05/10/10 17:02:16
映画には、パンと呼ばれる撮影法がある。A点からB点へ、画面をカットせず、
主に水平方向にカメラを移動させて撮る方法だ。
映画でいうワンカットが、小説の一文(ワンセンテンス)に照応するものと考えて
みる。すると、小説でパンというのは、一文のなかである対象からある対象へと、
視点をなるべく散らさずに連続描写していくような書き方になろう。
151: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:02:49
『焼け跡のイエス』 石川淳
あやしげなトタン板の上にちと目もとの赤くなった鰯(いわし)をのせてじゅうじゅう
と焼く、そのいやな油の、胸のわるくなるにおいがいっそ露骨に食欲をあおり立てるかと
見えて、うすよごれのした人間が蠅のようにたかっている屋台には、ほんものの蠅はか
えって火のあつさをおそれてか、遠巻にうなるだけでじかには寄って来ず、魚の油と人間
の汗との悪臭が流れて行く風下の、となりの屋台のほうへ飛んで行き、そこにむき出し置
いてある黒い丸いものの上に、むらむらと、まっくろにかたまって止まっていた。
152: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:06:40
視点の移動に応じて、当然一文の息が長くなる。この連続描写をどこまでも続けて
いけば一大パノラマのできあがり、にはならない。
視点の線性といっても、それは描写の量的な自主規制によって実現されているものだ。
薬も飲みすぎれば毒となる。逆もまた真なり。この弁証法を地でいくのが、ジョイスの
『ユリシーズ』 であろう。そのなかでジョイスは、句読点のまったくない長大な一文
の独白を、「意識の流れ」 として書いた。
文を成型するのに、句読点は欠かせない記号である。しかし、そもそもテンやマルや、
段落? 秩序だった文脈? そんな 「読みやすさ」 を意識する意識のリアリティとは
いったいなんだろう。あやふやでとりとめもない意識のどこに、句読点の入る隙間がある?
近代リアリズムが自明のものとしてきたリアリティの風景を変えたのも、また(メタ)
リアリズムであった。意識(主観)そのものにたち返る視点によって、現代芸術はその夜明け
をむかえる。ただ、その光芒が小説界の大地をあまねく照らして、ロマン主義や自然主義の
読者の認識を豁然(かつぜん)と開かしめ、世の小説から句読点が消え去る、なんてことには
なっていない。
一見して上手な絵に、多くの人がたちまち共感するのと違って、結局、なんだか 「よく
わからない」 ものである現代芸術に真の共感や理解を寄せる人は少ない。かつてのゴッホ
のように、同時代の印象派の画家たちさえ認めないということもある。
最初から前衛する勇気もいいが、まずは相応の技術を身につけておいて、それからいくら
でも転向したらいいと思う。
153: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:09:15
さて、一文の長さはどのくらいが適当なのだろう。
個人差はあれ、小説の一文の平均が約40字であることを考えると、パンに模して
始点→中間点→終点 の流れを一文に収めるには、だいたい120字内外、本にして
3行くらいが適当ということになるが、ある程度の描写性を待たすとなると、さらに
その倍くらいになるだろうか。もちろん平均字数など気にしながら書く必要はないので
これはあくまで参考だが、描写の性格上あまり短くもできないし、逆に10行、20行
となると構文に無理が生じ、視点の線性がぼやけ、意味は拡散し、描写は 「印象」
に呑みこまれてしまう。 普通リアリティというものは、直示性(いま・ここ、で起きて
いる事)に依拠している。時間とともに記憶の鮮度が失われていく以上、文の長さにも
限度がある。その見極めも大切だ。
同じようなことを、伏線の技術の解説でも述べたと思う。私たちは読みながら忘れて
いく。長い距離で伏線を張る場合、〝反復〟をうまく使うのだと。
もう一度、石川淳の例文>>151 を読めば、この反復の要領が長文にも通じることがわかる。
描くものは少なく、イメージを反復させる。また、蠅を使ってうまく視点を誘導している
ところなども、押さえておきたいポイントである。
154: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:10:12
作文では、読みにくい、文意がつかみにくい、しまりがない等、たしなめられる長文
も、小説では非難にあたらないどころか、逆に効果的に利用することができる。
例えば、酔っぱらった人物の朦朧とした視点を表現するのに、あるいは混濁した思考や
心の乱れとして、長文の持つネガティブな要素の有意味性を作品に活かしてみるのも一興
であろう。
155: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:10:55
〔ちょっと個人的な応答なんですが、転写します〕
アラ、なんだか懐かしい名前の方が。まだ日記かエッセイみたいなのを続けてい
らっしゃるのかな。文体への意識は身につきましたか? 自分のスタイル、スタンス
はつかめましたか? エッセイのようなものを書くときは、個性的な文体とか変わった
視点(異化の技術参照)が読者への訴求力になりますからね。
まあ、個性的といっても、どこか他人の言葉であることをまぬかれる書き手はいない
わけですが、柄谷行人はこう言っています。ちょっと長いけど引用しましょう。
156: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:12:04
構造主義者がおこなったように、文学作品の構造への還元は可能であり且つ必要な
ことである。しかし、それが明らかにするのは、ある種のテクストには必ず還元不能な
何かが残るということである。なぜ、われわれはある種のテクストを作者の名で呼ぶの
か。それはロマン派的な 「作者」 の観念のためではない。構造に還元できないような何
かがあるかぎり、そのかぎりにおいて、われわれはそれに固有を名を付すほかないので
ある。実際、構造主義的分析が成功するのは、神話や大衆的文学にかんしてのみである。
固有名について語ることで、私は別に作品を生み出した作者、あるいは主体の地位を回復
しようとしているわけではない。ロラン・バルトが言うように、「作者は死んだ」 といって
もよい。しかし、たとえばバルトの著作に言及する際に、私はそれらを 「バルト」 という
固有名で名指さなければならない。そうすることは、それらがバルトに属するものだという
ことを意味するのでない。そこに、たとえば構造主義とかポスト構造主義といった類(集合)
のなかに回収しえない、「単独的」 な何かがあるということを意味するのだ。それは、バルト
自身が意図したりコントロールしたりしえないもであり、さもなければ、それらは 「特殊性」
でしかなくなるだろう。
(「個体の地位」『ヒューモアとしての唯物論』)
157: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:12:59
通俗的に個性的な文体といっているものは、ほとんど 「特殊性」(例えば若者言葉
に代表されるようなもの)と言っていいものでありましょう。
別の箇所で氏は、この構造に還元できない 「単独性」 を、猫のたとえにしてさらり
と、なにげに 「愛」 であるなんて言うのです。
巷間では、ジャンクフードのように供給、消費されているアイ(love)ですが、こう
いうインテリゲンチアにとって、この種の語はほとんど禁句であるはずです。めったな
ことでは、愛なんて言葉をストレートに使ったりしないものなんです。そこのところも
引用しちゃいましょう。
158: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:13:59
《たとえば、ここに 「くろ」 という名の猫がいる。特殊性という軸でみれば、
「この猫」 は、猫という一般的な類のなかの一つであり、さまざまな特性の束
(黒い、耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、
単独性という軸でみれば、「この猫」 は、「他ならぬこの猫」 であり、どんな猫
とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているから
ではない。ただ、それは私が愛している猫だからである。》
159: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:15:03
氏は、「人間」 という語を用いるのにも気をつかうと、違う論説のなかで言っていた
くらいです。このテクストには柄谷行人の、ひとつの語に対するひそかな決意とか決断
があり、まさに構造に還元できない 「愛」 が、「単独性」 があると、私は感じてし
まうのでした。
たまたま前を横ぎった野良猫や、ゴミを漁っているカラスに、いちいち名前を付けて
いる人はいないと思います。私たちの固有名─名前というのは、自分を指標するためと
いうより、むしろ自分以外の、他者がそれを必要とするために用いられ、名付けられ
るのですね。
ペンネームとかハンドルとか、私たちは自分に好きなように名前を付すことができま
すが、例えばtina、と呼んでくれる人がいてはじめて、その名が自分に与えられるわけです。
そして、栄えようと衰えようと、また良くも悪くも、その名を忘れない人のなかに単独性
はあるのです。映画の 『ミザリー』 なんかは、それをもっとも極端に表したものかも
しれませんね。
160: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:16:06
文章の持つ身体性として、どんな個性があってもいいし、自分のコントロール下に
あるからこそ、それは道具にも武器にもなります。技術もその範疇でしょう。しかし、
そうしたものを越えて、読者の心を捉えるテクストのよろこび、味わいというものも
あるのですね。そのようなテクストとは、柄谷をリスペクトして言えば、
「ただ、それは私が愛している(人の)言葉だから」 だれのためにでもなく、義務感
からでもまなく、それを読むのです。
例えば、自分を固有名で呼んでくれる近しい人からの言葉、あるいはそういう人へ向
けて書いたもの、そういうダイアローグ(対話)的なテクストには、単独性を感じやす
いかもしれません。
誕生日に、「お母さん、だい好き」 と書かれたカードを見て母さん涙ぽろぽろ、徳光
さんもらい泣き、みたいな。
161: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:17:27
― 場面転換の汎用的方法 ―
いつ・どこで・だれが・なにを・どうする。
俗に5W1H(上では 「なぜ」 が抜けているが)といわれる要素は、情報の
明確性や信頼性をはかるのに最低かつ必要な条件であり、報道の基本事項でもある。
これは別に専門的な話ではなく、ごく日常的な理屈の話である。
「あなた! こんな時間までなにしてたの! 」
午前様のぼくに向かって妻が怒鳴る。元来、臆病者のぼくはひとまわり小さくなり
ながら、いや、その、会社の打ち合わせで……とかなんとか、もっとらしく例の5W
1Hをさりげに使って、妻を納得させるのだ。それに、子どもが起きるよ、とか。
「ふーん」と、にらみを飛ばす妻。
ぼくは風呂に入り、湯船にどっぷりと浸かりながら、あくび混じりのため息をつく。
あっとぼくは声をあげそうになって、みるみる思い出す。背広のポケットに、キャバ
レー 『パフパフ』 のレシートを、うかつにもそのままにしてあったのを。
腰を半分浮かしかけた湯のなかで、ぼくのちんちんは縮みあがっていた。
162: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:19:20
私たちの世界がパラレルな可能世界に侵食されているのでなければ、事実は
ただひとつしかない。犯人(ぼく)は、アリバイを作るために二重三重の虚構
を作り出す。だが、その話はどこかで現実との整合性を欠き、ひとつしかない
はずの事実は二転三転し、情報の確度は失われ、結果的にウソは破たんする。
小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、そしてそれを
まったきひとつの(虚構)世界として描くのならば、当然そのなかの事実もひとつ
であり、<いつ・どこで・だれが・なにを・どうする> のかというルールは暗黙
のうちに守られなければならない。それをふまえて、場面転換の汎用的方法という
ものを考えてみよう。
163: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:21:44
目を閉じて、顔を横に動かして、目を開けてみる。そこには違う景色が映って
いるはずだ。あたり前じゃないかと感じるかもしれないが、この景色の跳躍は、
映画の表現力を革新させる(実は偶然の)大発見だった。もし、カットとカットを
組み合わせてシーンを構成するモンタージュがなかったら、大げさに言えば、映画
はいまだに固定された画面のなかを人が出たり入ったりする演劇であっただろう。
景色の跳躍を、もっとユニークに、よりダイナミックに動かすと、場面は転換する。
好例は場面転換で紹介したものをいま一度味読してもらい、凡例は上に書いたお粗末
な話のように、どこにでも転がっているので苦はなかろう。
<いつ・どこで・だれが・なにを・どうする>
この五つの軸線が話の整合性を保つのに必要な要素であるのはわかったこと、加えて
同時にこれは時空と運動の関係として捉えることができるし、構文の基本形としても捉
えられる。つまり、時間(いつ)、場所(どこで)、語り手・人称(だれが)、
対象・名詞(なにを)、作用・動詞(どうする)、というふうに。
このなかで場面の基軸となっているのが、<いつ・どこで・だれが> である。通常の
文章では、これらは(省略されていたとしても) 一致した状態にある。ひとつのカメラは、
ひとつの直示性を前提にしている。だから、「あした、わたしはカレーを食べた」り、
「今日は家で本を読みながら、学校でテレビを見る」 ことや、「彼が山田君の家へ行くと、
ぼくが山田君と遊んでいる」 事態にはならない。説明するまでもないと思うが、これらは
時制・場所・語り手の不整合がある。面白半分でこういう二重視点の叙法に手をだしても、
単に作者のリテラシー(読み書き能力)を疑われるだけである。あえて使うとしたら、日本語
のあやしい外国人のセリフとして、そのインチキ臭さをだすためとか、そんな使い方にした
ほうがよい。
164: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:25:42
ともかくも、普通に書いていれば視点は均衡して、ひとつの場面が生成される。
そしてその場面場面を連続的に布置してゆけば、自動的にそれは物語上のシーク
エンスとなる。しかし、いつまでも同じ時間、同じ場所に居座っているわけにも
いくまい。読者は、物語に変化を求めるものだ。
ちまちま視点を動かしていても埒が明かないので、書き手は連続した場面の
<いつ・どこで・だれが> の軸のどれか、あるいは複数をずらす。前の場面との
ずれが大きければ大きいほど、場面転換としての効果も大きくなり、行空けや断章
の形式を生み出すことにもなる。基本的には、この三つのパラメータをいじること
でさまざまなパターンの場面転換が表現できると考えてよい。
165: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:26:16
例えば、<いつ(時間)> だけをずらしみる。
人物:太郎 場所:机 時間:深夜>>朝
と、設定し、<なにを・どうする> に、「勉強中いつの間にか寝てしまう」
という行為をつないでみれば、どのような場面転換として叙述すればよいか大体
わかるだろう。
<どこで(場所)> でいえば、災害や事故などの外的要因によって、その場の
様相が一気にガラリと変わってしまうことも場面転換の一種と捉えられる。
<だれが(語り手・人称)> の軸を動かすのは、一人称視点か三人称視点かの
形式で少し変わってくる。
一視点の場合、いわばカメラの持ち手を代えることになる。同じ 「わたし」 で
あっても、カメラマン(語り手)が代われば、画の作り方(書き方)が変わるのは
むしろ自然であろう。といっても、小説は基本的に個人の営為であるから、ここで
問題となるのは作者の人物造形力と、人格(文体)への没入力、持続力である。作者
はひとりで何役もこなさなければならない。いくつものハンドルネームをもって、
すべてのキャラクターを苦もなく使いわけられるマルチアイデンティティな人は、
一人称小説向きかもしれない。
ただ、一編の小説中で主人公をそう何度も代える機会はないだろう。最初から書簡体
形式を採用するか、断章形式で語り手を代えるか、『こころ』(漱石)のように、先生
の手紙という違うテクストの形で本文に挿入するか、あるいは長い会話、そういう工夫
がまず必要になるのであった。
166: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:28:58
三視点の例は、>>7 にみる通りだから多言するにあたるまい。要は視点(焦点)人物
をずらせばいいのだ。
三視点の自在性と透明性は、映画的なカメラワークに類似した技法に適している。
特に継ぎ目を感じさせない場面転換はかなり技巧的で、川端のような手筋はそうお
目にかかれない。テクストを分析するのも骨が折れるので、もし場面転換のいいお手本
を捜そうと思ったら、小説より映画を観たほうが手っ取り早いかもしれない。
しかし、文章化のむずかしいものもある。例えば、『プライベート・ライアン』
の冒頭と最後で現在と過去をシームレスにつなぐ手法は、CG技術のたまものだろう。
映像をすべて言葉に直訳するのは無理があるが、そこをなんとか言語表現の技術に
置換してみようと創意をめぐらしてみるのも面白い。
映画草創期の監督、エイゼンシュタインは、自身のモンタージュ理論を確立するのに、
日本の俳諧のもつコードを知人から聞いて、その着想を得たといわれている。発句
(五七五)と脇句(七七)の関係は、べったりくっついていてはいけないし、まったく
切断さていてもいけない。付かず離れずの曖昧な言葉(イメージ)の関係によって、句
の連なりがひとつの情趣をかもしだす。この句と句の連結関係を、エイゼンシュタインは
カットとカットの連結関係にみたてた。それに近いものが、>>2 のような手筋だと思えば
いい。『プライベート・ライアン』 なかにも、地面を打つ激しい雨音が戦場の銃撃音と重な
ることで場面転換するシーンがある。
さすが文芸はエライというのではない。表現技術は、ジャンルを飛び越えるのである。
タコツボに進歩はない。
167: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:30:14
〔前スレ501さんの書き込み〕
> 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、
> そしてそれをまったきひとつの(虚構)世界として描くならば、
>当然そのなかの事実もひとつ
芥川の藪の中は?
