技術スレ 第二刷改定at BUN
技術スレ 第二刷改定 - 暇つぶし2ch1: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 21:49:06
 前のスレッドが落ちてしまいましたので、こちらで続きを書きます。
 また、前に書いた解説は誤字脱字の修正と多少の手直しをしてこちら
に転写します。
 その際、まことに勝手で申し訳ありませんが、スレッドのコンパクト化
を図るため、諸多の書き込みをスポイルします。書き込んでくださった方
の不敬な扱いや遺漏は、ひとえに私の不徳によるものであり、先にお詫び
申し上げておかなければいけないでしょう。

前スレ
スレリンク(bun板)

2: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 21:52:32
 川端康成『みずうみ』にみる場面転換。
 
 有田老人のわめき声は、下に寝ているさち子も目をさましたほどだった。
「お母さん、お母さん、こわいわ。」とさち子はおびえてたつにしがみついた。
 (後略)
 (2行あけ)
 坂道で子供が六七人ふざけていた。女の子もまじっている。おそらく小学校に
入学前の子供たちで、幼稚園の帰りかもしれない。そのうち二三人は棒きれをもち、
ない者はもったつもりで、みな腰をかがめて杖にすがる身ぶりをしながら、
「じいさん、ばあさん、腰抜かし……。じいさん、ばあさん、腰抜かし……。」と
歌いはやして、よろめき歩いていた。

3: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 21:53:50
 少々分かり易すぎるくらいの、場面転換における技術の一例。
 上段と下段ではまったく違う場面空間であるが、言葉は類似したもの
を呼びあっている。この言葉のイメージの近接が文章上の空間を埋める
役割をはたし、ある種の連続性を帯びるゆえに、子供たちはさち子の
恐怖心をいっそうはやし立てるかのようにふざけるのである。もう少し
自然で、あざとくならない筆致で場面を接ぎたければ、言葉が生みだす
イメージのズレを大きくし、場面間の近接を薄くして、前後に幅のある
文脈を作ればよいだろう。

4: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 21:56:17
〔前スレ28さんの書き込み〕
冒頭については、その機能を考えてみるべし。

1:物語の方向性の提示
2:物語の人物の提示
3:物語の場所の提示

大きくこの三つかな?
プロのを引き出してみる。

 どうしたの、なんだか元気のない声みたい。夕食はすませた? 
いえ待って、用があるのよ、ちゃんと。さっき佐々木さんから電話
がかかってきたの。ええそう、あの佐々木さん。ポプラ荘の。
 電話の向こうで母がそう言った時、私はもう何年も、おばあさんと
過ごした日々をゆっくり思い返すこともなかったのに、
「ああ、おばあさんが亡くなったのだ」
 とすぐに悟った。
(「ポプラの秋」より抜粋)

3がわかりにくいが、「電話」という言葉で、おそらくは主人公の家
だろうと予想がつく。
2は、いわずもがな、主人公とおばあさんである。
1は、主人公の元気のなさとおばあさんに関する話であろう、という想像がつく。

5: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 21:59:42
   川端康成『みずうみ』にみる場面転換。2

 この浴室の照明はどうなっているのか、湯女(ゆな)のからだに陰がない
ようだった。 湯女は銀平の胸をさすりながら自分の胸を傾けて来ていた。
銀平は目をつぶった。手のや り場に迷った。腹の脇にのばしたら湯女の脇腹
にさわりはしないか。ほんの指先でも触れようものなら、ぴしゃりと顔をなぐ
られそうに思えた。そして銀平は真実なぐられたショックを感じた。はっとお
びえて目をあこうとしたが、まぶたは開かなかった。したたかまぶたを打たれ
ていた。涙が出そうなものだが出ない。目の玉を熱い針で刺されたようにいた
んだ。
 銀平の顔をなぐったのは、湯女の手のひらではなく、青い革ののハンド・バッグ
だった。
 (3行略)
─ ハンド・バックがしたたか顔を打ったのは確かである。そのとたんに
銀平はわれにかえったのだから……。
「あっ。」と銀平は叫んで、
「もし、もし……。」 と女を呼びとめかけた。

6: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:03:57
 これは作品冒頭にみられるもう一つの場面転換である。本当はもっと
長い引用を用いてこれに掛かる技術のすごさを玩味していただきたいの
だが、わずらわしさを避ける意味もあって割愛した。興味のある人は実際
に読んでみたほうがいいと思う。
 
 ここで使われている転換はいわゆる回想導入である。珍しい手法ではない
が、一流はやはり憎らしいほどうまい。
 まず、湯女の陰が消え、銀平の目が閉じられることで焦点がフェードアウトする。
だがすぐには転換しない。なんでもすぐヤリたがるガキは冷笑されるのを手練れは
知っている。ここでもまた、言葉が言葉を呼ぶ例の近接の技術が使われている。
 数行を費やしたところで青い革ハンド・バックが登場する。イメージしてみて欲
しい。あまり見かけない、なにか不気味な色のバッグではなかろうか。それが銀平
の顔をしたたかと打ち、はっとわれにかえるのである。もちろんそこは湯女の居る
場所ではない。現代でいうストーカーの銀平がここに目覚めるのだ。その鍵となる
バッグはルイヴィトンとかコーチとかの品のよいブランド物ではいけない。あくま
で気持ちの悪いイメージ(銀平の)を呼び起こすものでなければ近接の意味がない
のだ。しかもこのバッグは、この後、五十数ページにわたってガジェットの役割を
はたすのである。
 また、この箇所周辺には繊細な伏線も張られている。たったひとつの場面転換に、
作品構造全体に関わる技術の多重展開を自然にやってのけるは、さすがノーベル賞
作家といったところであろうか。

7: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:06:12
   宮本輝『螢川』にみる場面転換。

「……情熱的やのォ」
 竜夫はそう言って空を見あげている関根の顔をいやにはっきりと覚えている。
 蒲団の中が温まってくると、竜夫はにわかに疲れを感じて目を閉じた。痙攣を起こして
崩折れていく瞬間の父の顔が、胸の奥に刻み込まれていた。もうわしをあてにするなとい
う父の言葉が聞こえて、彼は寝返りをうった。柱時計が止まったままなので、家の中は物
音ひとつなかった。竜夫はそっと起きあがって隣の部屋をのぞいた。柱時計の下に座った
まま、千代は重竜の入れ歯を膝に置いてじっとうなだれていた。

 四月に入って五日目に再び大雪が降った。
 ゆるみかけていた古い雪を、ぶあつい新雪が包み込んで、白い街の底が汚れている。
 千代は重竜の着替えを持って小走りで停留所まで行くと、待っていてくれた市電に飛
びのった。

8: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:09:58
 竜夫は中三になるこの作品の主人公で、千代はその母。
 掲出したセリフ後段までは、竜夫が思いを寄せる同級の少女や友人との
セクシャルな回想である。蒲団が温まるのは、たかだか3ページの回想時間
だけのせいではないだろうが、まあこれは措いておこう。
 回想を使う場面転換はすでにのべているので問題ではない。
 ここでのキモは、三人称で視点を自由に移動させる叙法をとる場合の場面転換である。
いわゆる神の視点だが、神だからといって好き勝手に振る舞うようでは人間(読者)に
に見はなされてしまう。まず、通常ならば竜夫が目を閉じたところで、一行あけて四月に…
の部分にもっていっても間違いではない。しかし、それでは転換の連絡が拙いと思ったの
か、作者は、入院した父親のイメージを呼び、竜夫をもう一度起きあがらせ、隣の部屋
に導く。当然作者は次に視点を千代に切り替えることを決めているのだから、そこには千代
が座っている。ここで視点対象は竜夫から千代へと移る。実質の場面転換はここでおこな
われていると言っていい。千代がうなだれているのもたまたまではなく、竜夫のなかの悲愴
がここで同時に重なり合って哀感を高めているのである。間違っても、火曜サスペンスなど
を見ながらせんべいをかじりつつ、「この娘が犯人なのよ、わたし分かっちゃうんだから」
と独り言していてはいけないのだ。

9: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:15:45
  〔だいぶ前に、別のスレッドに書いたもの〕
 反作用的な言葉やイメージをつかって、対象をきわだたせる技法。
 距離や頻度に気をつければ破綻することもないので、各自応用を競っ
て楽しむのが吉です。

 まず、感情をゆさぶる山場へのプロセスが大事です。悲しみが主題の場合、
基本としてこれに笑いや軽薄なものをぶつけるんです。この典型例の映画と
して 『クレヨンしんちゃん戦国大合戦』 があります。もちろん爆笑させては
主題がかすむので、そこら辺のさじ加減は各自で勘案してください。
 また、高村光太郎の詩を援用してみましょう。

10: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:16:29
  (前略)
 #その数滴の天のものなるレモンの汁は
 *ぱっとあなたの意識を正常にした
 *あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
 *わたしの手を握るあなたのちからの健康さよ
  あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
  こういう命のせとぎわに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
 ●あなたの機関はそれなり止まった
 ▽写真の前にさした桜の花かげに
 ▽すずしく光るレモンを今日も置こう

11: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:18:51
 先に*部にある、「意識を正常にした」 「眼がかすかに笑う」 「健康さよ」
といった言葉が後にくる死への抵抗・対立として描写されています。そこから
作者の妻への愛情と思い出を受けて、●部の死へと流れ込みます。そして▽部
の余韻にある 「レモン」 の語が#部の 「レモン」 に導かれ*部を想起させ、
安らかさと死がここで衝突し、読者の哀惜をより一層深める作用となるのです。

 この詩とクレヨンしんちゃんの映画の類似性をよくよく看取し、学習の一助
としてください。

12: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:21:07
   カミュ『異邦人』にみる時間処理。

 【A】
 眼がさめると、マリイは出て行ったあとだった。彼女は叔母のところへ行くつもり
だといっていた。きょうは日曜だなと考え、いやになった。私は日曜は好きではない。
そこで寝台へ戻り、長枕のなかに、マリイの髪の毛が残した塩の香りを求めた。十時まで
眠った。それから煙草を数本すい、続けて正午まで横になっていた。いつもの通り、セレ
ストのところで昼食をするのはいやだった。きっと、あそこの連中が質問するだろうが、
私はそんなことがきらいだからだ。自分で、卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた。
パンが切れていたが、部屋を降りて買いに出たくなかったので、パンは我慢した。

13: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:24:52
 【B】
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち
震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。泉の方へ五、六歩歩いたが、アラビア人
は動かなかった。それでも、まだかなり離れていた。恐らく、その顔をおおう影のせいだった
ろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に
汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、
特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつく
ような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、
一歩、ただひと足、わたしは前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、
匕首(あいくち)〔短刀〕)を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きら
めく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なま
ぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽
のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ
感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてが
ゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと
思われた。私は全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は
銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾(ろう)する轟音とともに、すべてが
始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感
じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない
体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸の
とびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。

14: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:29:00
 「太陽のせい」 で殺人を犯す、不条理小説として名高いカミュの代表作。
 あからさまに分量のちがう引用だが、なぜ【A】と【B】でこれほどの差が
あるのか。それは、「説明」 と 「描写」 の違いがありありと出ているからで、
ひいてはその変調が時間の流れを大きく変えているのである。
 小説には二つの時間がある。小説のなかに流れる虚構(物語)の時間と現実の
時間、つまり読者が読書する時間だ。

 まず、【A】をみてみよう。説明的な短い文の連続で成り立っているのがわかると
思う。こまごました描写や心理はいっさい省かれている。途中、十時に起きて煙草
をすったあと正午までの二時間を、「横になっていた」 という説明だけですまして
しまう。書き方そのものがけだるい。
 一方で読者はこの部分を、個人差はあれ、数秒で読み終わってしまう。一般に説明
と会話でつなぐ小説が読みやすく、早く読めるのはここに由来している。叙述のリア
クションが早ければ、基本的に先へ先へと話が進むので読む労力は軽くなる。内容さえ
わかればそれでいいという読者にとっては、なにも文句はないだろう。
 だがしかし、このような説明一辺倒の小説は薄っぺらい、ガキの作文、単調、などと
世の小説グルメに安く値踏みされて、無情にも駄作の烙印を押されてしまう。
 では、全体にわたって説明過多でおし進む 『異邦人』 は駄作か?
 否である。カミュはここであえて描写を避けているのだ。その神算鬼謀が発揮され
るのはクライマックスにおいてである。【B】をみてみよう。

15: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:35:08
 【B】は主人公がさしたる動機もなく殺人におよぶ、この小説のクライ
マックスの場面。【A】とのいちじるしい差がすぐに読みとれるかと思う。
ここまでサクサクと進んできた話が、ここでは一転して、時間の流れが遅く
なる。なぜか? 描写しているからだ。読者はただ事でない雰囲気を感じる。
「それで事は終わる」 「ママンを埋葬した日と同じ太陽」 と不吉な言葉が
招来し、照りつける太陽、流れる汗、時は止まったようにじりじりと過ぎる。
まるで決闘シーンのような緊迫感に読者はくぎ付けになる。
 そう、すべてはこのためにあった。軽い文体そのものが人物造形と物語の伏線
として仕組まれていたのだ。主人公は何ごとにも、母の死でさえ頓着しない性格
ゆえ、物をよく見るという 「描写」 をここまでしてこないのだし、この殺人場面
の不条理さと驚きを与えているのは、まさに文中にもあるように、文体が二重の意味
で 「均衡」 を 「うちこわして」 いるからなのだ。

