07/10/18 22:26:14
愉快犯ではありませんよ。
こういう場なので、煩雑な比較論は致しませんが、上記は私の確信です。
例えば、歴史文学というものは、クラシック音楽における同曲異演の愉しみがあります。
それぞれの指揮者ならぬ作家による人物や事物に対する解釈の違いを知り、
その文章の奏で方からも味わうということです。
さしずめ司馬はフルトヴェングラー、大胆な解釈で時に楽譜からは逸脱があっても
その本質を浮かび上がらせることにかけては、他に追随を許さない。
人は大事件を体験したからといって、重大な学びを得られるとは限りません。
文学が人の成長を促すというのは、優れた解釈を知ることによって
人が体験以上のものを得られるということです。
この点において司馬のそれは絶妙で、事実誤認如何が作品性を損なうほどのもの
とは思えません。