「~あづまやで雨宿り~ in文学板」at BOOK
「~あづまやで雨宿り~ in文学板」 - 暇つぶし2ch50: ◆SrzpdufPJY
09/03/09 21:13:29

名前、入れ忘れました。。。

「キリストと弟子たち」ルオー
URLリンク(www.yokokai.com)

―ばら色の夕焼け
日本人にルオーの作品を熱愛する人が多いのは、夕陽や夕暮れの
場面が多いからかもしれない。
 キリストと弟子たちの行く手には、ばら色の夕焼け雲が大きく
一つ浮かんでいればいい……。
 そして、この三人とおなじように、魂の同伴者たちが歩く道にも、
このばら色の夕焼け雲がふさわしい―(抜粋)


51: ◆SrzpdufPJY
09/03/13 16:51:12
あちらのスレに新客が…
しばらくは様子見て傍観しよう
書くのを控えよう

52: ◆SrzpdufPJY
09/03/15 01:13:36
おかしな人がブログのリンク貼ってる…
やめてほしいよ(T_T)

53:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/15 18:24:41
珍客だね(笑 こういうBBSじゃしょうがない。
まあ様子見だ。こっちのほうは長文がたまってるので(汗
これからじっくり読もう。。。

>>24-28 「めぐらし屋」堀江敏幸
>>29-36 「灰色の輝ける贈り物」アリステア・マクラウド
>>37-40 『盆栽老人とその周辺』深沢七郎
>>41-46 「金剛石のレンズ」(フィッツ=ジェイムズ=オブライエン)
>>47-50 「明るい夕方」吉本ばなな

しかし、これらの他にもいろいろ読んでるんだろうから
相当な読書量だね。うらやましい。

54:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/16 23:42:05
堀江敏幸は2作ほど読んだかな。
優しい世界を書く人だね。
あまりに優しいからちょっと合わなかった。

アリステア・マクラウド。
この作家はいつか読んでみたいと思ったなぁ。
>マクラウドは「死」を決して美化して描きません。
>いつだって「死」は唐突で理不尽なものであり、残酷なものとして描ききるのです。
この文章を読んでちょっと興味が沸いた。

深沢七郎の『盆栽老人とその周辺』。無気味おかしい作品だね。
>盆栽にされた樹木の枝々が捩れているのはそのためなのだろう。
>つまり、不自然な形、歪みを人工的につくるということだ。
>盆栽はあえてそうした「捩れ」という歪みを愛でる趣味なのかもしれない。
鋭い! 美は乱調にあり、なんて誰かが言ってたけど、
シンメトリーを崩し、枝を捩れさせて、
自然ではないミニチュア人工庭園を現出させる。
ちょっとネクロフィリアっぽい趣向があるのかもしれない。
そういう意味では確かに「中国の纏足」にも通底するかも。
島尾敏雄や安部公房『砂の女』みたいな幻想味はないけど
深沢の話は「ザ・物語」って感じで好きなんだな。

55:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/17 00:02:32
F=J・オブライエン『金剛石のレンズ』
幻想味というとこの作家のは紛れもない幻想だね。
表題の作品はマンディアルグにも似たようなモチーフのものがあったけど、
機械や技術に幻想を織り交ぜていくタッチは
ホフマンやポオ、日本では江戸川乱歩あたりにも見られるかな。
個々の作品には具体的にはつっこめないけれど、
「失われた部屋」「ワンダースミス」「手から口へ」なんかは
上手いな!と思いながら読んだっけ。
「墓を愛した少年」はまだ読んでないかもしれない。

吉本ばななは『キッチン』しか読んだことないけど、
彼女の作品から力を与えられる女性は少なくないみたいだね。
お父さんの吉本隆明も少しだけ読んだけれど、
なかなかクセのある文体で読みづらかった。
読んだ本を買い直させる力が「明るい夕方」にはあったんだね。

56:22 ◆WNrWKtkPz.
09/03/17 00:20:28
いま読んでいるのはJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』。
ノリ・メ・タンゲレ(Noli me tangere)というのはヨハネ福音書20章17節にある言葉で、
宗教画家たちがイエス復活の場面として好んで描いたモチーフとのこと。
「ノリ・メ・タンゲレ」で画像検索するといろいろな絵が出てくる。

イエスの墓の前で嘆き悲しみに暮れていたマグダラのマリアの前に復活したイエスが現れ、
マリアがイエスに近づくが、「我に触るな。我はまだ父の御許しを得てはいない」と、
マリアを拒諭し、身をかわす一場面を指す。
URLリンク(www.salvastyle.com) から引用

この場面をナンシーはどういうふうに読み解いていくのか。。。
今週中に読み終わるかな。

57: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:31:44
>>53
あちらはしばらくお休みします。。。(汗、汗
しばらくは、ここを雑談と読書感想を兼ねて使おうと思います。

>これからじっくり読もう。。。
どうぞ、ごゆっくりお読みくださいませ♪
あづまやは雨宿りするだけではなく、休憩場所でもありますので
休憩時間はお好みのままです。

>相当な読書量だね。うらやましい。
いえいえ、そんなに多くはないです(汗、汗、汗……)
吉本ばななさんの作品はかなり前に読んだものの再読ですし、、、

このところ、幻想文学に比重を置いて読んでいます。
海外の作品は、怪奇、オカルト、SFと幻想文学の定義が多義的ですね。
定義がないところが幻想文学らしいといえばらしいですよね。
空想が果てしなく広がる、、、
クロード・シモンはヌーヴォー・ロマンのジャンルに枠付けされていますが、
幻想文学も書けたのではないかな、なんて楽しい想像をしてしまいました。


58: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:32:15
>>54-56
>堀江敏幸は2作ほど読んだかな。
>あまりに優しいからちょっと合わなかった。
堀江さんの作品は作風がやさしいですよね。それがちょっと物足りなく感じる人も
いると思います。
ばりばりハードな作品を読みこなしている人からは、手応えがなさすぎるかも
しれませんねえ。。。

>アリステア・マクラウド。
>この作家はいつか読んでみたいと思ったなぁ。
作品の数はものすごく少ないです……。
貧しい生い立ちで工夫などさまざまな肉体労働に従事しながら独学で文学と
哲学を学び、現在は子供が六人、大学で教鞭を執っているそうです。
その合間合間を縫って小説を書いているので作品数は少ないらしいです。

>シンメトリーを崩し、枝を捩れさせて、
>自然ではないミニチュア人工庭園を現出させる。
箱庭みたいなちょっとしたマイ庭園ですかね?
箱庭ってつくったことはないのですが、興味はあります。
自分の好きなものだけを集めた究極の庭か……。
わたしがつくるとしたら、五月の森かな。
小川が流れていて、川のほとりには水車小屋があり、水車はカラカラと音を
立てて回っている。水車は小さな虹をつくっています。
小屋の周囲にはミモザ、コニファー、が植えられています。
川岸にはタンポポ、菜の花が咲いています。


59: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:33:13
>深沢の話は「ザ・物語」って感じで好きなんだな。
もろ「人間」を描く作家ですよね。(「楢山節考」も然り。。。)
村の人間が物語をつくりだし、物語は村の人間をつくる。
相互関係が絶妙!

>機械や技術に幻想を織り交ぜていくタッチは
>ホフマンやポオ、日本では江戸川乱歩あたりにも見られるかな。
顕微鏡に寄せる狂気の情熱は江戸川乱歩の「押し絵と旅する男」をほうふつ
させます。
「押絵と旅する男」は望遠鏡越しに見た押絵のなかの娘の美しさに惹かれた
男のお話です。まさに日本版「金剛石のレンズ」!!↓
URLリンク(www.japanpen.or.jp)

>いま読んでいるのはJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』。
最寄の図書館にありました。来週明けくらいには借りられるかな。
復活したイエスか。。。カトリック教会の今年の復活祭は4月12日です。
「ノリ・メ・タンゲレ」で画像検索したらこんなにもいっぱい出てきて驚きです。
キリスト教国の画家たちにとって、「受胎告知」と同じくらい関心の高いモチーフ
なのですね!
URLリンク(images.google.com)


60: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 12:33:58
「現代イタリア幻想短編集」読了。
カルヴィーノの作品をかなり前から読みたかったのだが、なかなか機会が
なく、今回ようやく読むことができた。
とはいえ、この短編集に入っているのは「アルゼンチン蟻」の一編のみ。
赴任地で蟻が家の中、庭、至る所に湧き、退治しても退治してもどんどん
押し寄せ、やがて家も人も侵食していく。。。
その不気味さは、さながらヒッチコックの「鳥」のようである。
とにかく追い払っても追い払っても地面から際限なく湧いてでるのだから。
幻想文学というよりは、よくできたホラー映画を思わせる。

他の作家ではわたしの好きなブッツァーティーが2編所収されている。
彼の作品は不条理と風刺に満ちており、その冷酷なまでのまなざしが
なかなか好きである。(「コロンブレ」「魔法の上着」)
あとは、パピーニ(「返されなかった青春」「自分を失った男」)、
アルピーノ(「猿の女房」「娘は魔女」)、などが印象に残った。
パピーニの作品は、「時間」や「個」を主題にしており哲学的である。
読後、読者に考えさせる作家でもある。
ハイデガー(時間)やデカルト(私である存在)を想起した。
彼らがもし幻想小説を書いたならこんな感じだったろうか?
そんな楽しい読後感を抱いた。


61:吾輩は名無しである
09/03/18 12:34:37
アルピーノの「娘は魔女」はオカルトめいていて不気味さもひとしおだ。
怖い、怖い……。
年端もゆかない娘のお腹が膨らんできた、それも性交渉があっての
結果ではなく「子供のことを考えたらいまできたのよ」。
まるで映画「エクソシスト」だ!
お腹のなかに宿っているものの正体は……?

同じ作家の「猿の女房」。
これには胸を突かれた。
サーカス小屋の支配人から格安で買い受けた体長40センチほどの雌猿。
この猿は「私」の4番目の妻である。
雌猿の名前はジルダ。とてもよく働く。料理、掃除、洗濯、と家事をこなす。
ジルダは裁縫も得意でスカートや寝巻きを自分で縫い上げる。
家にいるときは手製のスカートを履いてかいがいしく働き、夜、眠るときは
これもまたお手製のうすもののネグリジェを「私」のために纏い、同じ
ベッドに入る。
ジルダへの愛撫は全身を何往復か撫でてやるだけで満足し、喉を鳴らす。
ジルダはときどき鏡に全身を映し、もう少し背丈があればいいのにと
嘆いている。
実は「私」の唯一の不満もジルダの背丈が小さすぎることなのである。


62: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 15:20:56

名前、入れ忘れました。。。

(つづき)
ある日、「私」とジルダは動物園に行く。
そこで人間の背丈ほどもあるゴリラを見る。
「私」はジルダに「きれいだ! 巨人じ゛ゃないか」と挑発する。
ジルダは家に帰ると洗面所にこもり長い間激しく泣いた……。
そして、その夜睡眠薬をひと瓶飲んで自殺を図るのである。
「私」は暗澹とした気持ちで救急車を呼ぶ。。。

ここで猿のジルダは人間の女性と同じようなこころを持った存在として
描かれている。
「私」は今までの3人の妻よりもジルダを愛しているのだが、どこか残酷な
人間として描かれている。
読んでいて胸を突かれたのは、ジルダが「私」を一心不乱に愛していること、
香水をつけるのも、スカートやネグリジェを縫うのも、家事もすべて「私」への
愛情の行為なのである。
それを知った上で「私」はときどき残酷な仕打ちをする。
ジルダには感情はあっても思索はない。
それが涙を誘うのである……。


63: ◆SrzpdufPJY
09/03/18 15:26:57
この作家は人間でありながらそうでないもの(魔女)や、獣でありながら
人間の女と同じこころを持つ猿など、人の肉体≠人の精神を描くことに
長けている印象を残した。

(ちなみにわたしは猫オタであるが、猫が豹や虎くらいに大きければいい、などと
望んだことは一度もない
猫はあの体長でこそいいのだ。丸いしなやかな体はあの体長でこそ愛らしく
かつ優美であるのだから)

さてさて、わたしの幻想小説への旅は始まったばかりなのです。
It continues still.

