髪廃刀、四民平等、開明の治政20年になんなんとして今だ旧態依然の言語観は
市中にはびこり、明治18年に意気軒昂たる坪内逍遥が筆鋒 『小説神髄』 は、西洋
写実主義に範をとり日本も負けじとこれに倣い追いつき追い越せ、和歌やら詩やら
古文やらにふける文学のごときは閑人のもてあそびにして学問に非ずとこれを卑しき
地位に貶めた福沢諭吉に目にもの見せてくれるためにも、小説は美術でなくてはならぬ。
さては洋装和魂の文士、キラリと一剣ひるがえし江戸戯作の流れをくむ勧善懲悪の益荒男
をバサリ、返す刀で娯楽滑稽に浮かれ転げるやじさんきたさん斬捨てて、もって今こそ
人情世態の写実に目を開くべしと近代小説への自覚を促せる。しかれども、文体において
逍遥は言文一致体の必要認めがたく、もっぱら雅俗折衷体(地の文を文語調で書き、
会話文は平俗な話し言葉で書く)の洗練に努めよと説き、自らもその実践として
小説 『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)を世に問えば、これなかなかの好評
を博して先生ご満悦の体。。
 来たる二年後の明治20年(1887)。露語に長け、ベリンスキーの小説論に学んだ
24才の青年、二葉亭四迷が創発 『浮雲』 現れて、とうとう言文一致体の曙光が文壇を
照らすとき、逍遥(にしても29才)は小説家としての道に挫折をする。
 後年、逍遥はこのように述懐している。
(こなれた口語体で書いているところに隔世の感がある)

331: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:39:18
 「―わるくおぼえ込んだ、下手な、だらしのない馬琴調まがいの七五体だけは、
どうしても脱けず、論をするにも、訳をするにも、作をするにも、その下手な、
我慢の出来ない、いやな七五調ばかりで書いていた。『小説神髄』の文体がそれ
であり、リットンの訳やスコットの訳がそれであり、『書生かたぎ』 その他の
戯作物の地の文がやっぱりそれであった。」
 「我れながら気障な文体だ、いやだなと思いながら、どうしても蝉脱〔せんだつ:
旧い習慣から脱け出すこと〕が出来ず、あれから後何年も、十何年の後までも、
ひどく苦しんだ。小説の筆を抛(ほう)ったのは、二葉亭の新作に驚かされて、
深く前非を自識したからでもあったが、一つは、到底、こんなたまらない様式では、
何を書いたとて物にはならぬと煩悶したからであった。」
 「今の人は、それは、たかが文章の形式上の事ぢゃないかというであろう。が、
明治十年台から二十年台の終へかけての文壇のストラッグル〔悪戦苦闘〕は、半ば
以上この形式上の問題に繋がっていたと言える。言文一致と呼んでいた、今の口語体
の前身の産苦なんぞは、それはそれは痛ましいものであった。」


332: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:40:45
 ある作家に心酔し、そのテクストを何度も読し、しまいには文体まで似てくる、
ということは珍しいことではない。言葉の習得とは、畢竟、反復と摸倣の業に他
ならないからだ。
 しかし、おのれの精神と言語を相即と考える者にとって、他者の文体とのあからさま
な酷似は、等閑にふすことのできない問題として葛藤を生む。逍遥が感じていたのは、
まさに文体=主体の、今様に言えばアイデンティティの喪失感であったろう。
その実感が、二葉亭の新しい文体に触れていよいよあらわに自分に迫ったのではないか。
これは、一人逍遥の懊悩ではなく、ある意味近代病ともいえる 「個」 の意識にはらまれる
懊悩であり、多くの作家が昔から、そして今も、「文体を持つ」 ことに苦しんでいる。

333: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:43:41
 二葉亭に先んじること一年前、山田美妙が 『風琴調一節』(ふうきんしらべのひとふし)
という小説で言文一致を試みている。けれども、これはどうも芳しくなかったようで、
美妙いわく、
 「世間の攻撃というのは非常で、当時の主なる学者や識者の白眼(にらみ)が、
ことごとく私の一身に蝟集(いしゅう)するのでありました。その攻撃の主要点はと
云えば、すべて 『俗だ』 『下品だ』 と云うのにあったのです。〔語尾の「だ」調が
とにかく不評だったため〕私は一工夫加えて 『です』 調を用いてみました。」

