08/05/06 21:52:02 Mns01GWi
名前を忘れていたのう。
>>14 何度聞いても判らないのは、やはり個我があるという認識から離れられないからなのじゃ。
個我があるという認識から、輪廻を想定する。
永遠の意識があると言っても、個我が意識から作られていると想定する。
個我がある以上は、輪廻もあり、永遠の意識から作られる事もあると想定する。
これらの考えの中を、いつまでも輪廻しておる。
思考は阿頼耶識の範囲にあり、どうしても同じ考えから抜け出せないものじゃ。
故にお釈迦様は無記とされたのじゃろう。
それを考えるより、むしろ修行に役立てるべきじゃろう。
認識の主体とは何かを、追及し、観察するのじゃ。
何が輪廻する認識の主体を作り出しているのか、心の中を観てみるのじゃ。
それを作り出しているのは、肉体であろうか。
眼でものを見る時に認識の主体は起きるのであろうか。
耳で音を聞く時に認識の主体は起きるのであろうか。
鼻で匂いをかぐ時に認識の主体は起きるのであろうか。
舌で味わう認識の主体は起きるのであろうか。
体で触った時に認識の主体は起きるのであろうか。
或いは心の中の感情で、喜んだ時に認識の主体は起きるのであろうか、怒った時に認識の主体は起きるのであろうか、哀しんだ時に認識の主体は起きるのであろうか、楽しい時に認識の主体は起きるのであろうか。
あるいは考えている時に認識の主体は起きるのであろうか、分別している時に認識の主体は起きるのであろうか、あるいはまさに認識している時に、認識の主体は起きるのであろうかと、強く、強く集中し、観察するのじゃ。