技術スレ 第二刷改定at BUN
技術スレ 第二刷改定 - 暇つぶし2ch100: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:39:29
 うって変わってこちらの詩は朗らかで、健康的な明るさに満ちている。親が手放し
でよろこんでほめそうな詩であり、実際よろこんでいいし、ほめてあげていい
(ふじもり君の詩もほめてあげよう。あの詩を理解できる審美眼が親にあるかが問題
だが)。
 その簡明な印象から、なんだか自分にも書けるかしらと、そわそわする方もなかに
はいるかもしれない。だが、はたしてそれほど簡単に書けるであろうか? いや、書く
前に、同じ状況にあってこの 「光」 を 「見る」 ことができたであろうか?

101: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:43:30
 作者は、おそらく田畑などに刈られて積まれたわらを目にしたのであろう。
日差しに強さを感じられるようになった春の昼時と思われる。たぶん周りには
もっと 「春らしい」 ものがたくさんあったに違いない。
 草木が芽吹き、花が咲き、蝶が舞い、鳥が歌う。そんなどこにでも転がって
いる春の意匠が、目につくはずである。
 しかし、作者は春を描きたかったのではない。作者は見つけたのだ、光を。
 この詩の命は、一行目に集約されている。とびだした光を追った先に、春があった
だけだ。言い方は悪いが、一行目以降はおまけである。
 形のないものに形をあたえ、命のないものに命をあたえる、アニミズム的自然観の
あらわれといえばそれまでだが、私はやはり作者の一般的な感興に落ちない(これは
両方の詩に共通している)まっすぐな視点を称えたい。

 私たちは日常を円滑化させるために、必然、瑣末なもの、茶飯事となるもののすがた
を省略してしまう。例えば、洗濯物を干すのにいちいち洗濯バサミの形状をしげしげ
と見定めて手にするだろうか。パソコンで文字を入力するのに、一文字ずつキーの配置
を確認していたのでは埒があかない。
 たしかに、脳ミソを効率的に働かせるために、そうした情報のエンコードは必要である。だが、
そんな雑な、ほとんど盲目的な目でいたとき、あの 「光」 が見えたであろうか。
 異化の眼 ―─ 詩人の眼といってもいいが ─― は、そうした日常の自動化された感覚を止め、
意識の表へと知覚能力をフィードバックさせ、対象を自在に生け捕ってみせる。そのとき、
言葉は見る者のイマジネーションと同じようにゆがめられ、世界は自然の法則から解き放た
れる。
 結果、異化効果をもたらす。

 これで、よしわかった! と、詩人の目になるのだったらなにも苦労はない。
なぜなら、ここまで書いてきたのは、ほとんど感覚の領域の話であるから。
 柄谷行人の言説をここで引用しよう。

102: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:46:43
 《たとえば、怒りや悲しみがいかに真率なものであってもそれをことばにすれば
凡庸であり他人を感動させないのは、それらが本来伝えがたい失語の溝を一挙にとび
こえて社会化したクリシェ〔紋切り型の表現〕に頼ってしまうからだ。固有の怒りや
悲しみでありながら、ことばにしたとき私たちは他人の怒りや悲しみしかもつことが
できないのである。書く意図や動機がどんなものであっても、私たちは社会的言語と
の格闘を経なければリアリティを実現することができない。したがって、いかに書く
かは技術的な問題ではなく、もっとも倫理的な問題であり、ここにすべてがふくま
れている。
 批評が文学となりうるのはこういう地点においてのみだ。そして批評が、批評家
自身の存在の一端に触れるのもこういうときだけである。》
                       『畏怖する人間』 柄谷行人

 その倫理的な問題というのは、創作の舞台の上では言語感覚の問題になる。
そういう感覚をなかなかつかめないという方もいるだろう。技術そのものの
伝達は容易であっても、「感じ」 とか人の内的資質を伝えるのは至難であり、
ついに才能はコピーされ得ない。
 だがしかし、そこをなんとかして、技巧的に異化へ近づく方法を考えて
みよう。

103: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:50:17
〔前スレ339さんの書き込み〕
異化の視点については、それをメインとして作品を仕上げるためには、
つまるところ個人に特別な資質・感性が必要なのではないかと思っています。
しかし、異化の視点を作品の一部分においてスパイスとして使用することは、
技術として身につけたものであっても、有効に利用できるとは考えています。
             *
             *
 あとちょっと補足で、いくら異化といっても、何度も何度も使いまわされ、
反復されれば、もうそこに異化の効果はなくなってしまいます。素材のうまみ
を引き立てるスパイスとして異化を用いるという意識は正解かと思います。
技術のほとんどはそうした調味料的な性格なのですが、その主客を大胆にひっ
くり返すということもできます。実験的、前衛的小説というのは手段が目的化
しているんですね。
 別にそういう書き方がダメだというんじゃないですよ。ただ、その目的や
理想のためには、どのような手段も正当化されてしまう勘違いが、ときにおこ
ります。作家という人種は、なにを書いてもかまわないんだ、という論理は、
ゴシップを書くような売文屋の理屈であって、まっとうな物書きのものでは
ありません。渡部直己が筒井康隆のテンカン差別を指弾するのもそういうところ
でありまして、くわしくは 『日本近代文学と<差別>』 を参照してもらい、ここは
江藤 淳の一説を取り出してみましょう。

104: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:51:40
《 当然、作家は自分の恣意にまかせてあらゆることを描くことを許されていない、
いや、描き得ないという態度でなければならない。
 いいかえれば、作家には、自分の都合で他人を勝手に傷つけてもよいという 「権利」
は扶与されていない。にもかかわらず、対象を 「写生」 しなければならぬ場合には、
本来 「智識的」 「打算的」 なものである礼儀─「虚礼」 を介在させなければなら
ない。具体的にいえば、それは知的な虚構を介在させて描くか、または暗示によって
描く、という方法を採用することを意味する。つまり 「写生」 は、「殺風景」 な、
あからさまなものであってはならない。それは描かれる対象に対するいたわりを内に
含み、ときには見ながらあえて描かぬという断念を含むものでなければならない。》
                       『リアリズムの源流』 江藤淳


 作家というのはなにも職業的な人ばかりを指すのではありません。文字を使って
言葉を外部に表出する行為(メールやチャット、掲示板など)が一般化されたいま、
だれもが(まさに小学生であっても)作家性というものを持ち得るのです。そうし
た環境の変化に対して、人々の認識が追いついていかないために、チャットや掲示板の
マナーといったものを広く啓蒙しなければならないような問題もおこってくるわけ
です。
 先にあげた柄谷行人と江藤淳の言葉をかみ合わせて、書くこと、書かれることの
意味をたまに考えてみるのもいいかも知れませんね。

105: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:02:04
 〔わかるひとにはわかるだろうが、以下に示す図はソシュールの言語学を援用して
いる。といっても、まんま同じではないし(というかだいぶ違うが、どこがどう違う
かをここで詳しく述べる余裕はない)、ラング(言語体系)とかシニフィエ(記号内容)、
シニフィアン(記号表現)、共時態やら虚定的なる術語の解説から入らなければなら
ないことを考えると、あまりにめんどくさい。だからその種の術語には頼っていない。
言語学に関する知識を得て理解した人にだけ向けて書いては、初心者にきびしいものと
なる。まあ私自身、言語学に通暁しているわけではないので、下図はこの解説用に、
かなり都合よく私が改変した、言語の 「イメージ」 であり、学術的な正当性はまっ
たく保証されない。だからソシュール云々ということも書いてない。デタラメのでまか
せを書いたつもりはないが、求知心のある方は、ぜひきちんとした学術書にあたって
もらうことを望む〕


 言葉というものは、決して辞書的な意味だけにとらわれて機能しているのでな
いことは、だれしも経験的に承知されていることと思う。抽象度の高い、「愛」
や 「花」 や 「海」 といった名詞からは、さまざまなイメージが導かれてくる。
逆に 「グルタミン酸」 という名詞は、イメージの喚起力に乏しい。あまり人口
にあがることのない専門的な用語や具体的に対象を指示する言葉には、イメージ
の広がりに欠けるところがある。
 日常を引き剥がすことによって得られる驚きの異名が異化であるならば、やは
りその材料となる言葉も、親しみ深い、つまりすっかり油断してしまっている日
常の言葉から選び取るということになるだろう。
 では便宜上、名詞だけに絞って言葉の中身を図式的に表してみよう。


   << 形象⇔言葉(記号)⇔記号内容 >>

    < 記号内容(概念)一般性→連想─類似系→辺縁系 >
    <                └→対立系   >

    < 外形=イメージ→写実的 閉鎖型  >
    <       └→空想的 開放型  >

106: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:08:34
 言葉は、使用される条件によって大きくその意味内容を変えてくる。例えば、
「女子高生」 という名詞は高等学校に通う女子生徒という意味だが、渋谷あたり
で中年オヤジが若い女の子をつかまえて 「女子高生?」 と、いやらしい目つきで
言うとき、この名詞は本来とは違う意味内容を持ち、卑猥なイメージさえ期待され
ている。この 「女子高生」 はひとつの記号として表現され、そういう性質を与え
る概念(イメージ)を記号内容と呼ぶ。
 形象は文字通り形を有して私たちの知覚に触れるものすべてである。如上のエロ
オヤジは、もろもろの視覚的判断、その体形とか肌の色艶とか服装などの情報(物理量)
を、脳内で心理量(妄想含む)へと変換し、そして自分の持っている言葉の辞書から
ふさわし語を選び、これを表出、さらに不確定な部分を確定させるため疑問符をつけ
加えた。
 こうした文脈のなかで、言葉は高い記号性を持ちえるが、紙切れに 「女子高生」
とただ書いてあるだけだったり、機械的な抑揚のない発話は、そうでもない。また
「田舎」 と聞くと、非常に肯定的なイメージを持つ人もいるし、その逆のイメージ
を抱く人も少なからずいて、言葉によってはその記号内容が大きくゆれているもの
もある。前置きとしてそうした複雑な過程や問題を逐一取り上げるわけにはゆかな
いので、一応そういうメカニズムがあるんだと概観してもらって、記号内容(意味)
の類別から異化の源泉にせまってみたい。とはいっても、女子高生をジロジロ眺め
まわすのも具合が悪いので、もっと抽象度の高い 「石」 を材料に選ぶとしよう。

107: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:09:45
 まずは 「石」 という名詞から思い浮かぶイメージ、意味を、とにかく思い
つくままに書き出してみる。辞書などを参照してみてもいい。多少の個人差は
あるとしても、その社会集団のなかで通用されるイメージが抽出されると思う。
それを 「石」 の中心概念として定置させる。
 近いところから、「硬い、重い、冷たい、くすんだ色」 そして 「小さい、
つまらない、ゴツゴツした、沈む、落ちる、岩、瓦礫」 と、類似系のイメージで
「石」 の外郭を広げていく。さらに進めていくと、「墓、彫刻、遺跡、武器」 と、
関連しつつも動詞や形容詞、副詞が減って名詞が増え、中心にある一般性から離れ
たものが出てくる。あげくには 「石川県、医師、イッシッシ」 など、単に発音が
似ているとか字が同じといっただじゃれ、「うまい、うるさい」 というナンセンス
に行きつく。ここが 「石」 の辺縁系である。記号内容の統一概念が崩れ去る地点だ。
 たぶん滑稽やシュールとしての異化が、この辺縁系にありそうだと、感ずかれた
かもしれない。試しに辺縁系に属する言葉を拾い上げ、本体である 「石」 に結び
つければ、次のような表現が生まれる。
 「この石うまいね」
 そう言って石をボリボリ食べる輩がいたら、たしかにそれは奇妙な事態といえる
だろう。この隠喩的実在はゴーゴリの 『鼻』 やカフカの 『変身』 を極点として実
を結んでいる。だからといってこれらの二番煎じを求めたがるのは軽率で、もうすで
に何十番も煎じられていて、今さら味など残ってはいない。小説の主題としての可
能性は一分もないのかといわれれば、まだあるような、でもないような、と微妙な
ところである。どちらにしろここを目指すのには、そうとうな念力で干からびた泉を
掘り下げる必要があるだろう。
 また、類似系のイメージの数々はあらゆる比喩の下敷きとなっている。頑固で融通の
きかない人のことを 「石頭」 というし、ジャンケンのグーはその形状から 「石」 の
記号で用いられている。こういう比喩表現は枚挙に暇がない。それは、いうなれば安定
と調和をもたらすイメージの和合反応だ。


108: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:13:47
 例えば 「水」 というキーワードを用いて映画全体の統一感をもたらしたその
手法は、すでに 『千と千尋―』 の解説で触れた通りである。
 しかし一方で、類似系のイメージは、画一的な印象を与える側面も有している。
ここでもう一度 >>99 の詩をみてみよう。その一行目。
 「しめったわらから光がとびだした」
 この詩の核となっている句だ。あまり他人の詩をいじくりまわすのははばかれる
のだが、「しめったわら」 を違う言葉に置き換えたらどうなるか。
 「たんぽぽから光がとびだした」
 こうすると、なんだか本当にどこにでもあるような句で、この 「光」 は私たち
の胸に飛び込んでこない。下に続く句もすべて台無しになる感がある。つまり、あり
きたりなのだ。まったく詩味というものがない。これは 「たんぽぽ(ひまわりでも
いい)」 と 「光」 が非常に似た、近いイメージで連結されているのと、語そのもの
も使い古されて新味に欠けるためである。

