10/01/09 03:17:44
>>253
そうですな。直線的な広がりではないが、重層的に広がっている。
たしかにそれはよく分かる。失語症患者や自閉症患者の類比を用いるまでもなくね。
そしてその解釈によれば、重層的構造の下部に属するイメージと、上部に属する
現在の(現在に近い)イメージのズレから「気づき」が生まれることになる。
だけど、その「気づき」は>>248にあるような「嘆き」になるんだろうか。
それを「嘆き」と呼んでいいんだろうか。たとえば「野生の棕櫚」の最終章の
主人公の(かの有名な)「嘆き」とどう違うんだろうか。それとも同じなのか。
愛着のあるイメージと、ないイメージの落差から生まれるものは、たんなる感情の
爆発であっても嘆きではないように、おれは思う。だから、それをあたかも嘆きのように
語るフォークナーは、とってもセンチメンタルではあると考えてしまうんですわ。