08/05/23 15:44:01 STvue26S
◎一念・多念のあらそひなんどのやうに、詮なきこと、
論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり(御消息18)
◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとの
まゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。
文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、
たしかにうけたまはりき(御消息16)
愚かな私ですが、愚かな上にも愚かなことには、「文沙汰して、さかさかしき」私でもあることです。
そのような私が信じることができたのは、「如来の救いは不可思議なのだ」と、
一時的にせよ、そう思いたくなった、そのような導きがあった故であって、
どこまでも、如来のおかげです。
南无阿彌陀佛
463:7
08/05/23 15:49:12 nGJjulUr
皆さんと浄土で再会出来るといいですね。日々仕事や雑事に忙殺されていますが、ふっと我に返って南无阿彌陀佛。
自分などいないという実感ですか・・・?因縁があって今存在しているのですから、縁が尽きれば私が思う「自分」も消え行くのでしょう。
実感、ということそのものも、因縁があっての結果であれば、そこにこだわる事も無常だなあと思うばかりです。
そして、思うということも・・・以下繰り返しになります。
464:7
08/05/23 15:55:41 nGJjulUr
298さん こんにちは。レスの時間がかぶると何だか不思議な感じです。
いつもお聖教上の典拠をたくさん示してくださってありがとうございます。
浄土真宗に自分が救われる道がある、と思ったのも凡夫の妄念に過ぎないのでしょうか?
今はただ阿弥陀仏のお導きであったと感謝する他はなく、お念仏称える他はありません。
南无阿彌陀佛
465:神も仏も名無しさん
08/05/23 16:06:12 FNPHG8s3
>455
弥陀のたのみ方を次第相承の善知識に教わり(条件①)、そのように実践し(条件②)、
その体験によって、信心決定したと信じている本体は、
凡夫でしょう。凡夫の本体は虚妄の心だと言っているのですが。
何か不都合な事がありますか?お聖教の通りですよ。
聞其名号をどう見るのか?聞くのは「誰」か。仏が聞くのならば、諸有衆生と呼び掛ける必要はない。
今、ここに現にいる虚妄の私が「聞く」以外ありません。
他の誰かが聞信した事が、私の往生の因を満足させることなどあり得ませんから、
この虚妄の私が聞信すると言わねばなりません。そういう意味においては、
聞信とは紛れもなく私の体験であると言わなくてはならないでしょう。
ところが、聞信とは何か?と問えば、自力のはからいを離れていると言われる。
また、因が自力のはからいを雑じえない全く仏心であるからこそ、
果は浄土往生、仏果を得ると言えるのであって、
因が、もし、弥陀をたのんだと言う虚妄の私の行為・体験だとするならば、
因は不浄な私の業と言わねばならず、結果、浄土往生は適いません。
信心決定にしても、弥陀をたのむにしても、
どう解釈すれば、この矛盾を解決させることが出来るのでしょうか?と言う事です。
いいですか、私は弥陀をたのむだけですと一方では言いながら、
その実は弥陀ではなく、自身の体験した事をたのんでいる、
しかしながら、その事に対しては目をつぶっている点について、
批判させていただいているのですよ。
凡夫の妄心が雑ざってはならないと言う条件下で、
「弥陀をたのむ」とは、何時何処において成立し得るのか?
もう一度とらえなおしてみたら如何でしょうか。
466:298
08/05/23 16:18:14 STvue26S
>>464
7様、こんにちは。
>浄土真宗に自分が救われる道がある、と思ったのも凡夫の妄念に過ぎないのでしょうか?
もちろん、凡夫の妄念に過ぎないのだと思いますが、
弥陀のお導きが、凡夫の妄念に現れたのだと思います。
私たちは、意識的な行動も致しますし、無意識的な行動も致しますから、
せっかくの弥陀のお導きも、意識下にはのぼらないことも多いのではないかと思います。
それでも、「浄土真宗に自分が救われる道がある」と思わせてくださったのですから、
如来のお導きが、意識にまで現れてくださったということで、
そこに至るには、本当に数えきれない程のお導きの蓄積があったことと思います。
◎自力のこころにて、わが身は如来とひとしと候ふらんは、まことにあしう候ふべし。
他力の信心のゆゑに、浄信房のよろこばせたまひ候ふらんは、なにかは自力にて候ふべき。
よくよく御はからひ候ふべし(御消息32)
よろこびも、妄念の中に出て来るものですが、これが他力の信心のゆえであるなら、
どうして自力と呼べるのでしょうか、とのお示しであると思います。
どこまでも一人のしのぎのこの道、同行の存在は、ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
467:298
08/05/23 16:27:27 STvue26S
>>465
>凡夫の妄心が雑ざってはならないと言う条件下で、
>「弥陀をたのむ」とは、何時何処において成立し得るのか?