16: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:47:18
 ここまでの解説で、説明と描写が時間と深い関係をもっている、という
よりも時間そのものであるということを理解して頂けただろうか。基本的に
は描写が細密になればなるほど小説上の時間は遅くなる。つまり、なにかを
描き出している間、言葉の増殖に比例して虚構内の時間はその進みが遅くなり、
私たちがそれを読む(解する・イメージする)時間は長くなる。
 【B】の場面は、実際には十数秒たらずの出来事と思われる。だが読む方は、
これも個人差はあるが十秒ちょっとでは読みきれない。スローモーな展開に感じる
のはこの二つの時間軸の齟齬(そご)があるからだ。説明はこれと逆である。
 「三十年後」、たった四語、約一秒で初々しい少女もオバタリアンになってしまう
のだ。が、もしここでまだ少女のままであったりすれば、そこに幻想性やSF性がで
てくる。
 また、三時間ほどで読みきれる分量を計算して、小説内の時間経過もきっかり三時
間にするというような、ちょっと実験小説的なこともできるだろう。大に小に応用は
さまざまである。まさに書くことそれ自体が時間の調整だといっていいのだ。じゃあ
キテレツな時間処理をすれば面白いのかというと、そうではない。【B】の例にして
も言葉の近接や対立、複数の伏線や人物設定、前半のしっかりした書き込みなど、多様
な技術の支えがあってこそ生きてくるのだ。単独の技術だけで、小説はなり立っている
のではない。

 野心的な試み除外すれば、やはり普段留意すべきなのは時間の起伏であろう。
描写が続いたあとに説明を使ってすっと時間をすべらせたり、会話が続いてダラ
ダラしてきたら描写でひきしめる等の配慮であり、また回想を使って時間を過去
に飛ばすのも有効で、これは前にあげた宮本輝がよく好んで使っている。
 単にリアリスティックにみせたいからという理由で描写するのではなく、そこに
時間の概念を意識して書けば、少なくとも作文的な単調さを回避することはできる
だろう。ともあれ、原理さえわかればここでごたごた言うよりも、いろいろな小説
から学んでみたほうが早いだろう。

17: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:51:27
  吉野弘『夕焼け』 にみるイメージの喚起力

いつものことだが           
電車は満員だった。          
そして                   
いつものことだが              
若者と娘が腰をおろし            
としよりが立っていた。           
うつむいていた娘が立って          
としよりに席をゆずった。            
そそくさととしよりがすわった。       
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。   
娘はすわった。               
別のとしよりが娘の前に           
横あいから押されてきた。          
娘はうつむいた。              
しかし                   
また立って                 
席を                    
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。

18: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:52:02
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて─。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
あの娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。  
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。 

19: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 22:54:16
 こういう詩を読むと、小難しい語彙やひねくり回した比喩、華美な装飾に彩られた言葉が
必ずしも人の心をとらえるわけではないというところに、神妙にもなりまた自らの無知
が励まされるような気持ちにもなる。どこかの首相ならば、「感動した」 ですましてもいい
かもしれないが、小説を、文芸を志す者はそうはいかない。その「感動」のみなもとを探
り、自ら芸のこやしにしなけばならない。昔気質の職人が新米に、「技は盗んでおぼえろ」
と諭すのはよくきく話である。なんだ、そんなのは今時ではないと一蹴してしまうのは浅は
かであって、実はこの意欲こそ大切なのだということは、一度でも何かに打ち込んだ経験の
ある人ならば自明のことと思う。事実、小説に関わるもろもろの技術は逃げも隠れもせず、
書籍というかたちをとって私たちの目の前に、盗んでくださいと言わんばかりに転がってい
るのだから、これを利用しない手はない。
 では、詩の方へ目をむけよう。

20: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:00:47
 一見なんのてらいも算段もないかのように、日常の出来事を平易な言葉で活き活きと写しだ
して心に残る一片の詩。そのわけを、作者の視点が素直だとか無垢、あるいは純真であるから
という乙女チックなまろやかさにあえて抵抗するならば、なにが残るのか。そこにあるのは、
人はどうしたって恣意的かつ理想的にものごとを見たがり、感じたがるという当たり前の心理
作用の中心点に作品を射的する技の(言葉の)妙である。

 まず、《いつものことだが》といういきなりの断り書きである。そう、日常とは字義どおり、
いつもの、おきまりの毎日のことだ。満員電車をイメージできない人は少ないだろうし、そこ
の座席に座っているのは必ずしも年寄りばかりでないことを私たちは知っている。そんな風景
はあたりまえすぎている。そして、すでにここで善良な読者はこの作品の共作者となっている。
 あとはもうベルトコンベアーなのだ。無駄な言葉を弄せばかえって作品の質を下げて目的を
失するだろう。ここではイメージこそ主役であり、それを妨げるような記述、描写はこの世界
に現れることをゆるされない。これは時間処理で解説した 『異邦人』 とは性質の違う原理が
はたらいているのだが、これはあとで説明したい。

21: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:05:29
 席をゆずるろうとする娘がうつむくのは、その殊勝な行為をするために好奇の目が
そそがれるのを避けられないゆえなのだが、ここで彼女に好奇の目を注いでいるのは
満員の乗客ではなく、実は、語り手でもあり読者の分身でもある 「ぼく」である。
また、これを読む無数の(満員の)ひとりたる読者(乗客)の目であると言っても
いいかもしれない。
 そして、こんな娘は「かわいいじゃないか」と「ぼく」は思う。で、礼も言わずに
降りていった年寄りはしゃくさわるではないか。と、そこへまた年寄りが横から押し
出されてくる。押し出したのは他ならぬ 「ぼく」 である。だって、また見たいから。
そして期待どおりに娘はまた席をゆずるのだ。うつむいて。「いいぞ」と思う。二度
あることは三度ある、なんてことわざを引くのはちょっと後ろめたさもあるからだろ
うか。素直に言えばよい、もう一度見たいと。だからまた年寄りが出てくる。
 考えてもみたまえ。いくら高齢化社会といったって、こんなうじゃうじゃ年寄り
ばかりがわざわざ娘の前に出てくるわけがない。第一となりに座っているの若者のとこ
ろにはなぜ行かないのか。狸寝入りでもしてるのか。けしからん。でも、答えは簡単
で、そんなのは絵にならないからだし、「ぼく」 だって望んでいないからだ。
 三度目において娘は席をゆずらない。それはかわいそうだから、と書いてある。わけ
がわからず不審に思う人のために、もう一度書くと、この作品ではイメージこそ主役な
のだ。そこに徹底している。そういう部分では詩というはとてもわかりやすい。
 冷静に読めばこの娘に関する情報は、ほとんどなにも書かれていないことに気づく。
背格好や顔や年齢を示す言葉はなにもない。ただ 「娘」 なのだ。それなのに、恐らく
私とあなが想い描くこの娘のイメージは、ジャイ子としずかちゃんほどの隔たりはない
だろう。でもそれは、つまりこの娘がとんでもない醜女であることを排除していないと
いうことでもある。もちろん、男のご都合主義でそんなしぼむようなことは考えたく
ない。そのための技術がここにある。とりあえず先に進もう。

22: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:08:58
 娘は席をゆずらず、下唇をキュッと噛み体をこわばらせて座ったまま、そのあと
どうなったかを書かずに 「ぼく」 は電車を降りる。いたたまれずにキュッとなる
のは娘のくちびるだけではなく、「ぼく」 の心もなのだ。娘はやさしかったと
「ぼく」 は 思う。最後まで黙っていたからだ。つらい気持ちにじっと堪えている
その姿こそ美徳であるならば、娘はどこまで(も)ゆけるだろう。それはもう過去
の姿としていつまでも 「ぼく」 の心のなかにあり続けるのだから。
 「いま」 「ここ」 にある美しい夕焼けを見ることもなくなった娘の代わりに、
「ぼく」 は見る。まさにその沈みゆく太陽とその赤い色彩の美しさが娘の心を代弁
している。そのイメージはさらに膨張してその娘の頬を染め、容姿まで(書かれて
いないのに!)うるわしいに違いないと感じてしまう。だからタイトルも 『満員電車』
とか 『娘』 ではなく 『夕焼け』 なのだ。

 だが現実に、単に席をゆずる行為にやさしい心だなんだという必要はなく、自責や
羞恥でそんなわかりやすく下唇をキュッと都合よくかんだりはしないだろうし、美し
い夕焼けというありきたりな表現は通常避けられるものだ。それでもそうした言葉が
効果を持つのは、ただまっすぐにこうイメージしたいと願う読者の心を狙い、その的
を射て外さないためである。
 普段、人がいかに恣意的にものを見ているか。例えば、強面で五指がそろってなかった
りするとちょっと腰が引けたりするだろう。また肩書きを人間的な価値に置き換えてみて
しまうのもそうだし、眼鏡をかけて澄ましていると、なんだか思慮深い人にみえてしまう
のもそうだ。まあ、こうした例はどちらかというと陳腐な先入観として斥けられることの
ほうが多いのだが、読者のイメージを計算できるのだから、要は使い方しだいであろう。

23: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:13:19
 こうしたイメージというものが私たちの心理をどれだけ左右するのか、
その観念がいかに強力であるかを知ってもらいたい。だからきっちりと
イメージを誘導できる言葉を選び構成すれば、この詩の娘はきっとうら
若い10代の少女であり、まだ擦れたところもなく、髪は黒くつややかで、
内気で、小さな胸のうちは汚れを知らないやさしさにみちている。親の
しつけもよいのかもしれない。けれどまだ衆目に晒されて堪えられるほど
心が丈夫ではないのだろう。そしてこのような心根の美しさは、きっとその
面立ちにもあらわれているに違いないったら違いない。と、読者は勝手に
うれしい想像力で人物を造形してくれてしまう。この共同主観性に注目され
たい。
 特殊性を含まない事象をイメージに落とし込むためには、へたな説明や描写
をしないほうが返ってよい結果を生むのである。

 さてこれで、いかにも人畜無害な人間が人殺しになるという裏切りの装置
として、描写を避けていた 『異邦人』 との違いをわかってもらえただろうか?
ちょっと今回はわかりにくかったかもしれない。私もまだまだ勉強不足だな。

 しかし、この詩のように簡素化するのは簡単なようで実は難しい。細やかな
感性と観察力がないとなかなか共感を呼べるものは書けないのだ。適度に描写して
しまったほうが楽であるのも事実だ。
 まあ、使える使えないは別として、この詩と散文にまたがる書き方の幅という
ものを賞味していただければと思う。

24: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:15:19
 人のイメージをより強くかき立てるものにノスタルジーがある。これを効果的に使って
成功をおさめた映画が 『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』 だ。どちらかというと、
子供向けのお下品映画としてPTAのヤリ玉にあがっていた「クレしん」シリーズが、こ
の一作においてはまさに、良識ぶった大人たちのもつイメージに対して逆襲に転じたのだ。
なにしろこの映画をいちばん楽しんだのは、しぶしぶ子供に同伴していた当の親たちであっ
たのだから笑える。

 この映画はたちまち大人たち、特に中年層の話題になり大ヒット。時は平成大不況のまった
だ中。リストラ、倒産、ボーナスカットの生き地獄にあって、古き良き時代の思い出にひたる
ことは、その疲れた心を癒しまた忘れさせてくれるのにちょうどよかったのかもしれない。
ちまたでは、いい年したおじさんが子供向け映画に一人訪れて、帰りには涙しているという
珍現象を生むのだった。

25: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:23:37
 この映画は文芸誌のコラムにもたびたび取り上げられて、誰だったかは忘れたが
「大人帝国」 イイ!イイ! ともろてをあげて激賞していたので、私も観てみた。
 感想としては、まあたぶんこの懐古趣味に感じいるほど年をくっていなかったせい
もあって、それなりに面白いなという程度であった。だって、生まれてもいない時代
のことを(TV等で知っていても)懐かしむなんてどだい無理な話だ。
 この映画の言いたいことは、「つらい現実もがんばって生きようね」 というメッ
セージである。その対立にノスタルジーを用いている(過去の幻想vs今生きている現実)。
しかし、この映画のスゴイところは、ノスタルジックな事物が氾濫して、そんなメッ
セージを呑みこんでしまっているところだ。本来これは本末転倒でやりすぎ、鼻に
つきすぎると批判してもいいのだが、エンタメとしての側面もあるし、あらわな過剰さ
を一概にけしからんと白眼視はできない。資料集めや場面設定を考えるのも大変であった
ろうと思われる。

 こうしたノスタルジーがいつでも歓迎されるのは、多感な時期に経験したイメージほど
強く心に固着しているためだろう。小説で用いる場合はあまりくどくならないように、その
時代の雰囲気を感じさせるもの、懐かしさを呼び起こすものをさりげなく配置するといい
だろう。また、イメージというのはもともとアバウトなものなので、正確さよりも時代の
匂いみたいなものを伝えられればいいのではないか。
 ちょっと抽象的になったが、なにかのヒントになればいい。

26: ◆YgQRHAJqRA
05/09/01 23:26:22
今日はここまで。
塵も積もればなんとやら、転写だけでも一苦労ですな。

27: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 19:52:48
  フローベール 『ボヴァリー夫人』 岩波文庫 伊吹武彦訳
     ― 比喩の構造 ―


