08/12/16 01:47:15
詩文学板、どうやって盛り上げたらいいんだろうね。
こないだ久し振りに覘いたら、廃れるだけ廃れててアセった。
『おしゃべり』の執筆前に『内的体験』を読んでたみたいだよ。
まあ、私も再読してないからおあいこってことでw 『異邦人』の執筆前に
『謎の男トマ』も『アミナダブ』も読んでたみたいだよ、ってのと同じくらい
どうでもいいことかもしれないし。いや、全然どうでもよかないか。
しかし萌え語ってやつじゃなかろうか、それは。>ホスピタリティを持つ
タルムードレクチャーのどっかでレヴィナスが偶像崇拝とか放蕩と同等に
重大な罪として、不履行に終わる口約束、行動が伴うことのない美辞麗句、
それから歓待の気持ちを欠いた歓迎を目立ちにくいものとして挙げてて、
嫁入り道具がブルドーザーの花嫁を迎接してみたい、そんな無体な欲は
あなたありませんかねと、そりゃもう文脈完全無視で思ったおぼえがある。
私の推測によると、あなたは『子供部屋』を読んだらデ・フォレなしには
生きていけない軀になってしまうんだ。そしたら気の済むまで話そう。
国の内外を問わず、デ・フォレの読者が市井にわんさかいるとは私だって
思っちゃいないよ。でも、それに価しないとはちっとも思ってなくってさ。
じゃ、レスに移ろう。こっちもラフに行くよ。
51:吾輩は名無しである
08/12/16 01:50:30
ヴィトカツィ、超ハンサムじゃん。売れると思わない?w
『ニェナシセニー』は亡くなった工藤氏が生前に訳稿を完成させていたと聞くから、
下訳にしてさっさと出版しちまえと思うんだけどね。諸般の事情があるんだろう。
第一部「覚醒」、覚醒の章冒頭、小説の書き出しはこんな感じです(フラ語訳):
Genezyp Kapen は自由の妨げがどんな形式の下でも堪えきれなかった―早く
も彼の一番柔和だった幼年期から、あいつらの配慮に彼はやりきれない嫌悪感を
おぼえていた。(それにもかかわらず、なにやら不可解な奇蹟により彼は専制君主
じみた父の調教を八年間凌ぎきった。だがそんなことは、まるでぜんまい仕掛けを
巻き直したかのようなものであった。彼はとにかくいつかは己が緩むと知っていて、
そのことが持ち堪えてみせるよう彼を鼓舞していたものだ)。四歳で(その頃すで
に!)、彼は母と子守女たちに、夏時の散歩の際、いくらか肥えて繋ぐ綱を獰猛に
引詰める犬を撫でるのを認めてくれるよう懇願していて、それとも猟犬かなにかの
憂鬱になるような一匹、甘ったるく小屋の入口で鳴きついてくる仔犬だったか―
そいつを撫でる、そしてなにかそいつに食い物をやるだけのこと、はたしてそいつ
を自由にしてやるため犬を繋いだ綱から解放するなど問題になりえなかったが。
[以上第一段落]
S. I. Witkiewicz, « L'INASSOUVISSEMENT », trad. par Alain van Crugten, 1997,
L'Age d'Homme, p. 25. (1970年フランス語訳の再版)
いきなり関係のない話に脱線すると、ペットショップでカタログをめくってみると、
セッターやポインター、猟犬種には参考価格としてばかにならない値がついてる。
でも、猟師のルートでブリーダーと直接交渉すると、これがかなり安価だったりする。
もちろん相対的にだけど、四分の一、五分の一とかそういうレベルでさ。血統書が
猟友会発行だったりする。たとえば御殿場なんかで、金満家が猟に参加するとき、
よくしつけられた(=使える)猟犬を貸出せば日当五万円、なんて話を聞かされた。
毒キノコ食らって死んだら補償金を出してくれるかたずねたら鼻で笑われたよ。
笑い話じゃないってのに。あー、思い出して腹立ってきた。
52:吾輩は名無しである
08/12/16 01:53:41
1953年にはシャール、ド・スタール(>47で触れた画家)で一緒にバレエ作品やろう、
という話が挙がって大いに盛り上がったみたいだけど音楽を欠いてポシャったのでした。
『ルネ・シャールの言葉』、読んだことないや。劇が気になる。チェックしてみるよ。
その本の表紙の画はジャズマンへのオマージュなの。違和感アリw
その著者については私なーんも知りません。たぶんこれからもその著作以外は。
キノクニヤに注文したのミスだったかな、着荷まで待たされるんだ。
シャールに画家から贈られた絵が五つ油彩にあって(どれも「小品」、12×22㌢とか)、
うち一つは一時期デュパンに渡ってたみたいだ。シャール宛の書簡はレゾネに52通、
短いのもあれば長いのもある。どれにしようか。寝るまでに落ち着いて選んでおこう。
レゾネのビブリオグラフィーを見ると、デ・フォレも同人に加わってる『エフェメール』
(「書物の不在」初出誌と言ったほうが通じやすいか)第四号で小特集が組まれていて
手紙の掲載とか、同人のデュパン、デュ・ブーシェの二名が書いてるみたい。未確認。
胸躍る題だよ。デュパンが Le trajet le plus court[最短行程]、デュ・ブーシェが
Fragment de montagne[山岳の砕片]、表紙カバーはジャコメッティのデッサンで……
ツェランも同人だったりするんだけど、その号には L'Interlocuteur[対話者]って題で、
画家と関係ないけどなにかしら投稿してるみたい。彼がハイデッガーと面会したのって
何月だったっけな、一九六七年九月号、読みたくなってきた。デュパン、デュ・ブーシェ、
二名とも『総展望』にあった名前だよね。またとないアンソロジーだ。うん。
>選択肢c)
冒頭の一文で触れられていた « l'Inconnue de la Seine » はネットに画像があります。
一見の価値あり。原語 l'effigie が小林康夫訳では「肖像」だったと記憶してますが、
「セーヌの誰知らぬ女」は端的に言ってドザヱモンから写し取ったデスマスク・・・w
「肖像画」と日本語に訳すと混同の起きる le portrait のようにイマージュじゃなくて
切手の絵や貨幣の浮彫りであれ塑像であれ l'effigie はフィギュールの部類なんだよ。
MBはその所有者だった(余談。『死の宣告』のアレ、これっぽいなあとか思ってたり)。
53:吾輩は名無しである
08/12/16 01:55:54
第二文で、かつてそれがジャコメッティを誘惑した旨書いてるけど、「それ」はおなじみ
ELLE、effigie が女性名詞だからってことで小林訳だと「その肖像」と訳していたかな。
翻訳だとまるっきり落ちちゃうんだよ。おいしいところだけに惜しいったらありゃしない。
こういうときの潔さを好しとせず、私ならムカッ腹立てながら秘術トヨサキ行使に出るw
エフィジ
女性の首像が……
かつて彼女は溺れ死んだ……
エフィジ
かつて彼女がジャコメッティを……
ルビ活用術。
誘惑したのが溺死した女の「その首像」なのか溺死者としての「女」なのか、それとも
その首像に酷似し始める溺死の瞬間にあった「女とその首像」、と疑問は尽きないけど。
余計なことを言うと、そのエッセイで言及されている『時の終りのための四重奏曲』
(メシアン作曲)の最終和音には[原語 l'accord final、臨終に際しての一致とも読める]
ppp[弱弱弱く] perdendosi[(楽音が)失せ(るに任せ)ながら]と指示がありやす。
さらに附言するとエッセイの註で「卓抜したタルムード読解入門を構えている」みたいに
紹介されていた本があったよね。L'ENTRETIEN INFINI(略してEI)収録対話篇の理解に
下のリンク先、現代思想誌バックナンバー掲載なんだけど、抄訳されていた箇所だけでも
非常に役立つと思うな。< スレリンク(book板:788番) >
レヴィナスにも親しんでいるようだし遠慮なくおすすめできます。
高貴だなんてご冗談。
ごめんね、D・ラバテの名前、どこで知ったのかなと疑問に思ったからカマかけてみたの。
54:吾輩は名無しである
08/12/18 01:38:56
R・シャールの一九五一年二月八日の手紙の書き出しはこんな感じです。
「親愛なるスタール
1.私は幸運でしたね、あなたと知り合えて私はうれしく思っています。
