05/06/14 18:40:36
>>545
まず双方の面から客観的に観てみるとして。
酸素の少ない金魚鉢の中の金魚が、ACとする。
酸欠で息苦しいが、その環境しか知らないので当然と思っている。
一方その隣には、常に酸素が供給されている水槽がある。その中にいる金魚がACでは無い人。
酸欠の金魚があまりにも苦しそうなので、後者の金魚が何とか力になりたいと
金魚鉢の中に飛び込み手助けをするが、その金魚は拒否をする。
「この金魚鉢を出たら自分は自分じゃなくなる。愛着ある金魚鉢を出るのは怖い。
それに水槽に移るまで外気に晒され死んでしまう」と。
ここで言う金魚鉢が、いわゆる親の価値観や環境。
しかし拒否をした所で、金魚鉢の中は相変わらず酸素で息苦しい。
救いとなるは、ただ一匹助けに来た金魚だけ。なので全体重を掛けてもたれ掛かる。
「苦しい自分を分かって。どこにも行かないで」と。
水槽の金魚は、「一歩勇気を出してその金魚鉢から出れば楽になれる、
外に出る苦しさを頑張れば楽になれる」そう言い聞かせ必死に助けようとする。
しかし助けている金魚は、同様に酸欠の中の環境の上にその金魚がもたれ掛かっている。
金魚鉢の金魚も苦しく辛いだろうが、救助している金魚は二匹分苦しい。
ここで大事なことは、救助している金魚は酸欠の金魚の問題で頑張っている。
自分のことでは無くその金魚のことで苦しみ戦っている。
金魚鉢の金魚も苦しいのは十分承知。でも、自分の苦しみを訴えることでまだ精一杯。
「一緒に頑張ってくれてありがとう」。まだこの感謝が沸く余裕が無い。
ここの段階が、他から観て「甘えだ」と言われてしまう所以なんだろう。
そして金魚鉢の金魚からは「悪態をついている」ように観え、
何故救助している金魚が怒ってるのか理解出来ない、となるんじゃないかなと思。