技術スレ 第二刷改定at BUN
技術スレ 第二刷改定 - 暇つぶし2ch50: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:29:13
 人間は、対立のなかに刺激を求め、また感じる生き物である。スポーツにしかり
ゲームにしかり、また映画にしても、見渡せば娯楽というものはなにかと対立関係
を好んで採用する。白と黒が激突するその狭間に野性をくすぐられ、人はそこに面白
さや興奮を感じる。
 そしてもう一つ。コントラストの対立というものがある。色や物、気分、なんでも
よいが、主となるものを 「より際だたせるため」 に、比較して異なる言葉、イメージ
を対置する方法だ。
 「ぼくはなごみ系の小説を書きたいから、対立なんていらないんだよね」 というの
は、はなはだしい勘違いであり、作者はどうしたら読者がよりなごやかな気分になるのか、
ほんわかするのか、そのことを考え、対立に関わる差異の成分を探し求める必要がある。
 ぬるま湯のような文章をだらだらと書き連ねても、読者はなごみを通りこして退屈に
なり、あなたのテキストの上によだれを垂らすかもしれない。
 だが、対立だからといって白と黒の強烈なコントラストばかりでは能がないだろう。
実際には、対立にかかる明度変化の強弱と配分にこそ興があり、書き手にとってはそこ
が腕の見せどころでもある。いろいろと趣向をこらしてみて欲しい。
 最後にスタニスラフスキーのこんな言葉を紹介しよう。
 「悪人を演ずるときは、そのよいところを探せ。老人を演ずるときは、その若いとこ
ろを探せ。青年を演ずるときは、その老いたるところを探せ」

 〔ま、それが口で言うほど簡単ではないのだけれどね〕

51: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:37:38
  長編小説に伏線はつきものである。伏線とは、のちにおこる事態をそれとなく暗示
する、またはその事態の原因となるものをさりげなく配置する、演出の仕掛けである。
これは辞書にも載っているが、変則的な伏線としてもう一つ。小説の主題や構成そのもの
を示す伏線もある。その端的な例がつぎだ。
 作品冒頭、シャルルは登場するなりその愚鈍さを見せつけ、
「新入生、君は ridiculus sum(余は笑い者なり)という動詞を二十編書いて来たまえ」
と、教師に言わしめる場面は、この小説におけるシャルルの扱いを決定づける伏線といえ
るだろう。
 また、『異邦人』の文体もこの種の伏線と考えられる。
 この変則を別にすれば、伏線もまた蝶番と同じく、言葉やイメージの類似性を使った技術
でありその性格も似ている。だが蝶番が比較的短い距離をつなぐために使われ、表面に現れ
やすいのに対し(>>10のレモンがいい例)、伏線は導火線のように割と長い距離で仕組まれ、
その存在も気づかれにくいという違いがある。
 伏線の問題はこの距離にある。ともするとその導火線の火は、発現場所にたどりつく前に
消えてしまがちなのだ。

52: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:45:29
  〔前スレ164さんの書き込み〕
>発現場所につく前に消えてしまがちなのだ。

これはつまり、読者自身が忘れてしまっていて、もはや伏線にならなくなってしまったと、
そういう感じなのかなあ・・・。かといって、蝶番では、伏線というよりはギミックにしかならない、と。
        *
        *
 そういう感じです。目の前に本をポンと置いただけでは、これ、面白くもなんと
もないないわけですね。読者は、本を開いて読むという能動的な作業をしなければ
なりません。一冊の本を3時間で読み終える人もいれば、3日かかる人もいます。
ここが、映画や音楽の娯楽とのちがいです。

 伏線というのは、フラッシュバックの効果によって、もろもろの感情を惹起させ
ようとするものですね。
 ハッ、コレハアノトキノ…Σ(゚Д゚;)ガガ-ン みたいな(笑)。ちょっとマンガ的ですけど、
わかりやすい効果の形。でもこれは、あくまで読者の記憶の保存性にたよっている
わけです。なので伏線の賞味期限はなかなかに短いのです。だからといって、この
小説には伏線が含まれておりますのでお早めにおめしあがりください、と注を入れる
わけにもいかんでしょ。だからそこらへんを技術的にカバーしようというわけです。

53: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:50:23
 伏線の反復でもっともわかりやすい例は『千と千尋の神隠し』なんですよね。
実用度からいったら『ボヴァリー夫人』よりもこちらが上ですし。どうしよ。
こっちはすぐに書けるんだよね。ていうか書きたいんだよねw
 〔てことで書いたのがこちら〕

 『千と千尋の神隠し』 は 「水」 のイメージに満ちている。絵は百万言の言葉に勝る。
絵で語れない映画はいつだっておしゃべりだ。観客は耳で聞く以上に絵を読んでいる。
 この映画は現代版の龍宮伝説といってもいいだろう。未見の方はほとんどいないだろ
から、物語の詳細は省かせてもらい、本題に入りたい。

54: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 20:59:49
 ハクはなぜ千尋を助けたのか。また千尋も、なぜハクを信頼しその窮地を
救おうとするのか。さほど答えは難しくない。
 ハクがまだ川の神であったとき、千尋はその川に 「落ちて」 溺れ死にそう
になり、ハクがこれを助けた。真の名前を湯婆婆に奪われたあとも、彼はこの
記憶を残していたので、この異世界に来た千尋を当然助けようとする。千尋は
そのことを知るよしもないのだが、命の深いところではなにかを感じ取っている。
なにしろ千尋の尋とは水深を測る単位のことだ。お互いが 「水」 を象徴する
親和性から、今度は逆に千尋がハクの命を救うという、類は友を呼ぶ法則が働く
のである。
 お互いに似たものは、目にみえぬ引力によって惹かれあい近づこうとする。
この法則は現実だけでなく、虚構の世界においても有効であることを忘れないで
欲しい。
 もちろん、ハクが千尋を助けた川の神であるという答えは、ラストシーンの
ところまで伏せられたままだ。しかし唐突さを避けるための伏線はしっかりと
張ってある。

55: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:00:42
 冒頭、おびえる千尋とハクのセリフ、「忘れないで、わたしは千尋の味方だからね」
「どうしてわたしの名を知っているの?」 「そなたの小さいときから知っている」
がそうだし、腐れ神が大湯に浸かるシーンで千尋は湯船に 「落ちて」 溺れてみせ、
これを拾い上げてくれるのが川の神(腐れ神)であるところ。また川の神は龍の姿を
している。ハクもまたそうだ。龍は古来、雷雨を呼ぶ神話の生物である。
 千尋が空を見あげると、白い龍(ハク)が彼方に飛び去ってゆくシーンがある。
すると次のシーンには雨が降りだし、一昼夜でまわりは海になってしまう。さらに
手負いのハクと千尋が穴に 「落ちて」 ゆくシーンでは、川で溺れた記憶がフラッシュ
バックする。
 そしてついに最後、千尋はハクの真の名前を告げこれを取り戻し、二人は解放感に
満ちた空のなかを「自由─落下」してゆく。観客はこれをさも当然のごとく受けとめて、
ちょっと涙ぐんだりもするのである。これは愛の力などというありふれた理由ではなく、
厳として 「水」 の近接と反復によってもたらされた結果なのである。これにより、
ハク=川の神という伏線を支えてあまりあるほどの効果を発揮し、かつ作品のイメージの
統一性にも寄与している点をぜひ学びとってもらい、小説にも活用していただきたい。

56: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:11:30
    『ボヴァリー夫人』 にみる伏線

 《そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫び声、尾を引くような
一つの声が聞えた》

 このとても気味がよいとは言えない 「声」 は、エンマだけに聞こえている。なにしろこの
「声」 は、はるか後方153p、物語的にはまだ訪れぬ未来から発せられた残響であり、その間
にはまさに広大な言語の森が層をなしている。そこにロドルフはいないのだから、聞こえる
ゆえもない。
 では、その153pに飛んでみよう。

 《乞食は前うしろの車輪の泥を浴びながら、もう一方の手でふみ台にしがみついていた。
声は、最初は弱く赤ん坊の泣き声のようであるが次第に鋭くなっていった。何をなげくとも
知れぬかすかな哀訴の声のように、それは闇のなかにながながと尾をひいた。鈴の音や木立
のざわめきや箱馬車のうなりを通して聞くと、その声にはエンマの心を転倒させるような、
はるばると遠いものがあった。それは竜巻が谷底へ舞い下がるように、エンマの魂は底へ沈
んで行き、果てもない憂鬱の虚空へエンマを運び去るのであった》

「声」の主はあきらかにこの乞食であるといっていい。さらに152pにある乞食の描写を掲出しよう。

57: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:21:57
 《峠には一人の乞食が杖をついて、行きかう乗合馬車の間をうろついていた。肩には
ぼろを重ね、顔は鍋底のように丸くなっている形の崩れた古い海狸帽(かいりぼう)に
隠れていた。しかしその帽子を脱ぐと、瞼のところに、血だらけな、ポッカリ口をあい
た二つの眼窩(がんか)が現れた。肉は赤くぼろぼろにただれていた。そこから膿(うみ)
が流れ出して、鼻のあたりまで緑色の疥癬(かいせん)のようにこびりついている。黒
い鼻の孔は、ひきつるようにクンクン鳴っていた。物をいうときには、仰向いて白痴の
ように笑った。すると青みを帯びたひとみがずっとこめかみの方へ吊りあがって、なま
なましい傷の縁へ突き当たった》

 この目のない乞食はもはや人間ではない。死神のそれである。この伏線はさらにあとの、
毒に悶え苦しむエンマが最期に叫ぶセリフ、234pにかかってくる。
 
《「めくらだ!」とエンマは叫んだ。
 そして、エンマは笑い出した。乞食の醜悪な顔が、物怪(もののけ)のように、永劫の
闇に突っ立っているのが見えるような気がして、残忍に、凶暴に、絶望的に笑い出した。》

 エンマは死の床で何度も叫び声をあげる。かすかな長い叫び声、それはエンマ自身の
断末魔として、時を越えて過去の彼女の場所>>40 へと響くのであった。

58: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:30:38
 伏線としてみると、14pの描写はどうにも弱い。読者に印象を残そうとする力みはまる
でなく、むしろ自然に忘れられていくことを望んでいるかのようなさりげなさだ。読者は
153pに至って、14pの場面を思い出すことは皆無であると言っていいだろう。どちらかとい
えば152,3pと234pを意識するのが穏当だ。しかし考えてみると、時間の流れに沿って強か
ら弱へとかすむ印象を、なるべく引き延ばそうとする通常の伏線とは、またっく逆の形式を
とっているのだからこれで正解なのかもしれない。この伏線の転倒性は難度が高いので参考
だけにとどめておく。
 14p~16pにおける描写が、終盤の絶望と破滅への予兆を表象するものとして解説をすすめ
よう。

 物語はここから大きな展開をみせる。この不吉な呼び声に引かれて、不義と放恣にまみれた
運命の坂をエンマは転げ堕ちていくことになる。そして変化をみせるのはなにも話の内容だけ
ではない。その兆候を表すものが>>42 の二段目以降の描写だ。 


59: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:37:00
 エンマの大きな 「黒い」 眼が強調され、ある霊妙なものが全身にめぐって、エンマの
姿を一変させる。さらに次の心理描写の段でも、ある霊妙不可思議な世界に入ろうとして
いる。そこは、情熱と恍惚と狂乱がすべてらしい。そんなのはマトモな人間のみる夢では
ない。棺桶に片足をつっこんだシャブ中の妄想と大差ない。その意味でいえばエンマは
いわば恋愛中毒者であり、もちまえの神経症も手伝って幻視幻聴はあたりまえ、そこかしこ
であなたの知らない世界を垣間見てしまう。そして完全にイッてしまっている感情の頂
からみる現実、これからエンマが堕ちる現実という地獄は、はるか下の「闇」 のなか
にある。
 といっても、初見の読者はエンマの運命を知るはずもない。ただ勘のよい人は、なにか
不穏な空気を読みとるだろう。その凶兆のシンボルとなるが「黒」と「闇」という言葉である。
 上巻第一部でも「黒」と「闇」は何度となく表れるが、それはまだ不吉な影をともなっては
いなかった。下巻第二部からこの言葉はある種の異様さをちらつかせ、反復しながらも、けし
て意味を明確にせず、不安や予兆めいたものを感じさせ、読者の心理に暗い影を落とすのであ
る。これは作品の色調を統一するはたらきにもなっているし、心理色として黒がもつ効果はけし
て軽いものではない。遠からずそこには死のイメージが重なってくる。

60: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:40:17
 しかし、馬鹿のひとつ覚えのように、闇雲に反復すれば良いというものでもない。
上巻24p 「うれしかった」 を5連発するシャルルよろしく、野暮ったさを強調して
苦笑を誘うことにもなるので気をつけたい。

 実際、読者は同じ言葉の繰り返しには敏感で、まともな書き手はこれを懸命に避ける
努力をするし、一見マイナスの要素を転じてこれを利用する術もある。このように、類
似する言葉がどうも目につく場合、そこには作者のなんらかの意図があると思っていい
だろう。されども、なかには無自覚に意味もなく何度も同じ言葉をばらまく作家も、
いないわけではない。だれとは言わないが、とにかく私はくらくらと眩暈を覚えたので
あった。

61: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:52:57
 さて、伏線には基本技術の要素として「類似」ともうひとつ、「読者」という存在
が大きな要点になりましたね。
 長編小説はさっと読める代物ではありません。生活をするうえで、小説よりも憶えて
おかなければいけないことはたくさんあります。印象に残らないところは、次々と忘れ
られていくのも仕方のないことです。その対策として反復があったわけですが、もう少
しお手軽で簡単な方法もあります。