 詩において直喩よりも隠喩が好まれるのは、「ような・みたいな」 といった助動詞
を省くことでより名詞間の相互関連度が高まり、お互いのイメージが強く読者のなかで
結ばれるという効果を感得しているからだ。印象をすくいあげる絵画的な趣を狙ってい
るといってもいいだろう。魅力的である反面、使い方を誤れば作品の質を一気に下げて
しまうリスクもある。ポイントはイメージの距離のとり方にある。
 そこで、「たんぽぽ」 と書かないためにはどうするか。「光」 を生かすも殺すも、
たった一語がもたらす異化にかかっている。

109: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:15:48
 対立系─― 反意系と書くのが正しいだろうが、今までの流れからこちらを選ん
だ─―は、普段の言語生活では縁のない意味作用である。「お水ください」 と
言って 「ライター」 を差し出す人はいないだろう。だからこそ、そこにインパクト
がある。矛盾やコントラスト効果を狙う対立技法の応用だ。

 先に書き出した 「石」 の記号内容に再び目を転じてみよう。
 そして、「石は鳥だ」 と言ってみる。
 石は一般に水よりも 「重く」、「沈む」 ものであるし、なにかの支えがなけれ
ば地面に 「落ちる」 のが当然で、投げた石が鳥のようにどこかへ飛び去ってしま
うことはあり得ない。しかし、虚構上ならば石は鳥になる。
 「飛行石」 というものがある。映画 『天空の城 ラピュタ』 に出てくる、物語
の中心となるアイテムだ。この映画のキーは、「飛翔」 にある。
 作中、空を飛ぶ道具はたくさん出てくるが、なぜ 「飛行石」 が特別な地位にある
のかといえば、この 「石」 だけが対立系に属する隠喩的実在だからである。どんな
巨大な戦艦が宙に浮かぼうと、それは空力学的な保障を得ている間だけであって、その
自然則が破られればどんな飛翔体も地に落ちていく。本来、飛翔とはま逆のイメージを
持つ石(飛行石)だけが、こういう決まりごとを無視するのである。故に、物語はこの
「飛行石」 を中心に回転し、逆説的にこの石に向かって物語のすべてが落下してゆく。
その果てにどんなカタルシスを迎えるのかは、ここで紹介するまでもないだろう。

110: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:17:55
 手法さえわかればあとは連想力の勝負となるし、これ以上くだくだしく例を
あげる必要もないと思う。細かい距離のとり方や構成は自分で試行錯誤してい
くしかない。

 さて、内容が前後して凝縮だが、また例の詩にある異化の成分を考えれば、
「光」 の対立系としてあるのは、「わら」 ではなく、「しめった」 という
動詞にあった。「かわいた」 でも、ましてや大げさに 「つめたい」でもなく、
「しめった」 たというイメージの距離がいい味をだしている。
 これを大人のいやらしい技巧を加えて書き換えるならば、「みずのそこから
光がとびだした」 などと書けもしよう。でも、レトリカルでない 「しめった
わら」 のほうが自然な気がするし、なにより足下にちまちま咲くたんぽぽなど
に目もくれぬ炯眼がなければ、この詩は生まれなかった。
 しかし、天賦の才に頼らずとも、ある程度形式的な手法を借りて異化的フレーズ
や発想を創作に導入できれば、表現の幅も広がり、かつ連想力も鍛えられて一石二鳥である。
つまりここでも、石=鳥なのであった(イテテ

111: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:18:53
     「銭湯で」 石垣りん


 東京では
 公衆浴場が十九円に値上げしたので
 番台で二十円払うと
 一円おつりがくる。

 一円はいらない、
 と言えるほど
 女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

 たしかにつりを受け取るものの
 一円のやり場に困つて
 洗面道具のなかに落としたりする。


112: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:19:40
 おかげで
 たつぷりお湯につかり
 石鹸のとばつちりなどかぶつて
 ごきげんなアルミ貨。

 一円は将棋なら歩のような位で
 お湯の中で
 今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

 お金に
 値打ちのないことのしあわせ。

 一円玉は
 千円札ほど人に苦労もかけず
 一万円札ほど罪深くもなく
 はだかで健康な女たちと一緒に
 お風呂などにはいつている。


113: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:21:33
 ちょっと時代を感じさせる生活詩ですけど、価値転倒の異化と自然な筆致で
おこなわれる擬人化がどこにあるか、考えてみてください。テクスト分析の
問題としてはかなり簡単ですけどね。
 単に好きな詩を載せたいだけって話もありますけど(笑

114: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:43:07
やっと半分を過ぎたかな。肩がこります。
ちょーしこいて、だんだん解説の分量が増えていくんだよなあ。
まあ読まれる方もシンドイでしょうけど。

115:名無し物書き@推敲中?
05/09/18 21:11:16
このスレから読み始めて、まだ前スレくらいしか読めてないけど
期待してるよ。おもしろい。

116:名無し物書き@推敲中?
05/09/20 22:52:17
勉強になります。
できれば、まとめサイト(ブログででも)作っていただけないかなあ、と。


117: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:30:50
文芸というものの面白さが少しでも伝われば、これ幸いであります。

ブログですか。あーいうのは、ずぼらな人間(たとえば私)には向かないでしょう。
何にしろ、独立したサイトを別に作ろうという気は、ちょっと起きそうもない
のです。すみません。


118: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:31:48
 私の目は真実しか映さない。
 そんなセリフを無条件に信じきってしまうのは、よほどのお人よしである。なん
ていくらか誇らしげに文明人の理を説いてみても、超魔術とかイリュージョンとか
のトリックに目を白黒させてしまうあたり、やはり見えるものは真実だという体験
的了解はそう簡単に崩れたりしないようだ。日記や伝記をノンフィクションに列し
てみるのも、肉眼への信頼が前提としてあるためだろう。
 小説も言葉という道具を使ったイリュージョンである。意識的な書き手は、言葉が
いかに読者のなかでリアルに結像するかを思案するだろうし、時間と資金があれば、
そのための取材を惜しまないだろう。

119: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:33:59
 経験はあらゆる表現の原石であり、物書きにとって 「見た」 ものは、すでに
「書いた」 ことに等しい。あるひとつのものを点として描くだけならば、それは
絵を画くよりもはるかに容易だといえる。まずほとんどの、形あるもの(ないもの)
に付いている名前を書いてやりさえすれば、それで済む。たとえば、「人間」 と。
 だが、小説は一幅の肖像画とは違う。小説は時間の織物であり、物語を紡ぐのは
絶え間ない視点の運動である。その線的運行を私たちはプロット(筋)と呼び、
そのなかで 「人間」 は解体され、分裂し、文章という形に構築(テクスト化)され
ていく。見るべきものは漸増し、かつ複雑化する。しかし、なにもかも書きしるして、
そのすべてを厳密に見定めることをしても意味がない。文章の冗漫化を避けるため
にも、「見る(語る)」 ものと 「見ない(語らない)」 ものとを取捨し、話が野放図
とならないよう、体裁を整える必要がある。あらかじめ作品全体を俯瞰し、綿密な計算を
立ててから書き始めるのに越したことはないが、いつもそんなベストな状態で書ける
とは限らないだろう。気まぐれで、唐突にやってくるファンタジーを、締め切りは待って
くれない。

120: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:35:53
 しゃれた物語なんてものはどこにも見当たらず、文体だけに頼って書きなぐる
力量も野蛮さも持ち合わせていない方にとって、小説はまるでブラックボックス
である。見えないものは書きようがない。だったら書かなければよい、というもっ
ともな進言はひとまず呑みこんで、コーヒーをすすりながら 「書けないなあ」
とボヤくすぐそばに、案外と物語は転がっていたりするかもしれない。

 「見たこともない天使は描けない」 と宣言して、絵画に実際的現実を導入した
のはクールベだったが、パッチリ目を開けていればなんでもリアルだということ
にはならない。そもそも眼球に映じているのは単なる光の乱反射でしかなく、
私たちはそこに形や意味を 「読み」 にいくことでイメージを確立する。あるい
は記号化させる。それは生得的なものではなく、もっぱら学習的なものである。
言い換えれば、私たちは見たことのあるものしか描けないのだった。
 ストックされたイメージと言葉を相互変換し、それを切ったり貼ったり混ぜた
りして、「なにか」 を、私たちは表現しようとする。そして、ものの見方の違い
は、そのまま表現方法の違いともなって現れてくる。

121: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:36:28
 ロールシャッハと呼ばれる有名な心理テストを幼い子供に実施すると、大人と
は違うなかなか興味深い結果が得られるようだ。
 テストは、左右対称の無意味なインクのしみを見て、そこになにが見えるかと
いうものである。(あからさまに病的でない)大人はまず、しみを大きな輪郭と
して把握し、なるたけもっともらしい顕在的な形を見る。輪郭線は固く結ばれて
いて、ちぎれるようなことはない。ちょうど影絵でも見ているような感じだろう
か。そこには人の顔や昆虫や動物などのすがたがあって、なるほどそういわれれ
ばそのようにも見えるなと、うなずける答えと傾向性が示される。内的に閉鎖し
たイメージによって、それらは見えて、または読めている。

122: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:37:11
 対して子供、というか幼児は、大人とは対照的な反応をみせる。まず、しみ
全体の対照性、整合性にとらわれない。輪郭の部分部分を指し、ここにゾウが
いるとか、ここにはお花が咲いているといって、ほとんど自分にしか見えない
形の解釈をする。ある輪郭の出っ張った形がゾウの鼻に見えたとすると、そこ
からイメージが拡大してゾウの全体を空想的に補完するという具合である。
 思えば子供というのは、消しゴム一個を車にしたり船にしたり、はたまた飛
行機にしたりと、多様な遊び道具に変えてしまう。そういうイリュージョナルな
空間になかば身をひたしていられる、おおっぴらにそれが許されているのが幼
年期であるといえよう。大人はそこに、懐かしさと共に羨望の眼差しを送り、
しきりに幼年回帰を試みる。かの芭蕉も、俳諧は三尺の童にさせよ、なんてこと
を言うのだから、ストーリーが思い浮かばずに、あっぷあっぷしている物書きの
救いのわらとしてなにか役にたつやもしれない。

123: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:39:26
 ここにコーヒーカップがあるとしよう。
 「コーヒーカップ」 というイデアをどこからか引っ張ってこれる者同士では、
この名詞の交通は実にスムーズなはずなので、私たちはそこになんの不審も抱か
ない。その上で、ひとまず、コーヒーカップというこの便利な名前をうち棄てて、
「それ」 なるものを言葉で表し、他人に認知させるとしたら?
 私たちはあらためて 「それ」 をじろじろ眺め回しながら、「見る」 ことの複雑
さと、それをいか様にも表現しうる言葉の弾性に戸惑うかもしれない。そしてなか
ば習慣的に、いわゆる写実的な描写という方法を用いるかもしれない。ある種の饒舌
が最低限のリアリティを確保する、そんな期待。けれども、それは全体から部分へと
膠着する閉鎖的な視点であり、なおかつ過剰な言葉の累積が返ってイメージの発展性、
拡張性を妨げる、といえなくもない。
 もちろん描写は今日でも有効であるし、今後も有効であり続けるだろう。ただ、
ここでは物語を示唆するものの見方を上位に置く。

124: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:42:58
 「朝の一杯から立ちのぼるブルーマウンテンの香り」 は、「コーヒーカップ」
と呼ばれる物の共時的幻想を私たちにいだかせる。その一杯は湯のみかもしれな
いのに。
 部分から全体を、あるいはその延長を想起させるリアリティ、この換喩(提喩)
的な表現に帯びるイメージの開放性が、物語というわらをつかまえるヒントで
あるかもしれない。

 例えば、帰宅した夫のシャツに長い髪の毛が付着していれば、妻はこれを非常に
訝しむ。長い髪の毛とはつまり、「女」 を表象するものであり、夫と女が親密であれ
ば、これは愛人ということになる。さらに露骨に香水のにおいなど染みついていた
りすると、妻はもう平常心を失って夫に詰め寄り、修羅場となる。
 こんな話は月並みだと、バカにするかもしれないが、実はこの同工異曲はいたると
ころで、何度も繰返し用いられている。夫婦が親娘に、髪の毛がコンドームに替わる
だけで、シークエンス自体の構造はほとんど変わらない。
 そして、次に夫の切断された足が河原で発見されれば、なんとかミステリー劇場
になるし、妻もお返しとばかりに浮気にはしれば、トレンディ(かなり死語)ドラマ
仕立てとなろう。小説もそういう部分では変わりがない。
 物語というのは、こうした個々のシークエンスの集合体であると同時に、シークエンス
自体が派生的に(この例でいえば髪の毛が)物語を発現させるのだとも考えられる。


125: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:44:43
 さて、ここでまたコーヒーカップに目を移して、だが、認識は 「それ」 の
ままで、見てみよう。その胴横に付いたアーチ(取っ手)の部分に注目すると
なかなか面白い形をしているではないか。
 それはネコのしっぽのように、白鳥の首のようにも見え、ゾウの鼻、耳、
蝶の羽、滑り台、乳房、いろいろなすがたが想起されてくる。また、コーヒー
の波紋は海に、そのほのかな湯気は女のため息だろうか。
 いうまでもなく、物語は関係の構造であるから、AとBがそれぞれで充足し
て隔たっていてはお話にならない。拡張したイメージからまたイメージが誘発
される。細かなディテールは気にしない。一度見えたものは、あとでいくらで
も精査できる。そこは大人だ。
 部分から波及して物語が生産され、筋の連関が成される発想─イメージとい
うのは、ドラマチックな小説を作るには都合がよい。
 『ボヴァリー夫人』 も、夢見がちな田舎娘だったエンマがシャルルと結婚し、
ブルジョアジーにつまづいて人生を踏み外すところからドラマが展開される。
その小さな過誤がやがて大きな病変となって、エンマを蝕むのである。これが
最初から救いようのない破滅的な女だったなら、彼女の悲劇は退屈な寓話にしか
ならなかっただろう。

126: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:46:38
 現象の一部分に潜む物語性を、ほとんど病的な妄想力によって拡大すること。
とにかく針小棒大に事を荒立てること。それこそ物語小説の面白さではないか、
くらいに思えれば、借金の形に友人を人質に置いて遁走し、とうとう 「戻らな
かった」 太宰の体験が、のちに 『走れメロス』 の美談に変体して、人の感動
を誘う仕儀となる。(byトリビアの泉)


 はてさて、これで物語のわらしべ長者になれるだろうか。それともやはり、
溺れる者のわらであろうか。それは各人の努力しだい、とまた都合のよい責任
転嫁をするのだけれど、私にはこれ以上のことはできないので仕方ない。
 無闇に長い割には実のない話で、自分でも書いててうんざりしてきて、途中
かなりへこたれたのだけれど、〔これを書いたのはアテネオリンピックの時期〕
室伏の 「過程が大事なんだ」 という言葉を勝手に自分への励ましにとらえて
最後まで書いた。(だからなんだ)
 まあ、小説(ほとんど文学)に対して私小説的な強度を求める手合いには、
なんだかドーピングくさい手法かもしれないが。


127: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:48:50
           ―─ 語り手と時制 ─― 

 一応、メインは時制である。が、それは同時に語り手がどう振舞うのかを考える
ことでもあり、語り(ナレーション)そのもののディープなところへ首をつっこむ、
とまではいかないが、覗き見るくらいはしてみよう。
 また、ここからは 「視点」 と表記した場合、それは叙述上の 「語り手」 とほぼ
同義であり、文脈によってふたつを使い分けることもあるが、随意に解釈してもらえ
ればありがたい。

 初めに、一人称視点と三人称視点(めんどくさいので以下一視点、三視点と略す)
とはなにか、十分わかっている人もいない人も、いま一度、簡単におさらいしてみよう。
なお、二人称は広義の一視点としてここでは区別しない。

128: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:51:11
 一視点は、「わたし」 とか 「ぼく」 といった人称代名詞で語られる叙述形式。
この 「わたし」 は人間である必要はないのだけれど、幽霊とか神さまとかのイレ
ギュラーな設定は別にして、基本的に 「わたし」 の視線が通る範囲以外のものは
見えない。壁の向こうや他の人物の心理を透かし見ることはできないことになって
いる。そんな制限があるにもかかわらず、この一視点の人気が高いのは、やはり
「わたし」 から見た世界を自由に解釈(表現)できるからで、独白を用いた観念小説
のようなものを書くのに適している。それと、(うまく書ければ)読者の感情移入を
誘いやすいというのもある。
 また、視点をもっと語りの中心へ近づけようという野心は、ついに視点を超越論的
に反転せしめ、「今この小説を書く、書きつつある私を書く」 という現在小説、
メタフィクションの域へ達する。
 作者自身に還元されるほど自己言及的ではないものの、石川淳の小説 『葦手』 には、
そうした視点の相転移が、断章をかいして繰りかえし用いられている。
 一部だけ抜粋するが、やはり全文を読まないとこの視点操作の妙味がわからないので、
未読の方は一読をお薦めしたい。

《「まあ、いいだろう。一緒に来てくれ。」 そういいながら、銀二郎はもう手を
あげて通りかかったタクシイを呼びとめたていた。

 ここまで書いて来たとき、わたしはびくりとしてペンを擱(お)いた。もともと小説
めかしてこんなふうに書き出すとは柄にもないことといわれるまでもなく、》
(新潮文庫 『焼跡のイエス・処女懐胎』 に収録)

129: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:53:05
 一方、お手軽な自分探しの延長にあらわれる 「わたし」=「作者」 という構図
が作家を頽廃させたとする見方もあり、いわゆる私小説の筆頭格である志賀直哉を
して文学の没落をまねいたとする怨み節さえちらちら聞こえてくるような弊害がな
いわけではない。
「ボヴァリー夫人は私だ」 と叫んだフローベールのセリフを、文字通りそのまま
受け取ってしまう呑気な人々のことを考えてフローベールは発言すべきだった、
なんて非難はさすがに聞かないけれど、昔、私小説の圧力が強かったころには、
「私小説に比べれば、フローベールの『ボヴァリー夫人』も、「偉大なる通俗小説」
にすぎない」 と、大変勇ましいことを言った人がいた(名前は失念)。際限のない
自己撞着と強烈な自意識の過酷さを生きない場所で、いま、躊躇なくそんな大言を
言い放てる人がいるであろうか。
 私は 「わたし」 というものがわからない。この哲学的問題に立ちつくすとき、
私小説作家は言葉を失う。そして志賀直哉は言った。
 「さういうものは面白くなくなつた」 と。

130: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:57:32
 三視点の語り手は、基本的に人称のない、つまり名指されない透明な存在である。
登場人物を 「山田」 とか「花子」 といった固有名詞や 「彼・彼女」 で呼び、
また一視点のような視点範囲の制限がない。真暗な土のなかだろうと、人物の内奥
にある秘めごとだろうと、おかまいなしに焦点をあわせられる。まさに神のごとく
時空を駆けめぐるSFチックなレベルから、一視点と変わらないレベルまで、視点
の権限を自由に設定できる。多数の人物が立ちまわる壮大な物語などには、この
三視点が適しているだろう。そこで読者は、物語の目撃者になるのである。
 今でこそ、三視点の透明な語り手はあたり前のように受けとめられているが、
語り手がこうした特性を持つようになったのはフローベール以後だといわれている。
例えば、ユゴーの 『レ・ミゼラブル』 は冒頭から次のようなくだりになっている。


 《かれがその教区に到着したころ、彼についてなされた種々な噂や評判をここに
 しるす ことは、物語の根本に何らの関係もないものではあるが、すべてにおいて
 正確を期する という点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。》

 この語り手は、のっけからテクストが物語─虚構であることを暴露しながらその口で、
「正確を期する」 などと言うのだから、論理的な思考になじんだ現代人にはいささか
面食らう話である。もちろんこうした書き方が間違っていておかしいというのではない。
それが時代のスタイルだったのだ。
 『ボヴァリー夫人』の革新は、その写実性、客観性の徹底によって、それまで事ある
ごとにしゃしゃり出てきていた、いわば書き手と結びついたあからさまな語り手の人格性
を封じたところにある。
 と言っても、完璧に封印したわけでもなかった。フローベールは、自由間接話法という
人称と時制の代置をおこなうレトリックを用いて、前時代となった語り手の性格を隠微な
形で表現したのだが、煩雑になるのでひとまずこれは措いておく。


131: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:59:34
 こうして、一視点と三視点をわけて捉えることになれてきた私たちは、
この二つの視点をつとめて分別し、境界線のようなものを引いて断絶的に
扱おうともするのだが、はたしてそれほで別たれたものなのであろうか。

132: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:08:08
        『夢みる少年の昼と夜』 福永武彦


 太郎は眼を開いた。あたりがくらくらする。魔法の世界が過ぎ去って、真昼の
眩しい光線が縁側に一面に射し込み、その余熱が頬をかっかとほてらせる。茶の
間の中は蒸し暑い。箪笥の上で、啼き終った鳩時計が、もう何ごともないかのように
平和に眼の玉をくるくる動かしている。コノ鳩時計ハモウオ婆サンダ。ソレハオ母
サンモ知ッテイル。オ母サンノオ父サンモ知ッテイル。コレハドイツ製ダ。コレハ
ドイツノ鳩ダ。オジイサンガムカシ外国デ買ッタモノダ。コノ鳩ハ色ンナ死ンダ人達
モ知ッテイルノダ。鳩ハ何年クライ生キルノダロウ?


133: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:09:39
 一見してわかるとおり、この小説は特異な叙法をとっている。物語は 「夢想/現実」
「昼/夜」 「一視点/三視点」 という典型的な対立構造に支えられており、ひらがな
の述部が現実(三視点)を、カタカナの述部が夢想(一視点太郎)を受けもって、それ
らが進行的に微妙に重なり合い交錯し、混沌としていくところがこの小説の面白さである
といえよう。
 問題は、きっちりと弁別しているかに見えるこの二つの視点に、むしろ横断的な特徴
が表れている点である。カタカナという字面に惑わされずに、三視点の語り手と一視点
の語り手(太郎)を識別するならば、まず文末の形、断定の強い言い切り 「ダ」 の多用と
指示語(コソアド)の頻出が目立ったちがいとしてあげられるだろう。たしかに、こう
した文体の工夫によって読者は二つの視点のちがいを意識することができる。単なる異化と
してカタカナを用いているわけではないのだ。
 太郎の語りはとても一視点らしい叙法だが、三視点の語りは、「太郎」 を 「僕」 に換え
てもなんら違和感がない。この例文では、三視点よりも一視点として読まれうるニュアンス
が高い。表面上は断絶している視点も、実は基部において横断しているゆえに、物語の夢と現実
は乖離することなく混交していくのである。
 形式的な区別ではなく、語りのなかでつくられる遠近法的な視点の正体、それが 「時制」 である。

134: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:10:35
 時制というのは、現在形とか過去形といった、時を表す動詞変化の一形態のことで、
さして耳に新しい文法ではないだろう。文法と聞くとなにか憂鬱な面持ちになって
しまう方もいるかもしれないが、私の低クロックな頭脳でもなんとかなっている
ので大丈夫。(ちょっと遠い目になっているのは内緒だ)

 まず、結論から先に言ってしまおう。
 文末の述語、つまり動詞の終止形が現在形(「たべ-る」)をとる場合、事象に対
する語り手の認識点は主観的な位置を、過去形(「たべ-た」)では客観的な位置をとる。
そのため、読者は主語(人称)が記述されていなくとも、時制によって一視点や三視
点的な印象を受けとる。視点の距離感を生みだしているのは 「わたし」 や「太郎」
よりも、動詞の語形なのである。

 このあと、時制に関するこざかしい文法の解説を書く予定だったのだが、書いている
途中で不毛だと感じて止めた。例証を含めて説明すると甚だしい分量になってしまう。

135: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:12:39
 もう少し具体的な話をしよう。
 『夢みる少年の昼と夜』 の文末は、全体として現在形の割合が多い。太郎の視点
では 「ダ」 が多用されているが、これは語り手の意思を示す 「ね」 や 「よ」
といった終助詞と同じような作用があり、時制的な意味は少ない。この 「ダ」 の
おかげで語り手の人格的な押し出しが強くなり、対比して三視点の語りが 「引いて」
みえる。だが、太郎の述部を消して三視点だけをみれば、この視点はけっして引いて
いるわけではない。現在形は語られるものに対して 「寄る」 視点である。また過去形
よりもより人格的である。一視点的な性格が強まるというのはそのためだ。
 この三視点の語り手はつねに太郎のそばにいて、ごく近い外部として視点を共有して
いる。語り口や字面の相違から、最初、二つの視点は水と油のような対立関係をなして
いるように見えてしまうが、そうではなかった。いわばそれは水(三視点)と魚(一視点)
の関係である。水のなかに魚はあり、魚のなかにも水はある。昼と夜、夢と現実、その
境界はどこまでも曖昧なのである。

136: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:15:04
 『ボヴァリー夫人』は云うにおよばず、過去形文が醸し出す醒めた、事実
だけをそこに投げ出すようなニュアンスは、三視点の語り手をあたかも語られる
その世界から超越しているかのようにみせかける。映画を観ているとき、私たち
はそのスクリーンに切り出された景色が、カメラマンという語り手の主観によって
「構築」 されていることを忘れ、まるで自分がスクリーンにであり、超越者で
あるかのような錯覚を起こす。
 ときに人はこの視点を〝神〟と形容する。神と聞くと不埒にもこれを引きずりおろ
さずにはいられない現代精神は、「わたし」で試みたのと同じ自己言及的な手法で
脱構築を目論んだりもするのだが結局は徒労に終わる。私たちの眼界が自らの外に
出られないように 「語り」 も 「語り」 の外へは出られないからだ。
 アニメーション映画の 『千年女優』 はヴィジュアル的にこの問題をよくわからせて
くれる隠れた名作である。それはある種の循環論であり、決定不可能性などといわれる
ものだが、これ以上やると話がややこしくなる。

 とりあえず、小説はフィクションの内部でしか語れないのだから、「語りえないもの
については沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言を素直に聞いておく
ことにしよう。

137: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:17:32
 04年9月に亡くなった水上勉は、『螢川』 の解説でこう書いている。
 「作者はこの幻世界へ読者をいざなっておいて冷たく筆をおく。」
 実際的に見れば、このいざなう者とは、三視点の語り手にほかならない。
そしてこの冷たさは、過去形文末に畳みかけられた視点の冷ややかさではないか。
もし、これが逆に現在形であったなら、文意は同じでも、この小説にただよう
静謐さは失われるだろう。水上勉も、きっと 「冷たく」 感じることもそれに
類する印象も、持てなかったはずである。

 共通日本語の文末は、「-る」 や 「-た」 で終わることが多く、どうしても単調
にならざるを得ない。体言止や倒置法、黙説的三点リーダ、助詞で止めたりと、いろ
いろ工夫しても、そう連続で使えるものでもない。
 書きなれてくると文末の単調さが気になって、しばらく 「-た」 が続いたからここ
らへんで 「-る」 を混ぜてみるか、といった程度の意識はおそらくだれでも持つだろう。
ここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、時制を単なる時の規則ではなく、もっと
空間的な視点の距離感を生みだすための表現なんだと理解し、また活用してもらいたい。

