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>>461続き
無論一橋派であり、老中首座が京都対策に奔走する間次席老中として江戸城、将軍周辺の地場を固め、
一橋派に日和った堀田を追い落とし井伊直弼を大老に擁立し、
自らは老中首座として名門溜間(出身)連合による政権奪取をもくろんだとも言われるが、
その野心を見抜かれたか、あるいは、松平慶永の通報で早くから島津の朝廷工作を知っていながら
その情報を握り潰し後れを取った責めによってか、自らが大老に擁立した井伊直弼により早々に解任される。
・堀田正睦
強硬な攘夷論を唱える水戸斉昭の圧力による老中解任騒動の後、
溜間詰格であり、しかも蘭癖と言われた西洋通の堀田正睦が老中に就任した事は、
現実的な外交政策を示すと共に、格下の帝鑑間詰阿部正弘からの老中首座奪取を意味する、
攘夷論者で阿部を後ろ盾とする水戸斉昭への溜間勢力からの明らかな宣戦布告と受け取られるものだった。
その上、将軍家定のハリス謁見、日米通商修好条約締結の責任者となった堀田に対し、
「堀田の腹を切らせハルリスの首を刎ねよ」等、水戸斉昭の暴言は留まる所を知らず、
そのために当初堀田は南紀派に属していたが、
自ら老中首座として乗り込んだ京都対策で出遅れた上、江戸城の溜間・大奥の将軍周辺の動きを読み損ね、
松平慶永を将軍補佐に推挙する事で京都を握った一橋派を懐柔し条約への勅許を得ようとした事が
既に根回しされた将軍家定の不興を買い、家定が堀田案を却下し井伊直弼を大老に就けた事で、
一橋派と目された堀田は解任、江戸城から領地に追い返される。
長くてすいません。もしかしたら、②.の大奥の件に続くかも。