62: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 21:55:30
 《それは青葉棚の下、かつて夏の宵々に、レオンがうっとりと彼女を見つめたことのある、
あの腐ちた丸太のベンチの上であった。今はもう彼女はレオンのことなど考えてもいなかった!》

 この青葉棚のベンチは、物語のなかで重要なガジェットになっていて、最後の最後、
シャルルのオチに結ばれています。そこで消去されないように折々に登場するわけです。
 で、なにがお手軽かって説明ほどお手軽なものはないわけですね。「かつて~あった。」
と書けば、読者には十分記憶の手がかりになりますね。キメのシーンでこんな説明を
いれるのは無粋ですけど、中継点でこうした説明を用いるのは有りかとおもいます。

63: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:00:50
 〔書き忘れましたが、小説技術を 「類似・対立・時間・読者・視点」 に分類して
解説しているのです〕
 
     ― 読者と登場人物の結託 ―

『ボヴァリー夫人』上 113p

 レオンは部屋のなかを歩き廻っていた。南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、
こんな見すぼらしい家のなかで見るのは妙な気がした。ボヴァリー夫人は顔を赤らめた。
レオンは自分の眼つきにぶしつけなものがあったような気がして向こうを向いた。

64: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:07:14
       同 下 53~54p

 恋する習慣の力だけでボヴァリー夫人の態度は一変した。目つきは大胆になり、言葉
づかいは露骨になった。まるで「世間をばかにするように」くわえ煙草でロドルフと散歩
するような、おだやかならぬことまでした。ある日エンマが男のように胴をチョッキで
締めつけて、「つばめ」を降りるのを見たときには、まさかと思っていた連中ももう疑
わなかった。ボヴァリー老夫人は夫と大喧嘩をしたあげく、息子の家へ逃げてきたが、こ
れまた大いに眉をひそめた。
 (3行略)
 ボヴァリー老夫人はその前の晩、廊下を横切ろうとするときに、フェリシテが一人の男
といっしょにいるのを見つけた。顎から頬へかけて黒い髭をはやした四十がらみの男で、
足音を聞くと急いで料理場から逃げて行ったというのである。エンマはその話を聞いて笑い
出した。ところが、老婦人は気色ばんで、風儀の良し悪しを頭から問題にしないのなら知ら
ないこと、そうでなければ召使いの風儀ぐらいは取締まらねばいけないときめつけた。
 「あなたはどんな社会のお方です?」そういう嫁の目つきがあまり横柄なので、老婦人は、
お前さんは自分自身の言い訳をしているのだろうとやり返した。
 「出て行って下さい!」若婦人は飛び上がって叫んだ。
 「これエンマ! お母さん……」仲裁しようとしてシャルルは叫んだ。
 しかし二人とも激昂して、もう向こうへ飛んで行った。エンマは地団駄をふみながら、
 「ああ、世間知らず! 土百姓!」と繰り返した。
 シャルルは母親のほうへ走って行った。母親は狂気のように口をもぐもぐさせながら、
 「生意気な女! おっちょこちょい! いやもっとひどい女かも知れない!」

65: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:09:37
 嫁姑の争いとそれに翻弄される夫を活写し、それを傍観しておもしろおかしく茶をすする
図は、みのもんたの決め台詞「 奥さん……別れちゃいなさい!」 を昼時に楽しむ現代にも
通じるものである。昔小説、今テレビといったところであろうか。
 まあそんなことはどうでもいい。この技術の話は単純だ。今、読者が読んで知り得た内容
をそのまま、登場人物も共有してあるかのように振る舞うという手法である。
 伏線のところで、読者はやたらと忘れる生き物なのだということを書いた。しかし、今読
んでいる部分を忘れてしまうほど、ひどい健忘症の人はそういないだろう。つまり、短期的
にみれば、読者は書かれてあるすべてのことをよく知っているわけだ。

66: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:13:16
 まず最初に上巻113p、エンマはここでなぜ顔を赤らめるのか。レオンの眼がぶしつけ
だったから、などと答えてはいけない。学校のテストなら○だが、作家の答えとしては×。
 正解は、《南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、こんな見すぼらしい家のなかで見
るのは妙な気がした》 というレオンの心理をエンマが読みとったせいだ。なぜ読みとれ
るのか。読者(わたし)が知っているからだ。
 エーッそんな馬鹿なことあるわけないと、異議をとなえたくなるだろうが、そんな馬鹿な
ことあるのが小説なのである。もちろんあまり露骨にやると超能力じみてくるので、そこは
曖昧さを加減してやる必要があるだろう。
 この一文も現代的な水準にあわせれば、レオンの眼がぶしつけ云々という説明の逃げ道は
なくてもいいのだが、リアリズムに徹するという作品の性格もあってのことと推測する。
 しかし無節操に誰とでも読者との結託を用いていいわけでもなく、やはりそれなりにわき
まえるべきルールはある。

67: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:18:08
 一、作品の性格を考慮すること。リアリズムやルポルタージュ風などの少しお堅い性格の
作品には、派手な使用を控えたほうがいいだろう。

 一、人物の性格もまた考慮すること。エンマやボヴァリー老婦人、ひいてはこの作品に
登場する女性たちはみな勘がよい。元来、男性よりも女性のほうが細かいところによく気
がつくという性質がある。相手の営みや心理をやすやすと見破るその勘どころのよさに
よって、読者の分身ともいえる結託が成立する。間違ってもシャルルのような抜け作が、
相手の心情を読者と同じように察知するなんてことはおこらないし、おこしてもいけない。

 最後は、やはり距離である。53~54pの例は少し入り組んだ構成になっているけれども、
老婦人との結託のもとになる情報(ロドルフとの不逞)は、すぐ隣に書かれてある。なる
べく1ページ以内の距離でおこなうようにすれば、空振りを防げるだろう。

68: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:26:36
 この技術がもっとも鮮やかな効果を発揮するのは、地の文とセリフの連携である。
その例として>>64 をあげた。しかしながら、なるべく目立たないように書いている
こともあって、こう今ひとつぱっとしない。他にいいところもなかったので、お粗末、
恐縮ながら、私のやっつけを例にとって見てみよう。
 
 「あいつ絶対許せない! キミとはやっぱり馬が合わないみたいぃ? ふふ、ふざけんじゃ
ないわよ! 他に女ができたのはわかってんだから、チクショー!」
 どうやら飲んできたらしい。目をまっ赤にして、真紀子はしきりにソファを殴ったり蹴ったり
している。そのうちに疲れてぐったりとソファへもたれ、鼻をチーンとかんだ。
 離れたところでテレビを見ていた弟の純一郎は、呆れたように横目で姉の醜態を見やり、そうやって
すぐヒステリックになるから、男に逃げられるんじゃないのかね、と内心つぶやいた。
 ティッシュの箱が飛んできて、純一郎の頭に命中した。
 「あいつが悪いのよ!」
 「痛いな、おれに当たらないでくれよ」

69: ◆YgQRHAJqRA
05/09/08 22:31:43
 文章の拙さはご容赦いただき、地とセリフの構成を看取してもらいたい。
 このような感じにすればさほど不自然にもならず、地と会話の連携(真紀子
と読者が結託してる)が図れると共に、興趣のあるすっきりとした流れになる。
 非現実的な世界や幻想性を前景化する作品なら、もっと大胆な結託をみせても
いいだろう。不気味で奇妙な世界をさまよう 「私」 を書いた、内田百閒 『冥途』
にその例をみることができる。さすがにこちらは惚れ惚れするような名文である。
 
 《女は暗い道をどこ迄も行った。私は仕舞いに家へ帰れなくなる様な気がし出した。もう
後へ引き返そうと幾度も思いかけても、矢っ張りその時になると、今にもその泣き声が思
い出される様な気がして、どうしても離れることが出来なかった。道の片側に家の二、三
軒並んでいるところを通った。家の戸は皆しまっていた。隙間から明かりの漏れない真暗
な家だった。その前を通る時、自分の足音が微かに谺(こだま)しているのを聞いて、私
はふとこの道を通った事があるのを思い出した。私の足音が、一足ずつ踏む後から、追い
かける様に聞こえたのを思い出した。
 「いいえ、私の足音です」 とその時一緒に並んで歩いた女が云った。そうだ、その道を
歩いてるのだと気がついたら、私は不意に水を浴びた様な気がした。》

 初心者はなにかと現実性を踏襲しようとする断り書きによって、文章の流れを濁らせてしまう。
下手な親切心は返って作品のあだとなる。ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、
書き手には必要であろう。最終的に作品を完成させるのは読者なのだから

70: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:44:15
   ─〈黙説〉空白の引力 ―

   『ボヴァリー夫人』上 111p


 そのときレオン君が書類の束を小脇にかかえて近所の家から出てきた。彼は近寄って挨拶し、
ルウルウの店先に張り出したねずみ色の日覆いの影へはいった。
 ボヴァリー夫人は、子供に会いに行くのですけれど、そろそろ疲れてきましたといった。
 「もしも……」 とレオンは答えて、それから先はいいよどんだ。
 「どこかご用がおありですの?」 とエンマは聞いた。
 書記の返事を聞いてエンマはそれではいっしょにきて下さいと頼んだ。そのことが早くも
夕方にはヨンヴィルじゅうに知れ渡った。村長の妻テュヴァシュ夫人は女中の前で「ボヴァリー
の奥さんはあやしい」とはっきりいった。

71: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:45:09
 しかるべき情報をわざと書き落とす。知られたくないものを隠蔽してはぐらかす。これを
黙説法という。
 黙説法などというと、なんだかエラそうな技術に聞こえるが、なんのことはない。はっき
りものを言わない日本人お得意の 「暗黙の了解」 や 「沈黙もまた答え」、表現としては、
「こんな所で立ち話もナンですから」 「ここは遠慮しておいたほうがアレですし」 など、
最近では(ry なんていうのもこの黙説の範疇に入る。なんだかとたんに下世話な感じになっ
たけれども、小説には


 さて、上述のように唐突な切り方をしたらどうだろう。小説には? なに? とにわかに尻切れ
になった部分が気になりはしないだろうか。黙説の効果のひとつとして、この空白の生むいわば
真空的な誘引力がある。
 私は「読者との結託」で、ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、書き手には
必要であろう、最終的に作品を完成させるのは読者なのだから、と書いた。
 黙説はこれを書くことではなく、書かないことで成そうとする技術である。つまり読者はそこ
に書かれてある以外のことは知りようがない。肝心なところをはぐらかされるとそこが気になる。
しかし、その動機、真相は容易につかむことができない。なぜか。書かれていないからだ。ある
程度どころか、すべてを読者の想像や解釈に放擲(ほうてき)することで、黙説が生む空白は
あさましいほどの引力をあらわにする。



72: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:47:38
 空白はとても魅力的な機能をそなえている。さも意味深なように書いて読者を
惹きつけつつ、どうにも解せずに難渋しても、それはきっと自分の読解力が未熟
なためだろうと思わせてしまう詐術である。ことによると、読者は何度も同じ
箇所を読み返し、ページを遡行して答えを、納得のいく解釈を探りだそうとする
だろう。こうした空白を作品全体にちりばめ、構造そのものを黙説化してしまうと、
純真な読者はコロリとこれに引っかかる。まるで底のみえない深遠さや得体の知れ
ないスゴイ小説のような勘違いが生じるのだ。
 そしてこの空白の名手ともいえるのが村上春樹である。読者の興味と関心を惹き
つけるためならば、創作者が持つ情報の独占的な立場を大いに利用してはばからず、
なおかつ本来あるべき答えさえも実はないという態度によって、ときに厳しい非難
や不興を買っているのはこのためだ。そんなことはへのへっちゃらで、気にもとめ
ない図太い神経を持っていると自負する人は、その手並みを研究してみるのもいい
だろう。

73: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:48:30
 黙説法のえぐいところばかりを書いてしまったが、通常はもっとしとやかな情緒性
を誘い出すために、あえて語らないということが多いだろう。卑俗な例でいえば、結
びあう男女の目線とか、おなじみの医者の告知シーン(セリフを挟まず、落胆の仕草
や表情で病状の深刻さを表す)といったものが思い起こされる。

 より自覚的に黙説を利用する場合、ひとつ注意点がある。読者の感情や思惟によって
空白を埋めるためには、前後の書き込みや話の流れから、見えざる答えを導けるように
しておかなければならない。あまりに勿体ぶった書き方をすると、書く側の優位性に寄
りかかった悪手か横着と取られかねない。懸念や謎を煽るような目的で使用するならば、
伏線の一つや二つを同時に配置するくらいの気配りをみせるべきだと、私は考える。

74: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 19:50:21
 さて、上巻111pにみる例は、地とカッコ書きでやりとりする会話を黙説でつなぐ良い
お手本。
 「そろそろ疲れてきました」 というエンマの言葉をうけて、「もしも」 とレオン
は言うが、この先は言葉になっていない。彼の性格からしてもじもじと、「そこで少
し休んでいきませんか」 とか 「お茶でもどうですか」 といった、月並みな誘い文句が続
くであろうことは容易に想像がつく(正確には読者にそう思わせる)。並の書き手なら
ここで 「もしも…なんですの?」 なんてセリフを挟んでしまいがちになるが、フロー
ベールはこの二人のやりとりで両者の力関係をはっきりと見せつけている。エンマから
みると、レオンは典型的な年下のかわいい坊やという扱いだ。

