02/11/10 14:02
おひさしぶりです。
>「赤頭巾ちゃん気をつけて」の映画・・・
Pont nordさんって、庄司薫、許すまじのひとじゃなかったですか?
私は映画の方は学生時代に、それこそ学園祭で見ました。
随分昔のことなので、細部は忘れてしまいましたが、「原作そのまま
やんけ」となぜか河内弁で(?)思ったのを覚えています。
そうそう、薫くんが自転車をこいている場面で、バックに水前寺清子
の歌が流れた(原作で自転車をこぐリズムと水前寺清子の歌のリズム
がよくマッチするという箇所があった)場面だけが、妙に印象に残っ
ています。
最近、庄司薫の三部作が再版されたようですが、今の読者が読むとど
うなんでしょうね。
51:607
02/11/10 14:10
>ゾーイによって、解決と、深く心地よい眠りを与えられたフラニ
>ーは、自己の目指すべき演劇の道に向かって、
>作家になるべくアントリーニ先生に渡されたメモを持ち続けるホー
>ルデンのように「足を止めなく」なる?!
?!で終っているので、この話はまだ続くのでしょうが、フラニー
の「心地よい眠り」が果たして彼女の抱えている問題の「解決」た
りうるかどうか、フラニーが演劇の道を、ホールデンが作家の道を
歩むかどうかは、意見の別れるところでしょうね。
フラニーも、ホールデンも物語の最後で、ある種の啓示を受ける訳
ですが、その啓示によって、彼らの人生が変わるかどうかは、テク
ストに書かれていない訳ですから・・・
(ホールデンが啓示によって作家の道を進み、その結果書いたのが
『ライ麦畑』だという解釈は、プルーストみたいでかっこいいので
すが、さて、そこまでオプティミストでいいかというと疑問だった
りもします。)
52:607
02/11/10 14:14
『フラニーとゾーイ』が映画的・演劇的だというのは、まさに
その通りだと思います。
サリンジャーファンの演劇人なら、一度は、『フラニーとゾーイ』
を舞台にのせたいと思うでしょうね。
ただ、ひとり芝居となると・・・むずかしいかなあ。
個人的には、ひとり芝居というのはあまり好きではありません。
木の実ナナと細川俊之の「ショーガール」とか、昔テレビで放映
していた一話完結のふたり芝居のシリーズ「泣きたい夜もある」
など、ふたり芝居は好きなんですが。
53:607
02/11/10 14:20
あとひとつ、たんなる思い付きですが・・・
(私の書くことは全部思い付きなので、あえてそんなただしがきを
つけるのも変なのですが・・・)
ホールデンもフラニーも、基本的には、いまの自分の生活に飽き飽
きしながら、決して家出はできない、さすらいの旅には出られない
人間ではないですかね。
彼らは「あちらの世界」にあこがれながら、決して旅立つことはな
い。
彼らが「救い」(?)を求めるのは、アリーであり、フィービであ
り、ゾーイであり、シーモアなんですよね。
情けないといえば情けないのかもしれませんが、個人的には、だか
らこそ彼らに惹かれるのだという気がします。
54:吾輩は名無しである
02/11/10 15:49
>>45さん
サリンジャー自身が「映画だ」ってコメントしたのですか?
もしそれに言及した文献等ありましたら教えていただけませんでしょうか。
非常に興味があります。
爆笑問題の件、フラニーは、ウィノナ・ライダーも
学生時代に(一人?)芝居でやったことがあるということを聞いたことがあります。
(伝聞なのでソースありません。スマソ。)
僕はこの話を聞いて彼女がとても好きになったので(ギルバートグレープなんて
とてもいい映画です)、最近の醜聞には残念です。
>>pont nordさん
いつも書き込み興味深く読ませてもらってます。とくにホールデンとフラニーの比較、斬新です。
楽しみにしていますので、これからもがんばってください。
55:吾輩は名無しである
02/11/10 16:19
小谷野敦の「サリンジャーを正しく葬り去るために」で
サリンジャーは葬り去られました。合掌。
56:pont nord
02/11/17 03:27
まずはお詫びから
>>47に列挙したフラニー、ホールデンの行動について、細かい間違いがあったかも知れません
間違い探しのクイズにするということで、訂正歓迎です
*607さん
>>50
>pont nordって庄司薫、許すまじき!の人では?
その辺は、映画マニアですので、あっさり割り切れます
むしろ、ストーリーとかどうでもよくなっちゃうことも多々あります・・・
ついでに言えば、僕は「人を嫌う」という行為は、非常に自己中心的で自分勝手な行為だと思うので、庄司薫さんのことも「嫌い」ではありません
>水前寺キヨ子の唄~
その辺の、ちょっとヘンテコな感覚がマニアを唸らせます(笑)
全体に、すごく映像が芸術的で凝っていますね
当時、学生達のあいだで、そのように高い評価を受けていませんでしたか?
映画の話になると僕は止まらないのですが(笑)例えば仲のよい友達がやってきて、ベッドに仰向けになって演説をぶつシーンなどは絶妙でしたね。マニア泣かせなんですよ(笑)
たしかに原作そのままと言えば、そのままなんですが(笑)
>最近、再販された~
受け入れられるのではないでしょうか?最近、昔のフォークとかニューミュージックとか流行ってるし、最近のファッションって当時のものが廻って来てるでしょ
僕が持ってる「赤頭巾ちゃん~」は多分それで、作者の「2000年における後書き」っていうのがついてたと思う
57:pont nord
02/11/17 03:58
*607さん
>>51
>フラニーが演劇の道を歩んだかどうかは疑問
その答はゾーイの今にあるのではないでしょうか?
以前に書いたように、彼はフラニーが通ったのと同じ道を通過してきているのですが、現在も胃潰瘍などの様々な苦しみと闘いながら、それでも役者を続けています
その彼によると、
「神の為に役者をやるなら、くしゃみをしている暇もない。じゃなきゃ、ヨリックのシャレコウベになれないよ」
となるわけです
(ただ、この言葉の意味がわかりにくいですよね。しかし、作品の根幹に関わる重要な部分ですので簡単には説明できません。いずれ僕の解釈も披露するということで・・・)
>ホールデンは将来、作家になるのか?
ホールデン=(ニアリーイコール)サリンジャーと見なし、また彼をただの反抗者ではないキレ者、と考えるとすれば、ホールデンが作家になることは自然に思えます
仮にならなくても、どちらにせよ人生をなげてしまうことはないでしょう
それは、彼の描く現実逃避のイメージ、「おしでつんぼの生活」における積極的で前向きなイメージに表れていると思います
肝心の「ホールデンは、ほぼサリンジャーか?」の命題については、「ライ麦~」において検証することが可能だと思います
また、いずれ
58:pont nord
02/11/17 04:29
*607さん
>>52
>ふたり芝居は好きなんですが~
ふたり芝居、いいですね!
細川俊之と木ノ実ナナ?!文句なしですね!(秀同秀同)
>>53
>おもいつきですが、フラニーもホールデンもあちらの世界に行きたいけど、結局、行く勇気のない二人~
まさか、「あちらの世界」というのは、あの、綺麗な花がいっぱい咲いていて、渡るのにお金がいると言われることで有名な、あの「川」の、「向こうの世界」のことではないでしょうな(笑)
しかし、「自殺」ということで考えてみれば、フラニーは、したいとか言いながら、出来ないタイプかな?(笑)
でも、ホールデンは普通なら自殺をしたいような精神状態に陥りながら、以前に僕が「逃避をしない存在」と言ったように、無邪気で子供のよう打算がなく、自殺をしようとはしませんよね
ジミー・キャッスルでしたっけ?
いじめっこに抵抗して窓から飛び降り自殺をした少年の行為を好きだと言いますが、彼自身は自殺について、前述した「おしでつんぼの生活」という代替案を持っています
アントリーニ先生が言う「底の無い落下」というのも、自殺へ向かう精神状態のことを指摘しているのだと思います
でも結局、ホールデンはそのメッセージにも、それほど関心を示しません
それは既に、彼が「自殺」という精神状況を乗り越えているからだと思いますが
59:pont nord
02/11/17 05:15
>>45
>サリンジャー自身が「フラニーとゾーイ」を映画だってコメントしたの?
「ゾーイ」の冒頭に、作者の「前書き」というのがありますよね
そこで「これは小説などでは全然無く、散文による一家の記録映画である」というコメントがあります
僕もウィノナ・ライダーが大好きなんですが、醜聞に関しては、人間、誰でも間違いを犯しますので、我々ファンだけでも彼女のそばにいて、彼女を信用してあげるべきだと思います
「ギルバート・グレイプ」ってジョニー・デップの出世作のことかな?
ウィノナ・ライダー出てたっけ?妹役だったかな?
僕はあの、街に流れてきた恋人役の女の子が好きだったけど、女優の名前が思い出せない・・・
ウィノナと言えば「恋する人魚たち」が大好きだけど、知ってる?
子役時代の彼女には、抜群の魅力があると思うのですが、タイトルは忘れたけど、彼女が小学生くらいの頃に出た映画で、
開いた聖書をかざして、泣きそうになりながら、喧嘩する両親の部屋に仲裁に駆け込んで行く、という印象深いシーンのある映画を観たことがありました
今になって思うと、サリンジャーなんかとの、関連性を感じるんですよね・・・
P.S.これからもがんばります。ありがとう
>>55
>「サリンジャーを正しく葬り去るために?!」
情報ありがとう
でも「~もうなにも~」より、こちらのタイトルの方が納得出来ますね
サリンジャー本人も「生まれてすぐに、ガスを嗅がせて死なせるべきだ」と小説の中で言っているように、このような態度の方が、サリンジャーに対する「社会」の姿勢としては健全なのではないかと思います
「葬り去る」べき存在ですよね!(笑)
しかし葬送が完了したのか?
検分してみなくてはなりますまい
大型書店に行ったら、今、置いてるのかな?
場合によっては、父無くしてこの世に生を受けた、あの「神の子」のごとく、「復活」させて進ぜねばなりますまい(笑)
60:pont nord
02/11/24 03:01
「ゾーイの言う、『神の為に演じる、神の女優』って、どういうこと?」
『ゾーイ』の中で、ゾーイがフラニーに言う、
「神の女優になればいい、神のために演じるんだ。
こんな素敵なことはないだろう」
という言葉ですが、これは解釈が難しいですよね
一般に、ご都合主義的なキリスト教徒でしかない(笑)、我々日本民族にとっては特に、
この小説の編纂にあたりゾーイがバディに忠告したように、「怪しげな神秘主義」の、きな臭さを感じてしまうのではないでしょうか(笑)
しかしマジメな話、この「神の仕事」という概念は、実はサリンジャーが敬愛し懇意にしたであろう、フィッツジェラルドの「グレート(華麗なる)ギャッツビー」に、既に登場していたんですね
知ってました?
「(筆者要約)ギャッツビーにとって、名前を変え、富裕な生活を送ることは、神の仕事であった。その点において、彼は神の子であった。
その神の仕事の計画はデイジーの登場によって、歯車が狂ってしまうのだが、それでも彼は最後まで、その仕事に忠実であり続けた」
というのが、クライマックス手前のギャッツビーの素性の秘密が明かされるところにあります
つづく
61:pont nord
02/11/24 03:05
つづき
「夢のような富裕な生活」に対する妄想を、彼があまりにも真摯に渇望したがゆえ、彼はそれを「神の仕事」と言えるまでに高めてしまったわけです
軽蔑すべき存在である筈の彼のことを、最後には「彼は全然、悪くなかった。悪かったのは彼の周りにいた連中だ」と、ニックに言わしめたのは、この事実なのではないかと思います
(え?「デイジーに対する想い」ではないのかって?
それは違うと想いますよ
既に再会した時点で二人の気持ちは擦れ違ってしまっているんですね
ニックは、ギャッツビーのデイジーに対する、恐ろしく空疎な意見、「それは彼女の個人的な問題に過ぎない」を聞いてしまっています
そして、その言葉は彼の「神の仕事」に端を発しているのではないでしょうか?)