138: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:19:41
 文法的な説明をはしょったので、一般的に時制と目されている動詞の語形が、
一律に時制の働きをするわけではないということは書きませんでした。例えば
「友達が"きた"」は過去ではなく動作の完了(形)を示し、「友達が"くる"」は
未来を示しています。断定の動詞は、種類や文脈によって時制的な働きが変化
します。また、動詞の連体形は文末の時制に支配されるのですが、そんなこと
どうでもいいですね。
 安定した時制の働きをするのは、断定形よりも、「-している(た)」という
持続相(継続相)と呼ばれる語形なんですが、ま、あまり正確さを気にすると
ノイローゼになるので、アバウトに文末の語形を変えてみて自分なりにニュアンス
の変化を確かめるのがいいでしょう。

139: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:23:26
〔前スレ437さんの書き込み〕
お疲れさまです。
いつも楽しみにしています。

ケチをつけるわけではありませんが、
「一視点」、「三視点」よりも、
今は「単一視点」、「多元視点」の方が多く用いられているのではないでしょうか。
「一視点」を含んだ、第三者的な(客観性を装った)語り手の視点がイメージしやすい、
という意味で「三視点」よりも「多元視点」の方が適切ではないでしょうか。
まあ、用語はいろいろ変化していきますので、「三視点」で悪いというわけではありませんが。
             *
             *
 私の不勉強がたたってか、単一とか一元とか多元という用語はいまだあまり、
というかほとんど目にしません。私の私淑する渡部直己はよく使うんですけど(笑
 でも一元とか多元て、ちょっとわかりにくいと思うんです。
なんとなく、気分で一人称とか三人称の形式をとっている限り、視点を制御し書き方
を整えるという意識は育たないでしょう。それこそノリで書くやり方です。この形式
をとったらなにが可能であり、どんな点が不都合になるのか、そこを知らないと一元も
多元もないわけですから。ここに書いたのはその形式の基本的なところです。
 それに、やはり読者は小説を読むとき、人称を目印にしているのです。人称形式に
よって読まれ方が決定されると言ってもいいでしょう。もちろん、視点というものを
突き詰めれば、それはただひとつのもの、作者の恣意にいきつくわけで、基本的に視点
は単一であるという考えになると思います。その意味で、三人称視点は小説上のレト
リックだというところをもっと指摘せねばならないかもしれません。メタフィクション
的な入れ子構造が文学的な試みとなるのも、そうした視点の原理があるからですが、
当然これはいかなる人称を用いているかにも関係するところです。
 なんか頭痛くなりますね。

140: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:14:03
        ─ 視点移動・虚構のカメラマン ─

 小説中の視点操作を、映画のカメラワークになぞらえることはよくあることだと
思う。では、それがそのまま映画と同等、同質の効果を読者にもたらすのかといえば、
赤べこ(知ってる?)のようににわけもなくウンウンと首肯してしまうわけにもいかない。
小説は、映画のようにワンショットで対象を明示することはできないし、逆に映画は、
あまりにすべてが露わに見えすぎてディテールの誤魔化しがきかない。
 現実を取り囲むさまざまな 「目」 が、人の意識(心理)のなかで機能している限り、
ありのままの現実を映すテクストは存在しない。書き手は、客体化した言葉のなかで
リアリティを装うだけだ。主体を持たぬカメラは、その意味で客観的であるといえる
が、映像の価値判断を下すのは結局人間である。
 原理的相違はあるにしても、両者の表現コードはまるきりかけ離れているわけでもな
いから、作家は映画を小説のように読むことができるだろう。当然そこにあるもろもろ
の技術に、作家はインスパイアされていい。
 なぜ面白いのか? この問いかけがあれば、道は明るい。

141: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:14:44
        『ボヴァリー夫人』 上巻37p

 菓子屋は万事念入りにやった。デザートにはみずから菓子の造りものを運んできて
一同をあっといわせた。まず一番下には、青いボール箱の四角なのが殿堂をかたどり、
廻廊もあれば列柱もあり、まわりには漆喰製の小さな像が立ちならび、それぞれ金紙
の星をちりばめた龕(がん)の中におさまっていた。ついで第二段にはスポンジ・ケーキ
の櫓(やぐら)が立ち、まわりには、鎧草の砂糖漬やアーモンドやほしぶどうでこしら
えた小さな砦をめぐらしてある。最後に、一番上の平屋根は緑の原で、そこには岩山が
あり、またジャムの湖水に榛(はしばみ)の実の殻で造った舟が浮かんでいた。野原には
小さな天使がチョコレートのブランコに乗っているのが見え、ブランコの二本の柱の先
には、珠にかたどった本物のばらのつぼみが二つついていた。


142: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:15:58
 その場にありながら、書き記され、読み進むことでしか明示されない対象。描写を
単なるリアリズムのためのテクスチャーと考えていては、例に見るような描法を駆使
する発想は出てこないだろう。これは、シャルルとエンマの結婚の祝宴に出された
デザート(ケーキ)を描写している。一同をあっといわせるくらいだから、けっこうな
大きさだろう。だがフローベールは、それを安直に説明したりはしない。

 視点はケーキを細密に写しながら、下から上へと移動していく。この視点の、下から
上へと向かう描写の長さが、そのままこの菓子の威容を示してもい、古来、価値ある偉大
なものは上昇のなかにその姿を現す。
 描写は、物理的に視点(カメラ)を対象に接近させることだとイメージすれば、その
機能が見えやすいかと思う。ケーキの周りにいる人物たちは、必然的にフレームから
除外される。よって読者は、その描写の外でなにが起きているかを知りえない。この原理
を利用すると、視点にいろいろなサスペンスを導入できるだろう。また、描写=遅延とい
う時間軸の働きも頭に入れておこう。

143: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:16:28
 ちなみに、もしこれがケーキなんぞでなく、なまめかしい女体であったりすると、
これはまた意味が違ってくるわけで、あの 「なめる」 ような、いやらしくセクシャル
な視点になるのだが、どうも男はフェティシズムが働くせいか視点が特定の体部に吸
いついてしまったりもして(フローベールは足フェチらしい)、それはそれでまた
エロティックかも? という下卑た話はさておいて、この視点、まだ一方向の視点だ
からやさしい。書き方そのものがひとつの表現体になるところまで企図できれば、なか
なかの玄人はだしといえよう。
 次はもう少し動きのある例を示そう。

144: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:17:04
    『ボヴァリー夫人』 上巻8p

 それは楕円形で、鯨骨を張り、先ず一番下には輪形の丸縁が三つ重なっている。次
にビロードの菱模様と兎の毛の菱模様とが、赤線に仕切られて互いちがいになり、そ
の上には袋のようなものがあり、その上に多角形の厚紙をおき、これには込み入った
飾り紐で一面にぬい取りをほどこし、そこから金糸の小さい飾りを房にして、むやみ
と細長い紐の先にぶら下げてあった。帽子は新しく、庇(ひさし)は光っていた。
 「起立」 と先生がいった。
 彼は起立した。帽子が落ちる。組じゅうが笑い出した。
 かがんで拾おうとすると、隣りの生徒がひじで帽子を突き落とした。彼はもう一度
拾いあげた。


145: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:29:00
 作品冒頭、シャルルというキャラクターをまさに決定づける場面。あえてそれを一口
で言い表すなら、「まぬけ」 である。
 学ぶところは、描写と説明の緩急を視点の運びと連動させる構造である。シャルル
の膝の上に乗っている帽子は、同じく下から上へ向かって描写される。この接近─上
昇は、ふいに 「起立」 という声で急転する。説明=加速の時間軸をまた思いだして
ほしい。そして、拾う(上)落ちる(下)拾う(上) の、コントじみた動きがクラス
メートの嘲笑を誘うのはもちろん、先生にもあなどられ 「余は笑い者なり」と、二十
ぺん書かされる罰を与えられてしまう。
 なぜ彼はこれほど貶められるのか。やるせないもうひとつの悲劇がここにあるのだが、
それはシャルル最期の台詞にある、小説(ロマン)という 「運命の罪」 にほかならない。
小説のために、彼はレオンでもロドルフでもあってはならない。他でもないシャルルで
あること。このシーンに、すべては決している。

146: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:56:56
 世に横長テレビはいたるところで目にするものの、縦長テレビにはとんとお目にか
かったことがない。それは、人の目が横に二つ並んでついているからという、しょーも
なくあたり前な理由にある。
 生物学的にどうこうはともかく、人は水平方向よりも垂直方向に対して強く惹かれたり、
恐れたりといった動的心理を持ちやすい。遊園地の絶叫マシンはもとより、映画のアク
ションシーンなども、やはりこの上下動でスリルや躍動感を演出している。日常を突破する
力を、人はそこに見るのだろうか。
 紙の上に固定された文字に、同じ効果を期待するのは酷であるかもしれないが、イマジ
ネーションを具象化するためにこうした視点と描写、説明のテクニックは無駄でない。
少なくとも、ホームビデオで運動会を撮るようなのどかさ、だらしなさとは違う、緊張感と
立体性をテクストに織り込むことができるはずだ。 

147: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:59:22
 長いので引用しないが、本が手元にあれば上巻の88ページをひもといてほしい。

 「しかしきわ立って人目をひくもの、それこそは旅人宿 「金獅子」 の向い、
オメー氏の薬局である!」
 にはじまる描写の向こうには、雑然とし、かつギラギラしい彼の店構え。そして
隠そうとしても隠しきれない功名心が、目にイタいほどに見えてくる。ほどなく、
視点は店の外へはずれ、「ヨンヴィルには、それからさき見るべきものはもうなに
もない。」 と断じて、そっけない説明に町のありようを俯瞰して終わる。「なにも
ない」 のだから、もうこまごまと描写する必要などないのだ。ここの部分は、ちょう
ど映画でいうクレーンアップの撮影に似ている。(というか、映画のほうが小説に
似ているのだが)

 描写から説明への呼吸はいいだろう。シャルルやオメーの登場する場面においてキモ
となるのは、叙述の手法それ自体が、人物を描くひとつの姿となっている点である。
 一朝一夕にまねできるほど簡単ではないかもしてないが、「人目をひくもの」 の描写
がやはり表現のカギとなる。そこを地道に練習して腕を磨いていただきたい。
 とにかく、語彙力と構成力が盾もなく露顕してしまう技術ゆえ、一足飛びに上手く
やろうとしなくていい。語彙と構成は、絵画でいえばデッサンみたいなものだ。本を読
んだり辞書をめくったりして書きつつ、基礎的な筆力を養うしかない。かつて自分の
なかを通らなかった言葉が、ひょいと出て来ることなどありえないのだから。
 「描写は一日にして成らず」 である。

148: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:00:45
    『ボヴァリー夫人』 下巻165p

 つぎの木曜日、ホテルの二人の部屋で、レオンといっしょになったときは、なんと
いうはげしい感情の沸騰! エンマは笑った、泣いた、歌った、踊った、氷菓子を
取った、煙草をすいたがった。レオンには彼女が突飛に見えた。しかしたまらなく
よかった、すばらしかった。


149: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:01:19
 描写が対象の細部を際立たせることで特殊化をはかるなら、説明はその細部を捨象
して一般化をはかるものだといえる。説明の説明たる有用な機能とは、手短でわかり
やすいということである。やたら晦渋な取扱説明書があったら用をなさないであろう。
 だが、ときにその直截さは、凡庸と退屈の代名詞のように言われ、如上の例も普通
なら手抜きと見られかねない。もちろんこの筆致が手抜きでなく、計算して書かれて
あることくらい、まっとうな読者は承知している。どうしてかといえば、
繰り返すようだがやはり描写とのメリハリが利いていること、そして極端な要約の配列
によって、文に一種のリズムを作りだしているのだ。なんとなく、だらだらっと説明し
てやり過すところを、点描ふうに短い言葉のショットでモンタージュする。
 ともすると漫然となりがちな長編小説を書くさいには、こうした小さな趣向にも目
を向けたい。

150: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:02:16
 映画には、パンと呼ばれる撮影法がある。A点からB点へ、画面をカットせず、
主に水平方向にカメラを移動させて撮る方法だ。
 映画でいうワンカットが、小説の一文(ワンセンテンス)に照応するものと考えて
みる。すると、小説でパンというのは、一文のなかである対象からある対象へと、
視点をなるべく散らさずに連続描写していくような書き方になろう。

151: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:02:49
      『焼け跡のイエス』  石川淳

 あやしげなトタン板の上にちと目もとの赤くなった鰯(いわし)をのせてじゅうじゅう
と焼く、そのいやな油の、胸のわるくなるにおいがいっそ露骨に食欲をあおり立てるかと
見えて、うすよごれのした人間が蠅のようにたかっている屋台には、ほんものの蠅はか
えって火のあつさをおそれてか、遠巻にうなるだけでじかには寄って来ず、魚の油と人間
の汗との悪臭が流れて行く風下の、となりの屋台のほうへ飛んで行き、そこにむき出し置
いてある黒い丸いものの上に、むらむらと、まっくろにかたまって止まっていた。

152: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:06:40
 視点の移動に応じて、当然一文の息が長くなる。この連続描写をどこまでも続けて
いけば一大パノラマのできあがり、にはならない。
 視点の線性といっても、それは描写の量的な自主規制によって実現されているものだ。
 薬も飲みすぎれば毒となる。逆もまた真なり。この弁証法を地でいくのが、ジョイスの
『ユリシーズ』 であろう。そのなかでジョイスは、句読点のまったくない長大な一文
の独白を、「意識の流れ」 として書いた。
 文を成型するのに、句読点は欠かせない記号である。しかし、そもそもテンやマルや、
段落? 秩序だった文脈? そんな 「読みやすさ」 を意識する意識のリアリティとは
いったいなんだろう。あやふやでとりとめもない意識のどこに、句読点の入る隙間がある? 
 近代リアリズムが自明のものとしてきたリアリティの風景を変えたのも、また(メタ)
リアリズムであった。意識(主観)そのものにたち返る視点によって、現代芸術はその夜明け
をむかえる。ただ、その光芒が小説界の大地をあまねく照らして、ロマン主義や自然主義の
読者の認識を豁然(かつぜん)と開かしめ、世の小説から句読点が消え去る、なんてことには
なっていない。
 一見して上手な絵に、多くの人がたちまち共感するのと違って、結局、なんだか 「よく
わからない」 ものである現代芸術に真の共感や理解を寄せる人は少ない。かつてのゴッホ
のように、同時代の印象派の画家たちさえ認めないということもある。
 最初から前衛する勇気もいいが、まずは相応の技術を身につけておいて、それからいくら
でも転向したらいいと思う。

153: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:09:15
 さて、一文の長さはどのくらいが適当なのだろう。
 個人差はあれ、小説の一文の平均が約40字であることを考えると、パンに模して
始点→中間点→終点 の流れを一文に収めるには、だいたい120字内外、本にして
3行くらいが適当ということになるが、ある程度の描写性を待たすとなると、さらに
その倍くらいになるだろうか。もちろん平均字数など気にしながら書く必要はないので
これはあくまで参考だが、描写の性格上あまり短くもできないし、逆に10行、20行
となると構文に無理が生じ、視点の線性がぼやけ、意味は拡散し、描写は 「印象」
に呑みこまれてしまう。 普通リアリティというものは、直示性(いま・ここ、で起きて
いる事)に依拠している。時間とともに記憶の鮮度が失われていく以上、文の長さにも
限度がある。その見極めも大切だ。
 同じようなことを、伏線の技術の解説でも述べたと思う。私たちは読みながら忘れて
いく。長い距離で伏線を張る場合、〝反復〟をうまく使うのだと。
 もう一度、石川淳の例文>>151 を読めば、この反復の要領が長文にも通じることがわかる。
描くものは少なく、イメージを反復させる。また、蠅を使ってうまく視点を誘導している
ところなども、押さえておきたいポイントである。

154: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:10:12
 作文では、読みにくい、文意がつかみにくい、しまりがない等、たしなめられる長文
も、小説では非難にあたらないどころか、逆に効果的に利用することができる。
 例えば、酔っぱらった人物の朦朧とした視点を表現するのに、あるいは混濁した思考や
心の乱れとして、長文の持つネガティブな要素の有意味性を作品に活かしてみるのも一興
であろう。

155: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:10:55
 〔ちょっと個人的な応答なんですが、転写します〕
 アラ、なんだか懐かしい名前の方が。まだ日記かエッセイみたいなのを続けてい
らっしゃるのかな。文体への意識は身につきましたか? 自分のスタイル、スタンス
はつかめましたか? エッセイのようなものを書くときは、個性的な文体とか変わった
視点(異化の技術参照)が読者への訴求力になりますからね。
 まあ、個性的といっても、どこか他人の言葉であることをまぬかれる書き手はいない
わけですが、柄谷行人はこう言っています。ちょっと長いけど引用しましょう。

156: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:12:04
 構造主義者がおこなったように、文学作品の構造への還元は可能であり且つ必要な
ことである。しかし、それが明らかにするのは、ある種のテクストには必ず還元不能な
何かが残るということである。なぜ、われわれはある種のテクストを作者の名で呼ぶの
か。それはロマン派的な 「作者」 の観念のためではない。構造に還元できないような何
かがあるかぎり、そのかぎりにおいて、われわれはそれに固有を名を付すほかないので
ある。実際、構造主義的分析が成功するのは、神話や大衆的文学にかんしてのみである。
 固有名について語ることで、私は別に作品を生み出した作者、あるいは主体の地位を回復
しようとしているわけではない。ロラン・バルトが言うように、「作者は死んだ」 といって
もよい。しかし、たとえばバルトの著作に言及する際に、私はそれらを 「バルト」 という
固有名で名指さなければならない。そうすることは、それらがバルトに属するものだという
ことを意味するのでない。そこに、たとえば構造主義とかポスト構造主義といった類(集合)
のなかに回収しえない、「単独的」 な何かがあるということを意味するのだ。それは、バルト
自身が意図したりコントロールしたりしえないもであり、さもなければ、それらは 「特殊性」
でしかなくなるだろう。
                (「個体の地位」『ヒューモアとしての唯物論』)

157: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:12:59
 通俗的に個性的な文体といっているものは、ほとんど 「特殊性」(例えば若者言葉
に代表されるようなもの)と言っていいものでありましょう。
 別の箇所で氏は、この構造に還元できない 「単独性」 を、猫のたとえにしてさらり
と、なにげに 「愛」 であるなんて言うのです。
 巷間では、ジャンクフードのように供給、消費されているアイ(love)ですが、こう
いうインテリゲンチアにとって、この種の語はほとんど禁句であるはずです。めったな
ことでは、愛なんて言葉をストレートに使ったりしないものなんです。そこのところも
引用しちゃいましょう。

158: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:13:59
 《たとえば、ここに 「くろ」 という名の猫がいる。特殊性という軸でみれば、
「この猫」 は、猫という一般的な類のなかの一つであり、さまざまな特性の束
(黒い、耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、
単独性という軸でみれば、「この猫」 は、「他ならぬこの猫」 であり、どんな猫
とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているから
ではない。ただ、それは私が愛している猫だからである。》

159: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:15:03
 氏は、「人間」 という語を用いるのにも気をつかうと、違う論説のなかで言っていた
くらいです。このテクストには柄谷行人の、ひとつの語に対するひそかな決意とか決断
があり、まさに構造に還元できない 「愛」 が、「単独性」 があると、私は感じてし
まうのでした。
 たまたま前を横ぎった野良猫や、ゴミを漁っているカラスに、いちいち名前を付けて
いる人はいないと思います。私たちの固有名─名前というのは、自分を指標するためと
いうより、むしろ自分以外の、他者がそれを必要とするために用いられ、名付けられ
るのですね。
 ペンネームとかハンドルとか、私たちは自分に好きなように名前を付すことができま
すが、例えばtina、と呼んでくれる人がいてはじめて、その名が自分に与えられるわけです。
そして、栄えようと衰えようと、また良くも悪くも、その名を忘れない人のなかに単独性
はあるのです。映画の 『ミザリー』 なんかは、それをもっとも極端に表したものかも
しれませんね。

160: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:16:06
 文章の持つ身体性として、どんな個性があってもいいし、自分のコントロール下に
あるからこそ、それは道具にも武器にもなります。技術もその範疇でしょう。しかし、
そうしたものを越えて、読者の心を捉えるテクストのよろこび、味わいというものも
あるのですね。そのようなテクストとは、柄谷をリスペクトして言えば、
 「ただ、それは私が愛している(人の)言葉だから」 だれのためにでもなく、義務感
からでもまなく、それを読むのです。
 例えば、自分を固有名で呼んでくれる近しい人からの言葉、あるいはそういう人へ向
けて書いたもの、そういうダイアローグ(対話)的なテクストには、単独性を感じやす
いかもしれません。
 誕生日に、「お母さん、だい好き」 と書かれたカードを見て母さん涙ぽろぽろ、徳光
さんもらい泣き、みたいな。

161: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:17:27
    ― 場面転換の汎用的方法 ―


 いつ・どこで・だれが・なにを・どうする。
 俗に5W1H(上では 「なぜ」 が抜けているが)といわれる要素は、情報の
明確性や信頼性をはかるのに最低かつ必要な条件であり、報道の基本事項でもある。
これは別に専門的な話ではなく、ごく日常的な理屈の話である。


 「あなた! こんな時間までなにしてたの! 」
 午前様のぼくに向かって妻が怒鳴る。元来、臆病者のぼくはひとまわり小さくなり
ながら、いや、その、会社の打ち合わせで……とかなんとか、もっとらしく例の5W
1Hをさりげに使って、妻を納得させるのだ。それに、子どもが起きるよ、とか。
 「ふーん」と、にらみを飛ばす妻。
 ぼくは風呂に入り、湯船にどっぷりと浸かりながら、あくび混じりのため息をつく。
 あっとぼくは声をあげそうになって、みるみる思い出す。背広のポケットに、キャバ
レー 『パフパフ』 のレシートを、うかつにもそのままにしてあったのを。
 腰を半分浮かしかけた湯のなかで、ぼくのちんちんは縮みあがっていた。


162: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:19:20
 私たちの世界がパラレルな可能世界に侵食されているのでなければ、事実は
ただひとつしかない。犯人(ぼく)は、アリバイを作るために二重三重の虚構
を作り出す。だが、その話はどこかで現実との整合性を欠き、ひとつしかない
はずの事実は二転三転し、情報の確度は失われ、結果的にウソは破たんする。

 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、そしてそれを
まったきひとつの(虚構)世界として描くのならば、当然そのなかの事実もひとつ
であり、<いつ・どこで・だれが・なにを・どうする> のかというルールは暗黙
のうちに守られなければならない。それをふまえて、場面転換の汎用的方法という
ものを考えてみよう。

163: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:21:44
 目を閉じて、顔を横に動かして、目を開けてみる。そこには違う景色が映って
いるはずだ。あたり前じゃないかと感じるかもしれないが、この景色の跳躍は、
映画の表現力を革新させる(実は偶然の)大発見だった。もし、カットとカットを
組み合わせてシーンを構成するモンタージュがなかったら、大げさに言えば、映画
はいまだに固定された画面のなかを人が出たり入ったりする演劇であっただろう。

 景色の跳躍を、もっとユニークに、よりダイナミックに動かすと、場面は転換する。
好例は場面転換で紹介したものをいま一度味読してもらい、凡例は上に書いたお粗末
な話のように、どこにでも転がっているので苦はなかろう。
 <いつ・どこで・だれが・なにを・どうする>
 この五つの軸線が話の整合性を保つのに必要な要素であるのはわかったこと、加えて
同時にこれは時空と運動の関係として捉えることができるし、構文の基本形としても捉
えられる。つまり、時間(いつ)、場所(どこで)、語り手・人称(だれが)、
対象・名詞(なにを)、作用・動詞(どうする)、というふうに。
 このなかで場面の基軸となっているのが、<いつ・どこで・だれが> である。通常の
文章では、これらは(省略されていたとしても) 一致した状態にある。ひとつのカメラは、
ひとつの直示性を前提にしている。だから、「あした、わたしはカレーを食べた」り、
「今日は家で本を読みながら、学校でテレビを見る」 ことや、「彼が山田君の家へ行くと、
ぼくが山田君と遊んでいる」 事態にはならない。説明するまでもないと思うが、これらは
時制・場所・語り手の不整合がある。面白半分でこういう二重視点の叙法に手をだしても、
単に作者のリテラシー(読み書き能力)を疑われるだけである。あえて使うとしたら、日本語
のあやしい外国人のセリフとして、そのインチキ臭さをだすためとか、そんな使い方にした
ほうがよい。

164: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:25:42
 ともかくも、普通に書いていれば視点は均衡して、ひとつの場面が生成される。
そしてその場面場面を連続的に布置してゆけば、自動的にそれは物語上のシーク
エンスとなる。しかし、いつまでも同じ時間、同じ場所に居座っているわけにも
いくまい。読者は、物語に変化を求めるものだ。
 ちまちま視点を動かしていても埒が明かないので、書き手は連続した場面の
<いつ・どこで・だれが> の軸のどれか、あるいは複数をずらす。前の場面との
ずれが大きければ大きいほど、場面転換としての効果も大きくなり、行空けや断章
の形式を生み出すことにもなる。基本的には、この三つのパラメータをいじること
でさまざまなパターンの場面転換が表現できると考えてよい。

165: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:26:16
 例えば、<いつ(時間)> だけをずらしみる。
 人物:太郎 場所:机 時間:深夜>>朝 
 と、設定し、<なにを・どうする> に、「勉強中いつの間にか寝てしまう」
という行為をつないでみれば、どのような場面転換として叙述すればよいか大体
わかるだろう。

 <どこで(場所)> でいえば、災害や事故などの外的要因によって、その場の
様相が一気にガラリと変わってしまうことも場面転換の一種と捉えられる。

 <だれが(語り手・人称)> の軸を動かすのは、一人称視点か三人称視点かの
形式で少し変わってくる。
 一視点の場合、いわばカメラの持ち手を代えることになる。同じ 「わたし」 で
あっても、カメラマン(語り手)が代われば、画の作り方(書き方)が変わるのは
むしろ自然であろう。といっても、小説は基本的に個人の営為であるから、ここで
問題となるのは作者の人物造形力と、人格(文体)への没入力、持続力である。作者
はひとりで何役もこなさなければならない。いくつものハンドルネームをもって、
すべてのキャラクターを苦もなく使いわけられるマルチアイデンティティな人は、
一人称小説向きかもしれない。
 ただ、一編の小説中で主人公をそう何度も代える機会はないだろう。最初から書簡体
形式を採用するか、断章形式で語り手を代えるか、『こころ』(漱石)のように、先生
の手紙という違うテクストの形で本文に挿入するか、あるいは長い会話、そういう工夫
がまず必要になるのであった。

166: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:28:58
 三視点の例は、>>7 にみる通りだから多言するにあたるまい。要は視点(焦点)人物
をずらせばいいのだ。
 三視点の自在性と透明性は、映画的なカメラワークに類似した技法に適している。
特に継ぎ目を感じさせない場面転換はかなり技巧的で、川端のような手筋はそうお
目にかかれない。テクストを分析するのも骨が折れるので、もし場面転換のいいお手本
を捜そうと思ったら、小説より映画を観たほうが手っ取り早いかもしれない。
 しかし、文章化のむずかしいものもある。例えば、『プライベート・ライアン』
の冒頭と最後で現在と過去をシームレスにつなぐ手法は、CG技術のたまものだろう。
映像をすべて言葉に直訳するのは無理があるが、そこをなんとか言語表現の技術に
置換してみようと創意をめぐらしてみるのも面白い。

 映画草創期の監督、エイゼンシュタインは、自身のモンタージュ理論を確立するのに、
日本の俳諧のもつコードを知人から聞いて、その着想を得たといわれている。発句
(五七五)と脇句(七七)の関係は、べったりくっついていてはいけないし、まったく
切断さていてもいけない。付かず離れずの曖昧な言葉(イメージ)の関係によって、句
の連なりがひとつの情趣をかもしだす。この句と句の連結関係を、エイゼンシュタインは
カットとカットの連結関係にみたてた。それに近いものが、>>2 のような手筋だと思えば
いい。『プライベート・ライアン』 なかにも、地面を打つ激しい雨音が戦場の銃撃音と重な
ることで場面転換するシーンがある。
 さすが文芸はエライというのではない。表現技術は、ジャンルを飛び越えるのである。
タコツボに進歩はない。

167: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:30:14
 〔前スレ501さんの書き込み〕
> 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、
> そしてそれをまったきひとつの(虚構)世界として描くならば、
>当然そのなかの事実もひとつ

芥川の藪の中は?
           *
           *
 『藪の中』は、断章的に話が独立していますよね。そして、個々の話(世界)
は整合性がとれています。ただ、それらの話が、同じ時空間上の同じ事象を語っ
たものである、という 「了解」 のなかで読まれたとき、それは同時並行(パラ
レル)の可能世界として認識されるわけです。また、そう読まれることを前提に
しなければ、この作品の面白さはないわけですね。
 もちろん、もっと前衛的に、個々の話をひとりの語り手のなかで輻輳(ふくそう)
させてしまう方法もとれるでしょう。しかしそうなると、もはや物語や場面転換が
どうのというより、小説という表現の可能性を問う話になってしまいます。一場面
転換の技術から、メタフィクショナルなところまで射程に入れてしまうと、ちょっと
荷が重いですね。 「汎用的方法」 でもないでしょう。だから、通論として、ひとつ
の物語(世界)がもつ時空間上のルールを 「ふまえて」、場面転換を考えてみましょ
う、ということなのです。

168: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:32:11
 
 自由間接話法とは、フランス語のフランス語による表現形式であり、レトリック
である。言語体系の違う日本語で、その文体効果を再現させるのは難しい。
 日本語は、インド・ヨーロッパ語族のように、人称が文の成分として切っても
切れない要素になっているわけではない。そもそも、文脈重視の室内言語である
日本語には、西洋語のいう主語は元々ないのだという論もある。〔うるさくいえば、
守護ではなく主格がある〕 人称は、修飾語とそう変わらない扱いを受け、付け外
しが自由である。ために、語り手の位置がしばしば不明瞭になりやすく、人称を伴
わない主観的言説をゼロ人称や四人称(こういう呼称は語弊があると思うが)と言っ
たりもする。自由間接話法はこれに近いものだ。その意味で、自由間接話法的表現
は、そのカッコよさげな名前に期待されるほど、文体として特段目立つことはない
と思われる。 それでも、うまく使えばそれなりの見栄はするので、その形を(フラ
ンス語のレクチャーなどできないので)日本語に即して紹介しよう。

169: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:33:14
 まず、自由間接話法以外の話法との違いを比べておきたい。直接話法と
間接話法の二つである。


   「〈これこそ私の最高傑作です〉と彼は言った」

 直接話法はおなじみの書き方だろう。地の文(語り)とセリフを分けて、誰が
それを言っているのかを判然とさせる。
 原則、語り手は人物の発した言葉をそのまま再生しなければならない。日本語
は、くどさを避けるためもあって、往々に人称(ここでは私)を省いてしまうこと
が多い。西洋語ではなかなかそうはいかないので、人称を勝手に省くと直接話法で
はなくなってしまうのだが、そこは先に言ったように言語体系が違うので厳密に
考えなくてもよい。

170: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:34:02
  「彼は、これこそ最高傑作だと言った」

 間接話法は、人物のセリフを単に地に開くことではなく、又聞きしたことを話す
ような表現に近い。発話者の一人称が単純に省かれるのはもちろんだが、語り
手の人称と時と場所に、セリフを従属させ、ひとつの文に組み込んでしまうよう
な書き方である。
 「〈これこそ最高傑作だ〉と彼は言った」 こう書いてもいいのだが、前後の
文脈がないので、これでは直接話法との違いがわかりにくいだろう。日本語的には、
語り手の用いる主語(三人称)と述語の間に、他者のセリフの部分を挟んだほうが
それらしい構文になる。
 この文体は口語から取り入れられたもので、もっとくだけた書き方をすれば、
「ねえねえ、部長ってマザコンなんだって、さっきそこで聞いちゃった」と、こう
した間接話法は日常会話によく使われているものである。

171: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:36:17

   「これこそ最高傑作だ。作品にこめた彼の……」

 これだけ見せられて、自由間接話法だと言われても、どこが自由で間接なのか
さっぱりだろう。間接話法に増して、このレトリックは、ここに掛かるテクスト
の形式と文脈をまず要するのだ。(そこは『ボヴァリー夫人』の例を出して説明する)

 間接話法と比してみれば、省略されている部分が何かすぐわかるだろう。人称は
当然として、「―と言った」という語り手の指向性が消されている。単なる地の文
となにが違うのかといえば、自由間接話法の言辞は、主観的な思惑や感情の表明と
なっている点である。そして時制は現在形をとる。だから、「これこそ最高傑作で
ある」 と書くべきだろうが、何もお固く考える必要はない。日本語の時制には厳密
な形式性がないので、とりあえず主観を表する文として機能していればよい。ニュ
アンスを優先しよう。
 では、『ボヴァリー夫人』 の例を見てみよう。

172: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:40:18
   『ボヴァリー夫人』 上巻83p

 四年間も居を構えて 「やっと根を下ろしかかった」 頃にトストを見捨てるのは、
シャルルにとっては痛手であった。しかし必要とあらば仕方がない! 彼は妻を連
れてルアンの町へ行き旧師に会って診察を乞うた。それは神経のやまいであった。
転地させねばならない。


173: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:41:30
 過去形文が、客観的リアリズムを支えるひとつの文体、ニュアンスであること
は前に述べた。それは、語り手を物語に介入させないための自覚的形式である。
『ボヴァリー夫人』のテクストは、ほとんどが過去形で占められている。
 フローベールは 「文体だけが事物を見る絶対的な方法なのです」 と言うくらい、
文体にこだわった作家である。彼は自由間接話法を使って、瞬間的に語りの視点を
滑らせ、語り手と人物の位置を曖昧なうちに同化させることに成功する。
 「しかし必要とあらば仕方がない!」
 この記述は、文脈からしてシャルルの心理と読めるが、セリフは地に開いており、
シャルルを指向させる語を語り手は示さない。では、これは神の視点を持つ語り手の、
つまりはロマン派的な作者=神の叫びなのだろうか。いや、ロマン主義者はたぶん、
こんな手の込んだやり方はしない。もっと堂々と物語のなかで熱弁を振るうであろう。
 『ボヴァリー夫人』 の語り手は、物語から一定の距離を保ち、その位置取りを決し
て崩さない。語り手は、現在形で自らを明々と照らし出してしまうようなヘマはしな
いのだ。そうした文体があるからこそ、自由間接話法が活きるのである。

 日本語でこれを読む者にとって、このレトリックの違和感はほとんどないのではなか
ろうか。どちらともとれる二声的な文体を、なにか特殊な表現をしているとは感じない
だろう。人称が付随的で、言わなくてもわかることは言わないという、話し言葉のコード
を書き言葉にも多々適用してしまうので、私たちにはふつうに読めてしまうのである。

174: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:42:10
 フローベールの手筋に学ぶなら、まずは文脈をしっかり作ること。そして
自由間接話法にあたる言辞を、作中人物の主観と重なる形で織り込むこと。
文はあまり長くないほうがいいだろう。連続使用はさらに控えなければなら
ない。現在形は、語り語られるものをいま・ここの場に指向させるニュアンス
を作り出すので、それが連続すれば、どうしてもあからさまな語り手の思弁と
映ってしまう。三人称の神様が、臆面もなくべらべらと物語に闖入してくる
体裁とは、やはり技術として一線を引いておかなければなるまい。
 語り手のささやかな声と人物の心理が、そこはかとなく一緒に響く、そんな
繊細さが欲しい。

175: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:43:09
 例の最後の一文も自由間接話法ですね。なんとなくどういうものかわかりました?
三人称形式の小説だと、知らず知らずこういう文体になる可能性はあると思います。
 語り手は人物の心理を代弁する以外、説教を垂れたり、感情的にわめいては
いけないという文体上の抑制をかけないと、自由間接話法のずれが活きない
ですからね。最初から、それこそ自由に書きたい、そんな煩わしい形式なんて
知らない、という小説ならこの技術は意味のないものだと思います。


176: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:43:54
  〔前スレ517さんの書き込み〕
自由間接話法というのは今ではあたりまえの手法だが、

ということは、
フローベール以前の作家、バルザックやスタンダールにはそういう手法は使われていなかった。
少なくとも一般的ではなかった、ということですね。
            *
            *
 そうですね、フローベール以前にも、自由間接話法を使う作家なり作品は
あったのですが、小説でこのレトリックを効果的に使ったのは、彼が最初だと
言われています。今では「自由間接話法」 は文法として理解されていますが、
文法は20世紀半ばから本格的に研究されだした新しい学問ですから、当時は
あくまで文体、語りの表現法のひとつという意識だったでしょう。
 小説は直叙でなければならない。この理想の追求から、フローベールは自由
間接話法に新たな可能性を見出したのかもしれません。まあ、ここらへんの
むずかしい話は、フランス文学史とその書き言葉(エクリチュール)の変遷に
ついての知識(当然フランス語をマスターして)を要します。
 もっと詳しく知りたい方は、自分でお勉強してね。

177: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:44:26
バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の書き出しの一部を見ましょうか。

 ―とはいってもこのドラマが始まる1819年には、そこにひとりの気の毒な娘が寄宿
していた。悲壮文学のはやる今日このごろ、むやみやたらと誤用され酷使されたために、
ドラマという言葉がどんなにか信用を失ったとはいえ、ここではやはり、それを使わな
いわけにはゆかない。この物語が、言葉の真の意味で演劇的だからというのではない。
だがこの一巻の物語を読み終えたときには、《都の城壁の内でも外でも》 〔訳注 パリ
でも地方でも、の意〕、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。

178: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:46:15
 なんと自信満々でエラソーな語り手でしょう(笑)。これでは自由間接話法
なんて霞んで問題になりませんね。
 バルザックは、1834年にこの作品を執筆し始めています。、この約二十年後に
『ボヴァーリー夫人』 が登場するわけです。ほぼ同時代と言ってよいでしょう。
フローベールの文体がいかに革新的であったか、近代リアリズム小説の旗頭とさ
れるのも当然かと思います。

179: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:46:51
  ―『永すぎた春』とポストモダン的なるもの ―


 『永すぎた春』 は青春恋愛譚である。三島特有のアフォリズムや比喩が小気味
よく、また話もわかりやすくドラマ的で、純文学というよりは俗受けを狙った娯楽
小説、という見方にさして異論はない。実際この小説は俗受けしたので、単行本
の上梓から半年もたたないうちに映画化された。
 それに、ウブなお嬢さんが電車のなかで読まれても、恥ずかしい思いをしなく
て済むように書かれている。まちがっても、「百子は郁雄のたくましいペニスを
小さな口で……」 なんて表現や場面は出てこないから、となりの客に覗き読み
されても安心だ。さすがは三島である(ちょっと違うか)。
 しかし本当にさすがというべきは、作品を通俗(飯の種)と割り切って書き捨て
ない三島の文学者としての矜持であり、『永すぎた春』 にはその文学的なカラクリ
がしっかりと仕組まれてある。

180: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:47:27
 話は単純だ。主筋は、主人公である宝部郁雄(いくお)と木田百子(ももこ)
の、婚約→結婚の道程を語るものである。このプロットだけを与えて、なにか
小説を書けというと、どうだろう、春樹的な 「僕」 が出てきてうだうだセン
チメントするのが現代的にイケてる書き方でなのであろうか。
 ロマンスとセンチメンタルは飽きられたことのない 「通俗」 の強力な武器で
あるから、そこに飛びつくのは至極まっとうな感性であろう。それを卑しみ馬鹿に
してきた 「純文」 が凋落して、それこそ黄昏たことを言いだすのも面白いとい
うかあわれな話だけれども、書けることと同時に読めることの能力が文学である
ならば、通俗でありながら文学であることはなんら矛盾しない。

 うだうだもいいが、恋愛小説に物語の機能をしっかり持たせてやると素直な読者
はもっと喜ぶにちがいない。それは、愛の試練という甘美な響き。

181: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:50:17
 主人公たちにとって、敵や障害、つまり郁雄と百子の信頼関係や結婚を邪魔
する者たちがいてはじめて、物語にサスペンスが生まれる。私たちの実人生に
おいては、なるべく波風を立てないよう社会秩序に従うのが賢い生き方であろう
が、しばしばそれが 「退屈」 にみえてしまうのも確かである。退屈を紛らす
ために小説を読んで、いっそう退屈が増進するはめになってはやるせない。
娯楽(ゲーム)に敵はつきものなのだ。
 ここで主要な役者を並べてみよう。

 宝部郁雄:T大法学部のまじめな学生。お坊ちゃん。
 木田百子:古書店の看板娘。元気ハツラツ。

 宝部夫人:郁雄の母。通称、無敵不沈戦艦。

 宮内  :郁雄と同じT大の友人。28歳、妻子有り。
 吉沢  :郁雄の友人。影のある男前。

 本城つた子:都会気取りの艶女。画家。

 木田東一郎:百子の兄。通称、雲の上人。
 木田一哉:百子の従兄。詐欺師。

 浅香さん:看護婦。東一郎にみそめられるが……。
 浅香つた:浅香さんの母。貧乏という病。

182: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:50:51
 「幸福」 のプロットをぶち壊しにする危機、これを惹起させるのが、一哉・
つた子・吉沢・浅香つた、の四人である。そしてなにより、二人(郁雄と百子)
の 「生殺与奪権」 を握っているのが郁雄の母、宝部夫人であり、この小さな
神話(物語)における気まぐれな神人は、援助と災難を同時にもたらす裁定者
でもある。唯一、二人にとって利害を入れない味方となってくれるのが、人生
経験豊富な宮内だ。
 敵と味方と超越者。
 こうして物語の構図を開いてみれば、まさに古典的ともいうべき三極構造が
現れる。別種のパターンとして三角関係のドラマが奥様方を魅了するように、
〝三〟 は物語の定番的構造である(『ずっこけ三人組』 『三銃士』 『三国志』等)
 大体においてカッチリした物語というのは、こういう構造に支えられている。
それは別段珍しくない薀蓄だが、こういう構造分析をやるとキリがないので
やらない。
 三島劇場の開幕はここからだ。

183: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:51:24
 では、物語の筋を追いつつ小説の深部をさぐっていこう。
 最初の危機は、二人(郁雄と百子)の婚約がやっと決まってめでたいと喜んで
いる矢先、百子の従兄である木田一哉が詐欺の現行犯でタイホされ、新聞の三面
記事にさらされる。これを目にした宝部夫人は青ざめるやら真っ赤になるやら。
 『だから言わないこっちゃないんだ。私のカンは正しいんだ。だからあんな家の
娘と婚約なんかさせるべきじゃなかったんだ』 とすっかり冠を曲げてしまう。
 仮にも上流階級である宝部家が、犯罪者を抱える家とねんごろになるなんて、
末おそろしい。とにかく、平身低頭なにか申し開きがあるものと思っていたら、
木田のご夫婦はずいぶんとのんきに構えてるんだからあきれちゃう。おまけに、
一哉(とかいうゴロツキ)をかばう百子の態度ったらなんなの、えらい神経に
さわるわ(私を殺す気かしら)。郁雄のためにも、こんな恥知らずな嫁をもらう
わけにはいかない、絶対にっ。
 ところが、折り悪く、婦人の良人の弟(役人)が汚職で摘発。新聞の一面を
デカデカと 「宝部」 の文字で飾ってしまう。一哉の件など比較にならない身内の
とんだ面汚しに、宝部夫人はあっさり手の平を返して(こういう羞恥心には鈍感
らしく)百子と仲直りを図る。
 《「― 丁度オアイコなのよ」
  と夫人はいとも軽やかに言った。》

184: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:51:59
 僥倖、郁雄の知らぬ間に事の破局は避けられたものの、宝部夫人のこの性格
がのちに大きく災いする因子であることを、読者に印象付けるのであった。


 次なる危機は郁雄に降りかかる。
 彼は若いくせに古風な貞操観にこだわる青年で、また、大学の卒業が結婚の
条件ということもあって、婚約期間中は百子(もちろん処女)と 「アレ」 は
しないぞ、勉強優先でがんばるぞ、と決意する。なかなか見上げた心意気であ
る。とはいっても若い男子、やっぱり溜まるものは溜まるわけで、アッチの
処理はどうなしているんだろう、なんて余計な心配をしてしまうところへ
つた子登場。

185: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:53:31
 あたくし、田舎っぺを相手にするような安い女じゃなくてよ。
 という感じの、いかんにも都会の洗練された女を演じるつた子にとって、郁雄
みたいな坊やを手玉に取ることなど朝飯前である。
 で、
 『この娘〔百子〕はどうあっても、結婚まで大事にしておかなければならない。
指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、
一日も早く、百子のために、つた子を捨てることだ。よし! そう決めたぞ』
 とまあ、女性を擬物化して新品と中古品のそれと同じ扱いをしようと、およそ
T大生らしからぬ短絡的な結論を導くわけだが、さすがにちょっと不安になって
親友の宮内に相談を持ちかける。彼は28歳で妻子があり、学生の身分でいったい
どうやって生活しているのかしら、なんて疑問もわいてくるけれど、とにかくも、
人生の場数で宮内には一日の長がある。
 「君のやり方は、回避しながら深入りしてゆく典型的な例だから、危なくて見
ちゃおれんね」
 まあ、別につた子とやりたきゃやればいいさ。俺の女じゃないし。だが、それ
ではなにも知らない百子さんが不憫でもある。どうやら、この世間知らずのお坊
ちゃんには、人生の修羅場をくぐり抜ける儀式が必要らしい。

186: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:55:01
 つた子を 「知る」 ために、夜、そぼふる雨のなか彼女のアパートを訪れる
郁雄。戸口にメモ。
 「一寸(ちょっと)買物に出てきます。カギはドアの下にかくしてあります。
中で待っていらしてね」
 ひとり部屋に上がって帰りを待つ。…低く流れるラジオの音楽。意匠を凝らし
たアトリエの調度。重くたちこめる香水の匂い。郁雄は、手もなく甘いわなに捕ら
われ、長椅子(ソファ)に寝そべってぼんやりとまどろんでいた。
 ノック。
 「どうぞ」
 ドアを開けて入ってきたのは、つた子ではなく、宮内と百子であった。
 郁雄ははねおきた。
 恋人がほかの女の部屋にいる。悪夢のような現実に、百子は 「帰って……
私と一緒に帰って」 そう言うのが精一杯で、郁雄の顔を見ることもできない。
郁雄としてもこれは目が覚めるような悪夢であった。

 「対決するんだよ。裁判をやらかそうと思って、俺はやって来たんだ。人間と
人間とは、かち合わせてみなきゃ、何も判らん。おとなしくつた子の帰りを待ち
たまえ」 と宮内。

187: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:55:35
 もはや言い逃れのできない状況に、郁雄は従うしかなかった。
 ほどなくしてつた子が帰ってくる。予想外の面子に迎えられ、神妙にしている
百子を認めたつた子は、どうやらとんだ茶番に巻き込まれたらしいと、気がささ
くれてくる。
 「でも私、郁雄さんとはまだ何でもなくってよ」 「大変な大芝居なのね」
 (百子をとるか、つた子をとるか)「サイコロで決める?」
 百子とつた子に挟まれて、郁雄の惨めさはいかばかりか、ざまあないのである。
それでも、小説としてドロ沼の愛憎劇を描こうというものではないから、フィアンセ
である百子が裏切られるような急展開はない。このあと、つた子が椅子に掛け
てあった百子のレインコートをはたき落とす場面で、奇妙にあっけない決着をみる。
 「レインコートをお拾いなさい」
 「お友だちがいると勇気が出るのね」
 「お拾いなさい」
 「御自分で拾ったらいいんだわ」

 宮内が、レインコートが山場だったというように、このやり取りに決定的な
決別があらわれているのだが、それを説明するには少し話をさかのぼってみな
ければならない。そもそも、どうして郁雄はつた子に惹かれたのか。魔が差し
た、火遊びが過ぎたなどというほがらかな理由で片づけるわけにはいかないのだ。

188: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:56:10
 どこからか仕入れたジェンダー(性差)の観念を装備して、一個の女を自認
するつた子は、素朴自然主義的な百子とは対蹠的な空間に身をおいている。
 服飾と美容に金をかけ、高雅な趣味を持ち、そしてなんとも近づきがたいオーラ
を発散して並みの男どもをたじろがせる。お高くとまるのはいいけど、気づいて
みればオールドミスに入りかけ…。たしかにそれは、都会のハレやかな舞台に昇って
自らを広告する女の成りゆきとでもいうもので、いかにも今日、「負け犬」 と称さ
れるポジションである。

 「そうね。はじめ思想や主義を作るのは男の人でしょうね。何しろ男はヒマだ
から。― でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあいなんて
ことを考えないですむもの」

 つた子のこの考えには、むしろ女性らしい卑屈さがにじみ出ている。
 同姓とうまく、仲よくつき合えない性格があり、かといって数多の男との浮名
を流すような尻軽女にもなれない。彼女にとって男は、部下や生徒のような位
にあるのが望ましく、決して自分より強い男とは関係を持ちたがらない。バカで
威張りくさった男は、つた子の芸術的感性にそぐわないのである。その点、年下
で優男の郁雄は、理想のパートナーと映る。

189: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:57:27
 郁雄には不満があった。
 自分の露わな嫉妬のほむらが、百子の頬を幸福に火照らせる。しかし、それが
彼の自尊心に火傷を負わせるのだ。年下の女性に対して、人間的な小ささや弱さ
を見せたくないと思うのは、男性の正直な心理であろう。けれども郁雄は、どう
も武張った男になれない。百子の前で、男としての理想と現実がきしみ、うまく
歯車が回らなくなる。
 口には出せないが、精神的に、百子も弱いところを自分に見せて欲しかった。
それで 「オアイコ」 になれるのに、百子は負けん気が強すぎて嫉妬のしの字も
見せないのである。

190: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 17:58:01
 つた子の前では、少なくとも精神的な矯飾にわずらうことのない安堵があるに
違いなかった。端的に、楽なのである。
 「僕がだらしないことから起こった事なんです」 と郁雄が言うとおり、男とし
てだらしなくいられる場所(つた子)に惑溺したかった、それは百子に対してなに
か当てつけたいという、それ自体女々しい底意から生じたのである。
 受動的な立場に甘んじることの快楽。つた子の部屋で待つ郁雄の姿に、それがよく
あらわれている。フロイト的解釈をすれば、部屋とは女性器のシンボルである。
そしてそのなかで郁雄は、いきり 「立つ」 のでなく逆に弛緩して長椅子に 「横た
わって」 しまう。これは男としてつた子を抱くというより、むしろつた子に抱かれる
ために待っているといったほうが正しい。郁雄は、はからずも〝娼夫〟に堕している。

191: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:02:57
 とかく 「人工的」 と三島の小説は揶揄されるが、どうしてつた子の陰影の
つけ方は秀逸である。いつも澄ましていて、あまり笑うことのないつた子が、
最後に、心中もっともつらいシーンであえて見せる微笑み。しかもそれをこと
さらに表現しようとする臭みやクドさがなく、三島らしからぬ? ゆかしい筆致
は見事と言うほかない。

192: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:03:35
 この一件のあと、
 「彼女が発見したのは、郁雄の弁明しようのない弱さ、彼自身がいつもそれと
戦って、それをひた隠しにして来た弱さに他ならなかった。自分の恋人を弱者だ
と感じることくらい、女にとってゾッとすることがあるだろうか!」
 と語り手は思弁する。古きを尊ぶ、古書店の家風のなかで育った百子が感じた
弱さとはなにか。百子は怖れ、つた子は受け入れた弱さの本質とは。

 ここで私は、小説のテクストから、文化・社会の背景へと視線を伸ばす。なにも
弱い男というのは郁雄だけに限った話ではないだろう。ここに語られている弱さ
というものが、ポストモダン的な時代を予兆するなかで書かれていることに目を
向けてみよう。

193: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:04:18
 この物語の時代背景は、昭和30年代(1955)の初めごろとみていいだろう。
つまり、小説の執筆時期とリンクしている。敗戦の荒廃から十年余り、はや日本は
平和のぬるま湯につかりはじめていた。
 「もはや戦後ではない」 という名文句は、昭和31年の経済白書に記されたもの
である。同31年には、若者の風俗をあけすけに描いた問題作、『太陽の季節』(石原
慎太郎)が芥川賞を受賞し、文学の不可逆的地滑りが起こる。
 週刊誌が続々と創刊され、昭和33年には東京タワーと言う巨大なペニスが都心にそそ
り立ち、やがてそこから、良識の人をして低俗と卑下される番組が全国に垂れ流される
であろう。そして、俗臭ふんぷんたる世相を揶揄して、「一億総白痴化」 なるコピーが
登場するのもこの時期である。いよいよ大量消費と情報化の波が社会を洗い始めたので
あった。

