08/05/13 01:04:19.54 XE45T0r4
>>376、>>384
将軍継嗣として一橋慶喜擁立をはかった一橋派に対して紀州慶福擁立をはかった南紀派は
江戸城溜間詰大名と大奥が二大勢力だった訳ですが、
***************
①.溜間詰大名
A.河以来の徳川家の忠臣に連なる家柄として小さくとも要所を守護し、
先祖代々徳川家の下で公儀のお役目をその家格に応じて独占、
後世江戸幕府、徳川幕府と言われる政府機構そのものだった譜代大名・旗本衆。
B.封建社会と貨幣経済化が軋みを上げる江戸時代末期、
藩財政の立て直し、政治改革を実行した見識を買われて
老中首座阿部正弘と個人的に交際して政治向きを含む意見を交わし、時に藩政上の支持も受けていた
(水戸斉昭、島津斉彬の藩内での地位は阿部が確立した部分が大きい)賢侯と呼ばれた大名たち。
AはBを、阿部を通じて御政道に口を出し自分達の存在意義を危うくすると見、
Bはその実績見識を買われたが故に、Aを家柄だけで幕府の要職を占める無能集団と見る向きがあった。
中でも、大老資格のある譜代筆頭一部親藩の席次として、将軍の側で補佐、言上し、
格下(主に帝鑑間)の老中をも指導する最高顧問団の役目を先祖代々の誇りとする溜間詰大名と、
御三家老公の格式の上、老中首座阿部正弘推挙前将家慶任命の海防参与として
御政道に直接割り込んで来た来た水戸斉昭は事ごとに激突、水戸斉昭の圧力による老中の解任、
水戸斉昭の後ろ盾である阿部正弘の老中首座辞任に発展する。
一橋慶喜が将軍継嗣となった場合、そもそも祖法である血筋の順が違う上に、
実父である水戸斉昭はもちろん御台所岳父島津斉彬を初め旧阿部派大名が
将軍擁立勢力として直接将軍と結び付き、譜代層はもちろん何れ徳川将軍家すら実力で凌ぎかねない、
権益はもちろん政治システムそのものの破綻を恐れた溜間等譜代勢力は、
江戸城表の支配者として、同じく反・一橋の大奥などとも連携し紀州慶福擁立を将軍家定に働きかける。