というわけで、名作「ギャッツビー」を通して、「神の仕事」の概念に、間接的に迫ることが出来るのではないかと思います
(しかし、ひょっとしたらサリンジャーを理解するより、ギャッツビーを理解する方が難しかったりして・・・)
個人的には、バディとシーモアの部屋のホワイトボードに書かれていた、バガバッド・ギータの言葉、
「(筆者要約)仕事は、仕事そのものの為にするものであって、それのもたらす結果の為に行うのではない。結果にとらわれてはいけないし、そもそも結果を案ずる権利など端から与えられてはいない!」
と、ほぼ同義かなぁ?なんて思いますけど
僕はこの言葉に非常に感銘を受け、お蔭で自身の行動に対する迷いが無くなりました
(でも、こんな風に言うと、どうしても、神秘主義にイカレてしまったように聞こえるでしょ(笑)まぁ、そう思われる分には、別に問題はないんですが(笑)
「神秘主義にイカレてしまった人間は、決してジョークなど言わない」ことだけは、確認しておきましょうかね!(笑)
62:607
02/11/24 14:23
Pont nordさん
>まさか、「あちらの世界」というのは、あの、綺麗な花がいっぱい
>咲いていて、渡るのにお金がいると言われることで有名な、あの
>「川」の、「向こうの世界」のことではないでしょうな(笑)
ちがいます、ちがいます。
ホールデンもフラニーも、家出ができる人間ではないというだけの
意味です。
(もちろん、ふたりとも自殺もしないでしょうが・・・)
家出する根性すらないと言えば、随分情けないですが、そこがいい
のだ・・・と、まあ、そういうことです。
63:607
02/11/24 14:29
「神のために演じる」ということばにどれほど重要性を与えるべきかは
いささか疑問です。
Pont nordさんが引用している「仕事は仕事そのものの為にするもので
あって、それのもたらす結果の為に行うのではない」という意味に解釈
するのが、一番まっとう(?)かと思います。
フラニーは「人に見られたい(これって非常にロマン主義的な態度とい
えるように思います)から、何かをする」ということに憤りを感じてい
る。
そのフラニーに「人に見られるためではなく、神のために仕事をしろ」と
ゾーイは言っているわけです。
これを神秘主義的に解釈するのは、やはり???のように思います。
64:607
02/11/24 14:35
結局、現在のフラニーにとって大事なのは、何をするかではなく、
何のためにそれをするかではないかと思います。
私には、彼女が演劇にそれほど思い入れをもっているとは思えま
せん。
だから、フラニーが女優になったというPont nordさんの意見には
同意できないのですが・・・
65:607
02/11/24 14:37
ホールデンが作家になるかどうかについてーー
小説を書く決意で終る小説っていくつかありますよね。
プルーストの『失われた時を求めて』とか、サルトルの『嘔吐』
とか。
でも、このふたつの作品には、文学的創造の効用というか、救済
的あるいは治癒的価値の啓示があるわけです。
ところが『ライ麦』にはそれがない。
ホールデンが受けた啓示は、この世界はそれほど捨てたもので
はないということは教えてくれても、小説を書くことについて
は何も言っていないんですね。
66:607
02/11/24 14:39
無論、ホールデンという人間を創造する際、サリンジャーが自分
の高校時代を思い出していたことは確かでしょうし、おそらくホー
ルデンはサリンジャーのある部分を下敷きにしていると思います。
しかし、それと、ホールデンが作家になるという話は、全く別問題
かと思います。
『ライ麦』にせよ、『ゾーイ』にせよ、主人公が啓示を受けて、
作家として、あるいは女優として大成しましたという話にしてし
まうと、つまらないと思うんです。
ホールデンもフラニーも、いまのままでは生きていけない。
そんな彼らが、ある啓示、それも天のかなたから来る啓示ではなく、
非常に身近なところからくる啓示をうけ、なんとか生きていける
のではないかと思うようになる。
そういう話だから、面白いのであって、啓示を受けて、芸術家と
して成功するという話なら、われわれ一般読者から遊離した物語
ということになってしまいませんかね。
67:607
02/11/24 15:10
以前、サリンジャーの世界に登場する人間たちを三種類に分けた
ことがあります。
1) 子供や尼さんに代表される、全く気取りのない人物。
2) タッパー教授に代表される、ひとに見られるために何かをす
る人物。
3) 1と2の中間に属する俗っぽいけれど、無垢な人物。『ライ麦』
でホテルのバーにあらわれる田舎からきた三人の女や、『ゾー
イ』の「ふとっちょのおばさま」。
68:607
02/11/24 15:11
では、フラニーは1、2、3のどれに属するのか。
おそらく、フラニーの絶望は、自分自身が一番嫌っている1の人
間になってしまうことではないかと思います。
つまり、最初は舞台で芝居をすることが楽しくて、芝居をしてき
たのが、いつのまにかひとに見られ、賞賛を受けるために芝居を
している自分に気づくーーフラニーはそれが嫌なのでしょう。
(おそらくそこがホールデンとフラニーの最大の違いかと思いま
す。ホールデンはだれそれは「嫌なやつ」だと思いますが、自分
がその「嫌なやつ」の同類になるとはおもっていないようです。)
69:607
02/11/24 15:13
ゾーイの言う「神のために芝居をする」というのは、1の無垢に
戻ることを意味しているのでしょうが、それが、即、フラニーの
救いになるかどうかは疑問です。
無垢に戻ることができれば苦労はない。
それができないからフラニーはまいっている訳です。
ゾーイの最後のことば(「ふとっちょのおばさまでない人間はいな
い」「ふとっちょのおばさまはキリストである」)は、1、2、3の
区分けそのものを無効にしてしまう。
もしそれが本当なら、フラニーはタッパー教授を憎まなくてもよく
なるし、自分がタッパー教授のようになることを恐れる必要もなく
なる。
だからこそ、「神のために芝居をしろよ」と言われても、救われない
フラニーが、このことばによって(救われたとは言わぬまでも)一
瞬の安らぎをえたように思います。
70:607
02/11/24 16:47
>>フラニーが演劇の道を歩んだかどうかは疑問
>その答はゾーイの今にあるのではないでしょうか?
これにコメントするのを忘れていました。
ゾーイが演劇の道に進んだことに何か積極的な意義を見い出し、
それがフラニーの救いにもなると思って、薦めているというな
ら、そうも言えるかと思います。
ただ、ゾーイが演劇に救済を見い出しているとはとても思えな
いんですね。
ゾーイは俳優。バディは作家。
シーモアは・・・どうでしたっけ?
あとホールデンの兄さんも作家かな。
ただ、それが何を意味するかというと・・・そのあたりのことは
何もテクストには書かれていないんですよね。
結局、俳優も作家もひとつの職業という意味しかないのじゃない
でしょうか。
71:607
02/11/24 16:51
ホールデンもフラニーも今日という日をどう生きればいいかわか
らずにいる。
そういう人間に職業を云々しても仕方がないような気がします。
彼らが将来、どのように生きるか、どんな職業につくかは2の次、
3の次。
とりあえず、今日一日を生きられるようにすることが急務であり、
彼らの受ける啓示は、その部分においてのみ有効である。
私はそのように理解しているのですが・・・
72:吾輩は名無しである
02/12/07 22:08
『バナナフィッシュ』一行目。
広告マンが97人もホテルで何してたのかな。
73:吾輩は名無しである
02/12/07 23:44
>>72
全米広告マントライアスロンコンテスト
74:pont nord
02/12/08 05:49
>>72
そういえば、いくらなんでも97人は多すぎるよね
旅行代理店か何かだと思ってたけど、ひょっとして研修旅行か?
なにかのイベントがあった日なのかな・・
え?トライアスロン?(笑)
>607さん
作品に対する印象って、人によって随分違うんですね
翻訳読みすることによって随分変わるとは思うんですが、607さんも原文で読んでますよね
僕のつたない文章力にもよるのでしょうが、なんだか僕の意見もうまく伝わってないようだし・・
僕自身も、核心の内容に触れずに、外堀ばかりなぞるような、まどろっこしい言い方をしてますからね
やはり、サリンジャーの扱う概念は、僕が思った以上に難解なんでしょう
それにサリンジャーは、親切丁寧に解説なんてすることなくて、いつも捻って捻ってジョークで終わりますもんね(笑)
しかし!
大事なのは「意見の一致」ではなく「他者の存在を認める」ことであると思います!
「聞く耳を持つ」ことですよね
てなわけで、もう少し喋ります
75:pont nord
02/12/08 05:55
「フラニーはそのことを忘れているけど、
ホールデンとゾーイは『この世の中には美しいものもあ
る』
ことを知っている」
具体的な場所を示していなかったですね?
・ホールデン
エージャーズタウンに向かうバスの中から、雪のボール
を作りながら見た、
一面に雪を被った、夜の町の景色
多くの子供たちとの出会い
フィービーに「お兄ちゃんの好きなもの言ってみて?」
と言われて、
否定されながらも頑として譲らなかった、
「こうやってフィービーと話をしていること」
etc...
・ゾーイ
たまたま窓から覗いた時に見た、ゴッホの絵の赤色と同
じ色の帽子を被った少女と、
そのペットの犬の遊戯的再会シーン
どちらも「美しいもの」の絶対的存在を示しているのでは
なくて、
彼らは、その存在に気づくことが出来る、ということを示
しています
ゾーイが引用するイエスの言葉
「神の国は俺たちの胸の中にある、それに気づかないのは
、俺たちの想像力が足りないからさ」
なんかも同じかなぁ、なんて思います
76:pont nord
02/12/08 05:57
フラニーとは逆で、ホールデンやゾーイと同じ側にいるバ
ディーの言葉を借りれば、
「例え、多量に出血しながら、瀕死の状態で道端に倒れて
いても、
道の向こうから、品物を一杯に積んだ篭を、頭の上で見
事にバランスさせながら、
歩いてくる女性を見かけたら、どんなに苦しくても肘を
ついて体を起こし、
彼女たちが無事に坂を越えていくのを見届けなくてはい
けない」
となるのでしょう
フラニーは自身のエゴに関する考えに捕らわれるあまり、このような
一歩ひいて周りを見回す余裕が無くなっているのではないでしょうか
そのあたりは、レーンとの会話にも表れていますよね・・
77:pont nord
02/12/08 05:59
「ホールデンとゾーイの共通点」
・頻発するカースワード(goddamn, chrissake, etc..ク
ソッ、チキショウメ)
・面白くもないような顔でジョークを連発
等々、同じ異常早熟天才児として(?)、多くの共通点が二
人にはあると、僕などは思うのですが、
前述した「神の仕事」に関しても、実は共通した考えを持
っている(既に持っていた)と思える点があるのです
・ゾーイ
「この近くのどこかに、自分が自動車に牽かれることもな
く、精神科医になれたのは、
「神の意志」によるものだ、と感じているような医者が
いるような気がするのだが、
どうしても思い付かない」
・ホールデン
(ストラドレーターに殴られたあと、アックリーにカソリ
ックに改宗する方法を聞いて)
「やっぱりいいよ。どうせ俺なんかが出家したって、「間
違った種類」の僧侶達に囲まれるのがオチさ」
78:pont nord
02/12/08 06:01
注目すべきは、非常にさりげないのですが、ホールデンの
言う「間違った種類の(wrong kind of)」という言葉です
「マヌケな僧侶」とか「バカ者ども」とかいう、単純な悪
言ではないんですよね
ゾーイは精神科医を「神の意志」によりなったものと、そ
れ以外という風に区別していますが、
ホールデンも、自分に道を教示してくれるべき僧侶につい
て、
「正しい」ものと「間違ったもの」の2種類を、さりげな
く区別してしまっています
実は、全く同じ事だと考えられませんか?
また、以前に僕が指摘した、パンシー校のポスターの嘘に
ついての発言、
「『頭脳明晰にして優秀な生徒を造り上げ、世に輩出する
』なんて嘘っぱちさ。
ま、二人はいたか。でも、二人じゃどうしようもないだ
ろ」
と同じで、
決して、無責任に人のことを悪く言うのではなく、自分が
否定するものについても、
冷静で公平な洞察を忘れない、彼の性格が現れているとも
思います
そこが、フラニーとは違って、ホールデンが「大人である
」ところではないかなと思いますけど
79:pont nord
02/12/08 06:04
さて、以下は結構な僕の夢想なんですが(笑)
「primitiveな『ライ麦~』に対して、より明確化した「
フラニーとゾーイー」という対比、発展」
さて、前述した箇所を、
「ホールデンが既に、ゾーイと同じ「神の仕事」に関する
概念を語っていた」
部分だと考える場合、やはり疑問を感じて引っかかってし
まうのは、
「なぜ、そのような、別の小説において中心的テーマにな
るような概念が、
そこまであっさり、さりげなく流されてしまっているの
か」
ということだと思います
それに対する僕の考えは、繰り返しになりますが、
・『ライ麦~』はサリンジャーの作家人生を掛けた渾身の
一作であったから
ということだと思います
結果として『ライ麦~』は
・種々の概念が垂れ流し状態
・詰め込めるだけ詰め込んだため、パンク状態
・説明不足
であると言えると思うのですが、もう一つ、この状態を生
んだ積極的な要因の一つとして、
80:pont nord
02/12/08 06:06
「サリンジャーは『ライ麦~』を現代の「聖書」のような
ものにしようと考えていたからではないか」
と僕は思います
・長期的復読、解析議論に耐えるだけの深い含蓄
を持たせようとしたのではないでしょうか
しかしそのため、『ライ麦~』は「理解不能な難解文学」
としての側面を持ってしまい、
彼は様々な方面からの「誤解」に囲まれることとなり、結
果、彼の孤独感は一層深まることになったのではないでし
ょうか・・
てなわけで、沈黙し世間を避けて引っ込んでしまったサリ
ンジャーは、
『ライ麦~』における反省のもと、次回作では、『ライ麦
~』において示したいくつかの主要な概念について、
クローズアップして、よりわかりやすく示してみようとい
う思いに駆られたのではないでしょうか
しかし、その簡素化の意図に反比例して、書いて書いて書
き続けていた彼の作家としての技術や欲求は、より高度な
ものへと成長しています・・
そのせめぎあいの中で「フラニーとゾーイー」は登場した
のではないでしょうか
これに関しては次回と・・
81:607
02/12/08 14:58
Pont nordさんは、「作品に対する印象って、人によって随分違うんですね」
と書いておられますが、私自身は、Pont nordさんの考えと私の考えがそ
れほど隔たっているとは思えません。
今回のPont nordさんの書き込みなぞ、私はほぼ全面的に賛成ですから。
(Pont nordさんが引用している箇所を読んで、ひとつひとつの場面が脳
裏によみがえり、「そうそう、そうなんだよね」とひとりごちました。)
ただ、私がこだわったのは次の2点です。
1) ホールデンはフラニーより大人である。
2) 将来、ホールデンは作家に、フラニーは役者になる。
82:607
02/12/08 14:59
1) について
考えてみると、要は「大人」とは何かという定義の違いかなと思います。
Pont nordさんは、ひとつの考えに凝り固まらず、公平な見方を保てる
ホールデンを大人だと言い、私は、自分がかかえている問題を明確に認
識し、ことばで表現できるフラニーを大人だと言っている、それだけの
違いかなという気がしてきました。
その意味で、『ライ麦』において未整理のまま提示されたテーマを、『フ
ラニーとゾーイ』がクローズアップしているというPont nordさんの考え
に賛成します。
(「よりわかりやすく示そうとした」かどうかは、少し疑問です。私は「よ
り発展させようとした」と言いたくなるのですが、このあたりが私とPont
nordさんの違いーー結局はことばの使い方の違い?ーーなのでしょうね。)
83:607
02/12/08 15:01
wrong sort of~についても、同感です。
ホールデンにしろゾーイにしろ、特定の職業がいいとか悪いとか言っている
わけではない。
大切なのは、なんの仕事をするかではなく、なんのためにその仕事をするの
かということなわけです。
だからこそ、私は彼らが作家や役者を特権視しているわけではないと思って
いるのですが、いかがでしょう。
84:吾輩は名無しである
02/12/13 22:00
フラニーに必要なのはゾーイのたわ言でなく
新鮮な空気だと思う。
グラース家は母親の煙草と兄の葉巻、
そして塗りたてのペンキのにおいで息がつまりそう。
85:吾輩は名無しである
02/12/13 23:02
>>84
では、母親の作ったチキンスープは必要ない・・・?
86:pont nord
02/12/16 02:38
>>82=607さん
>「大人」の定義が違うのでは?
おっしゃるとおり
僕は「大人」という言葉を、社会的な意味での「大人」としてではなく、精神的な意味での「大人」として扱っています
社会的立場から見れば、ホールデン君は「大人」どころか、「ワルガキ、クソガキ」ですよね
ホールデンは、ルームメイト達にも、そう罵られていますしね・・
ただ、ホールデン自身は、
「時には、16才よりも遥かに「大人びた」ように振る舞うこともあるんだ」
と、言いますが、
それは、彼のどの行動を示していると、皆さんは思われますかね?
「そんなとこ、ねぇよ」
「電話ごしの低音ボイスで、女を口説くところか?」
「シアトル女を、ダンスにエスコートするところか?」
と、言われる方もいるかも知れませんが(笑)、
僕が注目するのは、彼の「自省心」ですね
小説の最初から最後まで、彼は何度となく、自身の言葉をより正確に言い直す行為を続けますよね
そして、彼の口癖は、「そいつは認めなくちゃいけない、自分に嘘はつけない」なんですね
皮肉ですが、彼はこの言葉を、まるでフラニーの「イエスの祈り」のように唱え続けています
87:pont nord
02/12/16 02:41
つづき
自分自身の内面にある「エゴ、利己心」といったものと闘った経験をお持ちの方なら、ホールデン君のこれらの行為が、実はどれほど難しいものであるかということが分かると思います
経験の無い人には、さっぱりわからないかも知れませんが、非常に強い精神力が必要だと思います
これが出来るくらいなら、充分、大人と呼んでいいと、僕は思います
そういった、「精神的な強さ、落ち着き」を見て、僕は「大人」であるかどうかを判断していますね
そしてそれは、そのまま「他者への思いやり」に繋がると、僕は思います
ということはですよ、
『ライ麦~』において、登場人物の性格的「前提」として扱われていたテーマが、「フラニーとゾーイー」で再登場している、ということになりませんか・・?
ここが、僕が「「フラニーとゾーイー」は『ライ麦~』をよりわかりやすく示したもの」と、考えるところなんですけど・・
それについてもう少し詳しく、話してみましょう
88:pont nord
02/12/16 03:09
>>83=607さん
>~作家や役者を特権視しているわけではないと思うのですが、どうでしょうか?
同感です
僕は「神の仕事」について、また、ホールデンが作家になるということについても、その作家や役者という、「職業、職種を選択する」ということこと自体に、
救済や、意味、あるいは癒しがあるとは言っていません
アントリーニ先生も、ゾーイも、バディも、それぞれがその職業を勧めるのは、それが、彼ら個人個人にとっての、天職であると感じているからです
職業を勧めるということについて、この3者3通りが存在するわけですが、皆、「おまえは生まれながらの~なんだから、~になるべきだ。いや、いずれなるんだよ」
みたいなことを言ってますよね?
だから、職業(職種)自体はなんでもいいんです
石切り工夫でもいいし、例えば、スーパーのレジ係でも構わないんです
人材の適材適所ということについて、ゾーイが語る場面がありますよね
「まぬけな大学教授でも、一皮剥いてみれば、実は石切り工としては、大変に優秀である、といった場合が少なくないんだ。僕はそういうのを実際に何人か見たことがある」
と言う場面があります
冗談に聞こえますが、完全に冗談ではありません
どの職業を選ぶかではなく、発見した、自分のやるべき仕事に、「どう打ち込むか」ということなんですが、これは、なかなか分かりににくい概念でしょうね
サリンジャー作品には頻繁に登場しているんですけど
また、今度、喋ります
89:pont nord
02/12/16 03:47
>>87の続きなんですが・・
以前に僕が間違った指摘をしてしまった、「「フラニーとゾーイ」はなぜ、難解か?」についてなんですが、
それについてずっと考えていて、サリンジャー作品のほぼ全てに当てはまるであろう、キーワードを発見しました
「(ほぼ意図的に)省略された『(議論における)高度な前提』」
です
これを行う作者の意図は2つ
・基本的には、いちいち前提を喋るのが、まどろっこしくて面倒だから(作品のテンポが悪くなる、冗長になる)
・(前提の)わかる人だけにわからせたい。(わからない人は入ってくるな!わかる人を、わからない人から守るため?)
発生の要因は
・小説内で扱われる議論、概念(、ジョーク)が、非常に高度なものであるから
ある概念について、それについての一般的な見解と、それに伴う一般的な反論、またそれについて、
よく言われる気の利いた一言といったものまでが、すべて「前提」として省略されてしまっていて、
読者はそれらを前提として、説明されなくても認識していなければ、始まった議論を理解できない、というわけです
嫌味ったらしいですよね
これが、僕が以前に、「サリンジャーの悪意」と言ったところの本質のようです
つづく
90:pont nord
02/12/16 04:22
つづき
ブレイク前の吉本新喜劇の藤井隆さんの実話で例示してみます(笑)
お笑いは「見るもの」で、「行う」ことに全く興味のなかった、恥ずかしがり屋の彼は、お笑いの「専門用語」についても、全く無知でした
場数も踏んだ或る日の、本番前の稽古の真剣な打ち合わせの場面で、先輩が新入りの藤井に指示を出します
「おい、そこは藤井、「てんどん」でいったら、面白いんちゃうか?お前が「てんどん」で行こうや」
「そやそや、藤井、「てんどん」で入って来い」
「は、はい・・・」
彼はとりあえず生返事でごまかしましたが、「てんどん」という「お笑いの専門用語」を知らない彼には、
熱心に先輩達が打ち合わせているのが、一体なんのことだか、実際はさっぱりわかっていませんでした
かといって、今更、みんなが当たり前につかっている「てんどん」という用語の意味を聞くのは、あまりにも場違いだし、
「お前、そんなことも知らんと、舞台に立ってたんか!」
と怒鳴られそうで申し訳なく、一人思い悩んだ彼は、
「僕みたいな、お笑いの勉強すらしたことのない人間が、新喜劇の舞台に上がるなんて、やっぱり失礼や!神聖な舞台や、頑張っているみんなへの、冒涜や!!」
と結論をだし、辞表を持って、編成デスクへと向かいます・・
趣味で(しかも無断で)、場違いな暴露話を引用してしまいましたが(笑)、
ポイントは「てんどん(繰り返し、かぶせ)」という「お笑い専門用語」を「前提」として知っておかないと、当たり前に喋っている内容もチンプンカンプンであるということです
91:pont nord
02/12/16 05:20
つづき
「てんどん」なんて芸人は知っていて当然だと皆、思っているので、議論はそれを前提にすすむわけです
この前提の省略というのが、サリンジャー作品によく見られるようです
多くの読者にとって、彼の作品を難解に感じるのは、この省略されている前提の部分を、推測できないからではないでしょうか?
僕自身にも、なんだか、知ったかぶりの嫌味ったらしさが匂ってきた懸念がありますが、恐れることなく先に進みましょう(笑)
サリンジャー作品全体を通して、特にバディの話ぶりに顕著なんですが、この「省略された前提」は、シーモアにもゾーイにも見られます
『ライ麦~』に至っては、作品自体、作品全体が、この隠された前提の上に成り立っていると思います
非常に分かりにくい訳ですな
数が多く、個別に指摘するのが難しいので、とりあえず思い付く一例だけ、「ゾーイ」の冒頭の「バディからの手紙」の最後の部分を例示しようかと思ったのですが、
あまりにややこしいので、簡単に指摘するだけにとどめます
(僕自身の頭も整理がつかない(笑)
92:pont nord
02/12/16 05:21
この最後の部分の「僕のコシツ」とか「お互いにビッコどうしだ!」とか、ブーブーの「かしこ過ぎるみたい」とか、
シーモアの「いやいや、それは最大の悪趣味だ!」とかって、よくわからなかった人も多いのではないかな?
シーモアはブーブーの発言を予期して、それを前提に更にその先に議論を進めてものを言ってるけど、
ブーブー自身もバディが書き上げた小説がウケがよさそうなことを前提に、「逆にウケを狙いすぎ」と深読みして突っ込んでるし、
最後のバディの台詞も、ゾーイにおせっかいと突っ込まれるのを予期して、一見そう見せずに自身を卑下する形で、わざとお節介を演じて、それで苦笑いを取ろうとしてるんですけど、
わかった?
なんかあまりにもややこしくて、説明のしようが・・
こういうのを、サリンジャーは延々繰り返すんですよね(笑)
そりゃ、難解だわ・・(笑)
この「前提の省略」こそが「サリンジャー作品は難解」の元凶ではないでしょうか?
こういうのを、一個一個、紐解いていかなければ、作品の本質が見えてこないわけですね・・(ウッ、ため息をついている場合ではない!)
がんばりましょう!(笑)
ま、やっぱりお笑いについて詳しい方が有利だと思います
漫画家の いしかわじゅん も、「シリアス漫画とギャグ漫画は手法は変わらない」と力説してますもんね(笑)
93:吾輩は名無しである
02/12/16 05:23
>>84
それって、論理的な矛盾、ないッスか?
94:吾輩は名無しである
02/12/19 23:24
『ゾーイ』でのフラニーの目覚めの描写がいい。
苦悩する魂の持ち主というより、快活な女の子といったかんじ。
チキンスープを食べなくたって死にはしないよ。
チキンの匂いがチキンサンドが出されたレストランの記憶を
蘇らせてしまうわけで。(つまり、鶏が虎馬)
「太っちょのオバサマは・・・・・・キリストなんだ。」
相手の迷妄を指摘しつつ別の迷妄に誘い込む、タイミングを
見計らったくさい台詞。
ゾーイって、インチキテレビ伝道師みたいだな。
95:吾輩は名無しである
02/12/20 00:14
チキンスープは飲まなくても死なないかもしれないが、
チーズバーガーとコークを食べなければ死んでしまうらしい。
96:吾輩は名無しである
02/12/20 00:16
正確には
チーズバーガーは「食べる」
コークは「飲む」だ。
チキンスープは「飲む」?それとも「食べる」?
さあ、どっち?
97:吾輩は名無しである
02/12/20 11:04
ざっとスレを見ました…難解な読み方をする人も多くいるのですねえ。
感心しました。
もう一度、私もサリンジャー読み直してみよう。
ちなみにスレタイの作品中では『エズミのために』が一番好きです。
98:pont nord
02/12/22 00:45
先週の続きなんですが・・
「『省略された前提』=『第3ステージから始まるディベート』?」
先週の
・「省略された前提」
・例示=吉本新喜劇、藤井隆の「青き時代」(笑)
は、ちょっとわかりにくかったかな?と思うので、最近流行の「ディベート」に例えて、もう一度、説明させて下さい
皆さんご存じの方も多いと思うし、中には参加された方もいるのでは?と思いますが、「ディベート競技」ってご存じ?
個々の違いはありますが,大まかには、今回例示する、今年、関西で行われた、大学生チーム対抗の大会で使われたルールが基本的な流れになると思います
2つのチームに分かれて対戦するのですが、それぞれが今回扱われる命題、議題(ex.日本でも安楽死を行うべき、とか)について、クジなどで「賛成」と「反対」に分かれます
そして、双方が以下のステージを、交互にこなして行きます
第一ステージ
・反対or賛成の意見、根拠の陳述
第二ステージ
・第一ステージを踏まえて、相手チームへ反対質問and返答
第三ステージ
・第一、第三ステージの流れを踏まえた上で、最終的な意見、根拠の陳述
終了、審査員判定発表
・複数の審査員がそれぞれ、より説得力があり、論理的で納得のいく討論を展開できたと思うチームに投票
・より、多くの票を集めたチームが勝利となる
それぞれのステージが複雑化したり、流動化するかも知れませんが、だいたいこんな感じですよね?