 もう男たちは、銃を手に、あるいは爆弾を抱えて、死にに行かなくてもよいのである。
火の雨と銃爆撃に脅えることもない。貧しくとも、明日への望みが、夢が、人々の心に灯った。
 時代は変わったのだ。男の仕事は、戦争から金儲けにシフトする。そこで男は、郁雄の
セリフを借りて言えば、「公然と許されすぎている」 のだ。弱さが。
 男たちは強さの脅迫から開放され、モラトリアムとなってあふれ出た。今日に続くポスト
モダンの萌芽がここにある。昭和30年過ぎは、その兆候が次第に表面化してきた時期で
あったろう。

194: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:04:53
 強い力(組織のコード)が頽勢し、弱い力(私的なコード)の優位を得て新た
な文化がその相貌を現した。それがおおむね戦後の社会・文化的な時代の流れで
ある。
 絶対的な他者(神・父・天皇・死者等)を解体してきた近代とその後(ポスト)
のよるべとして、人は、「自分自身」 を信じて生きていく、という再帰的自己像
のあやふやな仮構に他者―中心のモデルを求めるようになるだろう。このメタ
フィクショナル(自己言及的・決定不可能的)な戯れの果てに、オタク系文化に
顕著にみられる並列世界が現じてくる。
 それは、東浩紀の分析を拝借すれば、データベース化した、カスタマイズ可能な
断片的中心(萌え)だけを持ち歩き、総体的中心(理念)を必要としない文化の
形態である。(くわしくは『動物化するポストモダン』)
 この観点からもう一度テクストを読む。

195: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:09:24
 まず結婚の裁量が家から個へ、自由恋愛がそれなりに尊重される社会風土なし
にこの物語は成立しない。女性の横恋慕を可能にするのも、社会的ヒエラルキー
(強い力)が個人を縛りつけることができなくなったためである。
 「私だって― 本当に好きだった初恋の人がありましたのよ。でも― 親の
決めた人のところへ来てしまいましたの」 と語る宝部夫人は当然、戦前の
「強い力」 の信奉者として現代(昭和30年)とのギャップを作中にもたらす。
 ポストモダンのひとつの特徴は、それまでの文化・制度・観念の上下関係を
パスティッシュ(ごた混ぜ)に平準化してしまうことである。この小説もそのよう
な磁場の上に立っているのだ。

196: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:12:25
 百子を選ぶか、つた子を選ぶか。
 実はそこには、読者の目に見えていないだけで、単純なルート選択のカーソル
しか用意されていない。第一、つた子の部屋を訪ねたのも、宮内の助言があって
のことで、郁雄は主体性もなくほとんどその場の流れでやって来ている。本来
あるべき精神の葛藤や苦悶が、ここでは無効化されてしまっている。むしろ直接的
な苦悶を引き受けるのは主人公ではなく、周りの人間(百子であり、つた子であり、
後で出てくる東一郎や浅香さん)であって、主人公はただそれをシミュレーション
するにすぎない。それがポストモダン的なるものの、(村上春樹などにも通じる)
空疎さや弱さではないか。
 郁雄は、レインコートというちょっとしたきっかけ(フラグ)で、百子を選んだ
と言ってもいいくらいで、(オススメではないけれど)場合によってはつた子でも
いいという程度の、ある意味ゲーム的な 「対決」 をしただけであった。この場面
に、おそらくは宮内が想像していたであろう、もっと逼迫した人間の緊張感が希薄
なのは、郁雄のなかにもはや他者を背景とした倫理の葛藤(格闘)がないためで
ある(例えば『こころ』(漱石)のKや先生のような)。
 極端な話、幼児性愛も調教陵辱も、萌えるか萌えないかのちがいにすぎず、単
なる要素(パーツ)として受容されてしまえば、それは内面や社会の問題として、
齟齬として自己の深部(システム)へ還元されないであろう。ただ皮相な差異だけ
に、感心が留まる。つまるところ、郁雄の欲動はオタク系文化と同質の平面を共有
している、と言いたい。
 『永すぎた春』 のもつ軽妙な娯楽性は、駘蕩(たいとう)たるポストモダニティ
から発しているといえ、半世紀を経て、この小説は風化すどころかより現代的になった
のである。そこを批判的に捉えるかどうかは、読者の考え方に任せたい。


197: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 18:20:02
これで前スレの転写終了です。
ここからのつづきは、またそのうちに。のんびりお待ちください。
一番のんびりしてるのは私なんですけどね(^^;

198:名無し物書き@推敲中?
05/11/05 23:09:12
展開を思いつかずにやけになってオチを先に書いてしまうと泥沼

199:無名草子さん
05/11/08 11:55:23
89

200:名無し物書き@推敲中?
05/11/10 04:20:30
200ゲト―(゚∀゚)

201:名無し物書き@推敲中?
05/11/19 18:42:15
復活乙!
知らない間に消えててしょんぼりしてた。


202: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:35:54
 どうも、お待たせしております。といって私の解説を鶴首(かくしゅ)して待って
おられる方は少ないと思われますが、のこりわずかの年の瀬を数えて、ちょっとヤバイ
なんて言ったり言わなかったり、そんな季節になりました。
 しかしなんです。前スレの誤脱を直すといって直ってないどころか、誤脱が部分的に
増えてるのはいったいどういう節穴の仕業でしょう。
 ええ、もちろん、無駄口というのは進捗かんばしくないところによくわいて出る現象
であることは周知のとおり、三島の解説ぜんぜん書けてません。イエイ

 とりあえず、いじることがないだろう解説の頭のところだけアップしますね。
(てゆか、まともに書いてあるのがそこだけという有様(´・ω・`)

>>201しょんぼりさせてごめんなさい。私もしょんぼりしてました。

203: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:38:10
      『永すぎた春』 第二部 ―物語られる物語―


 つた子をめぐる出来事は、作中最初の山場であった。そのたとえでいえば、
山の向こうは当然谷となるだろう。
 ピ――――…と鳴る試験電波に、私たちは音の楽しさを感じないし、
緊張は弛緩のあとのやってくるのが道理である。
 起承転結といい対立の技法といい、人はなにかと 「盛り上げる」 部分に策を
弄するし注目をするが、実はそれよりも留意すべきことはいかにうまく話を
「盛り下げる」 かである。盛り下げながらしかし、ここで次の山へ向けての準備
を怠ってはならない。(中編以上の)娯楽小説の出来映えは、この盛り下げの按配
にかかっているといってもいい。

204: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:40:07
 百子の兄、東一郎は、大学を卒業しても就職せず、家に引きこもって小説家を
目指している文学青年である。ウソかホントか、文学とは世間から脱臼している
はみだし者の生業(なりわい)であるらしく、それは、ヤクザに刺青といったいか
にもありがちなイメージを想起させる。でも、そこは娯楽性を求める作品の仕様
であるから、大げさにこれを指差して、瑕疵(かし)とあげつらうのもやぼ天で
あろう。それに、どうやら文学を志しているらしいというバイアス(先入観)を
かけられた読み手は、物語終盤の読解において、策士三島の罠にすぽっとはまる
仕掛けになっている。そこらへんのカラクリはまたあとで話そう。

205: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:42:11
 文士と病は相性がよいという御多分に漏れず、東一郎もなにやら盲腸炎なぞ
を患ってみたりして手術入院の沙汰となる。このもやし育ちの殿様がベッドの
上でおとなしくしていればいいのだが、じっとしていると体の節々がこってくる
だの、体のどこかに触ってもらっていないと不安だのと訴えるから困りもの。
さようかと、うっちゃっておくわけにもいかず、家族の手を煩わせるハメに。
百子も徹夜で兄の体をもんだり触れていたりと、身内とはいえあまり気持ちがよい
とはいえぬ看病の日々である。
 「贅沢きわまるわよ。百子をタダでこんなに使って」
 しかし、そう言う百子にも一分の利はあった。つた子との一件で露呈した、郁雄
のもろさ弱さに対する不安や怖れが、さらに不信や軽蔑へと化膿せずに済んだのは、
ひとえに東一郎の看病に打ち込むことの効能、つまり疲労による精神の消耗のおかげ
である。

206: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:46:04
 郁雄も手伝いにやってきた。ここは罪滅ぼしにもいいところを見せねばなら
ない郁雄は、積極的に東一郎の看病を買ってでる。このようにして、二人でひ
とつの物事に取り組むことは、お互いの距離を縮めるのにけっこう役立ったり
する。

 さて抜糸も済み、体力も回復し、もう退院してもいいというのに、東一郎は
なかなか退院しようとしない。病院の陰気くささがそんなに気に入ったのかと
いうとそうではなく、なんと、担当の看護婦(これが美人と決まっている)の
「浅香さんと結婚させなければ退院しない」 と、ふざけたことを言う。
 ところが本人いたって大まじめ、さすが凡俗のちりを厭う文士の風上、男女
のなれそめをしっぽり描くようなまわりくどい大根芝居はしない腹である。
 どうやら東一郎は、郁雄と百子がイチャついているのを見て、自分も献身的に
尽くしてくれるお嫁さんが欲しくなったらしい。それでもって、なんやかやで
浅香さんと東一郎は婚約してしまう。んなアホな(うらやましい)という話だが、
小説では書き方しだいでんなアホな(ねたましい)ことも自然にまかり通ってし
まうのである。
 まあ、この小説は書下ろしではなく連載なので、紙幅のつごうもあって筋の傍流
にかかずらっていられないというのが実のあらましであろう。一見強引な展開も、
人物の性格(造形)によってフォローされる。話の筋と人物の性格は、表裏一体の
関係にあるところを知徳してもらいたい。

207: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:49:42
 東一郎の結婚話に、がぜん乗り気で後押ししたのが宝部夫人だ。木田の夫婦は、
浅香家の素性が卑しまれて当初反対であった。けどそれがなんだろう。この豪腕
マダムにかかれば、白だって黒になるんだから。
 「私、御見舞いに行って浅香さんって人と話もしたけど、実にいい娘さんだと
思ったわ。美人で、気立てがよくて、働らき者で、落ち着いていて、あんな人は
今どき珍しくてよ。それに身分ちがいとは又、木田の御両親も、この民主々義の
時代に何て頭がお古いんでしょう」
 ベタぼめである。だが、この言いようは自らのブルジョア的偏見を一時的に棚上
げにしたもので、彼女は他人の色恋を自分のおせっかいで成就させたいだけなので
ある。そもそも夫人からみれば、たかが古書店の分際である木田家と貧しい浅香家は、
庶民の五十歩百歩でしかない。家柄云々なんてお笑い草よ。その上、この縁談は宝部
家とは直接関係しないところなので、変などぶ泥がこちらに飛び散ってくることも
あるまいという楽観があるのだ。だから、このいかにもさもしい 「民主々義」は、
のちにあっさりと転覆してしまうのである。

208: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:51:16
 なにはともあれ、東一郎と浅香さんは婚約し、宝部夫人は上機嫌で、郁雄と
百子を連れて熱海の別荘へと避暑に向かうのであった。物語は、しあわせそうな
風を受けて順風満帆にすべりだすかと見えるも、季節は夏にしてこの国土、避け
るに避けられぬ凶風の、やがて来たることを予感する。


209: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 17:53:53
 ではまた来ます。年内に、必ずや、その決意で、いやホントよ。

210: ◆YgQRHAJqRA
05/11/29 18:19:50
 <知徳→知得> また間違えてるし。

211:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 11:49:08
f

212:名無し物書き@推敲中?
05/12/11 13:44:17
間に変なレス入ったら見にくいので、レスを控えていましたが、
秋頃にこのスレ見つけて全部読みました。続きも楽しみにしてます。

213:名無し物書き@推敲中?
05/12/20 23:01:46
     ____
    /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴∴,(・)(・)∴|
  |∵∵/   ○ \|
  |∵ /  三 | 三 |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |∵ |   __|__  | < うるせー馬鹿!
   \|   \_/ /  \_____
      \____/


214: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:12:57
>>212 ありがとうございます。なにかひとつでも糧になるものがあればと思います。

215: ◆YgQRHAJqRA
05/12/26 15:17:02
          〔前回からの続き〕

 熱海では、郁雄の誕生パーティーが催された。昔なじみの友達が四、五人女子
同伴でやって来た。その友達の一人が吉沢である。
 吉沢には、夏の若者のハツラツさとか、浮かれた馬鹿さ加減といった稚気はなく、
宝部夫人に言わせると、「あの人はなんだか神秘的」 で 「あなたの友達の中ぢゃ
一番魅力があ」り、「あの人に比べれば、あなた〔郁雄〕なんか、ガラスの箱み
たいなもんだ」
 連れの彼女は三十がらみの美人であるが、どうも吉沢への惚れようが尋常の様子
になく、性格もギスギスしていて、百子はこの女が好かなかった。だが、吉沢は
ちょっと気になった、のだけれど、彼はなぜか百子を避けた態度をとる。

 夜にダンスがはじまって、めいめいパートナーを替えながら踊るのであるが、吉沢
はここでも百子を無視していた。私がもう予約済みだからって興味のないふりをして、
カッコつけて(そりゃたしかに顔はいいけど)、バカにしてるじゃない?
 《『いいわ。いちばん後で申込んできたら、きっぱりことわってあげるから』
― ところがこんな百子の決心を見抜いているように、吉沢は最後から二人目
に百子に申し込んだ。》
 そして、吉沢はダンスをしながら、百子に打ち明ける。
 「僕ね。あの女のおかげで、めちゃくちゃにされてしまいそうなんです。秋
まで命があったら、会いましょう」
 「大げさね」
 「本当ですよ、秋まで生きていたら、あなたに会いたいな。僕、こんな精神
状態で、あなたみたいなイキイキとした人に会うのが辛かったんです。だから僕、
あなたを避けていたんです」


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