 「旦那、どこへやります?」と馭者(ぎょしゃ)がきいた。
 「好きな方へ!」レオンはエンマを車のなかへ押し入れながらいった。
 そして重い馬車は動きだした。
(中略)
 ─、植物園前で三度目にとまった。
 「もっとやれ!」前よりはげしく叱る声がした。
(中略)
 どうしてもとめろといわないのは、お客が動き病いにでもとりつかれたかと
馭者には不思議でならなかった。ときどきとめてはみるが、とめるとすぐ背中
にどなり声が聞える。そこで彼は馬車のゆれにも頓着せず、方々引っかかって
もおかまいなく、うんざりして、咽喉のかわきと心細さに泣きだしそうになっ
て、汗びっしょりの二頭の駑馬(どば)をいよいよはげしく鞭打つのであった。
 そして、船着場の荷車や樽のあいだ、さては車避けの石の立っている町角で
は、町の人々が驚きの眼を見張って、地方ではまことに珍しいこの怪物─窓掛
けを下ろし墓穴(はかあな)よりも厳重にしめ切り、船のようにゆれながら、こ
うして絶えず姿を現す馬車を眺めていた。
 一度、真昼ごろ、野原のまんなかで、古ぼけた銀ランプに陽の光がはげしく
射すころおい、小さな黄色の布カーテンの下から、あらわな手が一つ出て、千
切れた紙ぎれを投げた。それはひらひらと風に散って、その向こうに今をさか
りと咲いている赤爪草(あかつめぐさ)の畑へ、白胡蝶(しろこちょう)のよ
うに舞いおりた。

28: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 19:59:04
 比喩。いわずと知れた修辞法であり、特別くどくど教わるまでもなく普段から
使用していることと思う。ここで扱うのは、腹黒いとか腕が鳴るといった慣用句
的比喩(死暗喩)ではなくて、もっと想像的(詩的)な言葉の多義性、多用途性を
駆使し、文章に厚みあるいは深みを持たせる比喩の使い方である。

〔ここで言っている比喩は隠喩や寓喩のことです。比喩の分類と説明をもっと詳しく
フォローすべきでしょうが、辞書にも載ってることですし、自分で調べましょう。
直喩(明喩)・隠喩(暗喩)・寓喩・提喩・換喩、とりあえずこの五つを押えておけば
問題はないはずです。〕

 引用文は、散々泣きごとをいっては使用を避けてきた『ボヴァリー夫人』の、おそら
くかなり有名な一場面である。レオンという学生とのあいびきを断るためにおもむいた
主人公のエンマ・ボヴァリーが、当初の意志とはうらはらに二人で辻馬車に乗ってあちら
こちらに移動するようすが描かれている。
 バルガス・リョサ〔『果てしなき饗宴 フロベールと「ボヴァリー夫人」』 前スレ59さん
為感謝) はこの描写を擬人的な表現ととらえた。しかし、ここではオーソドックスな比喩
として考えたい。
 話の流れを念頭におけば、この場面はあきらかにエンマとレオンが一戦交えているところ
であるのは、容易に想像できるところである。現代でいえばカーセックスであろうか。
 執筆された時代(1851~56年)では、男女の交わりを赤裸々に描写するのは社会的
に難しかったであろう。そこで作者は思案をめぐらし、さまざま比喩を用いてこれを表現
する。かなり露骨に。


29: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:02:13
 エンマとレオンは馬車に喩えられている。そして 「馭者」 だけがなにもわかっ
ていないところが滑稽であると同時に、それ故にいっそう二人に拍車をかけるのも
また馭者なのだ。
 つまり 「馬車のゆれにも頓着」 しない馭者は 「汗びっしょりの二頭の駑馬
(エンマとレオン)をいよいよはげしく鞭打」 ち、二人を絶頂に導くために使役
されるのだ。
 当然ながら、ここに出てくる言葉もいやらしい。
 「汗びっしょり」 「はげしく」 「ゆれ─」 「まんなか」 「射す」 「さかり」
「もっと行け」 「もっとやれ」。
 試しに、これらの言葉に喩えられる行為を簡潔に述べよ。と、年頃の娘に答えを
迫ればよい。うぶな娘なら固まって答えられまい。そこで実地に教えてあげたいのは
やまやまだが、妄想は小説だけにしておこう。

30: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:03:46
 さて、始まりがあれば終わりもあるのが世の常である。作品中でも突出して
エロティックなこの場面は、きちんと二人が果てるところまで書いてある。
 以下は、比喩する語をカッコで横に書いてみたものだ。

 一度、真昼ごろ、野原【陰毛】のまんなか【膣】で、古ぼけた銀のランプ【エンマ。
人妻でありレオンより年上、さらにすでに他の男と関係したあと】に陽【レオン。彼
は金髪である。】の光【ペニス】がはげしく射すころおい、小さな黄色の布カーテン
【女陰のひだ】の下から、あらわな手【ペニス】が一つ出て、千切れた紙ぎれ【精液。
元はレオンに渡す断りの手紙。この描写は同時にエンマが貞操を捨てた意にもなって
いる。】を投げた。それはひらひらと風【空】に散って、その向こうに今をさかり【発情】
と咲いている赤爪草【エンマの性器。この草は春にピンク色の花をつける】の畑へ、
白胡蝶のように【白い蝶=レオンの精液は】舞いおりた。

 これでは少しわかりにくいので、さらに私なりに(勝手にいやらしく)意訳してみた。

31: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:11:21
〈真昼ごろ、窓掛けを厳重に下ろし、二人は船のようにゆれながら汗びっしょり
になってもだえていた〉
 陰毛に隠れたエンマの膣のなかで、レオンのペニスがはげしく射しこむ。そして
エンマの小さなひだひだの下から、むき出しのペニスがとび出すと、レオンは勢い
よく射精した。それはひらひらと空(くう)に散って、まるで発情したような、
ピンク色にめくれあがったエンマの性器の上へ、白い蝶のように舞いおちた。

 (ちなみに現代であれば、こう書いても裁判に訴えられるなんてことはないだろう。
しかし、当時はこのシーンが破廉恥で汚らわしい、ほかに神を冒涜している等々で
訴えられたのである)

 こうして二人が果てたところでこのシークエンスは終わる。このあとは段落をかえ
てわずか二行の説明だけである。馭者も出てこない。こうだ。

 「やがて六時ごろ、馬車はボーヴォワジーヌ区のとある裏町にとまった。そして
そのなかから一人の女がおりて、ヴェールをかけたまま、後をも見ずに歩み去った。」
  (このあと2行あけて場面転換。)

32: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:16:04
 このタイプの比喩と違うが 「窓掛けを下ろし墓穴より厳重に閉めきり」
という文は、これより14ページを隔て、レオンとまた密会してホテルに泊まり、
「そして雨戸を立て、扉を閉めて日を暮らした。」 という説明へのひそかな伏線
になっており、この暮らしがどういものであったかを暗に示している。
 また、エンマとレオンが馬車に乗りこむ直前には、「せめて北門から出て、『復活』
や『最後の審判』や『天国』や『ダビデ王』や、業火に焼かれる 『堕地獄者』 をご覧
なさいまし!」 と、堂守のじいさんが叫ぶセリフがある。
 これは、エンマの、その人倫にもとる数々の行為によって、やがて身を滅ぼすことへ
の警告のようでもある。あるいは偽善的な人生への後ろめたさの意をこめるために、
続く性描写の対置であるようにも思える。
 とにかく、フローベールの作り出した 『ボヴァリー夫人』 という小説は、その綾目
の複雑さと美しさはもとより、物語として読んでも面白いまれにみる技術の教科書で
ある。未読のかたはぜひぜひ、一読することを奨めたい。

33: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:29:44
〔補足:文体(丁寧体と普通体)のちがいに特に意味はない。なんとなく流れで〕

 でも、このタイプの比喩は珍しくはないですよね。ある一つの言葉は、それ単体
では一つの意味しか表さないけれども、その前後関係から派生する言葉のイメージ
から語義とは違う意味を持たせることができる、ってことですね。
 「顔」 「影」 だけではそれぞれの意味しか成しませんが、「顔に影がおちた」 と
書けば、不安や悲しみを喩えているわけですよね。この例はちょっと独創性に欠け
ますけど(笑)
 ところが、じゃあ俺様仕様で奇抜な比喩を使おうとすると、「この比喩、読者は
わかってくれるだろうか? 通じるかな?」 という不安が頭をよぎるのね。
 じゃあどうするかっていうと、今回あげた例のようにどうしたってそういう意味
にしかとれないようにきっちり前後を書きこむか、気づかれなくても筋に影響しない
ように書いて、気づけばそれはそれで作品の味わいが増すような、泰然自若とした
気持ちでしこんでおくのがよいでしょう。
 気をつけたいのは、比喩だけで主題を語り、読者をおいてけぼりにするような
自己満足的(陶酔的)な書き方ですね。どんな技法にも言えることですけど、いか
にも技術を見せびらかして、独りよがりになるのは避けなければなりません。

34: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:33:13
 今回書いたものをあらためて読み返してみると、なんか消化不良だなあ、と思い
ました。抜粋した箇所はたしかに比喩の見本としてはすばらしいのですけど、普通
に読むとふ~んという感じですね。やっぱり先のほうから通読しないと、この比喩
が生きてこないのがわかりました。ここらへんが 『ボヴァリー夫人』 のやっかいな
ところなんですね。
 約7ページ前にある話者の語りを今更に補足しておきます。

 「あの女は今にやってくる。あでやかに、そわそわと、あとをつけている人目を気づかい
ながら─そして襞附きのドレスを着、金の眼鏡を胸にさげ、華奢な半靴をはき、レオン
のまだ味わったこともないあらゆる雅びやかさに包まれ、まさに散ろうとする貞操の、得も
いわれない魅惑をただよわせて。」

 レオンの心内語ではなくて、話者の独白〔ずうっと後に解説する自由間接話法のこと〕で
あるところがミソなんですけど、それをやるとまたややこしくなるので…作品全体の理解は
リョサの批評を読んだほうが早いと思います。あれいい本です。あと、教会の堂守のはたす
対立(性への抑圧)の役割も大きいと思われます。

35: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:35:30
 蛇足ですけど、ちょっとフランス語の意味もしらべてみました。
 エンマのもっていた手紙は仏語で、lettreレットルです。これは女性名詞ですね。
これが破けてただの紙になると、papierパピエになって男性名詞になります。それ
がひらひら舞うと、papillonnerパピヨネになってこれも男性名詞です。それを蝶、
papillonパピヨンに喩えていて、これも男性名詞ですね。さすがに赤爪草の訳はわか
らないけど、草herbeエルブは女性名詞なので推して知るべしといったところでしょう。
 こうして仏語による言葉の類似性(類縁性)をみるとまた分析の助けになります。
原文の価値というのはこうしたところにあるんですね。私は学者じゃないんでこれ
以上は調べませんけど。

36: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:37:52
   フローベール『ボヴァリー夫人』にみる比喩の構造その2


 エンマは牛がこわかった。牛がいると駈けだした。そして頬をばら色に染め、
樹液と青草と大気の香りを全身から匂わせながら、息を切らしてたどりついた。
その時分ロドルフはまだ眠っていた。それはちょうど、春のあけぼのが部屋のなか
へ入ってきたようであった。
 窓辺に沿って掛けた黄色いカーテンが、どっしりした金色の光を柔らかにとおし
ている。エンマは目をしばたたきながら手探りで進んだ。そのとき、鬢(びん)に
宿った露の玉がまるで黄玉(トパーズ)の後光のように、顔を取りまいて光ってい
た。ロドルフは笑いながら女を引寄せて、胸のうえに抱きしめた。
 それから彼女は部屋の様子をいちいちしらべた。家具の引出しをあけてみたり、ロ
ドルフの櫛で髪を梳(す)いたり、髭剃り用の鏡に顔をうつしたりした。枕もとと小
テーブルのうえ、レモンや角砂糖といっしょに水差しのそばに置いてある大きなパイ
プをとって、くわえてみることさえよくあった。

37: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:43:31
 前回示した比喩は、表現と構成こそ混みいっていたが、普段みる比喩の使い方と
(一部例外はあるが)さほど変わりはなかった。わかりやすい例として同書からもう
一つ引用したい。

─二人はひしと抱き合あった。お互いの気まずさはこの熱い接吻に雪と解けた。

 この程度の比喩なら自分だって使うわい、と鼻を高くする方もおられるかと思う。
そして普通なら、比喩のために書いた借りの言葉、上でいうなら 「熱い 」と 「雪」
は使い捨てにして、さっさと次の描写や話の運びを考えることだろう。
 しかしである。「雪」 という言葉は紙の上に定着してなおそこに存在する。書かれ
たものはどんな無意味なものであれ、そこに露呈されることをまぬがれない。「雪」 は
厳然とそこに在り続けるのだ。これを最初に気づいた人が 「ユリイカ!」 と叫んだか
どうかは知らないが、文章技法の一つの発見だったに違いない。

