天文学って文学じゃね?at BOOK
天文学って文学じゃね? - 暇つぶし2ch2:吾輩は名無しである
07/09/07 10:08:42
じゃね。


終了。

3:吾輩は名無しである
07/09/07 15:08:23
  すばらしい帰結だ。

  再開。

4:吾輩は名無しである
07/09/07 17:03:58
世界の星座物語?

5:吾輩は名無しである
07/09/07 18:10:48
星の王子さま?

6:吾輩は名無しである
07/09/18 23:35:58
人文を超越した天文の学問だろ。


7:吾輩は名無しである
07/09/21 11:06:56
けるアックは人間は彷徨う惑星だ。って言ってたけど、あれは真実? ただのお洒落????


8:吾輩は名無しである
07/09/21 13:22:12
どちらにも壮大な宇宙が広がっている。


9:吾輩は名無しである
07/09/21 14:14:47
文学性を感じられる天文学の書物を教えてけれ。

10:吾輩は名無しである
07/09/21 15:40:54
多分 天 文学
てことだろうな

11:吾輩は名無しである
07/09/21 15:45:57
>>9
講談社学術文庫に『ケプラーの夢』があったよーな気がするよ。

12:吾輩は名無しである
07/09/21 16:10:23
ケプラーの夢はたんたんとしすぎ。あれに文学性を感る人は少ないと思う。

13:吾輩は名無しである
07/09/21 16:43:56
時代も時代、執筆動機も動機だもんで、
そこを加味しないといけないんだろうけど、
加味しても、たんたんとしているのに変わりはないよなあ。
天文学者のおはなしに、他なにか有名なのってある?

14:吾輩は名無しである
07/09/21 17:05:06
蒼穹の昴。

15:吾輩は名無しである
07/09/21 19:29:42
聖書。天にまつわる文学だからね。

16:吾輩は名無しである
07/10/01 17:39:46
死霊
未完だが

17:吾輩は名無しである
07/10/04 09:55:31
ズィージョの素晴らしい暦
でも、特別新しい研究はできひん

18:吾輩は名無しである
07/11/16 03:13:43
>択一刑法って解いてるとはきそうになるよね。
意識の持ち方を変えなきゃ、なかなか伸びないよ。

俺のお勧めは、ひとつの問題を15分でも20分でもかけていから、絶対に正解するように解いてみること。
もちろん、ここ数年の問題ね。
やってみればわかるが、一つ一つの処理は、ほんとうになんでもないこと。
それを何回か積み重ねるだけだ。
ミスらなければ、絶対に間違えないということがわかる。
何問か解いてるうちに、時間の節約の仕方も次第にわかりだす。

俺も1年目はは君みたいな状態だったが、2回目の去年は1時間ちょいで19点取れたよ。
最後1問は捨てて、30分くらい見直しにあてた。
きっかけは、前年の秋にこれを一日3~5問で一週間くらい続けたことだな。

19:吾輩は名無しである
07/11/16 03:19:40
択一過去問を解きながら該当箇所を基本書にメモしていった。
何回もそれを繰り返して基本書を見てみると択一過去問の出題される分野や問われる内容がよくわかる。そういう出題されやすい
ところを重点的に基本書で補いながら勉強すれば択一試験はさほど難しいものではないことがわかる。まさに“基礎的知識”しか問われていないのだから。

>択一刑法って解いてるとはきそうになるよね。
意識の持ち方を変えなきゃ、なかなか伸びないよ。

俺のお勧めは、ひとつの問題を15分でも20分でもかけていから、絶対に正解するように解いてみること。もちろん、ここ数年の問題ね。
やってみればわかるが、一つ一つの処理は、ほんとうになんでもないこと。それを何回か積み重ねるだけだ。
ミスらなければ、絶対に間違えないということがわかる。何問か解いてるうちに、時間の節約の仕方も次第にわかりだす。

俺も1年目はは君みたいな状態だったが、2回目の去年は1時間ちょいで19点取れたよ。最後1問は捨てて、30分くらい見直しにあてた。
きっかけは、前年の秋にこれを一日3~5問で一週間くらい続けたことだな。

20:吾輩は名無しである
07/12/02 00:33:20
>判例六法で、憲法、民法の条文と判例を読み込んでいくんですか?具体的には、どんな形でしょうか?

ケンミンケイだけ切り離した択一用の判例六法を作ってます。とにかく、初学者のうちは、逐一条文を引くこと。
条文を疎かにすると駄目ですよ。そんで、引いた条文に印をつけとく。判例も択一過去問に出てきた奴は印を付けとく。
どんどん印が増えてくるので楽しいですよ。問題集を二回目にやるとき、またちゃんと条文を引くんですよ。
で、こんどは、チェックが付いてると、あ、あのとき引いたなと脳にこびりつく。
一回目は黒鉛筆、二回目の条文は赤ペンとかでもいいし、○と◎でもいいし。忘れてた条文、よく間違える条文にはこのマークとか決めとく。
要するに、これ繰り返すワケですよ。よくでる、あるいは忘れやすい重要条文と重要過去問が視覚的にハッキリしてくるんですよ。
余白にも色々書き込んであるし。で、まったく535条引いたときには、536条のチェックも目に入るので確認しとく。110条引いたとき、109条112条あたりも資格に入るから、ザックリ確認しとく。
マークが付いてる判例が多くなってきて、今度は、ノーマークの判例も浮き上がってくる。こうなると、ほぼ重要判例は網羅できてますよ。

21:吾輩は名無しである
07/12/05 12:36:30
貧乳腰パン葉子ダーウィン食い逃げ

22:吾輩は名無しである
08/01/06 21:32:55
ここ、もったいないですのでお借りしてもいいですか?
しばらくの間で結構ですので、感想文を書き込みたいのですが。。。

23: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/08 23:07:11

絲山秋子「逃亡くそたわけ」読了しました。
物語は精神病院に入れられている「あたし」こと「花ちゃん」が、同じ病院に入院中の
青年「なごやん」を誘って病院を脱走し、車で九州を約半周するというもの。

「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」
物語の冒頭に出てくるこの呪文(?)のような言葉。
これは逃亡中、何十回も「あたし」の頭のなかを幻聴として駆け巡り、そのたび「あたし」は
極度の頭痛に苦しめられる。
この言葉は入院中からずっと彼女を苦しめ続けた、いわば「地獄のささやき」でもある。
「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」とは実はマルクスの「資本論」の冒頭に出てくる
有名な言葉であることが、読みすすめていくうちにわかってくる。
なぜこの言葉が彼女を苦しめるのか?
この言葉はいったい何なのか?
そんな疑問を抱きながら読んでいくうち、ラスト近くでまるで氷がすうっと融けるように言葉の
意味するものがわかったのです。

無論、それはわたしなりの解釈であり、解説の渡部直己氏との見解は異なりますが。。。

24: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/08 23:09:48
渡部氏はマルクスの「資本論」を牽いて「商業活動の循環に不可欠なのは時間である」と
言います。
それゆえ花ちゃんが癒されるまでの時間差こそが重要なのだ、と。
わたしは「資本論」は未読なのでマルクス経済のことは詳しくは語れませんが、
「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」が価値形態論の等価性を端的に現しているので
あれば、わたしの解釈はごくごく単純なものです。
つまり、「あたし」は精神病者であるゆえに、何らの利潤も生みださないものであり、貨幣と
交換する何者も持たない無能力者である。
「資本論」によれば「あたし」は社会に還元できる経済能力皆無のもの、つまり、要らないもの
である。
事実、彼女のかつての恋人は彼女が病気のことを打ち明けると途端に豹変し別れを切り
出された……。
生きている価値なんてないのよ、と夢のなかで叫ばれ「あたし」はますます生きていく
気力を失っていく。。。
そんなこんなでいろんなことが道中で起こるのですが、最後に潮が引いたときだけ現れる
海の道があり、その海の道を渡って島にたどり着くという体験をします。
その不思議な海の道の上でふたりは精神病に効くというラベンダーの香りを海風のなかで
嗅ぐのです。

25: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/08 23:10:42
ふたりが嗅いだラベンダーの香りが本当に漂っていたのか真偽はわかりません。
大切なことは、ずっと求めていたそのあるかなきかの花の香りを嗅いだあとに、自分が
この世界にいることが許されているということが瞬時にわかったことです。
まさに「許されて在る」=「受容」のクライマックスにふさわしいシーンといえましょう。

「ゆたーというのは、世界をまるごと抱きしめたくなるような気持ちだ。
そして世界があたしを抱きしめ返してくれて、全身の力が抜けていく。
自分が「いる」ということがたまらなく気持ちいい」(p170)

自分は世界に肯定されているのだ、自分は決して要らない存在なんかじゃない!
「あたし」のこころの叫びはそのまま作者の絲山氏の叫びでもあるのですね。。。

冒頭の言葉の謎解きをするような気持ちで読み始めたのですが、この言葉は「あたし」の
幻聴などではなく、本当は「あたし」自身が絶えず自分にささやきかけていた呪縛である
ことを、「あたし」と読者は物語の最後近くで知らされるのです。
呪文は呪縛となって、彼女を数年に渡って苦しめていたのですが、呪文の鍵を解くのに
必要だったのは、入院ではなく、いつも一緒に行動してくれる誰かの存在、求めていた
花の香りを幻のなかで体験することでした。

26: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/08 23:11:13
シンプルといえばこの上なくシンプルなテーマですが、絲山氏はふたりのこころに寄り添う
ように、ふたりの軌跡を実に細やかに筆を綴っていくのです。
一見、小心者で優柔不断に見える「なごやん」が本当は豊かなこころの持ち主であり、
他人である「あたし」をすっぽり受け容れられる技量の若者であることが最後で明かされ
ます。

以下、作者に代わって勝手に「あたし」こと花ちゃんの想いを綴ってみましたよ。

亜麻布二十エレは上衣一着に値する、あたしは何も生み出さない、交換できる何かに
値しない。だけど、あたしの価値はそんなものでは決して測れやしない。
測れてたまるもんか!
モノに容易く換算できるような人間なんてこの世にいやしない。
こころを煩っていたって旅をともにしてくれる人は確かにいる。
あたしはその貴重な体験をしたんだ。それはあたしの財産だ。
「なごやん」と一緒に嗅いだ幻のラベンダーの香りを、あたしは一生忘れないだろう。
たとえ彼もあたしもそれぞれ恋人できて、ほかの人と結婚することになったとしても、だ。

27: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/08 23:11:40
救い? 奇蹟?
そんな大げさなことではない。あたしが求めたのはほんのささやかなことなんだ。
朝目が覚めて誰かがそばにいて温もりを感じること、
ほんのときたましか見えない「海の中の道」を誰かと一緒に歩くこと、
渇望するほど求めていた花の香りを誰かと嗅ぐこと、
……それだけでいい。

最後にあたしたちの旅の終わり=これからの日々へのはなむけの言葉、
「くそたわけ!」


―「逃亡くそたわけ」の感想・了

28: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 17:28:37

【追 記】
ほんのときたましか現れない奇蹟の道、「海の中の道」を歩いているさなかに、幻のラベンダーが
香り癒される光景はまさに旧約聖書のあの有名なシーンをほうふつさせる。
モーゼが追手に追われ、海際まで追い詰められ、もうどこにも逃げ道はないと観念した瞬間、
神はモーゼのために海の中に道をつくられたのである。
モーゼは逆巻く波を両手に見ながら奇蹟の海の道を渡って追手から逃げおおせたのだ。
「あたし」が「海の中の道」を渡りながら奇蹟のラベンダーを嗅ぐ場面はまさにそれだろう。


29: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 18:59:25
「袋小路の男」読了。

ひとりの女が高校の先輩にあたる男に12年間片思いするお話し。
日向子は小田切孝に指一本触れることなく30歳になった今でも思い続けている。
こう書くと純愛もの? と思われそうだが、実は日向子はただひたすら小田切だけを見て
いたのではなく、その間にいろいろな男性とつきあっている。
大学生の頃には同じ大学の彼と、社会人になってからは上司と不倫したりとそれなりの
経験者である。
そして、相手の男とだめになりかかると必ず小田切を思う。
日向子が転勤してふたりの距離が遠くなるも、ひょんな偶然から再会し再び恋人でもない、
友人でもない、不思議な関係が続いていく。

日向子がそれなりに着実に社会人としての道を歩み始めているのとは対照的に小田切は
小説家志望で、サラリーマンにはならずに「エグジット・ミュージック」でバイトをしながら
ときたま小説を書いている。
小田切は夢を追う男というよりも、いやなことは一切やらない、縛られたくない、
勝手気ままに生きている男。

30: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 19:00:35
世の中を斜めに見ているようなところがあり、そうした醒めた目をした男は与えられた役割を
律儀にきっちりとこなす日向子にとっては、ニヒルであると同時にたまらなく魅力的に映る
のだろう。
小田切はいわば日向子にとって「箸休め」のような存在なのだろうか……。
いつまで絶っても主菜にはならない、副菜というほどでもない、けれども、あるとやはり
うれしい、ほっこりと煮た豆はいつだって甘くておいしい。
それは小田切にとっても同じこと。
お互いが主菜ならばぶつかり合う、片方が副菜ならば卑屈になる。
もしかして、人と人との関係は互いが箸休めであるほうが長続きするのかもしれない。
主菜をつくるのが妻とすれば、副菜をつくるのは恋人、お茶や果物を調達するのはともだち、
そして箸休めはいずれにも当てはまらない。
それゆえひっそりとしていて目立たないけれども、あればあったでうれしい存在。
日向子の言い分は「こんなにも長い時間が経っているけれど、あなたにとってわたしは
何なの?」自分の気持ちのほうが常に持ち出しが多くて小田切に振り回され放し、というもの。
反して小田切は日向子に手取り足取り勉強を教え、結果日向子は現役で大学に合格、
頭の良いはずの自分は二浪。
当然ながらプライドはずたずた、、、