今手元に借りてあるのは、日野啓三の「夢を走る」、「砂丘が動くように」。
(注 「幻想文学」スレを参照しています♪)
この二冊を読了したらJ=L・ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』を
借りてくる予定。


64: ◆WNrWKtkPz.
09/03/20 01:04:08
>「現代イタリア幻想短編集」
おっ、伊太利亜モノ読んだんだね!
結構伊文学好きなんだよな~
カルヴィーノ、ブッツァーティはもちろん、
パピーニもフェイヴァリット作家で
ボルヘス編の「バベルの図書館」のやつも読んだよ。
アルピーノはちょっと印象が薄いけれど
ほかにもポンテンペルリ(なぜかルを小さい字で表記)とか
ランドルフィとか短篇の奇才が多いんだナ。
このへんの話はまた。

65: ◆WNrWKtkPz.
09/03/24 23:26:04
>パピーニの作品は、「時間」や「個」を主題にしており哲学的である。
確かにそういう哲学的な雰囲気あるねえ。
ボルヘスに通じるような作家だね。

>ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』
短い作品だったから先週読了。

>日野啓三
この作家はほとんど知らなくて、ちょっとかじったことがある程度。
古井由吉的な雰囲気があるなあという曖昧な印象しかないんだけど、
あまり幻想文学という感じがしなかったっけ。

4月は長期出張が入ってバタバタしそうな気配。。。

66: ◆SrzpdufPJY
09/03/25 23:06:24
携帯からです
アクセス規制…(T_T)
今日図書館でボルヘス「伝奇集」とナンシーの「私に触れるな」借りてきました

最寄りの駅の構内のプランターにチューリップとマーガレットが植えられています
春ですね
でも今日は寒い…

67: ◆WNrWKtkPz.
09/03/27 00:46:59
ボルヘスはストーリーといえるほどのものが
どの作品を読んでもほとんどないから
たぶん合わないんじゃないかと思うけれど
どうかな?
ちょっと碩学的というか哲学的な視点もあって
当方は結構好きな作家だけれど。

ナンシーも哲学者だから
キリストが題材とはいえ少し苦労するかも。

68: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:12:20
>>64-65 >>67
イタリア文学はブッツァーティ以来です。
幻想文学はなかなか粒よりのものがありますね~。
これから少しずつ読んでいく予定です♪

>ボルヘス編の「バベルの図書館」のやつも読んだよ。
これから読む課題図書として認定~♪

>4月は長期出張が入ってバタバタしそうな気配。。。
お忙しいですね。お疲れさまです。

>>日野啓三
>この作家はほとんど知らなくて、ちょっとかじったことがある程度。
>古井由吉的な雰囲気があるなあという曖昧な印象しかないんだけど、
>あまり幻想文学という感じがしなかったっけ。
そうなんですよ~(笑い)
わたしもまだ2冊だけしか読んでないので偉そうなことは言えないのですが、
幻想文学の〝核〝となる要素がちょっと薄いような印象を持ちました。。。


69: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:13:00
ここ、一応、四方山話もOKですので、少し雑談を。。。
いよいよ桜の開花が始まりましたね♪

21日にマザー牧場に行ってきました。
緩やかな大斜面一面に植えられた300万本の菜の花はなかなか壮観でした!
とにかくあたり一面が金色に染まっているのですよ。
何だか別天地に来たような気分。桃源郷ってこんな感じなのかなあ……?
菜の花の香りは少し青臭くて、花の香りというよりは若草の匂いに近いかも。
ぐんぐんと生命力を感じさせる躍動感のある匂いです。
圧倒的な菜の花の足元周辺には、たんぽぽ、野すみれが遠慮がちに
咲いていましたよ。
野すみれは淡いやさしいうすむらさき色で大好きな花です。
群青に近い濃いすみれ色よりも、野すみれの穏やかな淡い色合いのほうが
断然に好き。
牛も羊も子豚もアヒルもみんなのんびりしていて、のどかな春の一日でした♪

そうそう、最寄の駅にチューリップとマーガレットがいつものプランターに
植えられていました♪

「春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける」
「山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり」
―万葉集より

70: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:13:41
日野啓三の「夢を走る」、「砂丘が動くように」読了。
「夢を走る」は短編集。「砂丘が動くように」は長編。

先ずは「砂丘が動くように」。
日本海に面した砂丘のある町での物語。
三人の人物がそれぞれの章において一人称で語られている。
東京からやってきたフリーライターの沢一郎。
彼はこの町のひと気のない町並みと砂丘が醸し出す得体の知れない不気味さに
惹きこまれる。
彼が砂丘に興味を持ったきっかけは、この町でふとしたことで知り合った少年の
砂丘を型どった盆景を見たから。
少年は祖父から盆栽を習ったという。鉢に砂を敷き、美しい風紋までつけてある。
沢は少年にこの盆景の風紋はどのようにつくるのか、と問うと「砂の中にアリジゴクを
飼っているんだ」と答える。
毎日アリジゴクのために生餌を与える少年に沢は薄気味悪さを感じながらも
興味を覚えていく。

少年の盆景のような美しい風紋を実際の目で見てみたいと沢は望むが、砂丘は
死んだように眠っていて失望に終わる。
砂丘に同伴した少年は不思議な力で姿の見えないスナガニを呼び寄せる。
カニは蠢き砂丘を動かす。


71: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:15:33
スナガニとはおそらくキンチのことであろう、とわたしは推測する。
キンチは砂を食べて生きる生き物で、カニのような触手を持っている。
この得体の知れない生物は砂丘も町も腐らせていく。。。
危機に気づいたのはビッキーと呼ばれる女装する美青年。
彼は取り巻きたちに教祖のように崇められ、自らも教祖の如く振舞う。
ビッキーはドキュメンタリー形式のビデオを撮り、さり気なく人々に危機を伝えようと
するが……。
沢はビッキーと接触し、キンチから町を守ろうとするが狂人扱いされてしまう。

不思議な力を持つ少年には盲目の姉がおり、この姉もまた少年以上の特異な
能力を持っている。
彼女は人の行動を予知し、こころのなかを読み取るのである。
姉は子供の頃、ビッキーと特別な関わりがあったらしいが、二人の関係については
最後まで明かされない。
ビッキーがこの姉にだけは一目置いているという事実以外は、、、

沢はひとたび東京に帰るが、再びこの町に戻ってくる。
まるで何かに取りつかれたかのように……。


72: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 16:18:04
沢は少年に盆景のような風紋を一度でいいから見てみたいと乞う。
少年は不思議な力で風を呼び、風は沢の目の前で一瞬のうちに美しい風紋を
つくりあげたのだった。
その日から沢は完全な狂人になってしまう。
ビッキーは沢の精神破壊の原因に、彼が砂丘で何かを見たからに違いないと
踏んでいる。
沢は少年が呼んだ風が起こした風紋を見て狂喜するが、それはそのまま彼の
精神を破壊するものであったのだ。
実は彼が見ていたものはまぼろしであり、傍からは何も見えないのであった。。。

砂丘に棲息し砂を食べて生きている姿なきキンチとは何なのか、最後まで正体は
明かされない。
キンチは砂丘や町、そこに住む人々を侵し害あるものとしてのみ漠然と描かれる。

発狂するライター、女装する教祖のような青年、風やキンチを呼び起こす少年、
盲目の姉。
異世界に登場する人物としてはまさにぴったりな適役である。
謎めいた生物が出てくるのも幻想小説の王道ではあるのだが、、、


73: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 17:55:38
連投規制のためつづきはしばらくお待ちください…

74: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:25:21
読後はさほど幻惑状態にはならなかったが、わたしも一度でいいから実際に
この目で美しい風紋のある砂丘を見てみたいと強く思った。
何よりも慄然としたのは、キンチという謎の生物などではなく、少年が盆景に風紋を
つくるために飼っているアリジゴクである。。。
彼はアリジゴクのために毎日生きた虫を餌として捕まえ、与えている、、、
この事実のほうが遥かに怖い……。
アリジゴクはいつしか成長してウスバカゲロウとなり旅立っていくが、
成虫になるまでの間、生餌の虫の養分を生きたまま吸い出しているのである。
カラカラになるまで吸い上げたら、用済みの空っぽの死骸をポイと穴の外に放り出す。
あの透き通るような美しい翡翠色の羽を持つ虫の幼虫時代は何と残虐性を
帯びていることだろう!

ひとつの美の生成には他者の生き血を必要とし、犠牲にされる命がある。。。
(そういえば、昔読んだ本で、とある村の女領主が自分の若さを保つため
村の娘たちを生贄にして生き血を飲むという怖いお話があった……)

この作品では、生きた砂丘は美の象徴であり、砂を喰らうキンチは滅びの象徴として
描かれる。
惜しむらくは、読むものに砂丘の風紋の美しさ、キンチの不気味さがリアルに
迫ってこないということである。


75: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:26:31
女装した美青年も、不思議な力を持つ少年も、盲目の姉もたんなる〝置き物〝に
すぎない。
喩えるならば、この作品の人物たちはまさに人工的につくられた盆景のなかの
ひとつの風景でしかない。
整合性を持って意味ありげに美しく配置された駒のひとつ。

この四人に共通しているキイワードは「普通(尋常)ではない」ということ。
精神が病んでいたり、特別な能力を持っていたり、五官のひとつが欠けていたり、、、
彼らは異形ゆえ、異界を引き寄せてしまう。
そこで描かれ展開される世界は摩訶不思議な幻想の世界というよりも、異人たちが
織り成す美しい饗宴の物語である。
少年のつくりあげる精巧な風紋、盆景の人工美は、この作品をそのまま表わしていると
いえよう。

少し前に読んだ「金剛石のレンズ」でも人工美(擬風景、擬女)を扱っているが、こちらは
めくるめくような幻惑と圧倒的な狂気の世界に誘われる。
レンズのなかの小さな世界が醸し出す異様で妖しい情景は、読むものの想像力を
激しく掻き立てる。
日野啓三の作品にはそうした激しく掻き立てられるものがない。


76: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:27:20
解説に「都市幻想」という言葉が使われていたが、都市そのものが幻想的なのではなく
異界のものは常に外部から来るのである。
都市の持つもうひとつの別の顔は、相変わらず美しく取り澄ましたままであり、
都市そのものは熱を発しない。磁場(磁力)が弱い。

私見であるが幻想文学において「歪み」や「磁力」はかなり重要性を占める。
なぜなら、日常生活におけるはみ出し、異空間、狂気……、こうした尋常ならざる
ものたちは異様な熱を発し、ふと訪れたものを強烈な磁力で引き込み惑わすからである。
(「白日の狂気」「謎の男トマ」ブランショ、「摩天楼」「大鋏」「孤島夢」島尾敏雄)

日野啓三は幻想文学というよりも、人間の孤独を描くのが上手い作家だと思う。
それも人間の本来持つ根源的な孤独(絶望)ではなく、遥か宇宙へとつづいて
いるような軽やかな孤独である。
(代表作品に「光」という宇宙飛行士の話があるらしいが、納得である)

そして、その孤独も一般人やいわゆる普通の人たちではなく、特殊な人たち、
―特異な能力を持つ人、肉体的な欠損者、周囲と相容れず孤立してしまう人、
に限られているのが特徴である。
それゆえに、彼らの孤独は地上ではない、遥か高みのところ、無限かつ広大な
空間、宇宙へと飛翔する。


77: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:28:08
短編集「夢を走る」に所収された作品集、
「カラスの見える場所」(聴力を失ったテナー奏者の青年)
「星の流れが聞こえるとき」(異形の少女と追われている若者)、
「ふしぎな球」(予知能力があり、見えないものを空間から取り出す少年)
彼らは、その典型的な例である。
日野啓三はこうした人たちの内面を掘り下げ、抉り出すようなことはせず、
さらりと筆を進める。

ある種の選ばれた特殊な人たちと宇宙との関係は、緊迫感はさほど無くまるで
あたりまえのように描かれる。
彼らはこの世界に属する人種というよりも宇宙、異世界から来たかのようだ。
そう、日野啓三の人物たちは初めからこの世界に属さない人たちなのである。
この世界における姿かたち、身体はあくまでも借り物であり、仮の姿にすぎない。

異質なのはこちら側の世界に属するわたしたちのほうであり、
聴力や視力のない世界こそ、彼らにとっては本来の生きるべき世界なのである。
日野啓三の作品人物たちはそうした声のない主張をする。
その主張も巷間いわれるように遠慮がちでも控えめでもない。
堂々と主張しないまでも、その内面は揺るぎなき確固たるものがある。

「砂丘が動くように」の少年の盲目の姉は、カリスマ的人物のビッキーを
たじろがせている。
言葉数こそ少ないが、彼女の盲目の瞳は常人には見えないものを見、
ビッキーよりはるかに優れた預言者を思わせる。


78: ◆SrzpdufPJY
09/03/27 20:29:05
そう、日野啓三の人物たちは誰もが預言者なのである。
それゆえに畏怖され、異端視される。
彼らに対して人々の態度は二分化される。
中庸ということはありえない、―すなわち、崇拝か拒絶か、どちらかである。

幻想文学には曖昧さや謎がつきものであり、謎は謎のままであるがゆえに
幻想小説として成り立つと思うのだが、日野啓三の作品は曖昧さや謎は
残ったままなのになぜか読後感は希薄だ。
異質な世界への濃厚な誘惑感があまり感じられない。。。
あくまでも人工美の精巧で軽やかな世界だ。

>ボルヘスはストーリーといえるほどのものがどの作品を読んでも
>ほとんどないから たぶん合わないんじゃないかと思うけれどどうかな?
>ナンシーも哲学者だからキリストが題材とはいえ少し苦労するかも。
まだ借りてきたばかりなので何ともいえないのですが、とりあえずは
物怖じせずに読んでみようと思います。
感想が書けるかどうかは確約できませんが、、、


79: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:03:44
ボルヘス「伝奇集」のうち、数編を読了。
全部ではなく、無理をせず読めそうなものだけ読みました。(汗、
「バベルの図書館」「円環の廃墟」はとてもよかったです。
物語として面白かったのは「バビロニアのくじ」。