つづく
99:pont nord
02/12/22 01:29
つづき
もう、お分かりだと思いますが、サリンジャーは常に「お話」や「議論」を、ディベートに例えるなら、この「第三ステージから始める」ような形で行っている、という訳です
ディベートで言えば、あなたは大会会場に遅刻してやって来た、不勉強な観客だとしましょう
既に大会は、最後の第3ステージが進行しています
(実際には、それぞれのステージが複数日に分かれて開催されることもありますが、今回は朝から晩の一日で、全て終わるものとしましょう)
たまたまあなたは、友達がステージに立つというので見物に来ただけなので、今回の議題すら知らなかったとしましょう
この状況であなたは、今回の「議題」、そして第一、第二ステージにおいて、どのような「討論」が繰り広げられ、どのような「意見」が述べられたのか?
そして、それらの議論がどのような「変遷」を辿って成されたのか?
これらのことを、あなたはどこまで「推測」出来るでしょうか?
サリンジャー作品を読むにあたって求められるのは、まさにこの、
「第三ステージから、それ以前の展開を「推測」できる」
技能、能力、というかむしろ「可能性」ではないでしょうか?
(付記しておきますが、全てを理解しなくても、作品を鑑賞することは可能です。前出の”いしかわじゅん的”に言えば、ギャグの引用の元ネタが分からなくても、それで読者が笑える場合があるように・・)
「議題」くらいは推測出来ても、第一、第二ステージがどのような「変遷」を辿ったかを推測するのは至難の技です
しかし、これが比較的に、容易に出来る場合もあるのですね!
それは・・ つづく
100:pont nord
02/12/22 02:46
つづき
慧眼な方はもうお分かりだと思いますが、それは「自身も同じ議題をディベートした経験がある」場合です
ということは、僕が何を言いたいかも分かりますよね?
すなわち、
・サリンジャーと同種の体験をしていれば、サリンジャーを理解するのは比較的に容易である
ということです
逆を言うと、
・サリンジャーと同種の体験をしたことのない人は、作品理解が困難
ということも、言えるでしょう
「同種の体験」というのは、この場合「議論」や「思案」、「思索」と言えるかな?
僕が以前に「グループ1」に分けた(前スレ)、「概念提示」的作品群が主な対象になると思うけど、
例えば「ゾーイ」で言えば、
・「神」の存在って、なんだそりゃ?
・「イエス・キリスト」って、誰?悪魔くんのクラスメート?
・「エゴ」って、何?新人アーティスト?
・「複雑な愛」って、普通の「愛」と、どう違うの?一夫多妻制?
・ニューヨークを離れてフランスで仕事するって、どういうこと?
などなど、と言ったことに対して、読む以前に、「議論」や「思索」、「思案」を重ねたことが、あるのか、ないのか?
ということですね
以前に「サリンジャー作品はアメリカ人でなければわからないことが多い」と指摘されたことも、同じことですよね
あの時、僕はその意見を否定しておきましたが、一理あるとは言えますね
(究極的には否定されるべき指摘だと思いますが、蒸し返すのは止めましょう(笑)
さて、僕があのホールデンお気に入りの「リチャード・キンセラ」少年(「脱線!」)のように話せていることを祈りながら、
次回は、サリンジャー作品における「お笑い、ユーモア」の重要性について、もう少し、しつこく喋るぞ!(笑)
(でも、実際は「アントリーニ先生」やD.B.のように嫌がられてるのかなぁ・・?(笑)
101:pont nord
02/12/22 03:16
>>94
>『ゾーイ』でのフラニーの目覚めの描写がいい。
同感
小説全体を通して、フラニーは非常に快活で、可愛らしく魅力的に描かれていますよね
>苦悩する魂の持ち主というより、快活な女の子といったかんじ。
それって、サリンジャーは意図的にそう描いていると思うよ
フラニーを、実は苦悩していない存在として描いてると思う
>>97
>~「エズメのために」が好きです。
いつも思うんだけど、僕はもう少し詳しく、どの部分が好き、とかいうのを聞きたいと思うんだよね
でも、解釈ではない単純な感想とかは、「「文学板」に相応しくない!」とか言って、すぐに煽っちゃう人がいるのかな・・
僕はそういうのもいいと思うんだよね
だって、2ちゃんねる板が、他板に比べて、一番閲覧しやすいんだもん・・
他に、閲覧しやすいサリンジャー板、誰か知ってる?
102:吾輩は名無しである
02/12/23 07:33
フラニーの本質は明るく善良で、宗教的煩悶は似合わない。
その精神の型はゾーイより母親に近い。
母娘は相似的に描かれています。
フラニーのハンドバッグとその中身は
ベシーが「自分の庭」と心得るバスルームのキャビネットと
その中の薬の群れのミニチュア版。
母が歯みがきの箱の注意書きを読むように
娘は精神に効能がある(と彼女が信じる)『巡礼の書』を
読む。 母同様に便器を椅子代わりにして。
これは漏れが発見した事実だ。
今後レポート等でこの点に言及する香具師は
参考資料として「2ちゃんねる」の名を明記しる!(うそ)
103:吾輩は名無しである
02/12/23 16:11
バナナを「違うものを撃った」というオチの話と考えるのは
レベル1ですか
104:吾輩は名無しである
02/12/30 21:57
『エズミ』で好きなところは、主人公が教会の掲示板にある児童合唱団の
子供の名前を全部読むところです。
エズミのフルネームもあったんだろうな・・・
>>97の代わりに答えちゃいました。
105:吾輩は名無しである
03/01/03 16:02
「フラニーとゾーイ」をお気にの風俗嬢から薦められたのが1ヶ月前。
ずっと忘れていたが、昨日何気なく買って一気に読んでしまった。
面白い。
早速、「ナインストーリーズ」も買って来た。
「大工よ~」「シーモフ」も取り寄せてもらうことにした。
「ライ麦畑~」って文庫では出版してないんですかね?
ハードカバーの本は可愛くないので嫌いです。
106:吾輩は名無しである
03/01/03 17:02
>>105
hakusui U books
107:吾輩は名無しである
03/01/04 01:09
>106さん
ありがとうございます。
「ナイン」「大工」「シーモフ」を読破してから取り寄せます。
108:吾輩は名無しである
03/01/06 03:16
>>104
なるほど、なるほど・・確かにそうでしたね
あれって、特別な目的もなく、そうしていたんですよね
一度は泣きベソをかきかけた、弟のチャールズの機嫌を、最後には見事に取り返してしまうところなんかもそうですが、
主人公のそんなところに、人間的な優しさを感じます
戦争が終わった、駐留キャンプでも、
「僕の読むような本は、急いで取りに行かなくても、たいてい最後まで残っている・・」
とか言うのも、ちょっと嫌味なところもあるけど、憎めない奴だなと思いました(笑)
そういえば、「ナイン~」は随分読んでないので、読み返してみるべし
もっと色々、感想聞きたい
109:吾輩は名無しである
03/01/06 07:55
そういや有名だったなってんで、図書館で手にとったけど、
最初のページで、つまらなくなった。煽りではなくて、
なんかもう、文章で引っ張ってくれないのよね。
「だから何?」で終わりそうな予感がしたので、ダメだった。
川上の「ヘビ」は、逆で、「おい、どうしてくれるんだ?」となったから、
良かった。ここで川上を出したのは、最近読んだからというだけ。
110:吾輩は名無しである
03/01/06 12:39
>109
あわない人にはただキモイだけかも
111:贋作鶏のジョナサン
03/01/06 15:29
「笑い男」わが青春の物語、個人的思い入れあり。
野崎さんの「ライ麦」訳はついて行けんかった。ノリがオジンだもの。
いい翻訳で味わいたい!
112:吾輩は名無しである
03/01/12 02:47
「サリンジャーって、おもしろいの?」
「うっ・・」
「言葉には常に隠された意味がある。そいつを読み取らな
ければいけないのさ!」
「ううっ・・」
新春コント初めで'03年の幕を切って落としてしまいましたが(笑)、
自らを「天才サリンジャー」の生れ変わりとして、日本現代米文学界の「ブッダ」、「クマリ」と称する私ですら(笑)、
「サリンジャー、面白くない」との考えには、煽りでなく実は同感です・・
スレタイの「ナイン~」の中では、「エズミ~」が米国で評価が高く、批評家賞かなにかをとったらしいですが、未だに僕には納得が行きません
海外では、「ナイン~」は「エズメ~」のタイトルで出版されることもあるようなのですけど、
サリンジャー作品を代表する一作だとも思わないし、少なくとも「ナイン~」を代表する作品だとは思えません
「バナナ~」や「テディ」、「対エスキモー~」の方が適切だと思います
売り上げを睨んでの出版社側の希望があったのでしょうが、この「エズメ~」ばかりが注目を集める米国の状況を見ていると、
サリンジャーもあまり正当な評価を受けていないのでは?と感じます
文芸誌の中で、その他大勢の他作家達の作品に混じって見ると、目を引く作品かも?というのはわかりますがね
作家を目指している友達に、「じゃあ、是非、これを読め!」と言って、「エズメ~」を勧めるかと言えば、僕は勧めませんね
むしろ、「ナイン~」の中の、その他の短編を勧めます
113:吾輩は名無しである
03/01/12 05:05
「では、サリンジャーの魅力って?」
各人色々でしょうが、僕はこんな感じかな?
1)既存の「小説」の概念、枠組みを打破し、それを越えるものを作ろうとしている(パズルとしてではなく)
2)思想、概念を提示
3)読者に媚びず、超然とまくしたてて、そのままなところ
4)とにかくおしゃべりで、ユーモア好き
5)ホールデンの繊細な優しさ
1、2を鑑みなければ、面白いと思えないのではないですかね
特に「ナイン~」はそうかな
3が読んでいて非常に気持ちの良いところ
また、1、2であるにもかかわらず、4であるところが人間的な魅力だと思う
そして、なんといっても5!
多くのファンが、難解でよくわからないにもかかわらず、多くのサリンジャー作品群に飽くなき挑戦を挑むのは、その裏に、これがあるからではないかと思う!(笑)
てなわけで、
皆さんは、「サリンジャーっておもしろいの?」と聞かれたら、どこが魅力だと答えますか?
(逆に、「ここが嫌い」とか「ここがくだらない」でもいいですけど(笑)
114:吾輩は名無しである
03/01/19 04:54
「『フラニーとゾーイ』の、どこが難解?」
前後半での対立概念の是非の倒立
@「フラニー」
・フラニーを・・・肯定
・レーンを・・・・否定
@「ゾーイ」
・フラニーを・・・否定
・ゾーイを・・・・肯定
難解になる要因(?)
1)肯定された存在と思えたフラニーが、後半で逆に否定されるというレトリック
(実際は「フラニー」の時点から、既にフラニーは否定されている?)
2)フラニーを否定する描写が、淡泊で(?)わかりにくい?
(しかも(しかし?)、内容においては、彼女は具体的に身体的変調を伴い、被害者として存在している。この部分は僕も疑問を感じるところ)
3)作家によって肯定され(?)、(構成上)フラニーを否定すべき存在のゾーイが、ストーリーの内容において、最後の場面までフラニーを否定できないという逆転的構成
(逆にこれが作品の深み?)
結果、フラニーとゾーイ、それぞれの(対立項の)是非の判断が、非常に複雑化してしまっている
というのが、僕の個人的な解釈による、「フラニーとゾーイ」は難解?な、理由の推察
肝心の「フラニー否定」に関する描写の指摘は、次回ということで・・
ただし、これらの考えは僕の解釈で、もちろん、解釈は人それぞれ、個人の自由であり、それに関して間違いや正解といった絶対的な判断はありえません
P.S. 否定、肯定というのは、人間的存在の否定等ではなく、「考え、信条」の否定ですよ!お間違いなく!
115:山崎渉
03/01/20 05:13
(^^)
116:吾輩は名無しである
03/01/21 23:30
シーモア序章、全然ついて行けてないんだけど、
これどういう意味で、バナナフィッシュにつながるの?
今、ようやく半分以上読んだけど苦痛になってきました。
まあ、2割くらいの文章は感じるものが無いでもないけど……。
117:吾輩は名無しである
03/01/25 20:10
『エズミ』の終わり近く、タイプライターに顔を伏せたXの姿は
前半でチャールズがみせる、シートに頬をのせて目をつぶる様子と
オーバーラップするんだよね。
Xが目を開いて見つける小箱は
チャールズの目と同じ緑色で・・・
戦争で少しおかしくなったXの精神は
バナナフィシュのシーモアと関連するのでは。
サリンジャー自身はどんな戦争体験をしたんだろう。
118:吾輩は名無しである
03/01/26 02:11
「サリンジャーの光と影~「ユーモア」と「絶望」」
「なぜ、そうなるのかは解らないけれど、不幸や困難といったものが芸術家の創作に好影響を及ぼすというのは、確かなことらしい」
とは、90年代を代表する、あるロックアーティストの残した言葉。(勿論、彼はそれを自ら証明して見せたわけですが・・)
てなわけで、もしあなたが作曲家でも画家でもなく、小説家であれば、さぞかし素晴らしい文学を残されることになるのでしょうが、
まかり間違って、コメディアンでもあったとしたら、どうなると思います?