2.私はあなたの作品を愛しています、極めて私の心に触れる作品です。
私はあなたにそのことをまたお話しする機会をぜひ持ちたいと[…]」
画家スタールはルネ・シャールの過去の詩集( Le Poème pulvérisé )から
抜粋した十三の詩篇に表紙となる石版画、十四の木版画をつける仕事をし、
その挿絵本の展示会が一九五一年十二月八日、スタールから買いつける
画商はまだ当時その人ただ一人だったジャック・デュブールの経営している
パリの画廊で開かれたそうです。以下は十一月八日、同年パリで書かれた
ルネ・シャール宛の手紙の試訳:
木曜 夜
親愛なるルネ
明晩になるかボーディエがそりゃ僕にくれたかろう一切は君に送る―僕はもう
躊躇なんてしない。連中、すこしばかりここのところ三日理由なしに引っかき回して
くれたから。
灰色だよ。然り。表紙石版画の灰色にはそこのよりもっと濃くなってもらおう。
君の名前、僕じゃハンコ式と別な具合には制作できなかった。他の仕事のやつ
諸々への暴力を勘案すると。だから判読可の限界で留めるとしよう。
函、どれも函は同じになってもらおう。概して外観としてはだが、僕が同じものを
手ずから作るので君は当然のことながらヴァリアント一点を手にすることになる。
ワックス加工の厚みとかアガートになる凹凸の点でだね[アガートは花の名称]。
もっといいのは考えつくこと一つ僕じゃできなかったから―
ともかく、白革に石版画を刷ることはできて黒革の函を作ることはできるだろう。
その役に立ちそうな革を先に立体の形状にしておいたらさ。そんなこと僕が思うに
少数愛好家がまったく当り前みたいに少数愛好家自身で実現しちまいそうなもの
―君はその上で彼らに提案してくれていいんだよ。この今計画について、僕の
担当分に将来君がご所望になるヴァリアントってやつは全部。
55:反省中
08/12/18 01:40:20
そういうことだ。ルネ、僕は際どいところに達しているな。神経でできた刃の上で
いささかね。君が昨日早くもできてきた本を全部持っていなくちゃいけないからだ。
つまり、僕は君に書くってのに、僕は安らかな惰眠を貪らなくちゃいけないだろう。
そして君が僕に書くんだ、君は、君がそれについて思うところを。
僕の時間だ。僕に、限界は昨日だった。
こうは言っても、そうこうして君のために労作することが僕にくれたものを僕が
君に満足に言えることなんてずっとないんだろうな。君は僕に再発見させてくれた。
僕が持っていた情熱を。子供が、大空に向けて、秋の葉に向けて。そして直截な
先例のない語法へのまったくの懐旧の念、例にないことが運び去ってゆく懐旧を
一発で。僕は今夜君のため僕の両腕に二つとない千の本をいだく。たぶん僕は
その千の本をけっして作らないがそれをいだくことがとんでもなくいいことなんだ。
おやすみルネ。フランソワーズが一着ジェロームのための外套を制作中だ。
君によろしくと。近いうちにまた。心から。
ニコラ
「>50(自己レス)訂正とお詫び」
カミュ『異邦人』の完成は1940年に遡ります。ですからありえないことです。
となると「二作品を当時読んでいた」と知って驚いたことしか定かじゃない。
「執筆」と「出版」の勘違いか別の作品たとえば『ペスト』との記憶違いか。
もしかするとカミュでさえなくって……。どこで読んだか忘れてしまったよ。
(こうしてどうでもよくなくなるのって、どう考えても好ましくないよなあ。)
今すぐに調べのつくことじゃなさそうだから、お詫びに代えて新たに妄想を。
ヴィトキェヴィッチとの交友を知られる作曲家に、生涯何度も作風を変えた
カロル・シマノフスキがいます。下は作曲家没年のかなり古い年代の演奏、
もしかしたら放送された映像をヴィトカツィも視聴していたかもしれない。
作曲家の代表曲の一つに数えられる『神話 三つの詩』作品30の第一曲
URLリンク(www.youtube.com)
56:吾輩は名無しである
08/12/20 23:19:03
>>50-55
>詩文学板
ただでさえ詩を学ぼうとする人は少ない上に
(作ろうとする人はそれほど少なくなくても)
IDが表示されるのが原因かも。
>『子供部屋』を読んだらデ・フォレなしには生きていけない軀に・・・
とても怖ろしい(笑)・・・でも、そう言われたら読みたくなってしまうこの性(笑
>ヴィトカツィ、超ハンサムじゃん。売れると思わない?w
大売れはしないと思うけど(笑)、そこそこ読者はつくんじゃないかと。
代表作を未訳にしとく手はない。感謝!>覚醒の章冒頭
>シャール、ド・スタール(>47で触れた画家)で一緒にバレエ作品やろう・・・
『ルネ・シャールの言葉』は4部構成で
1部 81篇の詩
2部 アフォリズム
3部 演劇「水の太陽」
4部 16篇の散文
から成っていて、散文にニコラ・ド・スタールについて書かれた小文がありました。
ほかに、ブラック、ジャコメッティ、ブーレーズなどについてのものも。
57:吾輩は名無しである
08/12/20 23:30:51
(つづき)
>同人のデュパン、デュ・ブーシェの二名が書いてるみたい。
このあたりの名前も気になるけれど、
とりあえずシャールの次は宮川訳編のボンヌフォア(ボヌフォワ)を予定。
>冒頭の一文で触れられていた « l'Inconnue de la Seine » は・・・
確かシュペルヴィエルに同題の短篇があったと思うけれど、
うーんデスマスクとイマージュのテーマはすぐれてブランショ的。
(l'effigie がイマージュというよりフィギュールだとしても)
最近ではディディ=ユベルマンあたりがそのへんを書いてそうで多少気になります。
MBがその所有者だった(!?)という余談は初耳。興味深い。。。
>かつてそれがジャコメッティを誘惑した旨書いてるけど
ジャコメッティはシャールの肖像画も描いているみたい。
若いときにシュルレアリスム運動に参加し、やがて離脱した経験は
2人に共通したものだけれど、ブランショとはどうだったか・・・
ジャコメッティ『エクリ』は持ってます。
>私ならムカッ腹立てながら秘術トヨサキ行使に出るw
豊崎光一? ルビ活用術といえば泉鏡花ですよ(笑
>その首像に酷似し始める溺死の瞬間にあった「女とその首像」・・・
そう、ここがブランショ的というか。
58:吾輩は名無しである
08/12/20 23:44:15
(つづき)
>「卓抜したタルムード読解入門を構えている」みたいに紹介されていた・・・
感謝!>リンク&書簡訳。
ここでレヴィナス、ジャベスの線(トレ)が引かれるわけですが、
ちょっと話が膨らみすぎるのでこのへんのユダヤ的話題はまたの機会に。
といいつつも、次もユダヤ人ツェランについて。
>ツェランも同人だったりするんだけど、その号には L'Interlocuteur[対話者]って題で・・・
55年にシャールはボーフレの紹介でハイデガーに出会ったようで
シャールは詩集「失われた棟」をハイデガーに、
ハイデガーは「言葉への途上」仏訳をシャールに捧げたりと
お互いに幸運な出会いだったようですが、
ツェランはというと、ハイデガーとの出会いは悲しいものだったようで。
その出会いのことを日本語訳で「山中の対話」という短篇的散文にしてましたが、
それがL'Interlocuteurかどうかは確認してみないと不明。
>カミュ『異邦人』の完成は1940年に遡ります。
カミュもまたシャールを高く評価していたことが例の本に書いてありました。
>『神話 三つの詩』作品30の第一曲
ジャック・ティボーのバイオリンがいい味出してますね。
59:吾輩は名無しである
08/12/22 00:41:21
危ないあぶない! 『ルネ・シャールの言葉』にある一九五一年の小文、
余勢で投稿しちゃうところでした。共作第一号の展示会に際してシャールの
寄せた序文がそれです(失礼。日付、十二日の間違いでした・・・)。
印刷する紙もタイポグラフィも手がけ、完全に画家が製本したようです。
翌年、画家は風景画や静物画等を嚆矢として「半具象」に作風を転じます。
ああ、『詩集』の実物をこの眼で見てみたいな。購入を報告します。
やっと「水の太陽」全文を日本語で読める。ありがとう!