 エンマは 「もしも……」 というレオンの言葉の先を気にもとめず、「どこかご用がお
ありですの?」 と自分の質問を浴びせかける。それに対する、イエスかノーかという簡単
な答えも、あるいはそれ故に、レオンは言葉を発する(書かれる)ことを許されない。
しかし、エンマの 「それではいっしょにきて下さいと頼んだ。」 という一文によって、
レオンの答えは容易に察することができる。
 いったいどちらが主で従であるのかという力関係がこの黙説の内に示されている。小説の
主人とは、限られた紙面、場面を、どれだけ占有しその領域を支配しているかということに
つきる。続く112p、エンマとレオンが乳母の家へむかう道すがら、
「彼は彼女の足に合わせてひかえめに歩」 くことも必然の所為といえるだろう。

 このレオンとは対照的な、エンマのもうひとりの恋人が、ロドルフである。



75: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:01:06
〔前スレ216さんの書き込み〕
漏れは例の空白部分には全くピンと来なかったなあ。
言われてみたらその通り、とは思うんだけど。

漏れが鈍いのか、それにしても
「もしも」のあとに口説き文句がくるとは思わないもの。
(もしもお茶に誘ったら……とかそういう台詞を切ったのかな)

訳の問題だろうか?
        *
        *
 例文は物語の流れのなかで活きてくる黙説なので、そこだけ取ってみても
なかなかピンとこない、というのも確かにあるかもしれません。「もしも……」
という言葉のなかに、語られない彼のエンマに対する思いや性格というものを、
説明やあからさまな演出によらず読者に訴えかけるところがミソなんですけど、
やはりこの技術特有のいやらしい側面が取り扱いを難しくしています(使い方
自体は簡単)。
 なので、ぶっちゃけ張りきって習得してもらわなくても構わない、それとなく
意識せずに使うくらいが安全で、せっせと使ったところで作品に箔が付くわけ
でもなく、返って泥を塗るような結果にさえなります。まあ、身も蓋もないことを
言いますと、この技術のところは読み飛ばしてもかまいません。
 じゃあ書くなよということになるんですが、知識として持っておく分には大過ありま
せんし、いやオレはうまく使ってみせる、というか好んで使ってましたという方には、
やはり慎重な扱いをうながしたいと思います。あと、無駄な文章をそぎ落とすことと、
黙説をごっちゃにしている方も注意してください。

76: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:03:29
 非常にいい例(悪い意味で)として、アニメの 『新世紀エヴァンゲリオン』
があります。
作品全体に散見する黙説はあきらかに空白の求心力を発揮していたし、後半に
至ってはもう開いた口がふさがらないという有様でした(ファンの方には申し
訳ないが)。
 ただ、エポックメーキングの役割は確かにありましたし、その圧倒的な支持
によって本来マイナス面となりうる部分を覆い隠していました。誰だったかは
忘れましたが、良心的な分析を試みて、なるほどとうなずける現代性を提示した
批評もありました。しかし、冷静になって見てみれば、黙説のあざとさはハッキリ
していて、これをもろ手で誉めるわけにはいきません。
 これや良しと、二番煎じのまねごとで同じ黙説を取りいれることはくれぐれも
しないでください。 あまりほめられることではないのです。

77: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:04:13
   ― 余情…あるいは余韻 ―

 余情とは何かと問われれば、なんだか分かりにくい。しかし、なんだか分かり
にくくても、どんな感じかは分かるような気がする。「余情がある 」と言えば、
まず褒め言葉だと思っていいだろう。
 私たちは、この余情感を感動のひとつとして捉えているとみていい。余情からう
ける感動は、ハリウッド映画によくあるような熱のこもった激しいものとは質を
異にする。
 辞書を引けばなるほど、余情とは何かと、無駄のない筆致は役所のごとしである。
 しかし、いかにすればその 「しんみりとした美的印象」 やら 「言外の情趣」
が醸し出せるのか。どのように書けば人は余情を感じやすいのか、いくつかの例を
示ながら解説してみたい。


78: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:05:32
 まず、一連の文章から受ける情景やその背景に、読者がどれだけ感情移入して
いるか、という部分にポイントがある。
 私は 『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』 を観た感想で、一部で騒
がれるほどの懐古趣味に感じ入ることはなかったと書いた。そうしたノスタルジック
な事物を 「知っている」 ことと 「体験している」 ことには、大きな隔たりがある。
その差が、そのまま作品への感情移入度に反映したとみていいだろう。懐古趣味の
感動を支えているのは、体験的イメージに依るところが大きい。
 このイメージの効果をよく表しているのが、『夕焼け』 の詩であった。今一度
読み返してみて、どうだろう。情報は決定的に少ないのに、印象は返って鮮明になると
いう、詩ならではの趣が発揮されているかと思う。これは電車内や夕焼けといった日常
風景だからこそ、読者はそこに共感しつつ書き込まれていない情報をイメージで補完
するのである。この黙説の手法に注意してもらいたい。そして、この詩の読後感を言葉
で表すならば、「しんみり」 という表現を用いてもなんらおかしくはないだろう。
 余情が生成される要素として、感情移入と印象があり、そこに黙説の空白が加わること
で読者に言い難い複雑な情感を呼び起こす。と、言い切れないところにめんどうくささが
あるのだが、その強い傾向性をもっていることだけは確かである。

79: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:06:26
 さて、これだけではなんだか分からないので、『千と千尋の神隠し』 をまたまた
例として取りあげたい。ちなみにフランス語のタイトルは『Le Voyage de Chihiro』
で、「千尋の旅」とそのまんまであるが、こちらの方がより内容を浮き彫りにしてい
ると言えなくもない。旅とは、出会いと別れ、自らを省みる人生の縮図という見方
もできるし、その響きにはどことなく感傷的な影さえちらつく。情に訴えかけるには
申し分ない舞台装置なのだ。さすがフローベールを生んだ国であると、褒めておいて
いいのだろうか。

80: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:07:26
 余情が最も強く表れるのは、主に作品の終結部においてである。
「けして振りむいちゃいけないよ」 「さあ行きな、振り向かないで」
 映画の終わり近く、千尋を見送るハクのこのセリフはいったいなにを意味するのか。
すぐに思い浮かぶのは、主人公に対しての制約とペナルティを与えるという筋書きで、
これは民話や伝説などの物語でよくみられる形式である。卑近な例でいえば、浦島太郎の
玉手箱、シンデレラの12時の鐘、走れメロスの暴君との約束などがあげられるだろう。
 もし千尋があそこで振り返ったとしたら、どうなるのだろう?  ソドムとゴモラの滅亡
を見たロトの妻のように、塩の柱となって死んでしまうのだろうか?
 結果として、なにか土壇場でイベントが起こるような筋をみせながら、千尋は
何ごともなく元の世界へと帰っていく。これといった伏線もなく、わざわざ振り返るな
という制約を設けた意図はどこにあるのか、ここで分析したみたい。
 余情を生むための要素として、印象と感情移入、そして黙説が大きな役割を果たして
いることは先に述べた。かなり大雑把で抽象的要素だが、細かな点はあとで書くことにする。

81: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:16:16
 ラストにおいて、ハクのくだんのセリフをはさむことで、まだなにか有りそうだという
期待感を煽っているところがミソだ。いわゆるどんでん返しへの布石であるような予感が、
「ああ、もう終わりだな」 と、作品から離れかけてゆく観客の心をまた惹きつけるので
ある。途中、千尋は振り向くようなそぶりをみせるものの、物語の流れがここで変わる
ことはない。つまりなにも起こりはしない。
 そして、千尋の一家がトンネルを出て車で去っていくそのあとに、まだなにかエピローグ
があるような淡い期待(構成的な振り向き)をまた裏切るように、映画はそこでふっつり
と切れてエンドロールとなる。そこへ木村弓の歌う切なげな主題歌がかぶさり、美しい彩り
を添えて終劇となる。
 スクリーンに吸いついていた観客の意識はここで唐突に引き剥がされる。黙説の最大
効果である不確定感は、映画に深く没入していた観客ほど強く感じられ、その語られぬ
空白に余情は拡がっていく。もはやそこは言葉の領域ではなく、一様でもないために明
確な説明をほどこすのは難しい。人によっては、余情という言葉でかたづけられないほど
の複雑な情感を訴えるかもしれない。逆にいえば、容易に言葉へと置換できるようなも
のから余情は生まれないとも言える。

82: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:18:04
 さて、構造的な視点でラストシーンをみた場合、どのような解釈ができるだろう。
 やはり千尋は現実を生きるのであって、あれからまた油屋の世界を訪ねることは
ないし、またハクに会うこともない。きっとまた会えると約束するのも、最後に千尋
を振り向かせないための方便にほかならない。なぜなら、観客はもうハクの川が埋め
立てられてしまっていることを知っているのだし、物語は観客の期待を裏切るかたちで、
なにも特別なことは起こらないと示しているからだ。
 また、最後に一瞬映るあの髪留めは、ファンタジーによくある実は夢じゃなかった
という暗喩とみるよりも(そのオチも含んではいるが)、千尋が現実を生きる力を獲得
した証なのだ。映画冒頭の、気力のないだらけた少女ではなくなっている点をみればよい。
そして、映画の終わりと同じく、観客もまた現実を生きなければならない。それがあの
ラストシーンの意義であり、黙説の最大の焦点であるように感じられた。
 『天空の城ラピュタ』 や 『もののけ姫』 のようなスペクタクルロマンとはまったく
性格の違う詩情性に作品の眼目があるのだ。観客をぐいぐいと惹きつけて、どっぷり
と感情移入させておき、最後の最後でスッと突き放す。
 「さあ行きな、振り向かないで」
 これは千尋だけでなく、観客にも向けて発せられた作者の言葉であるように思う。
作品は虚構なのだ。けれども、そこから受ける感動は嘘ではない生きていく力になる。
それで十分ではないかと、その憎らしい演出に私はいたく感心した。これは既存の
商業アニメに対するアンチテーゼなのである、といったら少し大げさであろうか。

83: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:22:24
 小説作品では、宮本輝 『螢川』 の終結が印象的なので、ひとつ余情の例として
取りあげてみたい。
 約80ページほどの短編なので立ち読みでも読みきれる分量だ。技術的に学べる
ところも多いので、暇があったら読んでみて欲しい。頭から通読すれば、次の場
面をより深い感嘆をもって迎えられるのではないかと思う。


84: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:27:03
 夥しい(おびただ)しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に
押し寄せてくるのだった。白い肌がひかりながらぼっと浮かびあがった。竜夫は息を詰めてそんな
英子をみていた。螢の大群はざあざあと音をたてて波打った。それが螢なのかせせらぎの音なのか
竜夫にはもう区別がつかなかった。このどこからか雲集してきたのか見当もつかない何万何千万も
の螢たちは、じつはいま英子の体の奥深くから絶え間なく生み出されているもののように竜夫には
思われてくるのだった。
 螢は風に乗って千代と銀蔵の傍らにも吹き流されてきた。
 「ああ、このまま眠ってしまいたいがや」
 銀蔵は草叢(くさむら)に長々と横たわってそう呟いた。
 「……これで終わりじゃあ」
 千代も、確かに何かが終わったような気がした。そんな千代の耳に三味線のつまびきが聞こえ
た。盆踊りの歌が遠くの村から流れてくるのかと聞き耳をたててみたが、いまはまだそんな季
節ではなかった。千代は耳をそらした。そらしてもそらしても、三味線の音は消えなかった。
風のように夢のように、かすかな律動でそよぎたつ糸の音は、千代の心の片隅でいつまでもつ
まびかれていた。
 千代はふらふらと立ちあがり、草叢を歩いていった。もう帰路につかなければならない時間
をとうに過ぎていた。木の枝につかまり、身を乗り出して川べりを覗き込んだ千代の喉元から
かすかな悲鳴がこぼれ出た。風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、螢の綾なす妖光が、
人間の形で立っていた。

85: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:28:15
 情と景が渾然となっているような文脈である。まず銀蔵のセリフを境に、上段の
竜夫と英子のいる川べりの場面と、下段の千代と銀蔵のいる土手の場面
における印象の類似性がある。
 螢の大群が立てる波のような音、英子の体に群がる何万という螢、それを息を詰め
て見る竜夫の驚き。
 千代の耳に聞こえる三味線の音、覗き込んだ川べりに立つ人形の螢光を見、かすかな
悲鳴をこぼす千代。
 それぞれの場面を描いた一連の文脈は、乖離すことなく読者のなかで混じり合い一体
となり最後、螢と人間のキメラとなって静かに闇にたたずむのである。千代と竜夫の
見るこの唖然とする情景は、そのまま読者の脳裡に残光として残るだろう。
 作者はしかし、千代の聞いた三味線のつまびきや銀蔵が呟いた終わりとは、螢とはな
んであったのか、その答えを明らかにしてはいない。
 もちろん、これを魂や生命の具象化であるとみるのは容易い。しかし、そうした安易
な答えに収斂してしまうことを拒むような、底の知れない感触がこの世界にはある。
ひとり闇のなかに取り残された読者は、いつしか無数の螢のひとつとなって、この得体の
知れぬキメラに吸い込まれていくのだった。