「円環の廃墟」は夢を見ながら、自身の夢の中で新たな理想的なアダム(若者)を
つくりあげようとする男の物語。
それゆえ、男の一日は眠り、かつ夢を見ることに費やされている。
男は夢の中で完全な若者を想起し、心臓や動脈をつくり、外見としての
肉体を与えた。次に二年の歳月をかけて血肉を与え世界の秘儀を教えた。
若者はようやく目覚める。
ある日廃墟は炎に包まれ、男は自分の死期がすぐそこに来ていることを悟る。
男は炎に向って進んだ。炎に包まれた男は暑さも痛みも感じなかった。
なぜなら、おのれもまた誰かの夢のなかでつくられた幻にすぎなかったから。。。

自分という存在は誰かの幻にすぎず夢の中でのみ生息しているという事実。
ここにあるのはつまり、肉体を持たないわたしの思考のみ、ということか。
そして、その思考もまた誰かの夢によって操作されたものに他ならない。。。


80: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:04:26
なかなか深遠なテーマである。
かの有名な「われ思うゆえにわれあり」はどうなるのだ?
そこに「わたし」はいないのか?
解説によるとボルヘスはブランショ等にも影響を与えた作家であるらしいが、
ブランショの「謎の男トマ」の書物の言葉(=思考)に自身が喰われてしまう
エピソードを想起した。
あのエピソードの少し手前に確かこんな印象的な言葉があった。

「われ思うゆえにわれなし」。
文字がかまきりのように読み手に襲いかかり、喰らい尽くし、「わたし」は言葉(=思考)に
よって消滅させられてしまう。
ブランショがかまきりを持ち出したのは、新しく生まれ出る命を創造したものは、
新しい命が生まれた瞬間、自身の存在を抹消させられてしまうことを
わかりやすく説明したかったからのように思う。

実は「謎の男トマ」のかまきりのエピソードに似たものはブランショにもうひとつある。
「私について来なかった男」の最後。
「彼」は「私」が書くこと、創作にかなり協力的であり、いろいろ助言質問するのだが
「私」が「今、終わりと書く」と書くことを辞めた最後のまさにその瞬間、
彼は「日の光とともに消えてしまった」。
残されたのは書かれたもの(書物、もしくは思考)のみ。。。

81: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:06:05
わたしが何かを創造する、創作する、しかし、その瞬間からわたしは存在しない
ことになるのだ。
なぜなら、このわたしはボルヘスの言葉を借りるならば「他の誰かの夢によって
つくられた幻」なのだから……。
幻のわたしが思索したこと、書き残したこと、それだけが残る。

ラカンは「人間の欲望は他者の欲望である」と提言したが、この「わたし」は
わたし自身の欲望を持つことはなく、「わたし」は他者の欲望によってつくられたと
するならば、最初から「わたし」という存在は失われていることになる。

「われ思うゆえにわれなし」。
まさにそういうことなのだろう。

ボルヘスはなかなか思索的で示唆に富んでいる。

82: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:06:56
「バベルの図書館」
この作品もなかなか興味深かった。
宇宙そのものが巨大な図書館であり、六角形の回廊で成り立っているという。
六角形というのは円形に近い形であり、円というのは宇宙数学的にみて完全な
形らしい。司書はそれぞれの階にいるらしいが一度もすれ違うことはない。
というのは、図書館は広大で無限であるから。
この図書館にはすべての図書を把握している「書物の人」がいる。彼はすべての
本を読み通し、神に似た存在であるという。
多くの者が「彼」を求めて遍歴するが誰も探し出せなかった。
そして、今、「わたし」もいよいよ最期のときを迎えようとしている。
「図書館は永遠を超えて存在する」「図書館は無限であり周期的である」
それが「わたし」の孤独に華を添えている。。。

この作品は図書館という膨大な知の宝庫に永遠性を託したボルヘスの
願いだろうか。
図書館とは神が人間に言葉と思考を与えた叡智の結晶である。
叡智の結晶である書物は紙媒体でできており、火や水に弱く保存が困難である。
しかし、このボルヘスの語るバベルの図書館においては、書物は永遠性を持ち、
周期的にあらわれる。そして、一冊も失われることはない。

83: ◆SrzpdufPJY
09/03/29 23:08:09
―どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったりすると彼は数世紀後に
おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現れることを確認するだろう。
繰り返されれば無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ―(p116)
まさしく、図書館は円環性を持つのだ。

図書館に行くといつも漂っているひんやりした空気、静謐さは実は墓地に通じている
ものがある、とわたしは感じている。
墓地は死者が眠っているところ。そして、図書館は数世紀前の故人の残した言葉を
棺の如く収めているところ。(現存している作家もいるが、ブランショの言葉を借りるなら
書いた瞬間から作者は文字によって抹消される、つまりこの世に存在しないのだ……)
図書館の永遠性は、書かれた文字によってのみ可能なのだ。
人間はその時時、生ある時間帯にたまたま図書館の一画を横切る存在にしか
すぎない。
ボルヘスの夢想した宇宙規模の図書館は夢物語ではなく、現存するに違いない。
そして、あなたもわたしもその図書館を訪れた旅人のひとりなのだ。

エーコの「薔薇の名前」に出てくる迷路のような図書館は「バベルの図書館」を、
盲目の図書館長はボルヘスその人だと読んだことがあるが、深く納得。
映画化もされており、レンタルでも出ていますよ。

―今日は、この辺で。

84: ◆WNrWKtkPz.
09/03/30 02:05:53
>>68-
>マザー牧場
「300万本の菜の花」とはハンパじゃないね。
遠出はできないけど来週末の桜はどうかな

>日野啓三
感想、とてもわかりやすい!
そして、以前抱いたこの作家のイメージに
それほど違わないようで安心。
「曖昧さや謎は残ったままなのになぜか読後感は希薄」
っていうところは、そんな感じだなあと納得。

85: ◆WNrWKtkPz.
09/03/30 02:06:52
>ボルヘス
「バベルの図書館」「円環の廃墟」が気に入ったみたいで良かった。
「円環の廃墟」は確か、荘子の胡蝶の夢に触発された作品だったかな。
荘周が蝶になった夢を見て、楽しんだところで夢から覚める。
果たして蝶になった夢を見ていた荘周なのか、それとも荘周になってる夢を見ている蝶なのか、
定かではない。。。夢と現の関係の曖昧さ、これは荘子だけじゃなく、
ノヴァーリスやルイス・キャロルにも見られるものだけれど、
ボルヘスの手にかかるとギリシア哲学風になるから不思議。

>「われ思うゆえにわれなし」
「私について来なかった男」の最後のシーン。鋭い着眼点だなあ!
ブランショの場合、「我書く、ゆえに我死す」というところまでいくかもしれない。
むしろこうかな? 「我死す、ゆえに誰かが書く」。
ブランショにとって、書くというのは非人称的な世界に没入することだから。
そして、言葉というカマキりは存在を奪ってしまう力を持つものだから。

存在を表現するための言葉によって、逆に存在が抹殺される。。。
言葉は、写真の機能と似て、否が応でも記憶のために綴られてしまうけれど、
それによってイメージは固定化され、存在を記憶の中に閉じ込める。
このへんのテーマはいつかもっと突っ込んでみたいところだね。

>図書館の永遠性
ここでも「円環の廃墟」と同じく、円環となる時間がここでも出てくるけれど、
書物の無限増殖によって世界を覆い尽くそうとするようなボルヘスは、
世界を1冊の書物にしようとしたマラルメとは逆方向を向いているようでいて
とてもよく似ている。

86: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:32:25
>>84-85
>「300万本の菜の花」とはハンパじゃないね。
>遠出はできないけど来週末の桜はどうかな
あの広大な菜の花の斜面はとにかく壮観のひとことに尽きますね!
一度見たら忘れられない光景……
まさに「永遠の一瞬」です!
桜は今週末が見頃でピークでしょうね♪
埼玉県の幸手市で桜まつりが開催されてます♪
桜並木と菜の花の饗宴が見事ですよ(去年行きました)
URLリンク(www.satte-k.com)

土曜日は気温が最高20度くらいまで上がるみたいですし、
絶好のお花見日和ですね~♪

>>日野啓三
>感想、とてもわかりやすい!
ありがとうございます。とてもうれしいです!
がんばって書いた甲斐がありました♪

>そして、以前抱いたこの作家のイメージにそれほど違わないようで安心。
すでに以前、読まれていたのですね!
それにしても読むジャンルといい、作家の幅が実に広いですね~
バベルの図書館の「書物の人」みたい♪ ―彼はすべての図書に通じている―

87: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:33:59
>「円環の廃墟」は確か、荘子の胡蝶の夢に触発された作品だったかな。
>荘周が蝶になった夢を見て、楽しんだところで夢から覚める。
>果たして蝶になった夢を見ていた荘周なのか、それとも荘周になってる夢を見ている蝶なのか、
>定かではない。。。
原典が荘子の胡蝶の夢とは! 指摘されてみると確かにそうですね。
夢野久作も荘子の影響を受けているような。。。

>ボルヘスの手にかかるとギリシア哲学風になるから不思議。
「わたし」が円環の建物で夢の中でつくりあげた、この世の叡智のすべてを託された
若い哲人とはソクラテスもしくはアリストテレスのように思えます。
伝記上ではソクラテスはダイモニオンの声(ご神託)を聞いて哲学に目覚めますが、
ダイモニオンの声とは実はソクラテスを夢の中で創造した人物の声だったのかな?
……ということは、この世に起こる「啓示」はすべてその当人を夢のなかで
つくりあげた誰かの声、誰かの思考、ということになりそうな。。。

かくいうわたしも文章を書いていると、ふいに「舞い降りる」瞬間があります。
書き出すまでは思考がまったくまとまらず、さすがに今回の感想はお手上げかなあ、と
観念しつつのろのろと書き出すのですが、書いているうちに次第に熱を帯び、
頭で考えるより先に指がどんどんキイボードを操作していく錯覚に陥ることがしばしば
あります……。
(いみじくもリルケが「マルテの手記」で書いていましたね。「ある日、僕の手が僕の
意思とは無関係に勝手に動き出し、ノートの上に文字を書き記していく」と……)

88: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:35:16
>夢と現の関係の曖昧さ、これは荘子だけじゃなく、
>ノヴァーリスやルイス・キャロルにも見られるものだけれど、
ノヴァーリスの「青い花」は美しく幻想的なお話でしたね。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、まさに子供らしい夢物語の原点という
感じがします。(わたしが初めて買ってもらった記念すべき本が実はこれでした)

>「私について来なかった男」の最後のシーン。鋭い着眼点だなあ!
ありがとうございます!!
いえいえ、ブランショはかつて紹介していただいたので、たまたま記憶に残って
いたのですよ~。
ブランショの登場人物はいつも霧のなかにいるようで、ほとんど実体を持たないのが
特徴ですよね。ほかの作家に見られるような強い自我がまるで感じられない、、、
不思議な人格形成ですよね。

「私について来なかった男」の「彼」はいろいろ解釈できますが、
ボルヘスの影響を受けた作家、ということであれば、「彼」はまさしく「わたし」、
もしくは他の誰かが夢のなかでつくりあげた幻の同伴者でしょう。
「わたし」と言葉を交わし、「わたし」に書く行為を促すけれども、実際には「彼」は
書かない、書けない。
なぜ、「彼」は「わたし」に書かせようとするのか?

89: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:36:21
「彼」の願いはただひとつ。
「彼」の言葉を「わたし」を通して残すため。
なぜなら、「彼」や「わたし」がたとえこの世から抹消されても「バベルの図書館」に
よれば記された言葉は書物として、円環を栗り返し、永遠の秩序を保てるのだから。
「彼」は「わたし」が「終わり」と記した瞬間、幻としての使命を全うし、日の光とともに
消えていく。そして、また、次の誰かの夢の中で新しくつくられ、書く行為をする
人間に同伴者として現れるだろう。
誰かにひたすら「書かせる」ために……。
彼はこうして円環を繰り返していくのだ。「バベルの図書館」の一隅に永遠に残るため。

>ブランショの場合、「我書く、ゆえに我死す」というところまでいくかもしれない。
>むしろこうかな? 「我死す、ゆえに誰かが書く」。
>ブランショにとって、書くというのは非人称的な世界に没入することだから。
>そして、言葉というカマキりは存在を奪ってしまう力を持つものだから。
なるほど、ブランショの提言をさらに推し進めていくとそうなりますね! さすがですね!
「我書く、ゆえに我死す、ゆえに誰かが書く、誰かが死す、ゆえにまた次の誰かが書く…」
こうして円環を繰り返していくのですね!