38: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:44:21
 この箇所は、夜明け近く、伊達男のロドルフ恋しさに家を抜け出し会いにいく
エンマの行動を描写すると共に、比喩の連携がみごとに示されている。
 まず、エンマは 「春のあけぼの」 に喩えられている。また頬をばら色云々という、
まさに春を匂わせる描写は、比喩への引き込み線になっていて、さらに 「ばら」 の
花言葉などをちょっと調べてみるとなお意味深い。
 それで 「あけぼの」 というのは夕日のような赤さはない。どちらかというと黄色
によった赤さで、空は見るまに明るさを増して青みを帯びてくる。西洋では、太陽は
黄色で表現される。
 もうおわかりだろう。「あけぼの」 の比喩はそこで消去されずに部屋のなかへ入り
込み、その形象を変えて 「黄色いカーテン」 になり、「金色の光」 になり、「黄玉」
になって、またエンマの姿へと戻って現れる。なにもハリーポッターだけが魔法使い
だと思ったら大間違いである。この言葉の構造こそ真に魔法的なのだ。
 ただ実際、この比喩が類似性をともなって自己再現するという技法は、あざとくなら
ないよう後段にあるレモンあたりに落ち着くのが無難ではある。しかし、この流れるよう
に鮮やかな実例をみてしまうと自分もキメてやりたいと力がはいるものだし、冒険するに
みあうだけの価値も効果もあるのは確かだ。
 使用にあたって注意する点を述べよう。

39: ◆YgQRHAJqRA
05/09/03 20:47:06
一、喩えられるものの重要度と持続。例えば、『みずうみ』の場面転換に出てきた
青いハンド・バッグはその気味の悪さを喩えて銀平にぶつけられると同時に、タイ
トルである 「みずうみ」 の青でもある。作品の中核にからむ故に青いハンド・バッグ
は容易に消去はされない。
 今回引用した比喩は花火みたいなもので、スポット的な効果を狙っている。『ボヴァリー
夫人』 にも作品全体にまたがる比喩、イメージはあるのだが、かいつまんで説明で きる
話ではないのでこれは措いておきたい。

一、使用する頻度。何度も同じような比喩を連発すると底が割れてうっとうしくなるので
注意すること。

一、類似するイメージの近遠。腹黒いやつめ、といってシャツをめくるとホントに腹が黒
かった、なんていうのは低脳なギャグでしかない。イメージの距離は、作品の性格や構成
などをかんがみてセンスよく決めていただきたい。

 あと、比喩とは関係ないが、後段の「それから彼女は~」にみる文章は、リョサの指摘
したエンマの男性願望をよくあらわしている描写。「大きなパイプをとって、くわえて
みる」などは、フロイト的な解釈をすればまさに男根を…ってまたエロイ方向に……。

40: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:13:35
       『ボヴァリー夫人』下 14p~16p


 「ああ、もうしばらく。帰らないでここにいて下さい!」とロドルフはいった。
 彼はもっと向こうの、小さい池のほとりへエンマを連れて行った。池の水には浮草
が青かった。枯れた睡蓮が灯心草(とうしんそう)のあいだに立って動かなかった。
草をふんでゆく二人の足音に、蛙がはねて姿を消した。
 「私、悪かったわ、悪かったわ。あなたのおっしゃることを聞くなんて、私どうか
していますわ」
 「なぜです……エンマさん! エンマさん!」
 「おお! ロドルフさん!……」若い女は男の肩にもたれながら静かにいった。
 ドレスの羅紗が男服のビロードにからみついた。彼女は溜息にふくらむ白い頸(うなじ)
をぐっと反(そ)らせた。そして正体もなく泣きぬれて、長く長く身をふるわせ、
顔をおおいながら身をまかせた。
 宵闇がおりてきた。横ざまに射す陽の光が枝間を縫ってエンマの眼にまばゆかった。
まわりにはここかしこ、木の葉のなかや土のうえのに、まるで蜂雀(ホウジャク)
が飛びながらその羽根を散らしたかのように、光の斑点がふるえていた。静寂はあ
たりにみなぎり、何かあるなごやかなものが木々のなかからわき出るように思われた。
彼女は心臓がまた動悸を打ちはじめるのを、そして血がミルクの流れるように五体に
めぐるのを感じた。そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫
び声、尾を引くような一つの声が聞こえた。たかぶった神経の名残りのふるえのなか
に、まるで音楽のようにとけこむその声をエンマはしずかに耳をすまして聞きいった。
ロドルフは葉巻を口にくわえながら、切れた一方の手綱を小刀でつくろった。

41: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:15:38
 二人は同じ道を通ってヨンヴィルに帰った。自分たちの馬の足跡が泥のうえに並んで
ついているのや、同じ灌木の茂み、草の中の同じ石ころが見えた。まわりにあるものは
何ひとつ変わっていない。けれどもエンマにとっては、山が動いたよりも大きなことが
突発したのだった。ロドルフはときどき身をかがめ、エンマの手をとって接吻した。
 エンマの乗馬姿はあでやかだった。すらりとした上半身をまっすぐにのばし、片膝は
馬の鬣(たてがみ)の上に折り曲げ、顔は外気にふれて夕映えのなかに心もちほてっていた。
 ヨンヴィルへはいると馬を石畳のうえにはねまわらせた。みんなが窓から眺めていた。
 夕食のとき、夫はエンマの顔色がよいといった。しかし散歩のことをたずねるとエンマ
は聞こえないふりをした。そして火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばに
じっとひじをついていた。
 「エンマ!」とシャルルがいった。
 「なあに」
 「実はね、今日の昼、アレクサンドルさんの家へ寄ったんだよ。ところがあの人は
古い牝馬を一頭持っている。ただちょっと膝に傷があるだけで、まだなかなか立派な
ものだ。三百フランも出せばきっと手にはいると思うのだが……」
 シャルルはつけたして、
 「いや実はお前が喜ぶだろうと思って、その馬を約束して…いや買ってしまったの
だ…いいことをしたろう? ねえどうだい?」
 エンマはうなずいて見せた。そしてものの十五分もしてから、
 「今晩はお出かけになりますの?」ときいた。
 「うむ、どうして?」
 「いえ! なんでも、なんでもありませんのよ」

42: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:17:35
 邪魔だったシャルルが出かけてしまうと、エンマはすぐに二階へあがって居間に閉じ
こもった。最初はまるで眩暈(めまい)でもするような気持ちだった。木立や、道や溝
やロドルフが見えてきた。あの人の抱擁がまだ感じられる。それと同時に木の葉はゆら
ぎ、灯心草は風に鳴った。
 しかし自分の姿を鏡の中に見たとき、エンマはわれとわが顔に驚いた。眼がこんなに
大きく、こんなに黒く、こんなに深ぶかとしていたことはついぞなかった。ある霊妙な
ものが全身にめぐって、エンマの姿を一変させたのであった。
 エンマは、「私には恋人がある! 恋人がある」と繰り返した。それを思い、それに
また、二度目の春が突如として自分に訪れたことを思ってしみじみ嬉しかった。今まで
あきらめていたあの恋の喜び、あの熱っぽい幸福をいよいよわがものにしようとするの
だ。自分はある霊妙不可思議な世界に入ろうとしている。そこではすべてが情熱であり、
恍惚であり、狂乱なのだ。ほのかに青い千里の広袤(こうぼう)が彼女を取り巻いている。
感情の山巓(さんてん)は彼女の思念のもとに燦然(さんぜん)とかがやいている。そし
て日常の生活ははるか下の方、山々の狭間にこめる闇のなかにほの見えるばかりであった。

  〔引用終わり〕

43: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:31:12
 最初にテクスト全体を俯瞰して気づくのは、その叙述のバランスの良さである。描写
と説明とセリフの三つが、分量および配置において模範的な形に収められている。この
2ページ半は小説構成のミニチュアだと思っていただければいい。

 小説上の時間は、「描写」と「説明」 によって成りたっている、このことを思い出し
て欲しい。時間は描写によって遅くなり、説明によって早くなるという原理だ。この場
でもう一度、時間処理の説明を補足したい。
 まず、Aという対象を描写する。その対象を細密に、徹底してしつこく書けば書くほど
紙面を埋める文字は増え、A以外のものは入り込む余地がなくなってしまう。それが1ページ、
2ページ、さらに3ページと続いたら、読者は息苦しくなるだろう。やがて、「話が進ま
ないじゃないか!」 と、本を投げだしてしまうかもしれない。そう、極端にいえば、描写
することによって小説内の時間を止めてしまうことも可能なのだ。
 大切なのは、小説と読者の持つ時間の起伏であり、その結果が文章や構造のダイナミズム
を生むことになる。
 大雑把ではあるが、時間の流れを加速、減速、等速に分けて、これを引用文に照らし合わ
せてみよう。

 セリフ(発話)は虚構と現実の間にあまり差がないので、冒頭の「ああ、~」からエンマ
のセリフまではほぼ等速状態にある。次に、森のなかでの描写が入り、ヨンヴィルに戻って
くるところまでがおおむね減速状態であり、そしてやや等速に戻す。夕食への短い説明で加速
し、またセリフが入って等速。シャルルが出かけたあとから最後までが、エンマの心理描写を
含む減速状態となっている。また、引用はしなかったが、この直後に回想へとつながるので、
全体でみるとなかなか動きの多い展開である。つまりこの時間の変速というものが、読みの
リズムを作りだしているところに注目してほしい。

44: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:32:37
 小説を書くのに、いちいちこんなことを考えて書くのは面倒くさいと思う人
もいるだろう。実際すべての作家が時間処理に汲々として書いているわけではな
いし、そんなことにはまったく忖度しないで書いている人のほうが多いだろう。
(だからこそここで技術的な差がつけらるのだが)
 これは車の運転と同じで、最初はギアチェンジの動作をぎこちなく確認しながらやっ
ていても、そのうち自然にできるようになってくるはずだ。なかにはテクが上達
してくると、『頭文字D』 ばりに 『異邦人』 のようなことをやりたくなってくる御仁
もいるかもしれない。まあ、上を目指すのは悪いことではないので止めはしない
が、失敗したときの破綻はより大きいものとなるので、それなりの覚悟をもって
取り組んでもらいたい。

45: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:49:06
 次の象徴的な比喩を取り上げてみよう。
 
>>40>>41
 《枯れた睡蓮が灯心草のあいだに立って動かなかった》
 《しかし散歩のことをたずねるとエンマは聞こえないふりをした。そして
 火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばにじっとひじをつい
 ていた》

 この二文の類似性にさほど説明はいらないだろう。灯心草は、名前の通り昔は
ろうそくの芯に使われていたイ草の一種である。そのろうそくの間にじっとして
いるのはエンマである。ならば灯心草の間で枯れている睡蓮もエンマということ
になる。しかし、睡蓮がどうしてエンマのイメージにつながるのだろうか。前に
も述べたが、これは翻訳という過程で失われてしまう比喩のあやなのだ。問題は、
睡蓮という花のイメージではなくて、言葉そのものにある。
 睡蓮の仏語は、nenufar ネニュファール 、学名をNymphaea ニンフィア という。これはギリ
シャ神話のNymphe ニンフ という精霊の名前からとっている。仏語ならまだしも、日本
語の睡蓮からギリシャ神話のニンフを連想するのは難しい。
 では、このニンフとはいかなるものなのか。
 ニンフは木や川、海などといった自然物はもちろん、国や町などにも宿る精霊である。
性格は純真無垢であり、若くて美しい性的魅力にあふれた女性の姿をとって現れる。
なんともあられもない男性の願望をみたした存在であるゆえ、やはりというか当然と
いうか、人間との恋に落ちる話が多いようだ。しかし、たいていその恋は悲劇的な
結末を迎えるのである。それを示唆するように、作者も睡蓮に「枯れた」 という不吉な
言葉をわざわざ付け加えている。

 『ボヴァリー夫人』を読み進めば、エンマがニンフ的な人物であると呑みこめることと
思う。さらに、ろうそくが二本である点も意味がある。この物語には、二や対という形が
構造の基本として細部から全体にわたるまで浸透している。そしてこのろうそくと睡蓮は、
非常に距離の長い伏線にもなっている。〔エンマの墓のレリーフの描写を見よ〕
 さらにテクストにはいくつかの興味深い伏線が張られていて、次はそのことについて
解説したい。


46: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 19:54:36
  〔前スレ143さんの書き込み〕
うーん、私の不勉強を棚にあげて、こう言うのもナンですが、
比喩についてはライターズ・センテンスとでもいうのか、
ふつうの(創作しない)読者に向けて書いたとは思えないのです。
なんというか、「ああ、ここで作者は遊んでるな」と創作する者に
だけ受ければいいな、といった内輪のテクとでもいいましょうか、
微妙な綱渡りだと思えるのですが……。
       *
       *
 睡蓮の比喩は、作者も読者に気づかれることをあてにしていないと
思います。作中において、バレバレの比喩というのは少なくて、どこか
ひねりのきいたものがほとんどです。もちろん文化や歴史的な背景が
日本とは違いますから、そのせいで解りにくいというのもあるでしょう。
 ただそれは技術上の遊び心からきているというよりも、フローベールの、
小説に対する厳格な美意識によってもたらされている、別の言い方をすれば、
ボルト一本の手抜きから大建築も崩壊するのだという、神経質なこだわり
の表れであるような気がします。