86: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:32:50
 余情を生むための仕掛けとして、雨や雪などの自然物はかなり利用価値の高い
小道具である。こうした道具を使う場合、なるべく周知な、イメージしやすいもの
を選ぶといいだろう。上記の小説では、タイトルにもなっている螢が強力な役割
を果たしている。
 もちろんこうした道具を単独で使ってもあまり効果はない。できれば登場人物の
心理や物語の核心をそこはかとなく反映することで、単なる雨粒は、語られぬ悲し
みや涙へと読者のなかで変貌するのである。ならば、わざわざ話者を借りて悲哀を
語ったり、人物に露骨な独白をさせるのは明らかに愚の骨頂であろう。これは比喩
の技術と似たようなところがあるけれども、こちらはあくまで余情を与えるような
雰囲気作りが目的であって、あまり手の込んだ仕掛けは必要ない。それよりかは、
いかにさり気なくかつしっかりと読者に情景をイメージさせられるか、表現の繊細
さ、シンプルさといった筆致に労力を注ぐべきだろう。そして読者の感情移入を妨げ
ないためにも、なるべく冗長な描写や無粋な説明は避けた方が好ましい。大事なこ
と、言いたいことはあえてぼかして描いてみせ、明確な答えではなく 「なにか」 を
匂わせ感じさせる。多分に書きすぎるよりは、少し書き足りないと思うぐらいで、
丁度よいのである。
 しかし、いくら簡素淡白がよいといっても、新聞報道に余情を感じる人はほとん
どいないように、単に事実や出来事を書き連ねただけでは情感に乏しい。心や風情、
自然や日常をしっとりと表現するところに余情の因子はあるのだ。

87: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:33:56
 さらに注意すべき点を述べれば、濃く強く激しい表現をなるべく排除し、露骨な
情動を避けつつ難解で錯乱した文章になってはいけない。かといって稚拙で軽薄
な文章ばかりでは刺激がなさすぎる。そして一番の問題が、「読者」 という存在
である。
 余情をもたらそうと、どんなに書き手が汗水たらし、耳から脳汁が垂れそうな思
いをして必死に言葉を紡ぎだしても、最後は読者の感性に委ねられている。読者の
持つ経験、思想、知識に左右されることはもちろん、その時の気分なんてもので、
こちらが狙った余情など吹き飛んでしまうのだ。書き手は、そうした幻の読者を怖れな
がらも、一方でまた読者を信じて書くしかない。

 ちなみに喜怒哀楽という分かり易い感情を作品内で狙うのなら、対立の技法を駆使す
れば結構な効果が得られるし計算もしやすい。同じ感情操作でも、余情はあっさりと一
般化できない微妙な感情であるために、その表現に 「深い」 という言葉、意味が多く用
いられる。うまく言葉にできないが 「とにかく、いい」 「ぐっと胸にきた」 と評され
たら、作家冥利に尽きるというものだろう。

88: ◆YgQRHAJqRA
05/09/16 20:35:10
 ちょっと今まで解説してきた技術とは勝手が違いますので、すぐさまこれを自分の
作品に取りいれるというのは難しいかもしれません。奇抜さや文体の妙で読ませる小説
にはまず向きませんし。
 それに、最終的な表現は個々人のセンスという問題になってしまい、黙説の技術だけ
で成り立つほど単純ではないんですね。当たり前といえば当たり前ですが、作品に感情
移入してもらわなければ余情もなにもないわけです。それには他の技術、表現力をも含
めた総合的な文筆力が試されるわけなんです。ちょろっと幽玄霊妙な小説でも書いてや
るかと、さらりと書ければ、芥川賞の選考も楽でしょうね。ま、本格志向はトレ
ンドじゃないのかな。私もよくわかりません。
 それでもなお、この種の叙情文、美妙の醍醐味を求めて止まない人には、「情」と「景」の
関係をしっかりと考えて書くことで、洗練さの部分では及ばないにしても、少しは見栄
えのよいものに仕上がるかと思います。

 また、読者に対して、書き手の不安や期待が伝わってしまうと、もうそこに自然な感動
は生みだされないとみてよいでしょう。特に文学好きの読者の目は肥えていますので、
あざとさやいやらしさのほうが目についてしまうはずです。
 本の帯に 「涙が止まらない」 なんてコピーがデカデカとあると、返って白けてしまう
感覚ですね。まあ、心がねじけていると言えなくもないのだけど。素直な心で大いに泣け
るという人は、こういった感覚を気にする必要はないかと思います。小説を楽しむには、
そっちのほうが幸せなんじゃないかな。

89: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:10:59
 映画は、その表現のために目まぐるしく視点を変化させるが、元ネタともいえる小説は
定点的な視点でしかものを見れないのだろうか。いつも同じような視点でしか小説を書け
ないのは、小説が不自由な媒体だからではない。それどころか、あまりに自由すぎて大抵
の書き手はその取り扱いをもてあましているのだ。
 書きたいものがあるという 「思い」 だけではやはり、なかなか読者に伝わらないとい
うのが現実であろう。その 「思い」 を形にする、見えるようにするための技法をおおま
かに、「類似」 「対立」 「時間」 「読者」と、分けて解説してきた。
 今回で一応最後となる 「視点」 は、直接小説の表現にかかわる技術でもあり、解りに
くいと感じるところもあるだろう。そこはまったくもって私の力不足からなる業であるため、
ご容赦していただきたい。

 小説上のカメラワークともいえる実際的な視点の操作を解説する前に、私たち自身の感覚
器官が捉える視点、ものの見方についてまず考えてみたいと思う。

90: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:13:24
         ─ イメージと視点 ─

 小説の世界は、なにがしかを見るところから始まる。小説が映画化できるのも、ひとえ
にいろいろと 「何か」 を見ているからに他ならない。ここで見るというのは、なんとな
くカメラでパチリと撮るような、単なる切絵的な見方をいうのではない。
 おおらかな気持ちで空を見上げるとき、私たちは風の香りや鳥のさえずりなどの諸感覚
から入る情報も視覚に織り交ぜて、空というイメージを見ている。だからこそ、そこにあ
る空に春を見つけもし、うららかなる語の情緒も育まれてくる。逆に針穴に糸を通そうと
しているときはどうだろう。視点は針穴や毛先の一点に集中し、周囲のものはほとんど感
取されなくなり、息をするのさえ忘れてしまう。ひとくちに見るといっても、このような
差異がそれこそ無段階に生じている。

 人は全知覚から得る情報を、イメージに集合させて外界を捉えている。もちろん視覚は
そのうちの8割強を占めているが、残りの知覚もイメージを構成する要素として無視はで
きない。また、意識下ではさまざまな刺激から別のイメージが浮いたり沈んだりしている。
それがなにかの拍子に前面に表れ、実際に今見ているイメージに融合したり投影されると、
壁の染みが途端に人面の相を成し、その虚像に怯えたりするのである。そして、この虚像が小
説世界という現のなかで動きだせば、人はこれをファンタジーやホラーと呼んで類別す
るだろう。
 平生は、意識下のとりとめのないイメージは抑制されているため、絶えず錯覚を起こす
ようなことはない。しかし、麻薬などの作用でこうした抑制の働きが鈍化すると、強い幻覚
症状を引き起こす。現実にはあり得ないもの、見えるはずのないものが、ありありと見える
という。 




91: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:15:53
 物書きが、言われてムッとくる言葉のひとつに 「陳腐」 というのがある。
別に陳腐なものを書こうと思って書いたわけではないのに、ひとは陳腐だあり
きたりだとバカにする。じゃあと次は珍妙な表現手法をかってがんばってみる。
すると今度は、そのみなぎった珍妙さが、みえみえの魂胆がまた陳腐極まると、
したり顔で吐き捨てるのである。いったいどうすればいいのかと、明日はどっちだ
と言いたくなるだろう。
 トルストイの自伝的小説 『青年時代』 にこんな記述がある。


 《公爵夫人の好きな場所とは、庭園のいちばん奥深いまったくの低地にある、細長い
沼にかけわたされた小さな橋の上だった。ひどく限られてはいるが、非常に瞑想的な優雅
なながめだった。われわれは芸術と自然を混同することにすっかり慣れてしまったため、
絵画の中で一度も出会ったことのないような自然現象が、まるで自然そのものまで作り
ものであるかのように、人工的なものに思われることがじつにしばしばある。反対に、絵
画の中であまりひんぱんにくりかえされてきた現象は陳腐に思われるし、現実で出くわす
ある種の景色が、あまりにも一つの想念や感情にみちすぎていたりすると、わざとらしい
ものに思われるのだ。公爵夫人の好きな橋の上から見る景色も、このたぐいだった。》

92: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:17:40
 日常において私たちに必要とされるのは、きれいなものをきれいと言い、きた
ないものをきたないと言う神経である。散りゆく桜ははかなく、梅雨はうっとう
しいのである。直截な、ありきたりなもの言いができることは、他人の安心を買う
うえで便利な思考ルーチンだといえるだろう。

 風景を発見したのは都会の人間だと言われている。
 ともすると、私たちは馴染み深いシンボリックなイメージから逸脱するのを避け、
「あまりにも一つの想念や感情にみちすぎ」 た、平凡な表現のなかへ対象を回収し
ようとする。また、ときにその陳腐さは、知らず人間を差別的に選り分ける政治性
さえ発揮する。
 既存のなかにうずもれた風景を、裸の目線でもう一度発見すること。そう口で言
うのは容易いが、習慣的な発想はなかなか私たちを解放してくれない。ついつい紋
切型の思考と文句を連ねてしまうのは、無思慮であるか、高ぶった気持ちでいると
きだろう。落ち着いてものを見れる(イメージできる)状態にない人は、概してお
さだまりのフレーズ(バカとか死ねとか)を連呼するのだし、書ける書けるぞと、
三倍速で小説を書いてみたら、ことごとくなにかの真似事、しかも出来の悪いしろ
ものであった、なんてことも無きにしも非ずである。
 そこで書き手は一所懸命に、独創的で、個性的でカッコよく、うまい文章を書こうと
意気込む。そして、頑張れば頑張るほど、返って 「わざとらしいものに思われるのだ」った。

93: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:19:05
 >>22-23 のところでも触れたことだが、私たちはさまざまな観念を養ってきている。
意図的であろうとなかろうと、ある種のイメージを工夫なしに扱えば、陳腐化を
助長して作品を台無しにしてしまう恐れがある。陳腐さの判断はつきにくいとこ
ろもあるだろう。だが、世界を見る自分の視点が固着していないか、ただ漫然と
書いていないか、おりおり自省してみるのは大切なことだ。

 マンネリが加齢的であるように、幼年と成年でイメージの仕方も変遷していく。
次はそうしたイメージの方向性と、見ることが書くことにどう繋がるのか、そん
なところを解説したい。

94: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:21:28
     ― 詩人 まなざし 異化 ―

 多少なりともクリエイティブな仕事をしたいと願う人にとっては、前にいった
陳腐さを避けたり、克服するのに、もっと深くものごとを見なければ。感覚だって
「カミソリみたいに」 なんて比喩を持ち出さないくらいに鋭くしなければ、そんな
風に思い至ったかもしれないし、またそう思い至るように書いたかもしれない。
 たしかに、なんの工夫もなく、当たり前のことを当たり前に書いて、読者の感動
を催促するのはなんとも横着で虫のよい話である。仮に卓抜した観察眼をもって
「なにか」 が見えたとしても、それを言葉として描写につなげる筆力が伴なわなけ
れば、活力ある文章を書きつづるのはむずかしいだろう。その上、現実や小説を深刻に読み
たがるほどに、表面的な人生論や人間像といったものを獲得してしまう場合も、ままある。
そうした読み手が書き手の側に回ったとき、この抽象的な 「深さ」 は、まさに陳腐の
裏返しになってしまうのだ。
 では、そうならないために、どのようなものの見方、書き方があるのだろう。と、いうこ
とで、今回はブレヒトの演劇理論とロシア-フォルマリズムの文学理論から、異化の効果に
アプローチしてみたい。合わせて、言葉とイメージの関係性とイメージの構築方向についても
思量する。まあ、理論といってもいかめしい話をずらずら並べるのが目的ではないし、概念的
に共通する部分も多い両者を細かく弁別したりはしない。また、私の解釈の違いもあるやも
しれない。なので、お手元にへぇボタンでも置いて気楽に読んでいただければと思う。なかに
は創作に役立つキラリと光る種もある、かもしれない。

95: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:23:31
 北朝鮮拉致被害者である地村さんの子供たちが日本に戻り、故郷の福井に帰る途中、
整った水田を見て長男が訊いた。
 農作業をしている人があまりいないけど、なぜ?
 父の保志さんは、日本では機械で作業をするから、人手は必要ないんだ。そのよう
に答えると、ずいぶん驚いていたという。
 端的にいえば、この驚き、予期せぬ出会い、発見が異化である。
 北朝鮮では、昔の日本と同じように、田植えや肥料の散布に多くの人の手を借りて
おこなっている(農業の機械化はかなり遅れているらしい)。それが常識であり、
変わらぬ営為であり、自明の事柄なのであった。
 かの地では、よれよれと不揃いに並ぶ稲も、この地では北朝鮮軍の行進と同じように
整然と並んでいるのである。彼はそのとき、日本を祖国ではなく、異国なのだと実感した
だろう。

 逆転させれば、これは私たちの常識、田植えは機械でおこなうこの時代に、―─『木を植
えた男』ならぬ『稲を植えた男』とでも言おうか─― ひとりせっせと腰をかがめて、一本
一本、広大な水田に向かって稲を植えている人がいたら、どうだろう?
 そこには、とかく風になびく稲穂を 「美しく」 描写したがる視点からは見えてこない、
「現実」 のすがたがある。
 世間にすんなりと共感される自然な目線とか通念といったぬるま湯に、どっぷりと浸かっ
ていては見えてこないものがある。もはや変わることはあるまいと安心しきっている人々の
認識をうたぐり、見直し、また解体していく。そうした異化の効果が、人を、なかんずく
社会を転化させるひとつの力ともなる。