>存在を表現するための言葉によって、逆に存在が抹殺される。。。
2ちゃんねる新参者の頃、某板で名無しのまま、名無しの方と対話したことが
ありました。
「書くことは自分を失うことである」という意見があり、わたしは真っ向から逆の意見でした。
「書くことによって、自分の思考は確固たるものになり、それは自分の存在の認識を
確立させる行為である」と。

90: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:38:55
けれども、ここにきて再度、改めて考えさせられました。
「書くというのは非人称的な世界に没入すること」であり
「我が死すことである」ならば、やはり「書くことは自分を失うことである」のですね。。。

2年ほど前に買ったロラン・バルトの「物語の構造分析」の章に「作者の死」という
印象的な表現がありました。
「作者の死」とはわたしなりの拙い解釈によれば、作者は物語を書いた時点で
作者であることを放棄します。作者の権利の放棄によって、作品は読者の手に委ねられる
のです。それが「作者の死」です。
バルトの提唱する「作者の死」は、主に≪作品と読者≫の関係に比重を置いているように
見受けられます。

これに対してブランショの言及する「作者の死」とは、作者が書いた言葉に抹消される、
つまり、≪言葉と作者≫の関係です。
さらに、作品を読んだ読み手さえも言葉に抹消されてしまうのです。
それは≪言葉と読者≫の関係にまで及びます。
両者は同じように「作者の死」について述べていてますが、関係性を見ると対象が
それぞれ異なっていることに気づかされるのです。
バルトにおける「作者の死」、≪作品と読者≫の関係は対等でありますが、
ブランショの「作者の死」においては、言葉が作者よりも、果ては読者よりも優位に立ち、
言葉>作者、言葉>読者という力関係、主従関係が生じるのです。

(あと1レス、つづきます)

91: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 16:51:27
(つづき)

>言葉は、写真の機能と似て、否が応でも記憶のために綴られてしまうけれど、
>それによってイメージは固定化され、存在を記憶の中に閉じ込める。
過去の日記、手紙を読み返しながら、たいていの人はそこに記された言葉を
元にして当時の出来事や感情を回想しますよね。
そこに記された言葉は果たして信用していいのでしょうか?
なぜなら、言葉は嘘をつくからです。それが自身で書いたものであったとしても……。
記された言葉は偽の記憶を固定し、真実は封印されてしまうでしょう。
真実は言葉によって歪められ、記憶は改竄されるのです。
真実は永遠に藪の中……。
人が言葉に殺される、ということはそういうことなのかもしれません。。。

>書物の無限増殖によって世界を覆い尽くそうとするようなボルヘスは、
>世界を1冊の書物にしようとしたマラルメとは逆方向を向いているようでいて
>とてもよく似ている。
マラルメは読んだことないのですが、「世界を1冊の書物にしようとした」のですね!
ボルヘスは宇宙規模の図書館を世界に見立て、マラルメは1冊の書物を世界に
見立てたということでしょうか?
世界を「図書館」とするか、「書物」とするか、見立てる対象が異なるだけで
言ってることは同じなのでしょうね。

92: ◆SrzpdufPJY
09/03/31 17:20:04
ナンシーの『私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ』 は今、読み出したところ。
最初のところに、結構興味深い文章がありましたよ。

薄い本ではあっても、ゆっくり読もうと思います。
明日から四月ですね。

出張、気をつけて行って来てくださいね。

―では、また♪

93: ◆SrzpdufPJY
09/04/01 14:20:52
>ここでも「円環の廃墟」と同じく、円環となる時間がここでも出てくるけれど、
ブランショの作品の特徴はふたつありますね。
ひとつめはすでに書いたように〝実体のない男〝(他者の夢によってつくられたような
希薄な存在感、「トマ」「望みのときに」「アミナダブ」「死の宣告」)、
ふたつめには〝円環〝が挙げられますね。

プランショは「書くこと」の円環性に特別な関心を抱いていることが窺えます。
書くこと→書物→図書館といった一連の連想はやはりボルヘスの
「バベルの図書館」の影響が強いといえるのではないでしょうか。

ブランショの作品には「終わり」という概念がなく、物語が終わった時点で
再び物語が始まるかのように構成されています。
物語の円環~時間の円環~書き手の円環~読み手の円環……、
こうした連鎖、果てのない円環は大元であるボルヘスが
「図書館は永遠を超えて存在する」、
「図書館は無限であり周期的である」と希求したように、
おそらくはブランショ本人の希求でもあったのでしょう。

宇宙を叡智の結晶である図書館に見立てたボルヘス、
その図書館の一冊に至るために円環を繰り返すブランショ。。。

94: ◆SrzpdufPJY
09/04/01 15:57:56
今日、四月一日は雨宿りスレにふさわしい春の雨です♪

「一年(ひととせ)のまためぐり来て春の雨」

「あづまやに三人(みたり)集ひて春の雨」

「喜びと涙の夜をともにせし君の言葉は春雨の如」

「顔知らぬ人たちなれどいとやさし春雨匂ふ夕べなりけり」


95: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 00:01:22
春雨だね。

世の中、不景気だけれど、
今年は仕事に精を出そうと思ってる。
とりあえず今を乗り越えられれば、
景気が良くなれば楽になれると信じて。

ということで趣味の読書は必然的に
超スローペース。。。

そういえば、KEMANAI3の状況はどうなんだろう?

96: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 00:58:57
>>86-94
>土曜日は気温が最高20度くらいまで上がるみたいですし、
>絶好のお花見日和ですね~♪
夏好きの人間としては、早くもっと温かくなってくれ~、
という感じだけれど、ま、そんなに慌てなくてもいいか(笑
まず桜だね。梅も桜もシダレが好きだな。
それから、アカシアは盛りも過ぎたので強めに剪定。
冬に剪定したバラは新しい葉をつけてグングン成長中。
GW頃に花が咲きそうかな。そして6月にはラベンダー。
夏に向かって楽しみはマダマダあるね。

>かくいうわたしも文章を書いていると、ふいに「舞い降りる」瞬間があります。
リルケ=マルテのみならず、やっぱあるよね。多かれ少なかれ。
ウソから出たマコトみたいに、書けないと思っていたのに、
どこからか「やってくる」みたいな感じ。
マンガを描くときにもあるんだろうか>サウオン

誰かが書く、というときの非人称性みたいなやつは、
決して没個性ということじゃなく、個性と離反しない、
というか、世間のしがらみにくっついたエゴから自由になることで、
はじめて得られる個性みたいなものがあるように思うな。

97: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:10:24
それから、

>ノヴァーリスの「青い花」は美しく幻想的なお話でしたね。
ルイス・キャロルは夢の世界での感覚を描くのが上手い、
というか、物語が夢そのもののプロットかと思えるほど。
カフカの「審判」「城」なんかにもそういう感覚を抱いたっけ。

ノヴァーリス、あるいはネルヴァルの幻想性というのは、
夢そのもの、というよりは、夢の世界を対象にして描いているけれど、
人生=現実と夢=幻想の境界を曖昧にさせるヴェクトルがあって、
やはり「胡蝶の夢」的なものになるだろうね。

>なぜ、「彼」は「わたし」に書かせようとするのか?
ブランショにおいては、おそらく、本当に書くためには、
「わたし」という人称が消えなくちゃならない。
「わたし」は「彼」に、さらにいえば「誰か」になる必要がある。。。
だから、登場人物たちは
>ほかの作家に見られるような強い自我がまるで感じられない、、、
ということになるんじゃないかと思うんだね。

98: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:24:35
また、

「作者の死」を語ったロラン・バルトの場合、
作者よりもテクスト(作品)にこそ圧倒的な重心を置いてて、
書かれたテクストが作者の手を離れて読者に委ねられるとき、
作者の意図、作者のメッセージなんかは裏切られもするし、
そして作者が言おうとしなかったこともテクストは語るし、
伝えようとしたこととは反対のことまでも伝えることもある、
という視点があるね。

だから、小説作品を読み解くために、
作者の生涯とか生い立ちとか人生とかは関係がない、
書かれたテクスト(=記号の集積)だけを読めばいい、
そういう視点での「作者の死」だね。

まあ、バルト流のテクスト論はちょっと極端ではあるし、
伝記的なものを蔑ろにする必要はないと思うけれど、
作者中心主義から作品中心主義へのこうした移行には
ブランショの歩みと随伴する面はおおいにあるだろう。
バルトは実際にブランショをリスペクトしてたとのこと。
(ブランショが国際雑誌を企画したときバルトは協力してるんだね)

99: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:52:26
とはいえ、

バルトとブランショを比較してみると、
両者共に「作者の死」をポジティヴに見ているとはいえ、
PJYさんがいうように、たしかに「関係」の差異があるよね。
あるいは、「書く」という行為を見るときの角度の違いというか。

バルトの主張は、「わたし」が書くのだとしても、
書かれた言葉は「わたし」を通り過ぎていって、
言葉の世界独自の戯れによって読者へと作品が届く、という感じ。

ブランショの主張は、まず「書く」行為そのものの中で、
「わたし」が死んで「誰か」にならなきゃならないし、
そういう死を抜きにして「書く」ことはできない、という感じ。

>物語が終わった時点で再び物語が始まるかのように構成されています
ブランショの「私について来なかった男」もそうだし、
クロード・シモン「アカシア」もそうだけれど、
これらの作品は円環について語っているよりは、
作品そのもののが円環を体現してるね。
プルースト「失われた時を求めて」がそうであるように。

100: ◆WNrWKtkPz.
09/04/02 01:56:46
さらに、

ボルヘスの場合だと、円環について語っているとはいえ、それは、
物語とはいえない物語、物語になりうるであろう物語、あるいは、
物語にまで昇華されていない物語の卵、あるいはまた、
流産させるがままにした物語の水子ともいえるプロットにおいてであって、
胚胎したアイデアをあえて物語にまで育てようとはしていない感じ。
(だから、ボルヘスはプルーストのように長篇を書くことはできない。)

タイムオーバーなのでこのへんで。

※来週月曜からまたしばらく留守にします。

101: ◆SrzpdufPJY
09/04/02 17:29:40
>◆WNrWKtkPzさん

大変濃密なレス、ありがとうございます!
哲学の知識に裏打ちされたコメントですね! すごいなぁ……(感嘆)
わたし、そちらの分野は不得手でして(興味はあるのですが……、汗)

>今年は仕事に精を出そうと思ってる。
>とりあえず今を乗り越えられれば、
>景気が良くなれば楽になれると信じて。
そうですね。景気が悪いことを嘆いていても何も始まらないし、、、
会社でもいろいろと景気対策が出ていて重苦しい空気ですが、
だからこそ、というか、それゆえにこそ、わたしは週末のお天気のいい日は
花を愛でに外に出るようにしています。
文庫とおにぎりと熱いお茶の入った水筒とチョコレートと果物を入れた
リュックを背負って朝早くに起きて出かけます。
目的地に着いたら園内を自分のペースでゆっくり歩きます。
馥郁とした花の香りを身体いっぱいに浴びて、伸びをします。

その場所が例えばkPzさんが前に行かれた場所であるならば(偕楽園)、
また、wWw さんがかつて行かれた場所(日本民藝館、旧前田侯爵)に
わたしがふたりより少し遅れて訪れるとき、何ともうれしい気持ちになるのです。
ああ、この地をあの人たちも踏んだのだな、、、と。
同じ景色を、同じ匂いを今この瞬間自分も味わっている、
わたしはそのことが、ただ、ただ、うれしいのです。

102: ◆SrzpdufPJY
09/04/02 17:31:01
>それから、アカシアは盛りも過ぎたので強めに剪定。
>冬に剪定したバラは新しい葉をつけてグングン成長中。
>GW頃に花が咲きそうかな。そして6月にはラベンダー。
植物を育てている人は苗が育ちゆくさまや、花がひらくまでの日々を楽しむ
ことができますよね♪

出張の件、了解です。
どうぞ、気をつけていってらしてくださいね。

帰られたら、またレスします♪

103: ◆WNrWKtkPz.
09/04/09 01:38:57
出張から一時帰京。

先週は家の近所の桜が満開。
結構花見をしてる老若男女がいた。
日本人はサクラが好きなんだね。
桜が咲いて、いよいよ春、というタイミングもいいんだろうナ。
歌にも小説にも題材になってるけど、
「桜の森の満開の下」ってアンゴだったかな。

>週末のお天気のいい日は花を愛でに外に出るようにしています。
それはとてもいいことだね。体にも心にも。

>ああ、この地をあの人たちも踏んだのだな、、、と。
うん、わかる。この小説は二人が読んだんだな、っていうのも、
それに似たところがあるしね。
時間があればそういう追体験がもっとできるんだけど。。。
一番印象的なのはやっぱケマナイだったね。
「この線をヤツが描いたのか!」という妙に胸が躍る感じがあった(笑
そして、それに勝るとも劣らないケマナイ評!
今でも憶えているし、あれは忘れられない。
後で読んで、それがとても的確で力強いものだとわかったから。

104: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 15:46:34
◆WNrWKtkPzさん
お帰りなさい。お疲れさまです。

>日本人はサクラが好きなんだね。
>歌にも小説にも題材になってるけど、
>「桜の森の満開の下」ってアンゴだったかな。
サクラはやはり日本人の郷愁を誘うものがありますよね。
今までは自発的にお花見ってしたことなかったのですが、
(人に誘われて行く、という感じでした…)
一昨年あたりからサクラに限らず、四季折々の花を求めて、
花を愛でるためにだけ外に出ています。
本来のわたしはインドアなのですが(実はたんなるモノグサで部屋でだらだら
しているのが好き♪)、かつて感想文スレが始まった当時、週末は部屋に
篭って(?) ひたすら書いているわたしを気遣ってOTOさんが
「んなことばっかしてないで運動しろよ」 と声をかけてくださったのですよ~♪
確か秋の初め頃でOTOさんは色づき始めた多摩川のほとりを歩かれたと
コメントされていました。

OTOさんはおそらくわたしがネットにのめり込むことの警鐘を与えてくださった
のだと思います。
それからわたしは気候のいい週末には読みかけの本をリュックに入れて
公園をはじめ近郊に花を求めて出かけるようにしたら、やみつきになりましたよ♪


105: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 15:57:07
>時間があればそういう追体験がもっとできるんだけど。。。
今年はお仕事に専念してくださいね。
そちらのほうではこれから新しく読むことは困難だと思いますので、
◆WNrWKtkPzさんが今まで読まれた本を、今度はわたしが追体験しますので、
その本について「急がず、ゆっくりと」語りましょうか?
わたしは哲学的視点が弱いというか欠けているので、そうした視点からの
◆WNrWKtkPzさんの鋭いコメントはとても新鮮であり、毎回、開眼することが
多いです。

>一番印象的なのはやっぱケマナイだったね。
>「この線をヤツが描いたのか!」という妙に胸が躍る感じがあった(笑
そうそう!
精緻なメカや、生々しい脳髄の描写、ケマナイの手袋の1本1本の襞の線が
定規を使わずに描き込まれているんですよね~♪
線に勢いがあり、ときには細心の注意を払っているのが窺えました。
作者のぬくもりが読むものにも感じられましたね!