31: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 19:01:24
日向子は社会人として着々と仕事をこなしているのに、自分はバイトをしながら未だに
小説を書き続けていて、しかも入選にはほど遠いという現実。

ふたりの関係は一向に距離が縮まらず、それでいて緊急時には互いを助けている。
それも身を削って、、、
何とも不思議な関係だ。
「沖で待つ」もそうだった。同期愛、という言葉は初めて目にしたけれども、ではこの
「袋小路の男」のふたりの関係は何て呼べばいいのだろう?
いや、無理なこじつけのネーミングこそ野暮というものかもしれない。
この世のなかには名づけられないものがごまんとあるのだ。
それらは名前こそないけれども、それゆえに儚げで危うい美しさを持っている。
名前をひとたびつけてしまうことは対象を固定観念で限定してしまうことだ。
恋愛相談の悩みによく見られる言葉がある。
「友達以上恋人未満」、ふたりの今後は相手が自分をどのように位置づけるかにかかって
いるという。
確かにふたりの関係を決定づけてしまえば、決められた関係を示す言葉というものは
わかりやすくて便利だ。

32: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 19:14:51
けれども、ここに言葉の落とし穴がある。
恋人なのにこんな薄い関係はおかしい、ともだちであるなら恋心を抱くのはルール違反だ、
言葉に縛られすぎてふたりの関係が一層ぎくしゃくしてくる。疑念に拍車をかけるだけだ。

例えば「風」という言葉。
風は空気の動きを示すものであるから、吹いている風の姿は見えない。
わたしたちが風が吹いていると知るのは、肌に感じたときと木々が揺れているときくらいで
あろう。
ならば人と人との関係にも同じことがいえるのではないだろうか?
絆は見えない。けれども確かに存在しているのだ。

小田切が自殺未遂したとき、日向子は休日のほとんどを返上して病院に見舞いに行き
甲斐甲斐しく世話をする。
そこで日向子はいつもぱニヒルな小田切が泣く姿を初めて目にする。
日向子はそんな彼に上から目線で何かを「してあげる」行為を自分に許さない。
「そうしないから、私はここにいられるのだ」とわかっているから、、、

ここを読んで、はっと胸を衝かれた。まさに、これこそが日向子の、いや恋愛の真髄だろう。
わたしはここに自分に決して甘い夢を見させない日向子の強靭さと潔さ、
小田切を丸ごと受け入れる腹の据わった懐の深さと覚悟の見事さを見るのだ。

33: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 19:15:50
不倫相手の子供を身籠ってしまい動転している日向子をてきぱきと指示し病院に連れて
行き、ずっと待っていてくれたのは小田切だった。

日向子と小田切の間にはまぎれもなく「絆」が結ばれているといっていいだろう。
互いのことを認めているのだ。

「ともかく、俺とおまえは喧嘩くらいしかやることねえんだから」
「しっかり喧嘩して、ちゃんと仲直りして仲良くやろうな」
皮肉屋で照れ屋の小田切の精いっぱいの日向子への言葉。

袋小路を自分の聖地としている小田切は自らの意志ではこの先も決して袋小路からは
出ようとしないであろう。
日向子は彼の近くに住むことを決断して先手を取る。
但し、彼にはロープをつけてはならない。
つけたら最後、袋小路は複雑に入り組んでおり、男は二度と姿を現さないだろう。
12年もの長い年月、彼を思いつづけた日向子は誰よりもそのことをよく知っている……。


―「袋小路の男」の感想・了


34: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/09 19:49:56

「モーセ・十戒の海が割れる」
URLリンク(www.ntv.co.jp)

映画「十戒」
URLリンク(www.youtube.com)


35: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:00:30
「海の仙人」読了しました。

これは恋愛小説と呼んでいいものかどうか、読後戸惑う小説である。
男女の成す恋愛感情だけではなく、そこに不思議なというか珍妙なファンタジーという
名の神が絡んでくるからである。
ファンタジーはあらゆる神の中でももっとも出来の悪い神であり、
できるのはせいぜい孤独な人の話を聞いてあげられるくらいである。

宝くじで大金が入り、働かずに海辺で悠々自適に暮らす河野。
そこにかりんという女性が現れふたりは恋仲になり週末のみともに泊まりあう仲になっても
ふたりの間には性の結びつきはない。
河野のかつての会社仲間で彼に片思いをしている片桐も登場するが通常の恋愛小説の
ようなどろどろしたおさだまりの愛憎ドラマも起きない。
三人の関係は淡々としており、それは河野の飄々とした生き方によく似ている。
飄々といえばファンタジーもまた河野と似た者同士で好きなときに現れては淡々と対話し、
いつとはなしに消えていく。
河野は子供の頃姉に性的虐待を受けていたこともあって、異性と性的な結合は持てない
男として描かれる。
その姉に亡き祖母の形見を渡しにいくのがこの物語のひとつの山場であるが、姉は河野を
徹底的に拒絶する。

36: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:01:27
実は河野のトラウマはとっくに過去のこととなっていて、河野が性の関係を持てないのは
欲望がかなり薄いからだと判明するのはかりんと暮らし始めてずっと後でわかるのである。
にも拘らずふたりの暮らしはつづていく。

河野に思いを寄せる片桐も忘れた頃にひょっと顔を出し、彼女も独り身なまま河野と
かりんとの関わりを続けていく。
ここにはデュラスのような「欲望の三角関係」は皆無である。
いや、河野もかりんも片桐もこの三人は欲望から解放された人たちのように描かれるのである。
現実にそんな人間がいるかどうかはともかくとして、少なくともこの作品世界においては
すべてがファンタジーなのである。
それはあたかもファンタジーという神が河野の出会う人すべてに魔法をかけたかの如く、
河野を取り巻く人間たちはぎらぎらした欲望からほど遠い。
生きている人間というよりは霞を食べて生きている仙人そのもの。
表題の「海の仙人」は河野を指しているいるのは無論だが、彼の周辺の人たちすべてが
仙人なのである。
舟をだしてくれる気のいい村井のじいさんといい、どうやら片桐に片思いらしいかつての
同僚の澤田といい、皆「善良な人」たちである。

37: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:01:58
人間の暗部を描くのが文学だと思い込んでいる読者は多いだろう。
人はどこまで醜くなれるのか、ドストエフスキーはこれでもかというくらい人間の醜悪さを描いた。
同時に人間の魂の美しさも描いた。
両極端な人間像ばかりを読むとこころは疲れるのである。
何か透明なもの、中間色なものに触れてみたくなるのである。
姉との再会のシーンや姉から受けたトラウマを語るシーンもあるにはあるのだが、作者は
重くならないように配慮しながら筆を運ぶ。
激情に走らぬよう、細心の注意を払って書くのである。
その筆遣いは河野がいつも見ている海から運ばれる風や光に似ている。

河野はかりんを看取ったあと雷に打たれて盲目になってしまうのだが、
ここにはちゃんと伏線が用意されている。
小学校のとき園芸部だった彼は植木鉢を雨の当たらないところに入れようとして雷に打たれて
いるのである。
失明した河野のところにふたたびファンタジーが現れる。
彼の顔も忘れてしまった河野にこうファンタジーは言う。
「真実とはすなわち忘却の中にあるものなのだ」

38: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:02:33
人間の記憶力には限界がある。
いいことも悪いことも時の流れの中に埋もれていってしまうのだろう。
それは悲しむことではない。
こころの平安を保つために必要な行程なのかもしれない。
河野にとって姉からの性的虐待は忘れたいことであり、かりんとの日々は忘れたくない
ことだろう。
けれども、時の力は両者を等しく忘却の彼方に連れ去るのだ。
それは残酷だろうか? それとも慈悲だろうか?

ファンタジーは人々を救う神ではない。自らも明言している。
そして、ときおり格言のようなものを残してすっと消えていく。
「俺に救われるんじゃない。自らが自らを救うのだ」(p66)

彼は対話するだけの神であり、具体的なことは何もしない。
かりんの病も治さない。奇蹟を起こさない。
「神は何もしてくれない。ただそこに在るだけだ。
それゆえに神なのだ」―「ゲルマニウムの夜」花村萬月
この言葉はまさに至言であると言えよう。

39: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:03:09
絲山氏は「救い」とは外部からくるものではなく、自身のなかにすでに「救い」があると
考えているように見受けられる。
それは「逃亡くそたわけ」のラスト近く、幻のラベンダーの香りを海の中の道で嗅ぐことで
病いが癒されることでより一層鮮明である。
大切なのは花の香りが本当にしたかどうかではなく、切望していた香りを自らの意志で
確かに嗅ぐという行為、そしてその瞬間に癒されたこと、
そう、救われたという事実、これだけで充分なのである。
「救い」は花ちゃんのなかにすでに内在しており、彼女がそれに気づくこと、
それこそが真の救済の姿なのだ、と。

では、ファンタジーとは、神とはわたしたちにとっていかなる存在なのだろう?
おそらくは、窮地にある人間の背中をそっと押してくれる存在なのかもしれない。
何もせずただそこに在るだけのもの。そして、ひとりひとりに内在する「救い」に目を
向けさせるためのこころの道しるべ。

40: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/10 23:46:35
絲山氏の提言する神はいわゆる宗教的な神とは異なるだろう。
ひとつだけ共通項を挙げるとすれば言葉を使って話す存在であるということだろうか。
孤独な人の話し相手。無論、言葉を使って。
聖書の冒頭を思い出してほしい。
「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった」
そう、ファンタジーとは神そのものなのである。
そして、言葉を駆使して小説を書く作家たち。
彼らもまた作品を司る神なのである。

「多分、芸術とかほかのことでも自分を裏側まで突き詰めてたら
ファンタジーに会えるかもしれない」(p63)
絲山氏はファンタジーに会えたのだろうか?

作品のラストは久々に片桐が河野に会いに来るも、雷雲が垂れ込め、河野は今度こそ雷に
打たれて世を去ってしまうだろうと思わせるところで終わっている。
ファンタジーの世界を描きながらも決して甘さだけではないことをわたしたちは思い知らされる
のである。


―「海の仙人」感想・了

41: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/11 00:53:53
かりんを亡くした河野の喪失の日々も悲しくてせつないけど、
片桐の河野に寄せる永遠の片想いは読んでいて、もっとせつないなあ……
胸に迫るものがあります。

「風になりたい」 唄・川村ゆうこ 作詞作曲・吉田拓郎
URLリンク(www.youtube.com)

白い雨が街中濡らしてもうすぐ朝です 少し寒い
長い髪を伝わる雫が頬をかすめて 手のひらに落ちた
抱きしめられても あなたをつかめない
覚えているのは煙草の煙と 私を離した時のすきま風
通り過ぎるあなたが風なら 私も今すぐ風になりたい

どうぞ誰か私のからだを包んで下さい 一人はきらい
傘を棄ててかくしてほしい 冷えた心をあなたにあげます
やさしくされたらゆれてしまいそう
追いかけたくても一人で残ります
悲しむことより思い出作りに 私は今でも時を送りたい

通り過ぎるあなたが風なら 私も今すぐ風になりたい
通り過ぎるあなたが風なら 私も今すぐ風になりたい
私も今すぐ 風になりたい

歌詞はこのリンクより
URLリンク(acusco.cocolog-nifty.com)


42:(OTO)
08/01/11 23:41:11
あははすごい量だな。
だけど全部読んだぞ。おもしろい。
まるで物語のような感想だな。


43: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 22:55:38
「アーリオ オーリオ」読了。
清掃工場で働く中年男哲と14歳の姪の美由のこころの交流を描いたせつなくて
ほろ苦い物語。

それにしても、絲山氏の作品は対人関係をうまく築けない孤独な男が主人公の物語が多い。
彼らはそれなりに職を持っているが、友人もおらず、いてもほんの一人くらい。
異性に対しても積極的ではない。
にも拘らず相手のほうで交際を求めてくるという、男性読者から見たら羨ましい限りの男たちだ。
今回の哲もそのひとりだ。
14歳の姪の美由だけではない、若かりし頃、美貌の受付嬢にも好意を寄せられ彼女の
ほうから近づいてきている。
彼女とそれなりの交流は持っても家庭を築くというビジョンは哲にはなく、彼女のほうで去って
いってしまった……。
ほろ苦い青春の一ページと言ってしまえばそれまでだが、哲は誰かと将来家庭を持つと
いうことは皆無であることを自分で自分に決定づけた出来事でもあったのだ。
表題の「アーリオ オーリオ」はにんにくとオリーヴオイルと唐辛子だけで和えた簡単な
パスタのこと。
具はいっさい入れない。まるで哲の性格、生活環境そのものである。
自分だけの世界を構築し、極力他人とは関わらない。
「アーリオ オーリオ」の世界では世間とは時計の速度も尺度も全く異なるのだ。

44: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 22:56:38
哲は「海の仙人」の河野に重なる。
欲がなく、日々を淡々と過ごし、必要なものしか置かない。

物語は哲が姪の美由を兄に頼まれてプラネタリウムに連れて行くところから始まる。
美由は星や理科全般に詳しい哲おじさんに少女らしい好奇心を持つ。
携帯のメールアドレス交換をしようと提案するも「メールはしない」という哲に、ならば手紙
だったらいいということになりふたりのささやかな文通が始まる。