放っておけばろくに注目されることもないだろうと考えて、僕は「ユーモア」についてばかり喋っていましたが、
実はこの「絶望(困難)」と一組にして考えるべきものだったのかも知れません
・サリンジャー = 常に人生における困難を描く作家
・それらの困難は、「ライ麦~」において、「絶望」として結実
「困難」を描くだけなら、文学においては別に珍しくもなく、逆に、安易に使用される俗っぽいテーマであるとすら言えるのかも知れません
しかし、サリンジャーはそれについて、いささか特徴的な、以下のような切り口を持っているのではないでしょうか?
逆に、以下のような切り口を持った作品は、「サリンジャー的作品」と読んでもいいのでは?とすら思います
つづく
119:吾輩は名無しである
03/01/26 02:15
(つづき)
「「ナインストーリーズ」の光と影~併存する「ユーモア
」と「絶望」」
・「絶望(困難)」と常に背中合わせに存在する「ユーモア」
・「ナイン~」は実は、このもう一方の要素「ユーモア」をもとに選出された?
この「ユーモア」というのも、文学において「絶望」とともに描かれたとしても、それほどは珍しくはないかも知れません
それは、緊張の強弱をつける、あるいはドラマを強調する、といった補足的機能で用いられる場合があるからなのですが、
しかし、サリンジャーにおいては、それは補足などではなく、その併存のあり方は、かなり特徴的なんですね
・@「バナナフィッシュ~」ーー「ユーモア」と「絶望」の、等温における完全な併存(混在)
これこそが「バナナ~」における最も重要なテーマの一つであり、またサリンジャーという作家の特徴を端的に表す部分だと思うのですが、それがどこかと言えば・・
絶望
・木にぶつからないように一生懸命に運転
・弾けもしないピアノを延々弾く..etc
(これらは孤独を表しているのかな?)
ユーモア
・(くどいけど)シビルとの会話
これらについては、まだまだ考えるべきところがあるかと思いますが、
次回は、サリンジャーファンの間の「禁断の果実」、今まではあえて避けていたのですが「絶望」について触れてみたいな・・
120:吾輩は名無しである
03/01/26 05:36
>>116
「シーモア序章」にも書いてたと思うけど、「バナナ~」には繋がらなくて、
「バナナ~」で死んだのは、作品の中でも触れられているけど、やっぱり、明らかに心理的には「バディ」の方であり、サリンジャー本人の疑似自殺行為と僕は思う
>>116の感覚は正しいと思う
野崎訳の「シーモア~」を愉しんで読める人って、ほとんど存在しないと思う
僕は野崎訳の「フラニーとゾーイ」ですら、あまり楽しんで読めない
(他の人の翻訳でも厳しいと思う。サリンジャーは文章がややこしいから、原文読みを余儀なくされる気がする)
小谷野敦の「サリンジャーを正しく葬り去るために」を読みたいんだけど、どの本に入ってるの?
アマゾンで調べたけど解らなかった
121:名無し
03/01/30 20:46
流れ者です。前スレ読めないのでどういう議論だったかよく判りませんが
「ナインストーリズ」の冒頭の「隻手の音」の公案をふまえて
考えられた方はおられませんか。
122:吾輩は名無しである
03/02/02 22:14
禅や禅の公案って相手を煙に巻く言葉遊びの印象しか
ないんだけど、 精神分析学の方面からアメリカでは
当時は注目されてたみたいですね。 無意識を知る
手掛りとして。
サリンジャーは鈴木大拙とか読んでたのかな。
禅や東洋思想に麻薬が加われば、ビートニクや
ヒッピーの出来上がり。
そういえば『バナナフィッシュ』での不思議に明るい
色彩イメージは何かサイケだね。
123:吾輩は名無しである
03/02/08 03:47
>>122
同感。
124:吾輩は名無しである
03/02/08 03:51
「アントリーニ先生、懲戒解雇処分?!(by 東スポ)」
勿論、そんな一面見出しがある訳もなく(笑)、僕の創作なんですが、アンチ「言葉のパズル」論者の僕自身には相応しくないものの、
「概念の広範な潜在性」という点から、これについて考えると、興味深いかということで、こんな話はどうでしょう?
(全体の構成から見ると、以下の解釈を裏付けるだけの要素はなく、邪推の域を出るものではないので、あしからず)
『ライ麦~』を読んでいて気になるところは色々あるのですが、個人的に気になったのが James castle の自殺についてです
*ジェームズ・キャッスル
・クラスでは目立たない存在、物静か(暗い?)
・いつも取り巻きを連れている嫌な奴に対しても、恐れずに批判(=実は相当、根性がある?)
・自室に閉じ込められ集団虐待を受けても、やはり発言は撤回せず、かわりに飛び降り自殺(=やはり、相当の根性の持ち主?)
・ホールデンはその行為を「好きなもの」の一つとして連想
さて、僕はこう考えました
・同級生による嫌がらせは、「恒常的」であったわけではなさそう
・友達のいない奴ではあるものの、いじめられていたというわけでもなさそう
・その英雄的行為を見る限り、相当、根性のある、しっかりものと思える
・それほど根性があるなら、一度(?)の虐待で、なぜ自殺した?
・他に自殺の原因があるのでは?
125:吾輩は名無しである
03/02/08 03:56
つづき
「自らの命を犠牲にして、いじめっこに制裁を加えようと考えたからでは?」と思われる方もいるかと思いますが、
面と向かって文句を言えるだけの根性があるのだから、制裁を加えるなら他にも方法はなくはないし、だからといって「自殺」するのは「極端」であるように思います
・やはり、なにか「他に」、常に彼を自殺へと導くような「要因(悩み)」があったのではないか?
そこで気になるのが、「アントリーニ先生」です
*アントリーニ先生
・長年、独身であったが、最近、資産家のお婆さんと結婚
・美少年ホールデンに対して男色(少年)疑惑あり
・自殺したジミーの無惨な遺体に、誰よりも早く駆け寄り、コートをかけてやった
「なに!、コートをかけてやった?!」
これって、ホールデンも望んでいた行為なので、単純に思いやり深い行為なんですが、「ジミーの自殺」の逸話にアントリーニ先生が出てくることに、少し違和感を感じました
そこで、僕の「邪推」の出番です
・実はジミーはホールデン以前に、アントリーニ先生と性的な関係があった(アントリーニ先生は遊びではなく、本当に愛していたのかも)
・その関係が続いていたが、ジミーはそれを誰にも話せずにいて、アントリーニ先生に対する気持ちと、自身の中に「同性愛」を認めることの間で、精神的に追い込まれていた
そこで、「邪推2」の出番です
「ジミーはろくに話をしたこともないのに、どうでもいいような理由で、ホールデンに「セーターを借して」と頼んでいた?!」
・実は、アントリーニ先生によくしてもらってるホールデンも自分の「仲間」ではないかと思い、探りを入れていた?
・しかし、結局ホールデンは自分と同じではなさそうで、彼は一人で、さらに精神的に追い込まれていく
・同級生の虐待をきっかけに、「衝動的に自殺」
・アントリーニ先生は、それを見て、強い良心の呵責に襲われる
「邪推3」!
「アントリーニ先生もホールデンが去ったあと、フートン校を去り、教師は辞職して、研究職に戻るらしい?!」
・自身の「少年性向」を絶つべく、高校教師をやめて「お婆さん」と結婚
・もしくは、学校上層部に知られて、内密に解雇か?
126:吾輩は名無しである
03/02/08 04:27
すまん。教えてくれ。
「バナナフィッシュ~」を読んだけど、どこが面白いのかさっぱり
わからん。
ただ、男が意味もなく自殺するだけの話に思えた。
127:吾輩は名無しである
03/02/08 16:23
>>126 それが正常
つまらん話をいちいち論理的に分析するのは偏差値教育病
128:吾輩は名無しである
03/02/08 19:25
『聖』と『俗』、それを一見風俗小説風な
スタイリッシュな文体で活写する、というのが
サリンジャーの魅力かな。
『バナナフィッシュ』でいえばミュリエルと母の俗っぽい
会話と禅問答めいたシーモアとシビルの場面の対比。
虚飾と虚栄に充ちたリゾート地での(なにしろホテルには
広告マンが97人もいる)聖者伝といった感じ。
ローブをまとい素足で砂浜を歩くシーモアは
ゴルゴダのキリストのイメージか。
十字架の代わりに浮袋を抱えているのがミソ。
129:126
03/02/09 03:19
>>127
いや、まあ、面白いって思った人の意見を聞いてみようよ。
>>128
なるほど。
言われてみれば、なるほどと思う。
ただ、疑問がある。
シーモアがエレベーターで女性につっかかる場面があったけど、
あれはどう理解すりゃいいの?
あと、
>十字架の代わりに浮袋を抱えているのがミソ。
これはどういうこと?
十字架=死刑の道具、浮袋=溺れないため(生きるため)、ってこと?
その違いはどういうふうに解釈可能なのだろうか。
130:吾輩は名無しである
03/02/09 15:12
サリンジャーってほんとに物事が何々を象徴している
ってかんがえてかいてたの?
読んだ人の後付にしか思えない。
シーモアってただの狂った人だと思う。
131:吾輩は名無しである
03/02/10 20:00
ラジオのサリンジャー特集的なコーナーで聞きかじったが
娘の出した暴露本によると著者は65年隠遁後も、せっせと
創作活動を続けているらしい。
でも本人はその膨大な未発表作品を発表するつもりはないという。
「自分の作品を批評されるのはたまらない」そうだ。
132:吾輩は名無しである
03/02/10 20:08
ハプワース読んだけど、
わけわかんなかった。
フーンって感じ。
133:吾輩は名無しである
03/02/10 23:47
65年も引き篭もったサリンジャーの作品は面白いのだろうか?
134:吾輩は名無しである
03/02/11 00:40
>129
128じゃないけど。
どの本か忘れたけど、シーモアの足の指は六本だって説が紹介されてたな。
シビルが見つけたと主張する、六つのバナナフィッシュは
実はシーモアの足の指だった。コンプレックスを指摘されたシーモアは
それを不快に思ってシビルのもとを離れる。
で、エレベータの中でもつい自意識過剰になってしまって
女性につっかかったのだ…みたいな解釈。
既出だったらスマソ。個人的にはかなり無理があると思う。
135:吾輩は名無しである
03/02/11 05:28
シーモアが完全にいかれているという立場にたてば
小説中でミュリエルの伝える彼の言葉(大勢のバカ者どもに文身をみられるのはいや)
がエレベータの場面をある程度説明するのでは。
でもシビルとの会話の後ではいかにも唐突で当惑させられる
行動なのは確か。
深読みすれば、シーモアは死ぬ前に女性の前で
わざと異常な言動をしたのかもしれない。
正常な状態で自殺したのではないということを
残された人に印象づけるために。
136:あぼーん
あぼーん
あぼーん
137:吾輩は名無しである
03/02/16 02:36
シーモアのミュリエルとシビルに対する態度って、常にユーモアに満ちていると思う
(ドイツ語の辞書を使って読めばいいって言うのも、半分は本気だけど半分はジョーク。
ミスルンペンと呼ぶのも、これまた半分はジョークと思う。シビルに対する言葉も全て、彼なりの、少しシュールなユーモアと思う)
「バナナ~」のシーモアは実はバディ(作者本人)であって、「ゾーイ」の冒頭の手紙にあるように、バディは絶え間なく軽口を叩き続けてしまう性格
「バナナ~」は、
「自殺しようとする人間というのは、思い詰めてふさぎ込んでいるもの」
という通俗概念へのアンチテーゼであって、世の中には自殺する間際にも凄く落ち着いた表情でジョークを飛ばすような人間もいて、
実はそんな人間の方が、心の中に遥かに深い闇を持っているのだ、ということをサリンジャーは訴えているのだと思う
サリンジャーにとってジョークやユーモアは、彼自身をこの世の中に結び付けておくために、絶望に押し潰されてしまわない為に、なくてはならない物なのだと思う
それを訴えているのが「バナナ~」だと思う
138:吾輩は名無しである
03/02/16 04:44
入れ墨を見られたくない」と言うのもジョークだと思わん?
139:吾輩は名無しである
03/02/16 06:52
>>131
読みたいな、それ。
140:吾輩は名無しである
03/02/16 19:34
>>134
漏れ129じゃないんだけど、その説結構面白いと思う。自殺とそれが結びついているかどうかはわからないけど・・・。
「ナインストーリーズ」のそれぞれの短編は、一番最初のページにある禅の公案を本当の意味で理解しないとわからない、って誰かが書いてた。「バナナフィッシュ」はそれが一番当てはまるのでは・・・?
141:吾輩は名無しである
03/02/18 22:02
ageときますね。
142:吾輩は名無しである
03/02/23 00:35
『バナナフィッシュ』のシーモアの台詞。
「ああ、シャロン・リプシャツか。 よくもそんな名前が
思い浮かんだもんだ。 記憶と欲望を混ぜ合わし、か」
「思い浮かんだ」っていうことはこの名前はシビルが
勝手につけた名前なのか?
続く「記憶と欲望を混ぜ合わし」という『荒地』の言及
(訳注によれば)の意味も謎です。
ただここ URLリンク(www.theotherpages.org)を
見ると、エピグラフにギリシャ語でこんな言葉が
あるらしい。
"Sibyl, What do you want ?"
"I want to die."
143:吾輩は名無しである
03/02/23 01:44
どうしてシーモアは銃を旅行先にまで持ってきたのだと思う?
144:吾輩は名無しである
03/02/23 02:46
>>143
やっぱり前々から自殺する意思があったからだと思う。ってことはシビルとのやりとりは自殺の動機には関係ないってことになる。
ほんとはミュリエルを殺すつもりだったとか・・・なんてことはないね。
145:吾輩は名無しである
03/02/23 12:00
「記憶に残る」ことで、記憶という媒体を昇華し真の己を得る。
自我意識(世界観)の統一を9つの物語(数学的な反復作用)で
計っているのではないだろうか。
>122
>鈴木大拙とか読んでたのかな
読んでたと思う。
146:吾輩は名無しである
03/02/23 15:52
西脇順三郎訳『荒地』ではSibylを巫女(みこ)と訳しています。
以下、冒頭を引用。
―荒地―
『クーマエというところで一人の巫女が甕の中にぶらさがって暮
していたのを実際に私は目撃したからだ。 街の少年たちはいうのだ
「巫女さん、あんたは何がしたいのだ」巫女はいつも答えた「わし
は死にたいよ」』
より巧みな芸術家
エズラ・パウンドのために。
I 埋葬
4月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。
冬は人を温かくかくまってくれた。
地面を雪で忘却の中に被い
ひからびた球根で短い生命を養い。
シュタルンベルガー・ゼー湖の向うから
夏が夕立をつれて急に襲ってきた。
147:吾輩は名無しである
03/02/25 22:38
>146
引用だけかよ、おい。
148:吾輩は名無しである
03/02/27 21:40
『荒地』を読めばシャロン・リプシャツに関連した記述があるのかと
思ったけど、何もないよ。
冒頭の「4月」や「春の雨」の句から『エズミ』を連想したくらい。
とにかく難解な詩。
やっぱり、シャロン・リプシャツを話題にしたシビルから
エピグラフにその名のあるエリオットの詩がシーモアに
浮かんだのか?
149:吾輩は名無しである
03/02/27 22:06
ところで『荒地』の128行目にこんな一節があった。
O O O O that Shakespeherian Rag
It's so elegant
シェイクスピアには詠嘆を表すO の文字がよく出てくる。
O Romeo, Romeo ! wherefore art thou Romeo ?
『フラニーとゾーイ』のなかでゾーイが「O」の文字を
一杯落書きするところがあったけど、 あれは
サインの練習をしてるわけでも(Zooooooooey)
禅の修業をしてるのでもなく(無無無無無)
ゾーイの心の叫びなのかもしれない。
フラニーより悩みは深かったりして。
>147
これで勘弁してくれ。
150:吾輩は名無しである
03/03/03 02:44
かんべんしちゃる!
151:吾輩は名無しである
03/03/03 03:16
シーモアが使った銃、Ortgies calibre 7.65 automatic ってアメリカ製?
それともフランス製?
軍人が使う銃なの?
152:吾輩は名無しである
03/03/06 13:24
村上春樹氏の「ライ麦~」翻訳のプロモで、彼のインタヴューが白水社のページにアップされています
<a href="URLリンク(www.hakusuisha.co.jp)">URLリンク(www.hakusuisha.co.jp)
やっぱり彼もブームに乗っ取って読んだ口で、「面白かったと思うけど、よく覚えてない・・・」という普通(良く言えば健全?(笑)の感想の持ち主で、特別な思い入れがあるわけではなさそうです
なのに何故翻訳に取り掛かったか?
周囲の人たちに「求められた」からですって!(笑)
翻訳に際しても、予想通り、作家らしい独自の「解釈」に基づく新機軸による再構成みたいなことをやってるらしいのですが、
そのキーワードが英語で具体的な対象主体を持たずに使われる you を具体的に設定して、主人公が一人語りではなく、
明確な誰かに話しかけているということにして翻訳してみたそうです
これを聞いた僕は興味深々。なぜなら、あの小説で聞き手を想定することは、論理的矛盾が発生して難しいからなんです
「いったい誰に向かって語ってることにするんだろ・・・」
と、先を読んでみて、失笑ですわ(笑)
相手は「もう一人の自分」だそうで、小難しい言葉を使って言い表しておられました(笑)
そこから延々語られるのは、登場人物は全て作者の自己投影であり、全てを「自己」を中心としたキーワードによって完結するというようなお話
世間の多くの人たちがそうであるように、春樹氏も、どうやってもサリンジャーをエゴイストの神経症者にしてしまいたいようです(笑)
このインタヴューを読んでいて可笑しくも悲しいのは、自己投影(しかもかなり身勝手に・・・)をしているのはサリンジャーではなく春樹氏自身であるということなんです・・・
翻訳に取り掛かる動機についてとかもそうですけど、読んでいて、自己中心的な春樹氏のエゴが大暴走してる(笑)と感じたんですが、これってわかり難いだろうとは思います
でもサリンジャーファンを自称する人たちにはわかっていてもらいたいと常々感じます
というのもサリンジャーって、そういうわかりにくいエゴについて、踏み込んで書こうとがんばった人だと思うからなんですが・・・
153:吾輩は名無しである
03/03/06 14:04
ただ、春樹ファンのために言っておきますが、彼はスキルの高い作家だと思いますよ
インタヴューよんでても、文章うまいなと思うし、「ねじ巻き~」読んでても「うまい!」と何度も感心させられた(笑)
(しかしそれは、彼がエゴイストであることの言い訳にはならないぞ!)
だからといって、「僕が嫉妬に狂っている!」なんて短絡的に結論を急がないで下さい(笑)
「ねじ巻き~」を読んでて感じたのは、彼が大成功に伴う功罪みたいなものによって自分を見失いつつあるのではないかということです
毎日マスコミに騒がれ、批判の的にされれば、どんな人間でも精神の平衡を保つのが困難になったりします
いったいなにが正しいとか間違ってるとか、わからなくなると思うんですよね・・・(春樹氏に限らず。一般論です)
周りは、物乞いイエスマンばっかりになったりするだろうし・・・
(フォローしてるつもりなのに、褒め殺しみたいに聞こえる?)
ところで、専用スレが出来たら、半狂乱で鬼神のごとくカキコしてやろう!などと思っているんですが(笑)、例えば誤訳などがあれば、いやらしくネチネチと指摘してやろうかな(笑)などと考えています
でも、明確に誤訳を指摘できるような記述は、実はないのではないか、と思っています
というのも春樹氏は翻訳しづらいところなどは、誤訳を指摘されない程度にうまく誤魔化すのではないかと想像するのです
そういう「あざとさ」が、今後、「ライ麦~」にパッケージングされて後世に語り継がれていってしまうことになるのか、
ということが、僕がもっとも不安を感じるところなんです
杞憂に終わればいいんですがね
その点、野崎氏は真っ正直で、そのような「あざとさ」とは無縁ですよね
そこが、僕が彼のことが好きで、サリンジャー翻訳家としてふさわしくもあるし、納得がいくと思うところでもあるんですが
たとえ古臭いと感じる人がいてもね!
154:吾輩は名無しである
03/03/14 23:40
>>149
>『フラニーとゾーイ』のなかでゾーイが「O」の文字を一杯落書きするところがあったけど、・・・
その説はかなり信憑性があるように感じる
ま、謎というほどの謎でもないけどね
英語圏の文学好きの連中は、すぐにピンと来るんだろうね
155:吾輩は名無しである
03/03/29 04:56
20年前に春樹はこんなことを書いてるよ。
アメリカで「ライ麦」が売れ続けてることを紹介したあと、
…僕個人に関して言えば、「キャッチャー」の感想を求められても
何も言わないことにしている。
エスタブリッシュメントの悪口を言うと人に嫌われるからである。…
「ナンバー」1982.4月号 (「'The Scrap'」1987 所収)
オレも春樹の悪口は言わないようにしよう。
156:吾輩は名無しである
03/04/05 20:44
>>155
20年経ってベストセラー作家になると、人はこうも変わるということだろか…
157:吾輩は名無しである
03/04/13 23:39
『ニューヨーク1997』の邦訳(荒地出版社)を読んだんだけど、すげえ読みにくかった。
原典に忠実なのかわからんが、句読点の位置が変なんだよ。
だから読んでてもすぐにつっかかる。音読が下手な奴が頭ん中にいるみたいで気持ちが悪い。
これ読んだ読者に、サリンジャーは文章が下手、って印象を与えるのでは?とかいらん心配したり。
あとね、表紙を一枚めくって、最初のページに白黒のサリンジャーの顔が印刷されてるんだけど、
それが亡霊みたいで怖い。表紙の色もグロいね。この出版社ってインディーズなの?
158:ixion ◆ySh2j8IPDg
03/04/14 00:36
>157
「ニューヨーク1997」って、「ハプワース16, 1926」のことか?
ちょっと面白いけど^^;
荒地出版の選集は、確かにちょっと微妙な訳もあったりしたような…。
あ、春樹の訳は、やっぱりちょっとジジイがかった内面的な青年(やれやれ)風
に料理されてたね<キャッチャー
159:吾輩は名無しである
03/04/14 05:03
バナナ~の作品の背後には戦争という現実的予件がほのめかされており、それに対し徴兵されまさに当事者の立場におかれたシーモアがどのような態度で対応したのか、あるいはせざるを得なかったのかを考えてみることが読解の重要な鍵になるのではないか。
160:ナナーシー
03/04/14 05:27
その場合圧倒的な破壊として迫る戦争に対し、シーモアは自己の精神性を盾に抗うよりほかに手段はなかったのではないか。そしてその内なる激闘の結果、シーモアの現実に対する客観的な対応力とでもよべるものが取り戻しのつかないほどに損なわれてしまったのではないか。
161:ナナーシー
03/04/14 05:42
そう考えてみると、彼の想像的な文身は、戦争で受けたトラウマの表れのようにも思えるし、また精神性そのものと化した彼の象徴として表現されてるようにも思える。
162:ナナーシー
03/04/14 06:01
そう考えていくと、読めるかどうかにこだわらずにドイツ語の詩集を薦めるわけもみえてくるように思える。
163:吾輩は名無しである
03/04/14 10:07
>>159-162
なるほどね、真っ当な意見だと思う
ただ、難題の自殺をどう料理するのか
それが問題だよね
164:吾輩は名無しである
03/04/16 17:38
シビルのパパが「明日」飛行機でやってくる、というのも
関係してそう・・・
165:あぼーん
あぼーん
あぼーん
166:吾輩は名無しである
03/04/16 17:42
戦地が「男性社会」を表すのだとしたら、そこから
帰還した事を強調するためにこの作品には女性しか登場しない
のかもしれない。
でも、シビルのパパが来ることによって、そこに変化が起こる。
167:吾輩は名無しである
03/04/16 22:20
シーモアは怖かったのではないでしょうか。
シビルの父親が来ることによって戦争の時を思い出すのが・・・
かといって女性社会には、セックスとファッションしかなかった。
そこにも救いが見出せない、という事なのだと思います。
168:吾輩は名無しである
03/04/16 22:25
サリンジャー文学の世界観においては
男性的、女性的とわけるより
禁欲的(どちらかというとカントに近い)、快楽主義的、
といったほうがしっくり来るような気がする
169:吾輩は名無しである
03/04/16 22:34
はじめこの作品とセクシュアリティを結びつける事には
自分も抵抗ありましたが、よく読んでいくと、そうだとしか言えない
部分があります。
シーモアが自殺した部屋番号は、「507号室」で、
そこにいるミュリエルが読んでいる本は「セックスは楽し、もしくは苦し」
拳銃の口径は、「7・65」・・・
つまり、部屋番号と口径数の中心に数字の「6」が来ているのです。
これがセックスを表すとしたら、除光液の香りは・・・ファッション??
170:吾輩は名無しである
03/04/16 22:43
>>169
自分も悩んだ末
数にまつわる寓話みたいなものを一時期
調べた記憶がありますが
他作品との関連も考えると、そこまで数字に
どうこう拘るのは、なんか作品の印象と異なると思う
171:吾輩は名無しである
03/04/16 22:45
>168
禁欲的、っていうのが、サリンジャー作品にぴったりですね(笑)
両方あると良いと思います。
禁欲的、快楽主義的 世界観で見てゆくのと、
男性的、女性的 世界観で見てゆくの。
そうすると、女性社会は快楽主義的、とシーモアには写ったのかも
しれないです。
172:吾輩は名無しである
03/04/16 22:49
>>169
たぶん、この作品はサリンジャーにとって、一種の実験作、
だったのではないでしょうか。作中のシーモアとシビルが
数を問題にしている以上、数字にこだわるのは意味があると思います。
173:吾輩は名無しである
03/04/16 23:07
その後の作品から入ったからかもしれませんが
自分は、女性的、快楽的社会に馴染めない
現代というシーモアにとってみれば非不条理的な社会に馴染めない
気真面目なシーモアの苦悩の末の自殺
と解釈しました
いってみれば、アメリカ文学の昔からの系譜の上に
位置するもんではないかと
戦争がえりの兵士が
周囲と馴染めないヘミングウェイの短編みたいに
174:吾輩は名無しである
03/04/17 23:52
シーモアの自殺の動機は何も一つ、という事はないと思うのですよ。
>女性的、快楽的社会に馴染めない
>現代というシーモアにとってみれば非不条理的な社会に馴染めない
>気真面目なシーモアの苦悩の末の自殺
これも自殺の動機としてあると思います。
ただ、それだけだと、、、その前の、例えばシビルとのやり取りや、
また、「明日」父親が飛行機でやってくるという事の意味付け
が行えなくないですか?
175:山崎渉
03/04/19 22:52
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
176:吾輩は名無しである
03/04/20 16:32
「眠り」で終わる小説~
『笑い男』『エズミ』『フラニーとゾーイ』。
『バナナ』のシーモアもきっと最後に眠っただけだ。
「さあ、ちょっと寝よう。 急いで。 急いで、ゆっくり。」
(『シーモア―序章―』のエンディング)
作家としてのサリンジャーはいつまで寝てるつもりか?
177:SARINGEL
03/04/28 00:19
JEKYLEとHYDEのTROJAN HAIR HIP STARとかJAZZ CAFE
あの娘はT型フォードのホッドロッドでスピンしてよだれ垂らしてた
LONDON,TOWER BRIDGE 腐った野いちご JUICER MIXER
二人で脱獄 シロップは真冬のエンジェル
HI-HO! MR J.D.SALINGER
生きてる時と死んでる時が実はそんなに変わらないことだとしたら
Baby それとももっとよかったりして
噴水とびあがった水 落ちてしまうまで短いと感じるのか
それとも長いって感じるのか
Ah.. HI-HO! MR J.D.SALINGER, Tell Me Why?
HI-HO! MR J.D.SALINGER,
Tell Me Why? Tell Me Why? Tell Me Why? SALINGER
COLD TURKEY 信じられるかな空を飛ぶなんて簡単なことさBaby
SEXY STONES RECORDS ぐるぐるまわってるぜ
SWITCH BLADE METAL KIDSたち 理由をつけたがるMONKEYFIRE
トレーラーハウス100階から落とすなんてひどいことさ
HI-HO! MR J.D. SALINGER, Tell Me Why?
HI-HO! MR J.D. SALINGER, Tell Me Why?・・
(SALINGER/BJC)
178:吾輩は名無しである
03/04/28 00:30
JAZZ→JAZZY
理由→理屈
sorry...
179:pontnord
03/04/29 01:40
~~ 「ライ麦~」で心理学、いやいや、精神(神経)医学のケーススタディ ~~
「う~ん、やっぱり実話をもとに書いてるのね・・・」
確か野崎氏のあとがきに、60年代か70年代に「ライ麦~」が心理学の授業に使われて話題になったとか、作者が遺憾を示したとかあったけど、
それを読んで、僕は単純にホールデン君を被験体にして心理分析をやることだと思って、「小説の登場人物で心理分析をやるとは、なんとナンセンスな・・・」と閉口していた
でも、詳しく調べてないのだけど、僕のその考えは勘違いで、実際は恐らく個々の事例のケーススタディなんだろうね?
で、そう考えると、実は「ライ麦~」は打って付けの教材になるのではないか?というお話
色々あるんだけど、例えば、
・ストラドレーターとのケンカのシーン
・アリーの亡くなった日の出来事
等の、非常に大きなストレスを受けた場合、人の精神はどのような対応(適応)を見せるか?なんてのの好例になったりするのではないかと。
で、もうちょっと突っ込んだ話で言うと、
・眠くならない
・汗が出る
とかいう、「生理現象」がどのように精神状態に影響されるか?なんてことが、正確にシミュレートされてるのではないかと。
これらの事って、文学の中では、表現技法として暗示的に使われたりするから、医学的、科学的根拠なんて、普通は求められないでしょ
というか、それは文学的な「お約束」で、誰も普通は、現実の事とは考えないよね?
でも「ライ麦~」は、そういう因果関係が、かなり正確に現実に即して成立しているのではないかと
だから授業で使おうと思った先生もいたのかなぁ、なんて・・・
180:pontnord
03/04/29 02:17
つづき
で、そう考えると、今まで文学的な「表現(暗示、象徴)」で書かれた、と思っていたものも、
実は科学的に実際に起こったことを単純に作者は書きとめただけなのではないか?と思えるわけです
例えばだけど、
・ケンカで相手の顔を見るのが嫌
・横断歩道の途中で消えてしまう気がする
・フィービーを見てると、なんか、とても幸せ
・ジェーンが何も言わずに、涙を流してから、着替えて元気になって戻ってきた
とかいうのって、よく何かの象徴として「解釈」されることがあるけど、それは違って、単純にある状況下において人間の身に起こりうる、生理現象なんではないかな?と
精神医学的に、科学的に理解できることであって、過剰にそこに(文学的)解釈(象徴)を求めるのは間違いではないかな?と・・・
やっぱりこの小説は、限りなく実話に近いのではないかな?
じゃぁ、文学じゃないじゃんって?そんなことないっスよ・・・
誰か医学生か心理学専攻の人が、医学的(科学的)正当性を証明してもらえんだろか?
というのも、前にも言ったけど、最後の4つの内の2つは、僕自身が実際に経験して、
僕の中では文学的な表現(創作)ではなく、実際に起こった現象であることが証明されちゃってるんだけど・・・
(ハイ、ハイ、そうですよ。・・・どうせ僕は、選民意識を持った「ブタ野郎」ですよ。ハイ、ハイ。(ブヒ、ブヒ・・・)
ま、実話に基づいている(脚色が少ない)ということは、作家の立場からすると、それだけ作家が真剣で、まじめに取り組んでいたとも言えると、僕は感じるんだけど
だから、過剰に象徴的解釈をするより、もっと、多様な現実に目を向けるべきだと思うんだよね・・・
世の中には色んな事が起こるのさ・・・
181:pontnord
03/04/29 02:18
あ、話を「ライ麦~」に戻してゴメン
「ナイン・ストーリーズ」続けてください・・・
182:吾輩は名無しである
03/05/04 01:18
長いことロムらせてもらってたんですが、
スレ全体を通しての本職の方のような強者ぶりを拝見して
pontnordさんにお訊きしたいことがあります。
サリンジャー小説、出来ればグラス・サーガにおいて文体論を書くとしたら
どのようなアプローチの仕方、視点があるでしょうか。
卒論で取り上げたいんですが、良い切り口が見つからず困り果ててます。
グラス・サーガにおけるバディは全知の語り手でありうるか、というテーマも考えたんですが
担当教官に「それは卒論でやらなくても否でしょ、ていうか資料がないよ」とあっさり言われてしまいました。
図々しいのを承知でお願いします・・
183:pontnord
03/05/04 22:59
>>182
実は僕は文学部しろうとで、専攻は経営関係だったもので、もうひとつ、文学研究の常識みたいなものに疎いところがあります
まぬけな質問かも知れませんが、
「文体論」とは具体的には何を論証するのですか?
文体の変化の変遷を比較したりするんでしょうか?
「バディは全知の語り手~」というのは、それを受けて、彼が作者と同一であることを証明できるかどうかということでしょうか?
ひとつ思うのは、グラース・サーガという全体的なアプローチで論証を行うのは、あまりにも広範になり過ぎる嫌いがあるのでお勧めではありませんね
実際は、一連の連作と考えるには、それぞれの作品は異質で共通点のないものだと思うので、比較するならいくつかに絞り込んだほうがいいと思います
僕なら逆に、その差異や矛盾のほうに注目しますが、そういうことを言ってるのかな?
他のみなさんの意見はどうでしょう?
184:吾輩は名無しである
03/05/05 00:41
>pontnordさん
レスありがとうございます。文学専攻ではなかったんですね。ものすごく意外です。
>文体論
わたしも上手く説明できないのですが、文体論は言語学と文学研究の中間に位置する分野とされていて、
文学を語りの構造や視点や話法、時制変化といった言語学的要素から読み込もうという試み、のようです。
全知の語り手というのは、18~19世紀のイギリス小説(オースティンなど)によく見られる語りの形式で、
作者とも登場人物とも切り離された「語り手」がまるで全能の神のように登場人物の心境や
物事の原因、結果を語るのでこう呼ばれます。
わたしは「登場人物の一人であるバディが全知の語り手になりうるか」ということを問題にしようと思ったのですが、
言われてみれば確かに「フラニーとゾーイーにおいて」バディは全知の語り手か、
というように条件を絞ったほうがいいかもしれませんね。
あー、書いてたら担当教官の言葉が現実味を帯びてきた・・・
>差異や矛盾
具体例が浮かぶようであれば、是非お聞かせ願いたいです。
他の方の意見もお待ちしてます。
185:pontnord
03/05/05 13:38
「サリンジャーはやっぱり、熟練のお笑い芸人? ~バディの手紙~」
白水社のホームページの「ライ麦~」新訳、販促プロモーション(>>152)にて、
村上春樹:「これだけ弁が立って、頭がきれて、(中略)やっぱりどう考えてもホールデンを「普通の人」と考えることには無理があります」
角田光代:「~けれどユーモアのセンスはずば抜けてすばらしい、~」
などなど、ようやくのこと、自論を後押しするような、権威ある方々の発言にめぐり合えて、小鼻をふくらませる思いの今日この頃でありますが(笑)、
いうまでもなく、このホームページの3者の発言には、ボクには誤解と思え、ツッコみたくなる部分が山ほどあったりします(笑)
ま、それはまた別の機会に譲ることにしましょう(笑)
再三にわたって僕が言及する「サリンジャー=ユーモア達人説」に関して、以前、「ユーモアやウィットを表現する部分の作品における占有率」を調べると興味深いと言っていましたが、
その好例が「ライ麦~」の他にあったんですね!
春樹氏の言葉を借りるなら、まさに作者の「オルタ・エゴ」とも言える、作中人物にして語り手の「B.」こと「バディ・グラース」による、
小説「ゾーイ」の冒頭でゾーイが読んでいる、長い長い「バディからの手紙」なんですね
つづく
186:pontnord
03/05/05 14:04
つづき
今回、あえて、僕は作品を読み返すことをしていません
したがって具体的な検証もしていないのですが、その必要はもはやありませんよね?
なんと、この手紙、前人未到のジョーク率100%を達成していませんかね?(しかも、この長さですよ)
僕は以前、ホールデン君をマシンガントークの持ち主としていましたが、総大将のバディさんを忘れていました(笑)
「シーモア序章」もボケっぱなしなんですが、この「ゾーイ」における手紙は、人生の岐路に立つ実弟への責任重大な忠告(&告白)の「手紙」ということもあって、
バディさんが相当に時間をかけて、本腰を入れたことが想像できます
この人が本気をだしたら、恐ろしいことが起こるんですな
内容の方は非常に深刻なものが多いにも関わらず、バディは常にジョークを交えて語り続けます
いつ、いかなる時でも、彼はボケれるんですね
逆にちょっとした、お笑い中毒と言えるかも知れません
これのおかげで、彼の心の奥底にある悲しみや孤独といった感情は、他人の目からは完全に隠されてしまっているのかも知れません
でも、一家きっての切れ者のゾーイはそれに気づいているんですよね
だから彼は常にこの手紙を持ち歩き、何度も読み返しているのかも知れません
にもかかわらず、ゾーイはバカにしているかのように、妹フラニーの前でバディを悪く言ったりします
正に冒頭のバディの前書きにあるように、「一家の言葉は独特で、最短距離は円弧を描く」わけですな
この小説は「複雑な愛」について書かれているわけです
187:pontnord
03/05/05 14:57
「~ 閑話休題 ~ 「笑いを必要とする状況」とは何か~逆境から生まれるユーモア」
前出、角田光代さん(>>185)はホールデンの持つユーモアについて指摘はしていますが、それをとりまく環境についてはもうひとつ考えが及んでいないように、僕には見受けられます
やはり、この「お笑い」の考察については、僕のような関西人に一日の長があるようで、おそらく関東なんかではお笑いについて真剣に考えることは、古典落語研究以外にない(笑)のかも知れませんが、
これについて、平成の天才芸人と称されることの多い(笑)、兵庫県尼崎出身のお笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志さんが、自著の中で興味深い発言をしています(ソース、忘れました。多分、初作の「松本」だと思うけど)
「~どんなに頭の良いヤツがいても、そいつを笑わせれたら僕の勝ちやと思うんですよ。~」
これって、関西の子供たちの間では結構、知られた価値観なんですけど、その生成には、実は様々な歴史的、社会的環境要因が考えられるのです
話すと長くなるので言いませんが(笑)、要はお笑いの感覚って、「逆境」を乗り切るための有用かつ、「切実」な手段として選ばれことがあるんですね
関西という都会は時に、正に逆境の街だったりするわけです
ということで、一足飛びに結論をだせば、これだけサリンジャーがお笑いに染まっているということは、裏を返せば、相当な逆境に立たされていたのではないかと推測されるのです
「その、逆境ってなんだろ?」
という視点がサリンジャーという作家を理解、解釈するにあたっては、致命的になるぞと
不思議なもので、ユーモアって、幸せのバロメーターなどではなく、その「真逆」の指標になってたりするんですよ
例えば、ホールデンも大好きなマキューシオ(ロミオとジュリエット)なんて、正にそうでしょ
188:pontnord
03/05/05 16:11
>>184
レス、アリガト
「文体論」
>文学を語りの構造や視点や話法、時制変化といった言語学的要素から~
・語りの構造、視点、話法などはすべて、小説を書く上での「技巧」であって言語学とは別範疇のものだと感じます
言うならば、作者は言語学を利用することはあっても、作品は言語学の対象としては一貫性に乏しいということかな
・技巧としてみる場合、作者の意図を探るという、ゲスな行為が必須となるのですが(笑)、僕はサリンジャーを一般的な文学表現の(確信的)破壊者と見ています
1)「ライ麦~」における、破綻した構成(春樹氏も似たようなことを言ってたね)
2)「ナイン~」における尻切れトンボな作風
3)「フラニーとゾーイ」における、平板で退屈な描写
これらは作者のオルタ・エゴ(!)であるバディが、作中で「商業作文」を教授していることを考えれば、矛盾する事実なのでこの辺の切り口は興味深いですね
サリンジャーって、いわゆるストーリーテリングの手法を拒絶していて、あくまで事実を客観的に述べるというスタイルだと思うので、「文体」のみを取り出して、そこに注目するのはちょっと無理があるかなと感じます
「ゾーイ」の中で、以前にも触れましたが、語り手であるバディがゾーイの行動に対して、思わず感想を述べてしまう部分が一箇所だけあり、
「フラニー」の中にも、語り手がフラニーについて批評を下すような部分がほんの少しありますが、その辺には作者の意図を探る意味で注目はしますが、あくまで作中人物の範疇を超える程のものでもないですよね・・・
189:あぼーん
あぼーん
あぼーん
190:pontnord
03/05/05 16:58
>>184
「バディは全知の語り手か?」
全知の語り手という概念の捉え方からして、文学研究者達と、僕のような非文学系研究者との間にある、大きな溝の存在を感じます
どうも文学研究者というのは、作品を現実世界とも対等な、一つの自己完結する世界として捉え、文学を作者の存在からすら切り離して考えたがる傾向があると思うのですが、
私のような、非文学系の研究者からすれば眉唾モノで、例えば、登場人物に「人格」を与えて議論することも、節度をわきまえなければ、ナンセンスであると感じます
あくまでそれらは、作者によって利用される、舞台装置の一つであり、道具だと考えます
認識のお話で、これらの議論は他の場所に譲るべきですが、僕の個人的な望みとしては、是非、文学研究者の方々に、この非文学的研究方法を実践して頂きたいと思います
前者の、僕のいうところの文学研究的なアプローチを否定しても、充分、文学研究は可能であると思います
ただ、「特定の文学を肴に、あることないことまくしたてる」といった、一部の文学評論の、論理を寄せ付けない怪しい魅力は否定されてしまいますが(笑)
件の、小説における「全知の語り手」というのは、お聞きしていると、童話のような古典的な「物語り語り(ストーリーテリング)」の構成を持った作品のみに表れるもので、全ての小説作品に存在するというものでもないと思います
全知の神というより、あくまで表現技巧の一つ、といったものだと、僕などは感じます
小説表現の革新者であるサリンジャーの中に、その古風な概念の形式を見出そうとするのは、担当教官さんと一緒で、ちょっときついんじゃないかなと感じますね・・・
逆に思いついたのは二つの切り口、
・作者の存在の登場による、全知の語り手の存在の否定という表現方法のあり方
・小説における全知の語り手の存在の、歴史的変遷
これらをサリンジャー作品にからめて論じるのはいかが?
191:pontnord
03/05/05 17:09
>差異や矛盾
スイマセン
また、今度やります
192:182
03/05/05 23:44
丁寧なレス、ほんとありがたいです。
二週間後に卒論のレジュメ的なレポートの提出が迫っているのにまったく筆(キー?)が進まないので、
かなりうっとうしいと思うのですが間断なく質問させていただきます・・
>・作者の存在の登場による、全知の語り手の存在の否定という表現方法のあり方
つまり、サリンジャーが作中人物であるバディを作者として登場させることによって
全知の語り手という語りの手法自体を否定している、ということですか?
それとも「ハプワース」の締めくくりのJ.D.サリンジャーという署名と関係があるのでしょうか。
正直、188でpontnordさんがおっしゃっていたように、サリンジャーで文体論は厳しいと思うんです。
元々文学研究をやりたかったにも関わらず言語学系のゼミに入ってしまったがゆえに
苦し紛れで両方の中間領域と言われる文体論を考え、どうせやるなら好きな作家と思ったんですが。
とりあえず明日、担当教官にこの件で絞られる予定です。
193:あぼーん
あぼーん
あぼーん
194:pontnord
03/05/11 15:42
本日の産経新聞の新作レヴュー欄に春樹訳「ライ麦~」の、書評家・杉江松恋という方のレヴューが載っておりますが、見ました?
字数一杯に自身の個人的な(偏った)解釈を披露しようとする姿勢もいかがなものかと思いますが(笑)、まぁ、それは人それぞれなので百歩譲っておくとしても、
見過ごせないのは冒頭の一文
「~サリンジャーのこの小説ほどさまざまに読解が試みられた小説は他になく、村上春樹もまた、読み手に自由な解釈を許す小説を書く作家だからだ」
(産経新聞 5/11 朝刊、p14)
春樹氏の作品自体がそのような自由な解釈を許容するような作品であるかどうかは放っておいたとしても(笑)、この春樹氏の「ライ麦~」訳に関しては、それとは全く逆で、
原典に対する自由な解釈を許さない、春樹氏自身の個人的な解釈に基づく、解釈の「限定」が、至る所で行われているんですよね
(「脚注」が増えているにもかかわらずね(笑)
本屋でちょっと、立ち読みしただけなのに、目に余るものがありました(笑)
(詳しいことは専用スレの方に書きます)
翻訳に際して、どこまで翻訳家の解釈を優先させるべきかは、議論が分かれるところなのですが、少なくとも、どの程度、解釈が行われているかについては、最も留意されるべき点であると思え、
この産経新聞の一文は、その点について、無自覚で、誤解を招くような表現になっていると思えます
おそらくこの、杉江松恋さんも春樹マンセーの信者の方で、サリンジャーの方には大した関心も無く、恐らく原文の方もろくすっぽ読んでいないし、また読んでみようとも思わないような人なのでしょう(嘆)
サリンジャーを取り巻く、余りの逆境の凄まじさに、ただただ悲嘆に暮れるばかりですな・・・
P.S. 杉江松恋さん!解釈を披露したいのなら、是非このスレへ!と、とりあえず言っときますね
195:pontnord
03/05/11 16:38
>>192=182さん
どのような質問にも丁寧にお答えしようという意識はあるのですが、担当教官さんとのお話の塩梅はどないでした?
あまり色よい返事は頂けなかったのではないかと想像します・・・
あれから色々考えてみたのですが、やっぱり厳しいですね
「ひねって、ひねって、接続する(=衒学的に詭弁を講ずる)」くらいしか残される道は無いようにお見受けしますな・・・
196:pontnord
03/05/21 18:22
いまだ、さわりを立ち読みしただけの、春樹版「ライ麦~」について・・・
まずは、良いニュースから
冒頭のサーマー校長のご令嬢、セルマ・サーマーの話をしていて
「僕はやっぱり、少しは女の子のいる"somewhere"がいいな」というところ
野崎訳では原文の言葉使いを意識してか、具体的な名詞をあてていないのだけど、
(この辺に野崎氏の熟慮の跡が見られるように思う。野崎マンセー!!)
春樹訳では明確に「学校」としていましたね
これも賛否両論だろうけど、より分かり易くなっていると思うので、
僕は後者の方が良いと思っていたりした・・・
てな感じで、
とりあえず、まずは「褒めた」ので、
次、言ってみよー、ツギィーーー!!!
197:pontnord
03/05/21 19:53
「~~『翻訳』ではなく『解釈』~~
村上春樹が「ライ麦~」翻訳を思い至った理由って? 」
1)出版業界冬の時代、関係者がその商業的な訴求力にビジネスの可能性を見出そうとした
2)春樹氏自身の作家性維持、もしくは方向転換の為の必要性
3)春樹氏が「ライ麦~」に関する、ある「解釈」を思いついたから
1)出版業界冬の時代、関係者がその商業的な訴求力にビジネスの可能性を見出そうとした
・本来、翻訳を作家に依頼するのはタブー?
・とくに、春樹氏のような、一癖あるベストセラー作家では、「公平性」にも疑問
・しかし、出版関係者は、「春樹ブランド」の持つ商業的な魅力に抵抗できなかった・・・
・巧くいけば、これをビジネスモデルとして確立し、「冬の時代」を乗り切る一つの手段としようとする胸算用が・・・
2)春樹氏自身の作家性維持、もしくは方向転換の為の必要性
・ファンが言ってた話。僕にはわかりません
3)春樹氏が「ライ麦~」に関する、ある「解釈」を思いついたから
・本人いわく、「全ての登場人物はサリンジャー自身の自己投影」
「ホールデンはもう一人の自分に語りかけている」(>>152)
・すなわち、彼の解釈によると、登場人物は全て、実は「サリンジャー(ホールデン)」という一人の人格
・この解釈に基づいて、全ての会話文を修正してみると・・・
・誤訳うんぬんの議論すら寄せ付けないような「おかしな」翻訳の数々(専用スレ参照)
・実は、新訳ではなく、新たな「『ライ麦~』解釈本」だったのねぇ~
・言われて見れば、春樹氏の英語力についても大いに疑問?
(URLリンク(www.japantimes.com))
198:吾輩は名無しである
03/05/22 12:59
>>196
be somewhere は、例えばフットボールの試合(の応援席)と思ってた。
「学校に行く」だと{行く→通う}ってニュアンス違くなるような。微妙に。
まわりまわって同じことだし、大勢に影響ないんだけれど...
>この春樹氏の「ライ麦~」訳に関しては、それとは全く逆で、
>原典に対する自由な解釈を許さない、春樹氏自身の個人的な解釈に基づく、
>解釈の「限定」が、至る所で行われているんですよね
これなんかも正にその類で、
原文がそうしてないのにあえて「学校」と限定するのは
よほど読者の読解力を信用してないのかなあ?
199:我輩は名無しである
03/05/23 21:40
>>176 の言う通り 眠りで終わる これって今風に言えば「癒し系」?
エズミには感動した。
不思議な物語から傷ついて「きっと良くなるよ」と独白して眠るんだっけ。
手元に本が無いから間違ってたらゴメン
オレもうずくまるように寝ながらジーンと体がしびれてた。
忘れない
エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、
あらゆる機─あらゆるキ─ノ─ウがだ、
無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。
でもどうして「捧ぐ」になってるんだろう?
捧げられているのはサリンジャー自信の心なんだろうか?
200:山崎渉
03/05/28 09:02
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎―◎ 山崎渉
201:我輩は名無しである
03/05/28 20:49
199 です。
自信の心→自身の心
間違えた です。
202:吾輩は名無しである
03/05/31 15:33
「やっぱりサリンジャーは、マーク・トウェインが好き!!」
「トム・ソーヤーの冒険」
ハックフィン初登場の場面で~
トム :「Hello,Hack!」
ハック:「Hello,yourself」
「バナナフィッシュにうってつけの日」
シーモアがシビルの足にキスするシーン
シビル :「Hey!」
シーモア:「Hey,yourself!」
203:吾輩は名無しである
03/06/03 20:00
>202
で?
204:吾輩は名無しである
03/06/11 02:00
サリンジャーについて、ラジオで爆問の太田が語ってた。
サリンジャーの娘の暴露本読んだ人いる?
205:吾輩は名無しである
03/06/11 12:48
>>204
ジョイスメイナードでしょ?
フェミニスト的な内容(母親との関係やら結婚離婚、女の人生)そんな感じだったので、途中で読むのやめてしまった
サリンジャーの暴露本というより、ジョイスの自伝に過ぎない
206:吾輩は名無しである
03/06/11 16:23
サリンジャーの実の娘マーガレット・サリンジャーによる
『我が父サリンジャー』っていうのがあるみたい。
子供の頃ニューヨークに出かけた時は
博物館や動物園や回転木馬、池のアヒル、など
ホールデンやフィービーお馴染みの場所へ連れて行ってもらったとか
書いてあるらしい
207:我輩は名無しである
03/06/14 08:08
>>204
無料で本屋でくれる「波」6月号に川本三郎がその要約を書いてるよ。
益々欲しくなる
208:我輩は名無しである
03/06/14 08:14
207です。
「我が父サリンジャー」は マーガレット・A・サリンジャー著
亀井よし子訳 新潮社から ¥3200
高くて買えません・・・泪
209:♪美香ファン♪ ◆Mika/.HGh2
03/06/15 10:55
幼い頃は溺愛してくれたのに、
マーガレットが少しづつ成長するにつれて、
父サリンジャーのマーガレットに対する態度は
変わっていったようですね。
大人になることを穢れととらえていたのかもしれません。
マーガレットが風邪をひいただけでも、
サリンジャーは露骨に嫌な顔をしたとか。
あまりにも純真無垢なものに惹かれるあまり、
サリンジャーは神経がイカれてしまったのかもしれません。
また、サリンジャーはマーガレットが妊娠した時に、
「おろせ」と言ったらしいですね。
それで娘はキレたとか。
ちなみに、サリンジャーは、まだ、
森の奥で、淡々と、小説を書いているそうです(!)。
アーヴィングが過去の人、と評したサリンジャーがです。
未完で終わったような物語も、続きが読めるかもしれませんね。
フラニーとゾーイーとか。
たぶんサリンジャーが亡くなった後の話しだと思うのですが。
と、いうことです。