05/10/08 18:01:30
スレリンク(bun板)l50
>>373(遅レス御免)
小君はたしかに青臭いかもしれないが、着眼点は良い。
資本主義の価値体系に自分を順応させることは、富という客観的幸福値によって
他者と繋がるためのものだ。
しかし問題は、幸福とは客観では無く、主観だということだ。けれども、自分の主観による
理想像を誰かに強要するなら、関係は維持できない。そこで富を求める。金は「様々な
ものやサービスと引き替えることができる権利」だ。個人個人が幸福と思うものは違っても
誰もが幸福でありたいのだし、普遍的な価値である富であれば、その利害関係で個人と
個人とが折り合うことができる。
であるから、自分が何を幸福と思うかさえ、判らなくなって、「金儲けのために金を儲ける」
というような泥沼にはまりこんでいる人は幸福を見失っているように思う。
「また金が増えた。これでもっとほしいものが手に入るようになった」と金が増えることを
悦びながら、結局死ぬまでなんにも欲しい物を手にしないまま死ぬ人だって珍しく無い。
こういう人は人生を見失っている。
ある人は、他人から見たらわけのわからないツボを買って幸せそうにしていて、世間の人は
不幸な奴だとバカにしても、その人当人は本当に欲しい物が手に入って幸せでいっぱいなのかもしれない。
ある人は、貧乏で、安い部屋に住んで、安物の服を着て、スーパーの値引き商品ばかり食べて
世間の人は貧乏であわれだねと笑っても、大好きな可愛い子供と一緒に「おいしいね」と言って
楽しく笑いながら食べるコロッケの味に、至福の喜びを感じているのかもしれない。
人と人とが折り合うために経済的価値基準というものは重要な意味があるけれども
それに飲み込まれてしまって、自分は何にほんとうの喜びを感じるのかを見失ってしまっては、生きる意味が無いように思う。
幸福は客観じゃ無い。主観だ。
人は、何が自分の幸福であるかを忘れないようにしなけばいけない。