47: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:04:18
  〔解説つづき〕
 エンマはこの居間のくだりでロドルフの恋を確信するんですね。おまけに妻の
不倫を助けるために、シャルルは自家用の馬を買ってくる間抜けぶりを発揮して、
内心嬉しくてしかたないはず。その前にエンマが乗っていたのはロドルフの借り
馬ですし、見栄っぱりな彼女にしてみれば、それは恥ずかしいことでしょう。
 でも前段のセリフ>>41からは、シャルルの妻への愛情はまったくエンマに届いてい
ません。この冷めた関係とロドルフのやりとりに比較してある、あからさまな差別
はなんなのか。それは、シャルルという人物が凡庸や愚鈍さにみちた現実の象徴で
ある点にかかっています。エンマがその情熱や人生を感じるのは、日常からはなれた
劇的な恋や現実離れのした夢に浸っている時なのです。つまりエンマにとってシャ
ルルは、夫婦であるがゆえに嫌でも現実を突きつけてくるつまらない人間、あるい
はくびきでしかないのです。この対立は、物語中何度となく繰りかえされます。
 そしてこの現実への呪いが最後、シャルルを激しく打ちのめす効果となって現れ
るのだけど、ここで説明してしまってはつまらないので、ぜひ本書を熟読し、容赦
のない構造の力学にこころ震わせてください。

48: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:20:10
 「灯心草」 の役割は、蝶番(ちょうばん・ちょうつがい)と呼ばれている技法
で、類似した言葉・イメージの反復を使い、物語上の時間や空間をこえてA点と
B点をつなぎ合わせるはたらきをします。川端の場面転換や比喩の連携などはこの
応用といえるでしょう。「時間」 「対立」にならぶ基本技術なので、ぜひ憶えて
ください。この「灯心草」 は言葉のズレもなく、一番単純な使い方だと思います。
 この機能を理解した方は、夕食への場面転換で 《顔は外気にふれて夕映えのなか
に心もちほてっていた》 《夫はエンマの顔色がよいといった》 という部分に>>2
同じ手法をみてとることでしょう。
 ならば 「灯心草」 もロドルフが目に浮かぶ前にもっていけば、もっと効果的じゃな
いかと考えるかもしれません。私もそう思いました。ただ、同じ「灯心草」ではわざと
らしいと思ったのか、仏語の音感〔フローベールは書いた文章を何度も朗読し、少しでも
耳障りなところがあると書き直した〕を優先したのか分かりませんが、イメージの喚起
より後へ置いて余韻的な使い方をしています。しかしなにげなく 「それと同時に」 と
書いてあるところがフローベールらしくていいですね。あと、ゆらいだり、鳴ったりとい
うのはエンマの心の動揺を表現しています。

 まあそれにしても、シャルルはセリフの段でもエンマに冷たくあしらわれて、なおかつ
構造では蝶番で無視されてしまうこの二重の排斥に、哀れみを感じるなぁ。いい人なのに、
かわいそうなシャルル…。
 ちなみに人を思い出す時って、その周りの状況や印象と関連して思い出すのが普通な
んですね。あの時のアイツは変な恰好をしていたなあとか、初めてアイツに会ったのは
どこそこだったなあ、みたいに。記憶のメカニズムはそんなふうになっているんだとか。
だからこの部分は科学的な見地からも正し描写? なんていえるのかな。

49: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:24:44
 そういえば「対立」については突っこんだ解説はしてないですね。まあ、
高村光太郎の詩や 『異邦人』 にみる叙述自体(文体)の対立、エンマと
シャルルのような例をみればその原理を理解していただけるのではと思います。
 一般的な使われ方としては、文庫本でいうと上巻40pにあるルオーじいさん
が自分の結婚式のことを回想する場面、雪で「野原は真っ白だった」 という
そのイメージが、「妻のかわいいばら色の顔」 をいっそう赤く情熱的にみせる
というやり方ですね。

 原理が単純なぶんそのバリエーションも豊富で、いちいちその一つ一つをあげる
わけにもいきません。原理を踏まえて、ノウハウは自分で築いていくしかなんです
ね。しかしその原理をうまくつかめていない人もいるかと思いますので、簡単な解説
を書きました。

50: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:29:13
 人間は、対立のなかに刺激を求め、また感じる生き物である。スポーツにしかり
ゲームにしかり、また映画にしても、見渡せば娯楽というものはなにかと対立関係
を好んで採用する。白と黒が激突するその狭間に野性をくすぐられ、人はそこに面白
さや興奮を感じる。
 そしてもう一つ。コントラストの対立というものがある。色や物、気分、なんでも
よいが、主となるものを 「より際だたせるため」 に、比較して異なる言葉、イメージ
を対置する方法だ。
 「ぼくはなごみ系の小説を書きたいから、対立なんていらないんだよね」 というの
は、はなはだしい勘違いであり、作者はどうしたら読者がよりなごやかな気分になるのか、
ほんわかするのか、そのことを考え、対立に関わる差異の成分を探し求める必要がある。
 ぬるま湯のような文章をだらだらと書き連ねても、読者はなごみを通りこして退屈に
なり、あなたのテキストの上によだれを垂らすかもしれない。
 だが、対立だからといって白と黒の強烈なコントラストばかりでは能がないだろう。
実際には、対立にかかる明度変化の強弱と配分にこそ興があり、書き手にとってはそこ
が腕の見せどころでもある。いろいろと趣向をこらしてみて欲しい。
 最後にスタニスラフスキーのこんな言葉を紹介しよう。
 「悪人を演ずるときは、そのよいところを探せ。老人を演ずるときは、その若いとこ
ろを探せ。青年を演ずるときは、その老いたるところを探せ」

 〔ま、それが口で言うほど簡単ではないのだけれどね〕

51: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:37:38
  長編小説に伏線はつきものである。伏線とは、のちにおこる事態をそれとなく暗示
する、またはその事態の原因となるものをさりげなく配置する、演出の仕掛けである。
これは辞書にも載っているが、変則的な伏線としてもう一つ。小説の主題や構成そのもの
を示す伏線もある。その端的な例がつぎだ。
 作品冒頭、シャルルは登場するなりその愚鈍さを見せつけ、
「新入生、君は ridiculus sum(余は笑い者なり)という動詞を二十編書いて来たまえ」
と、教師に言わしめる場面は、この小説におけるシャルルの扱いを決定づける伏線といえ
るだろう。
 また、『異邦人』の文体もこの種の伏線と考えられる。
 この変則を別にすれば、伏線もまた蝶番と同じく、言葉やイメージの類似性を使った技術
でありその性格も似ている。だが蝶番が比較的短い距離をつなぐために使われ、表面に現れ
やすいのに対し(>>10のレモンがいい例)、伏線は導火線のように割と長い距離で仕組まれ、
その存在も気づかれにくいという違いがある。
 伏線の問題はこの距離にある。ともするとその導火線の火は、発現場所にたどりつく前に
消えてしまがちなのだ。

52: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:45:29
  〔前スレ164さんの書き込み〕
>発現場所につく前に消えてしまがちなのだ。

これはつまり、読者自身が忘れてしまっていて、もはや伏線にならなくなってしまったと、
そういう感じなのかなあ・・・。かといって、蝶番では、伏線というよりはギミックにしかならない、と。
        *
        *
 そういう感じです。目の前に本をポンと置いただけでは、これ、面白くもなんと
もないないわけですね。読者は、本を開いて読むという能動的な作業をしなければ
なりません。一冊の本を3時間で読み終える人もいれば、3日かかる人もいます。
ここが、映画や音楽の娯楽とのちがいです。

 伏線というのは、フラッシュバックの効果によって、もろもろの感情を惹起させ
ようとするものですね。
 ハッ、コレハアノトキノ…Σ(゚Д゚;)ガガ-ン みたいな(笑)。ちょっとマンガ的ですけど、
わかりやすい効果の形。でもこれは、あくまで読者の記憶の保存性にたよっている
わけです。なので伏線の賞味期限はなかなかに短いのです。だからといって、この
小説には伏線が含まれておりますのでお早めにおめしあがりください、と注を入れる
わけにもいかんでしょ。だからそこらへんを技術的にカバーしようというわけです。

53: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:50:23
 伏線の反復でもっともわかりやすい例は『千と千尋の神隠し』なんですよね。
実用度からいったら『ボヴァリー夫人』よりもこちらが上ですし。どうしよ。
こっちはすぐに書けるんだよね。ていうか書きたいんだよねw
 〔てことで書いたのがこちら〕

 『千と千尋の神隠し』 は 「水」 のイメージに満ちている。絵は百万言の言葉に勝る。
絵で語れない映画はいつだっておしゃべりだ。観客は耳で聞く以上に絵を読んでいる。
 この映画は現代版の龍宮伝説といってもいいだろう。未見の方はほとんどいないだろ
から、物語の詳細は省かせてもらい、本題に入りたい。

54: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:59:49
 ハクはなぜ千尋を助けたのか。また千尋も、なぜハクを信頼しその窮地を
救おうとするのか。さほど答えは難しくない。
 ハクがまだ川の神であったとき、千尋はその川に 「落ちて」 溺れ死にそう
になり、ハクがこれを助けた。真の名前を湯婆婆に奪われたあとも、彼はこの
記憶を残していたので、この異世界に来た千尋を当然助けようとする。千尋は
そのことを知るよしもないのだが、命の深いところではなにかを感じ取っている。
なにしろ千尋の尋とは水深を測る単位のことだ。お互いが 「水」 を象徴する
親和性から、今度は逆に千尋がハクの命を救うという、類は友を呼ぶ法則が働く
のである。
 お互いに似たものは、目にみえぬ引力によって惹かれあい近づこうとする。
この法則は現実だけでなく、虚構の世界においても有効であることを忘れないで
欲しい。
 もちろん、ハクが千尋を助けた川の神であるという答えは、ラストシーンの
ところまで伏せられたままだ。しかし唐突さを避けるための伏線はしっかりと
張ってある。

55: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:00:42
 冒頭、おびえる千尋とハクのセリフ、「忘れないで、わたしは千尋の味方だからね」
「どうしてわたしの名を知っているの?」 「そなたの小さいときから知っている」
がそうだし、腐れ神が大湯に浸かるシーンで千尋は湯船に 「落ちて」 溺れてみせ、
これを拾い上げてくれるのが川の神(腐れ神)であるところ。また川の神は龍の姿を
している。ハクもまたそうだ。龍は古来、雷雨を呼ぶ神話の生物である。
 千尋が空を見あげると、白い龍(ハク)が彼方に飛び去ってゆくシーンがある。
すると次のシーンには雨が降りだし、一昼夜でまわりは海になってしまう。さらに
手負いのハクと千尋が穴に 「落ちて」 ゆくシーンでは、川で溺れた記憶がフラッシュ
バックする。
 そしてついに最後、千尋はハクの真の名前を告げこれを取り戻し、二人は解放感に
満ちた空のなかを「自由─落下」してゆく。観客はこれをさも当然のごとく受けとめて、
ちょっと涙ぐんだりもするのである。これは愛の力などというありふれた理由ではなく、
厳として 「水」 の近接と反復によってもたらされた結果なのである。これにより、
ハク=川の神という伏線を支えてあまりあるほどの効果を発揮し、かつ作品のイメージの
統一性にも寄与している点をぜひ学びとってもらい、小説にも活用していただきたい。

56: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:11:30
    『ボヴァリー夫人』 にみる伏線

 《そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫び声、尾を引くような
一つの声が聞えた》

 このとても気味がよいとは言えない 「声」 は、エンマだけに聞こえている。なにしろこの
「声」 は、はるか後方153p、物語的にはまだ訪れぬ未来から発せられた残響であり、その間
にはまさに広大な言語の森が層をなしている。そこにロドルフはいないのだから、聞こえる
ゆえもない。
 では、その153pに飛んでみよう。

 《乞食は前うしろの車輪の泥を浴びながら、もう一方の手でふみ台にしがみついていた。
声は、最初は弱く赤ん坊の泣き声のようであるが次第に鋭くなっていった。何をなげくとも
知れぬかすかな哀訴の声のように、それは闇のなかにながながと尾をひいた。鈴の音や木立
のざわめきや箱馬車のうなりを通して聞くと、その声にはエンマの心を転倒させるような、
はるばると遠いものがあった。それは竜巻が谷底へ舞い下がるように、エンマの魂は底へ沈
んで行き、果てもない憂鬱の虚空へエンマを運び去るのであった》

「声」の主はあきらかにこの乞食であるといっていい。さらに152pにある乞食の描写を掲出しよう。

57: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:21:57
 《峠には一人の乞食が杖をついて、行きかう乗合馬車の間をうろついていた。肩には
ぼろを重ね、顔は鍋底のように丸くなっている形の崩れた古い海狸帽(かいりぼう)に
隠れていた。しかしその帽子を脱ぐと、瞼のところに、血だらけな、ポッカリ口をあい
た二つの眼窩(がんか)が現れた。肉は赤くぼろぼろにただれていた。そこから膿(うみ)
が流れ出して、鼻のあたりまで緑色の疥癬(かいせん)のようにこびりついている。黒
い鼻の孔は、ひきつるようにクンクン鳴っていた。物をいうときには、仰向いて白痴の
ように笑った。すると青みを帯びたひとみがずっとこめかみの方へ吊りあがって、なま
なましい傷の縁へ突き当たった》

 この目のない乞食はもはや人間ではない。死神のそれである。この伏線はさらにあとの、
毒に悶え苦しむエンマが最期に叫ぶセリフ、234pにかかってくる。
 
《「めくらだ!」とエンマは叫んだ。
 そして、エンマは笑い出した。乞食の醜悪な顔が、物怪(もののけ)のように、永劫の
闇に突っ立っているのが見えるような気がして、残忍に、凶暴に、絶望的に笑い出した。》