一昨年から、書店の文芸書コーナーではスタールの油彩画が使用された表紙の
本が並ぶ機会が増えに増え、人気という観点では異常に加熱しているようです。
今のところ確認している限り、どれもその意味で1952年の転機以降の作です。
あえて確認しませんでしたが、彼の絵画をご存知でしょうか。
画家の手紙を読む限りでは存命の頃、その死まで短い期間ではありましたが
交際を続けるにあたり、シャールは困惑させられ通しだったかもしれませんね。
カタログレゾネにある手紙を全部訳したい、もっと画家の生を身近にしたいのが
腹蔵のない本心なのですが、往々にして歯が立たないこともまた本音です。
長い付合いを覚悟しています。
ここに投稿した訳文は、一つ残さず現在進行形で改稿されています。
あるいは象嵌式の修正、あるいは語順操作。その点、どうかご了承ください。
>そこそこ読者はつくんじゃないか
「ヴィトキェーヴィチは、[…]小説を芸術形式と認めようとせず、なにを
つめこんでもかまわない「ずだ袋」と呼んで、(後略」ミウォシュ、前掲書から。
『非充足』のあらすじも紹介されていますから、立読みするといいかもしれません。
読者がつく、それも文学作品から離れている人を呼び戻すだけの作品と思いますし、
同時に物議を醸すのも間違いないでしょうけれど、出版社は二の足を踏むかも……。
心待ちにしている人、たくさんいるんだろうに。どうにかならないかな、ほんと。
60:吾輩は名無しである
08/12/22 00:42:45
そのシュペルヴィエルの作品、読んだことないや。というか彼の作品、
恥ずかしながら一作も読んだことがないのでした。折を見て読んでみます。
書き込んでから、日本の l'effigie に、たとえばどんなものがあるか少時
考え込みましたが、高村の「首」に対する偏愛など一考に価するかもしれないと
思いつつも、なかなかパッと適当な例は思いつかないものですねw
『ドリュウ・ラ・ロシェル日記』(メタローグ)、
「『新フランス評論』と訣別した」で始まる一九四〇年五月三日のページに
「モーリス・ブランショはシュルレアリスムに蝕まれている」とあります。
彼の鑑識眼がいかほどかは措くとしても、四〇年といえばフィクションを
まだ一作も発表していない時期ですか、いくらか気にかかる記述です。
ずいぶん前借りて読みましたけど、『エクリ』持ってませんよ。いいなあ。
矢内原とのハラキリ談義に爆笑したような。あれって『エクリ』でしたっけ。
たしかデュパンの序文がやたら力の入ったものではありませんでしたか。
感動した憶えがあります。ただ、散見されるカタカナ語に興をそがれたかな。
これはどうにも避けられない。そろそろエクリチュールの標準的な訳語を
考え直す頃合かもしれませんね。なにか腹案がありますか? 脳内変換で
日ごろ重宝しているような「先験的 --> 超越論的」並みの代案が。
「山中の対話」、小沢書店の詩集で読みましたよ。プリズメンに有名な一節を
書いたアドルノが想定されていたんじゃなかったかな。私と君のうちなる彼(ら)を
巻き込んで交わされる対話だったと理解しているのですが、あの短篇を読んだの
だいぶ前だからあやしいや。でも、「ユダヤ人と自然は別々のもの」みたいな
一節が強く印象に残っています。いまだにわからない。自然を本性とか本然とか、
あるいはテーヴァと再翻訳しちゃきっとだめで……。
>ユダヤ的話題はまたの機会に。
来年の楽しみにとっときますね。
来年はモチベーションを高めて『ゾーハル』フランス語訳を買いたいと思います。
そしてささやかにしてひそかなわが喜びとしたいと思います。
61:吾輩は名無しである
08/12/22 00:44:39
今日、クリスマス~正月用の音楽を一万円分調達してきました。これで一安心。
年末年始の自由時間、読書をどう組み込もうかな。そちらはボヌフォワか。ううむ。
まあ、例年通りのんびり再読に明け暮れるとします。
強制IDにはすぐ馴れるよ。文学板への導入は微妙なところだけど。>詩文学板
詩を学ぶというと抵抗感があるけど、たとえば現代詩文庫、あれだけ手あたり次第
読んでやろうと思わされる文庫もないような気がする。あの文庫との折り合い、
みなは一体どうしているんだろう。あの文庫がなくなったらと思うと寒気がする。
>ルビ活用術といえば泉鏡花ですよ(笑
おや、先賢のルビ活用術を体得するのに文語訳聖書は避けて通れませんよ?w
早起きした日はランダムに開いて楽しめるような創意工夫が満載の一冊です。
里帰りしたら讃美歌集を読み直してみようかな。
聖句のイスラエルを大和に置き換えている古い超訳があったと記憶しています。
百円で買った文語訳聖書、小口に蛍光ピンクのアクリル絵具の飛沫が満遍なく
細かに散らばってます。これって仕様なのか、それとも前所有者の伊達なのか。
>ディディ=ユベルマン
残存するイメージ、値が張りますね。正直に言って書店でスルーしてから
忘れていた名前です。せっかくの訳書だし図書館利用の上で読んでみるかな。
>ジャック・ティボーのバイオリンがいい味出してますね。
どこぞの鑑定士じゃあるまいしw どうせ骨董ですよ。東芝EMIもせっかくの
日本独自の十枚組CD編集盤、廃盤にしてくれましたし、拗ねたくもなります。
ああして森を裸で走り回ってクセになっちゃったりしないのかな。愚問か。
では、来年もよろしくね~
62:吾輩は名無しである
08/12/28 00:54:31
>彼の絵画をご存知でしょうか。
スタールはこれまでよく知らなかったんですが、
これから出会っていくと好きになりそうな予感が。
美術は興味があるんだけれど、ごく限られた範囲。
ゴッホ、クレー、ジャコメッティ、イヴ・クライン、
それから、変り種ではエッシャーあたり。
ジャコメッティの話題は来年に持ち越しておきます。
>一つ残さず現在進行形で改稿されています。
「あるいは象嵌式の修正」というのが詩的でいいですねぇ。
絶えず更新される無数の翻訳のヴァリアシオン、
永遠に不定形の流動するテクスト、というところでしょうか。
了承も何も、気兼ねなく振舞ってくださいよ。
63:吾輩は名無しである
08/12/28 01:10:43
>「モーリス・ブランショはシュルレアリスムに蝕まれている」とあります。
ブランショは若いときジャーナリスティックな活動(しかも政治的な)をしてたので、
ブルトンらのシュルレアリスム派ともバタイユらの社会学研究派とも
ちょっと異質な道を歩んだとは思いますが、
ブルトンの影響はやはり強くあったでしょうね。特に「ナジャ」は。
レシとロマンを区別するブランショ的定式によるならば、
セイレーンの歌を聞いた体験を回想して後で綴ったものがロマン、
その体験そのものを生々しく言葉にしたものがレシというわけで、
(記憶違いでなければだいたいこんな感じ)
「ナジャ」はレシの代表的なものになるわけですからね。
>アドルノが想定されていたんじゃなかったかな。
「山中の対話」の原題は「 Das gesprach im gebirg 」
これを仏訳すると「L'Interlocuteur」になるかどうかは不明なんですが、
どうも違うような気がしてきた(笑
でもやはりここでの対話者はアドルノではなくてハイデガー。
ハイデガーの山荘にツェランが赴いたときの体験でしょう。
64:吾輩は名無しである
08/12/28 01:32:56
>そろそろエクリチュールの標準的な訳語を・・・
これは難しい。。。これは来年、いや再来年の宿題かな(笑
「書字」という見慣れない言葉は駄目で、
昔なら単純に「執筆」でもアリだったかもしれないけれど、
筆を使わずにキーを叩くことの多い今の時代にはそぐわないし、
「書き」としてレクチュールの「読み」と対にしてみても
実践的には使いにくいわけで、これはもう野暮ったく「書くこと」として
「エクリチュール」というルビを入れるのが無難か。。。
>ルビ活用術を体得するのに文語訳聖書は避けて通れませんよ?w
いや、そういう重みのある茨の道はぜひとも迂回したい(笑
しかしその迂回によって彷徨った挙句に森に迷い込み、
裸で走り回るニンフに出会うというクロソウスキー的な構図を夢想(笑
(美術に詳しいようなので弟バルテュスのほうがお好みかな)
で、またしても森(フォレスト)なわけで、デ・フォレのほうへと戻る。
今度は、抄訳「SWの詩」と短篇「子供部屋」について何か書きます。
迂回(デトゥール)は彷徨(エルール)を経て回帰(ルトゥール)へ。
>では、来年もよろしくね~
もう今年も残り僅かかぁ。こちらこそ!