 蓮池さんの子供は、はじめソウルという言葉に嫌悪感を示していたという。しかし、韓国
ドラマ 『冬のソナタ』 を観たあとには、自分からソウルに行ってみたいと口にするまで、
その態度を変えている。それはなにも、ヨン様がステキだったからという理由だけでは
ないだろう。

96: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:31:21
 この事例をみれば、北朝鮮当局が自分たちの体制=神話を守るために、必死になって
情報を統制するのも当然であろう。北朝鮮に限らず、神話作用というのはいたる所に
働いているものだ。それは日々の習慣であったり、学校や会社の規則であったり、法律
であったりする。そして異化は、それらが決して不変であり絶対ではないと訴える。昨今、
物議〔皇位継承、雅子さまの問題〕をかもしている皇室、天皇という不可侵の神話とて
例外ではない。 〔個人的には、皇室は外交の面で国益にかなっていると思うが〕
 なんだかアナーキーな話しぶりになってきた。とりあえず、必要なのは、眉間にしわを
寄せた思想ではなく、決めつけてものを見ない開かれた見識であろうと思う。

97: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:33:11

   「しにん」 小二 ふじもりてつ

 雨ばかり  ふって  いたので
 こうずいに  なって  しまった。
 たくさんの家が  ながれる。
 人が  しぬ
 どこの  うちも
 おそうしきを  やって  いる。
 おはかばかり  ふえた。
 おはかには  みんな
 そうしきまんじゅうや
 みかんを  おそなえして  いった。
 夜  になると
 しにんたちが  でてきて
 ちゃいろの  どろみずを  はきだしている。


98: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:36:31
 この詩を、小学二年生の児童が書いたから驚けというのではない。また、よくある
「心の闇」 について語るのでもない。
 「子供」 という記号がもたらす 「純真」 とか 「無垢」、「明るい創造性」 などと
いうイメージが、まがいものとまでは言わないまでも、必ずしも子供の実像ではない
ことを承知した上で、この詩を玩味しなければなるまい。
 注目すべきは、やはり作者の一貫した視点であろう。詩の内容に伴なって現れがちな、
怖いとか悲しいといったありふれた感想には支配されず、ただ、ただ、無情のカメラとし
て世界をとらえている。このリアリズムが、詩に迫真性をあたえている。そして最後の
二行(ここでも視点はいささかもブレはしない)、突然作者の内より吐き出された異化
の 「こうずい」 で、この硬質な世界は押し流されてしまうのである。
 仮にこの詩が、 「みかんを  おそなえして  いった。」 のところで終わっていたと
しても、それはそれで重みのある詩として成立はする。
 だが、堅密な現実のあわいを突き破り、超現実の使者(死者)がわれわれの眼前にその
すがたを現すと、詩全体(世界)がいっきに異界化され、重みに増して凄みさえ感じさせ
るまでになるのだ。
 もちろん、計算高くそうした効果を意図して書いたわけではないだろう。むしろ妙な見栄や
分別をひけらかそうとしない子供のほうが、言葉の美的構成力をそのまま感知して、すぐれた
詩を生み出せるのかもしれない。
 さかしらな大人はこういう詩に触れると、さらに言葉のウラへ回り込もうとして、無遠慮に
心理学的メスを振るいたがる。しかし、なにやらわかったような同情や感傷を招く解釈をして
は、返ってこの詩から遠ざかることになるだろう。
 ちなみに、鋭い方は 『螢川』 のラストと類似した構造を、ここに重ねるかもしれない。
まあ向こうは小説で、情緒に流れている分、迫力という点ではこちらに軍配が上がるけれども。

99: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:38:40
  
  「光」 小六 石川せき子

 しめったわらから光がとびだした
 光にはねがはえてとんでいった。
 とんでうすくすきとおった中へはいった。
 その中に、春がさいていた。


100: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:39:29
 うって変わってこちらの詩は朗らかで、健康的な明るさに満ちている。親が手放し
でよろこんでほめそうな詩であり、実際よろこんでいいし、ほめてあげていい
(ふじもり君の詩もほめてあげよう。あの詩を理解できる審美眼が親にあるかが問題
だが)。
 その簡明な印象から、なんだか自分にも書けるかしらと、そわそわする方もなかに
はいるかもしれない。だが、はたしてそれほど簡単に書けるであろうか? いや、書く
前に、同じ状況にあってこの 「光」 を 「見る」 ことができたであろうか?

101: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:43:30
 作者は、おそらく田畑などに刈られて積まれたわらを目にしたのであろう。
日差しに強さを感じられるようになった春の昼時と思われる。たぶん周りには
もっと 「春らしい」 ものがたくさんあったに違いない。
 草木が芽吹き、花が咲き、蝶が舞い、鳥が歌う。そんなどこにでも転がって
いる春の意匠が、目につくはずである。
 しかし、作者は春を描きたかったのではない。作者は見つけたのだ、光を。
 この詩の命は、一行目に集約されている。とびだした光を追った先に、春があった
だけだ。言い方は悪いが、一行目以降はおまけである。
 形のないものに形をあたえ、命のないものに命をあたえる、アニミズム的自然観の
あらわれといえばそれまでだが、私はやはり作者の一般的な感興に落ちない(これは
両方の詩に共通している)まっすぐな視点を称えたい。

 私たちは日常を円滑化させるために、必然、瑣末なもの、茶飯事となるもののすがた
を省略してしまう。例えば、洗濯物を干すのにいちいち洗濯バサミの形状をしげしげ
と見定めて手にするだろうか。パソコンで文字を入力するのに、一文字ずつキーの配置
を確認していたのでは埒があかない。
 たしかに、脳ミソを効率的に働かせるために、そうした情報のエンコードは必要である。だが、
そんな雑な、ほとんど盲目的な目でいたとき、あの 「光」 が見えたであろうか。
 異化の眼 ―─ 詩人の眼といってもいいが ─― は、そうした日常の自動化された感覚を止め、
意識の表へと知覚能力をフィードバックさせ、対象を自在に生け捕ってみせる。そのとき、
言葉は見る者のイマジネーションと同じようにゆがめられ、世界は自然の法則から解き放た
れる。
 結果、異化効果をもたらす。

 これで、よしわかった! と、詩人の目になるのだったらなにも苦労はない。
なぜなら、ここまで書いてきたのは、ほとんど感覚の領域の話であるから。
 柄谷行人の言説をここで引用しよう。

102: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:46:43
 《たとえば、怒りや悲しみがいかに真率なものであってもそれをことばにすれば
凡庸であり他人を感動させないのは、それらが本来伝えがたい失語の溝を一挙にとび
こえて社会化したクリシェ〔紋切り型の表現〕に頼ってしまうからだ。固有の怒りや
悲しみでありながら、ことばにしたとき私たちは他人の怒りや悲しみしかもつことが
できないのである。書く意図や動機がどんなものであっても、私たちは社会的言語と
の格闘を経なければリアリティを実現することができない。したがって、いかに書く
かは技術的な問題ではなく、もっとも倫理的な問題であり、ここにすべてがふくま
れている。
 批評が文学となりうるのはこういう地点においてのみだ。そして批評が、批評家
自身の存在の一端に触れるのもこういうときだけである。》
                       『畏怖する人間』 柄谷行人

 その倫理的な問題というのは、創作の舞台の上では言語感覚の問題になる。
そういう感覚をなかなかつかめないという方もいるだろう。技術そのものの
伝達は容易であっても、「感じ」 とか人の内的資質を伝えるのは至難であり、
ついに才能はコピーされ得ない。
 だがしかし、そこをなんとかして、技巧的に異化へ近づく方法を考えて
みよう。

103: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:50:17
〔前スレ339さんの書き込み〕
異化の視点については、それをメインとして作品を仕上げるためには、
つまるところ個人に特別な資質・感性が必要なのではないかと思っています。
しかし、異化の視点を作品の一部分においてスパイスとして使用することは、
技術として身につけたものであっても、有効に利用できるとは考えています。
             *
             *
 あとちょっと補足で、いくら異化といっても、何度も何度も使いまわされ、
反復されれば、もうそこに異化の効果はなくなってしまいます。素材のうまみ
を引き立てるスパイスとして異化を用いるという意識は正解かと思います。
技術のほとんどはそうした調味料的な性格なのですが、その主客を大胆にひっ
くり返すということもできます。実験的、前衛的小説というのは手段が目的化
しているんですね。
 別にそういう書き方がダメだというんじゃないですよ。ただ、その目的や
理想のためには、どのような手段も正当化されてしまう勘違いが、ときにおこ
ります。作家という人種は、なにを書いてもかまわないんだ、という論理は、
ゴシップを書くような売文屋の理屈であって、まっとうな物書きのものでは
ありません。渡部直己が筒井康隆のテンカン差別を指弾するのもそういうところ
でありまして、くわしくは 『日本近代文学と<差別>』 を参照してもらい、ここは
江藤 淳の一説を取り出してみましょう。

104: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 14:51:40
《 当然、作家は自分の恣意にまかせてあらゆることを描くことを許されていない、
いや、描き得ないという態度でなければならない。
 いいかえれば、作家には、自分の都合で他人を勝手に傷つけてもよいという 「権利」
は扶与されていない。にもかかわらず、対象を 「写生」 しなければならぬ場合には、
本来 「智識的」 「打算的」 なものである礼儀─「虚礼」 を介在させなければなら
ない。具体的にいえば、それは知的な虚構を介在させて描くか、または暗示によって
描く、という方法を採用することを意味する。つまり 「写生」 は、「殺風景」 な、
あからさまなものであってはならない。それは描かれる対象に対するいたわりを内に
含み、ときには見ながらあえて描かぬという断念を含むものでなければならない。》
                       『リアリズムの源流』 江藤淳


 作家というのはなにも職業的な人ばかりを指すのではありません。文字を使って
言葉を外部に表出する行為(メールやチャット、掲示板など)が一般化されたいま、
だれもが(まさに小学生であっても)作家性というものを持ち得るのです。そうし
た環境の変化に対して、人々の認識が追いついていかないために、チャットや掲示板の
マナーといったものを広く啓蒙しなければならないような問題もおこってくるわけ
です。
 先にあげた柄谷行人と江藤淳の言葉をかみ合わせて、書くこと、書かれることの
意味をたまに考えてみるのもいいかも知れませんね。

105: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:02:04
 〔わかるひとにはわかるだろうが、以下に示す図はソシュールの言語学を援用して
いる。といっても、まんま同じではないし(というかだいぶ違うが、どこがどう違う
かをここで詳しく述べる余裕はない)、ラング(言語体系)とかシニフィエ(記号内容)、
シニフィアン(記号表現)、共時態やら虚定的なる術語の解説から入らなければなら
ないことを考えると、あまりにめんどくさい。だからその種の術語には頼っていない。
言語学に関する知識を得て理解した人にだけ向けて書いては、初心者にきびしいものと
なる。まあ私自身、言語学に通暁しているわけではないので、下図はこの解説用に、
かなり都合よく私が改変した、言語の 「イメージ」 であり、学術的な正当性はまっ
たく保証されない。だからソシュール云々ということも書いてない。デタラメのでまか
せを書いたつもりはないが、求知心のある方は、ぜひきちんとした学術書にあたって
もらうことを望む〕


 言葉というものは、決して辞書的な意味だけにとらわれて機能しているのでな
いことは、だれしも経験的に承知されていることと思う。抽象度の高い、「愛」
や 「花」 や 「海」 といった名詞からは、さまざまなイメージが導かれてくる。
逆に 「グルタミン酸」 という名詞は、イメージの喚起力に乏しい。あまり人口
にあがることのない専門的な用語や具体的に対象を指示する言葉には、イメージ
の広がりに欠けるところがある。
 日常を引き剥がすことによって得られる驚きの異名が異化であるならば、やは
りその材料となる言葉も、親しみ深い、つまりすっかり油断してしまっている日
常の言葉から選び取るということになるだろう。
 では便宜上、名詞だけに絞って言葉の中身を図式的に表してみよう。


   << 形象⇔言葉(記号)⇔記号内容 >>

    < 記号内容(概念)一般性→連想─類似系→辺縁系 >
    <                └→対立系   >

    < 外形=イメージ→写実的 閉鎖型  >
    <       └→空想的 開放型  >

106: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:08:34
 言葉は、使用される条件によって大きくその意味内容を変えてくる。例えば、
「女子高生」 という名詞は高等学校に通う女子生徒という意味だが、渋谷あたり
で中年オヤジが若い女の子をつかまえて 「女子高生?」 と、いやらしい目つきで
言うとき、この名詞は本来とは違う意味内容を持ち、卑猥なイメージさえ期待され
ている。この 「女子高生」 はひとつの記号として表現され、そういう性質を与え
る概念(イメージ)を記号内容と呼ぶ。
 形象は文字通り形を有して私たちの知覚に触れるものすべてである。如上のエロ
オヤジは、もろもろの視覚的判断、その体形とか肌の色艶とか服装などの情報(物理量)
を、脳内で心理量(妄想含む)へと変換し、そして自分の持っている言葉の辞書から
ふさわし語を選び、これを表出、さらに不確定な部分を確定させるため疑問符をつけ
加えた。
 こうした文脈のなかで、言葉は高い記号性を持ちえるが、紙切れに 「女子高生」
とただ書いてあるだけだったり、機械的な抑揚のない発話は、そうでもない。また
「田舎」 と聞くと、非常に肯定的なイメージを持つ人もいるし、その逆のイメージ
を抱く人も少なからずいて、言葉によってはその記号内容が大きくゆれているもの
もある。前置きとしてそうした複雑な過程や問題を逐一取り上げるわけにはゆかな
いので、一応そういうメカニズムがあるんだと概観してもらって、記号内容(意味)
の類別から異化の源泉にせまってみたい。とはいっても、女子高生をジロジロ眺め
まわすのも具合が悪いので、もっと抽象度の高い 「石」 を材料に選ぶとしよう。

