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有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、昏倒していた小河原秀之丞が
鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけた。
小河原は広岡小之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の
門前で自決する。
襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、
さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収した。
直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち
年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
<死傷者と処分>
襲撃側のうち、最初に駕籠目掛けて斬り込んだ稲田重蔵は河西に斬り倒され即死。
有村次左衛門のほか広岡小之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は彦根藩士たちの必死の反撃で重傷を負い
他の藩邸に自首したのち自刃した。他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、獄死している。
増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びた。
井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。
死亡者の家には跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。
草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。
軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。
処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。
[編集] 影響
井伊大老が試みた、雄藩との協調から幕閣主導型に回帰させ、朝廷の政治化を阻止する路線が破綻したばかりか、幕府の権威も失墜し、幕末の尊王攘夷運動が激化する端緒となる。また、紀尾井