>そして、それに勝るとも劣らないケマナイ評!
>今でも憶えているし、あれは忘れられない。
>後で読んで、それがとても的確で力強いものだとわかったから。
ありがとうございます! とてもとてもうれしいですっっっっ♪♪♪


106: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:00:04
……わたしの読み方はかなり独特でして。。。
(文学研究、文学批評には絶対向かない読み方です、、、)
ひたすら自分の想像力のみで驀進して読んでますので。
先ずは目の前の作品とまっさらな気持ちで向き合いたい、
作品の背景云々はあとでゆっくり知ればいいかな、と。
(レストランで出されたお料理をおいしくいただくことが何よりも大事で、
高価な食材だとか珍しい素材だとか、そうした付随的なことはあまり興味がない…)

ちなみに、わたしにとって優れた作品とは文学批評の専門家の評とは
一致しません。。。
わたしにとって優れた作品とは、
わたしの想像力を限りなく喚起させ、鼓舞させてくれる作品であること。
読後、誰かに強いられたのではなく他でもないわたし自身が自発的に
「この作品の感想を誰かと語り合いたい。ぜひとも感想を書きたい!」と
思わせてくれる作品がわたしにとっては最良の作品なのです。
「ケマナイ」についてのわたしのささやかな感想が◆WNrWKtkPzさんを少しでも
感動させたとするならば、それは大元である「ケマナイ」の作品の力に負う
ものが大きいのです。
読んでいるとき、わたしは作品世界に入り込んでおり、そこに「わたし」は
いない。「わたし」という人間はそこでは読む道具、物語を受け止める器に
すぎないのです。
つまり、「わたし」を突き動かしているのは、作品の力そのものなのですね。

「読者」の誕生とはわたしにとって、そういうことなのかもしれません。。。


107: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:02:50
>>96-100
>どこからか「やってくる」みたいな感じ。
>マンガを描くときにもあるんだろうか>サウオン
きっとあると思いますよ!
創作(小説、詩歌、絵画、作曲、漫画、彫刻、建築など)に携わって人たちは
多かれ少なかれそうした奇跡のような瞬間を体験しているはずです。
「啓示」と呼んでもいいでしょうね。
その瞬間、ミューズの女神と創作者は相愛になるのです。
創作するものにとっては、まさに至福の瞬間です。
時代がいくら変わっても創作する人は後を絶たないでしょう。
彼らは皆、ミューズの女神とのひそやかな交感の体験者たちなのですから。

>誰かが書く、というときの非人称性みたいなやつは、
>決して没個性ということじゃなく、個性と離反しない、
>というか、世間のしがらみにくっついたエゴから自由になることで、
そうですね。書くことはいろいろな意味で世間や己れから自由になること、
解放されることです。
よく言われることですが、言葉に置き換え、書くことができる人はぎりぎりの
ところで踏みとどまっていられる、と。
言葉に置き換えられない人、書けない人は危ない、と。
(但し、自分の言葉を過信し高慢になっている人は別…)


108: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:04:21
>ブランショにおいては、おそらく、本当に書くためには、
>「わたし」という人称が消えなくちゃならない。
>「わたし」は「彼」に、さらにいえば「誰か」になる必要がある。。。
プロ作家の方がよく言われていることですが、「書いているうちに自分が
あたかも物語のなかに入り込んでいるような錯覚を覚える。
物語を書いているのは傍から見ればまぎれもなく私自身なのだが、
実は自分であって自分ではない、わたしという名の誰かが書いているのだ」と。
作家とは小説を書くための器、執筆する道具にすぎないのですよね。
ミューズの女神がたまたまその人を気まぐれに選んだだけかもしれません。
だから、書くときは自分を空っぽにしておく必要があると思うのです。

アインシュタインがこんなことを述べています。
「頭はつねに空っぽにしておくがいい。知識が必要なときは図書館があるさ」
作家にも同じことがいえるでしょう。
「わたし」という人称は消えていたほうがいい、必要なとき、物語はその人に
舞い降りるのだから。むしろ「我」が強すぎる人には舞い降りない。
創作する人たちは憑依体質であり舞い降りるものの代弁者のような気がします。


(つづきます)


109: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:54:45
(つづき)

>だから、小説作品を読み解くために、
>作者の生涯とか生い立ちとか人生とかは関係がない、
>書かれたテクスト(=記号の集積)だけを読めばいい、
>そういう視点での「作者の死」だね。
まさしくそのとおりです!
作者の生涯とか生い立ちとかは、文学を学問として研究する一部の専門家、
学者には必要かもしれませんが、一般の読者は作品のみを読めばいい。
わたしたちは作者の生い立ち、作品が書かれた背景を何も知らぬままに、
書かれたテクストとだけ向き合います。
それが「読者の誕生」ですね。

「作者の死」とはわかりやすく言うと「よみ人知らず」のことではないでしょうか?
わたしは万葉集や古今和歌集が好きなのですが、「よみ人知らず」の歌の
なかには有名な歌人にも引けを取らない優れた和歌があります。
わたしたち読者は無名の作者の生い立ちや背景を何ひとつ知らされることなく
詠まれた歌のみと向き合うのです。
まさしく「読者の誕生」です。


110: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:55:32
>バルトの主張は、「わたし」が書くのだとしても、
>書かれた言葉は「わたし」を通り過ぎていって、
>言葉の世界独自の戯れによって読者へと作品が届く、という感じ。

両者の主張は微妙なズレがありますよね。
バルトの主張は、種蒔き人と花を観賞する人の関係に似たものを感じます。
小林秀雄だったか井上靖だったか記憶が確かではないのですが、
文学対談で以下のようなことを述べていました。

「小説とは自宅の庭で丹精込めて綺麗に咲かせた花を、道ゆくひとたちに
披露することである。道ゆくひとたちは、その庭の家の主が誰なのか知らない
けれども美しく咲いた花を眺めて目を細める」
わたしたちは通りすがりのものであり、誰かの庭先で綺麗に咲いた花を
愛でるだけの存在でいい。
その庭の家の主がどういう人なのか、詮索は二の次なのです。
眼前に咲いている花を見てこころが打たれる、それだけでいいのです。


111: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:56:34
>ブランショの主張は、まず「書く」行為そのものの中で、
>「わたし」が死んで「誰か」にならなきゃならないし、
>そういう死を抜きにして「書く」ことはできない、という感じ。

ブランショの主張は、「書く」行為の中で作者が「誰か」になる行為とは、
〝作者=種蒔き人〝が、〝誰か=陽光や水、花の肥料〝になる必要がある。
花の手入れをするのは作者には違いないのだけれども、いったん種を蒔いたら
花に必要な養分そのものにならなければならない。
そうした「わたしが誰かになる」という変身行為を抜きにして
花は咲かせられない。。。
なぜなら、陽光や水、肥料は意思・人格が存在せず、
彼らを養分とし、成長しようという生命力、意志は最終的には植物そのものに
委ねるしかないのだから。
つまり、種蒔き人は意思・人格を抹消し、養分そのものになりきらなければ
植物の意思とぶつかり合ってしまう。
ひとつの植物に人格はふたつは要らない、ひとつだけでいい。


112: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 16:57:52
>ボルヘスの場合だと、円環について語っているとはいえ、それは、
>物語とはいえない物語、物語になりうるであろう物語、あるいは、
>物語にまで昇華されていない物語の卵、あるいはまた、
>流産させるがままにした物語の水子ともいえるプロットにおいてであって、
>胚胎したアイデアをあえて物語にまで育てようとはしていない感じ。
大変わかりやすい説明、ありがとうございます!
先ほどの、作者=種蒔き人に喩えるならば、種を蒔く人は開花状態よりも
発芽、もしくは蕾の段階であえて披露していることが窺えますよね。
あとは読者である鑑賞者が好きに自由に独自の想像力に任せてお楽しみ
ください、というメッセージのようなものを感じます。

ボルヘスの円環とは、作者は発芽(蕾)までは面倒を見るが、開花に至る
までは読者にお任せしますよ、どうぞあとはご自由にそれぞれ咲かせたい
花を咲かせてください、ツルや枝葉は伸ばしたいだけどうぞ、
そうした広がりが円環をもたらしているのだ、と思えます。

(所蔵図書がどんどん増殖し、果てなく広がる宇宙図書館「バベルの図書館」は
まさに円環の象徴!)

ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」読了しました。
感想、書き上がっていますが、、、
お忙しいと思いますので(わたしのコメントを読むの、大変だと思います。。。)
upは出張から完全にお帰りになられたときのほうがいいのかな……?


113: ◆SrzpdufPJY
09/04/09 17:12:50
カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」
短編集「魔法の庭」を借りてきました♪

週末にゆっくりと読もうと思います。


114:吾輩は名無しである
09/04/18 00:48:42
おじょーちゃん大丈夫じゃないんだろうなぁきっと。あぁ。
感情の渦みたいなものに巻き込んじゃってごめんね。
どうにかしようと思ったんだけどなぁ。

115:吾輩は名無しである
09/04/18 00:57:12
そうなればいいと思ったようになればいいと俺も思ったんだけどなぁ。
上手いこと着地出来ればと。

116: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:23:22
>>104-113

戻りました。桜はすっかり葉桜になったけど、
しかし、4月の植物の成長はものすごい!

>「んなことばっかしてないで運動しろよ」 と声をかけてくださったのですよ~♪
いい奴だな~(笑 
普通は他人に対して親戚みたいに言ってあげることはできないもんね。

>そちらのほうではこれから新しく読むことは困難だと思いますので・・・
そうなんだ。年々本が読めなくなってるし、音楽からも離れてるんだよナ。

>先ずは目の前の作品とまっさらな気持ちで向き合いたい・・・
いや~、それができるのは素晴らしいことだね。

>創作する人たちは憑依体質であり・・・
このあたりは、うまく流れの中でコメントしてくれたので、
とてもわかりやすい! 憑依=トランスというのは、
トランスという接頭語を使う英語をいろいろ考えてみると、
旅に出掛けることができる力、といえるかもしれないナ。

117: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:32:35
(つづき)

植物を作品に喩えた比喩もとても面白い!

