「~あづまやで雨宿り~ in文学板」at BOOK
「~あづまやで雨宿り~ in文学板」 - 暇つぶし2ch2:吾輩は名無しである
09/01/19 12:38:09
客人の方々へ

雨が上がったら自由に退出するもよし、あるいは、長話しするもよし。
「袖振り合うも多生の縁」ともいいます
どうぞごゆるりとお過ごしください

3:吾輩は名無しである
09/01/19 12:45:44
雨の名前について、、、

「天津水」、「猫毛雨」、「雨夜の月」「卯の花腐し」、「白雨」、
「青葉雨」「翠雨」「青葉時雨」。
「天泣」「小糠雨」「銀箭」「送り梅雨」「戻り梅雨」
「男梅雨/女梅雨」

雨についてこんなに表現に種類がある国もめずらしいかもしれません。
日本は水の国ですね。

4:吾輩は名無しである
09/01/19 14:43:56
日本は雨の多い国です。

台風を除いて、日本人は雨に対して風情を感じている印象を受けます。
雨の日の休日、夜更けの雨などは、しなやかに降る雨音を聴きながら
読書に耽るのにもってこいです。

5:吾輩は名無しである
09/01/19 14:44:21
日本では「雨」は情緒があり、侘び、寂びに通じるものがありますが、
欧米では激しい熱をもった生きもののように扱われるのかもしれません。

例えば有名なモームの「雨」。
熱帯雨林に振るすさまじいまでの豪雨は、人のこころの奥深くに眠っていた本能、
隠していた欲望を呼び覚ますのです。

6:吾輩は名無しである
09/01/19 14:47:22
とある南の島に連日のように降り続く雨。
聖職者である宣教師は娼婦を回心させようとこころを砕きます。
娼婦は宣教師の徳のある態度と言葉に打たれて、回心へ導かれるかと
思う矢先、彼は肉の欲望に負けて娼婦と関係してしまうのです。。。

激しい熱帯雨は宣教師の理性をいとも簡単に砕いたのでした。
大自然の脅威の前では、人間の理性など一瞬のうちに吹き飛んでしまう…

7:吾輩は名無しである
09/01/19 14:59:25
金田一春彦さんの「ことばの歳時記」の中で...

”新国劇の芝居で見ると,月形半平太が,三条の宿を出るとき,
「春雨じゃ,濡れて参ろう」
と言うが,今思うと,彼は春雨が風流だからぬれて行こうと
言ったのではなく,横から降りこんでくる霧雨のような雨では
しょせん傘をさしてもムダだから,傘なしで行こうと言ったものらしい.”

URLリンク(www.mech.tohoku-gakuin.ac.jp)

8:吾輩は名無しである
09/01/19 15:13:51
大江健三郎の「雨の木を聴く女たち」をかつて読んだことがあります。
「雨の木」と呼ばれる木は、細かい葉の先まで雨をびっしり含み、
雨が上がってからもしばらくの間、その枝先から雨の雫を
雨のように降らせるそうです。
URLリンク(blogs.dion.ne.jp)

う~ん、この「雨の木」ってネムの木らしいですが、
細かくてびっしり生い茂った葉はアカシアをほうふつさせますね。
クロード・シモンの「アカシア」は好きな本の一冊です。

9:吾輩は名無しである
09/01/19 15:58:41

新古今和歌集より「春の雨」を詠んだ歌


「春雨の降りそめしよりあをやぎの 絲のみどりぞ色まさりける」
―凡河内躬恆

「春雨の降りしくころは靑柳の いと亂れつつ人ぞこひしき」
―後朱雀院御歌

10:吾輩は名無しである
09/01/19 16:16:41
うろ覚えですが、宮本輝のエッセィにこんなものがありました。

学生時代、テニスサークルに入っていた氏は、雨が降るとグラウンドでの
練習が中止になり、たいていはサークル仲間と喫茶店に入った。
すると、普段は目にもとめないような女子学生が雨の日だけは
不思議に目が行く。
それは彼女が醸し出している雰囲気が、不思議と雨とよく調和している
からであろう。
雨が上がり、再びグラウンドで練習が始まると彼女は以前のように
まったく目立たないその他大勢のひとりとなって埋もれてしまうのだった…

概ね、こんなことが書いてありました。
その女子学生はことさら「雨が似合う人」だったのでしょう…

11:吾輩は名無しである
09/01/19 19:28:34
ふうっ…

何とか10レス

「源氏物語」の雨夜の品定めはあまりにも有名
少しして源氏は夕顔と出逢います
薄幸の夕顔はなよやかであえかで好きな姫君です


上田秋成の「雨月物語」はホラーの真髄…
めちゃくちゃ怖いです

12:吾輩は名無しである
09/01/19 19:33:17
コレットの「青い麦」は昔読みましたが
「シェリ」は未読です

ラストシーンが印象的らしいですね
青年が雨のなか、娼婦であるシェリを追いかけていく…
読んでみたくなります

13:吾輩は名無しである
09/01/19 19:37:36
文学馬鹿ってキンモー!

根暗でいつも本読んでるやつがクラスにいるんだけど
そいが読んでた本の作家と同じ作品の人間失格読んだことあったから(授業でだけどw)
それ面白いねって言ったら
「じゃあ次は斜陽を読んでみなよっ」っていったの
でとりあえず読み始めてあげたんだけどこれが本当に詰まんないの
でそいつにもあれ詰まんなかったから途中までしか読めなかったっていったのよ
そしたら顔真っ赤にして
「どこがどう詰まんないんだ!それも説明できない癖に文学のぶの字も分からんようなやつがえらそうな口聞くな!」
とか言ってきたんだけそいつ(゚A゚;)

ここの掲示板見てる人も皆そんなキモイやつばっかりなのぉ?

14:吾輩は名無しである
09/01/19 21:14:17
率直な意見アリガト

カナシス(´・ω・`)…

15:吾輩は名無しである
09/01/19 21:34:48
>>13
他にどんな本の話ししたの?
その人、太宰が好きなんだろね

まあさ、作家の好き嫌いは仕方ないよね

16: ◆wWwwWwWwWw
09/01/20 18:28:22
旅行で行ったホーチミン市で一度だけスコールに出会ったことがある。
一瞬の躊躇で、もうびしょぬれ。
大量に走っていたはずのカブやシクロもこの時ばかりはどこかへ雨宿りするのか、
一挙に交通量が減った道路はクラクションの代わりに雨音で埋め尽くされ、
雨と水煙で風景の色が淡いモノクロームへと変化する。
人々はただ黙してそれを見続ける。

程なく雨はあがり、再び街は喧騒に包まれていく。

雨は、けっこう好きだね。


17: ◆KshbumBTZI
09/01/22 17:46:54
>>16
ようこそ、あづまやへ!

>雨と水煙で風景の色が淡いモノクロームへと変化する。
>人々はただ黙してそれを見続ける。
絵になりそうな光景ですね!
写真展は見にいけなかったけれども、森山大道あたりがモノクロで撮ったら
大変趣のある写真が撮れそう…

わたしも雨は大好きです。

18: ◆SrzpdufPJY
09/01/22 18:31:48
>>17です

トリップ改めました

「五月雨を集めて早し最上川」
芭蕉のように漂泊の旅に出てみたい
リュックには文庫本を数冊と、いつ雨に降られてもいいように
リュックのポケットにはフード付きのナイロンパーカーをくるくると
丸めて入れて

ホーチミンか…
いきなりのスコールでは広めの草の葉でも
傘代わりにはならないでしょうね

19: ◆SrzpdufPJY
09/01/26 19:58:58
武満徹は「雨の樹素描」という曲を作っていますね
この曲は大江健三郎の「賢い雨の木」に感銘を受けて
作られたそうです

20: ◆SrzpdufPJY
09/01/28 00:12:23
二月の雪
三月の風
四月の雨が
美しき五月をつくる

今は一月…
一月は何だろ?
一月は、星空かな
冴え冴えとした冬の星座は凍てつく夜にこそ
ひときわ美しい


四月の雨はスプリング・シャワーというらしいです
春雨という響きもいいですね

21: ◆SrzpdufPJY
09/01/29 20:39:54
今にも降り出しそうな空模様
今夜の雨は、身を知る雨(=涙雨)

わたしの想いのような……

22:22
09/02/01 02:09:21
こっちもあるのか(笑
このところ東京も雨が多いね。
雨の描写が印象的な小説は・・・
ちょっと考えておこう。

23: ◆SrzpdufPJY
09/02/01 21:22:01
>>22
ようこそ、あづまやへ♪

>雨の描写が印象的な小説は・・・
>ちょっと考えておこう。
小説は特に雨の描写がなくても構いませんよ~
好きなことを思いのままに綴ってくださいな。

そういえば、何年か前に堀江敏幸さんがフランスの新人文学賞を
受賞した方の作品について批評されていましたが、
「雨の匂いのする小説」と述べておいででした。
受賞者は確か若い人ではなく、年配の人でした。
作風はクロード・シモンに似ているそうです。
題名がわからないので残念。。。
わかったとしても邦訳されているのかどうかも、、、

ぜひとも、読んでみたいなあ……
あ、ちなみに堀江さんのC・シモンに対する作品の印象は
「干し草の匂いのする小説」とのことでした。
同意ですね♪

24: ◆SrzpdufPJY
09/02/03 17:19:51
堀江敏幸さんの「めぐらし屋」読了。
主人公は女性。
母と別れた父が亡くなり、遺品を整理していくうちに父の生前がしていた
「めぐらし屋」という仕事に少しずつ興味を持っていくというお話。

話は亡き父がていねいに綴じてしまっておいてくれた一枚の絵から始まります。
蕗子さんが小学校の頃に描いた絵を父はていねいに綴じておいてくれたのです。
ぱっと目に飛び込んだのは、黄色い傘の絵。
そこからいろいろな記憶が押し寄せ、蘇り、蕗子さんとわたしたちは
こころの旅路を辿るのです。

このスレにちなんだわけではないのですが、いきなり冒頭から雨降りの場面。
主人公である蕗子さんが小学校の頃、下校時に雨が降り、先生が寄贈の黄色い
置き傘を生徒たちに貸すのです。
学校の置き傘の色は黄色、つくりはしっかりしているものの、
柄はワンタッチのジャンプ傘ではなく、撥水効果もあまりなく、とにかくやたら重い……。
蕗子さんは入学と同時に赤い色の軽いジャンプ傘を買ってもらっていたのですが、
この置き傘の古めかしくも堂々たる風格に一遍で虜になります。

25: ◆SrzpdufPJY
09/02/03 17:20:58
以来、蕗子さんは放課後の雨がそれはそれは待ち遠しかったのでした。
先生から黄色い傘を貸してもらえるから。

「めぐらし屋」とは、ありていにいえば斡旋業のこと。
蕗子さんの父親はわけありの人に儲けを度外視して農家の離れなどを
斡旋していたのでした。
また、未完のままの百科事典を借金をしてまで買取り、一軒一軒訪問販売
するという、これまた労多く益少ない骨の折れるような仕事を黙々と
していました。

蕗子さんが父の「めぐらし屋」を承継しようとするラストは、何ともいえない
ほのかな余韻を残します……。

26: ◆SrzpdufPJY
09/02/03 17:21:42
堀江さんの作品を読むたびに思うことがあります。
「モノ」に対するこだわりがとても強いのです。
堀江さんも自身のエッセィで語っておいでですが、蚤の市が大好きで
行くたびに、掘り出し物を見つけると何かしら買ってしまわれるそうです。
それが役に立つとか、そういうことはまったく度外視とのこと。

この「めぐらし屋」でもそれは顕著に現れています。
例えば、柄の長い傘のストッパー部分をあえて「とびだし」と表現しています。
最初「とびだし」の意味がわからず「?」と思いながら読んだのですが
読み進めていくうちにようやくわかりました。

27: ◆SrzpdufPJY
09/02/03 17:22:27
堀江敏幸さんの作品を雨に喩えるならば、遠慮がちに肩を濡らす
やさしい春の雨でしょうか。
穏やかで、慎み深い。。。
去年の夏に美施術展で観たカミーユ・コローの絵のような印象を受けます。
決して自己主張しすぎない、含羞のまなざしを感じます。
コローの風景画は全体に靄がかかったような、小糠雨でぼうっと煙った
水彩画を思わせる色彩。(実物は油彩です)

立春を目前にして、こんなやさしい春の雨の匂いのする作品に出逢えたことは
まことにうれしいことでありました。

ちなみに「蕗子」さんが黄色い傘を差している挿絵を選ぶとすれば
ちひろの絵が似合うなあ、と思いました。

URLリンク(www.geocities.co.jp)

28: ◆SrzpdufPJY
09/02/03 20:20:06
すみません、訂正です…

×「とびだし」
○「はじき」

29: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 17:17:34
「灰色の輝ける贈り物」アリステア・マクラウド
読了です。

8編の短編のうち7編に共通しているテーマは「死」。
表題の「灰色の輝ける贈り物」のみ、ほのぼのとした余韻が残ります。

無学だけれども実直な両親と、そのふたりから生まれた優秀な息子。
「僕」はある日、両親へのささやかな反抗を試みて学校から家にまっすぐ向かわずに
繁華街にある,ビリヤードの店へと繰り出します。
その店で賭け、かなり儲けます。
両親は夜更け方、玄関の前で彼の帰りをひたすら待ちわびています。
明け方、「僕」は儲かったお金をふところにして家に帰って報告します。
「こんなに儲かったんだよ」と。
母親は「その人からお前が取った分を返しておいで」と諭します。
「僕」は納得がいかないまま、負けた人の家に行きお金を返そうとします。
負けた相手の男はいったんお金を受け取り、そして再び彼のポケットに
戻すのです。
「お前は親のいいつけ通りちゃんと私に戻した。それは神様だってご存知さ」と。