107: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:09:45
 まずは 「石」 という名詞から思い浮かぶイメージ、意味を、とにかく思い
つくままに書き出してみる。辞書などを参照してみてもいい。多少の個人差は
あるとしても、その社会集団のなかで通用されるイメージが抽出されると思う。
それを 「石」 の中心概念として定置させる。
 近いところから、「硬い、重い、冷たい、くすんだ色」 そして 「小さい、
つまらない、ゴツゴツした、沈む、落ちる、岩、瓦礫」 と、類似系のイメージで
「石」 の外郭を広げていく。さらに進めていくと、「墓、彫刻、遺跡、武器」 と、
関連しつつも動詞や形容詞、副詞が減って名詞が増え、中心にある一般性から離れ
たものが出てくる。あげくには 「石川県、医師、イッシッシ」 など、単に発音が
似ているとか字が同じといっただじゃれ、「うまい、うるさい」 というナンセンス
に行きつく。ここが 「石」 の辺縁系である。記号内容の統一概念が崩れ去る地点だ。
 たぶん滑稽やシュールとしての異化が、この辺縁系にありそうだと、感ずかれた
かもしれない。試しに辺縁系に属する言葉を拾い上げ、本体である 「石」 に結び
つければ、次のような表現が生まれる。
 「この石うまいね」
 そう言って石をボリボリ食べる輩がいたら、たしかにそれは奇妙な事態といえる
だろう。この隠喩的実在はゴーゴリの 『鼻』 やカフカの 『変身』 を極点として実
を結んでいる。だからといってこれらの二番煎じを求めたがるのは軽率で、もうすで
に何十番も煎じられていて、今さら味など残ってはいない。小説の主題としての可
能性は一分もないのかといわれれば、まだあるような、でもないような、と微妙な
ところである。どちらにしろここを目指すのには、そうとうな念力で干からびた泉を
掘り下げる必要があるだろう。
 また、類似系のイメージの数々はあらゆる比喩の下敷きとなっている。頑固で融通の
きかない人のことを 「石頭」 というし、ジャンケンのグーはその形状から 「石」 の
記号で用いられている。こういう比喩表現は枚挙に暇がない。それは、いうなれば安定
と調和をもたらすイメージの和合反応だ。


108: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:13:47
 例えば 「水」 というキーワードを用いて映画全体の統一感をもたらしたその
手法は、すでに 『千と千尋―』 の解説で触れた通りである。
 しかし一方で、類似系のイメージは、画一的な印象を与える側面も有している。
ここでもう一度 >>99 の詩をみてみよう。その一行目。
 「しめったわらから光がとびだした」
 この詩の核となっている句だ。あまり他人の詩をいじくりまわすのははばかれる
のだが、「しめったわら」 を違う言葉に置き換えたらどうなるか。
 「たんぽぽから光がとびだした」
 こうすると、なんだか本当にどこにでもあるような句で、この 「光」 は私たち
の胸に飛び込んでこない。下に続く句もすべて台無しになる感がある。つまり、あり
きたりなのだ。まったく詩味というものがない。これは 「たんぽぽ(ひまわりでも
いい)」 と 「光」 が非常に似た、近いイメージで連結されているのと、語そのもの
も使い古されて新味に欠けるためである。

 詩において直喩よりも隠喩が好まれるのは、「ような・みたいな」 といった助動詞
を省くことでより名詞間の相互関連度が高まり、お互いのイメージが強く読者のなかで
結ばれるという効果を感得しているからだ。印象をすくいあげる絵画的な趣を狙ってい
るといってもいいだろう。魅力的である反面、使い方を誤れば作品の質を一気に下げて
しまうリスクもある。ポイントはイメージの距離のとり方にある。
 そこで、「たんぽぽ」 と書かないためにはどうするか。「光」 を生かすも殺すも、
たった一語がもたらす異化にかかっている。

109: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:15:48
 対立系─― 反意系と書くのが正しいだろうが、今までの流れからこちらを選ん
だ─―は、普段の言語生活では縁のない意味作用である。「お水ください」 と
言って 「ライター」 を差し出す人はいないだろう。だからこそ、そこにインパクト
がある。矛盾やコントラスト効果を狙う対立技法の応用だ。

 先に書き出した 「石」 の記号内容に再び目を転じてみよう。
 そして、「石は鳥だ」 と言ってみる。
 石は一般に水よりも 「重く」、「沈む」 ものであるし、なにかの支えがなけれ
ば地面に 「落ちる」 のが当然で、投げた石が鳥のようにどこかへ飛び去ってしま
うことはあり得ない。しかし、虚構上ならば石は鳥になる。
 「飛行石」 というものがある。映画 『天空の城 ラピュタ』 に出てくる、物語
の中心となるアイテムだ。この映画のキーは、「飛翔」 にある。
 作中、空を飛ぶ道具はたくさん出てくるが、なぜ 「飛行石」 が特別な地位にある
のかといえば、この 「石」 だけが対立系に属する隠喩的実在だからである。どんな
巨大な戦艦が宙に浮かぼうと、それは空力学的な保障を得ている間だけであって、その
自然則が破られればどんな飛翔体も地に落ちていく。本来、飛翔とはま逆のイメージを
持つ石(飛行石)だけが、こういう決まりごとを無視するのである。故に、物語はこの
「飛行石」 を中心に回転し、逆説的にこの石に向かって物語のすべてが落下してゆく。
その果てにどんなカタルシスを迎えるのかは、ここで紹介するまでもないだろう。

110: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:17:55
 手法さえわかればあとは連想力の勝負となるし、これ以上くだくだしく例を
あげる必要もないと思う。細かい距離のとり方や構成は自分で試行錯誤してい
くしかない。

 さて、内容が前後して凝縮だが、また例の詩にある異化の成分を考えれば、
「光」 の対立系としてあるのは、「わら」 ではなく、「しめった」 という
動詞にあった。「かわいた」 でも、ましてや大げさに 「つめたい」でもなく、
「しめった」 たというイメージの距離がいい味をだしている。
 これを大人のいやらしい技巧を加えて書き換えるならば、「みずのそこから
光がとびだした」 などと書けもしよう。でも、レトリカルでない 「しめった
わら」 のほうが自然な気がするし、なにより足下にちまちま咲くたんぽぽなど
に目もくれぬ炯眼がなければ、この詩は生まれなかった。
 しかし、天賦の才に頼らずとも、ある程度形式的な手法を借りて異化的フレーズ
や発想を創作に導入できれば、表現の幅も広がり、かつ連想力も鍛えられて一石二鳥である。
つまりここでも、石=鳥なのであった(イテテ

111: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:18:53
     「銭湯で」 石垣りん


 東京では
 公衆浴場が十九円に値上げしたので
 番台で二十円払うと
 一円おつりがくる。

 一円はいらない、
 と言えるほど
 女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

 たしかにつりを受け取るものの
 一円のやり場に困つて
 洗面道具のなかに落としたりする。


112: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:19:40
 おかげで
 たつぷりお湯につかり
 石鹸のとばつちりなどかぶつて
 ごきげんなアルミ貨。

 一円は将棋なら歩のような位で
 お湯の中で
 今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

 お金に
 値打ちのないことのしあわせ。

 一円玉は
 千円札ほど人に苦労もかけず
 一万円札ほど罪深くもなく
 はだかで健康な女たちと一緒に
 お風呂などにはいつている。


113: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:21:33
 ちょっと時代を感じさせる生活詩ですけど、価値転倒の異化と自然な筆致で
おこなわれる擬人化がどこにあるか、考えてみてください。テクスト分析の
問題としてはかなり簡単ですけどね。
 単に好きな詩を載せたいだけって話もありますけど(笑

114: ◆YgQRHAJqRA
05/09/18 15:43:07
やっと半分を過ぎたかな。肩がこります。
ちょーしこいて、だんだん解説の分量が増えていくんだよなあ。
まあ読まれる方もシンドイでしょうけど。

115:名無し物書き@推敲中?
05/09/18 21:11:16
このスレから読み始めて、まだ前スレくらいしか読めてないけど
期待してるよ。おもしろい。

116:名無し物書き@推敲中?
05/09/20 22:52:17
勉強になります。
できれば、まとめサイト(ブログででも)作っていただけないかなあ、と。


117: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:30:50
文芸というものの面白さが少しでも伝われば、これ幸いであります。

ブログですか。あーいうのは、ずぼらな人間(たとえば私)には向かないでしょう。
何にしろ、独立したサイトを別に作ろうという気は、ちょっと起きそうもない
のです。すみません。


118: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:31:48
 私の目は真実しか映さない。
 そんなセリフを無条件に信じきってしまうのは、よほどのお人よしである。なん
ていくらか誇らしげに文明人の理を説いてみても、超魔術とかイリュージョンとか
のトリックに目を白黒させてしまうあたり、やはり見えるものは真実だという体験
的了解はそう簡単に崩れたりしないようだ。日記や伝記をノンフィクションに列し
てみるのも、肉眼への信頼が前提としてあるためだろう。
 小説も言葉という道具を使ったイリュージョンである。意識的な書き手は、言葉が
いかに読者のなかでリアルに結像するかを思案するだろうし、時間と資金があれば、
そのための取材を惜しまないだろう。

119: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:33:59
 経験はあらゆる表現の原石であり、物書きにとって 「見た」 ものは、すでに
「書いた」 ことに等しい。あるひとつのものを点として描くだけならば、それは
絵を画くよりもはるかに容易だといえる。まずほとんどの、形あるもの(ないもの)
に付いている名前を書いてやりさえすれば、それで済む。たとえば、「人間」 と。
 だが、小説は一幅の肖像画とは違う。小説は時間の織物であり、物語を紡ぐのは
絶え間ない視点の運動である。その線的運行を私たちはプロット(筋)と呼び、
そのなかで 「人間」 は解体され、分裂し、文章という形に構築(テクスト化)され
ていく。見るべきものは漸増し、かつ複雑化する。しかし、なにもかも書きしるして、
そのすべてを厳密に見定めることをしても意味がない。文章の冗漫化を避けるため
にも、「見る(語る)」 ものと 「見ない(語らない)」 ものとを取捨し、話が野放図
とならないよう、体裁を整える必要がある。あらかじめ作品全体を俯瞰し、綿密な計算を
立ててから書き始めるのに越したことはないが、いつもそんなベストな状態で書ける
とは限らないだろう。気まぐれで、唐突にやってくるファンタジーを、締め切りは待って
くれない。

120: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:35:53
 しゃれた物語なんてものはどこにも見当たらず、文体だけに頼って書きなぐる
力量も野蛮さも持ち合わせていない方にとって、小説はまるでブラックボックス
である。見えないものは書きようがない。だったら書かなければよい、というもっ
ともな進言はひとまず呑みこんで、コーヒーをすすりながら 「書けないなあ」
とボヤくすぐそばに、案外と物語は転がっていたりするかもしれない。

 「見たこともない天使は描けない」 と宣言して、絵画に実際的現実を導入した
のはクールベだったが、パッチリ目を開けていればなんでもリアルだということ
にはならない。そもそも眼球に映じているのは単なる光の乱反射でしかなく、
私たちはそこに形や意味を 「読み」 にいくことでイメージを確立する。あるい
は記号化させる。それは生得的なものではなく、もっぱら学習的なものである。
言い換えれば、私たちは見たことのあるものしか描けないのだった。
 ストックされたイメージと言葉を相互変換し、それを切ったり貼ったり混ぜた
りして、「なにか」 を、私たちは表現しようとする。そして、ものの見方の違い
は、そのまま表現方法の違いともなって現れてくる。

121: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:36:28
 ロールシャッハと呼ばれる有名な心理テストを幼い子供に実施すると、大人と
は違うなかなか興味深い結果が得られるようだ。
 テストは、左右対称の無意味なインクのしみを見て、そこになにが見えるかと
いうものである。(あからさまに病的でない)大人はまず、しみを大きな輪郭と
して把握し、なるたけもっともらしい顕在的な形を見る。輪郭線は固く結ばれて
いて、ちぎれるようなことはない。ちょうど影絵でも見ているような感じだろう
か。そこには人の顔や昆虫や動物などのすがたがあって、なるほどそういわれれ
ばそのようにも見えるなと、うなずける答えと傾向性が示される。内的に閉鎖し
たイメージによって、それらは見えて、または読めている。