>誰かの庭先で綺麗に咲いた花を愛でるだけの存在でいい。
その「小林秀雄だったか井上靖だったか」の言葉、なかなかいいね。
庭を見るとその家の人のセンスや好み、ライフスタイルまでが、
結構見えてしまったりするんだけれど、作品も庭と同じで、
主張しなくても作品の中で作者は表現されてしまう。
そこでの作者は固有名詞に頼らない存在へと純化されるようにして、
社会的地位とか年齢とかいったさまざまなイメージの洋服を脱いでいき、
もはや「わたし」という人称さえも脱して「誰か」になっていくことが、
>〝作者=種蒔き人〝が、〝誰か=陽光や水、花の肥料〝になる必要がある。
という面白い比喩につながっていくんじゃないかと思うね。

118: ◆WNrWKtkPz.
09/04/19 13:36:49
(つづき)

作品を植物に喩えた話の流れの中での、
ボルヘスについてのくだりもお見事!
プルーストの『失われた時を求めて』だと、
種を撒いて、水をやって、発芽して、茎が伸びて、葉が茂って、
花が咲いて、剪定して、再び茎が伸びて、云々、というのを、
延々と見せていて、最後に花から種をとって、
さあそれをこれから土に撒こうか、というところで終わるんだけど、
ボルヘスはまったく花を見せない作家といえるだろうね。

ナンシーにカルヴィーノか。相変わらず精力的に読んでるなぁ。

119: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:49:42
おかえりなさい。お疲れさまでした。
ご無事で帰られて何よりもうれしいです。

>いい奴だな~(笑 
>普通は他人に対して親戚みたいに言ってあげることはできないもんね。
本当にいい方ですよね。感謝してます。

>憑依=トランスというのは、
>トランスという接頭語を使う英語をいろいろ考えてみると、
>旅に出掛けることができる力、といえるかもしれないナ。
ああ、なるほど!
旅に出る、この地から出発すること、何者かに憑かれて(導かれて)旅に
出ること、作者はただ水先案内人に従って旅の道中を書き留めるだけでいい、、、

>植物を作品に喩えた比喩もとても面白い!
ありがとうございます♪
◆WNrWKtkPz. さんが趣味でいろいろな植物を育てていらっしゃると伺い
そのことがきっかけになりました。

>そこでの作者は固有名詞に頼らない存在へと純化されるようにして、
>社会的地位とか年齢とかいったさまざまなイメージの洋服を脱いでいき、
そうですね。書いているとき作者は固有名詞を捨てて、ただの「書く人」に
徹しなければならないんですね。そうした付随的なもの、地位や固有名詞は
作品を書く上でむしろ、邪魔であり足枷になると思います。
巷間よく言われている「処女作が一番勢いがある」とはまさに的を射てます。
処女作とはまさに作者が無名であった当時、初めての作品なのですから。

120: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:51:20
>作品を植物に喩えた話の流れの中での、
>ボルヘスについてのくだりもお見事!
ありがとうございます! 
ボルヘス初心者にも拘わらず生意気なことを書いてしまったかなあ、と
思っていましたので、とてもうれしいです。

>ボルヘスはまったく花を見せない作家といえるだろうね。
宇宙規模の図書館を夢想したボルヘスならではですね。
一度でも開花してしまうと花の色、形、香りなどイメージが固定されてしまい、
ひとりの作者につき花はひとつと限定されてしまいますが、開花しないがゆえに
読者がそれぞれ好きに自由に自分の花を咲かせます。
つまり、ボルヘスという名の著作=花は読者の数だけあるということです。
そして、その花=著作は増殖しつづけ、バベルの図書館のように延々と
無限に延びていく。。。

>ナンシーにカルヴィーノか。相変わらず精力的に読んでるなぁ。
いえいえ、それほどでもないです。
カルヴィーノの短編は読み終えましたが、もうひとつのほうはなかなか
読み進まない。。。
読む力=旅をする力、速度が弱まっているような……?


では、しばらく前に書いた、ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンレ」
の感想を2回に分けてupします。

121: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:52:09
ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」読了。
このテーマで描かれたイエスの復活の場面の絵画は数多くある。
復活はキリスト教においても最大の奇蹟でもある。

マグダラのマリアにとって復活したイエスは園丁にしか見えない。
イエスが「マリアよ」と呼びかけたことで初めてマリアは目の前にいる人が
イエスだと気づく。マリアは手を伸べて触れようとするが「私に触れるな」
と諭す。

ナンシーは〝触れること〝は官能と暴力の二面性を持ち、
受苦と享楽は他方を押し返しつつ、交叉し出会うことである、と指摘する。

また、マリアに発せられた言葉をナンシーは以下のように分析している。
―きみは見る、しかしその<視>は触れることではないし、触れることでは
ありえない。きみが見るのは現前していないものだ。きみが触れるのは、
きみの手の届かぬところにある。きみが眼前に見た者はすでに出会いの
場所を離れているのだ―(p35-36)

―私に触れるな、私を引き留めるな、私は父のもとへと出発するのだから、
すでに私は発っている、私はこの出発のなかにしかいない。
私は出発の出発者であり、私の存在はそこにあり、私の言葉はこうだ。
「私、真理は、出発する」―(p29)

122: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:53:05
そして、最後にこう結論づけている。
―私に触れるな、私がきみに触れるのだから、そしてこの〝触〝は離れて
いてもきみを繋ぎ止めて守る、そんな〝触〝だ。
愛と真理は押し戻して拒みながら触れる。愛と真理が私たちに寄せるもの、
それは真理の遠ざかりである。
そろそろはっきりさせてもいいだろう。ノリ・メ・タンゲレはたんに「私に触れるな」
と言っているのではなく、「私に触れようと欲すな」ということである。
きみは何も掴むことはできないし、何も引き留めることはできない、
そしてそれこそが、愛の知のありようなのだ。きみを逃れるものを愛しなさい。
去る者を愛しなさい。その者が立ち去るのを愛しなさい―(p52-53)

―キリスト教的愛の不可能性は、まさに不可能なものの立場に
自らを保たなければならないという意味である―(p73)

ナンシーの「私に触れるな」についての展開と結論は、ある意味において、
男女の究極の愛のあり方であるかもしれない。
相手に触れることなく愛しなさい、立ち去る相手を愛しなさい。
この愛し方はプラトニックな愛とはまったく異なっている。
プラトニック・ラブとは触れることが可能であるにも拘わらず、あえて触れない
愛し方だから。

123: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 21:54:04
これに対してイエスの「私に触れるな」は、現前の相手はすでに出発して
しまった者であり、触れることができない。いや、正確に言うならば、
触れることはできるが、触れた相手は実はすでにそこから立ち去っている
のである。
身体はあってもその身体はこの世における借り物(園丁)の身体であり、
真のその人(イエス)ではない。
では、なぜ、イエスはマリアに現れたのか?
イエスは自身の復活を皆に知らせるための使者として、十二使徒ではなく
マリアを選んだからである。

復活したイエスはマリアには「私に触れるな」と諭す一方で、ふたりの弟子
にはこのように告げている。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたし自身である。
手を触れて確かめなさい」(ルカ24-39)

マリアには触れるな、と言い、弟子には触れて確かめよ、と言うのはなぜか?
おそらくは、マリアのほうがよりイエスに近かったのではないだろうか?
信仰においても、愛することにおいても、マリアはほかの弟子たちよりも
勝っていたはずだ。
それはマリアが異性だから、と決めつけてしまうのはあまりにも短絡的
すぎるような気がする。(その線が濃厚ではあるが……)

復活したイエスは「マリアよ」とひとこと声をかけただけで、マリアは
イエスの復活を瞬時に信じた。
ところが弟子たちはなかなか信じようとはしなかった。
それでイエスは「わたしに触れて確かめなさい」と確認させたのだ。

124: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:43:20
(つづき)

ナンシーは男女間で「触れること」は官能のあり方だと述べているが、マリアに
触れることを禁じたのはまさに官能とは違う次元の愛を示すことに他ならない。
look

しかし、元・娼婦のマリアが触れようとした動作は考えてみるとなかなか奥が深い。
娼婦とは相手に触れることが商売であり、その行為によって生を得ている。
つまり、触れられない者と関わることは死を意味する。
マリアは復活したイエスを信じずることによって、自らの生を放棄したことになる。
at

イエスの教えと復活を広めた弟子たちも同様である。
彼らは信じた時点で生を放棄している。実際、弟子たちは獄死したり、拷問を
受けながら死んでいる。
can

―受苦は享受かもしれず、享受は受苦かもしれない。この弾断絶の点に
触れることを欲するな、触れようと努めることさえするな。
なぜならそこでは本当に、私は(男であれ女であれ)砕けてしまうだろうから―
(p73)

ナンシーは、「抱擁の不和が真理そのものを定義し終わりなく深淵に投げ入れる」
と結んでいます。

125: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:44:02
触れることは、抱擁とは相手との結合ではなく、崩壊だとは……。
始まりが終わりであるように、男女間においても、触れることはふたりの
関係の終わりを示すことだと。
the

永遠の愛とはふたりの間につねに一定の距離が保たれていなければならない。
触れられないこと、触れることを欲しないこと、にも拘わらず愛すること、
それがイエスとマリアの愛のあり方。
信仰とはおそらくそうした愛のあり方なのだろう。
復活したイエスを見ようと欲しないこと、復活したイエスを見なくても信ずること、
キリスト教徒たちはそうした愛のあり方を、イエスと自分との関係において
肯定すること。
prattle

わたしはナンシーを読むのは「共同体―コルプス―」に次いで二冊目である。
「共同体―コルプス―」には吉増剛造の「オシリス」が取り上げられていた。
全部を理解できたわけではなかったが、この著者は文学にも造詣が深いらしく、
なかなか興味深く読んだ。
そして、今回は聖書の復活の場面について、考察している。
ジャン・リュック・ナンシーは哲学者であり、哲学とは文学、宗教とも密接な
関わりがあることは周知のことであるが、自分が読んだ書物について
論じられているのはまことにうれしいことである。

126: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:44:46
今回は有名な復活の名シーンを取り上げての考察である。
(聖書は割りと読んでいるほうなので、今回は入りやすかった)
マリアに発したイエスの第一声「私に触れるな」を取り上げたナンシーの
着眼点はなかなか鋭いと思う。
「触れる」ことは男女の官能を呼び起こす行為であるが、
〝聖なるもの〝は触れてはならない存在なのだ。
復活したイエスは天の父のもとで祝福を受けていないので、この時点では
未だ聖なるものではない。しかし、イエスは「触れるな」と諭す。
become

ここを読んで、脳裏をよぎった言葉がある。
「聖なるものとは交感です」と言ったバタイユの黒い天使ことロールの言葉である。
交感とは、すなわち触れ合うこと、官能の行為である。
literature

ナンシーは、復活したイエスは触れ得ぬものであると提言する。
なぜなら、眼前の園丁の身体はイエスのものではないのだから。
この場所にイエスはもういないのだから、出発してしまっているのだから。
kemanai

触れ得るものとの交感を「聖なるもの」とするロール、
触れ得ないものゆえに「聖なるもの」とするナンシー。
両者は異なっているようでいて、実は近い。
なぜなら、「聖なるもの」の聖性とは死に隣接しており、死を超越したものだから。
(ロールの師バタイユは真のエロス、法悦はつねに死と密接な関係にあることを
看破している)

127: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:45:38
ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」を今回読んで
思ったこと。
ナンシーは哲学者であり、哲学的な論点、考察を展開しているが、
一方では愛を語る人でもあるのだな、という印象を受けた。
イエスとマグダラのマリアの恋愛については、古今東西、著名な作家たちが
ドラマチックに取り上げている。
それが哲学者の手にかかると、(引用を繰り返すが)このような考察になるのだ。

―私に触れるな、私がきみに触れるのだから、そしてこの〝触〝は離れて
いてもきみを繋ぎ止めて守る、そんな〝触〝だ。
きみは何も掴むことはできないし、何も引き留めることはできない、
そしてそれこそが、愛の知のありようなのだ。きみを逃れるものを愛しなさい。
去る者を愛しなさい。その者が立ち去るのを愛しなさい―(p52-53)

実に感動的な愛の考察の言葉である!

128: ◆SrzpdufPJY
09/04/19 22:46:26
(追記)
最後に、表題のテーマとは別のことで、この著書のなかでわたしを
惹きつけた件(くだり)がある。

―ひとりの著者は彼/彼女に〝固有の読者〝を見つけなければならず、
あるいは同じことだが、その著者が〝自分自身の読者〝を創出する。
つねにそれは、意味=感覚の、あるいは意味=感覚を越えるものの
突発的出現である。それはつまり特異な木霊(エコー)である。
信仰が<同じであること>のなかで自己同定し、自らを鼓舞するのに対して、
信は、私自身も知らずにいる聴衆へと放たれた狼狽させる呼びかけが、
他者から差し向けられるがままにするのだから―(p20)

ネット上の掲示板では不特定多数の人たちと対話をすることができる、
インターネット創設期にはそうした謳い文句が飛び交ったであろうと思われる。
ネットが普及した現在、ネット上での無名同士の対話はほぼ一期一会のような
気がする。
ひとりの読者、〝固有の読者〝を見つけたいひとはミクシィやブログへと移行
しつつある。
周知のように2ちゃんねるは無名同士が対話する巨大なネット掲示板である。

「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」とマリアに呼びかけたイエスの復活は確かに
奇蹟ではあるが、ミクシィやブログでもない、2ちゃんねるという有象無象の
大海のなかで固有の読者、特定の対話相手と数年に渡って対話をつづけて
いるという事実、これはわたしにとっては、まさに奇蹟と呼ぶにひとしい!


―それでは。

129: ◆SrzpdufPJY
09/04/20 15:37:53
いい季節になりましたね~。

このところ週末はお天気が良い日はひたすら花を
追って出かけています。
4月4日は幸手の堤権現堂に桜を見に、
11日は山梨の石和温泉に桃の花を見に、(駅前から桃の花バスが出ていました♪)
18日は茂林寺前~館林に芝桜とつつじを見に行きました。
ひとりで行くときは必ず読みかけの本をリュックに入れていきます。
家で読むといろいろな誘惑があり(ラジオや音楽を聴いたり、
いきなりキッチンに立ちたくなったり、、、)
なかなか集中できないのですが、
外出先ではひとたびシートを敷いてしまえば、その上でお花見、
食事、読書、ときどきお昼寝のよっつのみですので、
迷うことなく読書に集中できるのです。

堤権現堂では眼前に菜の花、桜の木の下で
ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」を読みました。
時が経って、この著作=堤権現堂の桜、としてインプットされるんだろうな。。。

130: ◆mMmMMMMmmM
09/04/21 23:19:52
その本を読んだその時、その場所。
やはり我々は本と「出会う」のだろうね。


やっと墨入れが終わったな。
さぼったわけではないが時間がかかった。
ここもまだ全然読んでないんだwww
ちょっと上行って読んでくるわww


131: ◆mMmMMMMmmM
09/04/21 23:47:48
あはは、けっこう濃いなww
ちょっとじっくり読むわwww
またなww


132: ◆WNrWKtkPz.
09/04/21 23:59:20
おっ、生きてたか(笑 久しぶりだね~。

墨入れ終了か!


133: ◆WNrWKtkPz.
09/04/22 00:04:31
「ノリ・メ・タンゲレ」については、時間のあるときにまた。

それにしても、
幸手の堤権現堂の桜
山梨の石和温泉の桃
茂林寺前~館林の芝桜
とは西へ北へ南へって感じですごいね。
甲府の桃の花は車窓から見たことがあるだけで
一度見に行きたいと思って幾年。。。
そういえば深沢七郎の故郷だったっけ。

134: ◆wWwwWwWwWw
09/04/22 15:03:51
こっちはこのトリップだったかな?忘れちゃったよww

>>87の「舞い降りる」から始まっている「作者の死」についての話しは面白いな。

送り手も読み手も、その人称を失いながら入っていく作品世界。
だからこそ其処は時空を超えて存在するんだろうね。

ただ、絵や音楽を描いたり、演奏したりするのと、
「言葉」があるのとではちょっと違うような気もする。記号が介在する分。

「マンガ」はそれらとも少し違うかもな。マンガは記号性の侵入した絵画と言えそうだ。

日本の古い絵は全て記号が侵入している。
「ありのまま」では「絵」になっていない、というような考え方が土台にありそうだ。
URLリンク(www.city.fuchu.tokyo.jp)
そういや、この前これを見てきた。


135: ◆wWwwWwWwWw
09/04/22 15:28:20
「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」は未読だが
ナンシーの着眼点はやはりすごいねw


おれは最近は、白石かずこ、自伝「黒い羊の物語」
自伝とは言っても文章は詩みたいな感じだね。
親交のあった三島や深沢七郎の話しも少し。

今は古書店で見つけた「紅葉全集1」、
もう少しで読み終わる。紅葉の文章は隙が無くて面白い。

あと、これも古書だが「ドラキュラ・ドラキュラ」という
吸血鬼小説のアンソロジー
URLリンク(100hyakunen.com)
これは何故か、というとゲラシム・リュカの「受身の吸血鬼」という
散文詩が収録されている。これはすごい詩だww


136: ◆SrzpdufPJY
09/04/23 17:20:37
◆WNrWKtkPz.さん
>「ノリ・メ・タンゲレ」については、時間のあるときにまた。
はい。こちらのほうもごゆるりとどうぞ♪

>甲府の桃の花は車窓から見たことがあるだけで
>一度見に行きたいと思って幾年。。。
わたしも、お花見として桃の花を見たのは今回が初めてです。
一連の桃畑にずらりと咲き誇る濃いピンクの桃の花、下萌えの若草、
遠方に聳えているのは雪を抱いた南アルプス、
やわらかな水色の四月の空の色。
当日は暖かいというよりも気温が22度を超えて暑いくらいでした。
のどかで平和な昼下がりでした。

石和温泉の町なかにはいたるところに「桃源郷」の看板があり
ちょっと笑ってしまいました♪

137: ◆SrzpdufPJY
09/04/23 17:21:37
◆mMmMMMMmmMさん
しばらくですね♪ お久しぶりです。

>やっと墨入れが終わったな。
お疲れさまでした。
楽しみですね~♪ どのような展開、そしてラストになるのでしょうかね?
ワクワク♪ v(*^∀^*)v

>やはり我々は本と「出会う」のだろうね。
そう、出会って、作者とともに旅をするのですよね。
人生が旅であるように、読書もまた旅なのです。

>あはは、けっこう濃いなww
>ちょっとじっくり読むわwww
どうぞ、どうぞ、ゆっくりお読みくださいね。
時間制限はありませんので。

>ただ、絵や音楽を描いたり、演奏したりするのと、
>「言葉」があるのとではちょっと違うような気もする。記号が介在する分。
「言葉」=「思考」ですからね。
絵画や音楽は「思考」というよりも、対象のとらえ方「感性」や「閃き」かなあ。。。

138: ◆SrzpdufPJY
09/04/23 17:23:23
>「マンガ」はそれらとも少し違うかもな。マンガは記号性の侵入した絵画と言えそうだ。
「マンガ」は「言葉」と「感性」がミックスされたジャンルですね。
どちらか一方では成り立たない、両輪があって初めて成立する世界です。
少女漫画では絵がきれいなだけではダメで、ネーム(せりふ)もかなり
重要です。
絵はいまいちでもネームが図抜けていたりすると「おっ!」と思いますもの。
ネームのうまい作家はやはりよく本を読んでいるんだろうな。

>日本の古い絵は全て記号が侵入している。
>「ありのまま」では「絵」になっていない、というような考え方が土台にありそうだ。
絵画の基本はデッサン、写実ですが、それだけではだめなんですよね。
そこに画家の「創意」が入ることで初めて芸術作品に昇華するのですから。

139: ◆SrzpdufPJY
09/04/24 17:25:41
ナンシーは「ノリ・メ・タンゲレ」のなかで、真理について
以下のように言及しています。

―私は出発の出発者であり、私の存在はそこにあり、私の言葉はこうだ。
「私、真理は、出発する」―(p29)

「真理」という言葉を持ち出すあたり、さすが哲学者ですね。
彼らは何のために哲学するのでしょう?
「真理」を発見するためです。
発見、見つけるということはつまり、すでに「真理」はそこに「在る」ことが
大前提になります。
最初から無いものは発見しようがないのだから。
そこに「在る」、既存の「真理」を発見すること。

ここでナンシーは復活したイエス=真理であると述べています。
そして、真理とは「出発すること」である、と結論づけます。
これはなかなか鋭い考察であると思うのですね。
というのは、哲学はつねに懐疑する学問である以上、真理を発見した次の瞬間に、
それが本当に真理なのか、再び懐疑するわけですから。
まさに「私、真理は、出発する」のです。
そこに留まってはいない。それが「真理」なのです。

140: ◆SrzpdufPJY
09/04/24 17:27:16
マリアは眼前の園丁のなかに復活したイエス=真理を「見つけた(発見した)」
けれども、「真理」は触れること、とらえることができない。
「ノリ・メ・タンゲレ」とはわたしの解釈によればこうです。

マリアよ、おまえはわたし=真理を発見し、気づいた、
けれども、わたしに触れることはできない。
なぜなら、わたし=真理とは永遠に触れ得ないものだから。
「真理とは発見はできるが、決してその手で触れ、とらえることはできないもの」
それが「ノリ・メ・タンゲレ」。

ナンシーは復活したイエスの言葉「ノリ・メ・タンゲレ」を取り上げることで
実は哲学と真理の関係を示したのではないでしょうか?

141: ◆SrzpdufPJY
09/04/24 18:54:57
今、最寄りの駅の構内のプランターにはバラが植えられてます
プラカードには「春のバラ」とあります
とてもいい香りがしますよ♪
バラは香りが高いですね

142: ◆SrzpdufPJY
09/04/25 13:23:29
(追記)

―きみは何も掴むことはできないし、何も引き留めることはできない、
そしてそれこそが、愛の知のありようなのだ。きみを逃れるものを愛しなさい。
去る者を愛しなさい。その者が立ち去るのを愛しなさい―(p52-53)

「私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ」とはつまるところ、
哲学と真理、もっと言うならば、真理に恋した哲学徒の永遠の片想いなのです。

真理とはそこに在るものである。
すでにあるものに気づきなさい、見つけなさい。
しかし、真理に決して触れてはならない。掴もうとしてはならない。
真理をとらえようとしてはならない。
真理とはあなたが手に触れようとした瞬間、
あるいはあなたが掴んだと思えたまさにその瞬間、
瞬時に出発しているのです。
真理の本体はすでに遠くに行っており、
あなたが手を触れたものは、真理の影法師にすぎないのです。
しかし、だからといって真理を発見することに絶望することはない。
去ろうとする真理を愛すること、それこそが叡智であり、
哲学の真髄なのだから。

これがわたしの結論です。


―それでは。

143: ◆WNrWKtkPz.
09/04/26 22:14:49
触れることと、見ることの差異があるのかどうか、
今の段階ではよくわからないんだけれど、
まず、この触覚と視覚を重ねて考えると
ナンシーの「ノリ・メ・タンゲレ」から感じるのは
オルフェウスの神話や鶴の恩返しの民話にも共通するような、
見ること(知ること)への禁止にも似た
触れることへの禁止だね。

これはニーチェ、ハイデガー、ブランショの思考にもあった。

144: ◆WNrWKtkPz.
09/04/26 23:30:11
でも視覚と触覚の差異を考えると、
まず身体的なエロティシズムに向かう線があるけれど、
その線を深く辿ろうとはしないナンシーは
イエスの復活の場面に、しかもそれを描いた絵画に、
焦点があてる。

そして、タンゲレという言葉の原義には
「触れる」と「留める」の両方の意味があることに注意を喚起し、
「触れるな」=「引き留めるな」という解釈だね。
ギリシア語からラテン語に移されるときに
意味の単一化が行われたらしい。

それにしてもこれだけ引用をたくさん入れて
感想を書いてもらうと非常に助かるなあ。
記憶力が貧しい当方みたいな人間には。

145: ◆WNrWKtkPz.
09/04/27 00:08:04
>>121-128 それから >>139-140 を読んで
そして特に>>142
>去ろうとする真理を愛すること、それこそが叡智であり、
>哲学の真髄なのだから。
という部分が興味深いね。

真理は引き触れられるがままにならない。
真理は引き留められるがままにならない。
復活という生と死を超える真理は
生の側からは捉えることができない。
といって死の側でそれを為すこともできない。

そこで辿らないと思えた線が現われてくる。
復活した存在は現われるや否や、出発する。
「そこでは栄光の身体が感覚的身体に自らを呈示し、かつ拒む」(p75)
ナンシーはイエスとマリアの2つの身体の性的差異を常に保持したまま、
この復活の場面における真理のありようを「愛」の様態になぞらえる。
「受苦は享受かもしれず、享受は受苦かもしれない。」(p75)
復活の享受、そして出発の受苦はほとんど同時だ。

最後のセンテンスはこうなっている(p76)。

 「抱擁のまさにその場でのこのような不和が、
 真理そのものを終わりなく定義し、終わりなく深淵に投げ入れる。
 その受苦と享受とを―出棺にして身体の〈起ち上げ〉を。」

146: ◆WNrWKtkPz.
09/04/27 00:19:36
>>141
>駅の構内のプランターにはバラが植えられてます
もうすぐバラのオンシーズンだね。
うちのバラも蕾をつけ始めて5月には咲きそうだよ。

>>134-135
それにしても白石かずこの名前がよく出るね。
機会があったらいつか読んでみたい。

アンソロジー「ドラキュラ・ドラキュラ」は今度探してこよう!
「受身の吸血鬼」というタイトルがそそられるね(笑

147:吾輩は名無しである
09/04/27 00:31:04
もう遅い。何も戻らない。絶対に何も戻らない。

148:吾輩は名無しである
09/04/27 00:33:34
もちろん俺の意志じゃない。川の流れのようにってね。

149:吾輩は名無しである
09/04/27 00:37:37
嫌がらせしてるつもりかもしれんが、後は何をしようが食い尽くされるだけ。

150:吾輩は名無しである
09/04/27 00:48:05
誰もいない。

151:吾輩は名無しである
09/04/27 02:49:28
誰もお前を救えない。

152:吾輩は名無しである
09/04/27 02:50:22
それだけの真似したから。

153:吾輩は名無しである
09/04/27 02:51:43
もっと酷い真似もしてきたはずだから。

154:ゴーダ・カズンド
09/05/02 00:12:33
君は童貞、かね?


155: ◆xHH/q7QD.E
09/05/09 00:54:43
>>154
ゴーダ・カズンド殿、
147-153はよくいるタイプのただのストーカーっぽい輩だろうから
放置でいいよ

ここ数日は雨つづきだったけど
明日からはカラッと晴れそうだ。

156:146
09/05/28 19:04:38
今日も雨だ。雨の日は読書が似合う。
適度な気温と湿気と静けさ。
ん? 湿気は本には良くないかな?

157:糞コテの自演リスト
09/06/02 10:41:07
哲学の基本は対話―エートルオートル
=*・゜゚・*:.雑.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.談.:*・゜゚・*KshbumBTZI
=◆INjIt6nmxE
=芸術と批評―1
=あづまやで雨宿りー ◆WNrWKtkPz.