手紙といっても大仰なことを書くわけではなく、ノートの切れ端に書かれたような日記の
ようなひとりごとのような14歳の少女らしい文章が綴られている。
ここで注目したいのは、14歳の少女と中年男性という設定。
堀江敏幸氏も「いつか王子駅で」のなかで同じくらいの年齢の咲ちゃんという少女を登場
させている。
「私」はとある大学で講師をしている中年男で、下宿先の大家さんの孫の咲ちゃんといろいろな
対話をする。

無論、「私」も哲も咲ちゃんや美由には性的な関心は抱かないし、おかしな下心もない。
美由も咲ちゃんと同様、何の屈託もない無邪気な少女として描かれる。
聡明で感受性が強く、好奇心旺盛な利発な少女として。

45: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 22:57:39
父親と同年代の男性というのは、この年頃の少女は著しく嫌悪する傾向があるのだが、
このふたりの少女はそんなことには無縁だ。
堀江氏も絲山氏も「ふと出逢った美しいもの」として細やかな筆遣いで爽やかな中学生を
描くのが上手い作家たちだ。

美由は飼うことになった犬にこいぬ座のプロキオンにちなんでプロキーと名づけたことや、
自分だけにしか見えない新しい星をつくったこと、その星の名前がアーリオ オーリオで
あることを手紙で哲に書き送る。
(……ああ、当時のわたしも同じことをしていたなあ、と読んでいてほほ笑ましくなった。
家の近くの杉の木に名前をつけ語りかけていたこと、あの杉の木は当時のわたしにとって
守護神であり、誰よりも大切な木だったのだ)
哲は日に日に自分だけの新しい世界を作り始めていく美由に眩しさを覚える。
美由の宇宙は加速度的に膨張していて、あっという間に哲を追い抜いていく。
このとき初めて哲は取り残されてしまうことの寂しさを感じる。
大人になりかけの年代のものたちはいつだってすでに大人になってしまったものたちに、
一抹の寂しさを抱かせる。
とうに過ぎてしまった若い日々、失ってしまった輝き、それらを目の前に突きつけられると
どうしようもない悲しみを覚える。

46: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 22:58:43
ふたりの文通は突然の兄からの電話で終止符を打つ。
表向きの理由は受験勉強に専念させたいからということであるが内心はそうではないことを
哲は知っている。
14歳の娘が中年の独身の叔父に興味を持つ、親しくする、それだけで世間は異様なものを
見るような目でふたりの関係を勘ぐるだろう。
後年、大人になった美由は14歳当時の自分と叔父との文通をどのように回想するのだろう?
星のことをたくさん教えてくれたちょっと風変わりな叔父さんは、成長した美由にとって
どう映るのだろう?
なつかしさとほろ苦さと、そしてほんの少しのせつない想いを美由はどこに、誰に綴るのだろう?

この珠玉の物語を読んだ人たちはそれだけでしあわせだ。
忘れかけていたものたちに再び出逢い、なつかしい気持ちになれるのだから。
とはいえ、これは懐古趣味に浸るためだけの物語ではない。

47: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 22:59:21
現実の哲の暮らしぶりを作者はことさら肯定もしないし、かといって否定もしない。
程よい距離間でもって哲のこころに寄り添うようにそっと筆を進めていく。
独りであることはイコール孤独ということではないし、気ままであることは真の自由ということ
でもない。
哲は夜空の星座が形づくる程よい距離間を知っているに違いない。
近づき過ぎては星座同士が摩擦を起こし爆発することを、また、離れ過ぎてしまっては
星座として形づくれないことを。

手紙はメールのように速効性もないかわりに、返事の催促もしないのが原則だ。
読まれ放しがいい。
伝えるだけでいい、そして、返事は要らない。
禁欲的な哲の生き方に似つかわしい。

蛇足だが、美由の子犬の名前がこいぬ座のプロキオンにちなんだのが何とも惜しい!
おおいぬ座ならシリウスなのになあ……。
シリウスは別名天狼星とも言い、群れを為さない孤高の星。太陽よりも明るい恒星。
寒空の荒野に凛とひとりだけで立っている、誇り高い星。
まさに哲にふさわしい星ではないか!


―「アーリオ オーリオ」の感想・了

48: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 23:50:09
「追 記」

美由とのささやかながらも楽しい文通の機会を失ってしまった哲に残されたのは
何の変哲もないひとり暮らしの日々の繰り返し……。

もともと独りであることを望んで今日まで生きてきたのだ、
美由と親しくなる前だってずっとひとりだったじゃないか、あの頃に戻るだけさ、、、
そう呟く哲のこころの声が聴こえてきそうな読後感でした……

美由の夢は哲叔父さんと一緒に星を見ること、文通すること。
そして、哲の夢は美由の新しい星をそっと見守りつづけること。
そんなささやかなふたりの夢は、流れ星のようにあっという間に消えていきました。

星の歌を検索していたら、以下の曲を見つけました。
美由を失った哲の心情をそのまま歌っているような歌詞ですね。。。


「空に星があるように」 - BEGIN
URLリンク(www.youtube.com)

「空に星があるように」 荒木一郎
URLリンク(www.youtube.com)

49: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 23:50:54

「空に星があるように」 荒木一郎・作詞/作曲

空に星があるように 浜辺に砂があるように
ボクの心にたった一つの 小さな夢がありました

風が東に吹くように 川が流れて行くように
時の流れにたった一つの 小さな夢は消えました

淋しく淋しく星を見つめ ひとりでひとりで涙にぬれる
何もかもすべては終わってしまったけれど
何もかもまわりは消えてしまったけれど

春に小雨が降るように 秋に枯葉が散るように
それは誰にもあるような ただの季節のかわりめの頃

URLリンク(www.fukuchan.ac)

50: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/12 23:54:46
(OTO)さん

読んでいただきありがとうです♪

>まるで物語のような感想だな。
おおっ、鋭い!
実はわたしの感想文というのは、創作の一環なのですよ~
つまり、作品に便乗して書いているところが大きいのです。
一番好きなのはやっぱり最後の「アーリオ オーリオ」かな。
中年男性と無垢な少女という組み合わせは大好きな映画
「シベールの日曜日」を重ねてしまいました。。。
そういえば、この映画のラストも結ばれずに悲劇で終わっていたなあ……


51: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/13 01:26:06
絲山氏の一連の作品を読んで感じたことは、「片想い」が圧倒的に多いこと。
「海の仙人」の河野に対する片桐の想い、
「袋小路の男」の小田切に対する日向子の想い、
「アーリオ オーリオ」では美由の哲への想い、おそらくは美由は恋であるとは
意識すらしていてないであろうほのかな想い、、、
それは哲も同じだろう……
胸に沁み入る作品とは、こういう小説をいうのだろうなあ……
胸をしめつけられるようななせつない余韻を残す珠玉の作品群だ。

「コイシイヒト」 作詞:川村結花, 松たか子 作曲:川村結花
URLリンク(www.youtube.com)

逢いたくて逢えなくて 何度も受話器を置いた
永遠に永遠に この胸の中
交差点交の向こうに あなたの顏見つけた
変わらないその瞳 一瞬時が止まる

恋人でいるよりも友達として側で 笑いあえてるだけでいつもそれでよかった
もしあの日 ああその想い あの人に伝えたら何か変わっていたの?
ものすごくものすごく恋しい人の名前は 永遠に永遠にこの胸の中

交わした言葉の数ひとつひとつ浮かべた 臆病な私へとそっとさよならを告げる
今ならばそう胸を張って お互いに向き合って輝いていられる

ものすごくものすごく恋しい人の名前は 永遠に永遠にこの胸の中
暖かい暖かい優しい光の中で 偶然にすれ違う人波の中 離れてゆくの

52: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/13 13:59:24

哲と美由とのほほえましい手紙のやりとり、そしてラストのせつなさ。
これってまさしく「花と小父さん」の歌の世界ですねえ……
偶然にもこの歌を知ったのは花のブログを読んでいたとき。↓
URLリンク(ippuku2.at.webry.info)

孤独で寡黙な中年男性と花のように可憐な少女。
美しくてはかないもの、流れ星のように瞬時に消えてしまうもの。
少女でいられる時期は何と短いことだろう!
それゆえに、人はその危うさと脆さを愛し、切望するのかもしれない……

53: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/13 13:59:53

メルヘンのような詩と哀愁漂う曲調がこころに残る歌ですね。。。

URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(www.fukuchan.ac)

「花と小父さん」 浜口庫之助 作詞/作曲

小さな花に口づけをしたら 小さな声で僕に言ったよ
小父さんあなたはやさしい人ね 私を摘んでお家に連れてって
私はあなたのお部屋の中で いっしょうけんめい咲いて
なぐさめてあげるわ 
どうせ短い私の命 小父さん見てて終わるまで

かわいい花を僕は摘んで 部屋の机に飾っておいた
毎日僕は急いで家に 帰って花とお話をした
小さなままでかわいいままで ある朝花は散っていったよ
約束どおり僕は見ていた 花の命の終わるまで


54:吾輩は名無しである
08/01/24 01:17:35
保守

55:吾輩は名無しである
08/01/24 02:03:03
>>1
テラヮロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

56:吾輩は名無しである
08/01/24 19:35:53
かなり言えてる。

57: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/27 17:16:16
「海の仙人」の河野に対する片桐の想い、
「袋小路の男」の小田切に対する日向子の想い、
両方とも叶わない永遠の片想いですが、究極の片想いの歌を
最近耳にしました。
中村中(あたる)さんの「友達の詩」。
この詩の背景にあるものを何も知らずに聴いたのですが一瞬で惹かれました。。。

■ 中村中(あたる)「友達の詩」歌詞 ■
21歳という若さでありながら、 中村中(あたる)さんは性同一性障害を告白
(カミングアウト)された歌手であり女優である。
そんな中村中(あたる)が、待望の2ndシングル「友達の詩」をリリースした。
中村中(あたる)の「友達の詩」は壮大なバラードではあるが、歌詞の方はとても
切ない“禁断の愛”がテーマとなっている。
中村中(あたる)いわく、叶わないと分かっている恋を歌った“大失恋の歌”で、
15歳の時に初めて書いた曲が「友達の詩」だという。


58: ◆Fafd1c3Cuc
08/01/27 17:38:16
なんか、板の調子がよくない・・・

URLリンク(jp.youtube.com)

「友達の詩」 中村中(あたる)

触れるまでもなく先のことが みえてしまうなんて
そんなつまらない恋を ずいぶん続けてきたね
胸の痛み直さないで 別の傷で隠すけど
簡単にばれてしまう どこからか流れてしまう
手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい

寄りかからなけりゃ側に居れたの?
気にしていなければ 離れたけど今更・・・・
無理だと気づく
笑われてバカにされて それでも憎めないなんて
自分だけ責めるなんて いつまでも情けないね
手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから 大切な人が見えていれば上出来

忘れた頃にもう一度会えたら 仲良くしてね
手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから 大切な人が見えていれば上出来


59:#
08/01/30 01:07:48
絲山秋子って独特の世界を持ってるよね。
川上弘美や多和田葉子なんかともちょっと違って。
この世界観を表現するのは難しいけど
今度少し考えてみよ。

60:吾輩は名無しである
08/01/31 21:57:29

そうですね
川上弘美はあわあわした非現実的な世界を描くのが上手いし、
多和田葉子は川上弘美よりもっと非現実的な世界を独特の口調で描いています
夢うつつのような摩訶不思議な世界・・・
多和田葉子は言葉遊びでは笙野頼子に通じるものがあるかなあ
それにしても、今挙げた作家たちは全員が純文学

絲山秋子が今挙げた女性作家たちと決定的に異なっているところ、
この作家はむやみな言葉遊びをしない、自己完結した世界観を読者に押しつけない
平明な言葉で読者を深い余韻に誘う。。。


61: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/03 20:11:22

今日は朝から冷え込み東京でも今年二回目の積雪が・・・
「なごり雪」という名曲をご存知ですか?
この曲を聴きたくて動画を探していたら、「なごり雪」と同じ作詞家の方の
こんな曲を見つけました。
この詩の内容って「アーリオ オーリオ」の哲の暮らしぶりそのもの!
哲はおそらく40半ばだと思うのですが、この作詞家のプロフィールを調べたら、
この歌をつくった当時はまだ24歳。
なんか、達観しているというか、老成しているというか、すごいな、、、
さっそく山野楽器に、「風」コンプリート・ベストの取り置きをお願いしましたよ♪

「男は明日はくためだけの靴を磨く」 伊勢 正三
URLリンク(www.youtube.com)


62: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/03 20:13:45
歌詞はここから
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

夕暮れの町並みが 少しずつ暗くなってゆく
ひとりの男が 今日も坂道を降りてくる
アパートのドアを開け 手さぐりで灯りをつけた時
今日一日がふと目の前を通り過ぎる
ひとり暮らしは気楽と言えばいい

過去のことは思い出さず これからのことはわからない
男は明日はくためだけの靴を磨く
その日暮らししていても ほら こんなに幸せだと
大きな声で笑える日もいつかはくる
時の流れに 身をまかすのも いいさ

やさしい女がどこかにいたような気がする
そんな気持ちに たとえ答えられなくても
男なら恋心をさりげなくポケットにいれて
そのあとでそっとどこかで取り出してみたとき
熱い思い出 静かに消せばいい

男なら夢のひとつ くつがえすこともできるし
夢からさめたら また新しい夢をみればいい
窓辺で枯れてゆく 一輪ざしの花でさえ
この部屋の中で精一杯に咲いていた
そんな小さな生きざまをみつけたい



63: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/03 20:16:47
それにしても「アーリオ オーリオ」は読後ひと月経った今でも
尾を引く作品だなあ・・・

この作者は男の哀愁を書かせたら一級かもしれない。。。
女性なのに、男の後ろ姿を書かせたら右に出るものがいないのでは
ないでしょうかね?