 この作は美妙の主要作から外れているので、単に文体だけの問題ではなかったのか
もしれないが、目を通せてないのでなんとも言えない。だが、すでに完成された表現形式
に沿うことこそ上品だ、美しいと信じる言論人がまだまだ幅を利かせていたらしいという
ことは窺がえる。

334: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:46:36
 『浮雲』 は明治20~22年にかけて三篇が発表された。会話文は、人物の個性を
反映するかなりくだけた、ちょっと俗に過ぎるくらいの表現をとっている。
地の文は、さすがに今日の読者の目から見ると時代を感じさせ、一向読書欲を
そそらない文面と映ろう。

 現代では失われてなかなか共有することのできない明治の文物。ルビなしには
読みがたい漢字や当て字。ともすると韻文的な調子を帯びたり、事務的な感じに
なるため、現代の小説では避ける傾向にある体言止の多用。さらに、当時は文書記号
の用法も恣意的で一定しておらず、『浮雲』 初版本では会話文の終わりに閉じ( 」)
が施されてなかったり、句読点も―読みやすさのために打つなんて親切心とは無縁の
もので―第一篇には申しわけ程度にしか打たれていない。欧文のセミコロンを擬した
らしい 「白点」 などは、今では用いられない記号だ。
 と、なじみのなさを挙げればきりがない。『浮雲』が言文一致の試みであるしるしには、
「たり」 「なり」 「けり」 といった文語調の語尾、助詞・助動詞の類を排し、不安定
ながらも今日同様の 「る」 「た」 「だ」 の語尾を使用しているところにある。
このような文体は、当時として画期的なことであった。
 第一篇は、冒頭からして対象描写による本格的な写実への意気込みがみられる。次に示す
描写は、客観的写実性という意味では少し手並みがちがうが、『浮雲』 のなかでも異彩を
放って印象的な場面なので取り上げてみたい。
(振り仮名の煩雑さはご勘弁を)

335: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:48:54
 「庭の一隅に栽(うえ)込んだ十竿(とも)ばかりの繊竹(なよたけ)の葉を分けて出る
月のすずしさ 月夜見の神の力の測りなくて断雲一片の翳(かげ)だもない 蒼空(あおぞら)
一面にてりわたる清光素色(せいこうそしょく) ただ亭々皎々(ていていこうこう)として
雫も滴るばかり 初めは隣家の隔ての竹垣に遮られて庭を半ばより這初め 中頃は縁側へ
上(のぼ)ッて座舗(ざしき)へ這込み 稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲艶(きんれんえん) 
簷馬(ふうりん)の玻璃(はり)に透りては玉玲瓏(ぎょくれいろう)、座賞の人に影を添えて
孤澄一穂(ことういっすい)の光を奪い 終(つい)に間(あわい)の壁へ這上る 涼風一陣
吹到る毎にませ籬(がき)によろぼい懸る夕顔の影法師が婆裟(ばさ)として舞い出し 
さわ百合(ゆり)の葉末にすがる露の珠(たま)が忽(たちま)ち蛍となッて飛び迷う、」

 〔補注:《稗蒔の水に―》青田に見立てた盆栽の水面に月光が波と崩れてきらきら輝き
  《簷馬の玻璃に―》月が風鈴のガラスに透るとその光と音は玉のごとく澄みわたり
  《座賞の人に―》月光は、座して景色を観賞している人の影をそこにつくり、灯火の
  わずかな光を無に等しくして  《さわ》たくさんの 〕

336: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:50:59
 月が庭のそこかしこにきらびやかな光―言葉をまきこぼしながら空を上っていく。
この動的描写はすばらしく、特に 「蛍」 につながる部分は、今でいうマジック
リアリズムにも通じよう。
 言文一致からはだいぶかけ離れた表現、というか上の筆致はほとんど散文詩であり、
まさに美術である。これはおそらく、逍遥の助言に答えたものだろう。逍遥は、二葉亭
が小説を執筆する際に、俗語ばかり用いず漢語や美文素も取り入れたほうがよかろうと
助言したのである。のちに回想(「余が言文一致の由来」)で書いているように、
二葉亭はこれに不満であった。だが、無名の若僧が小説を出版するには、逍遥(春の屋)
のネームバリューと推薦を必要としたのも事実である。


337: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:53:25
 二葉亭は、第三篇を書き終わった時点で、それ以上 『浮雲』 を書き進めること
ができなくなった。続きの構想はあったものの、文章をうまく書く自信がなくなり、
嫌気がさして作品を未完のまま放擲し、小説家であることからも身を引いてしまった
のである。図らずも 『浮雲』 は、やがて小説界を席巻することになる自然主義の
予兆的結構を呈している。つまり、アンチクライマックス―無解決性という断筆であった。

 二葉亭の文才は、むしろ翻訳のほうにほとばしったのかもしれない。明治21年に
発表された、ツルゲーネフの 『あいびき』 の翻訳文体は、現在私たちが読んでいる
小説文体にかなり近い。無論、二葉亭はこの訳にも言文一致で臨んでいる。
 ヨーロッパの小説は、基本的に過去形で書かれている。日本語は印欧語のような
はっきりした時制表現や文法をもたないが、二葉亭はこれに 「た」 形をあてて再現した。
原文の文体をなるべく忠実に日本語へ写すことを旨としていたため、「る」形の語尾を
無闇に交ぜるなんてことはしなかった。そうした書法が功を奏して、文体の緊張感、
安定感は 『浮雲』 の比ではない。なぜ自作の小説にこれを応用しなかったのか不思議
だが、あまりに先に行き過ぎた文体はきわもの扱いされてまともな評価を得ず、この点
でも自信を失うことになったのかもしれない。
 しかし、この 『あいびき』 は、のちの自然主義作家となる若者たち(独歩・花袋・藤村ら)
に少なくない衝撃を与えていたのであった。

338: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:55:33
 文体は大事だ。でも小説にはもうひとつ、欠かせない大事な要素がある。
そう、「語り」 である。
 『浮雲』 は、今でいう三人称小説として書かれているのだが、第二篇から三篇
にかけて作者の焦点は次第に主人公、内海文三の内面に当てられていき、そして語り
までが文三の 「内向性」 に同調してしまうと、「語り手」 と 「登場人物」 の
けじめがつかなくなって語りの相対性を失ってしまうのである。この第二編と三篇
を練り上げるのに、二葉亭はロシア文学、ドストエフスキーとガンチャロフを参考に
した。その影響が語りの面に強く表れてしまったのだろう。現に 「想の上においては
露国の小説家中ドストエフスキーが一番好きであった」 と彼は述べている。

 ロシアの作家というと、やはりトルストイよりもドストエフスキーが好きという人は多い。
あの一種独特の心理の彩に、日本人は乙女のようにのぼせてしまうのだ。すると、いかにも
カルシウムが不足しているらしい文三の激発性や、なんだかじめじめした性格も、なるほど
ロシアゆずりかしらと思うところがないではない。

 「語り」 については、またあとでまとめて考察することにして、話を進めよう。


339: ◆YgQRHAJqRA
06/10/01 00:56:58
 といきたいけど、今回はここまで。


340: ◆YgQRHAJqRA
06/10/03 18:35:59
>>330 洋装和魂→和魂洋才 と書くべきだった。

慣れない文体で書くもんじゃないなと思った秋の夜の(´・ω・`)ショボクレ

341:桜子 ◆6d2EwylCkI
06/10/06 21:18:12
やさしいね 陽のむらさきに透けて咲く 去年の秋を知らぬコスモス …俵万智



342:名無し物書き@推敲中?
06/10/07 21:43:44
最近忙しかったので全然来られなかったけど、やっと読めた。

続きを楽しみにしています。

343: ◆YgQRHAJqRA
06/10/17 00:17:07
 [訂正] >>333美妙の言文一致の処女作は、非公売の同人誌「我楽多文庫」に
載せた『嘲戒小説天狗』(こっちが明治19年作)で、『風琴調一節』は明治20年
の作です。
 美妙が後者を19年作と勘違いしていたんだけど、そもそもミスったのは資料を
読み誤ってノートとっていた私のせいです orzメンボクナイ 
 文体の不評を買ったのは「伊良都女(いらつめ)」に発表した『風琴調一節』で
合ってると思います。年数は忘れても、批判の槍ぶすまに晒された作品を間違えたり
しないでしょう。

 なお、引用文は、仮名遣いや漢字などを適宜現代的表記に改めています。
今後も同様のものとご了察ください。

  お茶と両手に ため息ひとつ 秋は深まり

344: ◆YgQRHAJqRA
06/10/17 00:21:06
 お茶と→お茶を

もうヤダ(T-T) 