 エンマは死の床で何度も叫び声をあげる。かすかな長い叫び声、それはエンマ自身の
断末魔として、時を越えて過去の彼女の場所>>40 へと響くのであった。

58: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:30:38
 伏線としてみると、14pの描写はどうにも弱い。読者に印象を残そうとする力みはまる
でなく、むしろ自然に忘れられていくことを望んでいるかのようなさりげなさだ。読者は
153pに至って、14pの場面を思い出すことは皆無であると言っていいだろう。どちらかとい
えば152,3pと234pを意識するのが穏当だ。しかし考えてみると、時間の流れに沿って強か
ら弱へとかすむ印象を、なるべく引き延ばそうとする通常の伏線とは、またっく逆の形式を
とっているのだからこれで正解なのかもしれない。この伏線の転倒性は難度が高いので参考
だけにとどめておく。
 14p~16pにおける描写が、終盤の絶望と破滅への予兆を表象するものとして解説をすすめ
よう。

 物語はここから大きな展開をみせる。この不吉な呼び声に引かれて、不義と放恣にまみれた
運命の坂をエンマは転げ堕ちていくことになる。そして変化をみせるのはなにも話の内容だけ
ではない。その兆候を表すものが>>42 の二段目以降の描写だ。 


59: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:37:00
 エンマの大きな 「黒い」 眼が強調され、ある霊妙なものが全身にめぐって、エンマの
姿を一変させる。さらに次の心理描写の段でも、ある霊妙不可思議な世界に入ろうとして
いる。そこは、情熱と恍惚と狂乱がすべてらしい。そんなのはマトモな人間のみる夢では
ない。棺桶に片足をつっこんだシャブ中の妄想と大差ない。その意味でいえばエンマは
いわば恋愛中毒者であり、もちまえの神経症も手伝って幻視幻聴はあたりまえ、そこかしこ
であなたの知らない世界を垣間見てしまう。そして完全にイッてしまっている感情の頂
からみる現実、これからエンマが堕ちる現実という地獄は、はるか下の「闇」 のなか
にある。
 といっても、初見の読者はエンマの運命を知るはずもない。ただ勘のよい人は、なにか
不穏な空気を読みとるだろう。その凶兆のシンボルとなるが「黒」と「闇」という言葉である。
 上巻第一部でも「黒」と「闇」は何度となく表れるが、それはまだ不吉な影をともなっては
いなかった。下巻第二部からこの言葉はある種の異様さをちらつかせ、反復しながらも、けし
て意味を明確にせず、不安や予兆めいたものを感じさせ、読者の心理に暗い影を落とすのであ
る。これは作品の色調を統一するはたらきにもなっているし、心理色として黒がもつ効果はけし
て軽いものではない。遠からずそこには死のイメージが重なってくる。

60: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:40:17
 しかし、馬鹿のひとつ覚えのように、闇雲に反復すれば良いというものでもない。
上巻24p 「うれしかった」 を5連発するシャルルよろしく、野暮ったさを強調して
苦笑を誘うことにもなるので気をつけたい。

 実際、読者は同じ言葉の繰り返しには敏感で、まともな書き手はこれを懸命に避ける
努力をするし、一見マイナスの要素を転じてこれを利用する術もある。このように、類
似する言葉がどうも目につく場合、そこには作者のなんらかの意図があると思っていい
だろう。されども、なかには無自覚に意味もなく何度も同じ言葉をばらまく作家も、
いないわけではない。だれとは言わないが、とにかく私はくらくらと眩暈を覚えたので
あった。

61: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:52:57
 さて、伏線には基本技術の要素として「類似」ともうひとつ、「読者」という存在
が大きな要点になりましたね。
 長編小説はさっと読める代物ではありません。生活をするうえで、小説よりも憶えて
おかなければいけないことはたくさんあります。印象に残らないところは、次々と忘れ
られていくのも仕方のないことです。その対策として反復があったわけですが、もう少
しお手軽で簡単な方法もあります。

62: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:55:30
 《それは青葉棚の下、かつて夏の宵々に、レオンがうっとりと彼女を見つめたことのある、
あの腐ちた丸太のベンチの上であった。今はもう彼女はレオンのことなど考えてもいなかった!》

 この青葉棚のベンチは、物語のなかで重要なガジェットになっていて、最後の最後、
シャルルのオチに結ばれています。そこで消去されないように折々に登場するわけです。
 で、なにがお手軽かって説明ほどお手軽なものはないわけですね。「かつて~あった。」
と書けば、読者には十分記憶の手がかりになりますね。キメのシーンでこんな説明を
いれるのは無粋ですけど、中継点でこうした説明を用いるのは有りかとおもいます。

63: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:00:50
 〔書き忘れましたが、小説技術を 「類似・対立・時間・読者・視点」 に分類して
解説しているのです〕
 
     ― 読者と登場人物の結託 ―

『ボヴァリー夫人』上 113p

 レオンは部屋のなかを歩き廻っていた。南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、
こんな見すぼらしい家のなかで見るのは妙な気がした。ボヴァリー夫人は顔を赤らめた。
レオンは自分の眼つきにぶしつけなものがあったような気がして向こうを向いた。

64: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:07:14
       同 下 53~54p

 恋する習慣の力だけでボヴァリー夫人の態度は一変した。目つきは大胆になり、言葉
づかいは露骨になった。まるで「世間をばかにするように」くわえ煙草でロドルフと散歩
するような、おだやかならぬことまでした。ある日エンマが男のように胴をチョッキで
締めつけて、「つばめ」を降りるのを見たときには、まさかと思っていた連中ももう疑
わなかった。ボヴァリー老夫人は夫と大喧嘩をしたあげく、息子の家へ逃げてきたが、こ
れまた大いに眉をひそめた。
 (3行略)
 ボヴァリー老夫人はその前の晩、廊下を横切ろうとするときに、フェリシテが一人の男
といっしょにいるのを見つけた。顎から頬へかけて黒い髭をはやした四十がらみの男で、
足音を聞くと急いで料理場から逃げて行ったというのである。エンマはその話を聞いて笑い
出した。ところが、老婦人は気色ばんで、風儀の良し悪しを頭から問題にしないのなら知ら
ないこと、そうでなければ召使いの風儀ぐらいは取締まらねばいけないときめつけた。
 「あなたはどんな社会のお方です?」そういう嫁の目つきがあまり横柄なので、老婦人は、
お前さんは自分自身の言い訳をしているのだろうとやり返した。
 「出て行って下さい!」若婦人は飛び上がって叫んだ。
 「これエンマ! お母さん……」仲裁しようとしてシャルルは叫んだ。
 しかし二人とも激昂して、もう向こうへ飛んで行った。エンマは地団駄をふみながら、
 「ああ、世間知らず! 土百姓!」と繰り返した。
 シャルルは母親のほうへ走って行った。母親は狂気のように口をもぐもぐさせながら、
 「生意気な女! おっちょこちょい! いやもっとひどい女かも知れない!」

65: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:09:37
 嫁姑の争いとそれに翻弄される夫を活写し、それを傍観しておもしろおかしく茶をすする
図は、みのもんたの決め台詞「 奥さん……別れちゃいなさい!」 を昼時に楽しむ現代にも
通じるものである。昔小説、今テレビといったところであろうか。
 まあそんなことはどうでもいい。この技術の話は単純だ。今、読者が読んで知り得た内容
をそのまま、登場人物も共有してあるかのように振る舞うという手法である。
 伏線のところで、読者はやたらと忘れる生き物なのだということを書いた。しかし、今読
んでいる部分を忘れてしまうほど、ひどい健忘症の人はそういないだろう。つまり、短期的
にみれば、読者は書かれてあるすべてのことをよく知っているわけだ。

66: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:13:16
 まず最初に上巻113p、エンマはここでなぜ顔を赤らめるのか。レオンの眼がぶしつけ
だったから、などと答えてはいけない。学校のテストなら○だが、作家の答えとしては×。
 正解は、《南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、こんな見すぼらしい家のなかで見
るのは妙な気がした》 というレオンの心理をエンマが読みとったせいだ。なぜ読みとれ
るのか。読者(わたし)が知っているからだ。
 エーッそんな馬鹿なことあるわけないと、異議をとなえたくなるだろうが、そんな馬鹿な
ことあるのが小説なのである。もちろんあまり露骨にやると超能力じみてくるので、そこは
曖昧さを加減してやる必要があるだろう。
 この一文も現代的な水準にあわせれば、レオンの眼がぶしつけ云々という説明の逃げ道は
なくてもいいのだが、リアリズムに徹するという作品の性格もあってのことと推測する。
 しかし無節操に誰とでも読者との結託を用いていいわけでもなく、やはりそれなりにわき
まえるべきルールはある。

67: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:18:08
 一、作品の性格を考慮すること。リアリズムやルポルタージュ風などの少しお堅い性格の
作品には、派手な使用を控えたほうがいいだろう。

 一、人物の性格もまた考慮すること。エンマやボヴァリー老婦人、ひいてはこの作品に
登場する女性たちはみな勘がよい。元来、男性よりも女性のほうが細かいところによく気
がつくという性質がある。相手の営みや心理をやすやすと見破るその勘どころのよさに
よって、読者の分身ともいえる結託が成立する。間違ってもシャルルのような抜け作が、
相手の心情を読者と同じように察知するなんてことはおこらないし、おこしてもいけない。

 最後は、やはり距離である。53~54pの例は少し入り組んだ構成になっているけれども、
老婦人との結託のもとになる情報(ロドルフとの不逞)は、すぐ隣に書かれてある。なる
べく1ページ以内の距離でおこなうようにすれば、空振りを防げるだろう。

68: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:26:36
 この技術がもっとも鮮やかな効果を発揮するのは、地の文とセリフの連携である。
その例として>>64 をあげた。しかしながら、なるべく目立たないように書いている
こともあって、こう今ひとつぱっとしない。他にいいところもなかったので、お粗末、
恐縮ながら、私のやっつけを例にとって見てみよう。
 
 「あいつ絶対許せない! キミとはやっぱり馬が合わないみたいぃ? ふふ、ふざけんじゃ
ないわよ! 他に女ができたのはわかってんだから、チクショー!」
 どうやら飲んできたらしい。目をまっ赤にして、真紀子はしきりにソファを殴ったり蹴ったり
している。そのうちに疲れてぐったりとソファへもたれ、鼻をチーンとかんだ。
 離れたところでテレビを見ていた弟の純一郎は、呆れたように横目で姉の醜態を見やり、そうやって
すぐヒステリックになるから、男に逃げられるんじゃないのかね、と内心つぶやいた。
 ティッシュの箱が飛んできて、純一郎の頭に命中した。
 「あいつが悪いのよ!」
 「痛いな、おれに当たらないでくれよ」

69: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:31:43
 文章の拙さはご容赦いただき、地とセリフの構成を看取してもらいたい。
 このような感じにすればさほど不自然にもならず、地と会話の連携(真紀子
と読者が結託してる)が図れると共に、興趣のあるすっきりとした流れになる。
 非現実的な世界や幻想性を前景化する作品なら、もっと大胆な結託をみせても
いいだろう。不気味で奇妙な世界をさまよう 「私」 を書いた、内田百閒 『冥途』
にその例をみることができる。さすがにこちらは惚れ惚れするような名文である。
 
 《女は暗い道をどこ迄も行った。私は仕舞いに家へ帰れなくなる様な気がし出した。もう
後へ引き返そうと幾度も思いかけても、矢っ張りその時になると、今にもその泣き声が思
い出される様な気がして、どうしても離れることが出来なかった。道の片側に家の二、三
軒並んでいるところを通った。家の戸は皆しまっていた。隙間から明かりの漏れない真暗
な家だった。その前を通る時、自分の足音が微かに谺(こだま)しているのを聞いて、私
はふとこの道を通った事があるのを思い出した。私の足音が、一足ずつ踏む後から、追い
かける様に聞こえたのを思い出した。
 「いいえ、私の足音です」 とその時一緒に並んで歩いた女が云った。そうだ、その道を
歩いてるのだと気がついたら、私は不意に水を浴びた様な気がした。》

 初心者はなにかと現実性を踏襲しようとする断り書きによって、文章の流れを濁らせてしまう。
下手な親切心は返って作品のあだとなる。ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、
書き手には必要であろう。最終的に作品を完成させるのは読者なのだから

70: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:44:15
   ─〈黙説〉空白の引力 ―

   『ボヴァリー夫人』上 111p


 そのときレオン君が書類の束を小脇にかかえて近所の家から出てきた。彼は近寄って挨拶し、
ルウルウの店先に張り出したねずみ色の日覆いの影へはいった。
 ボヴァリー夫人は、子供に会いに行くのですけれど、そろそろ疲れてきましたといった。
 「もしも……」 とレオンは答えて、それから先はいいよどんだ。
 「どこかご用がおありですの?」 とエンマは聞いた。
 書記の返事を聞いてエンマはそれではいっしょにきて下さいと頼んだ。そのことが早くも
夕方にはヨンヴィルじゅうに知れ渡った。村長の妻テュヴァシュ夫人は女中の前で「ボヴァリー
の奥さんはあやしい」とはっきりいった。

71: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:45:09
 しかるべき情報をわざと書き落とす。知られたくないものを隠蔽してはぐらかす。これを
黙説法という。
 黙説法などというと、なんだかエラそうな技術に聞こえるが、なんのことはない。はっき
りものを言わない日本人お得意の 「暗黙の了解」 や 「沈黙もまた答え」、表現としては、
「こんな所で立ち話もナンですから」 「ここは遠慮しておいたほうがアレですし」 など、
最近では(ry なんていうのもこの黙説の範疇に入る。なんだかとたんに下世話な感じになっ
たけれども、小説には