64:#
08/02/05 00:40:26
うーん、こんなに上手に感想を書くなんて無理だなあ(苦笑
ほんの少しだけ何か書いてみよう。

65:#
08/02/05 00:46:07
絲山秋子の何に惹かれたのだろう、よくわからないけれど、
その「よくわからなさ」こそが惹きつけたんじゃないか、
という気がした。

絲山秋子の作品はとても読みやすく難しくはないけれど、
すっきりとした気分にさせてくれるわけじゃなくて
「何か日常的でないもの」「ある種の不気味さ」が
余白に漂うようにして読後感に残る感じ。

何がそんな感じを与えるのだろう?
>>32で書かれているように
姿は見えないけれど感じられる「風」かな。

66:#
08/02/05 00:59:03
「袋小路の男」「逃亡くそたわけ」「海の仙人」の登場人物たちは
自殺未遂をしたり精神病院から逃走したり雷に打たれて盲目になったりする。
何とか世間(世界)につながってあやうく何とか生きている。

この綱渡り感みたいなものは、作者が躁鬱病を患ってたことから起因しているのか
「対人関係をうまく築けない孤独な男が主人公の物語が多い」ためか。
とにかく、絲山秋子の作品からは「境界線上の危うさ」が感じられて
それがなんか切なさというか淡さみたいなものにつながっていく。

とはいえ、ファンタジーという変な神様みたいなのをはじめとして、
キャラクターは個性をしっかり刻印されて存在していて読ませるし、
物語のところどころにアクセントがあって飽きさせない。
ひと言でいえば、上手い、ということになるんだろうなあ。

「逃亡くそたわけ」で繰り返される「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」という言葉。
それを読んでるときに思い出したのは太宰の「トカトントン」だった。
重要な意味を隠し解釈を求めるフレーズというよりも、
思考を停止させる唯物的な音のようなものとして読んでたっけ。

「平明な言葉で読者を深い余韻に誘う。。。」というのはまさに!

67: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/17 19:16:25

>>64-66
#さん
ほめていただきまして、ありがとうございます!
赤面するくらいうれしいですっっっ♪♪

>何がそんな感じを与えるのだろう?
>>32で書かれているように
>姿は見えないけれど感じられる「風」かな。
そうなんですよね。
この作者の作品は、この人の世界に「漂っている空気を感じる」ものであり、
その漂っている空気とは、透明であたたかくほんのりとやさしくて、そして少しだけ
悲しい・・・
それは喩えてみるならば、春の夕暮れのように、夏の終わりの黄昏のように、
去ってほしくないものを惜しむ想いに似ています。
消えてしまう儚いものを、永遠の一瞬として残しておきたい、封じ込めて取って
おきたい、それが絲山氏の作品に漂う風の特徴ですね。

「アーリオ オーリオ」の大人になる一歩手前の儚くて美しい美由がまさにそう。


68: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/17 19:17:32

>「逃亡くそたわけ」で繰り返される「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」
>という言葉。
>それを読んでるときに思い出したのは太宰の「トカトントン」だった。
>重要な意味を隠し解釈を求めるフレーズというよりも、
>思考を停止させる唯物的な音のようなものとして読んでたっけ。
おおっっっ!
さすがに鋭いですね!
そう指摘されてみると確かにあの言葉のフレーズは思考を停止させる言葉ですね。
太宰の「トカトントン」は擬音ですが、「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」は
商売用の交換性を表す等式ですが、物語が盛り上がる直前で必ず「あたし」の
脳裏に響いてきましたね。
「あたし」なりに何かを真剣に考えようとすると必ず聞こえる言葉。
水をさす、茶々を入れる言葉として繰り返し登場してましたね。

「あたし」が正常な思考をしようとすればするほど、病んだもうひとりの「あたし」が
茶々を入れる、、、
このふたつの人格の葛藤、病んだ人格が正常な人格に宣戦布告するときの合図が
「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」なのかなあ、とも思いましたが、、、



69: ◆Fafd1c3Cuc
08/02/17 19:18:06

>とにかく、絲山秋子の作品からは「境界線上の危うさ」が感じられて
>それがなんか切なさというか淡さみたいなものにつながっていく。
そうなんですよね。
そして、そのせつなさとは切迫したものというよりも、どこか可笑しみを感じさせる
ものなんですよね。
そこがものすごく好きだなあ、と思いました。
飄々としていてつかみどころがないのだけれども、こころの恩深くに
じんと残る・・・
まるで雪のように、ね。
雪は掴んでも掌にのせた瞬間たちまち解けてしまうでしょう?
けれども、掌は雪の冷たさだけはしっかりと記憶している、
ずっとずっとあとあとまで残っている。。。


70:吾輩は名無しである
08/02/21 20:26:00
なんだい、ここは?
天文学は伊藤文学だって?

71:吾輩は名無しである
08/02/22 11:38:00
糸山ファンのオナニースレらしい。


72:吾輩は名無しである
08/02/23 21:30:08
そうか、伊藤文学じゃないのか。

73:#
08/02/29 01:37:36
ファンタジーという変な神様が出てくる絲山文学も
充分に天文学の素質があるんじゃないかな。

74:吾輩は名無しである
08/03/02 19:27:55

そうですね。
絲山氏の作品には飄々とした天然の人が割と登場しますよね。
天然ということはつくられていないということでしょう?
つまり、神に近いということですよね。
なぜなら、神はこの世のあらゆるものをおつくりになったのですから。
神によってつくられなかったもの、それは神自身ということですよね。


75:#
08/03/20 23:47:43
登場人物は天然系とくくれるかもしれないけれど
作者はなかなかどうしてかなりスキルがある感じ。

稲垣足穂は読んだんだっけ?

76: ◆Fafd1c3Cuc
08/03/23 20:30:22
>稲垣足穂は読んだんだっけ?
全集を借りてきましたが、あいにく1巻は貸し出し中で2巻から
読み始めています。「一千一秒物語」読みたかったのですが
これは1巻に所収されているようです。

稲垣足穂の第一印象は精巧につくられたロボットというか、
全体に無機質な感じ。
星や月などを扱いながらもSFでもない、ファンタジックでもない、
感傷や郷愁を一切排除した徹底したフィクションの世界です。
宮沢賢治も星を主題とした「銀河鉄道の夜」を書いてますが、
賢治はノスタルジーあふれる世界を描き、最後には宗教の境地に
達していますが、稲垣足穂は人のこころの動きや感情を意図的に
排除し、乾いた世界を得意とするようです。

この作者って自作に全部自分で解説をつけていますよね!
ううむ、、、妥協を許さないのかなあ…?
読者が好き勝手に読むことをきらったのでしょうかね?




77:#
08/03/25 23:50:19
たしかに無機質な天文学的ファンタジーだよね。
かなり気難しい人だったとか。
でも作家って結構へんくつ者が多いか。。。

78:シリウス携帯
08/03/30 11:28:54
%さん、サウンドオンリーさん
雑談スレが荒らされてるので近い内「ほのぼの板」に再びスレを立てる予定です
少なくともほのぼの板では荒らしはいなかったから
時々ageれば落ちることもないですし
それにしても春厨はしつこい…

79:シリウス携帯
08/03/31 19:57:37
もう少し様子を見てからにします…

80:#
08/04/07 01:05:59
時間をおくこともいい戦略のひとつだしね。

81:吾輩は名無しである
08/04/07 17:24:36
そうですね。
前に2ちゃんねるでこんな短歌(おそらくオリジナル)を見つけました
「白河の清き流れに耐へかねてもとの田沼の水ぞ恋しき」
2ちゃんねるは、まさに水清ければ魚棲まずですね。。。


82:#
08/04/10 23:30:12
あっちもあれだねえ。。。
まあ2ちゃんらしくはあるけど(苦笑

83:吾輩は名無しである
08/05/19 01:15:10
保守

84:吾輩は名無しである
08/06/18 17:16:31
保守age

85:吾輩は名無しである
08/06/18 18:48:17
まあ、ウンコって~チンコって~よりは面白いよね

86:吾輩は名無しである
08/06/18 18:55:03
ウンコやチンコより○ンコのほうに興味があるのが男として当然だろう。


87:吾輩は名無しである
08/06/18 18:59:07
マンコは既に文学じゃない。それを言っちゃあおしまいよ。

88:菜の花
08/06/25 12:31:27
しばらくの間ひとりごと・思索の軌跡ノートとして使わせてくださいね……

1
「他者の不幸を同情する感情には巧妙に仕組まれた正当防衛が含まれている」

わたしがニーチェの「同情の禁止」に共感を抱くとすれば、正当防衛というよりも
感化されやすい本来のわたし自身の資質によるものです。
不幸な人、哀れな人に接しつづけているとあたかもわたし自身もその人と同じ不幸を
背負っているような錯覚に陥ってしまうのです。
はっきりいってそういう「不幸な感情」には巻き込まれたくありません。
たとえわたしを取り巻く他者がどうあろうと、本来の自分を確固として保つ自信がないからです。
動じやすい性質であるわたしにとってニーチェの「同情の禁止」はある意味、自分を守る
ための手段かもしれません。

「喜び」という感情は人が根源的に求めるものだと思うのです。
素朴な喜び、至福の境地、快楽の極み、、、
そうしたものを得るためには、その前提として感謝が重要であるとイエスは説きました。
「あふれんばかりに感謝しなさい」と。
感謝こそが喜びに、引いては「幸福」に繋がると。
まあ、ざっと現実を見渡してみるとほとんどの人が不平不満だらけですからね。。。
(わたしも含めて・・・)


89:菜の花
08/06/25 12:32:00
2
ニーチェの印象(といってもすべての著書を読んでるわけではないのですが)に顕著に
見られるのは「嫌悪」、そして「否定」。
肯定するのは自ら意味を創り出す「力への意志」のみ。
非常にタフで創造的です。
素晴らしいとは認めますが、これってかなり精神が強靭でないと落伍者になってしまうような、、、
ひとたび転落した者は自身の力を再度肯定するにはかなりの労力と時間を要するでしょう。
過信しすぎると返って足を掬われてしまうでしょう。
心身ともにまさに「超人」でないと無理。。。

ニーチェの生涯において恋愛はほとんど成就できなかったようですね。
困難を極め、挙句の果てに友人に横取りされてしまったようです。
これじゃニヒリストになるのも無理はないかなあ、、、
いっそのこと徹底した女嫌いにでもなってしまえば新境地が開けたかもしれません。

あれだけ弁の立つソクラテスは悪妻(と一般的には称されている)に辟易し、
キルケゴールはひと目惚れしたレギーネとようやく婚約にこぎつけるも、
直前で破棄するし、哲学者にとってどうやら「女」は理論立てても解明できない
およそ理解不能な存在だったでしょうね。
まさに「未知との遭遇」ですよ!
鹿島茂氏がこのように述べていましたよ。
「古今東西、どんなに弁の立つ哲学者、論理学者であっても女房と口喧嘩したら
絶対に勝てない。なぜなら女の論理は筋道や論旨を無視してあちこち、いきなり
飛ぶからだ」と。合掌・・・


90:菜の花
08/06/25 12:32:32
3
「モノリス=智慧の柱」にちなんでもう少し。

哲学する人にとって思考は理性でなされますが、この「理性」をデカルトは『方法序説』の
冒頭で「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」と提唱しました。
そして、その「良識」とは神からくるものである、と。
さてさて、哲学の第一義は懐疑でありますが、果たして本当に「良識」とは神からくるもので
あるのか? という命題がふられるでしょう。

少し話は逸れますが前にテレビで「宇宙の素」はどこにあるのか?
という興味深い特集をやっていました。
科学者、天文学者、哲学者、宗教家たちがさまざまなコメントをしていました。
とりわけ印象的だったのは、アンデス地方の賢者と称されている老人のコメント。
質問者:「宇宙はどこから始まったのか? 宇宙の素はどこにあるのか?」
賢者は岩に棒切れで絵を描きました。 小さな丸を。
賢者:「岩を宇宙全体と考えるなら、宇宙の素はこの小さな丸印のような〝種〝です。
種が発芽して大きく育ったのです」


91:菜の花
08/06/25 12:33:09
4
閑話休題。。。

さてさて、では「良識」は外部からくるのでしょうか?
確かに人間は生まれ放しのままでは野生児の如く育ち、理性や良識とは無縁です。
人類第一号がモノリスに触れて啓示を受けたように、やはり人の内部では独自に
宿らないものなのでしょうかね。。。
「理性」、「良識」の素というか種は見えざる何者かの手によって蒔かれ、育てられたので
しょうか?

ちなみにゴールディングの「蝿の王」では無人島に不時着した少年たちが次第に
理性や秩序を放棄し野蛮化して殺戮を繰り返していくさまがリアルに描かれています。
もう少年たちは「公平に分け与えられている良識」を持たない。。。
少年たちが大人によって植え付けられた理性は監視者のいないところでは保つことが
できないのです。



92:菜の花
08/06/25 12:33:36
5
―ヘーゲルにとって歴史とは、「主人と奴隷との相克の弁証法」のことで、
「奴隷」が「主人」から自由を獲得するプロセスこそ「歴史」と呼ばれるものでした。
そして最終的に「奴隷」が「主人」から完全な自由を獲得したとき歴史は終焉すると考えたのです。
その際宗教は、「奴隷」が「主人」の力を前にして抱く不安を緩和する装置として機能していると
考えられていました。したがって「奴隷」が完全な自由を獲得した暁には、宗教は不要となるのです。
奴隷と主人という二項対立は無化され、国家という概念も無化され、歴史が終焉し、同時に
無神論も完成することになります。逆説的な言い方になりますが、ヘーゲルにとって宗教の
最高形態は無神論なのです―
URLリンク(homepage2.nifty.com)

もしこの世に「主人と奴隷との相克」が消滅し奴隷は主人から完全に解放されたとして
果たして宗教は不要になるのでしょうか?
もしこの世に「あらゆる病気に効く万能薬や不老不死の薬」が開発されたとして、人は
病の不安や老いや死から解放され、宗教は不要になるのでしょうか?
もしこの世に「あらゆる種類の争いごと」が消滅したら、人は諍いから解放され
宗教は不要になるのでしょうか?


93:菜の花
08/06/25 13:48:42
6
宗教の終焉は文学、哲学、芸術の死をも意味します。
光だけの帝国、ユートピアにおいては光は善とすらされないでしょう。
なぜなら善は当然の如く現存するものであり、そこには何らの価値も見出されないからです。

神はカインがアベルを殺したことに憤り、人は生涯額に汗して働かねばならないように
楽園から追放しました。わたしたちはカインの末裔であり一生原罪を負わされました。
楽園においては人は知恵を働かせなくても暮らしていけたのです。
けれども、楽園においては思考するという行為、すなわち哲学は不要だったでしょう。

苦悩は哲学者にとって必要条件です。
文学者にとっても然り。芸術家にとっても然り。
……だからといってわたしは苦悩を賛美するつもりはありません。
誰にとっても苦悩は軽いほうがいいし、ないほうが心すこやかな人生を送れるのも
真実だからです。

あのイエスでさえ「苦しみに耐えよ」とはいいましたが、「苦しみを愛せ」とまでは言及
しませんでした。


94:菜の花
08/06/25 13:49:03
7
人が幸福を感じる瞬間とは何かから解放されたときです。
解放されたい何かが皆無であれば幸福は感じないということになります。
この皮肉、なんという逆説!

メーテルリンクは「青い鳥」で幸福とは身近なものに対する気づきであるとしました。
遠くにあるものではない、捜し求めるものではない、あなたのすぐそばにあるのですよと。

哲学する人にとっての幸福は真理を発見した瞬間でしょうか?
その真理は内省した結果得られたものでしょうか?


95:菜の花
08/06/25 13:49:26
8
「上と下」、「左右」、「東西」、「南北」などは対立というよりも、
対称(対照)概念のような気がしますね。

無と存在、沈黙と言葉、死と生については、
無は存在の一部であり、存在に「含まれる」
沈黙は言葉の一部であり、言葉に「含まれる」
死は生の一部であり、生に「含まれる」
といったほうがわかりやすいかなあ。。。

ブランショは〝円環〝を好む作家ですよね。
物語の終わりが冒頭に逆流し繰り返されることを暗示して終わる作品が多いです。
彼は終わりなき対話を希望する作家ですが、彼の作品の特徴である〝円環〝は
ある意味においてニーチェの〝永劫回帰〝をほうふつとさせます。
まったく同じ生が寸分違わず幾度も繰り返されるという、、、
「望みのときに」は「今、終わりと記す」で終わっています。
これは作者が〝円環〝を繰り返さないという意志の証明なのでしょうね。
ブランショはたとえ物語が終わっても作中で使われた言葉たちは幾度も息を吹き返し、
繰り返し語り、終わりがないことを知っていました。
それゆえに、あえて意図的に「今、終わりと記す」としたのでしょう。


96:菜の花
08/06/25 13:49:49
9
ニーチェは永劫回帰には強い意志、力への意志が必要であると説きました。
ニーチェはなにものにも屈しない、束縛もされない人間の〝意志の力〝を
高らかに謳い上げました。

ブランショは書き手がたとえ終わりを告げても、言葉たちは〝円環〝を繰り返すと提唱しました。
書き手に紡ぎ出された言葉たちは自らの意志を持ち始め、いつしか作者にとってかわり、
作者を無視して(殺し)、蘇る、と。(「謎の男トマ」における言葉=カマキリのエピソードは印象深い)

ニーチェの深い沈黙は自身が説いた人間の〝意志の力〝への揺らぎゆえ。
ブランショの重い沈黙は書き手が作り出した言葉が、実は書き手にとって脅威であるがゆえ。。。

ニーチェは〝意志の力〝に疑心暗鬼となり、ブランショは言葉に怯えました。
両者の沈黙は疑念と恐怖、そして、期待と信頼が裏打ちされていました。
そう、ニーチェのわたしたち畜群への期待、ブランショの、意志を持った言葉たちへの
信頼です。
わたしたちは沈黙のなかにさまざまなものを読み取ろうとします。
無が存在に内包されているように、沈黙もまた形を変えた言葉であるのですね。
そして、そのなかには語りえぬ言葉もあり、その語りえぬ言葉というものもまた
発話されない言葉以前の言葉なのです。
わたしはこれを「未言葉」と呼びます。


97:菜の花
08/06/25 13:50:43
10
沈黙は一方では話しかける相手、つまり他者に向けられ、もう一方では声を発する自分自身の
内面、つまり自身の魂に向けられたものであるということです。
そういえば「ツァラトゥストラ」の「快癒に向かう者」の章で永劫回帰について実際に語っているのは
蛇と鷲のみであり、肝心なツァラトゥストラは沈黙したままなんですね。
ニーチェは永劫回帰の概要を鷲と蛇たちの口を借りて語らせつつ、核となる部分は
ツァラトゥストラに沈黙させています。。。

鷲や獅子たちは言い終えたあと、今こそ何か語られるかとツァラトゥストラの言葉を期待して
待ちますがツァラトゥストラは沈黙してしまい、静寂のなかで己の魂とのみ語る場面がありますよね。
(これはイエスが荒野でひとり瞑想する場面を確実に意識していると思われます)

【蛇と鷲が語る永劫回帰・以下、引用を参照】
―その結び目はまたわたしをつくりだすだろう!
わたし自身も永遠回帰のなかのもろもろの原因のひとつとなっている。
わたしはふたたび来る。新しい人生、もしくはより良い人生、もしくは似た人生にもどって
くるのではない。わたしは永遠にくり返して細大漏らさずそっくりそのままの人生に
戻ってくるのだ。くりかえし一切の事物の永遠回帰を数えるために。
くりかえし人間に超人を告知するために。
(中略)
動物たちはこう言ってしまうと沈黙してツァラトゥストラが何か自分たちに話すものと思って
待っていた。しかしツァラトゥストラは動物たちが口をつぐんだのも知らなかった。
彼は目を閉じて静かに横たわり眠っている者のようであった。
しかし眠ってはいなかった。ひたすら自分の魂と語りあっていたのである。
しかし、蛇と鷲はツァラトゥストラがこのように〝沈黙〝しているのを見てそのまわりに漂う
大いなる静寂を畏れてしずかに立ち去った―「ツァラトゥストラ・快癒に向かう者」より抜粋


98:菜の花
08/06/25 17:23:51
初めて流れ星を見たのは十歳の夏だった。
星は一瞬の間に流れて消えていった。
願いごとをする間もなく、わたしはただただ呆然としていた。
星は一瞬で消えていったけれども、あのときの感動は今でも覚えている。
流れ星は消え去る一瞬、わたしのこころに何かをささやいた。
それは言葉にならない言葉だった。
その言葉が何なのかわたしにはわからなかった。

あのときわたしの胸によぎった想いは今も抱いている。
流れ星の言葉の意味を確かめたくて今夜もわたしは空を見上げるのだ。


99:菜の花
08/06/25 18:41:30
ひそやかなスレが好きです
星の光って決して華やかではないんですね
遠くにあって静かに瞬いている
それでいて道しるべの役割をこなしている
泣きながら星を見上げた夜、星は誰よりもやさしかった
誰よりも近くにいてくれた
わたしがこの世からいなくなっても星はきっと……

100:菜の花
08/06/25 19:35:33
このスレはわたしにとって大切なスレです
星と文学と哲学と…
そして少しの涙とため息と…

どうかこのスレがひっそりと穏やかでありますように
いつでも天窓から、あるいは屋根の上から星が望めますように
どうかどうか……

101:菜の花
08/06/25 19:56:52
学問板はいいですね
たとえひと月書かなくても、ずっとsage進行でも
そう簡単には落ちないし…

ここにはいつでも星が瞬いてる

星が大好きです
星が大好きです
星が大好き

わたしの想いはどこにいくのだろう…

涙で星が霞んでしまう…

102:菜の花
08/06/26 11:16:04
現代アメリカ文学の新鋭、イーサン・ケイニンの「スター・フード」を初めて読んだときの
感動が今でも忘れられない……

主人公は18歳の少年。
彼の家はコンビニを営んでいて彼もときどき店を手伝っている。
彼は家の屋根に上ることが大好きで、屋根の上から町並みや空を見るのが大好きな
多感な少年だ。そしてとても繊細だ。
彼の父は彼に雲の名前や人生をおしえてくれるこころゆたかな指南者でもある。
彼は屋根の上でさまざまなことを夢想し、考える。
進路、恋愛、人生、そして自分について、、、
ある日、店で小さな事件が起こる。
結局彼は自分では何も解決できずに苦い後悔だけが残った……。
その夜、彼は屋根の上で泣きながらつぶやく。。。

〝I’m alone〝



103:菜の花
08/06/26 11:16:25
この短編を読了後、無性に屋根に上りたくなった。
けれども、残念なことに帰省しない限りは、上れる屋根がない。。。
ビルの屋上くらいしかない。

イーサン・ケイニンは多感な年頃の少年を描くのがうまい作家だ。
彼が描く少年たちはアウト・ローでもなく、ヒーローでもなくその中間に属する
少年たちだ。
わたしたちの大部分がたいていは中間に属している。
ささいなことに傷つき、悩み、そうした繰り返しの単調な日々を生きている。
イーサン・ケイニンはそうした人たちを肯定する作家だ。
〝違う生き方に目覚めよ!〝と鼓舞しない。
そう、押しつけがましくない作家なのだ。

わたしがイーサン・ケイニンを好きな理由がここにある。

104:菜の花
08/06/26 11:17:03

あるときともだちが凹んでいたら、スクールの知人がメールで送ってくれたそうです…


「屋 根」    高田真樹子


1
つらいことだらけで泣きたくなってしまったとき
あなたの家がはっきり見える 屋根の上が恋しくなるの
教会の十字架や遠くを走る汽車の灯りまで見える
大きな屋根の上が
真っ暗なあなたの家に灯りが灯ると
なぜかわたしは涙が涙が出てしまうの

2
あなたの家の灯りはわたしをあたたかく見つめていてくれている
そんな気がするから
できるならあなたとふたりだけで遠くを走る汽車の灯りを
追いながら屋根に上りたいけれど
今のわたしを慰めてくれるのは あなたの家の灯りだけでいいの

真っ暗な闇の中で星に囲まれながら
屋根の上であなた想っていることだけで
どんなにつらいことでも忘れることができてしまうの
今のわたしには

URLリンク(jp.youtube.com)


105:菜の花
08/06/26 15:18:34
ブランショは「沈黙の作家で」あるといわれている。
彼はバタイユと親交を深めていた。

最初に読んだのはバタイユのほうだった。
「死者」と「空の青み」。
露骨な性的表現に驚いた。
神や聖なるものを冒涜する数々の言葉、表現、、、

次に読んだブランショの「死の宣告」。
主人公はほとんど沈黙し、モノログすらも、ない。
ストーリーらしきものはあってもどこか曖昧。

いったいこの両者は互いのどこに共感したのだろう?
片や徹底して品位を崩さないブランショ、片や冒涜の限りを尽くし、或る「まなざし」に
終始怯えるバタイユ。


106:菜の花
08/06/26 15:19:03
ブランショは「沈黙」を作品のなかでそのまま描いた。
すなわち、主人公たちは「語らない」、作者も「語らない」、という手法で。
ある意味、わかりやすいストレートな沈黙だ。

では、バタイユは?
侵犯、冒涜行為はとどまることがないけれども禁忌を犯すときつねに注がれている
ひとつの「まなざし」がある。
バタイユは、放蕩の果てに梅毒になり盲目になった父を捨てて逃げた経験を持つ。
彼を苦しめた「まなざし」は、かつて捨てた父の盲目の眼と推測することができる。
同時にそんな自分を裁く厳しい「神のまなざし」であると、とらえることもできる。
父がかつて放蕩したようにバタイユの作品の人物たちはあらん限りの背徳を尽くす。
彼らは何も恐れていないように描かれているが、目玉を象徴する球体群が作品のあちこちに
出てくる。彼らはまなざしを意識し、まなざしの下においてでしか悦楽を得られない。

最も宗教的な作品といわれる『マダム・エドワルダ』。
娼婦エドワルダは自分の性器を見せながら、「あたしは神よ」と哄笑する。
そして直後に深い沈黙に入る。
娼婦(性器)=神=沈黙、、、
神はまさしく語りえない存在なのだ。


107:菜の花
08/06/26 15:19:26
男たちが娼婦を求めるとき、彼らは恋人や妻たちにするような「語りかけ」は不要である。
お金さえ払えば彼女たちは身体をひらく。
口説きの手順としての言葉は要らない。
沈黙する娼婦は何ゆえに神なのか?
「最初に言葉があった。みことばは神とともにあった」と聖書にあるが、
この記述に従えば沈黙する娼婦は神ではない。
といって娼婦が言葉を持たないということではない。