*
*
『藪の中』は、断章的に話が独立していますよね。そして、個々の話(世界)
は整合性がとれています。ただ、それらの話が、同じ時空間上の同じ事象を語っ
たものである、という 「了解」 のなかで読まれたとき、それは同時並行(パラ
レル)の可能世界として認識されるわけです。また、そう読まれることを前提に
しなければ、この作品の面白さはないわけですね。
もちろん、もっと前衛的に、個々の話をひとりの語り手のなかで輻輳(ふくそう)
させてしまう方法もとれるでしょう。しかしそうなると、もはや物語や場面転換が
どうのというより、小説という表現の可能性を問う話になってしまいます。一場面
転換の技術から、メタフィクショナルなところまで射程に入れてしまうと、ちょっと
荷が重いですね。 「汎用的方法」 でもないでしょう。だから、通論として、ひとつ
の物語(世界)がもつ時空間上のルールを 「ふまえて」、場面転換を考えてみましょ
う、ということなのです。
168: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:32:11
自由間接話法とは、フランス語のフランス語による表現形式であり、レトリック
である。言語体系の違う日本語で、その文体効果を再現させるのは難しい。
日本語は、インド・ヨーロッパ語族のように、人称が文の成分として切っても
切れない要素になっているわけではない。そもそも、文脈重視の室内言語である
日本語には、西洋語のいう主語は元々ないのだという論もある。〔うるさくいえば、
守護ではなく主格がある〕 人称は、修飾語とそう変わらない扱いを受け、付け外
しが自由である。ために、語り手の位置がしばしば不明瞭になりやすく、人称を伴
わない主観的言説をゼロ人称や四人称(こういう呼称は語弊があると思うが)と言っ
たりもする。自由間接話法はこれに近いものだ。その意味で、自由間接話法的表現
は、そのカッコよさげな名前に期待されるほど、文体として特段目立つことはない
と思われる。 それでも、うまく使えばそれなりの見栄はするので、その形を(フラ
ンス語のレクチャーなどできないので)日本語に即して紹介しよう。
169: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:33:14
まず、自由間接話法以外の話法との違いを比べておきたい。直接話法と
間接話法の二つである。
「〈これこそ私の最高傑作です〉と彼は言った」
直接話法はおなじみの書き方だろう。地の文(語り)とセリフを分けて、誰が
それを言っているのかを判然とさせる。
原則、語り手は人物の発した言葉をそのまま再生しなければならない。日本語
は、くどさを避けるためもあって、往々に人称(ここでは私)を省いてしまうこと
が多い。西洋語ではなかなかそうはいかないので、人称を勝手に省くと直接話法で
はなくなってしまうのだが、そこは先に言ったように言語体系が違うので厳密に
考えなくてもよい。
170: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:34:02
「彼は、これこそ最高傑作だと言った」
間接話法は、人物のセリフを単に地に開くことではなく、又聞きしたことを話す
ような表現に近い。発話者の一人称が単純に省かれるのはもちろんだが、語り
手の人称と時と場所に、セリフを従属させ、ひとつの文に組み込んでしまうよう
な書き方である。
「〈これこそ最高傑作だ〉と彼は言った」 こう書いてもいいのだが、前後の
文脈がないので、これでは直接話法との違いがわかりにくいだろう。日本語的には、
語り手の用いる主語(三人称)と述語の間に、他者のセリフの部分を挟んだほうが
それらしい構文になる。
この文体は口語から取り入れられたもので、もっとくだけた書き方をすれば、
「ねえねえ、部長ってマザコンなんだって、さっきそこで聞いちゃった」と、こう
した間接話法は日常会話によく使われているものである。
171: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:36:17
「これこそ最高傑作だ。作品にこめた彼の……」
これだけ見せられて、自由間接話法だと言われても、どこが自由で間接なのか
さっぱりだろう。間接話法に増して、このレトリックは、ここに掛かるテクスト
の形式と文脈をまず要するのだ。(そこは『ボヴァリー夫人』の例を出して説明する)
間接話法と比してみれば、省略されている部分が何かすぐわかるだろう。人称は
当然として、「―と言った」という語り手の指向性が消されている。単なる地の文
となにが違うのかといえば、自由間接話法の言辞は、主観的な思惑や感情の表明と
なっている点である。そして時制は現在形をとる。だから、「これこそ最高傑作で
ある」 と書くべきだろうが、何もお固く考える必要はない。日本語の時制には厳密
な形式性がないので、とりあえず主観を表する文として機能していればよい。ニュ
アンスを優先しよう。
では、『ボヴァリー夫人』 の例を見てみよう。
172: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:40:18
『ボヴァリー夫人』 上巻83p
四年間も居を構えて 「やっと根を下ろしかかった」 頃にトストを見捨てるのは、
シャルルにとっては痛手であった。しかし必要とあらば仕方がない! 彼は妻を連
れてルアンの町へ行き旧師に会って診察を乞うた。それは神経のやまいであった。
転地させねばならない。
173: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:41:30
過去形文が、客観的リアリズムを支えるひとつの文体、ニュアンスであること
は前に述べた。それは、語り手を物語に介入させないための自覚的形式である。
『ボヴァリー夫人』のテクストは、ほとんどが過去形で占められている。
フローベールは 「文体だけが事物を見る絶対的な方法なのです」 と言うくらい、
文体にこだわった作家である。彼は自由間接話法を使って、瞬間的に語りの視点を
滑らせ、語り手と人物の位置を曖昧なうちに同化させることに成功する。
「しかし必要とあらば仕方がない!」
この記述は、文脈からしてシャルルの心理と読めるが、セリフは地に開いており、
シャルルを指向させる語を語り手は示さない。では、これは神の視点を持つ語り手の、
つまりはロマン派的な作者=神の叫びなのだろうか。いや、ロマン主義者はたぶん、
こんな手の込んだやり方はしない。もっと堂々と物語のなかで熱弁を振るうであろう。
『ボヴァリー夫人』 の語り手は、物語から一定の距離を保ち、その位置取りを決し
て崩さない。語り手は、現在形で自らを明々と照らし出してしまうようなヘマはしな
いのだ。そうした文体があるからこそ、自由間接話法が活きるのである。
日本語でこれを読む者にとって、このレトリックの違和感はほとんどないのではなか
ろうか。どちらともとれる二声的な文体を、なにか特殊な表現をしているとは感じない
だろう。人称が付随的で、言わなくてもわかることは言わないという、話し言葉のコード
を書き言葉にも多々適用してしまうので、私たちにはふつうに読めてしまうのである。
174: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:42:10
フローベールの手筋に学ぶなら、まずは文脈をしっかり作ること。そして
自由間接話法にあたる言辞を、作中人物の主観と重なる形で織り込むこと。
文はあまり長くないほうがいいだろう。連続使用はさらに控えなければなら
ない。現在形は、語り語られるものをいま・ここの場に指向させるニュアンス
を作り出すので、それが連続すれば、どうしてもあからさまな語り手の思弁と
映ってしまう。三人称の神様が、臆面もなくべらべらと物語に闖入してくる
体裁とは、やはり技術として一線を引いておかなければなるまい。
語り手のささやかな声と人物の心理が、そこはかとなく一緒に響く、そんな
繊細さが欲しい。
175: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:43:09
例の最後の一文も自由間接話法ですね。なんとなくどういうものかわかりました?