345:一受講生
06/10/23 23:02:56
【実は】本当の文学の評価教えます【つまらん】
スレリンク(bun板)

これは創作文芸板に立てられたスレッドです。
釣りか偶然かは、わかりません。

1 ペンギン ◆od0qY8Ss/. 2006/10/10(火) 21:52:30
川端康成『雪国』 ★
文章もストーリーも何もかも駄目。読むだけ時間の無駄。

フランツ・カフカ『変身』 ★
作品も作者の名前もとても有名だから、初めて読んだときは、そのあまりのつまらなさに
すぐに失望して読むのをやめた。でもこれは難解な小説ではなく、実はギャグとして
書かれたというエピソードを聞いて先日読んでみると、最後まで読み通せた。

宮本輝 『泥の河・蛍川』 ★
泥の河は冒頭、かなり悲惨な描写があって、そこは凄いと思った。
蛍川は最後がわかりにくい。(一説によればキスした2人に蛍がたかってるらしいが)
なんにしても方言が臭い。

346:一受講生
06/10/24 00:05:04
個人の矮小な物差しで、「本当の評価」 とは…
2chを象徴する書き込みだと思います。

外は雨です。秋霖かな。

347:名無し物書き@推敲中?
06/10/24 00:45:11
放っておけばいいのでは。
個人の物差しの比較検討系は荒れる元になるし。

348: ◆YgQRHAJqRA
06/10/25 22:35:13
 表現の暴走地帯でセーフティードライブを心がけましょうと訴えても、ひき逃げ逆走
自爆は2chの花と言わんばかりですからね。うまい人はやっぱりサーキットで走るわけ
で、「イニD」はやっぱりマンガなわけで、現実はこういう有様なわけで、えっと、
つまり、何の話をしてるんでしょう。

 とりあえず、クルージングモードで更新だ。

349: ◆YgQRHAJqRA
06/10/25 22:37:53
 二葉亭四迷、山田美妙、他に嵯峨(さが)の屋おむろ などが牽引役となって
にわかに盛り上がりをみせた言文一致の小説も、二葉亭が去り、美妙の人気も
衰えると下火になってしまった。
 児童書の翻訳では、若松賤子(しずこ)が敬語による言文一致で 『小公子』(明23)
を著し、名訳と謳われた。そのなかで、「ませんかった」 という語尾を使用する
も、これは定着しなかった。
 ちなみに、「であります」 というのは軍人がよく使っていたもので、当時
軍隊には長州(山口)出身の者が多く、彼らの口癖(方言)が定着したもので
あるらしい。

 明治20年代、社会的には、急速な欧化政策への反発が一方であり、それが国粋主義
という形で現れはじめた時期でもあった。文壇では、井原西鶴〔さいかく:主著
『好色一代男』(天和2-1682)〕 が再評価され、それに倣った擬古典主義と呼ばれる
小説を生む。尾崎紅葉や幸田露伴、樋口一葉がその代表者で、特に紅葉は、硯友社
〔けんゆうしゃ:文学結社。「我楽多文庫」を発行〕 設立に共にたずさわった美妙が
他誌に流れ、硯友社を裏切ったことへの私憤もあり、言文一致体への対抗心に燃えていた。
 紅葉の出世作は、明治22年(1889)に発表した 『二人比丘尼 色懺悔』(ににんびくに
いろざんげ)である。紅葉はその序文にこう記している。

 「文章は在来の雅俗折衷おかしからず。言文一致このもしからずで。色々気を揉みぬいた末。
鳳(ほう)か鶏(けい)か―虎か猫か。我にも判断のならぬかかる一風異様の文体を創造せり。」


350: ◆YgQRHAJqRA
06/10/25 22:39:37
 文体は一様に雅語を基調とした文語体であるが、句読点―といっても句点と
読点の区別なくすべて( 。)で打たれている―を文節の要所に多数打ち、その
描法のきびきびとした筆致は西鶴に学んだもとみられる。
 敗残となった武士の自害、そしてその妻と妻になるはずだった許婚が尼となって
出会ういきさつが語られるこの時代小説は、いかにも作り物めいた話で、「涙を
主眼とす」 と前置きしているように、紅葉の若気なるロマンチシズムに満ち、人物も
型にはまったというかわざとらしいくらいの劇画調で人間像に深みがない。近代
以後の文学観から見ればこのようにあしらわれてしまう内容であるが、構成と文体の
妙に助けられ、エンターテイメントとしては上々の出来映えを示している。
 これで人気を得た紅葉は、この年の末、帝国大学に在籍したまま読売新聞に入社、
同紙の看板作家として意欲的に作品を発表しまたたくスターダムにのし上がり、
面倒見のいい性格から多くの門弟(泉鏡花・徳田秋声が有名)を抱え紅葉山脈と称され
るまでになり、明治36年(1903)、35才で死去するまで文壇の重鎮的存在であった。

351: ◆YgQRHAJqRA
06/10/25 22:41:19
 明治23年には森鴎外の 『舞姫』 が書かれ、一人称小説の開拓もはじまった。
 「わたくし」を主題とする小説は、必然的に自己の内面、生き方に文学的な価値
を見いだす契機を与える。やがてそれは、作家自身の 「告白」 という文学を受容
する土台を作り、性や心の問題に深く切り込んでいくことになるだろう。そのとき、
人称の形式がどうであれ、文体は口語体で語られるほうが有効であると気づく。
文語体の、書き言葉としての気取り方に、もはやリアリティを感じられなくなるのだ。

 ヨーロッパの近代小説に触れながら、その写実性に対する文語体の行き詰まりを
紅葉も感じていた。そして 『二人女房』(明25)でとうとう言文一致体に筆を染め、
「である」 調の作品をその後いくつか書くことになるのだが、明治30年に畢生の大作
となる 『金色夜叉』 に取りかかるときには、ルビと漢語のポリフォニック(重層的)
な表現を駆使した文語体を再び採用し、内容面でも前時代的な精神性を引きずった。
ある意味、それは読者にとって安心できる読物であり、そこに紅葉の限界があった
とも言える。

 時は20世紀に入り、紅葉の死とともに硯友社は解体され、かび臭い文学を真向から
否定し、革新すべく現れたのが自然主義であった。言文一致が発展するのもこの頃
からである。

352: ◆YgQRHAJqRA
06/10/25 22:42:04
次回へつづく

353:名無し物書き@推敲中?
06/10/26 08:03:15
     )   ノハヽヽo∈ 
    ((   (‘。 ‘ 从 l |   おつかれさまです
    ゝ━(]ィ_[i^l:lr´_j⌒、-ィ
   (_=_)  (^ノハ!_!_ヽ/
  ζ   ζ     | |  /
 [[ ̄] [[ ̄]   し'し'

354:吾輩は名無しである
06/10/29 11:02:15
発展する

355: ◆YgQRHAJqRA
06/11/21 00:56:33
  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ´∀`) < 寒くなってきましたね
 ( つ日と)  \_____
 と_)_)


356: ◆YgQRHAJqRA
06/11/21 00:59:54
 イノベーション(革新・新機軸)。安倍首相のこのスローガンは、昨今使い
すぎるとの批判もあるカタカナ語だったので横文字に弱い高齢社会の共感を呼ば
ない気味があったが、青年社会明治の文化革新の機運はおのずからに発し、もれ
なく俳壇にも起こった。

 正岡子規は、小説家を志していた。「月の都」 という小説の草稿を抱いて、
明治25年2月あこがれの露伴を訪う。が、無情にも露伴これを認めず、小説の夢は
あっけなく破れ果てる。やっぱり自分は俳人として一家を成そうと、前年より手が
けていた 「俳句分類」 の蘊蓄(うんちく)ひっさげ勇ましく、近時に瀰漫(びまん)する
俳風を、マンネリ化した 「月並」 と攻撃して俳句の革新に乗り出す。自然を
ありのままに描き新しい絵のモチーフを見つけだす、「写生」 という画法を
洋画家から聞いた子規はこれに触発され、俳句に写生を取り入れることを唱えた。
 虚子いわく 「今まで古人が詠じていなかったばった螽(ばった)とか、林檎とか、
蚕(かいこ)とかいう類のものも、写生的に俳句を作れば、面白い所の見出せる
ことが分かった。すなわち陳腐な材料には新しい境界が発見され、新奇なもの
には、異なった趣味が見出し得られた。そこで、写生は俳句の一大生命となった。」

 明治28年頃には、「空想」 よりも 「写実」 を重視する子規一派の写生俳句
が俳壇に確立された。明治31年に俳誌 「ホトトギス」を創刊すると、散文もその
写生論でやろうということになった。画家のように、「鉛筆と手帳」 をたずさえ
て写生文素を収集しに出かけたりした。病態が悪化してすでに床から起き上がれ
なくなっていた子規は、同人たちの写生文をよろこんで、これを勧めた。
 子規は 「叙事文」(明33)という論文でその方法をこう説いている。

357: ◆YgQRHAJqRA
06/11/21 01:01:51
 「文章は絵画の如く空間に精細なる能(あた)はざれども、多くの粗画を幾枚
となく時間的に連続せしむるはその長所なり。しかれども普通の実叙〔写生と同意〕的
叙事文はあまり長き時間を連続せしむるよりも、短き時間を一秒一分の小部分に切って
細かく写し、秒々分々に変化する有様を連続せしむるが利なるべし。」
 「文体は言文一致かまたはそれに近き文体が写実に適し居るなり。言文一致は
平易にして耳だたぬを主とす。」
 「言文一致の内に不調和なるむずかしき漢語を用いるは極めて悪し。」
 「写実に言葉の美を弄すれば写実の趣味を失うものと知るべし。」

358: ◆YgQRHAJqRA
06/11/21 01:03:57
 子規の論は文の冗漫を避けるための模範的な文章論である。描写の伸長を文学的
表現効果を持つものと考えるまでには至っていないが、描写が単に知覚上の克明な
叙述というだけでなく、「時間」 の性質を帯びることに言及している。これは、
俳句が事象の一瞬を切り取る文学であると早くから認識していた子規の鋭い洞察と
いえよう。時間を操作するテクニックは、このスレッドのなかでも紹介してきたので、
散文を時間の構造とみる子規の観点には十分得心がいくことと思う。
 さらに子規は、いたずらに言葉を飾り立てることに対して、強く戒めている。
 >>335 の例のように、それは虚飾的な美観であり、写生の目指すところとは逆のもの
である。難解美麗を競うことだけが文学ではない。俳句は、ことに芭蕉のあの有名すぎる
古池の句は、その神髄を示しているといえよう。


359: ◆YgQRHAJqRA
06/11/21 01:08:19
 明治34年(1901)、言文一致会の機関誌で幸徳秋水〔こうとく しゅうすい:
無政府主義を標榜し、天皇暗殺を企てた「大逆事件」の首謀者として明治43年逮捕。
翌年処刑される〕は、新聞の文章を言文一致に変えるよう提唱している。

 「今日程文体の多種に渉(わた)って乱雑な時代は少ない」
 「一枚の新聞を総て読み得ようとすれば漢文にも和文にも洋文直訳体にも雅俗折衷体
にも盡(ことごと)く通じていなければならぬ、随分厄介な話しではないか」
 「各新聞紙ともに最早時勢の必要に馳られて多く言文一致を用ゆる傾向があるは賀す
べきである」 が、「やむを得ずというのでなくて、むしろ我より進んで可及的速やかに
言文一致を採用する」 べきだと述べ、「全国の文体統一の期を早め」 「多数に知らせ
多数を動かし多数を教ゆる目的にためには」 まず軟派な三面記事からでも言文一致体に
し、「次いで徐々に全紙面を挙げてかく改めんことを希望するのである。」

 さまざまなメディア媒体が肩を並べる現代とちがって、この時代の新聞紙面の価値は、
テレビ欄や折込チラシに負けないものであったはずだ。有名紙の文章ともなれば、その
波及効果は学校教育に劣らずテキメンであろう。言文一致を推進させる論としてこれは
的を射たものである。
 抜粋した文には、「用ゆる」 や 「改めん」 といった動詞の活用に文語の影はちらちら
と見えるけれども、さすがにこの頃になると、『浮雲』 のような試行錯誤的な文体のぎこ
ちなさからは脱している。言文一致は文芸的にも十分使えるレベルに達して、小説も漸次
書かれているのだが、文語体もがんばって簡単にはシェアを明け渡さない。その理由を、
島村抱月〔ほうげつ:「早稲田文学」の論客。自然主義勃興に大きな役割を果たす〕は
「言文一致の三難」(明35)と題して次のように言う。


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