 さて、上述のように唐突な切り方をしたらどうだろう。小説には? なに? とにわかに尻切れ
になった部分が気になりはしないだろうか。黙説の効果のひとつとして、この空白の生むいわば
真空的な誘引力がある。
 私は「読者との結託」で、ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、書き手には
必要であろう、最終的に作品を完成させるのは読者なのだから、と書いた。
 黙説はこれを書くことではなく、書かないことで成そうとする技術である。つまり読者はそこ
に書かれてある以外のことは知りようがない。肝心なところをはぐらかされるとそこが気になる。
しかし、その動機、真相は容易につかむことができない。なぜか。書かれていないからだ。ある
程度どころか、すべてを読者の想像や解釈に放擲(ほうてき)することで、黙説が生む空白は
あさましいほどの引力をあらわにする。



72: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:47:38
 空白はとても魅力的な機能をそなえている。さも意味深なように書いて読者を
惹きつけつつ、どうにも解せずに難渋しても、それはきっと自分の読解力が未熟
なためだろうと思わせてしまう詐術である。ことによると、読者は何度も同じ
箇所を読み返し、ページを遡行して答えを、納得のいく解釈を探りだそうとする
だろう。こうした空白を作品全体にちりばめ、構造そのものを黙説化してしまうと、
純真な読者はコロリとこれに引っかかる。まるで底のみえない深遠さや得体の知れ
ないスゴイ小説のような勘違いが生じるのだ。
 そしてこの空白の名手ともいえるのが村上春樹である。読者の興味と関心を惹き
つけるためならば、創作者が持つ情報の独占的な立場を大いに利用してはばからず、
なおかつ本来あるべき答えさえも実はないという態度によって、ときに厳しい非難
や不興を買っているのはこのためだ。そんなことはへのへっちゃらで、気にもとめ
ない図太い神経を持っていると自負する人は、その手並みを研究してみるのもいい
だろう。

73: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:48:30
 黙説法のえぐいところばかりを書いてしまったが、通常はもっとしとやかな情緒性
を誘い出すために、あえて語らないということが多いだろう。卑俗な例でいえば、結
びあう男女の目線とか、おなじみの医者の告知シーン(セリフを挟まず、落胆の仕草
や表情で病状の深刻さを表す)といったものが思い起こされる。

 より自覚的に黙説を利用する場合、ひとつ注意点がある。読者の感情や思惟によって
空白を埋めるためには、前後の書き込みや話の流れから、見えざる答えを導けるように
しておかなければならない。あまりに勿体ぶった書き方をすると、書く側の優位性に寄
りかかった悪手か横着と取られかねない。懸念や謎を煽るような目的で使用するならば、
伏線の一つや二つを同時に配置するくらいの気配りをみせるべきだと、私は考える。

74: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:50:21
 さて、上巻111pにみる例は、地とカッコ書きでやりとりする会話を黙説でつなぐ良い
お手本。
 「そろそろ疲れてきました」 というエンマの言葉をうけて、「もしも」 とレオン
は言うが、この先は言葉になっていない。彼の性格からしてもじもじと、「そこで少
し休んでいきませんか」 とか 「お茶でもどうですか」 といった、月並みな誘い文句が続
くであろうことは容易に想像がつく(正確には読者にそう思わせる)。並の書き手なら
ここで 「もしも…なんですの?」 なんてセリフを挟んでしまいがちになるが、フロー
ベールはこの二人のやりとりで両者の力関係をはっきりと見せつけている。エンマから
みると、レオンは典型的な年下のかわいい坊やという扱いだ。

 エンマは 「もしも……」 というレオンの言葉の先を気にもとめず、「どこかご用がお
ありですの?」 と自分の質問を浴びせかける。それに対する、イエスかノーかという簡単
な答えも、あるいはそれ故に、レオンは言葉を発する(書かれる)ことを許されない。
しかし、エンマの 「それではいっしょにきて下さいと頼んだ。」 という一文によって、
レオンの答えは容易に察することができる。
 いったいどちらが主で従であるのかという力関係がこの黙説の内に示されている。小説の
主人とは、限られた紙面、場面を、どれだけ占有しその領域を支配しているかということに
つきる。続く112p、エンマとレオンが乳母の家へむかう道すがら、
「彼は彼女の足に合わせてひかえめに歩」 くことも必然の所為といえるだろう。

 このレオンとは対照的な、エンマのもうひとりの恋人が、ロドルフである。



75: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:01:06
〔前スレ216さんの書き込み〕
漏れは例の空白部分には全くピンと来なかったなあ。
言われてみたらその通り、とは思うんだけど。

漏れが鈍いのか、それにしても
「もしも」のあとに口説き文句がくるとは思わないもの。
(もしもお茶に誘ったら……とかそういう台詞を切ったのかな)

訳の問題だろうか?
        *
        *
 例文は物語の流れのなかで活きてくる黙説なので、そこだけ取ってみても
なかなかピンとこない、というのも確かにあるかもしれません。「もしも……」
という言葉のなかに、語られない彼のエンマに対する思いや性格というものを、
説明やあからさまな演出によらず読者に訴えかけるところがミソなんですけど、
やはりこの技術特有のいやらしい側面が取り扱いを難しくしています(使い方
自体は簡単)。
 なので、ぶっちゃけ張りきって習得してもらわなくても構わない、それとなく
意識せずに使うくらいが安全で、せっせと使ったところで作品に箔が付くわけ
でもなく、返って泥を塗るような結果にさえなります。まあ、身も蓋もないことを
言いますと、この技術のところは読み飛ばしてもかまいません。
 じゃあ書くなよということになるんですが、知識として持っておく分には大過ありま
せんし、いやオレはうまく使ってみせる、というか好んで使ってましたという方には、
やはり慎重な扱いをうながしたいと思います。あと、無駄な文章をそぎ落とすことと、
黙説をごっちゃにしている方も注意してください。

76: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:03:29
 非常にいい例(悪い意味で)として、アニメの 『新世紀エヴァンゲリオン』
があります。
作品全体に散見する黙説はあきらかに空白の求心力を発揮していたし、後半に
至ってはもう開いた口がふさがらないという有様でした(ファンの方には申し
訳ないが)。
 ただ、エポックメーキングの役割は確かにありましたし、その圧倒的な支持
によって本来マイナス面となりうる部分を覆い隠していました。誰だったかは
忘れましたが、良心的な分析を試みて、なるほどとうなずける現代性を提示した
批評もありました。しかし、冷静になって見てみれば、黙説のあざとさはハッキリ
していて、これをもろ手で誉めるわけにはいきません。
 これや良しと、二番煎じのまねごとで同じ黙説を取りいれることはくれぐれも
しないでください。 あまりほめられることではないのです。

77: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:04:13
   ― 余情…あるいは余韻 ―

 余情とは何かと問われれば、なんだか分かりにくい。しかし、なんだか分かり
にくくても、どんな感じかは分かるような気がする。「余情がある 」と言えば、
まず褒め言葉だと思っていいだろう。
 私たちは、この余情感を感動のひとつとして捉えているとみていい。余情からう
ける感動は、ハリウッド映画によくあるような熱のこもった激しいものとは質を
異にする。
 辞書を引けばなるほど、余情とは何かと、無駄のない筆致は役所のごとしである。
 しかし、いかにすればその 「しんみりとした美的印象」 やら 「言外の情趣」
が醸し出せるのか。どのように書けば人は余情を感じやすいのか、いくつかの例を
示ながら解説してみたい。


78: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:05:32
 まず、一連の文章から受ける情景やその背景に、読者がどれだけ感情移入して
いるか、という部分にポイントがある。
 私は 『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』 を観た感想で、一部で騒
がれるほどの懐古趣味に感じ入ることはなかったと書いた。そうしたノスタルジック
な事物を 「知っている」 ことと 「体験している」 ことには、大きな隔たりがある。
その差が、そのまま作品への感情移入度に反映したとみていいだろう。懐古趣味の
感動を支えているのは、体験的イメージに依るところが大きい。
 このイメージの効果をよく表しているのが、『夕焼け』 の詩であった。今一度
読み返してみて、どうだろう。情報は決定的に少ないのに、印象は返って鮮明になると
いう、詩ならではの趣が発揮されているかと思う。これは電車内や夕焼けといった日常
風景だからこそ、読者はそこに共感しつつ書き込まれていない情報をイメージで補完
するのである。この黙説の手法に注意してもらいたい。そして、この詩の読後感を言葉
で表すならば、「しんみり」 という表現を用いてもなんらおかしくはないだろう。
 余情が生成される要素として、感情移入と印象があり、そこに黙説の空白が加わること
で読者に言い難い複雑な情感を呼び起こす。と、言い切れないところにめんどうくささが
あるのだが、その強い傾向性をもっていることだけは確かである。

79: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:06:26
 さて、これだけではなんだか分からないので、『千と千尋の神隠し』 をまたまた
例として取りあげたい。ちなみにフランス語のタイトルは『Le Voyage de Chihiro』
で、「千尋の旅」とそのまんまであるが、こちらの方がより内容を浮き彫りにしてい
ると言えなくもない。旅とは、出会いと別れ、自らを省みる人生の縮図という見方
もできるし、その響きにはどことなく感傷的な影さえちらつく。情に訴えかけるには
申し分ない舞台装置なのだ。さすがフローベールを生んだ国であると、褒めておいて
いいのだろうか。

80: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:07:26
 余情が最も強く表れるのは、主に作品の終結部においてである。
「けして振りむいちゃいけないよ」 「さあ行きな、振り向かないで」
 映画の終わり近く、千尋を見送るハクのこのセリフはいったいなにを意味するのか。
すぐに思い浮かぶのは、主人公に対しての制約とペナルティを与えるという筋書きで、
これは民話や伝説などの物語でよくみられる形式である。卑近な例でいえば、浦島太郎の
玉手箱、シンデレラの12時の鐘、走れメロスの暴君との約束などがあげられるだろう。
 もし千尋があそこで振り返ったとしたら、どうなるのだろう?  ソドムとゴモラの滅亡
を見たロトの妻のように、塩の柱となって死んでしまうのだろうか?
 結果として、なにか土壇場でイベントが起こるような筋をみせながら、千尋は
何ごともなく元の世界へと帰っていく。これといった伏線もなく、わざわざ振り返るな
という制約を設けた意図はどこにあるのか、ここで分析したみたい。
 余情を生むための要素として、印象と感情移入、そして黙説が大きな役割を果たして
いることは先に述べた。かなり大雑把で抽象的要素だが、細かな点はあとで書くことにする。

81: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:16:16
 ラストにおいて、ハクのくだんのセリフをはさむことで、まだなにか有りそうだという
期待感を煽っているところがミソだ。いわゆるどんでん返しへの布石であるような予感が、
「ああ、もう終わりだな」 と、作品から離れかけてゆく観客の心をまた惹きつけるので
ある。途中、千尋は振り向くようなそぶりをみせるものの、物語の流れがここで変わる
ことはない。つまりなにも起こりはしない。
 そして、千尋の一家がトンネルを出て車で去っていくそのあとに、まだなにかエピローグ
があるような淡い期待(構成的な振り向き)をまた裏切るように、映画はそこでふっつり
と切れてエンドロールとなる。そこへ木村弓の歌う切なげな主題歌がかぶさり、美しい彩り
を添えて終劇となる。
 スクリーンに吸いついていた観客の意識はここで唐突に引き剥がされる。黙説の最大
効果である不確定感は、映画に深く没入していた観客ほど強く感じられ、その語られぬ
空白に余情は拡がっていく。もはやそこは言葉の領域ではなく、一様でもないために明
確な説明をほどこすのは難しい。人によっては、余情という言葉でかたづけられないほど
の複雑な情感を訴えるかもしれない。逆にいえば、容易に言葉へと置換できるようなも
のから余情は生まれないとも言える。

82: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:18:04
 さて、構造的な視点でラストシーンをみた場合、どのような解釈ができるだろう。
 やはり千尋は現実を生きるのであって、あれからまた油屋の世界を訪ねることは
ないし、またハクに会うこともない。きっとまた会えると約束するのも、最後に千尋
を振り向かせないための方便にほかならない。なぜなら、観客はもうハクの川が埋め
立てられてしまっていることを知っているのだし、物語は観客の期待を裏切るかたちで、
なにも特別なことは起こらないと示しているからだ。
 また、最後に一瞬映るあの髪留めは、ファンタジーによくある実は夢じゃなかった
という暗喩とみるよりも(そのオチも含んではいるが)、千尋が現実を生きる力を獲得
した証なのだ。映画冒頭の、気力のないだらけた少女ではなくなっている点をみればよい。
そして、映画の終わりと同じく、観客もまた現実を生きなければならない。それがあの
ラストシーンの意義であり、黙説の最大の焦点であるように感じられた。
 『天空の城ラピュタ』 や 『もののけ姫』 のようなスペクタクルロマンとはまったく
性格の違う詩情性に作品の眼目があるのだ。観客をぐいぐいと惹きつけて、どっぷり
と感情移入させておき、最後の最後でスッと突き放す。
 「さあ行きな、振り向かないで」
 これは千尋だけでなく、観客にも向けて発せられた作者の言葉であるように思う。
作品は虚構なのだ。けれども、そこから受ける感動は嘘ではない生きていく力になる。
それで十分ではないかと、その憎らしい演出に私はいたく感心した。これは既存の
商業アニメに対するアンチテーゼなのである、といったら少し大げさであろうか。

83: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:22:24
 小説作品では、宮本輝 『螢川』 の終結が印象的なので、ひとつ余情の例として
取りあげてみたい。
 約80ページほどの短編なので立ち読みでも読みきれる分量だ。技術的に学べる
ところも多いので、暇があったら読んでみて欲しい。頭から通読すれば、次の場
面をより深い感嘆をもって迎えられるのではないかと思う。


84: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:27:03
 夥しい(おびただ)しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に
押し寄せてくるのだった。白い肌がひかりながらぼっと浮かびあがった。竜夫は息を詰めてそんな
英子をみていた。螢の大群はざあざあと音をたてて波打った。それが螢なのかせせらぎの音なのか
竜夫にはもう区別がつかなかった。このどこからか雲集してきたのか見当もつかない何万何千万も
の螢たちは、じつはいま英子の体の奥深くから絶え間なく生み出されているもののように竜夫には
思われてくるのだった。
 螢は風に乗って千代と銀蔵の傍らにも吹き流されてきた。
 「ああ、このまま眠ってしまいたいがや」
 銀蔵は草叢(くさむら)に長々と横たわってそう呟いた。
 「……これで終わりじゃあ」
 千代も、確かに何かが終わったような気がした。そんな千代の耳に三味線のつまびきが聞こえ
た。盆踊りの歌が遠くの村から流れてくるのかと聞き耳をたててみたが、いまはまだそんな季
節ではなかった。千代は耳をそらした。そらしてもそらしても、三味線の音は消えなかった。
風のように夢のように、かすかな律動でそよぎたつ糸の音は、千代の心の片隅でいつまでもつ
まびかれていた。
 千代はふらふらと立ちあがり、草叢を歩いていった。もう帰路につかなければならない時間
をとうに過ぎていた。木の枝につかまり、身を乗り出して川べりを覗き込んだ千代の喉元から
かすかな悲鳴がこぼれ出た。風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、螢の綾なす妖光が、
人間の形で立っていた。

85: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:28:15
 情と景が渾然となっているような文脈である。まず銀蔵のセリフを境に、上段の
竜夫と英子のいる川べりの場面と、下段の千代と銀蔵のいる土手の場面
における印象の類似性がある。
 螢の大群が立てる波のような音、英子の体に群がる何万という螢、それを息を詰め
て見る竜夫の驚き。
 千代の耳に聞こえる三味線の音、覗き込んだ川べりに立つ人形の螢光を見、かすかな
悲鳴をこぼす千代。
 それぞれの場面を描いた一連の文脈は、乖離すことなく読者のなかで混じり合い一体
となり最後、螢と人間のキメラとなって静かに闇にたたずむのである。千代と竜夫の
見るこの唖然とする情景は、そのまま読者の脳裡に残光として残るだろう。
 作者はしかし、千代の聞いた三味線のつまびきや銀蔵が呟いた終わりとは、螢とはな
んであったのか、その答えを明らかにしてはいない。
 もちろん、これを魂や生命の具象化であるとみるのは容易い。しかし、そうした安易
な答えに収斂してしまうことを拒むような、底の知れない感触がこの世界にはある。
ひとり闇のなかに取り残された読者は、いつしか無数の螢のひとつとなって、この得体の
知れぬキメラに吸い込まれていくのだった。

86: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:32:50
 余情を生むための仕掛けとして、雨や雪などの自然物はかなり利用価値の高い
小道具である。こうした道具を使う場合、なるべく周知な、イメージしやすいもの
を選ぶといいだろう。上記の小説では、タイトルにもなっている螢が強力な役割
を果たしている。
 もちろんこうした道具を単独で使ってもあまり効果はない。できれば登場人物の
心理や物語の核心をそこはかとなく反映することで、単なる雨粒は、語られぬ悲し
みや涙へと読者のなかで変貌するのである。ならば、わざわざ話者を借りて悲哀を
語ったり、人物に露骨な独白をさせるのは明らかに愚の骨頂であろう。これは比喩
の技術と似たようなところがあるけれども、こちらはあくまで余情を与えるような
雰囲気作りが目的であって、あまり手の込んだ仕掛けは必要ない。それよりかは、
いかにさり気なくかつしっかりと読者に情景をイメージさせられるか、表現の繊細
さ、シンプルさといった筆致に労力を注ぐべきだろう。そして読者の感情移入を妨げ
ないためにも、なるべく冗長な描写や無粋な説明は避けた方が好ましい。大事なこ
と、言いたいことはあえてぼかして描いてみせ、明確な答えではなく 「なにか」 を
匂わせ感じさせる。多分に書きすぎるよりは、少し書き足りないと思うぐらいで、
丁度よいのである。
 しかし、いくら簡素淡白がよいといっても、新聞報道に余情を感じる人はほとん
どいないように、単に事実や出来事を書き連ねただけでは情感に乏しい。心や風情、
自然や日常をしっとりと表現するところに余情の因子はあるのだ。

87: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:33:56
 さらに注意すべき点を述べれば、濃く強く激しい表現をなるべく排除し、露骨な
情動を避けつつ難解で錯乱した文章になってはいけない。かといって稚拙で軽薄
な文章ばかりでは刺激がなさすぎる。そして一番の問題が、「読者」 という存在
である。
 余情をもたらそうと、どんなに書き手が汗水たらし、耳から脳汁が垂れそうな思
いをして必死に言葉を紡ぎだしても、最後は読者の感性に委ねられている。読者の
持つ経験、思想、知識に左右されることはもちろん、その時の気分なんてもので、
こちらが狙った余情など吹き飛んでしまうのだ。書き手は、そうした幻の読者を怖れな
がらも、一方でまた読者を信じて書くしかない。

 ちなみに喜怒哀楽という分かり易い感情を作品内で狙うのなら、対立の技法を駆使す
れば結構な効果が得られるし計算もしやすい。同じ感情操作でも、余情はあっさりと一
般化できない微妙な感情であるために、その表現に 「深い」 という言葉、意味が多く用
いられる。うまく言葉にできないが 「とにかく、いい」 「ぐっと胸にきた」 と評され
たら、作家冥利に尽きるというものだろう。

88: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:35:10
 ちょっと今まで解説してきた技術とは勝手が違いますので、すぐさまこれを自分の
作品に取りいれるというのは難しいかもしれません。奇抜さや文体の妙で読ませる小説
にはまず向きませんし。
 それに、最終的な表現は個々人のセンスという問題になってしまい、黙説の技術だけ
で成り立つほど単純ではないんですね。当たり前といえば当たり前ですが、作品に感情
移入してもらわなければ余情もなにもないわけです。それには他の技術、表現力をも含
めた総合的な文筆力が試されるわけなんです。ちょろっと幽玄霊妙な小説でも書いてや
るかと、さらりと書ければ、芥川賞の選考も楽でしょうね。ま、本格志向はトレ
ンドじゃないのかな。私もよくわかりません。
 それでもなお、この種の叙情文、美妙の醍醐味を求めて止まない人には、「情」と「景」の
関係をしっかりと考えて書くことで、洗練さの部分では及ばないにしても、少しは見栄
えのよいものに仕上がるかと思います。

 また、読者に対して、書き手の不安や期待が伝わってしまうと、もうそこに自然な感動
は生みだされないとみてよいでしょう。特に文学好きの読者の目は肥えていますので、
あざとさやいやらしさのほうが目についてしまうはずです。
 本の帯に 「涙が止まらない」 なんてコピーがデカデカとあると、返って白けてしまう
感覚ですね。まあ、心がねじけていると言えなくもないのだけど。素直な心で大いに泣け
るという人は、こういった感覚を気にする必要はないかと思います。小説を楽しむには、
そっちのほうが幸せなんじゃないかな。

89: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:10:59
 映画は、その表現のために目まぐるしく視点を変化させるが、元ネタともいえる小説は
定点的な視点でしかものを見れないのだろうか。いつも同じような視点でしか小説を書け
ないのは、小説が不自由な媒体だからではない。それどころか、あまりに自由すぎて大抵
の書き手はその取り扱いをもてあましているのだ。
 書きたいものがあるという 「思い」 だけではやはり、なかなか読者に伝わらないとい
うのが現実であろう。その 「思い」 を形にする、見えるようにするための技法をおおま
かに、「類似」 「対立」 「時間」 「読者」と、分けて解説してきた。
 今回で一応最後となる 「視点」 は、直接小説の表現にかかわる技術でもあり、解りに
くいと感じるところもあるだろう。そこはまったくもって私の力不足からなる業であるため、
ご容赦していただきたい。

 小説上のカメラワークともいえる実際的な視点の操作を解説する前に、私たち自身の感覚
器官が捉える視点、ものの見方についてまず考えてみたいと思う。

90: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:13:24
         ─ イメージと視点 ─

 小説の世界は、なにがしかを見るところから始まる。小説が映画化できるのも、ひとえ
にいろいろと 「何か」 を見ているからに他ならない。ここで見るというのは、なんとな
くカメラでパチリと撮るような、単なる切絵的な見方をいうのではない。
 おおらかな気持ちで空を見上げるとき、私たちは風の香りや鳥のさえずりなどの諸感覚
から入る情報も視覚に織り交ぜて、空というイメージを見ている。だからこそ、そこにあ
る空に春を見つけもし、うららかなる語の情緒も育まれてくる。逆に針穴に糸を通そうと
しているときはどうだろう。視点は針穴や毛先の一点に集中し、周囲のものはほとんど感
取されなくなり、息をするのさえ忘れてしまう。ひとくちに見るといっても、このような
差異がそれこそ無段階に生じている。

 人は全知覚から得る情報を、イメージに集合させて外界を捉えている。もちろん視覚は
そのうちの8割強を占めているが、残りの知覚もイメージを構成する要素として無視はで
きない。また、意識下ではさまざまな刺激から別のイメージが浮いたり沈んだりしている。
それがなにかの拍子に前面に表れ、実際に今見ているイメージに融合したり投影されると、
壁の染みが途端に人面の相を成し、その虚像に怯えたりするのである。そして、この虚像が小
説世界という現のなかで動きだせば、人はこれをファンタジーやホラーと呼んで類別す
るだろう。
 平生は、意識下のとりとめのないイメージは抑制されているため、絶えず錯覚を起こす
ようなことはない。しかし、麻薬などの作用でこうした抑制の働きが鈍化すると、強い幻覚
症状を引き起こす。現実にはあり得ないもの、見えるはずのないものが、ありありと見える
という。 




91: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:15:53
 物書きが、言われてムッとくる言葉のひとつに 「陳腐」 というのがある。
別に陳腐なものを書こうと思って書いたわけではないのに、ひとは陳腐だあり
きたりだとバカにする。じゃあと次は珍妙な表現手法をかってがんばってみる。
すると今度は、そのみなぎった珍妙さが、みえみえの魂胆がまた陳腐極まると、
したり顔で吐き捨てるのである。いったいどうすればいいのかと、明日はどっちだ
と言いたくなるだろう。
 トルストイの自伝的小説 『青年時代』 にこんな記述がある。


 《公爵夫人の好きな場所とは、庭園のいちばん奥深いまったくの低地にある、細長い
沼にかけわたされた小さな橋の上だった。ひどく限られてはいるが、非常に瞑想的な優雅
なながめだった。われわれは芸術と自然を混同することにすっかり慣れてしまったため、
絵画の中で一度も出会ったことのないような自然現象が、まるで自然そのものまで作り
ものであるかのように、人工的なものに思われることがじつにしばしばある。反対に、絵
画の中であまりひんぱんにくりかえされてきた現象は陳腐に思われるし、現実で出くわす
ある種の景色が、あまりにも一つの想念や感情にみちすぎていたりすると、わざとらしい
ものに思われるのだ。公爵夫人の好きな橋の上から見る景色も、このたぐいだった。》

92: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:17:40
 日常において私たちに必要とされるのは、きれいなものをきれいと言い、きた
ないものをきたないと言う神経である。散りゆく桜ははかなく、梅雨はうっとう
しいのである。直截な、ありきたりなもの言いができることは、他人の安心を買う
うえで便利な思考ルーチンだといえるだろう。

 風景を発見したのは都会の人間だと言われている。
 ともすると、私たちは馴染み深いシンボリックなイメージから逸脱するのを避け、
「あまりにも一つの想念や感情にみちすぎ」 た、平凡な表現のなかへ対象を回収し
ようとする。また、ときにその陳腐さは、知らず人間を差別的に選り分ける政治性
さえ発揮する。
 既存のなかにうずもれた風景を、裸の目線でもう一度発見すること。そう口で言
うのは容易いが、習慣的な発想はなかなか私たちを解放してくれない。ついつい紋
切型の思考と文句を連ねてしまうのは、無思慮であるか、高ぶった気持ちでいると
きだろう。落ち着いてものを見れる(イメージできる)状態にない人は、概してお
さだまりのフレーズ(バカとか死ねとか)を連呼するのだし、書ける書けるぞと、
三倍速で小説を書いてみたら、ことごとくなにかの真似事、しかも出来の悪いしろ
ものであった、なんてことも無きにしも非ずである。
 そこで書き手は一所懸命に、独創的で、個性的でカッコよく、うまい文章を書こうと
意気込む。そして、頑張れば頑張るほど、返って 「わざとらしいものに思われるのだ」った。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch