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>>460続き
・井伊直弼
若い頃から国学に没頭し、神君以来の溜間詰譜代筆頭彦根藩井伊家当主としての使命感に燃える
井伊直弼の思考回路を少し辿って見ると、
そもそも、将軍継嗣とは、徳川家の当主として祖法に従い、つまり血統により粛々と決するもの。
それを、よりによって朝廷の介入により、血筋の順を違えて自らの息子を将軍として擁立しようとする
水戸斉昭の策謀は謀反、お家乗っ取り、無法な権力奪取以外の何物でもない。
その上、その背後で外様の島津を初めとした財力のある諸大名が擁立勢力として将軍に取り入り、
しかも、朝廷と言う最高権威によって幕府徳川家の頭越しにそれを実行する事になれば、
それは徳川幕府体制の正統性を根幹から危うくしかねない。
主上においては時々の政治等に煩わされる事なく、あくまで上から見守っていただく事こそが
神君以来彦根の要所を任された京都守護井伊家当主としての本来の勤王。
異国脅威を煽りいたずらに宸襟を悩ませ外交を戦争が見える所まで混乱させた挙げ句に
それに乗じて朝廷の介入で将軍位を奪取するなど言語道断。
一橋派による構成が激化する中、溜間詰、大奥の南紀派勢力から白羽の矢が立って大老に就任した
井伊直弼にとって、最早妥協の余地は無かった。
・松平忠固
溜間詰姫路藩酒井家の次男から帝鑑間詰信濃上田藩松平家に養子に入った松平忠固は譜代名門意識が強く、
阿部正弘がやたらと外部に意見を求める事や水戸斉昭が参与する事を無責任な外部依存として反対し、
老中として開国政策を進めた忠固は斉昭の圧力で老中解任に追い込まれる。
この老中解任は斉昭-阿部ラインへの譜代層の不満爆発を招き、阿部が老中首座を退き
堀田正睦に交代すると、老中に再任され首座の堀田の下で№2の次席的な役割を任される。