122: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:37:11
 対して子供、というか幼児は、大人とは対照的な反応をみせる。まず、しみ
全体の対照性、整合性にとらわれない。輪郭の部分部分を指し、ここにゾウが
いるとか、ここにはお花が咲いているといって、ほとんど自分にしか見えない
形の解釈をする。ある輪郭の出っ張った形がゾウの鼻に見えたとすると、そこ
からイメージが拡大してゾウの全体を空想的に補完するという具合である。
 思えば子供というのは、消しゴム一個を車にしたり船にしたり、はたまた飛
行機にしたりと、多様な遊び道具に変えてしまう。そういうイリュージョナルな
空間になかば身をひたしていられる、おおっぴらにそれが許されているのが幼
年期であるといえよう。大人はそこに、懐かしさと共に羨望の眼差しを送り、
しきりに幼年回帰を試みる。かの芭蕉も、俳諧は三尺の童にさせよ、なんてこと
を言うのだから、ストーリーが思い浮かばずに、あっぷあっぷしている物書きの
救いのわらとしてなにか役にたつやもしれない。

123: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:39:26
 ここにコーヒーカップがあるとしよう。
 「コーヒーカップ」 というイデアをどこからか引っ張ってこれる者同士では、
この名詞の交通は実にスムーズなはずなので、私たちはそこになんの不審も抱か
ない。その上で、ひとまず、コーヒーカップというこの便利な名前をうち棄てて、
「それ」 なるものを言葉で表し、他人に認知させるとしたら?
 私たちはあらためて 「それ」 をじろじろ眺め回しながら、「見る」 ことの複雑
さと、それをいか様にも表現しうる言葉の弾性に戸惑うかもしれない。そしてなか
ば習慣的に、いわゆる写実的な描写という方法を用いるかもしれない。ある種の饒舌
が最低限のリアリティを確保する、そんな期待。けれども、それは全体から部分へと
膠着する閉鎖的な視点であり、なおかつ過剰な言葉の累積が返ってイメージの発展性、
拡張性を妨げる、といえなくもない。
 もちろん描写は今日でも有効であるし、今後も有効であり続けるだろう。ただ、
ここでは物語を示唆するものの見方を上位に置く。

124: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:42:58
 「朝の一杯から立ちのぼるブルーマウンテンの香り」 は、「コーヒーカップ」
と呼ばれる物の共時的幻想を私たちにいだかせる。その一杯は湯のみかもしれな
いのに。
 部分から全体を、あるいはその延長を想起させるリアリティ、この換喩(提喩)
的な表現に帯びるイメージの開放性が、物語というわらをつかまえるヒントで
あるかもしれない。

 例えば、帰宅した夫のシャツに長い髪の毛が付着していれば、妻はこれを非常に
訝しむ。長い髪の毛とはつまり、「女」 を表象するものであり、夫と女が親密であれ
ば、これは愛人ということになる。さらに露骨に香水のにおいなど染みついていた
りすると、妻はもう平常心を失って夫に詰め寄り、修羅場となる。
 こんな話は月並みだと、バカにするかもしれないが、実はこの同工異曲はいたると
ころで、何度も繰返し用いられている。夫婦が親娘に、髪の毛がコンドームに替わる
だけで、シークエンス自体の構造はほとんど変わらない。
 そして、次に夫の切断された足が河原で発見されれば、なんとかミステリー劇場
になるし、妻もお返しとばかりに浮気にはしれば、トレンディ(かなり死語)ドラマ
仕立てとなろう。小説もそういう部分では変わりがない。
 物語というのは、こうした個々のシークエンスの集合体であると同時に、シークエンス
自体が派生的に(この例でいえば髪の毛が)物語を発現させるのだとも考えられる。


125: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:44:43
 さて、ここでまたコーヒーカップに目を移して、だが、認識は 「それ」 の
ままで、見てみよう。その胴横に付いたアーチ(取っ手)の部分に注目すると
なかなか面白い形をしているではないか。
 それはネコのしっぽのように、白鳥の首のようにも見え、ゾウの鼻、耳、
蝶の羽、滑り台、乳房、いろいろなすがたが想起されてくる。また、コーヒー
の波紋は海に、そのほのかな湯気は女のため息だろうか。
 いうまでもなく、物語は関係の構造であるから、AとBがそれぞれで充足し
て隔たっていてはお話にならない。拡張したイメージからまたイメージが誘発
される。細かなディテールは気にしない。一度見えたものは、あとでいくらで
も精査できる。そこは大人だ。
 部分から波及して物語が生産され、筋の連関が成される発想─イメージとい
うのは、ドラマチックな小説を作るには都合がよい。
 『ボヴァリー夫人』 も、夢見がちな田舎娘だったエンマがシャルルと結婚し、
ブルジョアジーにつまづいて人生を踏み外すところからドラマが展開される。
その小さな過誤がやがて大きな病変となって、エンマを蝕むのである。これが
最初から救いようのない破滅的な女だったなら、彼女の悲劇は退屈な寓話にしか
ならなかっただろう。

126: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:46:38
 現象の一部分に潜む物語性を、ほとんど病的な妄想力によって拡大すること。
とにかく針小棒大に事を荒立てること。それこそ物語小説の面白さではないか、
くらいに思えれば、借金の形に友人を人質に置いて遁走し、とうとう 「戻らな
かった」 太宰の体験が、のちに 『走れメロス』 の美談に変体して、人の感動
を誘う仕儀となる。(byトリビアの泉)


 はてさて、これで物語のわらしべ長者になれるだろうか。それともやはり、
溺れる者のわらであろうか。それは各人の努力しだい、とまた都合のよい責任
転嫁をするのだけれど、私にはこれ以上のことはできないので仕方ない。
 無闇に長い割には実のない話で、自分でも書いててうんざりしてきて、途中
かなりへこたれたのだけれど、〔これを書いたのはアテネオリンピックの時期〕
室伏の 「過程が大事なんだ」 という言葉を勝手に自分への励ましにとらえて
最後まで書いた。(だからなんだ)
 まあ、小説(ほとんど文学)に対して私小説的な強度を求める手合いには、
なんだかドーピングくさい手法かもしれないが。


127: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:48:50
           ―─ 語り手と時制 ─― 

 一応、メインは時制である。が、それは同時に語り手がどう振舞うのかを考える
ことでもあり、語り(ナレーション)そのもののディープなところへ首をつっこむ、
とまではいかないが、覗き見るくらいはしてみよう。
 また、ここからは 「視点」 と表記した場合、それは叙述上の 「語り手」 とほぼ
同義であり、文脈によってふたつを使い分けることもあるが、随意に解釈してもらえ
ればありがたい。

 初めに、一人称視点と三人称視点(めんどくさいので以下一視点、三視点と略す)
とはなにか、十分わかっている人もいない人も、いま一度、簡単におさらいしてみよう。
なお、二人称は広義の一視点としてここでは区別しない。

128: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:51:11
 一視点は、「わたし」 とか 「ぼく」 といった人称代名詞で語られる叙述形式。
この 「わたし」 は人間である必要はないのだけれど、幽霊とか神さまとかのイレ
ギュラーな設定は別にして、基本的に 「わたし」 の視線が通る範囲以外のものは
見えない。壁の向こうや他の人物の心理を透かし見ることはできないことになって
いる。そんな制限があるにもかかわらず、この一視点の人気が高いのは、やはり
「わたし」 から見た世界を自由に解釈(表現)できるからで、独白を用いた観念小説
のようなものを書くのに適している。それと、(うまく書ければ)読者の感情移入を
誘いやすいというのもある。
 また、視点をもっと語りの中心へ近づけようという野心は、ついに視点を超越論的
に反転せしめ、「今この小説を書く、書きつつある私を書く」 という現在小説、
メタフィクションの域へ達する。
 作者自身に還元されるほど自己言及的ではないものの、石川淳の小説 『葦手』 には、
そうした視点の相転移が、断章をかいして繰りかえし用いられている。
 一部だけ抜粋するが、やはり全文を読まないとこの視点操作の妙味がわからないので、
未読の方は一読をお薦めしたい。

《「まあ、いいだろう。一緒に来てくれ。」 そういいながら、銀二郎はもう手を
あげて通りかかったタクシイを呼びとめたていた。

 ここまで書いて来たとき、わたしはびくりとしてペンを擱(お)いた。もともと小説
めかしてこんなふうに書き出すとは柄にもないことといわれるまでもなく、》
(新潮文庫 『焼跡のイエス・処女懐胎』 に収録)

129: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:53:05
 一方、お手軽な自分探しの延長にあらわれる 「わたし」=「作者」 という構図
が作家を頽廃させたとする見方もあり、いわゆる私小説の筆頭格である志賀直哉を
して文学の没落をまねいたとする怨み節さえちらちら聞こえてくるような弊害がな
いわけではない。
「ボヴァリー夫人は私だ」 と叫んだフローベールのセリフを、文字通りそのまま
受け取ってしまう呑気な人々のことを考えてフローベールは発言すべきだった、
なんて非難はさすがに聞かないけれど、昔、私小説の圧力が強かったころには、
「私小説に比べれば、フローベールの『ボヴァリー夫人』も、「偉大なる通俗小説」
にすぎない」 と、大変勇ましいことを言った人がいた(名前は失念)。際限のない
自己撞着と強烈な自意識の過酷さを生きない場所で、いま、躊躇なくそんな大言を
言い放てる人がいるであろうか。
 私は 「わたし」 というものがわからない。この哲学的問題に立ちつくすとき、
私小説作家は言葉を失う。そして志賀直哉は言った。
 「さういうものは面白くなくなつた」 と。

130: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:57:32
 三視点の語り手は、基本的に人称のない、つまり名指されない透明な存在である。
登場人物を 「山田」 とか「花子」 といった固有名詞や 「彼・彼女」 で呼び、
また一視点のような視点範囲の制限がない。真暗な土のなかだろうと、人物の内奥
にある秘めごとだろうと、おかまいなしに焦点をあわせられる。まさに神のごとく
時空を駆けめぐるSFチックなレベルから、一視点と変わらないレベルまで、視点
の権限を自由に設定できる。多数の人物が立ちまわる壮大な物語などには、この
三視点が適しているだろう。そこで読者は、物語の目撃者になるのである。
 今でこそ、三視点の透明な語り手はあたり前のように受けとめられているが、
語り手がこうした特性を持つようになったのはフローベール以後だといわれている。
例えば、ユゴーの 『レ・ミゼラブル』 は冒頭から次のようなくだりになっている。


 《かれがその教区に到着したころ、彼についてなされた種々な噂や評判をここに
 しるす ことは、物語の根本に何らの関係もないものではあるが、すべてにおいて
 正確を期する という点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。》

 この語り手は、のっけからテクストが物語─虚構であることを暴露しながらその口で、
「正確を期する」 などと言うのだから、論理的な思考になじんだ現代人にはいささか
面食らう話である。もちろんこうした書き方が間違っていておかしいというのではない。
それが時代のスタイルだったのだ。
 『ボヴァリー夫人』の革新は、その写実性、客観性の徹底によって、それまで事ある
ごとにしゃしゃり出てきていた、いわば書き手と結びついたあからさまな語り手の人格性
を封じたところにある。
 と言っても、完璧に封印したわけでもなかった。フローベールは、自由間接話法という
人称と時制の代置をおこなうレトリックを用いて、前時代となった語り手の性格を隠微な
形で表現したのだが、煩雑になるのでひとまずこれは措いておく。


131: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 11:59:34
 こうして、一視点と三視点をわけて捉えることになれてきた私たちは、
この二つの視点をつとめて分別し、境界線のようなものを引いて断絶的に
扱おうともするのだが、はたしてそれほで別たれたものなのであろうか。

132: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:08:08
        『夢みる少年の昼と夜』 福永武彦


 太郎は眼を開いた。あたりがくらくらする。魔法の世界が過ぎ去って、真昼の
眩しい光線が縁側に一面に射し込み、その余熱が頬をかっかとほてらせる。茶の
間の中は蒸し暑い。箪笥の上で、啼き終った鳩時計が、もう何ごともないかのように
平和に眼の玉をくるくる動かしている。コノ鳩時計ハモウオ婆サンダ。ソレハオ母
サンモ知ッテイル。オ母サンノオ父サンモ知ッテイル。コレハドイツ製ダ。コレハ
ドイツノ鳩ダ。オジイサンガムカシ外国デ買ッタモノダ。コノ鳩ハ色ンナ死ンダ人達
モ知ッテイルノダ。鳩ハ何年クライ生キルノダロウ?