沈黙とは、言葉を持ち語れるのにあえて語らない行為である。

ブランショは沈黙の持つ未知の世界の広がりを描き、
バタイユは沈黙をとおして、結果として神の存在を浮かび上がらせた。


108:菜の花
08/06/26 15:21:50

―沈黙とは己の魂と向き合うこと

イエスもそうでしたが、イエスは荒野で沈黙のうちに瞑想しているんですね。
その瞑想とは祈りなんですね。そう、神との〝対話〝です。

* あちらのスレはそろそろ卒業します
有志の皆さんでもろもろと盛り上げてくれているみたいですから


109:菜の花
08/06/26 17:21:55
このスレを読むのはどんな人だろう?
……わたしは静かに眼を閉じて想像してみる

星の好きな人
文学の好きな人
哲学の好きな人
書くことが好きな人

初めて創作らしきものを書いたのは12歳の春だった
中学のときだ
5~6人で成り立っているグループノートがあり、生徒たちはそこに順番で好きなことを
記していく。
日記あり、つぶやきあり、何でもありのノートだった。
衣替えをしたばかりの少し肌寒い6月。外は雨が降っていた。
午前中の授業をわたしは退屈に聞いていた。
中庭に目を向けると紫陽花が鮮やかに咲いていた。
紫陽花の根元にはいくつもの大きな水溜りができていた。
雨は紫陽花に、水溜りに降り注いでいる。

紫陽花の濃い緑色の葉陰に小さな雨蛙がいることを、ふと想像してみた。
もう何日も獲物を口にしていない雨蛙は痩せこけていた。
やがて雨が止み葉陰に潜んで羽を休めていた虫たちはいっせいに飛び立っていく。
雨蛙は紫陽花の根元にひっそりと横たわったまま二度と動くことはなかった。
誰も雨蛙の死を知らなかった。
誰も雨蛙の死を悼まなかった。

空にはくっきりと綺麗な虹が架かっていた。


110:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/06/26 19:19:07
菜の花畑で菜の花に囲まれて静かに静かに眠りにつきたい
すみれ色の空には一番星
小川のせせらぎと風のささやき
わたしはひとりで祈りを捧げよう

言葉にならない想いを祈りに託そう

111:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/06/27 12:50:59

「熱  情」    アクアマリン


今でも澄んだ空に 夏の匂いがするたび
白い雲のどこかで 私を呼ぶ声がする
今では毎日が 追い立てられるようで
想う時間もなく いろんなことがありすぎて 
草原に風が吹く あたりまえの景色に
こんなにも心は揺れている 春風のように
どうして遠く離れて 素直になれるのだろう 
今でも君を想いながら こうして空を見る

いつでもとなりにいて 同じ夢を見てた
あの日々の熱情は 今でも心の中に
ふたりきり帰り道 日暮れる山の上に
あの星を見上げいつも 笑い泣き歩いた道
どうしてこんな時が過ぎて 優しさが残るのだろう
この優しさを あの頃にも 心に持てていたら

どうして遠く離れて 素直になれるのだろう
あの星の影によみがえる 二人で見た景色
二人がいた景色


URLリンク(club.pep.ne.jp)
(三角印をクリックすると音源がスタートします)


112:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/06/28 21:29:41
「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなくて、友の足音だ。」

ベンヤミンのこの言葉を読んでわたしたちは沈黙のなかでも
足音を相手に届けることができるのだな、とふと思う
沈黙は無限の言葉を有している
そして、足音はその沈黙を運ぶひとつの手段なのだ
足音を聞くことは沈黙のうちの言葉を聞くことだ

沈黙が対話であるのなら、足音もまた対話なのだ

113:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/01 12:36:04

三つ星がよく光ってるね。
言うと、えび男くんはみかんを口に入れたままのくぐっもった声で、
「あのね。星は、寒いをかたちにしたものじゃないと、ぼくは思うな」 と答えた。
 ふうん、とわたしが言うと、えび男くんは、
「星はね、あったかいよ」 とつぶやいた。
「星の光は昔の光でしょ。昔の光はあったかいよ、きっと」 きっと、と言いながら、
えび男くんは鼻をくすんと言わせた。
 かぜ? と聞くと、
「違うよ、少し泣いてるんだよ」 えび男くんは答えた。
 昔の光はあったかいのか。わたしが言うと、
「昔の光はあったかいよ、きっと」 えび男くんは繰り返した。
 ハンケチ、使う? 聞くとえび男くんは、
「いい」 と、ことわった。それから、自分のズボンからちり紙を出してちんと鼻をかみ、
「昔の光はあったかいけど、今はもうないものの光でしょ。いくら昔の光が届いても
その光は終わった光なんだ。だから、ぼくは泣いたのさ」 と、しっかりした声で言った。


                   ~ 川上弘美  短編 『星の光は昔の光』 より抜粋 ~


114:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/01 12:36:33
天文学が好きな人は星にこころを奪われた人だろう。
子供の頃から夜空を見上げ、星たちにあこがれを抱いた人だ。
川上弘実さんは「星の光は昔の光」だという。
そして、その光は「今はもうないものの光」であり「終わった光」だという。
そのとおりである。
今わたしたちが見ている星の光は何億光年前の光であり、当の星はとっくに滅んでいる
と考えるのが妥当であろう。星にも寿命があるのだから。。。
今見ている星の光は滅んでしまった星の光なのだ。
光は地球に届くまで何億光年もの時間を費やしている!
光を発信する側と受信する側には当然ながら時間のズレが生じ、光の時間旅行が
介在するのだ。

対話にも同じことが言えよう。
発話する側とその発話を受けて聞き応じる側には時差が生ずるのである。
たとえふたりが時空を同じくしてもふたりの対話には必ず時差がある。
ふたり同時に発話するのは対話ではない。
一方が発話し、もう一方が聞く、そして相手に返す、これが対話である。
故人の書を読むことは時差のある対話であり、その言葉は滅んだ星の光であると
考えられるのだろう。


115:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/01 12:37:00

けれども、わたしたちは悲しむことはない。

このスレを訪れた星と文学が好きな人ならばわかるだろう。
星は滅ぶことはあっても、光=故人の言葉は滅び去ることがないのだ。
昔の(星の)光はたとえそれが終わった光であろうともあったかいのだ。
あたたかいとは息をしていることだ。
対話とは相手の息づかいをまさに感じ取ることなのだ。
だからわたしたちは夜空の星を仰ぐように、息をするように対話をする。

『星の光は昔の光』の最後のほうでは「荒城の月」の一節を引用して終わっている。
「昔の光 今いずこ」と。

昔の光=言葉は、今、これを読んでいるあなたの、そしてこれを書いているわたしの
なかにある。
星の光は長い長い時間をかけて最短距離で進む。
言葉もまた同じ。
端から見れば紆余曲折して届けられるように見えても、実は最短距離で届けられているのだ。


116:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/01 15:10:26
「荒城の月」 土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲

一、
春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
むかしの光いまいずこ

二、
秋陣営(じんえい)の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし
むかしの光いまいずこ

三、
いま荒城のよわの月
替わらぬ光たがためぞ
垣(かき)に残るはただかづら
松に歌うはただあらし

四、
天上影は替わらねど
栄枯(えいこ)は移る世の姿
写さんとてか今もなお
鳴呼(ああ)荒城のよわの月


www.worldfolksong.com/songbook/japan/kojo.htm


117:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/01 15:16:24
URLリンク(www.ne.jp)

みっつのなかの好きな演奏を選べます♪
♪をクリックしてね

♪弦楽器の音による原曲に忠実なシャープの音を伴う遅めの演奏
♪オルガンの音による演奏
♪ピアノの音による速い演奏



118:ハーブ
08/07/06 23:48:12
読むのが大変でした(^^)
夢スレでは「ユーザー設定が消失してます」(???)で書き込めず。。。

119:ハーブ
08/07/07 00:32:18
引用の鹿島茂の「古今東西、・・・」の言葉にうなづき、
「謎の男トマ」における言葉=カマキリのエピソードを思い出し、
「未言葉」という聞きなれない言葉に興味を抱きながら、
ニーチェ、ブランショ、バタイユを経巡ったあと、
ベンヤミンの言葉でしばし足を止める―
夜道の歩みに助けになるものは「友の足音」。
晴れていれば、もちろん夜空の星も加えられるだろうけれど。

ニーチェ、ブランショ、バタイユの言葉は「友の足音」。
そして、夜空に輝く星。
星の光は永遠に輝いているように見えても、実は痕跡。
星の光も、小川の流れのように、野を渡る風のように、
常に動いている流動そのもので、つかまえることはできない。
そべては動いている。常に既に現われつつ消えている。

120:ハーブ
08/07/07 00:36:33
すべてが「運動」だと考えていくと、
光、流れ、風だけでなく、
有機物はもちろんだけど、
石なんかの無機物だって、
絶え間なく動いているんだね。
諸行無常の世界だから遊牧民のように生きようかな。

121:菜の花携帯
08/07/08 00:22:36
ハーブさん
ようこそ、星と文学の部屋へ♪
ここはゆったりとひっそりと進行するスレです
菜の花を見て一句詠んだり、あてもなく風のなかを歩いたり
わたしのとなりには友の足音
大切な人の足音がいつも聞こえる
そんなスレであってほしい…
ハイジはいつも天窓から星を見ていました
星と対話していたのです

あちらのスレは移転したようです

スレリンク(yume板)

122:ハーブ
08/07/15 01:06:52
アシアトという視覚的な痕跡ではなくて
アシオトという聴覚的なリズム。
音楽は映画以上に時間的な芸術。
流れをもっとも表現できる芸術。
じゃないかナ、と。

123:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/17 11:39:19

藤枝静男「田紳有楽」 
―エーケルエーケル 万物は流転する―

庭の池の底に沈んでいたグイ呑みの陶器の前世(?)はなかなか面白かったですね
大蛇あり、ラマ僧あり、時空を超えて陶器たちは変幻自在に流転していく
遊牧民か、家を持たずひとところに定住せずに生きる民
そういえばイエスも彼の弟子たちも悉く遊牧民でしたね
あちこちを説教しながら放浪しました
家を持つということはひとつの場所に安住するということでありますが、
イコール執着が生まれることでもあるのです
執着、欲望、束縛、こうした概念から解放され自由でいるためには
何も持たないことなのでしょうね

人は欲望を持つ存在なのでなかなか難しいことではありますが。。。


124:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/17 12:36:24
映画は画像という視覚、せりふによる聴覚とあれもこれもてんこ盛りなんですね
親切(すぎる?)なんです
ところが、音楽は聴覚のみ、文学は視覚のみなので欠けている部分を
何かで補完しなければならないんですね
だからいいんです
想像力が喚起されるから

闇のなかでは視界は利きません
頼りになるのは己の聴覚のみ
闇のなかで聞く相手の足音は同伴者です
そう、音楽とは暗闇に流れる、あなたの、そしてわたしのこころの同伴者なのですね


125:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/17 17:17:39
ブランショの作品て霧が立ち込めていたり、塔の地下の深い階だったり、
とにかく視界が利かない場面が多い
そのうえ人物たちはほとんど沈黙しているし、、、
そんななかで相手の足音のみが同伴者としての役割を果たしているのです
「わたしについてこなかった男」においては、書き手のわたしは聞き手である
もうひとりのわたしを描写するとき、相手の服装、表情についてはほとんど
描写しません。
ただ、彼の声だけを描写するに留まっています。
わたしたちが彼について知らされるのは、言葉、せりふのみです。
これは何を意味するのでしょう?

彼の姿は見えない、彼は声だけで存在する、彼は闇のなかでのみ話しかけるetc……
このような暗示をかけて、沈黙の作家ブランショは音と声のみで存在する人格を描きました。
書き手である「わたし」の視界はごくごく狭い世界のみに限定されており、
硝子戸の光でさえもどこか遠慮がちに描かれます。
これは何を意味するのでしょう?


126:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/17 17:18:29
書き手である「わたし」は視覚をさほど重視しなくてもいいように描かれるのは
なぜでしょう?

―今度は彼に話しかけてみようと思った―

冒頭でわたしは「声」を用いて彼とコミュニケーションしようとするのはなぜでしょう?
彼の姿が見えるのであれば、手を挙げるとか、ちょっとした仕種でいいのでは
ないでしょうか?
ブランショは彼を同伴者という言葉で示します。
ベンヤミンの言葉を借りるならば、彼は闇の中の「声」として「わたし」を鼓舞します。
すなわち、友の足音とは彼の声に他ならないのです。

最後に彼は白日の光のなかで音もなく消えてしまいます。
消えるもなにも、彼はこの物語の始まりから「声」だけの存在なのですから。
「わたし」が彼を必要としたのは闇のなかにおいてであり、白日の中では
彼は存在しないも同然なのです。


127:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/17 17:21:11
ブランショは沈黙の作家でありますが、彼の沈黙は闇のなかの声にじっと耳を
傾けることを重視する、より能動性のある沈黙なのです。


128:ハーブ
08/07/19 01:38:03
>より能動性のある沈黙なのです。
まったく同感ですネ!
そしてブランショについて掴み方が非常に鋭いと思いマス。
ブランショほど、余白に語らせようとする作家はいないのでは?
と思わせるくらい、言葉はそぎ落とされている感じで、
特に風景描写、人物描写、心理描写などは本当に少ない。
光、ガラス、コップ、窓、影、そういった類の
ストイックなほど透明な色彩、そして、声、ですね。
風景や人物や心理と同じく、レシの中で語られる言葉もまた、
限りなく削ぎ落とされて、沈黙に吸収されるかのようで。

129:ハーブ
08/07/19 01:43:26
藤枝静男「田紳有楽」は面白いですネ!
あそこに出てくる無機物であるはずの陶器たちは、
しゃべるは、動くは、飛ぶはの、超有機物にヘンゲしてます。
藤枝静男は骨董好きらしいけれど、隠居、閑静、わびさびかと思いきや、
なかなかどうして破天荒な「流動」を垣間見せるところがありあり。

130:ハーブ
08/07/19 01:56:53
>>124に書かれてある文学と音楽と映画のことに絡めると、
映画もまた音楽と同じように時間の中にある芸術ですね。

でも考えてみれば、おそらく文学もそうなんだろうな、と。
あるいは絵画も本当はそうかもしれないなあと。

文学が存在するのは印刷され製本された書籍の中ではなく、
ましてや書店や図書館の陳列された棚、所蔵された棚の中でもない。
文学がもし「存在」するといえるとすれば、それは「流動」において、
つまり、書かれ、読まれ、想起され、思考される瞬間ごとにおいて。

131:吾輩は名無しである
08/07/19 02:27:20
>音楽は聴覚のみ、文学は視覚のみなので

健常者の奢りにすぎない。聴覚障害者は音楽を振動で捉える。
視覚障害者は文学を耳で聴き想像力を膨らませる。
「言葉」は意味を孕むのであって、それが視角経由か聴覚経由かに本質的差異は無い。

ヘレン・ケラーの芸術感受力と表現能力は
おそらく君のそれを遥かに凌駕するだろうよ。

132:吾輩は名無しである
08/07/19 02:32:19


自分のノートに書いとくような内容を
スレッドを私用して延々書くな。稚い虚栄心が臭すぎるw





133:吾輩は名無しである
08/07/19 10:41:37
障害者が健常者に比べて特定の器官が発達しているのは生きていく上において
必然的なことでしょう
それをあえてここで持ち出すのはいかがなものかと

2ちゃんねるはひろゆき氏の個人サイトであり誰でも自由に書けます
特定の個人が私用してるのが不快ならあなたがどんどん書けばいいことでは?
裁定はひろゆき氏がすることでしょう

134:吾輩は名無しである
08/07/19 10:51:21
つコピペ

―たとえどのような挑発的な煽りや罵倒であれ、こうしたところに書き込むという
行為は、誰かと対話したいという切実な表明なのです。
そうした名もない彼らにとってどのようなコテであれ、すべてのコテは
闇夜に提灯なのです―。

135:吾輩は名無しである
08/07/19 17:23:32
つコピペ 続き

―したがって、傍目には可笑しい限りの自演であれ、こうしたところにコテを付けて
書き込むという行為は、他者に邪魔されず思うさま自己を肥大させたい彼女の
切実な願いなのです。
まったく名もない彼女は、
コテをつけ自演することであたかも闇夜の提灯になれたかのような錯覚に浸れるのです。
その自己陶酔を支えるハンドルネームが(菜の花 ◆Fafd1c3Cuc=ハーブ)であり、
だから彼女は死んでも(栗の花◆Fafd1c3Cuc=青虫)などのハンドルは
付けることができないのです―。







136:吾輩は名無しである
08/07/19 17:36:34
つコピペ 続き

―したがって、傍目には滑稽な、こうしたところで荒らしで書き込むという行為は、他者に邪魔されず思うさま自己を肥大させたい彼の
切実な願いなのです

137:吾輩は名無しである
08/07/19 17:43:51
まったく異なる固定を同一人物と見なしてしまうところに
彼の2ちゃん依存症をよく現れてますね

138:吾輩は名無しである
08/07/19 18:16:18
劇団ひとりが好き♪

139:ハーブ
08/07/20 22:35:48
>>131
まあ「音楽は聴覚」、「文学は視覚」に限らないとはいえ、
「言葉」は意味だけに限定されるものではないんじゃないかな。
言葉は字面やリズムとしても表現されるわけでね。
さて、君の芸術感受力と表現能力はいかがなものかと。

>>135
おやおや、菜の花=ハーブとは!
まあ菜の花もハーブも植物であるという点では
同じ集合に入れて、等号で結ぶこともできるけれど(笑

他の板では煽りももうちょっとましだったけどなあ。

140:吾輩は名無しである
08/07/22 19:28:50
>>131さんの言う事も一理あるし、煽りでもないでしょう。
一石を投じてくれたというか。

芸術家の履歴というものは、どれほど過酷な経験をしているか、
という事にあるから、障害者のヘレンケラーが表現したものは、
確かに、通常人の感性を大きく揺さぶるだろうね。

視覚聴覚の境界線をあれだけすんなり飛び越えて見せる彼女は、
私たちに新鮮な体験を与えてくれる。

一方、健常者だって、欠落や欠陥と向き合おうとするなら、
誰でも特殊な固有性は持ってるし。それとどれだけ対峙するかだよね。
それが、芸術的感性を膨らます一つのきっかけになる。
欠落と向き合わないから偽善という事には、すぐにはならないだろうけど。

菜の花さんの表現は抑制が利いていて、透明なささやきのようだ。
その中に、どれだけ心理的なコントラストが潜んでいるか、を
読み取るのも、体験に根ざした芸術的感性なんじゃないかな。

141:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/24 16:04:50
>>140さん
>煽りでもないでしょう。
う~ん・・・
比喩の栗の花ってあまりにもね、そのまんまポルノですからねぇ。。。
意図的にエロスを表現したいのであれば、曼珠沙華とか芥子、百日紅、
青虫の比喩も、タランチュラ(ニーチェ&龍之介)や毒虫(カフカ)だったら、
あるいはもっとはちゃめちゃにデンドロカカリア(阿部公房)、とか食虫花とかだったら
文学板っぽくてよかったのにな、、、と思います。
あれだけ濃厚な性描写を描いた中上健治は夏芙蓉を、マンディアルグは海の百合を
性の象徴としました。

>芸術家の履歴というものは、どれほど過酷な経験をしているか、
>という事にあるから、
わたしはひとつの作品を鑑賞する際、背後にある作者の経歴や人物像など、
予備知識は皆無の状態で鑑賞するようにこころがけているんですね。
というのは予め予備知識があるとどうしても作品そのものにまっさらな気持ちで
向き合えないからなのです。。。
……これは指に障害がある人が描いたのか、それなのにこんなにも細かい筆遣いってすごいな、
とか、精神的に失意のどん底でこんなに素晴らしい作品が作れるんだ! とか。
そうした「〇〇というハンデを背負っているのに」という感情が自然に沸いてしまい、
作品そのものを鑑賞するというよりも、作者の背負っている重い枷のほうにどうしても
こころが揺すぶられ動いてしまうのですよ・・・
(感化されやすい性質なのもので……)

142:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/24 16:05:51
>一方、健常者だって、欠落や欠陥と向き合おうとするなら、
>誰でも特殊な固有性は持ってるし。それとどれだけ対峙するかだよね。
まさしくそのとおりです!
たとえ五体満足だからといって欠落がないとは限らないんですね。
人間関係がうまく築けない人、些細なことに動揺してしまう人、繊細すぎる人、
世の中に疑問を抱いている人、集団意識が苦手ではみ出てしまう人、etc
こうした人たちは創作へ向かう確立はかなり高いですね。
巷間よく言われることですが有名な芸術家のことを「あの人が芸術やってなかったら
間違いなく精神病患者として収容されている」と。
身体的に健常者であっても、こころに何かしら抱えている人はそれを発散するための
ひとつの手段として創作があるのだと思いますね。

>欠落と向き合わないから偽善という事には、すぐにはならないだろうけど。
感受性の問題なのかな、と思うのですね。
健常者でも抱えている欠陥と対峙しなくても滞りなく日常を過ごせればその人にとっては
それでいいことなのでしょうね。
けれども、抱えている欠陥とどうしても対峙せざるを得ない人は、欠陥から逃れるべく、
あるいは欠陥部分を何とか昇華させようと創作に向かうような気がします。

143:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/24 16:06:30
どの作家だったかな、「しあわせな人は文章なんか書きませんよ」と言ってました。
何かしら抱えているから書くんですね。

>菜の花さんの表現は抑制が利いていて、透明なささやきのようだ。
ありがとうございます。大変美しい比喩に照れています。感涙!
(実はわたしはかなり激しやすく感化されやすいのですよ。。。)
好意的に読んでいただけてとても嬉しいです!
ここは過疎の文学板のなかでもさらに過疎なスレです。
もったいないので途中から使わせてもらっています。

>その中に、どれだけ心理的なコントラストが潜んでいるか、を
>読み取るのも、体験に根ざした芸術的感性なんじゃないかな。
ひとたび書かれた文章は読み手に渡った時点で読み手のものなんですね。
10人いれば10人の読み方がされますね。
140さんがわたしの文章を読んでどのような想いがこころをよぎるのか、
楽しみです。
それは140さんだけが持つ独自の〝体験に根ざした芸術的感性〝なのですね。

ゆったりと、まったりと対話できるスレであって欲しいと願います。
これからも、このスレをどうぞよろしくお願いします。

144:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/24 17:56:23

ちょっと息抜きに、夏の花、山百合です


                          .ハ-∞ハ
                         ミ‐ 。.‐*ミ' ○
                         ⊂⊂、 _⌒,つ
     /`ーヘ        ノ´`⌒´ヾ  <´ ̄ニニニニ三\__      ,r‐‐、_,.‐--、_____ノヽ
  _r-、 |   )´       (ヽし'*・-・)')   ゝ-‐‐‐=ニ二__,.-‐‐ \   / /ヽ \ ̄`ヾ   ノ
  }ヽ y'  / ヽr‐、_r 、    ヽ     ノ   `ー-----‐'''"     \ヽ  ! !  ヽ  丶  '<て´。
 /  {  |   }  {`   ~(   ノ              ___    _r‐、 | |   {ヽ  ト、___ >o
 ヽ-ュ‐`ハ`ー-く、_,r'     ノ`し'J -、             i' l `ヽr-' / ̄フ、__> ゝハノ_) >゚。
 j⌒´ ノo。゚o}   ヽ   〈 ̄`ヽ  /⌒ヽ          {   〈 /   i'´| `'‐-ー´\,ゝ `o゚
ノ  /  ∞ {  ヽ丿 ノ-ヽ   }ノ_ノ  }          ヽo ゜。∨  r-'ヽ |
`ー} ____ノ i `ー<ノ  )`ー  >  /ハ -‐ァ´          _,r'`ー8 o{ ノ、__ } |
    `ー、__ト、ノ| |  ト、_r'`ー-< o゚8, o           { /  |´ lヽ!  ∨ l
    _______  | |  ヽソ   / ヽ゚。、 ヽ           ヽ{  ハ、i  ゝー、ノ| |
  / ----- ヽ //   \ー- ' ___/  }_/            `ー'  ` ̄     | |
 ´ ̄ ̄ ̄ ̄`//   //`ヽ/, ハノ
/ゝ、  _,.--‐ 、ニヽ / /   ゝ_/ レ'
`}   ̄r´ ̄//| \ヽl
 フ>'    / /  ! !
o( {   __,ノ ノ   | |
。゚く( _ノハ /__,,.  | |
 ゚o´ //`ー-‐'´ | |
    ヾ      | |


145:ハーブ
08/07/25 00:18:40
菜の花さん、しばらく留守にします。
朝夕少し涼しくなった頃にまた。

146:菜の花
08/07/25 14:28:41
このスレはわたしにとって大切なスレです
星と文学と哲学と…
そして少しの涙とため息と…

どうかこのスレがひっそりと穏やかでありますように
いつでも天窓から、あるいは屋根の上から星が望めますように
どうかどうか……

それなのに自演が見抜かれてしまいくやしいです……

147:吾輩は名無しである
08/07/25 14:30:34
あ、トリップつけるの忘れちゃってた
>>146 は菜の花 ◆Fafd1c3Cuc=ハーブ でした。


148:ハーブ
08/07/25 14:33:21
>>140も >>147 もハーブでした。
コテを書き忘れるのは自演慣れのせいです、笑ってください。

自演はオナニー、
いつも万一誰かが見てくれるかと妄想しながら
独りでハァハァヨガっているのが大好きなのです。

でも文学板でオナニーするのは本当に恥かしいけこととわかりました。

臭いオナニスト菜の花 ◆Fafd1c3Cuc=ハーブのことを
どうか皆さん忘れてください。
どうかどうか……


149:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/25 17:39:36
あの~、わたしの名前を語るのなら本物のトリップも
つけてくださいな

150:吾輩は名無しである
08/07/26 19:49:00
この流れで、菜の花さんハーブさんには申し訳ないんだけど
正直笑ってしまった。ごめんなさい。

ちょっとコピペ
「人の潜在的な心は完全なものには、静を感じ、ランダムなものには動を感じる
極めて規則に沿った現象は静の極みであり、それが美しさを呼ぶが
あまりにも極みであると、心は揺れず感動を生まない。
心が冷たいだけ、適度な動、すなわちランダム的な要素が入ることで
それを心地よく感じるわけ。
静的な現象の後に動的なミスが入ると笑いを生む。」

動的なミス、は二人の書き込みにはなく、静のリズムが淡々と繰り返されているよね。
二人はキャラが立ってもいて、そこに彼は眼をつけ、新たなリズムで混ぜ返している。
これは一見破壊のようでいて、事実笑いを生んでいる事から、実は創造的行為なんだね。

笑いの質がどうのってのはあるかもだけど、これはこれで、ほのぼのしている気もする。
このスレのお笑い担当は彼に任せて、コテさんはトピックを追えばいいんじゃないかな。


151:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/27 21:03:27
>>150
>正直笑ってしまった。ごめんなさい。
>これは一見破壊のようでいて、事実笑いを生んでいる事から、実は創造的行為なんだね。
>このスレのお笑い担当は彼に任せて、
ああ、なるほど。。。
荒らしはお笑い担当=ピエロ=道化師の役割を自ら演じてくれているのですね?

折りしも今日、出光美術館で開催されている「ルオー大回顧展」を見に行ってきました。
彼はキリストの絵と同じくらい道化師の絵も多く描いてます。
彼の描く道化師の顔は初期の頃は悲哀を湛えたものが多いのですが、
晩年の道化師の顔はかすかな笑みを湛えているのですよ。
表情もとてもやわらかい。
悲哀、憐憫から受容、微笑へとルオーのこころの軌跡が窺われました。


152:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 10:17:25
>>150
>コテさんはトピックを追えばいいんじゃないかな。
了解しました。

「ルオー大回顧展」についてのつづき
ルオーは敬虔なカトリックの宗教画家でキリストを好んで描きました。
彼の絵の特徴は黒く太い輪郭線と鮮やかな色彩、デォルメされたシンプルさです。
こうした特質を確立する前のルオーの画風はごくふつうのものでした。
今回の展示のなかでまだ太い輪郭線が確立されてない作品がいくつかありました。
そのひとつが一番最初に展示されている「キリストと弟子」。
同じ題名で彼は何品もの作品を描いていますが、ほとんどが太い輪郭線に縁取られた
ものです。

今回見た彼の初期の「キリストと弟子」は太い輪郭線もなく、やわらかく穏やかな色彩です。
黄昏のどこにでもある田園風景、ふたりの弟子、そしてキリスト。
キリストは弟子たちに何か話しかけている様子です。
三人のすぐ横には一本の木。枝の赤い実は夕暮れの光を受けて黄金に染まっています。

他の作品群を観ながら、この絵のことがずっと脳裏から離れませんでした。
さほどインパクトのある絵ではないのに、なぜだろう……?

153:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 10:19:02
展示作品をすべて見終えたころ、ようやく気づきました。
わたしのこころに引っかかっていたキイワードは「一本の木」だったことに。
ふたりの弟子、キリスト、そして一本の木。
そうです、この設定はベケットの「ゴドーを待ちながら」なんですね。
「ゴドーを待ちながら」はふたりの男たちが目印である約束の木のそばで
おしゃべりをしながらいつまでもゴドーを待ち続けるお話です。
但し、肝心なゴドーは最後まで姿を見せることはありません。
それでも男たちは待つことを決して放棄しないのです。

ルオーの「キリストと弟子」はまさに「ゴドーを待ちながら」のふたりの男の心象風景の
ようです。
弟子たちにやさしく話しかけるキリスト、待ちわびたキリストにようやく逢えて
喜びを隠せない表情のふたりの弟子、三人を見守るようにひっそりと立っている一本の木。

ルオーはおそらく聖書の「エマオへの旅人」を題材にしてこの絵を描いたと思われます。
ふたりの弟子がエマオへ行く途中でひとりの旅人=復活したイエスに逢い、道中、三人で
生き生きと話しをするというエピソードです。
けれども、弟子たちは旅人に身をやつした人物が復活したイエスであるとは気づかない
のです。
三人がエマオに辿り着いたとき、ようやくふたりの弟子は目の前にいる旅人がイエスで
あることに気づきますが、その瞬間イエスの姿は消えてしまうのです。。。

154:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 10:19:54
「ゴドーを待ちながら」においては、ゴドー(=イエス)は消えるも何も最初から最後まで
姿を現しません。
けれども、「エマオへの旅人」から「ゴド―」を鑑みるならば、ふたりの男たちの前にすでに
イエスは現れていることになります。

「エマオへの旅人」(ルカ24章13~35節)
―「いっしょに食卓につかれたとき、イエズスはパンを取り賛美をささげて手で分け、
二人にお渡しになった。
すると二人の目が開けてイエズスだと気づいたが、そのとき、その姿は見えなくなった。
二人は、「あのかたが道々わたしたちに話しかけ、また、聖書を説き明かされたとき、
わたしたちの心は内で燃えていたではないか」と互いに語り合った―。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

155:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 10:20:47
「ゴドーを待ちながら」ではふたりの男たちはひたすらしゃべりつづけます。
なぜこんなに饒舌なのかと思うくらい、他愛のないことをしゃべりにしゃべるのです。
しゃべるという行為は憤りにしろ、喜びにしろ、それがどんな理由であれ「心が燃えている」状態
ではないでしょうか?

ならば、こうは考えられないでしょうか?
エマオへ向かうふたりの弟子たちの心が燃えていたのは、イエスがそこに居て語りかけた
からであり、
ゴドーの舞台には実はふたりの男だけではなく、姿の見えないゴドーが語りかけていた、と。
それゆえにゴドーのふたりはあんなにも生き生きとして饒舌なのだ、と。

ルオーの一枚の絵画から、ふとそんなことに想いを馳せた午後でした。。。

156:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 12:40:56

「一本の木と三人」

             ホノボノ マターリ♪
.:;,`:ヽ|/,':,:;.,:;/.:::;                      ⌒⌒   
.;;\.:|.”:;.:.:"'"゙:.:゙,/:; 
,";'.:.:;”:;,`:;,':,”:;:.,:;.:;゙,:;”'.
::;.:".:;.:'"゙:.:゙,:;、,"ノ'.:;ノ'.:.:;”:;,`:  
.:;,`ヽ|/:;,':,:;.,:;.:∨
.:;.:'";|'ノ.:.:;”:;,`::
`:;\i;|i;/:,:;.,:;.::
::;.:".:i;i|.:';'.:.:;”  
.:;,`:;,i;;i|;'.:.:;”:;: 
.:;'.:.:|iii|;”:;,`:;,'  
.:;.:ヾ'|;|'ノ.:.:;” 
::;.:".:i;i|.:';'.:.:
.:;,`:;,i;;i|;'.:.:;” '
.:;'.:.:|iii|;”" :
::;...;;.;;ii:i;;:;i|,i;;ii:i;;i:i,`:;;,`,,`、`:、`:、`、  `:   、,``      ./^l ~♪.;;ii:i;;:;i|,i;;ii:i;;i:i,  ゙で'"~´'';ゑ-ゑ''"~゛づ `: 、,,
`: 、,,`、`.、 : 、,,`、`.、 ,`:;,':,”'' ;~'',;''゚ ;~''      ,―y'"~゙´  i    ,,_,,`、`:、` γ   ヾ,y''~  8~ゞ ゾ 、`.、 
'゚ ;~,;''゚ ;~゚''゚ ;~'.、 、`: 、,,`  'ハ,_,ハ.  、`~♪ (`、 ´∀ ` /)゙  : γ  :、 γ``:、 ,`,ミ ´∀ `  ミゾ ` 、,,`、:
   `:、,, `、 ` :  :  ,:' ´∀`';   ` `  ミ      ミ  `、`.、   :、``、` :、`、とミ      つミ  ,,、,,:
`: 、,,`、`.、 `: 、,,`、`.、   ;: っ っο  `: 、,, `ミ      ミ `.、 `: 、,,`、`.、 `: 、,,``. 、ミ      ミ   `.、
`: 、,,`、`.、 `: 、,,`、`.、   ι"゙"J  `: 、,,`、`.  Θ、 Θ  ミΟ 、,,`、`.、 `: 、,,`、`.、 `: 、:  ミ      ミ"'''ミ 
、,,`、`.、 :、,,`、`.、 :、,,`、`.、 :、,,`、`.、 :、 ,,、:    "゙""゙"  、,,`、`.、 :、,,`、`.、 :、"' '  ゙'ミ,;シ''゙ミ,;ジ゙゙゛゛ 、`


157:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/30 12:41:36
屋根の上で星を見る・・・

                 ゚・*:.。. .。.:*・゜
                   ゚・*:.。. .。:*・゜゚・    /^l  
                      @  ,―-y'"~"゙´ .|  
                       \ ヽ  ´∀ ` ゙':
                         (ヽ      /)
                          ミ       ミ    
                          ミ       ミ 
                           ミ,,,     ミ    
                    _____ミ,;シ''~"゙ミ,ジ___    
          .ハ,_,ハ.      //////////////\    
  丼卅廾-  ,:' ´∀`';<モドレ//////////////   \
    |     ::っ   ,っ  //////////////  田田  \    
  _|___ι''"゙''u__☆_____
.. /////////////// \
///////////////    \  
//////////////       \   
⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒ ──――ゝ


158:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/07/31 12:14:52
「ゴドーを待ちながら」ディディとゴゴ

      (;;::;;:     ;;:::)
     (;;::; (::;; (   ;;::;; )
    (::: (;;::   ;;;)   :::::)
   (;;: (:::  (::;;;   ;;;;)::;;;゙゙);;)  1本の木
     (,,゙:゙:;;;;;,,,(::;;;;;;;;);;;;;;:::):::;;;;)
     ヾ(,,;;;;ノゝ::;;iii //;;;;)
        ヾヽi:;;;iii|//
         ヾ;;;iiiii/
          |::;;;iii|
          |::;;;iii| ハ-∞ハ
          |:;;;;iii|ミ・ 。.・*ミ ゴドーさん、まだ~?
          |;;;;iiii|´U´ヾU
          |;;;iiii;|'*・-・)  ん~、まだみたい
          |;;;iiii;|., ⊂)
       .jrjjrj从wjwj从j
     jwjjrj从jrjrj从jwjwjjr


159:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/08/03 19:40:07
「わが背子に恋うれは苦し いとまあらば拾いてゆかん 恋忘れ貝」 (万葉集)

「松山のまつが浦風ふきよせば 拾いて忍べ 恋忘れ貝」

「いとまあらば拾いにゆかん 住の江の岸によるという 恋忘れ貝」

万葉集で初めて「忘れ貝」という言葉を知ったのは高校2年の
夏の日のこと。古典の時間だった。
なんて雅びで美しい響きだろう!
あの夏の暑い日、できれば授業を抜け出して海岸に貝を拾いに
行きたかった。。。
でも残念なことに、わたしの郷里は海にほど遠いところにあったのだ。

わたしはぼんやりと夢想した。
貝を拾いながら波打ち際を素足で歩く自分を。
潮騒の音と磯の香りが真夏の教室に吹き渡ってくるような心地よい
酩酊感を覚えた。


160:吾輩は名無しである
08/08/05 22:51:24
比喩や美的な表現に耽っていて、なんともイメージ遊びが胸苦しい
これがいわゆる文学趣味ってやつなのか

161:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/08/06 10:50:48
大辞林 第二版 (三省堂)
むなぐるしい 【胸苦しい】
(形)[文]シク むなぐる・し

胸が押さえられているような感じで息が苦しい。
「―・くて寝つかれない」
[派生] ―げ(形動)―さ(名)

……大丈夫ですか?
こころよりお見舞い申し上げます。


162:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/08/06 11:24:56

  ∧,,∧
 (;`・ω・)  。・゚・⌒) チャーハン作るよ!!
 /   o━ヽニニフ))
 しー-J



     Λ,,Λ
     (:::::  )・゚。   今日も独りで食べるよ…
    (::::::::.. つニフ
  ̄ ̄と とノ ̄ ̄



     Λ,,Λ  ゴシゴシ
     (:::::  ∩゙。
    (::::::::. ノニフ
  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ ̄



      Λ,,Λ
     (:::´・ω)。   本当?
    (::::::::..つニフ
  ̄ ̄と とノ ̄ ̄      ハ_,ハ,n イッショニタベルモシャ♥   
                ;゙   ;;    
                ;:  o.;ミ      
                 ~''"゙



163:吾輩は名無しである
08/08/07 23:01:09
>>161
お見舞いはさておき、ご本人としてそのあたり自覚のほどは如何?

164:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/08/08 16:54:55
>>163

正直言ってあんまり、ないかなぁ・・・・・

165:吾輩は名無しである
08/08/09 20:40:28
お答え、ありがとうございました。

166:菜の花 ◆Fafd1c3Cuc
08/08/10 15:37:02
いえいえ、どういたしまして
まあね、自覚がある人は文章など書いてないと思いますね。。。
書かなくても済む日々を送っていられるわけですから
そういう人が羨ましいかとなるとまた話しは別ですが・・・

167:吾輩は名無しである
08/08/10 22:42:15
菜の花さんは感じの良い人だなあ
不躾な質問をしてほんとうにすみませんでした。

168:吾輩は名無しである
08/08/11 11:28:29
Fateは名作だの良作だのという枠を飛び越えて、
今やノベルゲームの聖書ですからね。
エロゲーを超越して、芸術の域に達した文学作品。
きのこ先生だからこそ、成せた偉業だと言えるだろう。
実際Fateに影響を受けて人生観すら変わった人間もちらほらいる
空の境界といい、きのこ先生ほど「人間の闇」を描けてる作品は近年にはちょっと無いよ。
よく勘違いされているがな、「ライトノベル」という呼称は相応しくないよ。重厚さが半端じゃない。
更に付け加えるなら
奈須きのこの文学とは単なる伝奇ではない
あえてカテゴライズするならば「新伝奇文学」ってとこかな?



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