三人称形式の小説だと、知らず知らずこういう文体になる可能性はあると思います。
語り手は人物の心理を代弁する以外、説教を垂れたり、感情的にわめいては
いけないという文体上の抑制をかけないと、自由間接話法のずれが活きない
ですからね。最初から、それこそ自由に書きたい、そんな煩わしい形式なんて
知らない、という小説ならこの技術は意味のないものだと思います。
176: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:43:54
〔前スレ517さんの書き込み〕
自由間接話法というのは今ではあたりまえの手法だが、
ということは、
フローベール以前の作家、バルザックやスタンダールにはそういう手法は使われていなかった。
少なくとも一般的ではなかった、ということですね。
*
*
そうですね、フローベール以前にも、自由間接話法を使う作家なり作品は
あったのですが、小説でこのレトリックを効果的に使ったのは、彼が最初だと
言われています。今では「自由間接話法」 は文法として理解されていますが、
文法は20世紀半ばから本格的に研究されだした新しい学問ですから、当時は
あくまで文体、語りの表現法のひとつという意識だったでしょう。
小説は直叙でなければならない。この理想の追求から、フローベールは自由
間接話法に新たな可能性を見出したのかもしれません。まあ、ここらへんの
むずかしい話は、フランス文学史とその書き言葉(エクリチュール)の変遷に
ついての知識(当然フランス語をマスターして)を要します。
もっと詳しく知りたい方は、自分でお勉強してね。
177: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:44:26
バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の書き出しの一部を見ましょうか。
―とはいってもこのドラマが始まる1819年には、そこにひとりの気の毒な娘が寄宿
していた。悲壮文学のはやる今日このごろ、むやみやたらと誤用され酷使されたために、
ドラマという言葉がどんなにか信用を失ったとはいえ、ここではやはり、それを使わな
いわけにはゆかない。この物語が、言葉の真の意味で演劇的だからというのではない。
だがこの一巻の物語を読み終えたときには、《都の城壁の内でも外でも》 〔訳注 パリ
でも地方でも、の意〕、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。
178: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:46:15
なんと自信満々でエラソーな語り手でしょう(笑)。これでは自由間接話法
なんて霞んで問題になりませんね。
バルザックは、1834年にこの作品を執筆し始めています。、この約二十年後に
『ボヴァーリー夫人』 が登場するわけです。ほぼ同時代と言ってよいでしょう。
フローベールの文体がいかに革新的であったか、近代リアリズム小説の旗頭とさ
れるのも当然かと思います。
179: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:46:51
―『永すぎた春』とポストモダン的なるもの ―
『永すぎた春』 は青春恋愛譚である。三島特有のアフォリズムや比喩が小気味
よく、また話もわかりやすくドラマ的で、純文学というよりは俗受けを狙った娯楽
小説、という見方にさして異論はない。実際この小説は俗受けしたので、単行本
の上梓から半年もたたないうちに映画化された。
それに、ウブなお嬢さんが電車のなかで読まれても、恥ずかしい思いをしなく
て済むように書かれている。まちがっても、「百子は郁雄のたくましいペニスを
小さな口で……」 なんて表現や場面は出てこないから、となりの客に覗き読み
されても安心だ。さすがは三島である(ちょっと違うか)。
しかし本当にさすがというべきは、作品を通俗(飯の種)と割り切って書き捨て
ない三島の文学者としての矜持であり、『永すぎた春』 にはその文学的なカラクリ
がしっかりと仕組まれてある。
180: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:47:27
話は単純だ。主筋は、主人公である宝部郁雄(いくお)と木田百子(ももこ)
の、婚約→結婚の道程を語るものである。このプロットだけを与えて、なにか
小説を書けというと、どうだろう、春樹的な 「僕」 が出てきてうだうだセン
チメントするのが現代的にイケてる書き方でなのであろうか。
ロマンスとセンチメンタルは飽きられたことのない 「通俗」 の強力な武器で
あるから、そこに飛びつくのは至極まっとうな感性であろう。それを卑しみ馬鹿に
してきた 「純文」 が凋落して、それこそ黄昏たことを言いだすのも面白いとい
うかあわれな話だけれども、書けることと同時に読めることの能力が文学である
ならば、通俗でありながら文学であることはなんら矛盾しない。
うだうだもいいが、恋愛小説に物語の機能をしっかり持たせてやると素直な読者
はもっと喜ぶにちがいない。それは、愛の試練という甘美な響き。
181: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:50:17
主人公たちにとって、敵や障害、つまり郁雄と百子の信頼関係や結婚を邪魔
する者たちがいてはじめて、物語にサスペンスが生まれる。私たちの実人生に
おいては、なるべく波風を立てないよう社会秩序に従うのが賢い生き方であろう
が、しばしばそれが 「退屈」 にみえてしまうのも確かである。退屈を紛らす
ために小説を読んで、いっそう退屈が増進するはめになってはやるせない。
娯楽(ゲーム)に敵はつきものなのだ。
ここで主要な役者を並べてみよう。
宝部郁雄:T大法学部のまじめな学生。お坊ちゃん。
木田百子:古書店の看板娘。元気ハツラツ。
宝部夫人:郁雄の母。通称、無敵不沈戦艦。
宮内 :郁雄と同じT大の友人。28歳、妻子有り。
吉沢 :郁雄の友人。影のある男前。
本城つた子:都会気取りの艶女。画家。
木田東一郎:百子の兄。通称、雲の上人。
木田一哉:百子の従兄。詐欺師。
浅香さん:看護婦。東一郎にみそめられるが……。
浅香つた:浅香さんの母。貧乏という病。
182: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:50:51
「幸福」 のプロットをぶち壊しにする危機、これを惹起させるのが、一哉・
つた子・吉沢・浅香つた、の四人である。そしてなにより、二人(郁雄と百子)
の 「生殺与奪権」 を握っているのが郁雄の母、宝部夫人であり、この小さな
神話(物語)における気まぐれな神人は、援助と災難を同時にもたらす裁定者
でもある。唯一、二人にとって利害を入れない味方となってくれるのが、人生
経験豊富な宮内だ。
敵と味方と超越者。
こうして物語の構図を開いてみれば、まさに古典的ともいうべき三極構造が
現れる。別種のパターンとして三角関係のドラマが奥様方を魅了するように、
〝三〟 は物語の定番的構造である(『ずっこけ三人組』 『三銃士』 『三国志』等)
大体においてカッチリした物語というのは、こういう構造に支えられている。
それは別段珍しくない薀蓄だが、こういう構造分析をやるとキリがないので
やらない。
三島劇場の開幕はここからだ。
183: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:51:24
では、物語の筋を追いつつ小説の深部をさぐっていこう。
最初の危機は、二人(郁雄と百子)の婚約がやっと決まってめでたいと喜んで
いる矢先、百子の従兄である木田一哉が詐欺の現行犯でタイホされ、新聞の三面
記事にさらされる。これを目にした宝部夫人は青ざめるやら真っ赤になるやら。
『だから言わないこっちゃないんだ。私のカンは正しいんだ。だからあんな家の
娘と婚約なんかさせるべきじゃなかったんだ』 とすっかり冠を曲げてしまう。
仮にも上流階級である宝部家が、犯罪者を抱える家とねんごろになるなんて、
末おそろしい。とにかく、平身低頭なにか申し開きがあるものと思っていたら、
木田のご夫婦はずいぶんとのんきに構えてるんだからあきれちゃう。おまけに、
一哉(とかいうゴロツキ)をかばう百子の態度ったらなんなの、えらい神経に
さわるわ(私を殺す気かしら)。郁雄のためにも、こんな恥知らずな嫁をもらう
わけにはいかない、絶対にっ。
ところが、折り悪く、婦人の良人の弟(役人)が汚職で摘発。新聞の一面を
デカデカと 「宝部」 の文字で飾ってしまう。一哉の件など比較にならない身内の
とんだ面汚しに、宝部夫人はあっさり手の平を返して(こういう羞恥心には鈍感
らしく)百子と仲直りを図る。
《「― 丁度オアイコなのよ」
と夫人はいとも軽やかに言った。》
184: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:51:59
僥倖、郁雄の知らぬ間に事の破局は避けられたものの、宝部夫人のこの性格
がのちに大きく災いする因子であることを、読者に印象付けるのであった。
次なる危機は郁雄に降りかかる。
彼は若いくせに古風な貞操観にこだわる青年で、また、大学の卒業が結婚の
条件ということもあって、婚約期間中は百子(もちろん処女)と 「アレ」 は
しないぞ、勉強優先でがんばるぞ、と決意する。なかなか見上げた心意気であ
る。とはいっても若い男子、やっぱり溜まるものは溜まるわけで、アッチの
処理はどうなしているんだろう、なんて余計な心配をしてしまうところへ
つた子登場。
185: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:53:31
あたくし、田舎っぺを相手にするような安い女じゃなくてよ。
という感じの、いかんにも都会の洗練された女を演じるつた子にとって、郁雄
みたいな坊やを手玉に取ることなど朝飯前である。
で、
『この娘〔百子〕はどうあっても、結婚まで大事にしておかなければならない。
指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、
一日も早く、百子のために、つた子を捨てることだ。よし! そう決めたぞ』
とまあ、女性を擬物化して新品と中古品のそれと同じ扱いをしようと、およそ
T大生らしからぬ短絡的な結論を導くわけだが、さすがにちょっと不安になって
親友の宮内に相談を持ちかける。彼は28歳で妻子があり、学生の身分でいったい
どうやって生活しているのかしら、なんて疑問もわいてくるけれど、とにかくも、
人生の場数で宮内には一日の長がある。
「君のやり方は、回避しながら深入りしてゆく典型的な例だから、危なくて見
ちゃおれんね」
まあ、別につた子とやりたきゃやればいいさ。俺の女じゃないし。だが、それ
ではなにも知らない百子さんが不憫でもある。どうやら、この世間知らずのお坊
ちゃんには、人生の修羅場をくぐり抜ける儀式が必要らしい。
186: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:55:01
つた子を 「知る」 ために、夜、そぼふる雨のなか彼女のアパートを訪れる
郁雄。戸口にメモ。
「一寸(ちょっと)買物に出てきます。カギはドアの下にかくしてあります。
中で待っていらしてね」
ひとり部屋に上がって帰りを待つ。…低く流れるラジオの音楽。意匠を凝らし
たアトリエの調度。重くたちこめる香水の匂い。郁雄は、手もなく甘いわなに捕ら
われ、長椅子(ソファ)に寝そべってぼんやりとまどろんでいた。
ノック。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、つた子ではなく、宮内と百子であった。
郁雄ははねおきた。
恋人がほかの女の部屋にいる。悪夢のような現実に、百子は 「帰って……
私と一緒に帰って」 そう言うのが精一杯で、郁雄の顔を見ることもできない。
郁雄としてもこれは目が覚めるような悪夢であった。
「対決するんだよ。裁判をやらかそうと思って、俺はやって来たんだ。人間と
人間とは、かち合わせてみなきゃ、何も判らん。おとなしくつた子の帰りを待ち
たまえ」 と宮内。
187: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:55:35
もはや言い逃れのできない状況に、郁雄は従うしかなかった。
ほどなくしてつた子が帰ってくる。予想外の面子に迎えられ、神妙にしている
百子を認めたつた子は、どうやらとんだ茶番に巻き込まれたらしいと、気がささ
くれてくる。
「でも私、郁雄さんとはまだ何でもなくってよ」 「大変な大芝居なのね」
(百子をとるか、つた子をとるか)「サイコロで決める?」
百子とつた子に挟まれて、郁雄の惨めさはいかばかりか、ざまあないのである。
それでも、小説としてドロ沼の愛憎劇を描こうというものではないから、フィアンセ
である百子が裏切られるような急展開はない。このあと、つた子が椅子に掛け
てあった百子のレインコートをはたき落とす場面で、奇妙にあっけない決着をみる。
「レインコートをお拾いなさい」
「お友だちがいると勇気が出るのね」
「お拾いなさい」
「御自分で拾ったらいいんだわ」
宮内が、レインコートが山場だったというように、このやり取りに決定的な
決別があらわれているのだが、それを説明するには少し話をさかのぼってみな
ければならない。そもそも、どうして郁雄はつた子に惹かれたのか。魔が差し
た、火遊びが過ぎたなどというほがらかな理由で片づけるわけにはいかないのだ。
188: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:56:10
どこからか仕入れたジェンダー(性差)の観念を装備して、一個の女を自認
するつた子は、素朴自然主義的な百子とは対蹠的な空間に身をおいている。
服飾と美容に金をかけ、高雅な趣味を持ち、そしてなんとも近づきがたいオーラ
を発散して並みの男どもをたじろがせる。お高くとまるのはいいけど、気づいて
みればオールドミスに入りかけ…。たしかにそれは、都会のハレやかな舞台に昇って
自らを広告する女の成りゆきとでもいうもので、いかにも今日、「負け犬」 と称さ
れるポジションである。
「そうね。はじめ思想や主義を作るのは男の人でしょうね。何しろ男はヒマだ
から。― でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあいなんて
ことを考えないですむもの」
つた子のこの考えには、むしろ女性らしい卑屈さがにじみ出ている。
同姓とうまく、仲よくつき合えない性格があり、かといって数多の男との浮名
を流すような尻軽女にもなれない。彼女にとって男は、部下や生徒のような位
にあるのが望ましく、決して自分より強い男とは関係を持ちたがらない。バカで
威張りくさった男は、つた子の芸術的感性にそぐわないのである。その点、年下
で優男の郁雄は、理想のパートナーと映る。
189: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:57:27
郁雄には不満があった。
自分の露わな嫉妬のほむらが、百子の頬を幸福に火照らせる。しかし、それが
彼の自尊心に火傷を負わせるのだ。年下の女性に対して、人間的な小ささや弱さ
を見せたくないと思うのは、男性の正直な心理であろう。けれども郁雄は、どう
も武張った男になれない。百子の前で、男としての理想と現実がきしみ、うまく
歯車が回らなくなる。
口には出せないが、精神的に、百子も弱いところを自分に見せて欲しかった。
それで 「オアイコ」 になれるのに、百子は負けん気が強すぎて嫉妬のしの字も
見せないのである。
190: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:58:01
つた子の前では、少なくとも精神的な矯飾にわずらうことのない安堵があるに
違いなかった。端的に、楽なのである。
「僕がだらしないことから起こった事なんです」 と郁雄が言うとおり、男とし
てだらしなくいられる場所(つた子)に惑溺したかった、それは百子に対してなに
か当てつけたいという、それ自体女々しい底意から生じたのである。
受動的な立場に甘んじることの快楽。つた子の部屋で待つ郁雄の姿に、それがよく
あらわれている。フロイト的解釈をすれば、部屋とは女性器のシンボルである。
そしてそのなかで郁雄は、いきり 「立つ」 のでなく逆に弛緩して長椅子に 「横た
わって」 しまう。これは男としてつた子を抱くというより、むしろつた子に抱かれる
ために待っているといったほうが正しい。郁雄は、はからずも〝娼夫〟に堕している。
191: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:02:57
とかく 「人工的」 と三島の小説は揶揄されるが、どうしてつた子の陰影の
つけ方は秀逸である。いつも澄ましていて、あまり笑うことのないつた子が、
最後に、心中もっともつらいシーンであえて見せる微笑み。しかもそれをこと
さらに表現しようとする臭みやクドさがなく、三島らしからぬ? ゆかしい筆致
は見事と言うほかない。
192: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:03:35
この一件のあと、
「彼女が発見したのは、郁雄の弁明しようのない弱さ、彼自身がいつもそれと
戦って、それをひた隠しにして来た弱さに他ならなかった。自分の恋人を弱者だ
と感じることくらい、女にとってゾッとすることがあるだろうか!」
と語り手は思弁する。古きを尊ぶ、古書店の家風のなかで育った百子が感じた
弱さとはなにか。百子は怖れ、つた子は受け入れた弱さの本質とは。
ここで私は、小説のテクストから、文化・社会の背景へと視線を伸ばす。なにも
弱い男というのは郁雄だけに限った話ではないだろう。ここに語られている弱さ
というものが、ポストモダン的な時代を予兆するなかで書かれていることに目を
向けてみよう。
193: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:04:18
この物語の時代背景は、昭和30年代(1955)の初めごろとみていいだろう。
つまり、小説の執筆時期とリンクしている。敗戦の荒廃から十年余り、はや日本は
平和のぬるま湯につかりはじめていた。
「もはや戦後ではない」 という名文句は、昭和31年の経済白書に記されたもの
である。同31年には、若者の風俗をあけすけに描いた問題作、『太陽の季節』(石原
慎太郎)が芥川賞を受賞し、文学の不可逆的地滑りが起こる。
週刊誌が続々と創刊され、昭和33年には東京タワーと言う巨大なペニスが都心にそそ
り立ち、やがてそこから、良識の人をして低俗と卑下される番組が全国に垂れ流される
であろう。そして、俗臭ふんぷんたる世相を揶揄して、「一億総白痴化」 なるコピーが
登場するのもこの時期である。いよいよ大量消費と情報化の波が社会を洗い始めたので
あった。
もう男たちは、銃を手に、あるいは爆弾を抱えて、死にに行かなくてもよいのである。
火の雨と銃爆撃に脅えることもない。貧しくとも、明日への望みが、夢が、人々の心に灯った。
時代は変わったのだ。男の仕事は、戦争から金儲けにシフトする。そこで男は、郁雄の
セリフを借りて言えば、「公然と許されすぎている」 のだ。弱さが。
男たちは強さの脅迫から開放され、モラトリアムとなってあふれ出た。今日に続くポスト
モダンの萌芽がここにある。昭和30年過ぎは、その兆候が次第に表面化してきた時期で
あったろう。
194: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:04:53
強い力(組織のコード)が頽勢し、弱い力(私的なコード)の優位を得て新た
な文化がその相貌を現した。それがおおむね戦後の社会・文化的な時代の流れで
ある。
絶対的な他者(神・父・天皇・死者等)を解体してきた近代とその後(ポスト)
のよるべとして、人は、「自分自身」 を信じて生きていく、という再帰的自己像
のあやふやな仮構に他者―中心のモデルを求めるようになるだろう。このメタ
フィクショナル(自己言及的・決定不可能的)な戯れの果てに、オタク系文化に
顕著にみられる並列世界が現じてくる。
それは、東浩紀の分析を拝借すれば、データベース化した、カスタマイズ可能な
断片的中心(萌え)だけを持ち歩き、総体的中心(理念)を必要としない文化の
形態である。(くわしくは『動物化するポストモダン』)
この観点からもう一度テクストを読む。
195: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:09:24
まず結婚の裁量が家から個へ、自由恋愛がそれなりに尊重される社会風土なし
にこの物語は成立しない。女性の横恋慕を可能にするのも、社会的ヒエラルキー
(強い力)が個人を縛りつけることができなくなったためである。
「私だって― 本当に好きだった初恋の人がありましたのよ。でも― 親の
決めた人のところへ来てしまいましたの」 と語る宝部夫人は当然、戦前の
「強い力」 の信奉者として現代(昭和30年)とのギャップを作中にもたらす。
ポストモダンのひとつの特徴は、それまでの文化・制度・観念の上下関係を
パスティッシュ(ごた混ぜ)に平準化してしまうことである。この小説もそのよう
な磁場の上に立っているのだ。
196: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:12:25
百子を選ぶか、つた子を選ぶか。
実はそこには、読者の目に見えていないだけで、単純なルート選択のカーソル
しか用意されていない。第一、つた子の部屋を訪ねたのも、宮内の助言があって
のことで、郁雄は主体性もなくほとんどその場の流れでやって来ている。本来
あるべき精神の葛藤や苦悶が、ここでは無効化されてしまっている。むしろ直接的
な苦悶を引き受けるのは主人公ではなく、周りの人間(百子であり、つた子であり、
後で出てくる東一郎や浅香さん)であって、主人公はただそれをシミュレーション
するにすぎない。それがポストモダン的なるものの、(村上春樹などにも通じる)
空疎さや弱さではないか。
郁雄は、レインコートというちょっとしたきっかけ(フラグ)で、百子を選んだ
と言ってもいいくらいで、(オススメではないけれど)場合によってはつた子でも
いいという程度の、ある意味ゲーム的な 「対決」 をしただけであった。この場面
に、おそらくは宮内が想像していたであろう、もっと逼迫した人間の緊張感が希薄
なのは、郁雄のなかにもはや他者を背景とした倫理の葛藤(格闘)がないためで
ある(例えば『こころ』(漱石)のKや先生のような)。
極端な話、幼児性愛も調教陵辱も、萌えるか萌えないかのちがいにすぎず、単
なる要素(パーツ)として受容されてしまえば、それは内面や社会の問題として、
齟齬として自己の深部(システム)へ還元されないであろう。ただ皮相な差異だけ
に、感心が留まる。つまるところ、郁雄の欲動はオタク系文化と同質の平面を共有
している、と言いたい。
『永すぎた春』 のもつ軽妙な娯楽性は、駘蕩(たいとう)たるポストモダニティ
から発しているといえ、半世紀を経て、この小説は風化すどころかより現代的になった
のである。そこを批判的に捉えるかどうかは、読者の考え方に任せたい。
197: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:20:02
これで前スレの転写終了です。
ここからのつづきは、またそのうちに。のんびりお待ちください。
一番のんびりしてるのは私なんですけどね(^^;
198:名無し物書き@推敲中?
05/11/05 23:09:12
展開を思いつかずにやけになってオチを先に書いてしまうと泥沼
199:無名草子さん
05/11/08 11:55:23
89
200:名無し物書き@推敲中?
05/11/10 04:20:30
200ゲト―(゚∀゚)
201:名無し物書き@推敲中?
05/11/19 18:42:15
復活乙!
知らない間に消えててしょんぼりしてた。
202: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:35:54
どうも、お待たせしております。といって私の解説を鶴首(かくしゅ)して待って
おられる方は少ないと思われますが、のこりわずかの年の瀬を数えて、ちょっとヤバイ
なんて言ったり言わなかったり、そんな季節になりました。
しかしなんです。前スレの誤脱を直すといって直ってないどころか、誤脱が部分的に
増えてるのはいったいどういう節穴の仕業でしょう。
ええ、もちろん、無駄口というのは進捗かんばしくないところによくわいて出る現象
であることは周知のとおり、三島の解説ぜんぜん書けてません。イエイ
とりあえず、いじることがないだろう解説の頭のところだけアップしますね。
(てゆか、まともに書いてあるのがそこだけという有様(´・ω・`)
>>201しょんぼりさせてごめんなさい。私もしょんぼりしてました。
203: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:38:10
『永すぎた春』 第二部 ―物語られる物語―
つた子をめぐる出来事は、作中最初の山場であった。そのたとえでいえば、
山の向こうは当然谷となるだろう。
ピ――――…と鳴る試験電波に、私たちは音の楽しさを感じないし、
緊張は弛緩のあとのやってくるのが道理である。
起承転結といい対立の技法といい、人はなにかと 「盛り上げる」 部分に策を
弄するし注目をするが、実はそれよりも留意すべきことはいかにうまく話を
「盛り下げる」 かである。盛り下げながらしかし、ここで次の山へ向けての準備
を怠ってはならない。(中編以上の)娯楽小説の出来映えは、この盛り下げの按配
にかかっているといってもいい。
204: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:40:07
百子の兄、東一郎は、大学を卒業しても就職せず、家に引きこもって小説家を
目指している文学青年である。ウソかホントか、文学とは世間から脱臼している
はみだし者の生業(なりわい)であるらしく、それは、ヤクザに刺青といったいか
にもありがちなイメージを想起させる。でも、そこは娯楽性を求める作品の仕様
であるから、大げさにこれを指差して、瑕疵(かし)とあげつらうのもやぼ天で
あろう。それに、どうやら文学を志しているらしいというバイアス(先入観)を
かけられた読み手は、物語終盤の読解において、策士三島の罠にすぽっとはまる
仕掛けになっている。そこらへんのカラクリはまたあとで話そう。
205: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:42:11
文士と病は相性がよいという御多分に漏れず、東一郎もなにやら盲腸炎なぞ
を患ってみたりして手術入院の沙汰となる。このもやし育ちの殿様がベッドの
上でおとなしくしていればいいのだが、じっとしていると体の節々がこってくる
だの、体のどこかに触ってもらっていないと不安だのと訴えるから困りもの。
さようかと、うっちゃっておくわけにもいかず、家族の手を煩わせるハメに。
百子も徹夜で兄の体をもんだり触れていたりと、身内とはいえあまり気持ちがよい
とはいえぬ看病の日々である。
「贅沢きわまるわよ。百子をタダでこんなに使って」
しかし、そう言う百子にも一分の利はあった。つた子との一件で露呈した、郁雄
のもろさ弱さに対する不安や怖れが、さらに不信や軽蔑へと化膿せずに済んだのは、
ひとえに東一郎の看病に打ち込むことの効能、つまり疲労による精神の消耗のおかげ
である。
206: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:46:04
郁雄も手伝いにやってきた。ここは罪滅ぼしにもいいところを見せねばなら
ない郁雄は、積極的に東一郎の看病を買ってでる。このようにして、二人でひ
とつの物事に取り組むことは、お互いの距離を縮めるのにけっこう役立ったり
する。
さて抜糸も済み、体力も回復し、もう退院してもいいというのに、東一郎は
なかなか退院しようとしない。病院の陰気くささがそんなに気に入ったのかと
いうとそうではなく、なんと、担当の看護婦(これが美人と決まっている)の
「浅香さんと結婚させなければ退院しない」 と、ふざけたことを言う。
ところが本人いたって大まじめ、さすが凡俗のちりを厭う文士の風上、男女
のなれそめをしっぽり描くようなまわりくどい大根芝居はしない腹である。
どうやら東一郎は、郁雄と百子がイチャついているのを見て、自分も献身的に
尽くしてくれるお嫁さんが欲しくなったらしい。それでもって、なんやかやで
浅香さんと東一郎は婚約してしまう。んなアホな(うらやましい)という話だが、
小説では書き方しだいでんなアホな(ねたましい)ことも自然にまかり通ってし
まうのである。
まあ、この小説は書下ろしではなく連載なので、紙幅のつごうもあって筋の傍流
にかかずらっていられないというのが実のあらましであろう。一見強引な展開も、
人物の性格(造形)によってフォローされる。話の筋と人物の性格は、表裏一体の
関係にあるところを知徳してもらいたい。
207: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:49:42
東一郎の結婚話に、がぜん乗り気で後押ししたのが宝部夫人だ。木田の夫婦は、
浅香家の素性が卑しまれて当初反対であった。けどそれがなんだろう。この豪腕
マダムにかかれば、白だって黒になるんだから。
「私、御見舞いに行って浅香さんって人と話もしたけど、実にいい娘さんだと
思ったわ。美人で、気立てがよくて、働らき者で、落ち着いていて、あんな人は
今どき珍しくてよ。それに身分ちがいとは又、木田の御両親も、この民主々義の
時代に何て頭がお古いんでしょう」
ベタぼめである。だが、この言いようは自らのブルジョア的偏見を一時的に棚上
げにしたもので、彼女は他人の色恋を自分のおせっかいで成就させたいだけなので
ある。そもそも夫人からみれば、たかが古書店の分際である木田家と貧しい浅香家は、
庶民の五十歩百歩でしかない。家柄云々なんてお笑い草よ。その上、この縁談は宝部
家とは直接関係しないところなので、変などぶ泥がこちらに飛び散ってくることも
あるまいという楽観があるのだ。だから、このいかにもさもしい 「民主々義」は、
のちにあっさりと転覆してしまうのである。
208: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:51:16
なにはともあれ、東一郎と浅香さんは婚約し、宝部夫人は上機嫌で、郁雄と
百子を連れて熱海の別荘へと避暑に向かうのであった。物語は、しあわせそうな
風を受けて順風満帆にすべりだすかと見えるも、季節は夏にしてこの国土、避け
るに避けられぬ凶風の、やがて来たることを予感する。
209: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:53:53
ではまた来ます。年内に、必ずや、その決意で、いやホントよ。
210: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 18:19:50
<知徳→知得> また間違えてるし。
211:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 11:49:08
f
212:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 13:44:17
間に変なレス入ったら見にくいので、レスを控えていましたが、
秋頃にこのスレ見つけて全部読みました。続きも楽しみにしてます。
213:名無し物書き@推敲中?
05/12/20 23:01:46
____
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\
/∵∴∴,(・)(・)∴|
|∵∵/ ○ \|
|∵ / 三 | 三 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|∵ | __|__ | < うるせー馬鹿!
\| \_/ / \_____
\____/
214: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:12:57
>>212 ありがとうございます。なにかひとつでも糧になるものがあればと思います。
215: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:17:02
〔前回からの続き〕
熱海では、郁雄の誕生パーティーが催された。昔なじみの友達が四、五人女子
同伴でやって来た。その友達の一人が吉沢である。
吉沢には、夏の若者のハツラツさとか、浮かれた馬鹿さ加減といった稚気はなく、
宝部夫人に言わせると、「あの人はなんだか神秘的」 で 「あなたの友達の中ぢゃ
一番魅力があ」り、「あの人に比べれば、あなた〔郁雄〕なんか、ガラスの箱み
たいなもんだ」
連れの彼女は三十がらみの美人であるが、どうも吉沢への惚れようが尋常の様子
になく、性格もギスギスしていて、百子はこの女が好かなかった。だが、吉沢は
ちょっと気になった、のだけれど、彼はなぜか百子を避けた態度をとる。
夜にダンスがはじまって、めいめいパートナーを替えながら踊るのであるが、吉沢
はここでも百子を無視していた。私がもう予約済みだからって興味のないふりをして、
カッコつけて(そりゃたしかに顔はいいけど)、バカにしてるじゃない?
《『いいわ。いちばん後で申込んできたら、きっぱりことわってあげるから』
― ところがこんな百子の決心を見抜いているように、吉沢は最後から二人目
に百子に申し込んだ。》
そして、吉沢はダンスをしながら、百子に打ち明ける。
「僕ね。あの女のおかげで、めちゃくちゃにされてしまいそうなんです。秋
まで命があったら、会いましょう」
「大げさね」
「本当ですよ、秋まで生きていたら、あなたに会いたいな。僕、こんな精神
状態で、あなたみたいなイキイキとした人に会うのが辛かったんです。だから僕、
あなたを避けていたんです」
216:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 15:19:28
cdr
217: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:19:36
百子とつた子が明と暗の対照であったように、郁雄と吉沢も同様のちがいがある。
となれば、物語の力学はまたもや類同する危機を演出するだろう。しかし、単に鏡写
しのエピソードを反復するような構成では、芸がなさすぎる。事は少々入りくむ。
そして残された紙幅はあと四回分、のんびりと話を進行させる余裕はない。
九月になって、やっぱり吉沢は生きていた。あっさり死ぬような人物に焦点を当て
たりはしないので、ここはお約束どおりである。
吉沢は偶然を装って百子の前にひょっこりと現れた。百子には吉沢と会う義理など
ないのだが、あの女との関係がどういう顛末になったのか、そのことが気になって
つい話に付き合ってしまう。
女は、自分を裏切るようなことがあれば、毒を密かに盛って吉沢を殺し、そのあと
自分も毒をあおって死ぬ、と本気の形相。ハンドバッグに毒薬を常備する物騒な女
であった。 「僕はそれまでさほど深入りしていないつもりでいたこの情事に、すっ
かり溺れてしまったんです。いつ殺されるかわからないっていうスリルと、セックス
が一緒になったものって、あなたにはまだおわかりにならないかもしれないけど、
(この一言は百子のプライドをいたく傷つけた)、一寸今まで経験したことのない、
すごく暗くて甘い、魅力のあるものだったんです。それに僕が浮気をしなければ殺さ
れる心配もなくなるわけですから、無理にも浮気をしましたが、又その浮気のスリル
たるや、何ともいえないんです。」
その女も、九月はじめに父親の仕事でアメリカへ行ってしまった。つごうよくこの
厄介な情事から解放されたので、こうして元気を取り戻して百子に会いに来たという
わけである。そしてこの男は、次のスリルを百子に求めたのである。
吉沢の下心は見え透いたが、殺すの死ぬのという男女の生々しい話と雰囲気にあて
られて、百子はうっかりまた吉沢と会う約束をしてしまう。
218: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:21:49
約束の日になってみると、百子は一度踏み外した足をしっかりと元に戻していた。
アバンチュールといえばなにか都会的な耳当たりのよさがあるけれど、現実的な立場
から百子の良心はそれを許さなかった。郁雄のしでかしたまちがいへの意趣返し、
好機到来とほくそ笑むような、心根の腐った女ではなかった。しかし、別に腐った女
が一人いた。
浅香つたである。東一郎と浅香さんが婚約して以来、彼女はなにかと木田家に出入
りしていた。木田の夫婦がいろいろと世話を焼いていたからだが、百子は直感的につた
を信用していなかった。〝つた〟という名前もいやな連想を(読者に)させる。
百子は、風邪をひいたから行けないと、ていのいい断りの電話を入れた。吉沢とは
これでおしまい、と思う。いかにもそんな少女らしい目算が通るほど、吉沢は純情で
はなかった。
店先に吉沢がやって来たのを見て、百子はうろたえた。家には、百子のほかつた
しか居ない。
「吉沢さんって方の御約束をお断りしにくいので、私病気ということにしてあり
ますの。そう仰言って、断っていただけないかしら」
百子は仕方なくつたに頼んだ。つたも承知した。
219: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:23:31
面従腹背。つたは断りを入れるどころか吉沢に、百子が嘘をついていること、
そしてまんざら吉沢に気がないというのでもないこと、あることないこと、しゃ
べくり散らし、あげくのはてには百子を三万円で世話すると言ったときには、
さすがの吉沢もこのやり手ババアに呆れたが、そこで話を打ち止めにするほど
の道徳家でもなかった。ふむ、百子を三万でものにできるなら安い。
そして十月、いよいよ吉沢とつたの毒手が百子に迫る。つたは百子を食事に
誘う。よもや自分の純潔が三万で取引されているなどとは、いくらつたに心を
ゆるしていない百子とて、想像の埒外である。百子はつたの誘いを断らなかった。
「― 小綺麗な料理屋なんですのよ。今夜はお嬢さま、仲良く一杯やりま
しょうよ」 と言うところの店には、「割烹御旅館」 という看板がかかっていて、
どことなく連込み宿っぽい色があったが、女二人のこと、百子は気にとめなかった。
220: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:27:43
ここにいたって読者は、もうテクストから目が離せなくなっているだろう。
娯楽小説とはこう書くんだよ、諸君。やに下がった三島の台詞が聞こえてき
そうだ。
このあとどうなったかは、読了している方はすでにおわかりだろう。未読の
方は、立って本屋に走るか図書館に駆け込み、本文をご覧あれ。
『永すぎた春』 は、昭和31年1月号~12月号の 「婦人倶楽部」という雑誌
に発表されたものである。どのような読者を相手にしていたか、察しがつくだ
ろう。性風俗に対して、今日の女性ほど免疫は高くなかったろうから、エロス
したたる描写や不道徳きわまる筋書きといった煽情性は無用である。そんな
制限のなかで小説を書くのは、文学者の名折れであろうか。商業主義への迎合
であろうか。その答え、いましばらく引き伸ばしたい。
221: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:33:49
なかなか本題に入っていきませんね。年内、ヤバいぞ。
でも、たぶん、大丈夫でしょう。また来ますよ(ちょい弱気)
222:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 17:20:17
このスレなんとかしてくれ
レイプ前科あるけど、なんか質問アル?
スレリンク(news4vip板)
223:名無し物書き@推敲中?
05/12/26 20:09:35
楽しみに読んでいた者です。
時折書き込みもさせていただきました。
「ボバリー」「異邦人」とためになりました。
しかし、今回、何故これなのか、と疑問に思っていましたので、
あえて書き込ませていただきました。
224:名無し物書き@推敲中?
05/12/27 03:22:00
:: _, ,_
:(゙( ^ё^)'): アッ!!
:ノ⌒', -、'^',
:(,,人,_,,ω,_人,,)
_, ,_
( ^ё^) ヤダァ、見ないで!恥ずかしい…
(つ/ )
|`(..イ ミ サッ
しし' ミ
225: ◆YgQRHAJqRA
05/12/28 15:45:38
>>223 なぜ『永すぎた春』なのか。ということですか?
まあ、ほかのもそうですけど、単に私が面白いと思ったものを使って
いるだけですw
解説の趣旨に対する疑問であれば、今回の一連の解説は、読むことの多様性
を示したいというのが一番にあります。今までは、「どう書くか」 を主眼
にしていたわけですが、「どう読むか」 ということもひとつの技術といって
いいかと思います。この二つは実際別々の次元にあるのではなくて、読める
ことが書けることにもつながっていくでしょう。
ここ二回の解説は、ちょっと粗筋を追う形になっているので、本文を読みつく
した人にとっては退屈だったかもしれませんね。
でも単純にストーリーが面白かった、よかったというだけの解説で終わら
せるつもりはないので、よかったら次も読んでやってください。
226: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:42:28
ぎりぎり間に合ったー。ちょっと息あがってます。
ではつづきです。
227: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:44:37
〔前回からの続き〕
「浅香つたのやったことは、実際は間の抜けた結果におわったが、意図としたら
可成まじめなもので、彼女は永年にわたる階級的なひがみを爆発させてみたかった
のである。」
つまりこれは資本階級(ブルジョア)である木田家に対するプロレタリア(つた)
の階級闘争なのだ。と声を大にして言えば、この悪事もなんだかもっともらしく聞
こえてくるのか。否、それは単におのれの醜陋(しゅうろう)さを政治思想に転嫁
しいるにすぎない。つたの悪意を説明するには、いささか説得力に欠ける。三島も
テキトーだ、とあなどるには合点が早い。でもそこは少し横に措いて(なんだかす
でにいろんなものが横に溜まっている気がするが)、話を進めよう。
つたの、吉沢を使って百子を手込めにする計画は破綻したが、これで危機が去っ
たわけではない。つたは、計画の失敗を取り繕うために宝部家を訪れ、この事件に
関してのデタラメを郁雄に吹き込んだ。この時点で、つたは最初からすべてを破壊
する確信犯というわけではなく、典型的な小悪党の小心さとずるさとがうかがえる。
階級云々なんて思想が、このバアさんの行動原理でないことは明白である。
つたの話を聞いて、郁雄は打ちひしがれた。この苦悶が郁雄の内部にとどまり、
物語がそこへ反転して落ち込んでいくならば、物語はもっとよどんだ方向へと流れて、
いかにも文学然とした手つきになるかもしれない。
だが、そこには宝部夫人がいた。困ったときの神頼み。郁雄は当然悲しみの一部
始終を母に吐露する。あわれな息子のために、夫人はこの事態の解決に介入する
こととなるが、これがさらなる危機の引き金となってしまう。
228: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:46:12
翌日に郁雄は百子と会って、じかに事の真相を聞いた。それはつたの非道を物語る
ものだった。百子とつたの言い分のどちらを信じるかは、問うまでもない。郁雄はこ
のことを母に報告するため、家に戻った。もちろん宝部夫人は百子の潔白を信じて
いて、「そらごらんなさい。そんなことだと思ったわ。」 と、案外とあっさりした
様子。そしてもうじき吉沢がやってくると言う。
つたの姦計にのって百子を買った張本人が、郁雄の前に現れる。さすがに死線を
越えてきた男だけあって、この気まずい状況にも吉沢は落ち着いていた。むしろ生
き生きしているくらいであった。
吉沢の話は、百子のそれとたがわなかった。いよいよつたの破廉恥ぶりが動かし
がたいものとなる。
「僕をなぐってくれ」
吉沢は友情にもとる行為の罰を求めた。ここは黙ってなぐり倒すのが男のロマン
というものだが、太宰嫌いの三島の頭にふと 『走れメロス』 がよぎったか、郁雄
はなぐらない。
「いいんだよ。なぐる理由はないんだ。僕は一度も百子を疑っていないんだから」
「こいつは一本まいったな」
229: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:47:34
ちぇ、つまんないの。とこっちが盛り下がる一方で、逆に盛り上がっている人間
がいた。宝部夫人である。かねてより贔屓(ひいき)にしていた吉沢もつたに利用
されていたと知ると、いきおい宝部夫人の憤怒はつた一人の上に降りかかることと
なった。
「つたなんて下劣な、醜悪な、おそろしい、溝泥(どぶどろ)のような女! 世界
中で一番汚い女! ― 私はあんな女と親戚になるのは絶対イヤですよ。金輪際おこ
とわりよ」
変などぶ泥が思わぬ方向から飛び散ってきて、宝部夫人の逆鱗に触れたのである。
こうなるともう自然現象と同じで、だれにも止められない。事態は最悪の方向に動き
だし、物語は佳境に入る。
《つまり夫人は、あんなにまで積極的に自分がまとめた浅香さんと東一郎との婚約
を、破棄させようと心に決めたのである。それは忽ち、百子と郁雄との婚約も、浅香
さんと東一郎との婚約が破棄されない限り、夫人の手で断たれてしまうことを意味し
ていた。》
230: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:48:59
宝部夫人の胸ひとつで、どちらかの結婚が御破算になる。そんなの横暴だ、許さ
れない、と思うのは現代人の理。この 「民主々義」 の時代に、そんな封建的なや
り方が通ってはたまらない。しかし思い出してほしい。夫人は親の言いつけを守っ
て、好きでもない男のところへ嫁いできたことを。東一郎が浅香さんを諦めるのは、
夫人にとってなんら不思議のない道理なのである。個人の幸福よりも家の沽券が
優先される。
東一郎は激怒した。この暴君に真向から反抗した。しかし宝部夫人も一歩も譲ら
ない。
「とにかくあなたの仰言ることはよくわかりましたよ。ブウルジョア的偏見、ブ
ウルジョア的けちくさい護身術のために、人を踏みにじることなんか何とも思わな
い……」
「おや、あなたが共産党だったとは初耳ですわ」
これは宝部夫人との口論に登場するセリフである。もうひとつ、百子に語る東一
郎のセリフ。
「― 今さらその破談を強制して来て、それを条件にお前の結婚を邪魔するよう
な、あんなブウルジョアの我儘婆アなんか勝手にしろ。」
231: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:50:48
よく考えると、東一郎がブルジョアを批判するのはおかしい。宝部家はたしかに
ブルジョアと呼ぶにふさわしいが、木田家とて無為徒食の息子を養ってなお結婚さ
せてやるだけの財力がある。その富の上に、当の東一郎もあぐらをかいているので
はなかったか。
つたの階級的ひがみといい、こうしたイデオロギッシュな言辞は、物語自身の圧力
から出てきたものではないといえる。それは、三島の政治姿勢と当時の政治状況の
背景から投入されたのである。
非時間的な物語の読みから、私は再びこの小説をテクストの外部へと開こう。歴史
のなかへ。
1950年代、アメリカは 「共産中国」 への恐怖と警戒心で凝り固まっていた。まる
で致死性の未知なるウィルスにおびえるのに似ていた。赤いものに触れると共産主義
に感染するといったら笑われるだろうが、そんな迷信も通用しそうなくらいの過剰反
応である。GHQは日本政府政府に命じて中国との貿易を一部禁止にし、戦略物資の対中
禁輸措置をとった。
この時代に吹き荒れた 「レッドパージ(赤狩り)」 はすさまじく、民主主義とは
なかば反共産主義の代名詞であって、反共のためなら自由や権利の拡大といった理念
は平気で反古にされた。日本もそうした風潮の例外ではなく、共産的思想の持ち主と
された人々が次々と職場を追放され、公民あわせてその数は一万三千人を上まわると
される。
そして1955年、つまりこの小説の舞台背景となっている時代に、保守合同による
自由民主党が成立し、今日につづく五十五年体制が発足する。これによって、反共の
防壁としての日本の政治体制はゆるぎないものとなった。
232: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:53:45
いまでは共産主義などと言うと中国人ですら笑う時代になったが、当時は、いつ
革命が起こるかということに本気でおびえていたのだろう。それが、この半世紀の
没落・妥協ぶり、笑えるといえば笑える。そして、『資本論』をろくに 「読めない」
懶惰(らんだ)な共産主義者どものおかげで、一般にマルクスまで白い眼で見ら
れがちなその憤懣(ふんまん)を、例えば柄谷行人に語らせてみれば一冊の本にな
るだろう。
三島がマルクスをどう捉えていたかはとりあえず、共産主義を毛嫌いしていたこと
はつとに有名で明らかである。
例えば、百子のファッションに対して郁雄が次のように独白するとき、
『どうしてこんな芝居じみたことをするんだろう。赤いベレエなんか、ちっとも
似合わないのに』
実はこのベレエが似合わないのではなく、まさしく 「赤い」 とわざわざ書き
込まれるその色ゆえに、ブルジョアの百子に似合わないという意味になろう。
つまり、学問的な思索とはほとんど無縁であるはずの浅香つたが、なぜ階級的な
ひがみを持つ必要があるのか。自らもブルジョアに位置する東一郎が、なぜブル
ジョアを批判し、宝部夫人から 「共産党」 のレッテルを貼られ 「向こう側」
につくならこちらから手を切ると宣言され疎外されるのか。その答えがみえて
くる。
まさにそれは、三島のイデオロギーの表出であり、時代の(歴史の)圧力に
よるものなのだ。しかもそれは明確な反共としてではなく、ほとんど自然にテ
クストに織り込まれているため、読者は知らずのうちにこうした反共的イデオ
ロギーに巻き込まれていくのである。
すくなくともこれは、ただ軽いだけの娯楽小説の筆つきで成されるものでは
ない。文学的筆力というものが、単に面白く書くことや巧みな比喩を創出する
能力にあるのではないということに、あらためて感服するのであった。
気分よくここで終わりたいところだが、もうちょっとつづけよう。
233: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:56:06
二者択一の困った問題に、郁雄と百子もなんとかいい解決法はないかと、宮内に
相談してみるも、なかなか現実的なアイデアは出てこなかった。それでも、二人は
いま自分たちの幸福を噛みしめるくらいの余裕があった。デカイ山を二つも越えて、
今度もなんとかなるという妙な楽観思考が身についたのだろうか。
のっぴきならない境遇に神経をすり減らしていたのは、やはり東一郎である。
浅香さんはあの事件以来、木田家に顔を出さなくなっていた。東一郎は、浅香さん
の家に行くことにした。しかし独りで行くのは心細く、百子に一緒に行ってくれる
よう泣きついた。
いかにも貧しいたたずまいのアパート。
「まあ、いらっしゃいまし、ようこそ」
つたは悪びれる様子もなく、さらぬていで二人を迎えた。百子は、すっかりひな
びた老女に、たいした恨みを感じなかった。口が達者なところは相変わらずで、く
だらぬ世辞を並べたりしてしゃべくるのだったが、浅香さんは突然耐えかねたかの
ように、
「母さん、もうやめて! 黙ってて頂戴。みんな私からお話するから」
浅香さんは、もうすべてを承知していた。そして、努めて他人行儀に、東一郎と
はもう会わないとむげに答えた。食い下がる東一郎に、しまいにはつたと一緒になっ
て悪たれ口をきく。
浅香さんの愛情を信じていた東一郎は、この仕打ちに狼狽した。
「それじゃ、君は僕を全然愛していなかったんだな」
「さあ、全然ってこともないでしょう。でももうおしまいなのよ。帰って頂戴
ね。おねがいだから」
234: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 20:58:24
そこで持ち前の癇性に火がつき、東一郎は席を蹴った。このやり取りを横で眺めて
いた百子だけが、浅香さんの悲しみに沈むうつろな目を見ていた。例によってこの
最後のセリフに、すべてが表現されている。
ある意味をはっきり言うことがはばかれると思うとき、人はよく否定表現や婉曲表
現のレトリックを使う。
例えば 「まずい」 と鋭く言うかわりに 「おいしくない」 とやんわり言い、さらに
思いやりをこめて 「まずくはない」 と遠慮がちに言う。
宝部夫人の性格は彼女もよくわかっているのだろう。目の前の百子を見て、「おね
がいだから」 あなたも妹のしあわせのために諦めて。浅香さんは、自分が憐憫をみ
せれば、東一郎が決断できないことをわかっているのである。
「全然ってこともないでしょう」
これが浅香さんの、東一郎に対する辛苦に満ちた最後のやさしさ、愛情なのだった。
235: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:01:12
「バカにしてる! アバズレ女め!」
鈍感な東一郎は、浅香さんの真意を読みきれず、事態は一気に解決へと向かう。その
足ですぐさま宝部家にのりこむと、浅香さんとの婚約解消を夫人に宣言した。
百子は、東一郎の鈍さにつけ込んで自分の幸福を選んだことに気が引けていた。浅香
さんの真意を知れば、東一郎は心変わりするだろう。郁雄はその話を聞いて、それはそ
れでいいじゃないか、またぞろ話をややこしくする必要はないよ。(もうあと2ページ
しかないんだから) そして、T大生らしい見識の深さを披露してみせた。
「僕は思うんだけど、兄さんは知っていたんじゃないだろうか? 浅香さんを訪ねれ
ば、浅香さんがいつわりの愛想づかしを云うことを。そしてその場に君がいれば、兄さ
んは心おきなく怒って諦めて、次の行動に移れることを」
つまり、東一郎はみんなわかった上で、この決着劇を演じてみせた、と読者にもうひ
とつの読み方を提示して終わる。むろん、それを確証させるような証拠はないから、読者
はこのどっちつかずの結果に引きずられていろいろな思いをよぎらせることになる。
東一郎と浅香さんの物語は、終わりのない想像へと流れてゆく。
なぜか。黙説の技術>>70 がここで炸裂し、読者を物語の空白に引き寄せているからで
ある。それも東一郎という人物を構成しているその性格や文学というパーツが組み込まれ
てあるからこそ、例えば文学を書こうという者が人間観察においてそんな鈍感であるは
ずがないとか、いや、いきなり浅香さんと結婚させろなどとド直球を投げる東一郎がこ
んなできた芝居をするはずがないとか、まさに物語を物語る言説を方々から導くことに
なろう。なるほど、よくできたカラクリである。
だが、もう少しむごい分析をしてみよう。最近世間を震撼させている偽装建築ではな
いが、もし、三島がこの小説をもとから解体させるような仕掛けを仕組んでいたとしたら?
236: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:03:38
それはAprilにあらわれる。
《すでに四月、あたりには蝶が飛び、桜の花時が来て、新しいランドセルの革の
匂いをさせ、その尾錠のきらめきをはねまわらせて、私たちの横を小学校の新入生
が ― あの三月の確執の成行きを、私たちはもう少し辿ってみなければならない。》
《……こうして私たちは、のどかな四月の光りの中にいるわけである。》
しかしいったいどうして、この小説のなかに 「私たち」 がいるのだろう。この小説
は三人称視点である。よくよく考えると、これはあまりのどかな景色ではない。
小説とは、嘘をまことしやかに語って読者に信じ込ませるひとつの幻想である。どん
なにうまく書いても、読者の協力なくしては、小説はうつろな言葉の羅列でしかない。
このくらいの文体のほころびは、寛宥(かんゆう)に読み流すのがよい読者。
《さて四月のある日の、銀座でひらかれていた個展にまつわる話のつづきである。》
話? つづき? あんただれ?
《ここで作者ははじめて打明けるのだが、郁雄は童貞ではなかった。》
《折も折、作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない兄が、盲腸炎で
入院するというさわぎが起こった。》
作者様でした。やっちゃった。いや、郁雄のことじゃなくて。
どこかの社長なら、見逃せと言うかもしれないが、私は見逃さない。今までさり
げなく示していた虚構性というものを、ここでついに、おおっぴらに、表立って登場
して 「打明ける」 のである。
俺が作者だ!