133: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:09:39
 一見してわかるとおり、この小説は特異な叙法をとっている。物語は 「夢想/現実」
「昼/夜」 「一視点/三視点」 という典型的な対立構造に支えられており、ひらがな
の述部が現実(三視点)を、カタカナの述部が夢想(一視点太郎)を受けもって、それ
らが進行的に微妙に重なり合い交錯し、混沌としていくところがこの小説の面白さである
といえよう。
 問題は、きっちりと弁別しているかに見えるこの二つの視点に、むしろ横断的な特徴
が表れている点である。カタカナという字面に惑わされずに、三視点の語り手と一視点
の語り手(太郎)を識別するならば、まず文末の形、断定の強い言い切り 「ダ」 の多用と
指示語(コソアド)の頻出が目立ったちがいとしてあげられるだろう。たしかに、こう
した文体の工夫によって読者は二つの視点のちがいを意識することができる。単なる異化と
してカタカナを用いているわけではないのだ。
 太郎の語りはとても一視点らしい叙法だが、三視点の語りは、「太郎」 を 「僕」 に換え
てもなんら違和感がない。この例文では、三視点よりも一視点として読まれうるニュアンス
が高い。表面上は断絶している視点も、実は基部において横断しているゆえに、物語の夢と現実
は乖離することなく混交していくのである。
 形式的な区別ではなく、語りのなかでつくられる遠近法的な視点の正体、それが 「時制」 である。

134: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:10:35
 時制というのは、現在形とか過去形といった、時を表す動詞変化の一形態のことで、
さして耳に新しい文法ではないだろう。文法と聞くとなにか憂鬱な面持ちになって
しまう方もいるかもしれないが、私の低クロックな頭脳でもなんとかなっている
ので大丈夫。(ちょっと遠い目になっているのは内緒だ)

 まず、結論から先に言ってしまおう。
 文末の述語、つまり動詞の終止形が現在形(「たべ-る」)をとる場合、事象に対
する語り手の認識点は主観的な位置を、過去形(「たべ-た」)では客観的な位置をとる。
そのため、読者は主語(人称)が記述されていなくとも、時制によって一視点や三視
点的な印象を受けとる。視点の距離感を生みだしているのは 「わたし」 や「太郎」
よりも、動詞の語形なのである。

 このあと、時制に関するこざかしい文法の解説を書く予定だったのだが、書いている
途中で不毛だと感じて止めた。例証を含めて説明すると甚だしい分量になってしまう。

135: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:12:39
 もう少し具体的な話をしよう。
 『夢みる少年の昼と夜』 の文末は、全体として現在形の割合が多い。太郎の視点
では 「ダ」 が多用されているが、これは語り手の意思を示す 「ね」 や 「よ」
といった終助詞と同じような作用があり、時制的な意味は少ない。この 「ダ」 の
おかげで語り手の人格的な押し出しが強くなり、対比して三視点の語りが 「引いて」
みえる。だが、太郎の述部を消して三視点だけをみれば、この視点はけっして引いて
いるわけではない。現在形は語られるものに対して 「寄る」 視点である。また過去形
よりもより人格的である。一視点的な性格が強まるというのはそのためだ。
 この三視点の語り手はつねに太郎のそばにいて、ごく近い外部として視点を共有して
いる。語り口や字面の相違から、最初、二つの視点は水と油のような対立関係をなして
いるように見えてしまうが、そうではなかった。いわばそれは水(三視点)と魚(一視点)
の関係である。水のなかに魚はあり、魚のなかにも水はある。昼と夜、夢と現実、その
境界はどこまでも曖昧なのである。

136: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:15:04
 『ボヴァリー夫人』は云うにおよばず、過去形文が醸し出す醒めた、事実
だけをそこに投げ出すようなニュアンスは、三視点の語り手をあたかも語られる
その世界から超越しているかのようにみせかける。映画を観ているとき、私たち
はそのスクリーンに切り出された景色が、カメラマンという語り手の主観によって
「構築」 されていることを忘れ、まるで自分がスクリーンにであり、超越者で
あるかのような錯覚を起こす。
 ときに人はこの視点を〝神〟と形容する。神と聞くと不埒にもこれを引きずりおろ
さずにはいられない現代精神は、「わたし」で試みたのと同じ自己言及的な手法で
脱構築を目論んだりもするのだが結局は徒労に終わる。私たちの眼界が自らの外に
出られないように 「語り」 も 「語り」 の外へは出られないからだ。
 アニメーション映画の 『千年女優』 はヴィジュアル的にこの問題をよくわからせて
くれる隠れた名作である。それはある種の循環論であり、決定不可能性などといわれる
ものだが、これ以上やると話がややこしくなる。

 とりあえず、小説はフィクションの内部でしか語れないのだから、「語りえないもの
については沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言を素直に聞いておく
ことにしよう。

137: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:17:32
 04年9月に亡くなった水上勉は、『螢川』 の解説でこう書いている。
 「作者はこの幻世界へ読者をいざなっておいて冷たく筆をおく。」
 実際的に見れば、このいざなう者とは、三視点の語り手にほかならない。
そしてこの冷たさは、過去形文末に畳みかけられた視点の冷ややかさではないか。
もし、これが逆に現在形であったなら、文意は同じでも、この小説にただよう
静謐さは失われるだろう。水上勉も、きっと 「冷たく」 感じることもそれに
類する印象も、持てなかったはずである。

 共通日本語の文末は、「-る」 や 「-た」 で終わることが多く、どうしても単調
にならざるを得ない。体言止や倒置法、黙説的三点リーダ、助詞で止めたりと、いろ
いろ工夫しても、そう連続で使えるものでもない。
 書きなれてくると文末の単調さが気になって、しばらく 「-た」 が続いたからここ
らへんで 「-る」 を混ぜてみるか、といった程度の意識はおそらくだれでも持つだろう。
ここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、時制を単なる時の規則ではなく、もっと
空間的な視点の距離感を生みだすための表現なんだと理解し、また活用してもらいたい。

138: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:19:41
 文法的な説明をはしょったので、一般的に時制と目されている動詞の語形が、
一律に時制の働きをするわけではないということは書きませんでした。例えば
「友達が"きた"」は過去ではなく動作の完了(形)を示し、「友達が"くる"」は
未来を示しています。断定の動詞は、種類や文脈によって時制的な働きが変化
します。また、動詞の連体形は文末の時制に支配されるのですが、そんなこと
どうでもいいですね。
 安定した時制の働きをするのは、断定形よりも、「-している(た)」という
持続相(継続相)と呼ばれる語形なんですが、ま、あまり正確さを気にすると
ノイローゼになるので、アバウトに文末の語形を変えてみて自分なりにニュアンス
の変化を確かめるのがいいでしょう。

139: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 12:23:26
〔前スレ437さんの書き込み〕
お疲れさまです。
いつも楽しみにしています。

ケチをつけるわけではありませんが、
「一視点」、「三視点」よりも、
今は「単一視点」、「多元視点」の方が多く用いられているのではないでしょうか。
「一視点」を含んだ、第三者的な(客観性を装った)語り手の視点がイメージしやすい、
という意味で「三視点」よりも「多元視点」の方が適切ではないでしょうか。
まあ、用語はいろいろ変化していきますので、「三視点」で悪いというわけではありませんが。
             *
             *
 私の不勉強がたたってか、単一とか一元とか多元という用語はいまだあまり、
というかほとんど目にしません。私の私淑する渡部直己はよく使うんですけど(笑
 でも一元とか多元て、ちょっとわかりにくいと思うんです。
なんとなく、気分で一人称とか三人称の形式をとっている限り、視点を制御し書き方
を整えるという意識は育たないでしょう。それこそノリで書くやり方です。この形式
をとったらなにが可能であり、どんな点が不都合になるのか、そこを知らないと一元も
多元もないわけですから。ここに書いたのはその形式の基本的なところです。
 それに、やはり読者は小説を読むとき、人称を目印にしているのです。人称形式に
よって読まれ方が決定されると言ってもいいでしょう。もちろん、視点というものを
突き詰めれば、それはただひとつのもの、作者の恣意にいきつくわけで、基本的に視点
は単一であるという考えになると思います。その意味で、三人称視点は小説上のレト
リックだというところをもっと指摘せねばならないかもしれません。メタフィクション
的な入れ子構造が文学的な試みとなるのも、そうした視点の原理があるからですが、
当然これはいかなる人称を用いているかにも関係するところです。
 なんか頭痛くなりますね。

140: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:14:03
        ─ 視点移動・虚構のカメラマン ─

 小説中の視点操作を、映画のカメラワークになぞらえることはよくあることだと
思う。では、それがそのまま映画と同等、同質の効果を読者にもたらすのかといえば、
赤べこ(知ってる?)のようににわけもなくウンウンと首肯してしまうわけにもいかない。
小説は、映画のようにワンショットで対象を明示することはできないし、逆に映画は、
あまりにすべてが露わに見えすぎてディテールの誤魔化しがきかない。
 現実を取り囲むさまざまな 「目」 が、人の意識(心理)のなかで機能している限り、
ありのままの現実を映すテクストは存在しない。書き手は、客体化した言葉のなかで
リアリティを装うだけだ。主体を持たぬカメラは、その意味で客観的であるといえる
が、映像の価値判断を下すのは結局人間である。
 原理的相違はあるにしても、両者の表現コードはまるきりかけ離れているわけでもな
いから、作家は映画を小説のように読むことができるだろう。当然そこにあるもろもろ
の技術に、作家はインスパイアされていい。
 なぜ面白いのか? この問いかけがあれば、道は明るい。

141: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:14:44
        『ボヴァリー夫人』 上巻37p

 菓子屋は万事念入りにやった。デザートにはみずから菓子の造りものを運んできて
一同をあっといわせた。まず一番下には、青いボール箱の四角なのが殿堂をかたどり、
廻廊もあれば列柱もあり、まわりには漆喰製の小さな像が立ちならび、それぞれ金紙
の星をちりばめた龕(がん)の中におさまっていた。ついで第二段にはスポンジ・ケーキ
の櫓(やぐら)が立ち、まわりには、鎧草の砂糖漬やアーモンドやほしぶどうでこしら
えた小さな砦をめぐらしてある。最後に、一番上の平屋根は緑の原で、そこには岩山が
あり、またジャムの湖水に榛(はしばみ)の実の殻で造った舟が浮かんでいた。野原には
小さな天使がチョコレートのブランコに乗っているのが見え、ブランコの二本の柱の先
には、珠にかたどった本物のばらのつぼみが二つついていた。


142: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:15:58
 その場にありながら、書き記され、読み進むことでしか明示されない対象。描写を
単なるリアリズムのためのテクスチャーと考えていては、例に見るような描法を駆使
する発想は出てこないだろう。これは、シャルルとエンマの結婚の祝宴に出された
デザート(ケーキ)を描写している。一同をあっといわせるくらいだから、けっこうな
大きさだろう。だがフローベールは、それを安直に説明したりはしない。

 視点はケーキを細密に写しながら、下から上へと移動していく。この視点の、下から
上へと向かう描写の長さが、そのままこの菓子の威容を示してもい、古来、価値ある偉大
なものは上昇のなかにその姿を現す。
 描写は、物理的に視点(カメラ)を対象に接近させることだとイメージすれば、その
機能が見えやすいかと思う。ケーキの周りにいる人物たちは、必然的にフレームから
除外される。よって読者は、その描写の外でなにが起きているかを知りえない。この原理
を利用すると、視点にいろいろなサスペンスを導入できるだろう。また、描写=遅延とい
う時間軸の働きも頭に入れておこう。

143: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:16:28
 ちなみに、もしこれがケーキなんぞでなく、なまめかしい女体であったりすると、
これはまた意味が違ってくるわけで、あの 「なめる」 ような、いやらしくセクシャル
な視点になるのだが、どうも男はフェティシズムが働くせいか視点が特定の体部に吸
いついてしまったりもして(フローベールは足フェチらしい)、それはそれでまた
エロティックかも? という下卑た話はさておいて、この視点、まだ一方向の視点だ
からやさしい。書き方そのものがひとつの表現体になるところまで企図できれば、なか
なかの玄人はだしといえよう。
 次はもう少し動きのある例を示そう。

144: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:17:04
    『ボヴァリー夫人』 上巻8p

 それは楕円形で、鯨骨を張り、先ず一番下には輪形の丸縁が三つ重なっている。次
にビロードの菱模様と兎の毛の菱模様とが、赤線に仕切られて互いちがいになり、そ
の上には袋のようなものがあり、その上に多角形の厚紙をおき、これには込み入った
飾り紐で一面にぬい取りをほどこし、そこから金糸の小さい飾りを房にして、むやみ
と細長い紐の先にぶら下げてあった。帽子は新しく、庇(ひさし)は光っていた。
 「起立」 と先生がいった。
 彼は起立した。帽子が落ちる。組じゅうが笑い出した。
 かがんで拾おうとすると、隣りの生徒がひじで帽子を突き落とした。彼はもう一度
拾いあげた。


145: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:29:00
 作品冒頭、シャルルというキャラクターをまさに決定づける場面。あえてそれを一口
で言い表すなら、「まぬけ」 である。
 学ぶところは、描写と説明の緩急を視点の運びと連動させる構造である。シャルル
の膝の上に乗っている帽子は、同じく下から上へ向かって描写される。この接近─上
昇は、ふいに 「起立」 という声で急転する。説明=加速の時間軸をまた思いだして
ほしい。そして、拾う(上)落ちる(下)拾う(上) の、コントじみた動きがクラス
メートの嘲笑を誘うのはもちろん、先生にもあなどられ 「余は笑い者なり」と、二十
ぺん書かされる罰を与えられてしまう。
 なぜ彼はこれほど貶められるのか。やるせないもうひとつの悲劇がここにあるのだが、
それはシャルル最期の台詞にある、小説(ロマン)という 「運命の罪」 にほかならない。
小説のために、彼はレオンでもロドルフでもあってはならない。他でもないシャルルで
あること。このシーンに、すべては決している。

146: ◆YgQRHAJqRA
05/10/10 16:56:56
 世に横長テレビはいたるところで目にするものの、縦長テレビにはとんとお目にか
かったことがない。それは、人の目が横に二つ並んでついているからという、しょーも
なくあたり前な理由にある。
 生物学的にどうこうはともかく、人は水平方向よりも垂直方向に対して強く惹かれたり、
恐れたりといった動的心理を持ちやすい。遊園地の絶叫マシンはもとより、映画のアク
ションシーンなども、やはりこの上下動でスリルや躍動感を演出している。日常を突破する
力を、人はそこに見るのだろうか。
 紙の上に固定された文字に、同じ効果を期待するのは酷であるかもしれないが、イマジ
ネーションを具象化するためにこうした視点と描写、説明のテクニックは無駄でない。
少なくとも、ホームビデオで運動会を撮るようなのどかさ、だらしなさとは違う、緊張感と
立体性をテクストに織り込むことができるはずだ。 


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch