07/10/29 00:51:58 wPe+ZMtF
「ジャックの贈り物」byジル
彼女は、とても不幸せだった。もし彼女が、私は不幸だと言えば、ほとんどの者が頷くだろう。
彼女より幸せな者たちは、そういう彼女を哀れんで、己の幸せをかみ締め、そして彼女と同じ境遇の女たちは、自分も不幸だと思っているから、彼女が幸せであるとは認め
ない。
そんな彼女にも、この数週間、すこしだけ幸せが訪れていた。
―あ、すいません。大丈夫ですか?
「仕事」に向かう途中、細い路地から通りに出たとき、出会い頭にぶつかった一人の男。
夫という名の寄生虫に殴られた顔をぱさぱさのとおもろこし色の髪で隠しながら、彼女は首を振る。そして、あわてて飛び散らかった化粧道具や煙草を拾い集める。
ちびたリップに伸ばした手が、暖かい男のそれと触れた。
―あ
―本当にごめん。
―大丈夫ですから。
男の、謝意を絶妙に混ぜ込んだ微笑を間近に見て、あわてて手を引く。十月もなかば、肌寒い空を恨めしく思っていたことも忘れ、早い日暮れに感謝する。
夫とは、いや、自分たちとは明らかに別の世界に住む男。身だしなみを清潔に整えて、微笑んだ口元には白い歯が光る。こんな人に、殴られた痣なんか見られたくない。
大急ぎで小物を拾い集め、口を開けっ放しにしていたまがい物のコーチのバッグに放り込み、そそくさとその場を立ち去った。
まるで少女マンガのような出会いが、まさか自分のような人間に訪れるはずがない。それでもそんなことをちらりと思う自分に、すこしほほを染めながら。
だけど、それで終わりではなかった。
彼女は、毎日同じ時間に古いアパートを出る。男も、同じ時間に帰途につくのだろうか。あの日ぶつかったあの曲がり角で、二人は毎日顔を合わせるようになった。
いつもうつむいて歩く彼女に気がつくのはいつも男のほう。決してどこかに寄るわけでもなく、長話をするわけでもない。ほんの二言三言を交わすだけ。ただそれだけを、
彼女は何時しか楽しみに思うようになっていた。
彼がどんな仕事をし、どんな生活を送っているのか、彼女にはわからない。それでもよかった。彼は、彼女のヘドロのような毎日におとずれた、ほんの小さな灯火。それで
よかった。
だけど。
―どうしたんだ、その傷は?
彼のクツを視界に納めたその瞬間走り出した彼女の手を、彼の形のいい手が掴み取る。
―なんでもないの。お願い。離して。
誰から聞いたのか、それとも自分の目で見たのか。昨夜遅く、いや、今日の明け方、仕事を終えて帰った彼女を待ち受けていたのは、夫の詰問と、いつもよりも酷い折檻だ
った。
(あの男はなんだ)(いつからだ)(金にならねぇ男となにいちゃついてやがる)(お前は俺に金を持ってくることだけを考えてろ)
もう、自分はここから抜け出せない。夫に何もかも吸い尽くされ、クスリでぼろぼろになった身体で、それでも地虫のように生きるしかない。
男とのわずかなふれあいに見た明るい世界は、しょせん儚い夢に過ぎない。
―もうすぐハロウィンだな。知ってるかい?ジャック・オ・ランタン。
そんな彼女の思いを知ってか、男は彼女にそう聞く。
―知ってる。かぼちゃのお化け。
―ジャック・オ・ランタン。別名、ウィル・オ・ウィスプ。卑劣な悪人ウィルの魂が、地獄の門さえもくぐらせてもらえずに、地獄の種火だけを携えてさ迷っていると言われている。
彼女の戸惑いを置き去りにして、男は話を続ける。
―君を悲しませる男は、ウィルのように報いを受けるさ。天国の門をくぐるべき君とは違う。
―あなたは、クリスチャンなの?
―敬虔な信者ってわけではないけどね。ハロウィンの夜を楽しみにしててくれ。きっと、小さな贈り物が君へと届く。
(to be continued)