65:吾輩は名無しである
09/01/04 22:52:02
新年一発目ということで、まずデ・フォレについて少し。
「子供部屋」菅野訳、「狂った記憶」清水訳を読むと、
デ・フォレの自伝的背景(少年時代)に興味が向くけれども、
ブランショやベケットの作品に見られるテーマと無縁ではないものが、
作風には隔たりがあるけれども、これらの作品にも流れてる感じがした。
そのテーマというのはおそらくは「言葉と沈黙」であって、
デ・フォレの場合は形而上的な方向には向かわないけれど、
「こうして、彼の前には、刻一刻と強力になってゆく怖ろしい侵略者さながらに
いま沈黙が立ちはだかっている」―という「子供部屋」の中の言葉や
「彼は幾たびも夜を徹して、語りえぬものを成文化し、手のつけられぬほどの混沌
を秩序立てようと試みた」という「狂った記憶」の中の言葉に窺われるように、
小説内のプロットやストーリーを読ませると同時に、
デ・フォレ自身の書く行為(エクリチュール)を読ませてもいるかのようだ。
でもこのオブセッションは一体何だろう?
一方、「SWの詩」抄訳では、さらに自伝的色彩が濃くて
ここでの長女喪失というオブセッションはかなり見やすいけれど、
この詩でもまた同じテーマが見出される。
「だが語はあらゆることにおいて私たちの主人なのだ。というのも
沈黙するためにも語を通っていかなければならないのだ」
66:吾輩は名無しである
09/01/04 23:00:49
ジャコメッティについても軽く触れておきます。
>たしかデュパンの序文がやたら力の入ったものではありませんでしたか。 (>>60)
ご指摘の通り、読み応えのある序文がレリスの軽めのものと並んで入ってます。
デュパンのジャコメッティ論は邦訳もあるので手に入れたいところ。
で、ここでディディ=ユベルマン、ボヌフォワにもつながってゆくのは、
彼らにもジャコメッティ論があるからで、これらにも目を通さねば。
67:吾輩は名無しである
09/01/11 21:27:35
また来たよ。1レスを前置きに借りよう。クロネコの「乞う連絡」が
何枚もあったが、支払いを済ませて無事入手することができた。
コタツみかんで読めなかったことは心残りだが。デ・フォレの本も
何冊かあり、これから読む。以降、ここでのやりとりにこの読書を
反映させたいと思うが、まずたどたどしく文字を追うことに時間が
費やされそうだ。気長に構えてほしいが関心は持続しそうかい?
そのうちの一冊にさて Voies et détours de la fiction がある。
短篇集『子供部屋』まで(もっと精確には、集中では作品発表が
最後の Dans un miroir まで)、またそれ以降の大へん息が長く、
しかし寡作なこの作家の活動を考えるにあたり、一級の副読本を
見込んでいる―「書面を通じ質問状への回答として起稿され、
このテクストは一九六二年、『テルケル』十号に発表された」と
巻末、初出誌とその経緯について触れた慣習的な記述がある。
その題、『虚構(というもの/から)の方途と迂回(路)(さまざま)』、
通読したらどれを取っ払っていいのか判明するだろう、して!w
だれが書き送ったか定かでない十二問にデ・フォレが答えている。
包丁を入れながら目を通した印象では、自作自演ではなさそうだ。
そのなかには一定数このスレでも参照を不可欠としそうな問いが
含まれ(定かでない? 私の勘は若かれしソレルスと告げている)、
興味深いがその偏りは否めない。仮に質問者が同一人物だとして、
「おしゃべり」と「狂った記憶」、他には評論文「ドメーヌミュジカルの
ストラヴィンスキーとヴェーベルン」、残りはパラパラ読んですぐさま
書いたような質問の諸々だ。しかし常体ぎりぎり近くに押し下げた
敬体の文面、質問の性質を心酔者のものとするように感ぜられる。
第一印象ではそんなところだ。デ・フォレはかなりの遅筆だろう。
いつ発された質問なのやら。気になる設問が散見されることもあり、
どうして「ストラヴィンスキーとヴェーベルン」のようには埋没させず
出版することに決めたか、入手可能な現在では少々時代錯誤な
疑問が湧いている。デ・フォレの回答が率直であることを祈ろう。
68:訂正しました!「若かれし --> 若かりし」
09/01/11 23:15:04
上の質疑応答形式の本は通読し次第、紹介に移りたいと思うが、
エピグラフが―《似たり寄ったりの質疑に、彼は斜にしか返答
されえず、曰く綴織りの裏ばかりさらされるそうなのでといったと
ころだ》、俎上にのせられるだろう作品を指していることは明白な
綴織り(タピストリー)の裏側というのは覆い隠された事の内幕
といった意味あいもあり、なんとも捻くれたものになっている。
そこで引用符(ギュメ)に括られた一文の下、1986年のこの本に
Sir Samuel Wood とあるんだが……。サミュエル・ウッド卿、まあ
十中八九、実在人物ではないだろう。正直に言って吐き気がした。
残念ながら、年末年始にデ・フォレ関連の読書時間を持つことは
かなわなかったが(この機会にサムエル記なら再読したんだが、
ただし全篇ではない。だがSWの詩に関する一定の発見があった。
上・第3章第4節の呼び声に見憶えがないとはまさか言わせない!
読解は一筋縄ではいかないようだ……)、新春の長文を詫びつつ
レスに移る前にまだすこし私からもデ・フォレに触れておきたい。
なにせ書き込みを読めてうれしかったからね。お礼になるといい。
(「沈黙と言葉(パロール)」に読解のテーマを設定したあなたの
気持を汲み、共に(だが別個に)探りをかけたいのは山々だが、
デ・フォレの作品にあっての「沈黙」は思うに語りの声の引退きと
その徴、一語にして「徽章」、それも戦の勲章ではないか。あまり
深入りしないことが望ましいように思うんだが、それでも……?)
当面、二次文献の類は読書の予定にないが、『おしゃべり』の発表後、
『冬の旅』に着手し、これは五年を要したあげく未完のまま破棄された
という年譜的事実がインターネット上、著者紹介に書かれることで半ば
定着していると伝えておこう。五年間の「失敗(エシェック)」その経緯は
詳細不明だが、デ・フォレがこう書くとき、決裁の権能を具えるという
特異な「失敗」にあなたはなにを思うかな。よかったら聞かせてほしい。
あらゆる真に創造的な探求を擁して、唯一その成功を決裁しうる
失敗というものの危険を冒すこと
69:吾輩は名無しである
09/01/11 23:17:06
(引用は Strawinsky et Webern au Domaine musical から。
おそらくこの一節をふまえて Voies et détours de la fiction に
一問設けられているようだ。次来るときまでにデ・フォレの回答と
あわせて訳を用意しておこう。)「オブセッション」の片鱗だろうな。
じつはこの「決裁」、狂った記憶の掉尾を飾る顛覆(どんでん返し)の
冒頭一文に「エシェック」を直接目的語として再度あらわれるゆえに
翻訳者泣かせの一語でもある。原語は sanctionner だが、たとえば
仏和辞書を引けば真っ先に「承認[認可]する;批准[裁可]する」と
書かれているような動詞だ。したがって上の「決裁の権能」が同時に
処断能力〔 pouvoir-sanctionner 〕にもなることを確認しておきたい。
次に再読したら「法の発効」を読み取るかもしれないと思ったが、では
デ・フォレにあって成功は、エシェックはいかなる法なのかとなると?