30: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 17:18:04
「僕」の実直な両親、ビリヤードで負けた男の粋なはからい、ここでは人間の
善意が少しも捻じ曲げられることなく描かれています。
勉強のよくできる優秀な「僕」は、両親が初めて学校に見学に訪れたとき、
無学で無知な彼らの発する語彙力の貧しさを恥ずかしいと思っていたのです。
実際賭け事で儲けた「僕」は自分の頭脳の優秀さに自信があったでしょう。
けれども、両親は他人の懐から奪ったお金はお前のものではないのだよ、と
明言します。

素朴な両親と、賢い(?)「僕」。
つつましく生きている人間の善意を、作者はあたたかなまなざしで描きます。

残りの7編に共通しているテーマは「死」。
それも寿命をまっとうした穏やかな死ではなく、ほとんどが不慮の事故死。
馬から落ちて芝刈り機の刃の上に転落した息子、
土砂崩れで遺体がばらばらになって死んだ炭鉱夫である息子、
冬の夜、凍った崖から足を滑らせ雪原に真っ赤な鮮血を飛び散らせて死んだ夫、
漁船から転落し、何日も海中で漂流し、発見されたときは足をサメに食われ、
目玉はカモメに突かれくり貫かれていた漁師の夫。。。
こうしたむごたらしい死に様をマクラウドは淡々と描くのです……。

31: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 17:18:42
凍った崖から足を滑らせ雪原に真っ赤な鮮血を飛び散らせて死んだ夫の妻は
夫の死を知らされたとき7人の子持ちで、お腹には8人目を身篭って
いました。
「人生とは思い通りにはいかないものだ」
夫の死を知ったとき自分にそう言い聞かせるのです。
気丈な彼女は子供の誰ひとりも施設に預けることなく、自分の手で育てあげました。
子供たちは成長し、ひとり、またひとりと街へ出て行き結婚し、異国に住んでいます。
一人暮らしの彼女の身を案じた村人たちが老人ホームを紹介したり、
異国暮らしの子供たちが同居を呼びかけるのですが、頑として受けつけません。
彼女は子供たちのうちの孫のひとりと暮らすことを望むのですが、
その孫の青年は26歳という若さで余命数ヶ月と医師に宣告されているのです。

マクラウドは「死」を決して美化して描きません。
いつだって「死」は唐突で理不尽なものであり、残酷なものとして描ききるのです。
そこに描かれる「死」は、他の作家たちがよく描くような「慟哭」や「絶望」、
そして「受容」、「諦念」、カタルシスといったものとはまったく無縁です。

32: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 17:19:16
最初にこの7つの短編を読んだとき、何と救いのない物語なのだろう……、
と重々しい気分に襲われました。
胸にずっしりと重い重石を乗せられたような、そんな気分でした。
けれども、読後は意外と不快ではないのです。
重いことは重いのですが、描かれた死が、無名の人間のありふれた死で
あればあるほど、やりきれなさと同時に残されたものたちの「生」が問われるのです。
数人いる子供たちのうちの何人かを亡くした母親は気丈に生き、
残された弟妹たちもそれぞれの伴侶を得て異国で暮らしています。

「人生とは思い通りにはいかないものだ」
普遍的なテーマであり、真理でもあるこの言葉は、死が淡々と描かれているからこそ
読むものにずっしりとした重みを持って迫り、深い余韻を残すのです。

余談ですが、巷間よく聞く問いかけに下記のようなものがあります。
「人はなぜ本を読むのか? 文学には何か意味や価値があるのか?」

「人生とは思い通りにはいかないものだ」
人はこうした思いを人生の途上で幾度も体験します。
では、どうしたらいいのか? 答えはあるのか?

33: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 17:19:49
最初にこの7つの短編を読んだとき、何と救いのない物語なのだろう……、
と重々しい気分に襲われました。
胸にずっしりと重い重石を乗せられたような、そんな気分でした。
けれども、読後は意外と不快ではないのです。
重いことは重いのですが、描かれた死が、無名の人間のありふれた死で
あればあるほど、やりきれなさと同時に残されたものたちの「生」が問われるのです。
数人いる子供たちのうちの何人かを亡くした母親は気丈に生き、
残された弟妹たちもそれぞれの伴侶を得て異国で暮らしています。

「人生とは思い通りにはいかないものだ」
普遍的なテーマであり、真理でもあるこの言葉は、死が淡々と描かれているからこそ
読むものにずっしりとした重みを持って迫り、深い余韻を残すのです。

余談ですが、巷間よく聞く問いかけに下記のようなものがあります。
「人はなぜ本を読むのか? 文学には何か意味や価値があるのか?」

「人生とは思い通りにはいかないものだ」
人はこうした思いを人生の途上で幾度も体験します。
では、どうしたらいいのか? 答えはあるのか?

34: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 19:00:53
すみません
パソコンの調子が悪くて同じ文章を二回上げてしまいました

続きはしばしお待ちを…

35: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 20:08:33
文学に答えはありません。
そこで描かれていることは、読み手とは異なった世界だからです。
けれども、ひとつの死、誰かの哀しみは書き手読み手の境界を越え、
時空を超えて一瞬のうちに共鳴し合うのです。
マクラウドは残された家族の哀しみを延々と描きません。
書き手の感情に溺れず、徹底した俯瞰的なまなざしで静かに筆を進めます。

ちなみにここに収められた短編の中で雨が降る場面は「夏の終わり」だけです。
ひと夏の間ほとんど雨が降らず、ようやく夏が終わりかけた頃、乾いた大地の
叫びが届いたかのような大雨が降ります。
ここで降る雨は天気予報で予め正確に予測された雨ではありません。
そう、雨はいつだって唐突に降り出すのです。
あたかも死が予測不可能で突然訪れるように……。

雨は土砂を崩し人命を奪うものであると同時に、生に欠かせない命の水でも
あるのです。
予測不可能な人生とはまさに、雨水の流れの如し……。

36: ◆SrzpdufPJY
09/02/16 20:10:08
やりきれなさややり場のない怒りを、降る雨に託して歌った中島みゆきさんの
「誰のせいでもない雨が」はマクラウドのこの短編集に流れる一貫したテーマと
同じものを感じさせます。。。

「誰のせいでもない雨が」 中島みゆき
URLリンク(www.youtube.com)

―以下、歌詞抜粋

誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を沈みきれずに燃えている
きのう 滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね 寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人 気にしてないよね
早く 月日 すべての悲しみを癒せ
月日 すべての悲しみを癒せ
早く 月日 すべての悲しみを癒せ
月日 すべての悲しみを癒せ


URLリンク(lyricwiki.org)(Miyuki_Nakajima):%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C


37: ◆SrzpdufPJY
09/03/03 17:16:28
深沢七一郎『盆栽老人とその周辺』読了。

作者こと都会者の「わたし」がとある村で体験した〝奇妙な〝出来事。
その農村は米と野菜を産出するほかに盆栽づくりもしている。
当初「わたし」は盆栽に何の興味も持たなかったのだが、近所の人に
誘われ、その親切を無碍にもできず盆栽を見に行く。
「見に行く」、この行為は実はこの村では「盆栽を購入する意欲のある人」と
見なされていることを知らないままに。
行く先々では見事な盆栽の鉢植えが披露されており、盆栽用の苗木を
畑一面に植えている人もいることに作者は驚く。
盆栽を「預ける」、「預かる」とは、ただ預かるという意味ではなく、買い取ること
であることを「わたし」は徐々に知っていく。
郷に入れば郷に従え、というがここで描かれる農民たちは実にこずるくて
したたかである。
弁が立ち、言いくるめてモノを買わせる商人とは違った論法で商売をする。

38: ◆SrzpdufPJY
09/03/03 17:16:53
とにかく相手に有無を言わさぬのである。
「預けた」盆栽はなかなか引き取りに来ない。
こちらが返しに行っても頑として受け取らない。
彼らの論法は預けた時点で商売が成立したとみなされる。
「わたし」は怒り、あきれるが、仕舞いには彼らに逆らうことを放棄する。

読み終えて、相手を手中に入れる方法はどこか食虫花が獲物を捕らえる
様子に似ているな、ふと思った。
甘い蜜で誘い、敵がまんまと花弁に近づいたが最後、一気になかに
引き入れて絶対に逃さない。
一見純朴、盆栽が好きな農民の裏の顔は、計算高く強欲である。

盆栽の好きな人たちの寄り合い場所として勝手に「わたし」の家が選ばれ、
肝心なことは玄関の戸を閉めた外でぼそっと告げる。
「わたし」が留守でもわたしの家で勝手に寄り合いが開かれる。
まさに「世にも奇妙な物語」の世界である。

39: ◆SrzpdufPJY
09/03/03 17:17:15
ここで描かれる農民たちは相手を根負けさせることに長けている。
それもかなり強引なやり方で。
考えてみると、農民たちは作物の種を撒き収穫するまで実に粘り強く
待たなければならないのである。
その辛抱ができない人間は農民にはなれない。
しかも、作物の出来不出来は天に任せるしかないのである。。。

したたかな農民の商法の感想はこのくらいにしておこう。
ここに出てくる盆栽は松、楓、梅が主流。
盆栽の王道といったところか。
樹木は直植えすると大きくなってしまうのであえてそうしないために
盆栽にするのだそうである。
盆栽にされた樹木の枝々が捩れているのはそのためなのだろう。
つまり、不自然な形、歪みを人工的につくるということだ。
盆栽はあえてそうした「捩れ」という歪みを愛でる趣味なのかもしれない。
(何だか昔の中国の纏足をほうふつさせる。。。)

松林や梅園の土でしっかりと育った太い幹やまっすぐに伸びた枝ではない、
人工的な造形美を観賞する、それが盆栽趣味なのかな……?

40: ◆SrzpdufPJY
09/03/03 17:23:36
そうした盆栽を扱う商農民は、捻じ曲がった盆栽以上にふてぶてしく、
厚顔無恥で鈍感であることが要求されるのだろうか?

ところで、この小説の主人公は「わたし」でもなく、カリスマ的盆栽名人でもない。
題名の示すとおり、まさに「その周辺」の農民たちである。
「わたし」が彼らに少しずつ侵食されていく様子が煙にまかれたようなタッチで、
ときに不気味に描かれている。

同じ言語を話し、言葉が通じているにも拘わらず、言葉の通じない異国に舞い降りた
ような錯覚を覚えた。

島尾敏雄の『勾配のあるラビリンス』は迷宮の町に迷い込んだ話であるが、
ここで描かれる農村もそれに近い印象を受ける。
『勾配のあるラビリンス』は町並みそのものが奇妙で謎めいているのだが、
ここでは人々そのものが謎なのである。
とにかく、今までの常識が通じないのだ。
180度覆されるのだから、、、
これはひとつの怪談として読んでもいいような……。

41: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 12:51:04
「金剛石のレンズ」(フィッツ=ジェイムズ=オブライエン)読了。
この作家は幻想文学において多大な功績を残した作家らしい。
表題の「金剛石のレンズ」は顕微鏡に獲りつかれたひとりの男の
狂気を描いた短編である。
究極の顕微鏡作成のために莫大な遺産を投げ打ち、人を殺す。
そして遂に彼の望むレンズは完成した。
そこで彼が見た世界はこの世のものとは思えない美しい秘境であった。
この地上にある名所と謳われているどんなに風光明媚な場所も
レンズ越しに見る世界には及ばないのだ。

―丘も湖も川もなければ動いている生物も動いていない生物も
見あたらず、輝かしい静寂のなかにオーロラの亡骸めいた叢林が
静謐に浮んでいるばかりで、葉や果実や花を思わせるものが
単なる想像力では思い描けない未知の炎で輝いているのだった―

つづいて、彼はレンズのなかに美しい乙女を見い出した。
彼はこの乙女をアニミュラと名づけた。

42: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 12:51:48
水の精のような完璧な美の象徴であるアニミュラをわたしはレンズ越しに
見るたびにこよなく愛した。
ところが、肝心なアニミュラはわたしが見ていることをまったく知らないのである。
わたしは自分の恋が悲恋に終わることを嘆き、これは現実界の女を
知らないからだとある日バレエを見に行くことを思い立つ。
結果は失望に終わった。
仰々しい腕の上げぶりや媚び、わざとらしいカーテンコールに辟易してしまった
のである。。。
家に帰って顕微鏡を覗くと不在の間にレンズの水滴が蒸発していて
かつてあれほど美しく見えた秘境は今や色彩を失い煙んで見え、
アニミュラは弱々しくもがき萎びて消えてしまった……。
アニミュラを失った心痛は大きく、わたしは廃人になり、周りの人々からは
完全な狂人扱いされている。。。

43: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 12:52:28
現実にはいない少女、幻影のなかでのみ見る異性に恋をする。
見も蓋もない言い方だが、元祖「二次元オタク」の素晴らしき世界である。
人が物語を書くということは、自身の世界に思い切り妄想の翼を
広げることであり、その羽ばたき方が大きければ大きいほど
物語も熱を帯びてくる。
小説は言葉だけで成り立っている世界であるが、その世界を絵や映像で
現わすとまさに百聞は一見にしかず、一瞬で納得してしまう。
しかし、映像は納得させる一方で想像力をも奪ってしまう。
映像が脳裏に固定されてしまうからである。