237: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:06:09
これはまさしく、物語を物語る、どこからが本当の物語なのかを決定しえない、
メタフィクションの手口に通じる。要するに、ご婦人方やお嬢さん方が心ときめ
かしたこの恋愛譚、結局はすべてお芝居だったのさ。というなんともいぢわるな
解釈上のぶち壊しを三島は施していた。現にこの小説は、「芝居」 という言葉が
何度も出てくるのである。
いやらしいのは、語り手はこれ以降ではしれっと三人称のポーズをとりつづけ
てボロを出さない。お話のうわずみのおいしいところだけを楽しみたいと思って
いる読者の期待は裏切らない。だが、この文体につまづく論理的な基盤を持つ者
には、この小説は娯楽性を破壊して 「文学」 たることを突きつけるのである。
この二重のカラクリを読み解いたとき、なんて作家だと、私は驚き、三島由紀夫
の前に、「天才」 という、だいぶ濫用されてすり減ってしまった言葉を、あえて
使うのも悪くないと思うのだった。
ちなみに
「ときどき、天才だとかなんとか言われますが、小説なんて、才能じゃない、努力
なんですよ。ぼくも血みどろの努力をして小説を書いているんです」
とは、天才三島由紀夫の告白である。
238: ◆YgQRHAJqRA
05/12/31 21:09:36
これで 『永すぎた春』 の解説は完了です。
次回はいよいよ最後の解説となります。また近いうちに会いましょう。
では、よいお年を
239: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:50:51
ちょっと思い当たったことを別枠で書きたいと思います。
「私たち」 という一人称複数形の語りは、小説ではあまり使われることのない形式
ですが、かの 『ボヴァリー夫人』 はこの 「私たち」 から始まるのでした。
「語り手=作者=私」 という図式が成り立っていた19世紀の小説では、物語の冒頭
にこの三位一体のナレーションが入るのは珍しくありません。その後に三人称の手筋
で書くことになっても、それは一時的な非一人称としての語りであって、確固とした
形式がそこで守られる保証のない書き方といえます。
読んでもらえればわかると思いますが、『ボヴァリー夫人』 の「私たち」 は、物語
から超越した存在ではありません。シャルルが入学してくる学校の、一生徒の視点から
それは始まります。物語の内側にいる 「私たち」 によって、主人公シャルル・ボヴァリー
の登場が語られるわけです。教室での一連のシーンが終わると、この 「私たち」 も
消去されて三人称の語りへとスイッチしてゆきます。フローベールのことですから、なん
らかの意図があってのことでしょう。(ここから先は、たぶんフランス語の文体論が
必要になると思われます)
先の解説では、「私たち」 という語が作者と結びつく古典的な原理を逆手にとって、
小説の虚構性を前景化する手法をみました。たとえるなら、カメラマンをわざと鏡の
前に立たせるようなやり方です。
240: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:51:54
この一人称複数形にはもうひとつ別の顔があります。エッセイなどの、書かれた
ものと作者の同一性が前提されている読物では―分析哲学の上からはこのことも
否定されるのですが、それはともかくとして―しばしばレトリカルな使い方をさ
れます。例えば、「人間」 とか 「人類」 といった語を用いるといかにも大仰で、
かえって文意の信憑性を損ねるという場合、つまりはそういう言語感覚が働いたと
き、「全体」 としての抽象性を保ちながら印象としてはさほどでしゃばらない感の
ある 「私たち」 や 「われわれ」 といった一人称複数形を持ちだします。また、
〝たち〟という類には、それをいま読んでいる読者自身も含まれるニュアンスを与
えます。例えばどこかの立派な学者が、「私たちの抱えている問題について云々」
と表記するとき、読者はなんとなくこの立派な学者と同じ問題を共有しているかの
ような感じになり、自分も立派にその言説に参加しているような気になるでしょう。
ひいてはそれが、どのテクストへの肯定感を呼ぶことにもなりましょう。もちろん、
最初から否定的な構えで読む読者には、そうした効果は期待できませんが。
使い勝手がいいのでつい多用してしまいがちになるのですが、決まりきったかのよ
うに使う、読む(聞く)ことには注意が必要です。ラディカルに 「われわれ日本人
はァ」 などと弁をぶつとき、はたしてそこに子供や女性、老人、障害者などの社会的
弱者までが含まれているのか、在日朝鮮人やアイヌ民族といったマイノリティーを射程
に入れているのか、安易に同調する前に一歩立ち止まってみなければなりません。
暗黙の差別が、「われわれ」 にはいつもつきまとうのです。
241: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:53:52
さて、『永すぎた春』 の解説は特定の技術について考察するものではありません
でした。ひとつの小説を材料に、どこまで 「読み」 を広げられるかという試みで
した。
そんなの小説を書くことと関係ないや、と思う方もいるかもしれません。まったく
他人の本を読まずに小説を書くということも、やってやれないことではないかもしれ
ません。 でも、自分の文章を読まずに書くということはできませんね。批評性を持
たねば、自分はいったいなにを書いているんだろうという珍事を招きます。
私たちは書きながら、同時に読み解くわけです。 だれしも自分の文章には甘く寛大
になるものです。大事なのは、自分の文章にあ然とする感覚、文体に対する感度です。
フローベールなら、「文章はだめ。まったくだめだ。とにかく 『ボヴァリー』 がさ
しあたり発表できないのは残念だ。どうしたものだろう」 と友人に愚痴をこぼすで
しょう。
「自分を描いてはならない」 「人目についてはならない」 「いまこそ厳密な方法
により、芸術に物理学の正確さを与えるべき」 だと彼は考え、それを 『ボヴァリー
夫人』 において実行したわけですが、もともと叙情趣味の強い 「わたしにとって一番
むずかしい問題は、それでもやはり文体であり、形式であり、イデアそれ自体に由来し、
プラトンのいうように、真なるものの輝きである、定義しがたい美ということになるの
です」
情の流れるまま、思いつくままに筆を走らせる自然主義的筆法から決別することで、
フローベールは近代小説の文体の一生面を切り開いたのでした。
242: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:54:58
話を戻して、読みの多様性が必要と説いてみても、それだけでは具体的な実践性に
欠けます。ガンバレ、と言っているのと同じようなものですね。
じゃあ、その多様な読み方ってやつをここでドドーンと紹介・解説してくれるのかな、
なんて期待してはいけません(笑) 私も物好きでこうやっていろいろなことを書いて
きましたが、そこまではできません。
なので、文芸批評をするのに押さえておくとなにかと役に立つ知識、学問等を、テク
ストへのアプローチ別に、三つのカテゴリーに分けて紹介するにとどめたいと思います。
あとはみなさんの努力に任せます。
243: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 21:56:16
作品と個人 ― 形而上的アプローチ
(経験・印象・恣意性) 現象学 実存主義 作家論(伝記含む)
心理学 倫理学
作品と言語 ― 共時的アプローチ
言語学 形式・(ポスト)構造主義 脱構築論
記号・テクスト論
作品と歴史・文家 ― 通時的アプローチ
ジェンダー サブカルチャー 神話 宗教 イデオロギー
マルクス主義 (ポスト)モダニズム (ポスト)コロニアリズム
244: ◆YgQRHAJqRA
06/01/05 22:01:33
もちろん、ここに挙げたもの以外にも、それこそ学問なんて腐るほどあるわけで、
考えようによったら生物学や量子論なんてものも批評手段に使えるでしょう。けど
そんなこと言いだすとキリがないですからね。
この三つの分類も絶対というものではありません。例えば社会言語学なんかは、
文化的な要素なしには語れないでしょう。まあ、わかりやすくカテゴライズすると
こんな感じになりますよ、ということです。
「作品と個人」 の、経験と印象と恣意性がマル括弧でくくってあります。これが
学校作文の範囲、嫌な言い方をするとガキの作文ってやつですか。みんなここ
から始まるんですから、バカにしちゃいけないんですけどね。
でも、読みの多様性や批評の強度というものを上げるには、この括弧を開かなけれ
ばならないのです。それは、理屈っぽい主知主義になれというのではありません。
印象や経験だけに閉じこもっている感性を、悟性へと開きつなげていくことなのです。
次回大喜利に出でますは、ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の代表的作家、
クロード・シモンであります。読むということを考えずに読むことのできない
小説について、語りましょう。
245: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:03:16
ある文学がそこで手をつけられるまさにその瞬間に、すでに変性は
始まっているのだ。終わりが始まる。
終わりが始まる、これは引用である。たぶん引用だろう。
― ジャック・デリダ
246: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:06:37
『フランドルへの道』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳
そして彼の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするように
しゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者の
いうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの
手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で
手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、
といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者す
なわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業
を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階
を通過し、イギリス国民のように外交販売員の株式会社的なものに変容する
前に、それぞれ一度はヨーロッパを兵火と流血のちまたと化しており、いず
れにしろ戦争も商業もどちらも人間の貪婪(どんらん)さの表現にすぎず、
その貪婪さ自体先祖伝来の飢えと死との恐怖から導きだされた結果で、そう
考えてみれば殺人盗み略奪も売買もじっさいはおなじただひとつのもの、た
だの単純な欲求自分の安全を保ちたいという欲求にすぎず、ちょうど腕白小僧
たちが夜森のなかをとおり、自分を勇気づけるために口笛を吹いたり大声で
歌をうたったりするのとおなじで、なぜ合唱が兵器の操作や射撃練習とおな
じ資格で軍隊の教育課程の一部をなしているかもそれで説明がつき、それと
いうのも沈黙ほど手に負えないものはないからだが、とそこまでいい、その
ときジョルジュがかっとなって 「わかってるよ、そんなこと!」 というと、
彼の父は相変わらず見るともなしに薄明のなかにかすかにわななくはこやな
ぎの木立を眺め、たなびく夕靄(ゆうもや)はゆっくりと谷底に沈んでいっ
てポプラの木々をひたし、丘々がますます影を濃くし、「どうしたのかね?」
というので、彼 「どうもしませんよぼくはとにかくむやみやたらに意味も
ない言葉ばかり並べ立てる気持ちはありませんねそもそもお父さんだってそん
なことには飽きあきしないんですか」、すると彼の父 「どんなことにかね?」、
そこで彼 「駄弁にですよいくらまくしたてて……」、といいかけ口をつぐみ、
247: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:09:30
明日出発するのだということを思いだして自分をおさえ、彼の父はいまはだまっ
て彼を見つめ、それから見つめるのもやめ(トラクターはいまや終点にたどり
つき、騒音をたててあずまやのうしろを通過していて、作男は高い位置にあ
る運転席に坐り、そのシャツのぼんやり明るい色だけが木陰の濃い闇のなか
にわずかにほの見え、まぼろしのように宙にふわりと浮いたまますべりすぎ、
遠ざかり、穀物倉の角にかくれて見えなくなり、そのあとすぐにモーターの
音がやみ、すると沈黙が寄せかえしてきて)、彼にははや老人の顔も見分け
がつかなくなり、輪郭のおぼろな顔面だけが、肘掛け椅子にぐったりした巨大
なぼんやりした肉塊の上に宙づりになっていて、こころのなかで 「しかしお
父さんも悲しんでいてそれをかくそうとしやはり自分の気持ちを引き立てよ
うとしているんだなだからこそこんなにしゃべりまくるんだなにしろ彼が頼
りにできるのはそれだけつまり他人が彼のかわりに学んでくれた知識つまり
本に書いてあることは絶対にりっぱなことだというあの鈍重で執拗で迷信的
な軽信―というかむしろ信仰―だけだからなお父さんのお父さんはただ
の百姓だったからそんなむずかしい言葉は読んでもわからずそれでそんな言
葉に一種の神秘的な魔術的なちからを仮定し想像していたっけ……」 彼の父
の声はあの憂愁、あの手のほどこしようのない破れかぶれのしつっこさ、自
分の言っていること自体の効用とか真実性とかまではいわないが、すくなく
ともその効用を信じるというそのことの効用だけでもなんとか自分自身に信
じこませようとするしつっこさをみせて、依然としてまったく自分ひとりの
ために― 子供が闇につつまれた森を横ぎるとき口笛をふくようにと彼自身
もいったが―執拗にしゃべりつづけ、それがいまも彼の耳にまで聞こえつ
づけるのではあったが、そこはもはや八月のどろりとよどんだ暑さにひたる
あずまやの薄暗がり、なにかが決定的に腐敗つくして、すでに悪臭をはなち、
うじむしでいっぱいの死体のようにふくれあがりやがてくずれだし、あとに
まったく意味もない残滓(ざんし)、もうとっくになにひとつ判読すること
248: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:11:48
もできなくなっている新聞紙の山(目じるしになる文字や記号さえ、センセー
ショナルな大見出しの文字さえ判読できず、灰色の紙面にいくらか灰色が濃
いだけのおぼろな汚点(しみ)、影となって見えるだけで)そんなものしか
存続させない腐臭ただよう夏の薄暗がりではなく、(その声、それらの声は)
いまは冷たい暗闇、目に見えないながらもまるではるかの昔から行軍をつづ
けるかのような馬たちの、長い行列が延々とつづいている暗闇に立ちのぼり、
あたかもそれは彼の父が決して話しやめるということをせず、ジョルジュが
その間に通りがかりの馬の一頭をつかまえ、まるでただ椅子から立ち上った
だけとでもいうふうにその馬にとび乗り、有史以前の大昔から歩みつづける
そのまぼろしのひとつにまたがって、老人がからの肘掛け椅子に向かってな
おもしゃべりつづける間に遠ざかり、姿を消してゆくかのようで、老人の孤独
な声だけがそれでもなお執拗に、なんの役にもたたないうつろな言葉を発し
つづけ、秋の夜をいっぱいにみたすなにかありのひしめきのようなもの、荘
重で冷ややかな足音のうちにすべてをひたし沈めてゆくありのひしめきのよ
うなものと、押しつ押されつしながらいつまでも
249: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:13:58
つづく言葉の散弾、あるいは瓦礫、というか吐気。
だれよりも熟読しているはずの訳者も、こと解説に臨んで語りぐさにできる
人物、情のもつれはなく、むしろ一番もつれているのは、テクストのほうであった。
250: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:16:42
つまり
「年代記的順序にしたがって巧みに展開された筋、終始一貫統一がとれ輪郭
のはっきりした作中人物、人間の心理も因果関係も社会のメカニズムもすべて
見とおす力をもった神の視点からなされる分析や描写、そういった約束ごとか