清水訳では該当箇所(「狂った記憶」九七頁)、その〔実験=経験の〕
「失敗を裏書きしている」とあるが、私からは「失敗の処断を俟つ」と
代案を出しておく。恥を恐れず告白しよう。去年の今時分に私は
Une mémoire démentielle を訳してね、さんざんだった。年末年始、
訳し直す予定だったんだが、時間の都合がつかなかった。春までに
ここでのやりとりの記念になんとかしよう。いまだにべた惚れなんだ。
ではゆるやかにレスに移っていきたい。あらためて今年もよろしく。
技術的な話になり、なにもエクリチュールに限った話ではないのだが
たとえば「書く行為」を翻訳語として固定することでフランス語にある
自然な「書く(という)行為〔 acte d'écrire 〕」は閑却されるだろう。
訳書にあるエクリチュールというルビを振られた「書く行為」を、私は
(むろん個人的に)「書行」としていて、不具合が出るか現在調査中、
ぜひこの機会に頭の片隅に入れていただいて、どうぞ不具合報告をw
70:吾輩は名無しである
09/01/11 23:18:45
同様にこれも瑣末事には違いないが―一作品を指しての定型句に
「エクリチュールのエクリチュール」という評言がある。多くの場合その
評言は妥当とみなされるが、同様にしかし同じ数だけ不快を誘うという
事実がある。これは、定型句というものそれ自体の不快に術語と化した
「エクリチュール」という語の趨勢に鬱積した不快を還元しながら誘う
と同時に作品に対する評言として妥当であることが多いことをふまえた
当該作品そのものに予感される不快をない交ぜに喚起せしめている、
とまあ一応は説明できるが、エクリチュールのエクリチュールは退屈だ
という定型句(およびそれを枕詞として続く「……が、たしかに例外は
わずかながらもあり……」)に、あなたが頼らなかったことを歓迎したい。
ああは煽ったものの、拒絶反応を示したらと内心ヒヤヒヤものだった。
「エクリチュール」は英語じゃ大味にライティングで定着している。
たとえば去年すこし触れた『危険を冒して書く』( Writing at risk )、
その書名に私は危険を冒してのエクリチュールを読み取っている。
(>キーを叩くことの多い今の時代に……)
今日タイプライティング言語ないしタイピング言語なるものを唱え、
その検討過程で遡及的に再発見される謎の言語活動、言うなれば
書けない状態に陥ったときの逡巡を、原-ライティング言語として
暗に讃えているような者がまだたまにいるのには閉口させられるが
(おまえら絶滅するんじゃないぞ! とも思う)、タイピング言語を
ライティング言語に包括させて話すことにはもっと懸念がある。
区別してよいものとして二つがあることは、積極的に言語活動の
活路を見いだしていく上でも正しいと思う。しかし私はそこに差異を
設けることが可能であるがゆえの故意の混同の逆説的な必然性を
いくら説かれても拒否するだろう。タイピング言語(・・・即興造語、
先ほどからお目汚し失礼)、その果て、限界、極致、なんと言おう、
今や残骸と言ってよいライティング言語に寄り添うタイピング言語が
タイピング言語じゃなくなる臨界点突破の経-験を思うと胸躍るよ。
71:吾輩は名無しである
09/01/11 23:19:23
『問いの書』は手書き~タイプライティング往還の結果でもあって
(『危険を~』参照。宣伝か?)、その専ら推敲の作業に特化した
タイプライティングに触れつつ作家ジャベスは「書いたものからの
いっときの解放が必要」と語る―「いっときの解放」、すなわち
持続しない解放。解放とはなんの謂か、なぜ持続しえなかったか、
かかる解放がそれでも必要とされる状況とはどんなものだったか。
『問いの書』執筆過程にライティング言語なるもの、換言するなら
「エクリチュール」という言語活動への批判がたえずあったことは
容易に想像がつく。ジャベスが語るような「解放」を執筆活動への
タイプライターの導入それ自体がもたらしたことは、今日思うに、
いっときとしてなかったんじゃないか。自分自身が書いたものへの
たえざる批判活動(または批評行為)を通じてこそもたらされた
解放であったと読んだし今でもそう思っている。同インタビューに
この件を考えるヒントを私は求めたよ―「場所を廃止することで、
場所をばらばらにする」と彼は語る。自分が書いたものを横目に
タイプライターを前にしての坐業を通じたかかる場所の廃止が、
文学空間の炸裂が「いっときの解放」をもたらすのではないか?
第一期の訳書、サラとユーケルの物語は読んだかい。
難解な書冊との遭遇時よくやるように歴史的に距離を置いてみると、
たとえばあの作品に「詩」を読むことでポストジェノサイドにおける
「詩」の実在についての審問のなか、あるいは散文のなかへ、散文に
包摂されてとりわけ小説のなかへと「詩」が一時の難を遁れていた
時代の産物とみなされるリスクの際立った作でもあって、第一の書で
たとえば壁の落書きを指してあれはユダヤ人の書いたものじゃないと
どうして断言できようか? 作家の嘘、言語活動の嘘、登場人物の
吐く嘘といった複数の水準もある(デ・フォレの読者が作品の読後に
かならずブチ当たる問題の一つだ)。保身の策を兼ねての対外的な
アピールとして、一度は自分を痛めつけてみせているだけではないか
といった(けだし事実無根の)疑念を向けられるなどむろんリスクの
一端にすぎない……。この問題系は今なお複雑を増す一方だろう。
72:吾輩は名無しである
09/01/11 23:46:47
考えなしに入力していたら話が逸れた。一種の貧乏性だろうが
投稿してしまった。そちらの負担を度外視している。申し訳ない。
ためしに私は今回、字数制限対策で常体にしてみたが、大丈夫かな。
掲示板じゃ基本的にですます体なんだ。もともと長談義を好むたちで、
ですます体の選択にはその好みもけっして無関係じゃないだろうが、
場所や相手を選ばずに使用できる点、どうにもラクでね。どこかで
後藤が「ですますは敵意を押し隠す方策」といったことを語っていた。
読んだとき、ぐうの音も出なかったことを思い出したよ。ああそうだ、
友人から譲り受けたという『行方不明』は見つかったかい? いやみに
聞こえてしまってはいやだったから黙っていたが、いいやつじゃないか。
ここは一つ、いいやつという点で、まだ見ぬその人の上を行くことを
目ざしてみたいと思う。絶対的にいいやつ、それになってみたいと思う。
似たことをやっているうちはたいして上を行けるはずがないんだが、
というか『行方不明』は初期のシャープな奇矯作品を編んだ作品集と
記憶しているから、そう簡単には上を行かせてもらえないというのは
承知の上で、手始めに新年挨拶に代えて貼っておこう。十分経った。
何行になったかな? URLリンク(www.nortonpoets.com)
ブランショに関する話題は復習してから書き込むよ。「賭ける明日」、
ナジャの登場の現在形について語ったくだりに感銘を受けたな。
あのド派手な評論のなかじゃ地味な部分だろうが。それを読むと
当該作品のみならず他の作品さえ二度と同じようには読めなくなる、
そういう読みだ(したがって煙たい)。あれはフランス語で書かれ、
フランス語で書かれた作品を語っている評論なのに、かけ離れた
言語である日本語で書き書かれたものにも影響を及ぼしかねない。
その単純な事実をどう受け止めたらよいかと混乱してしまってさ。
附言すると、デ・フォレはあの技法のその後に寄与した一人だ。
その研究の対象こそナジャの登場ではなかったかもしれないが、
開発を進めて「狂った記憶」でやりたい放題、と一応は読める。
まだ消化不良、卒読としていないなら次はテンス/アスペクトを
吟味しつつ読んでほしい。面倒だろうが抜群に面白いはずだ。
73:吾輩は名無しである
09/01/12 00:06:41
さらに長くなること請合いだから、これは次の機会としたいが、
「だが語はあらゆることにおいて私たちの主人なのだ。というのも
沈黙するためにも語を通っていかなければならないのだ」主人、
原語では「メートル」だ(複数形)。デ・フォレにあって、さらには
この詩篇にあってのこの単語の意味するところは解明が必要か。
また事態の滞留を示す動詞 demeurer を引用箇所は落としている。
まあ、なんというか、寸閑を惜しむようにお互いがんばろう。
> Mais ils demeurent nos maîtres en toute chose
> Puisqu'il faut en passer par eux pour se taire, [原文]
あなたのレスを読み、
ベケットの作品に、即興の詩の朗読会の素敵な「実況」(催しを
「見世物」と連呼する "彼" だがあの「実況中継」こそ見世物に
ほかならない)、どっかにあったよな? と思い全集本の端本を
手許に寄せれば(聖グラングラン祭を収めたやつ)訳者解題の
エピグラフに「沈黙について誰が黙りえようか?」だと。ムカ!
「アイン、マイスター、アオス、ドイチュラント」、いまいましいにも
程がある。そこでだが、度を越した饒舌、突き抜けた長広舌の
主題はどうだい。『アミナダブ』にも困り者が一人いるだろう。
あなたが感じたように私もやはり三者三様と見るが、あれら
ばかげたモノローグ群の「祭りの後」を確認してゆく作業は
一度あったほうがいいように思いながら、私はこれまでなにも
してこなかったし、たぶんこれからも漫然と、ああ・・・
>>62 ニコラ・ド・スタール
新潮文庫『海市』(福永の作品)の表紙カバーに使用されていた
スタールの「風景(ペイザージュ)」は1997年のカタログレゾネで
確認する限り石原悦郎氏が最後の所有者だ(誰だ!)。おそらく
まだコレクションに蔵していることと思う。いつか絵が公開されて
そこが気軽に遊びに行けるような場所だったら見に行くといい。
私はハラを決めて誰だかわからない石原悦郎氏に手紙を書け!
返事が遅れた。すまない。返事しきれなかった分は繰越すよ。
74:1
09/01/14 01:03:53
>>67-73
いや~これは参った(笑
これだけ濃い長文&専門技術的を話題を連ねられると、
ちょっと怯んでしまいそうなんだけど
とりあえず応答できる範囲で臆せずに。
>気長に構えてほしいが関心は持続しそうかい?
こと言葉に関すること(読み書き)には気長も気長、そのへんはご心配なく。
「たどたどしく文字を追うことに時間が費やされ」てるのは日常茶飯事なので。
それにしても『虚構(というもの/から)の方途と迂回(路)(さまざま)』、
これはタイトルからして興味を掻き立てるフェロモンが出てる感じだね。
うーん、日本語としてはまだるっこしいタイトルになっているけれど、
しかし、複数形をひとつのアルファベットで記せないのは、
女性名詞&男性名詞がない以上の日本語の大きなハンデかもしれない。。。
>デ・フォレの作品にあっての「沈黙」は思うに語りの声の引退き・・・
このへんは、そう、まだまだ深入りできる段階にないだけでなく、
おそらくはいつまでも深入りできそうにない迂回路に誘われそうな気配。
しかしながら、その迂回こそが書行をなぞる身振りになるかもしれない。
(不具合度はいかがか。。。)
75:2
09/01/14 01:04:33
創造的探求とは、迂回、不具合、そして「失敗(エシェック)」であるならば。
我もまた「唯一その成功を決裁しうる失敗というものの危険」を冒そうか。
(だが、果たして冒せるか?)
sanctionnerの訳語「決裁」はどうも硬すぎる印象があるけれども、
「法の発効」については何ともいえないのでとりあえず置いておくと、
英語のsanctifyからの連想をここに絡めてみるならば、
神聖化、聖別といったニュアンスを含む正当化(聖当化)あたりのほうが、
個人的にはスッキリするように思いつつ。
「エクリチュール」と「ライティング」が同一のシニフィエを持つ感じがしない。
ブランショの本の英訳を自分の語学力も省みずに買ってしまったとき、
そのタイトル「ライティング・オブ・デザスター」を見ただけで冷めてしまうのを
如何ともしがたく感じてしまったのだけれども、
ライティング言語からタイピング言語への飛躍ないし浄化の作用は、
単に草稿が「作品」として「解放」ないし「正当化(聖当化)」されるというだけでなく、
個人的な言語に非人称性をまとわせる儀礼とも見えて、
そう、たとえばここのようなBBSという場所においてさえも、
書き込まれた言葉がもはや「誰のものでもなくなる」ような効果は
やはりあるんじゃないかと思うんだね。
(『危険を~』は前から少し気になってた本)
76:3
09/01/14 01:11:25
>「詩」が一時の難を遁れていた時代の産物とみなされる・・・
ジャベスについて目を通したのはまだ3冊程度で、
「ユーケルの書」「書物への回帰」は書架で熟成中。
ジャベスの、詩と小説と散文のあわいを彷徨する作品は、
そのスタイル自体が非常に稀有な試み、リスクを冒した試みだと思うし、
対話(アントルティアン?=間を保持する)というテキストレベルの形式が、
ジャンルとジャンルとのあわいでも行われるメタレベルへも視線を促す。
>作家の嘘、言語活動の嘘、登場人物の吐く嘘といった複数の水準・・・
これは非常に推理小説的な問題系でもあると思うけれど―
とここまで書いてタイムアップ。次回まで滞留 demeurer ということで。
77:吾輩は名無しである
09/01/14 20:50:37
手書きでは筆蹟が残りエクリチュールの匿名性が害われる。手書きの
文書の筆者が誰か親しい人なら当ててみせよう。仮に無署名でろうと、
文飾過多あるいは文飾抹消でごまかしていようと。(少年Aみたいな
怪文書はごめんだがw)で、たまに誤答する。他人のものと勘繰って
昔の自分の書字だったりしちゃったりして。その点タイピングの作業は
格納された文字セットからピンセットで嵌め込む作業と大差ないね。
タッチタイピングなら書くその手さえ視界に入らない。書いた文章が
誰のものでもなくなる効果の洗礼はごく日常的と言える。殊、書くこと
(エクリール)において「オン on 」は今こそ栄光の極みにある。が、
顔向けできないのが残念だ。(PADかEDだったかの断章で匿名を
勝ち取るための戦について述べていたと記憶している。どこだったか。
記憶違いかもしれない。これも個人的におさらいが必要そうだ。さて
このBBSには書き込む前に確認される事項がある。クッキーを消して
読み直すとしよう。もはやなにが書かれていたかもあやふやだ!)
『危険を冒して書く』、重訳のおかげでアクがいい感じに抜けていて
読みやすいことはたしかだよ。このスレじゃ言及が偏っちゃったけど
(狭く浅く偏っている、この三つがモットーだ)、人選も質問事項も
大雑把なのが功を奏している感じ・・・w
「壁の落書き(>71)」は水声社だか書肆風の薔薇だかの『問いの書』
七七頁にある。一応確認しておくよ。引っぱりだしてきた。この本には
何度でも圧倒されちゃうや。何度でも読み返すよ。
アントルチアン、対話 entre-tien はそう、解釈には幅があるだろう。
訳すにあたり entre が「あいだに/で~」を標準とする前置詞なんだが
entre-deux[中間、deux は「二」]と一緒に記憶して、そのアントルは
二者の両限界(複数形)の内を指していると思っておけば読めるはずだ。
不定形で記して tenir +接頭辞の entretenir という動詞があって、
アントルチアンはアントルトゥニユの関連語になっている。トゥニユが
あなたの言う「保持する」にあたるよ。しかしなにを二者の両限界の内に
保持するか? これがやはり解釈を要するところになっているから注意。
78:吾輩は名無しである
09/01/14 20:53:57
予定変更。「ストラヴィンスキーとヴェーベルン」、訳してみるよ。
デジタルデータをあげるわけにはいかないからセミアナログに
セブンイレブン、コピー機端末を利用するね。アップロードから
一週間以内ならタッチパネル操作と番号入力で印刷可能だよ。
料金の変わらないB4・二枚に収めるから四十円は負担して!
見た目、語彙を共通とする場合が多々だから、おフランスの本の
英訳作業は翻訳者の負担が日本語訳とは比べものにならないの。
目下悩ましいことこの上ない、漢字に頼りきったことは見えみえの
この決裁〔 sanctionner 〕にせよ、労を要さず sanction で済むし。
ただし英語-仏語翻訳者には両者見た目が同じにもかかわらず
意味内容を異とする単語の諸々が一々嘆かわしく映っているはず
(安心してくれていい、sanctionner は紛れもなくお堅い語だから。
挙げてくれた全部、「浄化」「聖別」「正当化」の動詞は作品中に
出てくる(不定詞のまま記せば purifier, consacrer, justifier とね。
通常、「聖別する」は sacrer を用い、前者の意味作用はより広範、
「聖別」のニュアンスを嗅ぎ取ったとしても訳出には注意を要する。
ここでは口調の違いと考えたい。清水訳「狂った記憶」九〇頁では
実際「確定」としている。「浄化」は八〇頁、「正当化」は八九頁他)
……いや、もちろん本による。『海の鬼女たち(メジェール)』の題は
デュ・ブーシェの『フィネガンズ・ウェイク』抄訳から取ったようだ。
『メジェール』約三〇〇行、一時間かけて私は一頁も読めなかった。
見知った単語がまるで誤って母音化され音写された古いヘブライ語、
解読にはおそろしく時間がかかりそうだ。こりゃあ英訳も絶望的か。
デュ・ブーシェ抄訳の入手はまたまた先の話になるが、ひとまずFW
邦訳該当箇所だけは探しておくよ。それくらいはどうにかなるだろう。
そういや昨年水野晴郎の訃報に啓示が下ってね、その頃はもう全然
手をつけていなかったわが Une mémoire démentielle 訳稿に題が
『錯覧強記(仮)』と冠され、現在もこのとほほな訳題が滞留中だ。
意地でノートに書き込んじゃいないが、頭の中じゃこれに固定……
まあ、気落ちしないで仏語訳も買うといいよ!>『星堕つる書行』w
79:吾輩は名無しである
09/01/14 20:56:04
様々な、数々の、諸々の、諸-、-群、数多の、幾多の、……このあたりが
代表的かな、あるいは-たち、無理やりノマ点をくっつけるとか、みんな嫌い。
どうしようもないが。だから嫌いぬいてやろうと思う。付加音価的な処理では
済まされない複数形はその代わり喜んで一工夫して訳し出す、みたいな感じ。
といっても、工夫したら工夫したで範例化が待っているのは言うまでもなく。
餘や豫、二字が別の伝来の字体に移ったことで日本語のわれと訓じもする
一人称の伝来の表記、余や予の字がその座を逐われることになったのは
ご存知の通りだ。昔の文章を読んでいて本来なかったまったく別の意味が
効果をあげることも珍しくない。マイナスにマイナスをかけるとプラスになる
らしい。それつまり、ダメなやつは数を減らせってことなのかと「余ら」に問う。
これはマイモニデスのフランス語訳からの孫引きだが、いつもと同じように
おそらく日本語で一番硬いと思われる一人称「私」としていた訳稿に変換の
手を今加え、片手間に入力し直したもの、「である」を使用している時点で
擬古文としては問題外だが、―《余が余自身で所有すると信ずるものは
単なる趨勢や個人的見解にすぎぬ。そもや神の天啓、余がこれぞ実際に
人の言わんとしたことであるなと余に知らしめたような啓示なぞを得たこと
はたえてなくて、師から余が考えていることを学んだことも余にはないが、
数ある預言書や碩学垂訓のテクスト、同様にして思弁的命題をば余は所
有し、それらこそ余をそういうわけなのだなと信ずるに誘導するのである。
とはいえ、別様にそういうわけであるのかもしれず、また人はまったく他な
るものごとを言わんとしたのかもしれないのだ。》引用はM=A・ウアクナン
(略すとMAO・・・w)のル・リーヴル・ブリュレから。53リンク先の "対話"
直前の章 "解釈"、再読してだいぶメモ書きがたまったから比較的迅速に
訳稿を作成できるかも(あっちの対話は dialogue なので注意。そういや
『山中の対話』、フランス語訳だと entretien なんだね)。蛮勇は承知で
挑戦してみるかな。われながら上の小手先加減、小ざかしさは苛立たしいが、
いくらか雰囲気を伝えることができていればなによりと思う。
80:吾輩は名無しである
09/01/14 20:57:41
邦題は仮題にせよしばらく抛っておくとして、例の本の第六問がこうだ。
デ・フォレの回答は日を改めるとしよう。
「あなたは芸術作品が一般に、その失敗、夢見られたのだろうまった
く他なる冒険の、最も成し遂げられての失敗において偉大であるとい
うようにお考えですか? それとも失敗というこの概念はなんらかのロ
マンティスムの後遺症の一つ、あるいはその[=なんらかのロマンティ
スムの]再来〔 retour 〕、あるいはまた一個の形而上学的命令にすぎ
ませんか? 等しく芸術作品が他なる事物を名ざすための企図であり
えますか? あるいは、反対に、あらゆる言われていないもの、あるい
は一度たりとも名づけられていないものが、言われているものの必要不
可欠な反映にすぎませんか?」( Voies et détours de la fiction, p. 25 )
一昨日は書きそびれたが、質問を読んでいて面白い発見だった一つに、
質問状の vous が「あなたの作品」を指していると見受けられる箇所が
いくつもあった。思うにこれは vous が二人称複数形(あなたがた)でも
あることに由来するだろう。「あなたとあなたの作品」という具合にだ。
とすれば略記されていることは事実なので「あなたの作」とする予定。
この本のエピグラフ(68参照)だが、すでに一読いただけたことだろうし、
もう一点ばかり附言してみよう。綴織り=タピストリー〔 tapisserie 〕は
壁掛けのインテリアでもある。回答者が壁掛けの脇に佇立、あるいは
座し、貫いて突進して行きかねない壁掛けの正面に位置する相手を
斜めから監視している構図をも視覚化されるようだ。突進するとして
抜け道があるか壁に激突するかはやはり不明だが、その緊張感を
なにものにも代えがたいもののように思う。さて卿はどこにいるのか。
もっと書き込みたいが今日はこのくらいで。あなたは『滞留』冒頭近くに
見いだされる『西東詩集』(ゲーテ)の話、憶えているかな。私はあれ、
いつでも重く受け止めたいと思う。どうやってかはやりながら考えるw
……ああ、また借りが、負債が……後戻りできるんかね。ではまた。
81:1
09/01/17 01:19:20
えーと(汗 まずは、>>76の続きから(笑
>>71
>作家の嘘、言語活動の嘘、登場人物の吐く嘘といった複数の水準・・・
これは非常に推理小説的な問題系だと書いたのは、
おそらくは推理小説こそが、作品内容を読ませることにおいて、
「虚構」というものの構造をも否応なく読ませてしまうジャンルだと思うからで、
たとえば中井英夫の『虚無への供物』を読んだ時に感じるあやうさというのは、
最後にあとワンセンテンス付け加えれば、作品世界がすべて瓦解するような、
そういう虚構のあやうさ、書くこと(綴言)のあやうさ、
そして読むこと(読言)のあやうさであり、そのあやうさが我々に気づかせるのは、
虚構(フィクション)というのは文字通り、虚空に構えた「空中楼閣」、
吉田健一の書名を借りるなら「絵空こと」であるという本来当り前のことを
我々はついつい言葉を読む行為において忘れがちになっている事実なんだろう。
以下、追いつくために断章形式を採用。
3人のB(ベンヤミン、バルト、ブランショ)にあやかって。
82:2
09/01/17 01:20:44
>>72-73
◆常体・敬体
ですます体は次数を稼げるんだよね。
連載コラムの原稿料をもらうバイトを以前にしたときに、
ですます体を最初に選択しなかったことを毎回悔やんだっけ(笑
こういう場所だから、そちらが別に嫌じゃなきゃラフに。
常体のほうが書きやすいし、字数・時間を多少節約できるから。
そして何より語学的ハンデを含む負い目も覆うことができるから(笑
◆ブランショ
ブランショについてはたびたび回帰(ルトゥール)することになりそう。
デ・フォレ論も再読しなきゃならないし。もちろん「狂った記憶」も。
(celanリンクありがとう―)
◆エピグラフ
そのエピグラフは確かハイデガーのものでは?
たぶん「言葉についての対話」か「ヒューマニズムについて」かに
そんな言葉があったようなおぼろげな記憶が(ちょっとあやしいけど)。
(ほとんどの文章は記憶だけで書いてるので乞御容赦)
◆饒舌の主題
>度を越した饒舌、突き抜けた長広舌の主題はどうだい?
そのテーマならベケットを外すわけにはいかないね。
「ゴドー」「名づけられぬもの」はもちろん、すべての作品が参照対象に。
それから独特のリズムを持つあなたの文章も加えられるかもしれない(笑
◆ニコラ・ド・スタール
ん? たしか『海市』は持ってたはずだぞ!
しかし、探すとなるとたいへんだ。。。
83:3
09/01/17 01:41:54
>>77-80
◆匿名性
匿名性がブランショ的非人称性にただちに結びつくわけではないにしても、
こういうBBSという場所で署名ナシで書くこともいいもんだなあと思う。
署名の有無でたぶん書行(綴言)のスタイルも異なってくるんじゃないかと。
単に文体ということではなくて、異なるエクリチュールの可能性が開けるんじゃないかと。
◆『危険を冒して書く』『問いの書』
こうして新読、再読の書物リストが増殖していくわけなんだけど(笑
当方非常に記憶力に欠陥がある上に、面倒くさがりなもので(笑
でも『問いの書』は本棚のよく見える場所にあるので後日確認するね。
◆対話
アントルティアンとディアローグの違い、は前から気になってたことのひとつ。
シチュエーションやニュアンスによって使い分けする必要があるのかな?
◆「ストラヴィンスキーとヴェーベルン」
これはスゴイ。四十円の負担ならぜひ!
◆決裁、『錯覧強記(仮)』
むむ~。ますますデ・フォレの再読が要されるなあ。
しかも、読めない仏語版を手元におきたくなってしまう悪魔の誘惑が(笑
まあ時間も能力もないので、そこは潔くあきらめるとして、
『錯覧強記』とは! これは否が応でも錯乱狂気と読ませる造語だ。
ジョイス的というか柳瀬的というか。
◆複数形
ああ「々」は忘れてたなあ。
一文字の場合はこれは使えるにしても、二文字以上となると・・・
その場合はやはり「-たち」になるだろうか。好みは尻に付けたい。
頭に付ける「諸-」はどうも好きになれないんだね。
84:4
09/01/17 02:02:03
(つづき)
◆MAO訳稿
余を一人称とする文章で「テクスト」という文字が出てくるのはいかがか(笑
でも、ジャベス的でもボルヘス的でもあるこのMAOにちょっと興味が出てきた。
―それにしても、翻訳者というのはどうなんだろうか。
労多くして報われることの少ないように思ってたけど、
翻訳者ならではの妙味というものがやはりあるのだろうか―
◆デ・フォレへの質問
なかなか興味深い質問の仕方!
失敗、挫折、未完成、迂回(デトゥール)、踏みはずし(フォー・パ)・・・
確かにロマンティスムの影としてのそれもあるだろうね。
でもおそらく20世紀のそれは異なるのだろう。
ここでジャコメッティの文章を引く時間を割愛し、
またもやあやしい記憶頼みでいい加減に書こうとしたのは、
未完であることしか存在することのできなかった作品、すなわち、
ムージル『特性のない男』についてのブランショの言葉なのだった。。。
◆綴織り=タピストリー
テクストが織物であるならば、このイメージはさもありなんで、
当方もひそかに書行の後ろに括弧内で「綴言」と書き込んだのだけれど、
綴るという言葉はまだまだ使いようがありそう。
◆『滞留』冒頭近くの『西東詩集』の話
やはりこの哲学者の名前は遅かれ早かれ出てくると思っていたけれど、
邦訳されたものはかなり目を通しているとはいえ、
ゲーテの話などまったく記憶にあらず。。。
85: ◆FlMPc3gZRQ
09/01/17 02:31:00
>自覚なしのまま歌詞が頭のなかをよぎるんです
それはスゴイ特技かもしれない!
たまに小説を読みながら思いついたりするのは、
この小説にイメージ的な挿絵や表紙カット絵を入れるとしたら、
どんな画家が似合うだろう、っていうことかな。
尾崎翠にはパウル・クレーをイメージしたり。
>作者の言葉のスピードについて行けない
それか、読む側のスピードが速すぎるか、だろうね。
もしかしたら、もっとゆっくり読まないといけないのかもしれない。
閑話休題。
これまで文学板で立てたスレッドがたぶん5つくらいあって
雑談的に使えればいいかなと思って立てたものもあるんだけど、
これがいい具合に廃墟化してくれない(笑
思うようにはいかないもんだね。
去年の11月に立てたスレにはなかなか面白い人が来て、
いい意味での予想外で驚いたんだけど。
86: ◆FlMPc3gZRQ
09/01/17 02:35:19
ミステイク!
違うスレのために書いたものを間違って投稿。
どうか85はスルーで(ペコリ
87:吾輩は名無しである
09/01/27 01:27:43
『問いの書』の落書きの箇所確認。
それから、『滞留』のゲーテからの引用箇所も確認。
翻案(パロディスティッシュ)をどう考えるか。
んーこれはあまり深く考えてこなかった問題だなあ。
しかし、読み書きにおいて絶えず翻案を行っていることは明らか。
他国の言葉から自国の言葉へのものだけでなく、
自国の言語内においても。
88:吾輩は名無しである
09/02/09 00:08:17
最近忙しいのかな?
それとも勘違いさせてしまったかなあ。
(それだったら申し訳ないけれど。。。)
とりあえず保守のために少し。
ボヌフォワ『ありそうもないこと』を半分くらい読み、
リシャール『詩と深さ』を読み始めた。
最近は詩文学板にもちょろちょろ顔を出すようになったけど、
これまで詩というものを敬遠してたようなところがあったので、
今年はもう少し詩に近づいてみたい。
89: ◆xHH/q7QD.E
09/04/19 22:26:06
突然失礼します
この共有トリップを使えるのは3人だけ
緊急の時のみ使いますね
あちらのスレについて、3人以外のレスはすべて徹底してスルーします
少しでも構うとあの時の二の舞になりますので…
90: ◆WNrWKtkPz.
09/04/21 23:55:13
うん、それがいいだろうね。
91: ◆xHH/q7QD.E
09/04/24 22:34:49
ご協力に感謝します
こちらにはまた機会があれば立ち寄らせていただきますね
92: ◆xHH/q7QD.E
09/05/01 20:28:01
早くも五月、こんな詩が似合う季節になりましたね。
「春の朝」ロバート・ブラウニング
時は春、
look
日は朝、
at
朝は七時、
wakusei
片岡に露みちて、
katarushisu
揚雲雀なのりいで、
in
蝸牛枝に這い、
poetry
神、そらにしろしめす
literature
すべて世は事も無し。
kemanai
93:吾輩は名無しである
09/05/28 00:25:45
バカが見る~♪
94:吾輩は名無しである
09/05/28 22:32:45
後藤明生の小説のなかのおしゃべりって、いいんだよな。
なんか飾ってない口調とか、聞きなおしたりとか、普通っぽくて。
95:吾輩は名無しである
09/08/14 07:00:44
>>93
たしかにその惑星カタルシスってスレ、コテコテのキチガイが自分語りに使ってますね。
頭も相当悪いみたい。
96:吾輩は名無しである
09/08/14 11:54:44
という書き込みのほうが相当頭悪そうだが。
97:吾輩は名無しである
09/08/14 16:19:08
キモオタの女障害者が自分に酔うスレ
2ちゃんぐらいしか何か言える場所がない婆
98:吾輩は名無しである
09/08/14 16:25:12
キモオタの女障害者が自分に酔うスレ
2ちゃんぐらいしか何か言える場所がない婆
99:オレガノ ◆FMllJkCuTg
09/08/17 21:42:07
>>95 >>97-98
哲学板「対話スレ」のみうんさん。お大事に。
100:ザ・スミス
09/08/17 23:20:36
おしゃべりだけで書かれてる小説結構ありそう。
ジョイス「ユリシーズ」の独白なんかもそうかな?
101:(o^v^o) ◆m0yPyqc5MQ
09/08/18 07:00:51
やばいよ。絶対やばいでしょ。朝からオナニーしました。
実はスカトロには興味ないんです。おもらしはいいけど。
102:(o^v^o) ◆m0yPyqc5MQ
09/08/18 07:08:27
セックスはこの際関係なくて体じゅうが緑色になりました。
103:(o^v^o) ◆m0yPyqc5MQ
09/08/18 07:09:53
まるで全身性器だ!ものすごくいやらしい俺。
104:吾輩は名無しである
09/08/18 07:38:57
そういうのは雑談スレでやれよ
105:(o^v^o) ◆m0yPyqc5MQ
09/08/18 08:20:53
やめて!触らないで!
106:吾輩は名無しである
09/08/28 01:13:33
デ・フォレなんて名前が2ちゃんで出るとは・・・
107:(o^v^o)鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ
09/08/28 01:33:47
何感心してんだよ?
108:ザ・スミス
10/01/05 00:49:56
デ・フォレの「おしゃべり、子供部屋」出てたな~
109:吾輩は名無しである
10/01/05 18:25:48
水声社なかなかやるね