言葉だけで表現された世界においては、読者は十人いれば十通りの世界を
想像する。
それは読む人の感受性、経験値、年齢、によって多岐にわたるだろう。
そして、その人が想像力の結果、描く世界とはまさしくその人だけの
ものである。

44: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 12:53:00
何万語の言葉を尽くしてもその人が思い描く世界は他者には正確には
決して伝わらない。
その人は自分ではないからである。
ひとつの物語から想起される世界は、読み手だけに与えられた
自由な特権、揺るぎなき比類のない世界である。
小説という言葉の織りなす世界がもたらす醍醐味がここにある。

同じく幻想文学として、言葉に想像力を激しく掻き立てられた作品として
泉鏡花の「高野聖」が挙げられる。
ひとりの修業僧が薄気味悪い暗夜の森を進み行くなかで蛭やら妖怪などの
化け物たちに遭遇する話であるが、妖しいまでに壮絶に美しい。

ほかにいくつかの短編が収録されているが、この作家は霊媒師や交霊術、
幽霊をよく登場させている。
目には見えないが実在する未知なる存在として扱っている。
この作者はオカルトにもかなり興味があったろうと思われる。
(実はわたしもオカルトに少しだけ興味がある……)

45: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 12:53:57
最後に、「墓を愛した少年」。これはわたしが一番好きな作品である。
怪奇幻想でもなく、オカルトでもない、家庭の不和から来る少年の
哀しみと孤独を詩情豊かに描いた作品である。(この辺はケストナーぽい…)
名前のない小さな墓を自分の弟のように愛し、墓の周りに野花を植え、
終日墓に語りかける少年。
今や少年にとってこの小さな墓は無二の親友であり、なくてはならない
大切なものであった。
ある日、墓に眠る子供は高貴な血統者であると判明し、墓は掘り返され無残にも
骨は運び去られてしまう。少年は哀しみのうち、その夜に亡くなってしまう…。

物語そのものは至ってシンプルであるが、移りゆく季節の風景描写や
静謐な墓地と孤独な少年の心情の描写は一級の文芸作品に値する。

自然物の美しい描写はツルゲーネフの「猟人日記」所収の「あいびき」や
散文詩を、また、静謐な墓地の描写は沈黙と夜の闇をこよなく愛した
ブランショの「謎の男トマ」、「至高者」をほうふつとさせる。

「墓を愛した少年」は少年の哀しみを自然描写に乗せて描かれた
非常に美しい作品である。

46: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 15:32:37
「金剛石のレンズ」に出てくる美しい乙女は水の妖精ともいえるだろう。
水の精といえばあまりにも有名なハムレットの悲劇のヒロイン、
オフィーリア。
このヒロインは人気があるらしくさまざまな画家たちが描いている。

URLリンク(monpixy.hp.infoseek.co.jp)


47: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 21:09:49
去年の後半くらいからこころが締めつけられることがあった。
食欲がなくなり、泣いて瞼が腫れる日々がつづいた。
そんな夜、わたしは一冊の本を手元に置き、繰り返し読んだ。
吉本ばななさんの「体は全部知っている」に所収されている
「明るい夕方」という短編である。
この短編集は発売された当時、そのひと月後に図書館で借りて読んだ。
わたしは元来、吉本さんのファンではないし、特に興味があったわけでも
ないのだが、何となく気になっていた本だった。
少女漫画を活字にした、といわれる吉本さんの文章は平易で読みやすく
すぐに読み終えた。
この短編集のなかで特にこころに残ったのが「明るい夕方」であった。
わたしはこの短編のためだけに、後日書店で改めて購入した。


48: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 21:10:22
内容はひとりの女子生徒がいわれのないいじめというか仲間外れに遭い、
放課後ひとりきりで作業を押し付けられ、泣きながら黙々と作業を
しているなか思いがけず友達がきて手伝ってくれた、というものである。
文章にしてしまうと他愛のないものであるが、わたしのこころを惹きつけた
のは以下の描写だった。

「会ったこともない人をそんなにも憎めるなんて、うらやましいほどだった。
(中略)
私は西日がぎらぎらと部屋中に射してくる中、どんどん悲しくなった。
その時、がらっと教室の戸が開いて、彼女が入ってきた。
友達がなぜか来たという喜びよりもむしろ、久しぶりに美しいものを
見たという素直な感動からだった。
皮肉にゆがんでいない口元や、自由にふるまえる人生に対するねたみに
よごれていない人の姿。
さっそうと教室に入ってきた彼女はその時ほんとうに美しかった。
(中略)
もくもくと真っ白い紙にものさしを当てて線を引く彼女の茶色い髪が西日に
透けて金色だった。そのか細い指もオレンジ色に染まっていた。
射してくる光のせいで、部屋の中はまるで真昼のように明るく暖かかった」
(p114-117)


49:吾輩は名無しである
09/03/09 21:11:47
ネットをやっているといろいろな人に遭遇する。
煽られたり、中傷されたり、ときには勘違いの憎悪を向けられたり、、、
そんなとき、いつもわたしを援護してくれる人たちがふたり、いる。
今はもう使われていないハンドルネームだが、%さんとOTOさん。
かつて、この文学板で長文の読書感想を交していた人たちである。
……そして、十月から十一月のもっとも苦しかった時期に、やはり
このふたりに助けられた。
わたしが吉本ばななさんの「明るい夕方」を好きなのは、そこに登場する
友達の姿がそのまま今挙げたふたりに重なるからである。

「誰かに助けてもらったことはたくさんある。助けを求めたこともある。
でももしも純粋に何の意図もなく、その後の人生におけるその人との
かかわりもみんな抜きにして、誰かに助けてもらってほんとうに
助かったことってあったっけ、と考える時、私はいつも彼女を思い浮かべた」
(p113)

「必要以上のことはしない、しかし、逃げもしない、他のいろいろな味付けで
ごまかなさい。
私はその性質をその強さも弱さも含めて一言で言いあらわせるように思う。
彼女は気高い人だ」(p117)


50: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 21:13:29

名前、入れ忘れました。。。

「キリストと弟子たち」ルオー
URLリンク(www.yokokai.com)

―ばら色の夕焼け
日本人にルオーの作品を熱愛する人が多いのは、夕陽や夕暮れの
場面が多いからかもしれない。
 キリストと弟子たちの行く手には、ばら色の夕焼け雲が大きく
一つ浮かんでいればいい……。
 そして、この三人とおなじように、魂の同伴者たちが歩く道にも、
このばら色の夕焼け雲がふさわしい―(抜粋)


51: ◆SrzpdufPJY
09/03/13 16:51:12
あちらのスレに新客が…
しばらくは様子見て傍観しよう
書くのを控えよう

52: ◆SrzpdufPJY
09/03/15 01:13:36
おかしな人がブログのリンク貼ってる…
やめてほしいよ(T_T)

53:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/15 18:24:41
珍客だね(笑 こういうBBSじゃしょうがない。
まあ様子見だ。こっちのほうは長文がたまってるので(汗
これからじっくり読もう。。。

>>24-28 「めぐらし屋」堀江敏幸
>>29-36 「灰色の輝ける贈り物」アリステア・マクラウド
>>37-40 『盆栽老人とその周辺』深沢七郎
>>41-46 「金剛石のレンズ」(フィッツ=ジェイムズ=オブライエン)
>>47-50 「明るい夕方」吉本ばなな

しかし、これらの他にもいろいろ読んでるんだろうから
相当な読書量だね。うらやましい。

54:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/16 23:42:05
堀江敏幸は2作ほど読んだかな。
優しい世界を書く人だね。
あまりに優しいからちょっと合わなかった。

アリステア・マクラウド。
この作家はいつか読んでみたいと思ったなぁ。
>マクラウドは「死」を決して美化して描きません。
>いつだって「死」は唐突で理不尽なものであり、残酷なものとして描ききるのです。
この文章を読んでちょっと興味が沸いた。

深沢七郎の『盆栽老人とその周辺』。無気味おかしい作品だね。
>盆栽にされた樹木の枝々が捩れているのはそのためなのだろう。
>つまり、不自然な形、歪みを人工的につくるということだ。
>盆栽はあえてそうした「捩れ」という歪みを愛でる趣味なのかもしれない。
鋭い! 美は乱調にあり、なんて誰かが言ってたけど、
シンメトリーを崩し、枝を捩れさせて、
自然ではないミニチュア人工庭園を現出させる。
ちょっとネクロフィリアっぽい趣向があるのかもしれない。
そういう意味では確かに「中国の纏足」にも通底するかも。
島尾敏雄や安部公房『砂の女』みたいな幻想味はないけど
深沢の話は「ザ・物語」って感じで好きなんだな。

55:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/17 00:02:32
F=J・オブライエン『金剛石のレンズ』
幻想味というとこの作家のは紛れもない幻想だね。
表題の作品はマンディアルグにも似たようなモチーフのものがあったけど、
機械や技術に幻想を織り交ぜていくタッチは
ホフマンやポオ、日本では江戸川乱歩あたりにも見られるかな。
個々の作品には具体的にはつっこめないけれど、
「失われた部屋」「ワンダースミス」「手から口へ」なんかは
上手いな!と思いながら読んだっけ。
「墓を愛した少年」はまだ読んでないかもしれない。

吉本ばななは『キッチン』しか読んだことないけど、
彼女の作品から力を与えられる女性は少なくないみたいだね。
お父さんの吉本隆明も少しだけ読んだけれど、
なかなかクセのある文体で読みづらかった。
読んだ本を買い直させる力が「明るい夕方」にはあったんだね。

56:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/17 00:20:28
いま読んでいるのはJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』。
ノリ・メ・タンゲレ(Noli me tangere)というのはヨハネ福音書20章17節にある言葉で、
宗教画家たちがイエス復活の場面として好んで描いたモチーフとのこと。
「ノリ・メ・タンゲレ」で画像検索するといろいろな絵が出てくる。

イエスの墓の前で嘆き悲しみに暮れていたマグダラのマリアの前に復活したイエスが現れ、
マリアがイエスに近づくが、「我に触るな。我はまだ父の御許しを得てはいない」と、
マリアを拒諭し、身をかわす一場面を指す。
URLリンク(www.salvastyle.com) から引用

この場面をナンシーはどういうふうに読み解いていくのか。。。
今週中に読み終わるかな。

57: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:31:44
>>53
あちらはしばらくお休みします。。。(汗、汗
しばらくは、ここを雑談と読書感想を兼ねて使おうと思います。

>これからじっくり読もう。。。
どうぞ、ごゆっくりお読みくださいませ♪
あづまやは雨宿りするだけではなく、休憩場所でもありますので
休憩時間はお好みのままです。

>相当な読書量だね。うらやましい。
いえいえ、そんなに多くはないです(汗、汗、汗……)
吉本ばななさんの作品はかなり前に読んだものの再読ですし、、、

このところ、幻想文学に比重を置いて読んでいます。
海外の作品は、怪奇、オカルト、SFと幻想文学の定義が多義的ですね。
定義がないところが幻想文学らしいといえばらしいですよね。
空想が果てしなく広がる、、、
クロード・シモンはヌーヴォー・ロマンのジャンルに枠付けされていますが、
幻想文学も書けたのではないかな、なんて楽しい想像をしてしまいました。


58: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:32:15
>>54-56
>堀江敏幸は2作ほど読んだかな。
>あまりに優しいからちょっと合わなかった。
堀江さんの作品は作風がやさしいですよね。それがちょっと物足りなく感じる人も
いると思います。
ばりばりハードな作品を読みこなしている人からは、手応えがなさすぎるかも
しれませんねえ。。。

>アリステア・マクラウド。
>この作家はいつか読んでみたいと思ったなぁ。
作品の数はものすごく少ないです……。
貧しい生い立ちで工夫などさまざまな肉体労働に従事しながら独学で文学と
哲学を学び、現在は子供が六人、大学で教鞭を執っているそうです。
その合間合間を縫って小説を書いているので作品数は少ないらしいです。

>シンメトリーを崩し、枝を捩れさせて、
>自然ではないミニチュア人工庭園を現出させる。
箱庭みたいなちょっとしたマイ庭園ですかね?
箱庭ってつくったことはないのですが、興味はあります。
自分の好きなものだけを集めた究極の庭か……。
わたしがつくるとしたら、五月の森かな。
小川が流れていて、川のほとりには水車小屋があり、水車はカラカラと音を
立てて回っている。水車は小さな虹をつくっています。
小屋の周囲にはミモザ、コニファー、が植えられています。
川岸にはタンポポ、菜の花が咲いています。


59: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:33:13
>深沢の話は「ザ・物語」って感じで好きなんだな。
もろ「人間」を描く作家ですよね。(「楢山節考」も然り。。。)
村の人間が物語をつくりだし、物語は村の人間をつくる。
相互関係が絶妙!