*・゜゚・*:.雑.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.談.:*・゜゚・*―wMDHqGPerU
=◆Fafd1c3Cuc=◆KshbumBTZI=◆KshbumBTZI
=一番星◆Fafd1c3Cuc
=天文学って文学じゃね?-菜の花
=哲学の基本は対話―184
=こころはいつもラムネ色―シリウス
芸術と批評=名無し
あづまやで雨宿りー◆SrzpdufPJY

*・゜゚・*:.雑.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.談.:*・゜゚・*―◆mMmMMMMmmM
=哲学の基本は対話=前541
=天文学って文学じゃね?、芸術と批評ーがむちょこ
=あづまやで雨宿りー◆wWwwWwWwWw


158:自演日記スレ一覧
09/06/02 10:43:00
あづまやで雨宿り
スレリンク(book板)
*・゜゚・*:.雑.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.談.:*・゜゚・
スレリンク(poetics板)
哲学の基本は対話
スレリンク(philo板)
天文学って文学じゃね?
スレリンク(book板)
こころはいつもラムネ色
スレリンク(yume板)/250-/a
――“芸術と批評”――
スレリンク(book板)



159:糞コテについて説明
09/06/02 10:44:15
2ちゃんのあちこちに日記&なれ合いスレをじゃんじゃん立て、
メアド交換していながらプライベートな話題をわざわざ2ちゃんでえんえん続け、
非常識だと指摘した相手を荒らし扱いしながら、
誹謗中傷、煽り、なりすまし、コピペ連投ネットストーキング自演その他を何日もかけてスレを荒し、
完全に被害者面しながら逃げ、なれ合いスレに逃げ帰り悪口大会をし、
またポエム書きながらうんちく大会して、プライベートを晒し合い美化し合い。
足がつかないようにコテやトリップを頻繁に変えながら2ちゃんにしがみつく。
いや~彼ら、バカってのはいますね~どこまでも痛いです。
次はどこに逃げながら発作つづけるんでしょうね?

160:吾輩は名無しである
09/06/02 10:45:33
腐婆菜の花死ねw

161:池沼ストーカーな彼女
09/06/02 13:11:26
中学生の頃、その中学で唯一知的障害者だった少女と同じクラスになった
授業も真面目に聞いていたようだし、嫌がらせをする・されるといったこともなく至って平和
でもそんな彼女にも、周りがドン引きする癖のようなものがあったんだ
それは「自分自身の髪の毛を強引に引っこ抜く」ことで、いつも突発的に行っていた
ただ黙々とブチブチ引っこ抜くとかなら、誰も気にしやしないだろう…いやするか
しかしながら、その抜き方がもう半端ではなく、奇声を発したり大暴れしたり…
とにもかくも、そんな時だけはかなり迷惑というか、見ちゃいられなかった
奇声というか悲鳴か?痛いから暴れるのか?ならやるなよ…といった具合だ
そんな微妙に傍迷惑な彼女ではあったが、それ以外は全く善良な知的障害者だった
だからかな、俺も痛がりながら髪を引っこ抜く彼女をいたわりながらなだめていた
そんな風にして接していると、彼女も俺になついてくるのがわかった
当時は彼女以外の知的障害者は知らなかったし、偏見も無かったものだから悪い気はしなかった
それからだ…彼女がだんだんストーカーのようになったのは

162:池沼ストーカーな彼女
09/06/02 13:12:29
部活の関係で毎朝5時に起き、その30分後には家を出る俺を待ち構え
我が家で出たゴミを漁り、戦利品を学校へ持ってきては俺に見せつける
前者は家が近いとかならわかる、なついているんだし、まあ無くはない
だけど俺と彼女の家は学校を挟んで正反対…家に招待したことだってない…当然教えてもいない
後者はもうなんというか…最悪だった……プライバシーも糞もない…いやもう最悪だった…
そして、やはりというべきか、彼女の行為を学校側に訴えたところで相手にされない
「それは君のことを信頼しているからなんだと思うよ?」
なんと!ゴミを漁るのは信頼の証だとでも言うのだろうか…
その後の俺は、彼女を無視し続けた…周りから非難もされたが、関係ない
そうやって無視を続け、俺の代わりに他の誰かが優しくしてやると…
いつしか彼女による被害が無くなり、俺にはまた以前のような笑顔が戻った…!

そういえば、クラスに一人不登校の子が出たな
確か俺に代わって池沼の彼女に優しくしていた奴だ…

163:吾輩は名無しである
09/06/03 11:44:07
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
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自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
汚いので関わってこないでください



164:吾輩は名無しである
09/06/05 09:46:45
対話スレ6でわかりやすい自演して汚い自意識晒すドブス。
終わってる人格障害腐婆菜の花
= ◆WNrWKtkPz. =wMDHqGPerU =◆Fafd1c3Cuc=◆KshbumBTZI=◆KshbumBTZI
=一番星◆Fafd1c3Cuc =-菜の花 =184 =シリウス =◆SrzpdufPJY

精神科病棟と掲示板の区別もつかない基地外乙

165:吾輩は名無しである
09/06/05 20:27:20
最近の出ぱん社の編集者がいかに糞か、ってことだね

166:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/05 21:50:38
>>157-164
>>159で言及されてる「バカ」、>>164で言及されてる「基地外」、っていうのは、
下記のような書き込みをした人のことを指してるのかな?
スレリンク(book板:307番)
スレリンク(book板:312番)
スレリンク(book板:327番)
そして、まあ同じ人だけど、>>157-164を書いた人のことかな(笑

167:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/05 22:04:34
それから、これも同じ人だけど、↓のような書き込みをする人かな
スレリンク(book板:369-370番)n
スレリンク(book板:396番)n
スレリンク(book板:450-451番)n
スレリンク(book板:453-454番)n

168:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/05 22:07:29
しかしまあ、>>157-164はすごい粘着度だね。かわいそうに。
名無しになった佃煮マニア(えびね)さん。
まあこういう本当の姿は名無しでしか晒せないよなあ。
スレリンク(book板:307-554番)n
↑のなかでAAを張ってた名無しと一緒で。
その言葉の醜さは、何に比例しているのだろうか(笑

構ってほしいからって、どれほど粘着しても、
残念ながら、誰も相手してあげるヒマがないんだよ。
別の場所で5人で語り合ってるからね。ご愁傷さま。

それから、ここはもう使ってないスレだから。
残念だったね(笑

169:吾輩は名無しである
09/06/06 05:15:13
>>165
で、どこの中小企業の貧乏奴隷なの?

>>167ってほんと精神病なんだな~。
池沼が妄想で個人特定、コテ叩きしちゃってるよ。小学生レベルの知能か。
指摘した相手には「自己言及だろ」「○○だって自演してる」「○○にかまう暇ない」
腐婆の汚い自意識&貧相なプライベート晒しなんてどうでもいいから、
ステロタイプの基地外が掲示板からいなくなってほしいよ。
腐婆とキモオタの被害にみんな迷惑してる。

170:糞コテの自演リストと解説
09/06/06 08:57:32
哲学の基本は対話―エートルオートル
=*・゜゚・*:.雑.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.談.:*・゜゚・*KshbumBTZI
=◆INjIt6nmxE
=芸術と批評―1
=あづまやで雨宿りー ◆WNrWKtkPz.
=文学板のあちこちーぜっとんⅠ世
=他多数
このゴミは一日中2ちゃんに書き込んでますね。よっぽど暇なんでしょう。
友達もいないので、2ちゃんのコテにこだわって粘着します。
コテで書く人間は選民、それいがいはバカと考えているようです。
コテとコテ以外というキモオタ度合いが香ばしいですね。
躁鬱病で幻想文学とミスチル、観念論を中途半端にかじった中二病で、
いつもやたらと上から目線です。

171:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/07 01:48:30
・差別・蔑視発言や固定ハンドル叩き(特に差別・蔑視発言は重要削除対象)
等の、2ちゃんねる削除ガイドラインに抵触する行為は文学板でも固く禁止します。

>>169-170 佃煮マニア=えびね=みうんこと名無しさんw(笑
あなたの言葉は上記の削除ガイドラインに抵触する妄想ですが
あなたの名誉のために削除せずに残しておきます。

もう少し冷静になって2ちゃんねるガイドラインに目を通してくださいね。

172:吾輩は名無しである
09/06/07 08:46:19
どこ行っても痛いとか病気とかさんざん言われてまだこれか。糞だな。イラネ

173:吾輩は名無しである
09/06/07 08:48:51
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
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自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ自演汚腐婆の怨念スレ
汚いので関わってこないでください

174:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/07 19:06:48
>>172-173 佃煮マニア=えびね=みうんこと名無しさん

早速の返レスどうも。いや、ありがたくはないけどね(笑
これらのレスもあなたの「名誉」のために削除せずに残しておきます。

それから、2ちゃんねるガイドラインをまだ読んでないようなので、
一度目を通しておいてください。お大事に。

175:吾輩は名無しである
09/06/08 06:18:11
よっぽどつらかったんだね。よくしんぼうしたね。
えらいこ、つよいこ、いいこだよ。
でもきみにはまだすこし、わからないことがおおいね。

176:吾輩は名無しである
09/06/09 09:20:23
スレリンク(philo板)l00-103n

177:吾輩は名無しである
09/06/12 09:33:48
童貞かね?ゲホゲホ

178:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/16 18:47:49
>佃煮マニア=えびね=みうんこと名無しさん
さて、2ちゃんねるガイドラインを少しは勉強できたかな?
今度はHNをつけてる相手には自分も名乗れるように頑張ってね。
また、本名で書いても恥ずかしくないような内容を書きましょうね。
では(笑

179:吾輩は名無しである
09/06/17 10:20:08
しかし、ここの糞コテ共のものほしげな様子と焦燥感と言ったらないな。
こいつらの欲しがってるものをすでに手に入れているおいらは幸せ。
ゆったりとしながらも充実した生活、作家や学者との交流、倫理、美貌、友情、才能、恋、金。全部持ってる。
この不幸な人間共は、カスしかいないネットの隅で出会い系の真似事してないと
アイデンティティが維持できないんだなあ。哀れ。まあ、いい反面教師。
今あるものがなくなるとこうなってしまう、という見本。2ちゃんは勉強になる。
こんなんが身近に居なくて本当に善かった。恩恵にあずかってる。

180:吾輩は名無しである
09/06/17 22:36:35
だいじょぶ?無理しなくていいんだよ。


181:吾輩は名無しである
09/06/20 08:40:11
糞コテの実名なんてすでにバレてるけど、これ以上醜態晒さなくていいの?
どんどん視野が狭くなって言葉が少なくなっちゃってるのにキモオタ丸出しっての、
いい年こいたおっさんおばさんが若作りしたくてオタクの真似してみましたっての、
どんどんやったらいいんじゃない?
とにかく勝ちたいんでしょ?ネットの中だけでも。
負け組の底辺が発狂してるだけとしか周りには映らなくても。
それとも、辛くなっちゃったのかな?

182:吾輩は名無しである
09/06/20 13:07:47
おまえができるのはせいぜいそんなもんだww
実名がどうしたとかipがどうしたとか、
通報したとか、弁護士に相談したとかwwww
それは全部「おまえがやられたら恐いこと」であって、
おれは痛くもかゆくもないw
こけおどしはわかったから、なんかやってみww
やれないんだろ?やったら即はねかえってくるからなあw
犯罪だwwおまえはほんとにあたまが悪い。
精神的に病んでるとかそういう以前に、あたまが悪いんだな。
勝つだの負けるだのwwおまえが見ているそのちっぽけで
ゆがんだ世界には、おまえだけしかいないんだよ。

おまえが辛いのもわかる。読めばな。
おまえのレス読んでるみんなが、おまえの辛さや痛々しさを感じている。
おまえにはわからなくてもな。


183:吾輩は名無しである
09/06/21 05:22:48
>>182
URLリンク(www.ac.auone-net.jp)
人格障害チェックリスト
糞コテ同士で依存し合って病気回して病気が複合化、悪化してる。
自覚なし、病院行ったら負けみたいに考えるあたりが重症。
直るのにだいたい十年以上かかる。

184:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/06/21 11:15:43
>>179
辛いときは>>180の言うとおり無理をしないことだよ

>>181
同上。>>182に耳を傾けてごらんよ。

>>183
自分でチェックしてみてどうだった?
頑張って直してください。

さて、佃煮マニア=えびね=みうんこと名無しさん
まだ2ちゃんねるガイドラインの学習が足りないみたいだね。
もう一度熟読してみてください。

185:吾輩は名無しである
09/06/21 18:31:09
いろんなひとがお前らの事キモいとか酷いって書いてるから追従しただけじゃん。
馬鹿じゃないの?
どこのスレでもそんな感じじゃん。
馬鹿じゃないの?
馬鹿なの?
何か2ちゃんねるガイドラインなの?

 他人に迷惑をかけるのはやめようということです。。。

 必要以上の馴れ合いは慎しむとか、暴言や第三者を不快にする書き込みはしないとか、悪質な削除要請や自己中心的な発言はひかえるとか、どれもむずかしくないことなんだけどなぁ。
 また、一般人の誹謗中傷・私生活情報暴露は禁止します。固定ハンドルさんを叩く行為も、最悪板以外の場所では禁止してます。

 詳しい禁止事項は削除ガイドラインをみてくださいです。。。

お前らが最低限度のルールも守れないゴミだってこのスレが証明してるよね?


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