ら成り立ついわゆる 《伝統小説》 に慣らされた読者が本書を読んで感じるもの
は、まずおどろきであり、当惑であろう。」
それは
「《いくらかあきれはてた、しかしいくらか感嘆と非難とが同時にこもった一種
の茫然とした感じ》 ならまだしもで、《茫然自失というか、絶望というか、落ち
つきはらった嫌悪》 であるかもしれない。」
だから
「《小説とはこういうものだ》 という固定観念をもって筋だけを走り読みし、
なるほど、人間とはこういうものか、世界とはこういうものか、という図式的
理解を得て自己満足にひたる読者のために書かれたものではなく、現実の不可
解で不条理な生にたいするとおなじように、安易な期待を満足させてくれない
からといって目をつぶらず、虚心に一字一句をたどってこの小宇宙の構造と意味
をさぐろうとする読者しか相手にしていない」
わけで、シモンいわく
「記憶のなかではすべてが同一平面に位置し、会話も、感情も、まぼろしも
同時的に共存します。ぼくが意図したのはそうした物事の見方に適合し、現実
には重層化しているそうした諸要素を逐次的に提出できるような構造をつくり
あげること、それによって純粋に感覚的な建築構造を再現することだったんで
す。》」
そう
「つまり虚無の深淵を 《描く》 のではなく、言語そのものが虚無の深淵の
構造をもっている。」
251: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:18:08
なるほど、シモンの小説とはそういうものか。と、おおむね大体、頭と尻尾
の位置くらいはわかったような気になろう。解説とはそういうものだ。
宇宙のはてから河原の石ころまで、人の理解の矛先はどこにでも向けられる。
いくらかあきれはれるくらいに。
252: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:21:28
日頃、私たちがなにげなく 「小説」 と呼んでいるその体裁の輪郭を破り、
型枠の外へドロリと流れでる文=体。ゆえに、シモンの小説は大衆をよろこば
せる媚態を一切放棄している。俗耳に入りやすい感動話をふりまいて賛辞を頂
こうなどとは、これっぽちも考えていない。
「去年のわたしの印税は、全部でも五十万円〔邦貨に換算して〕ぐらいだっ
たよ」(1995年当時)とは、ヌーヴォー・ロマンの旗手にしてノーベル文学賞
受賞者(シモン)の弁である。
『路面電車』(クロード・シモン)のあとがきで、訳者の平岡篤頼はこう気炎
をあげる。
「ヌーヴォー・ロマンがあまりにも技巧を弄し、小説を窮屈で息苦しいもにし
てしまった結果、小説の息の根をとめたとするたぐいの批判がしばしば行われる
が、むしろ 《早く読める》 わかりやすいタイプの小説だけを 《小説》 と呼び
たいならば、ヌーヴォー・ロマンは小説と呼ばれなくても差し支えないのでる。」
たしかに、自分にとっては格別の価値を持つ物でも、他人にはそれがゴミや
ガラクタにしか見えないということがある。そういう他人のものさしをへし折っ
て粉砕してやりたい気持ちになることも少なくない。
さもありなん、そうした 「容易で手っとりばやい」 野蛮なやり方がネット上
でも(あるいはだからこそ)好まれているようにみえる。その不毛さと蒙昧さは
千古より人間の宿痾(しゅくあ)としてはびこっているのだけれども、最近になっ
てなんとか知恵をつけてきた人間は、それに替わるもっとスマートなやり方として、
交換という手段を用いる。よりよい物差しをショーケースに並べて見せることが
できれば、相手のものさしをわざわざへし折る(しかもそれは大抵うまくゆかない)
ようなことをしなくても済むだろう。外在する物と同じように、内在する価値観
(ものさし)も交換することができる。
253: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:26:24
柄谷行人は言う。
《古典派経済学者〔アダム・スミス〕にとっては、一つ一つの商品はすべて
使用価値と交換価値を持っている。が、それは現に交換されねば存在しないの
だ。この使用価値と交換価値の 「綜合」 は、キルケゴールがいう、「有限と
無限の綜合」 に類似するものである。たとえば、売れなかった商品とは、他者
との関係に背を向け 「絶望的に自己自身であろうとする」(『死にいたる病』)
もののことである。》
マルクスが唱えるように、「その人間労働が他人にとって有用であるかどう
か、それゆえその生産物が他人の欲望をみたすかどうかを証明してくれること
ができるのは、商品の交換だけである」
その表現(プロの作家にとってそれは商品である)が、交換性を有して、そし
て現に交換されて他者に知覚(所有)されなければ、言葉は言葉としての機能を
十分にはたすことがない。その意味で、私たちはすでに引用され与えられている
ものの、他者の言葉しか持たないというのは正しい。
されば、市井の垢とかすにまみれた銅貨に似て、すっかりその輝きを失った
表現というものもある。その交換性の増大は、文芸において陳腐であり、月並み
であり、ステレオタイプであり、価値の下落を意味する。ここに奇妙な逆転、
いうなれば価値の弁証法があらわれる。飛躍が、そこに求められる。
すでに競争は始まっているのだ。
254: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:29:11
自分の言葉で書け、とはよく説かれる作文の要諦である。言い換えれば、他人
の言葉で書くな、ということである。
自分の言葉とはなにか。それはもはやひとつの思想であり、柄谷は文学の倫理
という。>>102 〔補足:最大多数の理解(利益)を求めることがはたして最大善
となるのかという問題―倫理〕
しかし、どこまでも自分自身であろうとする在り方を求めると、結果的に
はどれも似通った姿となる。人知を拒み、人の理解を超えるもの、何者の容喙
(ようかい)も許さず、脱商品化されることの逆説的な価値観を絶対視する
こと。そこにあるのは、絶望(孤独)であり、他者(外界)の否定であった。
いわゆる芸術家や原理主義者、民族主義者などがよくおちいる陥穽(かんせい)
といえる。文学的には、例えば 『午後の曳航』(三島由紀夫)の少年たちや
エヴァンゲリオンの世界観となってそれはあらわれよう。
使われない細胞(言葉)が、まさに死(語)にいたるように、言葉は、人と
人との間を流通する状態において、その価値を作り出す。そのなかで、詩的言語
の営みは常套化したパターン(技巧)を鋭く嗅ぎわけるだろう。大事なのは、
そのパターンを拒絶するのではなく、多様な幅を持つずれ(差異)をそこにも
たらすことである。無限にずれ行く変化。それは、バルトのいう 「テクストの
快楽」 やデリダの 「差延」 と呼ぶところにもまた接続するだろう。
255: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:31:13
いかな本好きといえども、シモンのテクストには難儀するにちがいない。三
ページ目には挫折を感じ、不覚にものび太の境涯をここに悟ってしまう。まち
がっても読書感想文にこれを選ばない。
「よくわからなかった。」 と一行に書き捨てるほかないからだ。
交換不可。見なかったことにしよう、と無視を決めこむ。それが一番安全な
処世術である。
もしインテリがそんなていたらくであれば、文学―芸術はすぐに自己満足と
内輪うけのたこ壺に安住してしまう。そのたこ壺に揺さぶりをかけることが、
メタ言語たる批評の役目であろう。もちろんそれは、根拠もなく悪口雑言を
並べ立てることや、ろくろく味わいもせずに 「うまいうまい」 とわめく味覚
のたぐいをいうのではない。
256: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:33:02
ひところ福田和也が流行らせた点数批評も、彼の師である江藤淳の言を借り
れば、「文壇というか文芸ジャーナリズムというのは、ひどいことになってい
るなと思う。もう骨までしゃぶって、賞を出したり褒めそやして、何も自分じゃ
頭を働かせないで、―スカスカにな」った書き手と読み手ばかりなら、あえ
て視覚的、直観的にわかりやすい点数でもって、掛け値なしに小説の価値(ね
うち)を決めつけたってOKだろ? という福田流のあてつけ(皮肉、その他
もろもろ)であった、が、なにやら点数をつけるというその 「お手軽」 なと
ころだけを取り入れて、いっぱしの批評を気取る二番煎じ、またそれをヘヘーと
拝受するような神経は、やはりいただけない。そんなところに、なにかを構築
するような力はない。
余人が語りがたいその暗闇を語る術をもつことが、文学(批評)の〝感性〟で
あろう。
《望ましいのは、「感じる」 ことと 「考える」 ことを分離してしまうので
はなく、「考える」 ことを 「感じる」 ことに基礎づけるか、あるいは 「感
じる」 ことを言語化(思想化)することである。》
と柄谷行人は言う。
257: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:35:05
はっきり言って、シモンの小説は面白くない。面白かったら、つまらないの
だ。その倒錯した文体によっていやでも気づかされるのは、私たちがいかに
「小説」 というものの形、コード、典型的な構造性を意識せずに空気のよう
に呼吸しているか、ということである。
シモンの小説が息苦しいのは、いつものように電車で運ばれていくような、
楽な読書行為を読者に許さないためだ。どこへゆくとも知れぬ路面電車のあと
を追いかけて、さあ走れ、と尻をひっぱたく。
読書は運動だ!
258: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:37:00
『路面電車』 クロード・シモン 平岡篤頼 訳
そしてふたたびそれが起こったが、べつに出しぬけというわけではなくて
言うなればじわりと寄せてきたのであり、つまりわたしがそれを意識したとき
にはすでにそれは始まっていて、わたしがそこへきて二度目か三度目だがまる
でとぐろの輪を巻いた蛇とでもいったものが徐々に腕を締めつけてきて、その
作動はなにかの自動記録装置、ちょうどある種の精密機器の展示ケースに見ら
れるようなゆっくりと回転する円筒上に記録された気圧や気温の曲線みたいな
ものに従っているらしいと了解し、漠然とながら(といってもべつに痛みはな
く)病院のなかで誰かが一時間ごとにそれを監視する役をつとめ、いつでも駆
けつけようと身構えているのだろうか、それとも朝の回診の前にそれを一瞥する
だけなのだろうかと自問するのだったが、しかしわたしはべつに痛みもなく、
顎までシーツを引っぱりあげて仰向けに寝ていて横向きでなければ眠れないわ
たしは寝つけず、だから眠れなかったのだと了解しといっても
259: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:38:18
やっぱりなんのことやらすんなり呑み込めない。とりあえず要約すると―
病院のベッドの上で寝ていると、血圧やら心拍やらを自動で計るような装置が
また作動して、蛇みたいに巻きついているバンドが腕を締めつけてきた。その
装置に関して、とりとめもないことを私は考える。仰向けに寝かせられている
せいで、どうもよく眠れない。
こう書けば多少とも意味は通りやすくなるが、わずらわしくもこうして文章
を平明に整え直して読むほどヒマじゃないと、たいていの読書子は思うにちが
いなく、仮にそうしたところで、この小説の面白さが倍加するわけでもない。
まず必要なのは、根性と気合と忍耐力であり、趣味が読書という堂々たる文系
の人間にはおよそ似つかわしくない汗臭さである。だから、従来の小説の楽し
さを味わおうとする構え方からして心得違いであり、そのためにがっかり(と
いうかげっそり)するのはもっともなことである。
260: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:45:06
言うまでもなく、シモンの小説を特徴づけている常軌を逸する息の長いセン
テンスは、ジョイスの 「意識の流れ」 と地下茎でつながっている。言葉の意味
とイメージは生成するそばから次の言葉によって塗り替えられ、ゆさぶられ、
分裂し、ちぢこまり、押し流されてゆく。骨格なき語りのアメーバ。記号の絶え
間ない流入と散逸の構造による非線形のエクリチュール。
当然、この脱コード化の模様から、ポストモダニズムやポスト構造主義といっ
た言説を導き出すこともできるだろうが、私の稚拙な筆をふるって学究的な論を
展開する由はないので、そこはほかに譲りたい。
書き方そのものは、根気さえあればだれにでも模倣可能だ。放縦に、闇雲に、
言葉をただ連ねていくのは、むしろたやすい。
昔、書店でひょいと手に取った本をパラリと開くと、この手法で、映画の評論
とおぼしきものが延々と書かれてあった。なかなか血迷っている。外見上は、シ
モンやジョイスのそれと同じく見える。だが、文学的な強度まで安く簡単にまね
できるほど甘くはない。そんなものは前衛趣味のちんけな模造品(「SQNY」とか
「HONGDA」とか)にすぎず、所詮はその場限りのたれ流し、二束三文の仕業なの
である。
斬新な手法の形式化は陳腐化を促進させもする。
個性を前面に押し出したスタイルは、概してその作家のみの、あるいはその
作品のみの一回性の芸術として成立し、他の追随を亜流やまがい物にしてしまう。
ピカソの画風をいくら上手にまねしたところで、それは 「ピカソっぽい」 域を
出ることはないだろう。同様に、シモンやジョイスとはちがうベクトルで文体
を異化させなければ、文学の新たなパースペクティブ(展望)にはならないので
ある。
なにもこうした高踏的でストイックな文学を勧めるわけではないが、安易に
奇態な造形に走ることと個性の表出とを履きちがえてしまわないようにしたい。
261: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:46:23
いつだったか(TVで見たのだが)ロシアの高名なアニメーション作家、
ユーリー・ノルシュテインが来日した折、好きな俳句として小林一茶の
「痩蛙 まけるな一茶 是に有」
という有名な句をあげ、その蛙はきっとこんなふうに鳴いたのだと、池のほ
とりにカエルポーズでしゃがみ込み、ギィェー ギィェー と奇怪なオノマトペ
を披露してみせた。あごが落ちるのを禁じえなかったが、なんだろう、古きよき
社会主義リアリズムでも表現したかったのであろうか。
彼は日本語を解せないから、一茶の句をロシア語訳で読んだのだろう。そして
ロシア語の詩として、なにがしかの感銘を受けたのであろう。
日本語はローカルな言語である。非漢字文化圏の外国人にとって、かな漢字混
じりの日本語のテクストは、決してやさしくない。よって翻訳に頼るのは当然で
ある。しかし翻訳の難として、もとの言語が背負っている文化や表現の機微、ま
た技巧の効果が減じたり脱落してしまったりする場合がある。このことは、今まで
の技術解説のなかでもいく度か触れているので、細かく説明する必要はないだろう。
ここで、ことさら翻訳の不可能性を取り沙汰して自国言語を美化するとか、そ
んなせせこましい話をしたいのではない。大体、日本語を母語とする現代人にし
ても、予備知識なしに江戸時代の文脈をその字面だけから読み取るのはむずかし
い。その意味では、翻訳で読んでいるロシア人と大差はなかろう。
262: ◆YgQRHAJqRA
06/01/08 01:47:50
「痩蛙」 を、一茶の感傷的な擬人化として捉える人は多いかと思う。俳句の
心は、言外の趣を誘いだすことにある。ならば、痩蛙からどんなイメージを浮
かべようが、解釈しようが、自由ではある。とはいえ、実のところこの蛙、池
のほとりで独唱するのでも、一茶の感傷的自己投影でもなかった。
岩波文庫の 『一茶俳句集』 によれば、くだんの句には次のような前書きが
ある。
「蛙たたかひ見にまかる、四月廿日也けり」
その 「蛙たたかひ」 の注解。
「蛙合戦。蛙が群集して生殖行為を営むこと。一匹の雌に数匹の雄が挑みかかる」
発情期の蛙の雄どもが、ぬめぬめした体をぶつけ合い、本能むき出しで雌に
襲いかかるのを眺めるという、その有様を想像するに、あまり気色のいいけしき
ではなさそうだ。まあ、一茶も男だし、江戸の世には刺激的なビデオなんてもの
はないわけだし、別の想像力をたくましくすれば、そんなのでもけっこう興奮
しちゃったりするのかもしれない。そこで、一茶は、おそらく体の小さい弱そ
うな雄蛙に肩入れして、例の句を詠んだのだ。
「一茶 是に有」 も、軍談・講釈などの口調に擬したもの、という注解があ
る。もはや清らかな情緒を語れる場所に一茶はいない。
やや下劣な意訳をすれば、こうなる。