>機械や技術に幻想を織り交ぜていくタッチは
>ホフマンやポオ、日本では江戸川乱歩あたりにも見られるかな。
顕微鏡に寄せる狂気の情熱は江戸川乱歩の「押し絵と旅する男」をほうふつ
させます。
「押絵と旅する男」は望遠鏡越しに見た押絵のなかの娘の美しさに惹かれた
男のお話です。まさに日本版「金剛石のレンズ」!!↓
URLリンク(www.japanpen.or.jp)

>いま読んでいるのはJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』。
最寄の図書館にありました。来週明けくらいには借りられるかな。
復活したイエスか。。。カトリック教会の今年の復活祭は4月12日です。
「ノリ・メ・タンゲレ」で画像検索したらこんなにもいっぱい出てきて驚きです。
キリスト教国の画家たちにとって、「受胎告知」と同じくらい関心の高いモチーフ
なのですね!
URLリンク(images.google.com)


60: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:33:58
「現代イタリア幻想短編集」読了。
カルヴィーノの作品をかなり前から読みたかったのだが、なかなか機会が
なく、今回ようやく読むことができた。
とはいえ、この短編集に入っているのは「アルゼンチン蟻」の一編のみ。
赴任地で蟻が家の中、庭、至る所に湧き、退治しても退治してもどんどん
押し寄せ、やがて家も人も侵食していく。。。
その不気味さは、さながらヒッチコックの「鳥」のようである。
とにかく追い払っても追い払っても地面から際限なく湧いてでるのだから。
幻想文学というよりは、よくできたホラー映画を思わせる。

他の作家ではわたしの好きなブッツァーティーが2編所収されている。
彼の作品は不条理と風刺に満ちており、その冷酷なまでのまなざしが
なかなか好きである。(「コロンブレ」「魔法の上着」)
あとは、パピーニ(「返されなかった青春」「自分を失った男」)、
アルピーノ(「猿の女房」「娘は魔女」)、などが印象に残った。
パピーニの作品は、「時間」や「個」を主題にしており哲学的である。
読後、読者に考えさせる作家でもある。
ハイデガー(時間)やデカルト(私である存在)を想起した。
彼らがもし幻想小説を書いたならこんな感じだったろうか?
そんな楽しい読後感を抱いた。


61:吾輩は名無しである
09/03/18 12:34:37
アルピーノの「娘は魔女」はオカルトめいていて不気味さもひとしおだ。
怖い、怖い……。
年端もゆかない娘のお腹が膨らんできた、それも性交渉があっての
結果ではなく「子供のことを考えたらいまできたのよ」。
まるで映画「エクソシスト」だ!
お腹のなかに宿っているものの正体は……?

同じ作家の「猿の女房」。
これには胸を突かれた。
サーカス小屋の支配人から格安で買い受けた体長40センチほどの雌猿。
この猿は「私」の4番目の妻である。
雌猿の名前はジルダ。とてもよく働く。料理、掃除、洗濯、と家事をこなす。
ジルダは裁縫も得意でスカートや寝巻きを自分で縫い上げる。
家にいるときは手製のスカートを履いてかいがいしく働き、夜、眠るときは
これもまたお手製のうすもののネグリジェを「私」のために纏い、同じ
ベッドに入る。
ジルダへの愛撫は全身を何往復か撫でてやるだけで満足し、喉を鳴らす。
ジルダはときどき鏡に全身を映し、もう少し背丈があればいいのにと
嘆いている。
実は「私」の唯一の不満もジルダの背丈が小さすぎることなのである。


62: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 15:20:56

名前、入れ忘れました。。。

(つづき)
ある日、「私」とジルダは動物園に行く。
そこで人間の背丈ほどもあるゴリラを見る。
「私」はジルダに「きれいだ! 巨人じ゛ゃないか」と挑発する。
ジルダは家に帰ると洗面所にこもり長い間激しく泣いた……。
そして、その夜睡眠薬をひと瓶飲んで自殺を図るのである。
「私」は暗澹とした気持ちで救急車を呼ぶ。。。

ここで猿のジルダは人間の女性と同じようなこころを持った存在として
描かれている。
「私」は今までの3人の妻よりもジルダを愛しているのだが、どこか残酷な
人間として描かれている。
読んでいて胸を突かれたのは、ジルダが「私」を一心不乱に愛していること、
香水をつけるのも、スカートやネグリジェを縫うのも、家事もすべて「私」への
愛情の行為なのである。
それを知った上で「私」はときどき残酷な仕打ちをする。
ジルダには感情はあっても思索はない。
それが涙を誘うのである……。


63: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 15:26:57
この作家は人間でありながらそうでないもの(魔女)や、獣でありながら
人間の女と同じこころを持つ猿など、人の肉体≠人の精神を描くことに
長けている印象を残した。

(ちなみにわたしは猫オタであるが、猫が豹や虎くらいに大きければいい、などと
望んだことは一度もない
猫はあの体長でこそいいのだ。丸いしなやかな体はあの体長でこそ愛らしく
かつ優美であるのだから)

さてさて、わたしの幻想小説への旅は始まったばかりなのです。
It continues still.

今手元に借りてあるのは、日野啓三の「夢を走る」、「砂丘が動くように」。
(注 「幻想文学」スレを参照しています♪)
この二冊を読了したらJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』を
借りてくる予定。


64: ◆WNrWKtkPz.
09/03/20 01:04:08
>「現代イタリア幻想短編集」
おっ、伊太利亜モノ読んだんだね!
結構伊文学好きなんだよな~
カルヴィーノ、ブッツァーティはもちろん、
パピーニもフェイヴァリット作家で
ボルヘス編の「バベルの図書館」のやつも読んだよ。
アルピーノはちょっと印象が薄いけれど
ほかにもポンテンペルリ(なぜかルを小さい字で表記)とか
ランドルフィとか短篇の奇才が多いんだナ。
このへんの話はまた。

65: ◆WNrWKtkPz.
09/03/24 23:26:04
>パピーニの作品は、「時間」や「個」を主題にしており哲学的である。
確かにそういう哲学的な雰囲気あるねえ。
ボルヘスに通じるような作家だね。

>ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』
短い作品だったから先週読了。

>日野啓三
この作家はほとんど知らなくて、ちょっとかじったことがある程度。
古井由吉的な雰囲気があるなあという曖昧な印象しかないんだけど、
あまり幻想文学という感じがしなかったっけ。

4月は長期出張が入ってバタバタしそうな気配。。。

66: ◆SrzpdufPJY
09/03/25 23:06:24
携帯からです
アクセス規制…(T_T)
今日図書館でボルヘス「伝奇集」とナンシーの「私に触れるな」借りてきました

最寄りの駅の構内のプランターにチューリップとマーガレットが植えられています
春ですね
でも今日は寒い…

67: ◆WNrWKtkPz.
09/03/27 00:46:59
ボルヘスはストーリーといえるほどのものが
どの作品を読んでもほとんどないから
たぶん合わないんじゃないかと思うけれど
どうかな?
ちょっと碩学的というか哲学的な視点もあって
当方は結構好きな作家だけれど。

ナンシーも哲学者だから
キリストが題材とはいえ少し苦労するかも。

68: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:12:20
>>64-65 >>67
イタリア文学はブッツァーティ以来です。
幻想文学はなかなか粒よりのものがありますね~。
これから少しずつ読んでいく予定です♪

>ボルヘス編の「バベルの図書館」のやつも読んだよ。
これから読む課題図書として認定~♪

>4月は長期出張が入ってバタバタしそうな気配。。。
お忙しいですね。お疲れさまです。

>>日野啓三
>この作家はほとんど知らなくて、ちょっとかじったことがある程度。
>古井由吉的な雰囲気があるなあという曖昧な印象しかないんだけど、
>あまり幻想文学という感じがしなかったっけ。
そうなんですよ~(笑い)
わたしもまだ2冊だけしか読んでないので偉そうなことは言えないのですが、
幻想文学の〝核〝となる要素がちょっと薄いような印象を持ちました。。。


69: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:13:00
ここ、一応、四方山話もOKですので、少し雑談を。。。
いよいよ桜の開花が始まりましたね♪

21日にマザー牧場に行ってきました。
緩やかな大斜面一面に植えられた300万本の菜の花はなかなか壮観でした!
とにかくあたり一面が金色に染まっているのですよ。
何だか別天地に来たような気分。桃源郷ってこんな感じなのかなあ……?
菜の花の香りは少し青臭くて、花の香りというよりは若草の匂いに近いかも。
ぐんぐんと生命力を感じさせる躍動感のある匂いです。
圧倒的な菜の花の足元周辺には、たんぽぽ、野すみれが遠慮がちに
咲いていましたよ。
野すみれは淡いやさしいうすむらさき色で大好きな花です。
群青に近い濃いすみれ色よりも、野すみれの穏やかな淡い色合いのほうが
断然に好き。
牛も羊も子豚もアヒルもみんなのんびりしていて、のどかな春の一日でした♪

そうそう、最寄の駅にチューリップとマーガレットがいつものプランターに
植えられていました♪

「春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける」
「山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり」
―万葉集より

70: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:13:41
日野啓三の「夢を走る」、「砂丘が動くように」読了。
「夢を走る」は短編集。「砂丘が動くように」は長編。

先ずは「砂丘が動くように」。
日本海に面した砂丘のある町での物語。
三人の人物がそれぞれの章において一人称で語られている。
東京からやってきたフリーライターの沢一郎。
彼はこの町のひと気のない町並みと砂丘が醸し出す得体の知れない不気味さに
惹きこまれる。
彼が砂丘に興味を持ったきっかけは、この町でふとしたことで知り合った少年の
砂丘を型どった盆景を見たから。
少年は祖父から盆栽を習ったという。鉢に砂を敷き、美しい風紋までつけてある。
沢は少年にこの盆景の風紋はどのようにつくるのか、と問うと「砂の中にアリジゴクを
飼っているんだ」と答える。
毎日アリジゴクのために生餌を与える少年に沢は薄気味悪さを感じながらも
興味を覚えていく。

少年の盆景のような美しい風紋を実際の目で見てみたいと沢は望むが、砂丘は
死んだように眠っていて失望に終わる。
砂丘に同伴した少年は不思議な力で姿の見えないスナガニを呼び寄せる。
カニは蠢き砂丘を動かす。


71: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:15:33
スナガニとはおそらくキンチのことであろう、とわたしは推測する。
キンチは砂を食べて生きる生き物で、カニのような触手を持っている。
この得体の知れない生物は砂丘も町も腐らせていく。。。
危機に気づいたのはビッキーと呼ばれる女装する美青年。
彼は取り巻きたちに教祖のように崇められ、自らも教祖の如く振舞う。
ビッキーはドキュメンタリー形式のビデオを撮り、さり気なく人々に危機を伝えようと
するが……。
沢はビッキーと接触し、キンチから町を守ろうとするが狂人扱いされてしまう。

不思議な力を持つ少年には盲目の姉がおり、この姉もまた少年以上の特異な
能力を持っている。
彼女は人の行動を予知し、こころのなかを読み取るのである。
姉は子供の頃、ビッキーと特別な関わりがあったらしいが、二人の関係については
最後まで明かされない。
ビッキーがこの姉にだけは一目置いているという事実以外は、、、

沢はひとたび東京に帰るが、再びこの町に戻ってくる。
まるで何かに取りつかれたかのように……。


72: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:18:04
沢は少年に盆景のような風紋を一度でいいから見てみたいと乞う。
少年は不思議な力で風を呼び、風は沢の目の前で一瞬のうちに美しい風紋を
つくりあげたのだった。
その日から沢は完全な狂人になってしまう。
ビッキーは沢の精神破壊の原因に、彼が砂丘で何かを見たからに違いないと
踏んでいる。
沢は少年が呼んだ風が起こした風紋を見て狂喜するが、それはそのまま彼の
精神を破壊するものであったのだ。
実は彼が見ていたものはまぼろしであり、傍からは何も見えないのであった。。。

砂丘に棲息し砂を食べて生きている姿なきキンチとは何なのか、最後まで正体は
明かされない。
キンチは砂丘や町、そこに住む人々を侵し害あるものとしてのみ漠然と描かれる。

発狂するライター、女装する教祖のような青年、風やキンチを呼び起こす少年、
盲目の姉。
異世界に登場する人物としてはまさにぴったりな適役である。
謎めいた生物が出てくるのも幻想小説の王道ではあるのだが、、、


73: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 17:55:38
連投規制のためつづきはしばらくお待ちください…

74: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:25:21
読後はさほど幻惑状態にはならなかったが、わたしも一度でいいから実際に
この目で美しい風紋のある砂丘を見てみたいと強く思った。
何よりも慄然としたのは、キンチという謎の生物などではなく、少年が盆景に風紋を
つくるために飼っているアリジゴクである。。。
彼はアリジゴクのために毎日生きた虫を餌として捕まえ、与えている、、、
この事実のほうが遥かに怖い……。
アリジゴクはいつしか成長してウスバカゲロウとなり旅立っていくが、
成虫になるまでの間、生餌の虫の養分を生きたまま吸い出しているのである。
カラカラになるまで吸い上げたら、用済みの空っぽの死骸をポイと穴の外に放り出す。
あの透き通るような美しい翡翠色の羽を持つ虫の幼虫時代は何と残虐性を
帯びていることだろう!

ひとつの美の生成には他者の生き血を必要とし、犠牲にされる命がある。。。
(そういえば、昔読んだ本で、とある村の女領主が自分の若さを保つため
村の娘たちを生贄にして生き血を飲むという怖いお話があった……)

この作品では、生きた砂丘は美の象徴であり、砂を喰らうキンチは滅びの象徴として
描かれる。
惜しむらくは、読むものに砂丘の風紋の美しさ、キンチの不気味さがリアルに
迫ってこないということである。


75: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:26:31
女装した美青年も、不思議な力を持つ少年も、盲目の姉もたんなる〝置き物〝に
すぎない。
喩えるならば、この作品の人物たちはまさに人工的につくられた盆景のなかの
ひとつの風景でしかない。
整合性を持って意味ありげに美しく配置された駒のひとつ。

この四人に共通しているキイワードは「普通(尋常)ではない」ということ。
精神が病んでいたり、特別な能力を持っていたり、五官のひとつが欠けていたり、、、
彼らは異形ゆえ、異界を引き寄せてしまう。
そこで描かれ展開される世界は摩訶不思議な幻想の世界というよりも、異人たちが
織り成す美しい饗宴の物語である。
少年のつくりあげる精巧な風紋、盆景の人工美は、この作品をそのまま表わしていると
いえよう。

少し前に読んだ「金剛石のレンズ」でも人工美(擬風景、擬女)を扱っているが、こちらは
めくるめくような幻惑と圧倒的な狂気の世界に誘われる。
レンズのなかの小さな世界が醸し出す異様で妖しい情景は、読むものの想像力を
激しく掻き立てる。
日野啓三の作品にはそうした激しく掻き立てられるものがない。


76: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:27:20
解説に「都市幻想」という言葉が使われていたが、都市そのものが幻想的なのではなく
異界のものは常に外部から来るのである。
都市の持つもうひとつの別の顔は、相変わらず美しく取り澄ましたままであり、
都市そのものは熱を発しない。磁場(磁力)が弱い。

私見であるが幻想文学において「歪み」や「磁力」はかなり重要性を占める。
なぜなら、日常生活におけるはみ出し、異空間、狂気……、こうした尋常ならざる
ものたちは異様な熱を発し、ふと訪れたものを強烈な磁力で引き込み惑わすからである。
(「白日の狂気」「謎の男トマ」ブランショ、「摩天楼」「大鋏」「孤島夢」島尾敏雄)

日野啓三は幻想文学というよりも、人間の孤独を描くのが上手い作家だと思う。
それも人間の本来持つ根源的な孤独(絶望)ではなく、遥か宇宙へとつづいて
いるような軽やかな孤独である。
(代表作品に「光」という宇宙飛行士の話があるらしいが、納得である)

そして、その孤独も一般人やいわゆる普通の人たちではなく、特殊な人たち、
―特異な能力を持つ人、肉体的な欠損者、周囲と相容れず孤立してしまう人、
に限られているのが特徴である。
それゆえに、彼らの孤独は地上ではない、遥か高みのところ、無限かつ広大な
空間、宇宙へと飛翔する。


77: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:28:08
短編集「夢を走る」に所収された作品集、
「カラスの見える場所」(聴力を失ったテナー奏者の青年)
「星の流れが聞こえるとき」(異形の少女と追われている若者)、
「ふしぎな球」(予知能力があり、見えないものを空間から取り出す少年)
彼らは、その典型的な例である。
日野啓三はこうした人たちの内面を掘り下げ、抉り出すようなことはせず、
さらりと筆を進める。

ある種の選ばれた特殊な人たちと宇宙との関係は、緊迫感はさほど無くまるで
あたりまえのように描かれる。
彼らはこの世界に属する人種というよりも宇宙、異世界から来たかのようだ。
そう、日野啓三の人物たちは初めからこの世界に属さない人たちなのである。
この世界における姿かたち、身体はあくまでも借り物であり、仮の姿にすぎない。

異質なのはこちら側の世界に属するわたしたちのほうであり、
聴力や視力のない世界こそ、彼らにとっては本来の生きるべき世界なのである。
日野啓三の作品人物たちはそうした声のない主張をする。
その主張も巷間いわれるように遠慮がちでも控えめでもない。
堂々と主張しないまでも、その内面は揺るぎなき確固たるものがある。

「砂丘が動くように」の少年の盲目の姉は、カリスマ的人物のビッキーを
たじろがせている。
言葉数こそ少ないが、彼女の盲目の瞳は常人には見えないものを見、
ビッキーよりはるかに優れた預言者を思わせる。


78: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:29:05
そう、日野啓三の人物たちは誰もが預言者なのである。
それゆえに畏怖され、異端視される。
彼らに対して人々の態度は二分化される。
中庸ということはありえない、―すなわち、崇拝か拒絶か、どちらかである。

幻想文学には曖昧さや謎がつきものであり、謎は謎のままであるがゆえに
幻想小説として成り立つと思うのだが、日野啓三の作品は曖昧さや謎は
残ったままなのになぜか読後感は希薄だ。
異質な世界への濃厚な誘惑感があまり感じられない。。。
あくまでも人工美の精巧で軽やかな世界だ。

>ボルヘスはストーリーといえるほどのものがどの作品を読んでも
>ほとんどないから たぶん合わないんじゃないかと思うけれどどうかな?
>ナンシーも哲学者だからキリストが題材とはいえ少し苦労するかも。
まだ借りてきたばかりなので何ともいえないのですが、とりあえずは
物怖じせずに読んでみようと思います。
感想が書けるかどうかは確約できませんが、、、


79: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:03:44
ボルヘス「伝奇集」のうち、数編を読了。
全部ではなく、無理をせず読めそうなものだけ読みました。(汗、
「バベルの図書館」「円環の廃墟」はとてもよかったです。
物語として面白かったのは「バビロニアのくじ」。

「円環の廃墟」は夢を見ながら、自身の夢の中で新たな理想的なアダム(若者)を
つくりあげようとする男の物語。
それゆえ、男の一日は眠り、かつ夢を見ることに費やされている。
男は夢の中で完全な若者を想起し、心臓や動脈をつくり、外見としての
肉体を与えた。次に二年の歳月をかけて血肉を与え世界の秘儀を教えた。
若者はようやく目覚める。
ある日廃墟は炎に包まれ、男は自分の死期がすぐそこに来ていることを悟る。
男は炎に向って進んだ。炎に包まれた男は暑さも痛みも感じなかった。
なぜなら、おのれもまた誰かの夢のなかでつくられた幻にすぎなかったから。。。

自分という存在は誰かの幻にすぎず夢の中でのみ生息しているという事実。
ここにあるのはつまり、肉体を持たないわたしの思考のみ、ということか。
そして、その思考もまた誰かの夢によって操作されたものに他ならない。。。


80: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:04:26
なかなか深遠なテーマである。
かの有名な「われ思うゆえにわれあり」はどうなるのだ?
そこに「わたし」はいないのか?
解説によるとボルヘスはブランショ等にも影響を与えた作家であるらしいが、
ブランショの「謎の男トマ」の書物の言葉(=思考)に自身が喰われてしまう
エピソードを想起した。
あのエピソードの少し手前に確かこんな印象的な言葉があった。

「われ思うゆえにわれなし」。
文字がかまきりのように読み手に襲いかかり、喰らい尽くし、「わたし」は言葉(=思考)に
よって消滅させられてしまう。
ブランショがかまきりを持ち出したのは、新しく生まれ出る命を創造したものは、
新しい命が生まれた瞬間、自身の存在を抹消させられてしまうことを
わかりやすく説明したかったからのように思う。

実は「謎の男トマ」のかまきりのエピソードに似たものはブランショにもうひとつある。
「私について来なかった男」の最後。
「彼」は「私」が書くこと、創作にかなり協力的であり、いろいろ助言質問するのだが
「私」が「今、終わりと書く」と書くことを辞めた最後のまさにその瞬間、
彼は「日の光とともに消えてしまった」。
残されたのは書かれたもの(書物、もしくは思考)のみ。。。

81: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:06:05
わたしが何かを創造する、創作する、しかし、その瞬間からわたしは存在しない
ことになるのだ。
なぜなら、このわたしはボルヘスの言葉を借りるならば「他の誰かの夢によって
つくられた幻」なのだから……。
幻のわたしが思索したこと、書き残したこと、それだけが残る。

ラカンは「人間の欲望は他者の欲望である」と提言したが、この「わたし」は
わたし自身の欲望を持つことはなく、「わたし」は他者の欲望によってつくられたと
するならば、最初から「わたし」という存在は失われていることになる。

「われ思うゆえにわれなし」。
まさにそういうことなのだろう。

ボルヘスはなかなか思索的で示唆に富んでいる。

82: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:06:56
「バベルの図書館」
この作品もなかなか興味深かった。
宇宙そのものが巨大な図書館であり、六角形の回廊で成り立っているという。
六角形というのは円形に近い形であり、円というのは宇宙数学的にみて完全な
形らしい。司書はそれぞれの階にいるらしいが一度もすれ違うことはない。
というのは、図書館は広大で無限であるから。
この図書館にはすべての図書を把握している「書物の人」がいる。彼はすべての
本を読み通し、神に似た存在であるという。
多くの者が「彼」を求めて遍歴するが誰も探し出せなかった。
そして、今、「わたし」もいよいよ最期のときを迎えようとしている。
「図書館は永遠を超えて存在する」「図書館は無限であり周期的である」
それが「わたし」の孤独に華を添えている。。。

この作品は図書館という膨大な知の宝庫に永遠性を託したボルヘスの
願いだろうか。
図書館とは神が人間に言葉と思考を与えた叡智の結晶である。
叡智の結晶である書物は紙媒体でできており、火や水に弱く保存が困難である。
しかし、このボルヘスの語るバベルの図書館においては、書物は永遠性を持ち、
周期的にあらわれる。そして、一冊も失われることはない。

83: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:08:09
―どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったりすると彼は数世紀後に
おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現れることを確認するだろう。
繰り返されれば無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ―(p116)
まさしく、図書館は円環性を持つのだ。

図書館に行くといつも漂っているひんやりした空気、静謐さは実は墓地に通じている
ものがある、とわたしは感じている。
墓地は死者が眠っているところ。そして、図書館は数世紀前の故人の残した言葉を
棺の如く収めているところ。(現存している作家もいるが、ブランショの言葉を借りるなら
書いた瞬間から作者は文字によって抹消される、つまりこの世に存在しないのだ……)
図書館の永遠性は、書かれた文字によってのみ可能なのだ。
人間はその時時、生ある時間帯にたまたま図書館の一画を横切る存在にしか
すぎない。
ボルヘスの夢想した宇宙規模の図書館は夢物語ではなく、現存するに違いない。
そして、あなたもわたしもその図書館を訪れた旅人のひとりなのだ。

エーコの「薔薇の名前」に出てくる迷路のような図書館は「バベルの図書館」を、
盲目の図書館長はボルヘスその人だと読んだことがあるが、深く納得。
映画化もされており、レンタルでも出ていますよ。

―今日は、この辺で。

84: ◆WNrWKtkPz.
09/03/30 02:05:53
>>68-
>マザー牧場
「300万本の菜の花」とはハンパじゃないね。
遠出はできないけど来週末の桜はどうかな

>日野啓三
感想、とてもわかりやすい!
そして、以前抱いたこの作家のイメージに
それほど違わないようで安心。
「曖昧さや謎は残ったままなのになぜか読後感は希薄」
っていうところは、そんな感じだなあと納得。

85: ◆WNrWKtkPz.
09/03/30 02:06:52
>ボルヘス
「バベルの図書館」「円環の廃墟」が気に入ったみたいで良かった。
「円環の廃墟」は確か、荘子の胡蝶の夢に触発された作品だったかな。
荘周が蝶になった夢を見て、楽しんだところで夢から覚める。
果たして蝶になった夢を見ていた荘周なのか、それとも荘周になってる夢を見ている蝶なのか、
定かではない。。。夢と現の関係の曖昧さ、これは荘子だけじゃなく、
ノヴァーリスやルイス・キャロルにも見られるものだけれど、
ボルヘスの手にかかるとギリシア哲学風になるから不思議。

>「われ思うゆえにわれなし」
「私について来なかった男」の最後のシーン。鋭い着眼点だなあ!
ブランショの場合、「我書く、ゆえに我死す」というところまでいくかもしれない。
むしろこうかな? 「我死す、ゆえに誰かが書く」。
ブランショにとって、書くというのは非人称的な世界に没入することだから。
そして、言葉というカマキりは存在を奪ってしまう力を持つものだから。

存在を表現するための言葉によって、逆に存在が抹殺される。。。
言葉は、写真の機能と似て、否が応でも記憶のために綴られてしまうけれど、
それによってイメージは固定化され、存在を記憶の中に閉じ込める。
このへんのテーマはいつかもっと突っ込んでみたいところだね。

>図書館の永遠性
ここでも「円環の廃墟」と同じく、円環となる時間がここでも出てくるけれど、
書物の無限増殖によって世界を覆い尽くそうとするようなボルヘスは、
世界を1冊の書物にしようとしたマラルメとは逆方向を向いているようでいて
とてもよく似ている。

86: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:32:25
>>84-85
>「300万本の菜の花」とはハンパじゃないね。
>遠出はできないけど来週末の桜はどうかな
あの広大な菜の花の斜面はとにかく壮観のひとことに尽きますね!
一度見たら忘れられない光景……
まさに「永遠の一瞬」です!
桜は今週末が見頃でピークでしょうね♪
埼玉県の幸手市で桜まつりが開催されてます♪
桜並木と菜の花の饗宴が見事ですよ(去年行きました)
URLリンク(www.satte-k.com)

土曜日は気温が最高20度くらいまで上がるみたいですし、
絶好のお花見日和ですね~♪

>>日野啓三
>感想、とてもわかりやすい!
ありがとうございます。とてもうれしいです!
がんばって書いた甲斐がありました♪

>そして、以前抱いたこの作家のイメージにそれほど違わないようで安心。
すでに以前、読まれていたのですね!
それにしても読むジャンルといい、作家の幅が実に広いですね~
バベルの図書館の「書物の人」みたい♪ ―彼はすべての図書に通じている―

87: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:33:59
>「円環の廃墟」は確か、荘子の胡蝶の夢に触発された作品だったかな。
>荘周が蝶になった夢を見て、楽しんだところで夢から覚める。
>果たして蝶になった夢を見ていた荘周なのか、それとも荘周になってる夢を見ている蝶なのか、
>定かではない。。。
原典が荘子の胡蝶の夢とは! 指摘されてみると確かにそうですね。
夢野久作も荘子の影響を受けているような。。。

>ボルヘスの手にかかるとギリシア哲学風になるから不思議。
「わたし」が円環の建物で夢の中でつくりあげた、この世の叡智のすべてを託された
若い哲人とはソクラテスもしくはアリストテレスのように思えます。
伝記上ではソクラテスはダイモニオンの声(ご神託)を聞いて哲学に目覚めますが、
ダイモニオンの声とは実はソクラテスを夢の中で創造した人物の声だったのかな?
……ということは、この世に起こる「啓示」はすべてその当人を夢のなかで
つくりあげた誰かの声、誰かの思考、ということになりそうな。。。

かくいうわたしも文章を書いていると、ふいに「舞い降りる」瞬間があります。
書き出すまでは思考がまったくまとまらず、さすがに今回の感想はお手上げかなあ、と
観念しつつのろのろと書き出すのですが、書いているうちに次第に熱を帯び、
頭で考えるより先に指がどんどんキイボードを操作していく錯覚に陥ることがしばしば
あります……。
(いみじくもリルケが「マルテの手記」で書いていましたね。「ある日、僕の手が僕の
意思とは無関係に勝手に動き出し、ノートの上に文字を書き記していく」と……)

88: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:35:16
>夢と現の関係の曖昧さ、これは荘子だけじゃなく、
>ノヴァーリスやルイス・キャロルにも見られるものだけれど、
ノヴァーリスの「青い花」は美しく幻想的なお話でしたね。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、まさに子供らしい夢物語の原点という
感じがします。(わたしが初めて買ってもらった記念すべき本が実はこれでした)

>「私について来なかった男」の最後のシーン。鋭い着眼点だなあ!
ありがとうございます!!
いえいえ、ブランショはかつて紹介していただいたので、たまたま記憶に残って
いたのですよ~。
ブランショの登場人物はいつも霧のなかにいるようで、ほとんど実体を持たないのが
特徴ですよね。ほかの作家に見られるような強い自我がまるで感じられない、、、
不思議な人格形成ですよね。

「私について来なかった男」の「彼」はいろいろ解釈できますが、
ボルヘスの影響を受けた作家、ということであれば、「彼」はまさしく「わたし」、
もしくは他の誰かが夢のなかでつくりあげた幻の同伴者でしょう。
「わたし」と言葉を交わし、「わたし」に書く行為を促すけれども、実際には「彼」は
書かない、書けない。
なぜ、「彼」は「わたし」に書かせようとするのか?

89: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:36:21
「彼」の願いはただひとつ。
「彼」の言葉を「わたし」を通して残すため。
なぜなら、「彼」や「わたし」がたとえこの世から抹消されても「バベルの図書館」に
よれば記された言葉は書物として、円環を栗り返し、永遠の秩序を保てるのだから。
「彼」は「わたし」が「終わり」と記した瞬間、幻としての使命を全うし、日の光とともに
消えていく。そして、また、次の誰かの夢の中で新しくつくられ、書く行為をする
人間に同伴者として現れるだろう。
誰かにひたすら「書かせる」ために……。
彼はこうして円環を繰り返していくのだ。「バベルの図書館」の一隅に永遠に残るため。

>ブランショの場合、「我書く、ゆえに我死す」というところまでいくかもしれない。
>むしろこうかな? 「我死す、ゆえに誰かが書く」。
>ブランショにとって、書くというのは非人称的な世界に没入することだから。
>そして、言葉というカマキりは存在を奪ってしまう力を持つものだから。
なるほど、ブランショの提言をさらに推し進めていくとそうなりますね! さすがですね!
「我書く、ゆえに我死す、ゆえに誰かが書く、誰かが死す、ゆえにまた次の誰かが書く…」
こうして円環を繰り返していくのですね!

>存在を表現するための言葉によって、逆に存在が抹殺される。。。
2ちゃんねる新参者の頃、某板で名無しのまま、名無しの方と対話したことが
ありました。
「書くことは自分を失うことである」という意見があり、わたしは真っ向から逆の意見でした。
「書くことによって、自分の思考は確固たるものになり、それは自分の存在の認識を
確立させる行為である」と。

90: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:38:55
けれども、ここにきて再度、改めて考えさせられました。
「書くというのは非人称的な世界に没入すること」であり
「我が死すことである」ならば、やはり「書くことは自分を失うことである」のですね。。。

2年ほど前に買ったロラン・バルトの「物語の構造分析」の章に「作者の死」という
印象的な表現がありました。
「作者の死」とはわたしなりの拙い解釈によれば、作者は物語を書いた時点で
作者であることを放棄します。作者の権利の放棄によって、作品は読者の手に委ねられる
のです。それが「作者の死」です。
バルトの提唱する「作者の死」は、主に≪作品と読者≫の関係に比重を置いているように
見受けられます。

これに対してブランショの言及する「作者の死」とは、作者が書いた言葉に抹消される、
つまり、≪言葉と作者≫の関係です。
さらに、作品を読んだ読み手さえも言葉に抹消されてしまうのです。
それは≪言葉と読者≫の関係にまで及びます。
両者は同じように「作者の死」について述べていてますが、関係性を見ると対象が
それぞれ異なっていることに気づかされるのです。
バルトにおける「作者の死」、≪作品と読者≫の関係は対等でありますが、
ブランショの「作者の死」においては、言葉が作者よりも、果ては読者よりも優位に立ち、
言葉>作者、言葉>読者という力関係、主従関係が生じるのです。

(あと1レス、つづきます)

91: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:51:27
(つづき)

>言葉は、写真の機能と似て、否が応でも記憶のために綴られてしまうけれど、
>それによってイメージは固定化され、存在を記憶の中に閉じ込める。
過去の日記、手紙を読み返しながら、たいていの人はそこに記された言葉を
元にして当時の出来事や感情を回想しますよね。
そこに記された言葉は果たして信用していいのでしょうか?
なぜなら、言葉は嘘をつくからです。それが自身で書いたものであったとしても……。
記された言葉は偽の記憶を固定し、真実は封印されてしまうでしょう。
真実は言葉によって歪められ、記憶は改竄されるのです。
真実は永遠に藪の中……。
人が言葉に殺される、ということはそういうことなのかもしれません。。。

>書物の無限増殖によって世界を覆い尽くそうとするようなボルヘスは、
>世界を1冊の書物にしようとしたマラルメとは逆方向を向いているようでいて
>とてもよく似ている。
マラルメは読んだことないのですが、「世界を1冊の書物にしようとした」のですね!
ボルヘスは宇宙規模の図書館を世界に見立て、マラルメは1冊の書物を世界に
見立てたということでしょうか?
世界を「図書館」とするか、「書物」とするか、見立てる対象が異なるだけで
言ってることは同じなのでしょうね。

92: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 17:20:04
ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』 は今、読み出したところ。
最初のところに、結構興味深い文章がありましたよ。

薄い本ではあっても、ゆっくり読もうと思います。
明日から四月ですね。

出張、気をつけて行って来てくださいね。

―では、また♪

93: ◆SrzpdufPJY
09/04/01 14:20:52
>ここでも「円環の廃墟」と同じく、円環となる時間がここでも出てくるけれど、
ブランショの作品の特徴はふたつありますね。
ひとつめはすでに書いたように〝実体のない男〝(他者の夢によってつくられたような
希薄な存在感、「トマ」「望みのときに」「アミナダブ」「死の宣告」)、
ふたつめには〝円環〝が挙げられますね。

プランショは「書くこと」の円環性に特別な関心を抱いていることが窺えます。
書くこと→書物→図書館といった一連の連想はやはりボルヘスの
「バベルの図書館」の影響が強いといえるのではないでしょうか。

ブランショの作品には「終わり」という概念がなく、物語が終わった時点で
再び物語が始まるかのように構成されています。
物語の円環~時間の円環~書き手の円環~読み手の円環……、
こうした連鎖、果てのない円環は大元であるボルヘスが
「図書館は永遠を超えて存在する」、
「図書館は無限であり周期的である」と希求したように、
おそらくはブランショ本人の希求でもあったのでしょう。

宇宙を叡智の結晶である図書館に見立てたボルヘス、
その図書館の一冊に至るために円環を繰り返すブランショ。。。

94: ◆SrzpdufPJY
09/04/01 15:57:56
今日、四月一日は雨宿りスレにふさわしい春の雨です♪

「一年(ひととせ)のまためぐり来て春の雨」

「あづまやに三人(みたり)集ひて春の雨」

「喜びと涙の夜をともにせし君の言葉は春雨の如」

「顔知らぬ人たちなれどいとやさし春雨匂ふ夕べなりけり」


95: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 00:01:22
春雨だね。

世の中、不景気だけれど、
今年は仕事に精を出そうと思ってる。
とりあえず今を乗り越えられれば、
景気が良くなれば楽になれると信じて。

ということで趣味の読書は必然的に
超スローペース。。。

そういえば、KEMANAI3の状況はどうなんだろう?

96: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 00:58:57
>>86-94
>土曜日は気温が最高20度くらいまで上がるみたいですし、
>絶好のお花見日和ですね~♪
夏好きの人間としては、早くもっと温かくなってくれ~、
という感じだけれど、ま、そんなに慌てなくてもいいか(笑
まず桜だね。梅も桜もシダレが好きだな。
それから、アカシアは盛りも過ぎたので強めに剪定。
冬に剪定したバラは新しい葉をつけてグングン成長中。
GW頃に花が咲きそうかな。そして6月にはラベンダー。
夏に向かって楽しみはマダマダあるね。

>かくいうわたしも文章を書いていると、ふいに「舞い降りる」瞬間があります。
リルケ=マルテのみならず、やっぱあるよね。多かれ少なかれ。
ウソから出たマコトみたいに、書けないと思っていたのに、
どこからか「やってくる」みたいな感じ。
マンガを描くときにもあるんだろうか>サウオン

誰かが書く、というときの非人称性みたいなやつは、
決して没個性ということじゃなく、個性と離反しない、
というか、世間のしがらみにくっついたエゴから自由になることで、
はじめて得られる個性みたいなものがあるように思うな。

97: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:10:24
それから、

>ノヴァーリスの「青い花」は美しく幻想的なお話でしたね。
ルイス・キャロルは夢の世界での感覚を描くのが上手い、
というか、物語が夢そのもののプロットかと思えるほど。
カフカの「審判」「城」なんかにもそういう感覚を抱いたっけ。

ノヴァーリス、あるいはネルヴァルの幻想性というのは、
夢そのもの、というよりは、夢の世界を対象にして描いているけれど、
人生=現実と夢=幻想の境界を曖昧にさせるヴェクトルがあって、
やはり「胡蝶の夢」的なものになるだろうね。

>なぜ、「彼」は「わたし」に書かせようとするのか?
ブランショにおいては、おそらく、本当に書くためには、
「わたし」という人称が消えなくちゃならない。
「わたし」は「彼」に、さらにいえば「誰か」になる必要がある。。。
だから、登場人物たちは
>ほかの作家に見られるような強い自我がまるで感じられない、、、
ということになるんじゃないかと思うんだね。

98: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:24:35
また、

「作者の死」を語ったロラン・バルトの場合、
作者よりもテクスト(作品)にこそ圧倒的な重心を置いてて、
書かれたテクストが作者の手を離れて読者に委ねられるとき、
作者の意図、作者のメッセージなんかは裏切られもするし、
そして作者が言おうとしなかったこともテクストは語るし、
伝えようとしたこととは反対のことまでも伝えることもある、
という視点があるね。

だから、小説作品を読み解くために、
作者の生涯とか生い立ちとか人生とかは関係がない、
書かれたテクスト(=記号の集積)だけを読めばいい、
そういう視点での「作者の死」だね。

まあ、バルト流のテクスト論はちょっと極端ではあるし、
伝記的なものを蔑ろにする必要はないと思うけれど、
作者中心主義から作品中心主義へのこうした移行には
ブランショの歩みと随伴する面はおおいにあるだろう。
バルトは実際にブランショをリスペクトしてたとのこと。
(ブランショが国際雑誌を企画したときバルトは協力してるんだね)

99: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:52:26
とはいえ、

バルトとブランショを比較してみると、
両者共に「作者の死」をポジティヴに見ているとはいえ、
PJYさんがいうように、たしかに「関係」の差異があるよね。
あるいは、「書く」という行為を見るときの角度の違いというか。

バルトの主張は、「わたし」が書くのだとしても、
書かれた言葉は「わたし」を通り過ぎていって、
言葉の世界独自の戯れによって読者へと作品が届く、という感じ。

ブランショの主張は、まず「書く」行為そのものの中で、
「わたし」が死んで「誰か」にならなきゃならないし、
そういう死を抜きにして「書く」ことはできない、という感じ。

>物語が終わった時点で再び物語が始まるかのように構成されています
ブランショの「私について来なかった男」もそうだし、
クロード・シモン「アカシア」もそうだけれど、
これらの作品は円環について語っているよりは、
作品そのもののが円環を体現してるね。
プルースト「失われた時を求めて」がそうであるように。

100: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:56:46
さらに、

ボルヘスの場合だと、円環について語っているとはいえ、それは、
物語とはいえない物語、物語になりうるであろう物語、あるいは、
物語にまで昇華されていない物語の卵、あるいはまた、
流産させるがままにした物語の水子ともいえるプロットにおいてであって、
胚胎したアイデアをあえて物語にまで育てようとはしていない感じ。
(だから、ボルヘスはプルーストのように長篇を書くことはできない。)

タイムオーバーなのでこのへんで。

※来週月曜からまたしばらく留守にします。

101: ◆SrzpdufPJY
09/04/02 17:29:40
>◆WNrWKtkPzさん

大変濃密なレス、ありがとうございます!
哲学の知識に裏打ちされたコメントですね! すごいなぁ……(感嘆)
わたし、そちらの分野は不得手でして(興味はあるのですが……、汗)

>今年は仕事に精を出そうと思ってる。
>とりあえず今を乗り越えられれば、
>景気が良くなれば楽になれると信じて。
そうですね。景気が悪いことを嘆いていても何も始まらないし、、、
会社でもいろいろと景気対策が出ていて重苦しい空気ですが、
だからこそ、というか、それゆえにこそ、わたしは週末のお天気のいい日は
花を愛でに外に出るようにしています。
文庫とおにぎりと熱いお茶の入った水筒とチョコレートと果物を入れた
リュックを背負って朝早くに起きて出かけます。
目的地に着いたら園内を自分のペースでゆっくり歩きます。
馥郁とした花の香りを身体いっぱいに浴びて、伸びをします。

その場所が例えばkPzさんが前に行かれた場所であるならば(偕楽園)、
また、wWw さんがかつて行かれた場所(日本民藝館、旧前田侯爵)に
わたしがふたりより少し遅れて訪れるとき、何ともうれしい気持ちになるのです。
ああ、この地をあの人たちも踏んだのだな、、、と。
同じ景色を、同じ匂いを今この瞬間自分も味わっている、
わたしはそのことが、ただ、ただ、うれしいのです。

102: ◆SrzpdufPJY
09/04/02 17:31:01
>それから、アカシアは盛りも過ぎたので強めに剪定。
>冬に剪定したバラは新しい葉をつけてグングン成長中。
>GW頃に花が咲きそうかな。そして6月にはラベンダー。
植物を育てている人は苗が育ちゆくさまや、花がひらくまでの日々を楽しむ
ことができますよね♪

出張の件、了解です。
どうぞ、気をつけていってらしてくださいね。

帰られたら、またレスします♪

103: ◆WNrWKtkPz.
09/04/09 01:38:57
出張から一時帰京。

先週は家の近所の桜が満開。
結構花見をしてる老若男女がいた。
日本人はサクラが好きなんだね。
桜が咲いて、いよいよ春、というタイミングもいいんだろうナ。
歌にも小説にも題材になってるけど、
「桜の森の満開の下」ってアンゴだったかな。

>週末のお天気のいい日は花を愛でに外に出るようにしています。
それはとてもいいことだね。体にも心にも。

>ああ、この地をあの人たちも踏んだのだな、、、と。
うん、わかる。この小説は二人が読んだんだな、っていうのも、
それに似たところがあるしね。
時間があればそういう追体験がもっとできるんだけど。。。
一番印象的なのはやっぱケマナイだったね。
「この線をヤツが描いたのか!」という妙に胸が躍る感じがあった(笑
そして、それに勝るとも劣らないケマナイ評!
今でも憶えているし、あれは忘れられない。
後で読んで、それがとても的確で力強いものだとわかったから。

104: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 15:46:34
◆WNrWKtkPzさん
お帰りなさい。お疲れさまです。

>日本人はサクラが好きなんだね。
>歌にも小説にも題材になってるけど、
>「桜の森の満開の下」ってアンゴだったかな。
サクラはやはり日本人の郷愁を誘うものがありますよね。
今までは自発的にお花見ってしたことなかったのですが、
(人に誘われて行く、という感じでした…)
一昨年あたりからサクラに限らず、四季折々の花を求めて、
花を愛でるためにだけ外に出ています。
本来のわたしはインドアなのですが(実はたんなるモノグサで部屋でだらだら
しているのが好き♪)、かつて感想文スレが始まった当時、週末は部屋に
篭って(?) ひたすら書いているわたしを気遣ってOTOさんが
「んなことばっかしてないで運動しろよ」 と声をかけてくださったのですよ~♪
確か秋の初め頃でOTOさんは色づき始めた多摩川のほとりを歩かれたと
コメントされていました。

OTOさんはおそらくわたしがネットにのめり込むことの警鐘を与えてくださった
のだと思います。
それからわたしは気候のいい週末には読みかけの本をリュックに入れて
公園をはじめ近郊に花を求めて出かけるようにしたら、やみつきになりましたよ♪


105: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 15:57:07
>時間があればそういう追体験がもっとできるんだけど。。。
今年はお仕事に専念してくださいね。
そちらのほうではこれから新しく読むことは困難だと思いますので、
◆WNrWKtkPzさんが今まで読まれた本を、今度はわたしが追体験しますので、
その本について「急がず、ゆっくりと」語りましょうか?
わたしは哲学的視点が弱いというか欠けているので、そうした視点からの
◆WNrWKtkPzさんの鋭いコメントはとても新鮮であり、毎回、開眼することが
多いです。

>一番印象的なのはやっぱケマナイだったね。
>「この線をヤツが描いたのか!」という妙に胸が躍る感じがあった(笑
そうそう!
精緻なメカや、生々しい脳髄の描写、ケマナイの手袋の1本1本の襞の線が
定規を使わずに描き込まれているんですよね~♪
線に勢いがあり、ときには細心の注意を払っているのが窺えました。
作者のぬくもりが読むものにも感じられましたね!

>そして、それに勝るとも劣らないケマナイ評!
>今でも憶えているし、あれは忘れられない。
>後で読んで、それがとても的確で力強いものだとわかったから。
ありがとうございます! とてもとてもうれしいですっっっっ♪♪♪


106: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:00:04
……わたしの読み方はかなり独特でして。。。
(文学研究、文学批評には絶対向かない読み方です、、、)
ひたすら自分の想像力のみで驀進して読んでますので。
先ずは目の前の作品とまっさらな気持ちで向き合いたい、
作品の背景云々はあとでゆっくり知ればいいかな、と。
(レストランで出されたお料理をおいしくいただくことが何よりも大事で、
高価な食材だとか珍しい素材だとか、そうした付随的なことはあまり興味がない…)

ちなみに、わたしにとって優れた作品とは文学批評の専門家の評とは
一致しません。。。
わたしにとって優れた作品とは、
わたしの想像力を限りなく喚起させ、鼓舞させてくれる作品であること。
読後、誰かに強いられたのではなく他でもないわたし自身が自発的に
「この作品の感想を誰かと語り合いたい。ぜひとも感想を書きたい!」と
思わせてくれる作品がわたしにとっては最良の作品なのです。
「ケマナイ」についてのわたしのささやかな感想が◆WNrWKtkPzさんを少しでも
感動させたとするならば、それは大元である「ケマナイ」の作品の力に負う
ものが大きいのです。
読んでいるとき、わたしは作品世界に入り込んでおり、そこに「わたし」は
いない。「わたし」という人間はそこでは読む道具、物語を受け止める器に
すぎないのです。
つまり、「わたし」を突き動かしているのは、作品の力そのものなのですね。

「読者」の誕生とはわたしにとって、そういうことなのかもしれません。。。


107: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:02:50
>>96-100
>どこからか「やってくる」みたいな感じ。
>マンガを描くときにもあるんだろうか>サウオン
きっとあると思いますよ!
創作(小説、詩歌、絵画、作曲、漫画、彫刻、建築など)に携わって人たちは
多かれ少なかれそうした奇跡のような瞬間を体験しているはずです。
「啓示」と呼んでもいいでしょうね。
その瞬間、ミューズの女神と創作者は相愛になるのです。
創作するものにとっては、まさに至福の瞬間です。
時代がいくら変わっても創作する人は後を絶たないでしょう。
彼らは皆、ミューズの女神とのひそやかな交感の体験者たちなのですから。

>誰かが書く、というときの非人称性みたいなやつは、
>決して没個性ということじゃなく、個性と離反しない、
>というか、世間のしがらみにくっついたエゴから自由になることで、
そうですね。書くことはいろいろな意味で世間や己れから自由になること、
解放されることです。
よく言われることですが、言葉に置き換え、書くことができる人はぎりぎりの
ところで踏みとどまっていられる、と。
言葉に置き換えられない人、書けない人は危ない、と。
(但し、自分の言葉を過信し高慢になっている人は別…)


108: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:04:21
>ブランショにおいては、おそらく、本当に書くためには、
>「わたし」という人称が消えなくちゃならない。
>「わたし」は「彼」に、さらにいえば「誰か」になる必要がある。。。
プロ作家の方がよく言われていることですが、「書いているうちに自分が
あたかも物語のなかに入り込んでいるような錯覚を覚える。
物語を書いているのは傍から見ればまぎれもなく私自身なのだが、
実は自分であって自分ではない、わたしという名の誰かが書いているのだ」と。
作家とは小説を書くための器、執筆する道具にすぎないのですよね。
ミューズの女神がたまたまその人を気まぐれに選んだだけかもしれません。
だから、書くときは自分を空っぽにしておく必要があると思うのです。

アインシュタインがこんなことを述べています。
「頭はつねに空っぽにしておくがいい。知識が必要なときは図書館があるさ」
作家にも同じことがいえるでしょう。
「わたし」という人称は消えていたほうがいい、必要なとき、物語はその人に
舞い降りるのだから。むしろ「我」が強すぎる人には舞い降りない。
創作する人たちは憑依体質であり舞い降りるものの代弁者のような気がします。


(つづきます)


109: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:54:45
(つづき)

>だから、小説作品を読み解くために、
>作者の生涯とか生い立ちとか人生とかは関係がない、
>書かれたテクスト(=記号の集積)だけを読めばいい、
>そういう視点での「作者の死」だね。
まさしくそのとおりです!
作者の生涯とか生い立ちとかは、文学を学問として研究する一部の専門家、
学者には必要かもしれませんが、一般の読者は作品のみを読めばいい。
わたしたちは作者の生い立ち、作品が書かれた背景を何も知らぬままに、
書かれたテクストとだけ向き合います。
それが「読者の誕生」ですね。

「作者の死」とはわかりやすく言うと「よみ人知らず」のことではないでしょうか?
わたしは万葉集や古今和歌集が好きなのですが、「よみ人知らず」の歌の
なかには有名な歌人にも引けを取らない優れた和歌があります。
わたしたち読者は無名の作者の生い立ちや背景を何ひとつ知らされることなく
詠まれた歌のみと向き合うのです。
まさしく「読者の誕生」です。


110: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:55:32
>バルトの主張は、「わたし」が書くのだとしても、
>書かれた言葉は「わたし」を通り過ぎていって、
>言葉の世界独自の戯れによって読者へと作品が届く、という感じ。

両者の主張は微妙なズレがありますよね。
バルトの主張は、種蒔き人と花を観賞する人の関係に似たものを感じます。
小林秀雄だったか井上靖だったか記憶が確かではないのですが、
文学対談で以下のようなことを述べていました。

「小説とは自宅の庭で丹精込めて綺麗に咲かせた花を、道ゆくひとたちに
披露することである。道ゆくひとたちは、その庭の家の主が誰なのか知らない
けれども美しく咲いた花を眺めて目を細める」
わたしたちは通りすがりのものであり、誰かの庭先で綺麗に咲いた花を
愛でるだけの存在でいい。
その庭の家の主がどういう人なのか、詮索は二の次なのです。
眼前に咲いている花を見てこころが打たれる、それだけでいいのです。


111: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:56:34
>ブランショの主張は、まず「書く」行為そのものの中で、
>「わたし」が死んで「誰か」にならなきゃならないし、
>そういう死を抜きにして「書く」ことはできない、という感じ。

ブランショの主張は、「書く」行為の中で作者が「誰か」になる行為とは、
〝作者=種蒔き人〝が、〝誰か=陽光や水、花の肥料〝になる必要がある。
花の手入れをするのは作者には違いないのだけれども、いったん種を蒔いたら
花に必要な養分そのものにならなければならない。
そうした「わたしが誰かになる」という変身行為を抜きにして
花は咲かせられない。。。
なぜなら、陽光や水、肥料は意思・人格が存在せず、
彼らを養分とし、成長しようという生命力、意志は最終的には植物そのものに
委ねるしかないのだから。
つまり、種蒔き人は意思・人格を抹消し、養分そのものになりきらなければ
植物の意思とぶつかり合ってしまう。
ひとつの植物に人格はふたつは要らない、ひとつだけでいい。


112: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:57:52
>ボルヘスの場合だと、円環について語っているとはいえ、それは、
>物語とはいえない物語、物語になりうるであろう物語、あるいは、
>物語にまで昇華されていない物語の卵、あるいはまた、
>流産させるがままにした物語の水子ともいえるプロットにおいてであって、
>胚胎したアイデアをあえて物語にまで育てようとはしていない感じ。
大変わかりやすい説明、ありがとうございます!
先ほどの、作者=種蒔き人に喩えるならば、種を蒔く人は開花状態よりも
発芽、もしくは蕾の段階であえて披露していることが窺えますよね。
あとは読者である鑑賞者が好きに自由に独自の想像力に任せてお楽しみ
ください、というメッセージのようなものを感じます。

ボルヘスの円環とは、作者は発芽(蕾)までは面倒を見るが、開花に至る
までは読者にお任せしますよ、どうぞあとはご自由にそれぞれ咲かせたい
花を咲かせてください、ツルや枝葉は伸ばしたいだけどうぞ、
そうした広がりが円環をもたらしているのだ、と思えます。

(所蔵図書がどんどん増殖し、果てなく広がる宇宙図書館「バベルの図書館」は
まさに円環の象徴!)

ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」読了しました。
感想、書き上がっていますが、、、
お忙しいと思いますので(わたしのコメントを読むの、大変だと思います。。。)
upは出張から完全にお帰りになられたときのほうがいいのかな……?


113: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 17:12:50
カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」
短編集「魔法の庭」を借りてきました♪

週末にゆっくりと読もうと思います。


114:吾輩は名無しである
09/04/18 00:48:42
おじょーちゃん大丈夫じゃないんだろうなぁきっと。あぁ。
感情の渦みたいなものに巻き込んじゃってごめんね。
どうにかしようと思ったんだけどなぁ。

115:吾輩は名無しである
09/04/18 00:57:12
そうなればいいと思ったようになればいいと俺も思ったんだけどなぁ。
上手いこと着地出来ればと。

116: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:23:22
>>104-113

戻りました。桜はすっかり葉桜になったけど、
しかし、4月の植物の成長はものすごい!

>「んなことばっかしてないで運動しろよ」 と声をかけてくださったのですよ~♪
いい奴だな~(笑 
普通は他人に対して親戚みたいに言ってあげることはできないもんね。

>そちらのほうではこれから新しく読むことは困難だと思いますので・・・
そうなんだ。年々本が読めなくなってるし、音楽からも離れてるんだよナ。

>先ずは目の前の作品とまっさらな気持ちで向き合いたい・・・
いや~、それができるのは素晴らしいことだね。

>創作する人たちは憑依体質であり・・・
このあたりは、うまく流れの中でコメントしてくれたので、
とてもわかりやすい! 憑依=トランスというのは、
トランスという接頭語を使う英語をいろいろ考えてみると、
旅に出掛けることができる力、といえるかもしれないナ。

117: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:32:35
(つづき)

植物を作品に喩えた比喩もとても面白い!

>誰かの庭先で綺麗に咲いた花を愛でるだけの存在でいい。
その「小林秀雄だったか井上靖だったか」の言葉、なかなかいいね。
庭を見るとその家の人のセンスや好み、ライフスタイルまでが、
結構見えてしまったりするんだけれど、作品も庭と同じで、
主張しなくても作品の中で作者は表現されてしまう。
そこでの作者は固有名詞に頼らない存在へと純化されるようにして、
社会的地位とか年齢とかいったさまざまなイメージの洋服を脱いでいき、
もはや「わたし」という人称さえも脱して「誰か」になっていくことが、
>〝作者=種蒔き人〝が、〝誰か=陽光や水、花の肥料〝になる必要がある。
という面白い比喩につながっていくんじゃないかと思うね。

118: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:36:49
(つづき)

作品を植物に喩えた話の流れの中での、
ボルヘスについてのくだりもお見事!
プルーストの『失われた時を求めて』だと、
種を撒いて、水をやって、発芽して、茎が伸びて、葉が茂って、
花が咲いて、剪定して、再び茎が伸びて、云々、というのを、
延々と見せていて、最後に花から種をとって、
さあそれをこれから土に撒こうか、というところで終わるんだけど、
ボルヘスはまったく花を見せない作家といえるだろうね。

ナンシーにカルヴィーノか。相変わらず精力的に読んでるなぁ。

119: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:49:42
おかえりなさい。お疲れさまでした。
ご無事で帰られて何よりもうれしいです。

>いい奴だな~(笑 
>普通は他人に対して親戚みたいに言ってあげることはできないもんね。
本当にいい方ですよね。感謝してます。

>憑依=トランスというのは、
>トランスという接頭語を使う英語をいろいろ考えてみると、
>旅に出掛けることができる力、といえるかもしれないナ。
ああ、なるほど!
旅に出る、この地から出発すること、何者かに憑かれて(導かれて)旅に
出ること、作者はただ水先案内人に従って旅の道中を書き留めるだけでいい、、、

>植物を作品に喩えた比喩もとても面白い!
ありがとうございます♪
◆WNrWKtkPz. さんが趣味でいろいろな植物を育てていらっしゃると伺い
そのことがきっかけになりました。

>そこでの作者は固有名詞に頼らない存在へと純化されるようにして、
>社会的地位とか年齢とかいったさまざまなイメージの洋服を脱いでいき、
そうですね。書いているとき作者は固有名詞を捨てて、ただの「書く人」に
徹しなければならないんですね。そうした付随的なもの、地位や固有名詞は
作品を書く上でむしろ、邪魔であり足枷になると思います。
巷間よく言われている「処女作が一番勢いがある」とはまさに的を射てます。
処女作とはまさに作者が無名であった当時、初めての作品なのですから。

120: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:51:20
>作品を植物に喩えた話の流れの中での、
>ボルヘスについてのくだりもお見事!
ありがとうございます! 
ボルヘス初心者にも拘わらず生意気なことを書いてしまったかなあ、と
思っていましたので、とてもうれしいです。

>ボルヘスはまったく花を見せない作家といえるだろうね。
宇宙規模の図書館を夢想したボルヘスならではですね。
一度でも開花してしまうと花の色、形、香りなどイメージが固定されてしまい、
ひとりの作者につき花はひとつと限定されてしまいますが、開花しないがゆえに
読者がそれぞれ好きに自由に自分の花を咲かせます。
つまり、ボルヘスという名の著作=花は読者の数だけあるということです。
そして、その花=著作は増殖しつづけ、バベルの図書館のように延々と
無限に延びていく。。。

>ナンシーにカルヴィーノか。相変わらず精力的に読んでるなぁ。
いえいえ、それほどでもないです。
カルヴィーノの短編は読み終えましたが、もうひとつのほうはなかなか
読み進まない。。。
読む力=旅をする力、速度が弱まっているような……?


では、しばらく前に書いた、ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンレ」
の感想を2回に分けてupします。

121: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:52:09
ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」読了。
このテーマで描かれたイエスの復活の場面の絵画は数多くある。
復活はキリスト教においても最大の奇蹟でもある。

マグダラのマリアにとって復活したイエスは園丁にしか見えない。
イエスが「マリアよ」と呼びかけたことで初めてマリアは目の前にいる人が
イエスだと気づく。マリアは手を伸べて触れようとするが「私に触れるな」
と諭す。

ナンシーは〝触れること〝は官能と暴力の二面性を持ち、
受苦と享楽は他方を押し返しつつ、交叉し出会うことである、と指摘する。

また、マリアに発せられた言葉をナンシーは以下のように分析している。
―きみは見る、しかしその<視>は触れることではないし、触れることでは
ありえない。きみが見るのは現前していないものだ。きみが触れるのは、
きみの手の届かぬところにある。きみが眼前に見た者はすでに出会いの
場所を離れているのだ―(p35-36)

―私に触れるな、私を引き留めるな、私は父のもとへと出発するのだから、
すでに私は発っている、私はこの出発のなかにしかいない。
私は出発の出発者であり、私の存在はそこにあり、私の言葉はこうだ。
「私、真理は、出発する」―(p29)

122: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:53:05
そして、最後にこう結論づけている。
―私に触れるな、私がきみに触れるのだから、そしてこの〝触〝は離れて
いてもきみを繋ぎ止めて守る、そんな〝触〝だ。
愛と真理は押し戻して拒みながら触れる。愛と真理が私たちに寄せるもの、
それは真理の遠ざかりである。
そろそろはっきりさせてもいいだろう。ノリ・メ・タンゲレはたんに「私に触れるな」
と言っているのではなく、「私に触れようと欲すな」ということである。
きみは何も掴むことはできないし、何も引き留めることはできない、
そしてそれこそが、愛の知のありようなのだ。きみを逃れるものを愛しなさい。
去る者を愛しなさい。その者が立ち去るのを愛しなさい―(p52-53)

―キリスト教的愛の不可能性は、まさに不可能なものの立場に
自らを保たなければならないという意味である―(p73)

ナンシーの「私に触れるな」についての展開と結論は、ある意味において、
男女の究極の愛のあり方であるかもしれない。
相手に触れることなく愛しなさい、立ち去る相手を愛しなさい。
この愛し方はプラトニックな愛とはまったく異なっている。
プラトニック・ラブとは触れることが可能であるにも拘わらず、あえて触れない
愛し方だから。

123: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:54:04
これに対してイエスの「私に触れるな」は、現前の相手はすでに出発して
しまった者であり、触れることができない。いや、正確に言うならば、
触れることはできるが、触れた相手は実はすでにそこから立ち去っている
のである。
身体はあってもその身体はこの世における借り物(園丁)の身体であり、
真のその人(イエス)ではない。
では、なぜ、イエスはマリアに現れたのか?
イエスは自身の復活を皆に知らせるための使者として、十二使徒ではなく
マリアを選んだからである。

復活したイエスはマリアには「私に触れるな」と諭す一方で、ふたりの弟子
にはこのように告げている。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたし自身である。
手を触れて確かめなさい」(ルカ24-39)

マリアには触れるな、と言い、弟子には触れて確かめよ、と言うのはなぜか?
おそらくは、マリアのほうがよりイエスに近かったのではないだろうか?
信仰においても、愛することにおいても、マリアはほかの弟子たちよりも
勝っていたはずだ。
それはマリアが異性だから、と決めつけてしまうのはあまりにも短絡的
すぎるような気がする。(その線が濃厚ではあるが……)

復活したイエスは「マリアよ」とひとこと声をかけただけで、マリアは
イエスの復活を瞬時に信じた。
ところが弟子たちはなかなか信じようとはしなかった。
それでイエスは「わたしに触れて確かめなさい」と確認させたのだ。

124: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:43:20
(つづき)

ナンシーは男女間で「触れること」は官能のあり方だと述べているが、マリアに
触れることを禁じたのはまさに官能とは違う次元の愛を示すことに他ならない。
look

しかし、元・娼婦のマリアが触れようとした動作は考えてみるとなかなか奥が深い。
娼婦とは相手に触れることが商売であり、その行為によって生を得ている。
つまり、触れられない者と関わることは死を意味する。
マリアは復活したイエスを信じずることによって、自らの生を放棄したことになる。
at

イエスの教えと復活を広めた弟子たちも同様である。
彼らは信じた時点で生を放棄している。実際、弟子たちは獄死したり、拷問を
受けながら死んでいる。
can

―受苦は享受かもしれず、享受は受苦かもしれない。この弾断絶の点に
触れることを欲するな、触れようと努めることさえするな。
なぜならそこでは本当に、私は(男であれ女であれ)砕けてしまうだろうから―
(p73)

ナンシーは、「抱擁の不和が真理そのものを定義し終わりなく深淵に投げ入れる」
と結んでいます。

125: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:44:02
触れることは、抱擁とは相手との結合ではなく、崩壊だとは……。
始まりが終わりであるように、男女間においても、触れることはふたりの
関係の終わりを示すことだと。
the

永遠の愛とはふたりの間につねに一定の距離が保たれていなければならない。
触れられないこと、触れることを欲しないこと、にも拘わらず愛すること、
それがイエスとマリアの愛のあり方。
信仰とはおそらくそうした愛のあり方なのだろう。
復活したイエスを見ようと欲しないこと、復活したイエスを見なくても信ずること、
キリスト教徒たちはそうした愛のあり方を、イエスと自分との関係において
肯定すること。
prattle

わたしはナンシーを読むのは「共同体―コルプス―」に次いで二冊目である。
「共同体―コルプス―」には吉増剛造の「オシリス」が取り上げられていた。
全部を理解できたわけではなかったが、この著者は文学にも造詣が深いらしく、
なかなか興味深く読んだ。
そして、今回は聖書の復活の場面について、考察している。
ジャン・リュック・ナンシーは哲学者であり、哲学とは文学、宗教とも密接な
関わりがあることは周知のことであるが、自分が読んだ書物について
論じられているのはまことにうれしいことである。

126: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:44:46
今回は有名な復活の名シーンを取り上げての考察である。
(聖書は割りと読んでいるほうなので、今回は入りやすかった)
マリアに発したイエスの第一声「私に触れるな」を取り上げたナンシーの
着眼点はなかなか鋭いと思う。
「触れる」ことは男女の官能を呼び起こす行為であるが、
〝聖なるもの〝は触れてはならない存在なのだ。
復活したイエスは天の父のもとで祝福を受けていないので、この時点では
未だ聖なるものではない。しかし、イエスは「触れるな」と諭す。
become

ここを読んで、脳裏をよぎった言葉がある。
「聖なるものとは交感です」と言ったバタイユの黒い天使ことロールの言葉である。
交感とは、すなわち触れ合うこと、官能の行為である。
literature

ナンシーは、復活したイエスは触れ得ぬものであると提言する。
なぜなら、眼前の園丁の身体はイエスのものではないのだから。
この場所にイエスはもういないのだから、出発してしまっているのだから。
kemanai

触れ得るものとの交感を「聖なるもの」とするロール、
触れ得ないものゆえに「聖なるもの」とするナンシー。
両者は異なっているようでいて、実は近い。
なぜなら、「聖なるもの」の聖性とは死に隣接しており、死を超越したものだから。
(ロールの師バタイユは真のエロス、法悦はつねに死と密接な関係にあることを
看破している)


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