08/05/25 08:39:20 kT5+K4Tc
神経症者のこだわり-2
神経症が辛いのは「意識のし過ぎ」「一切皆苦」「意識している事」それ自体が「辛さ」です。
神経症は「意識した事が」そのまま「症状名」になっている。意識した事は「心の停滞」
心の固定。心が流れなくなった事です。
その対極に在るのが「平常心」。それは「自由な心。当たり前の心。流れている心。何ものにも
捉われない心。たとえ、自分の死を目の当たりにしても、心が囚われない事」「絶対肯定」という事。
神経症は、脳の異常ではない、ただの勘違いと言える。自分の心の観察が「鋭すぎている」だけ。
他の言い方をすれば、自分の「命の働きが強すぎる」とも言えるし。又「自我」が強すぎるとも言える。
神経症の完治を目指すなら、人間学を学ぶ事。吃音の人も、不眠の人も、対人の人も、不安の人も、
その元が同じ事を、学んで下さい。その原因は只一つ「意識のし過ぎ」その意識した事が「症状名」
完治を望むなら「人間はどうして悩み、苦しまなければいけないのか」と言う事を学んで下さい。
その中に答えが在るからです。何を参考にするかというと、「禅」です。禅の中に全てが在るからです。
禅の命は、働き、それも命の働きです。自分を働かせているもの。それをじかに、掴み取れと言う事です。
神経症者に置き換えれば「症状は構っていても仕方ない事、だから症状は相手にしないで、症状を起こしているもの
を、じかに掴み取れ」という事です。それは、自分自身を知ると言う事です。
自分の症状を起こしているもの、そのものにも「意識」があります。その意識は「仏性」です。
神経症とは、自我が仏性と対立と矛盾を起こしている状態です。