◎平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、
そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし(執持鈔)
このときでしょう。
また、
◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
このときではないでしょうか。
◎善知識に遇い、法を聞き、よく行ずる(大経)
このときでもあると思います。
◎幸ひに黒谷聖人、吉水の禅室に臻りて、はじめて弥陀覚王浄土の秘?に入りたまひ(嘆徳文)
このときでもあるでしょう。
さらに、
◎信楽に一念あり、一念といふはこれ、信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり(信巻)
このときでもあると思います。
南无阿彌陀佛
468:298
08/05/23 16:34:38 STvue26S
>>465
>信心決定にしても、弥陀をたのむにしても、
>どう解釈すれば、この矛盾を解決させることが出来るのでしょうか?と言う事です。
所詮は凡夫なのですから、解釈によって解決するのは、無理だと思います・・・
解釈しようとすること自体、一見、救いから離れてしまう行為だと思いますが、
本気で解釈しようとすれば、無理だとわかり、
結局は、救いへと導かれてゆくのではないかと思います。
ただし、465様の疑問は、省察によっても、ほどけるタイプの疑問だと思います。
私は、ただただ、弥陀をたのむばかりです。
解釈できるものを、不可説とは言わないと思います。
深奥のところは、解釈できませんが、方便あるが故に、凡夫に成就できるのだと思います。
そもそも、他力なのです。自力がいくら虚妄であろうとも、障りにはなりません。
◎ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり(信巻)
南无阿彌陀佛
469:298
08/05/23 17:00:31 STvue26S
>>465
それに「行」と言っても、もちろん他力の行です。
行者のはからいが入ってはなりません。
善悪問わず、清濁問わず、救っていただけます。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」であるからです。
有念でもなく、無念でもない、一心です。
南无阿彌陀佛
470:神も仏も名無しさん
08/05/23 18:02:53 FNPHG8s3
>467
それは答えになっていません。
一念帰命には、無論自力のはからいが雑じっていません。
もし、善知識のもと、はからいを雑じえた信心を発得したのであれば、
それは自力信心だったと言う事もありえます。この場合、
善知識だと認識していた人は、実は悪知識だったと言わねばなりません。
自力信心を獲得した事をもって、他力信心を獲得したと勘違いを起こさせた人だからです。
問題は一念帰命とは何か?その性質とは何か?と言う事です。
そこを問わずに「私は善知識のもと、一念帰命の信心を発得しました」と
いくら主張しても、何の解答にもならないと言う事です。
今、問題にしているのは、一念帰命の中身です。
これこそが一念帰命だと思い込んでいる自己の体験をもとに、
一念帰命と言う言葉を把握しているのであれば、
正しくそれは自己の体験をよりたのむ心、それを中身とする自力信心を
一念帰命だと錯覚しているだけ、と言う事も言えるでしょう。
471:298
08/05/23 18:23:47 STvue26S
>>470
「一念帰命の中身」とのことですが、それは、お聖教では、どのように表されているの
でしょうか。
不可説のものは、ことばでは表せません。
さらに、
>答えになっていません
とのことですが、私から「納得の行く」答を期待しても、それは無理だと思います。
>>465
>もう一度とらえなおしてみたら如何でしょうか。
ここにも現れていることですが、465様(470様)は、自身の悩みを、
他への批判にされていませんか。
470様が自らの信心を表せば、どのようなものになるのでしょうか。
470様は、私の後生を心配してくださっているということなのでしょうか。
しかし、まずは他より自分だと思いますよ。
私は、私の後生は阿弥陀様におまかせしております。
465を読む限りでは、「とらえなおし」の必要性を、私は感じません。
465様は、何に悩み、何を迷っていらっしゃるのですか。それが見えてきません。
南无阿彌陀佛
472:神も仏も名無しさん
08/05/23 21:11:08 FNPHG8s3
>471
悩みと言えば、自力の信を旨としながら、他力の信を決定したと
主張して憚らない人が大勢いると言う事です。
一念帰命は信一念、信一念は他力の信心が開き発った最初の時。
その開き発った他力の信心とは、弥陀に対して二心無き心。本願に疑惑の無い心。
また、流転輪廻の際なき凡夫が、無始以来、はじめて仏果を開くべき因を
きざしたわけだから、正しく広大難思の慶心と言われる。
広大難思と言われるから、凡夫の躍り上がるような、
煩悩に満足を覚えるが如き喜び心ではなく、
仏の真実心の喜びと言うべきです。
さて、本願に疑惑の無い心は、自力にてはおよばれない。
自力無功の故に、一心一向に弥陀をたのむ。
この信心は臨終の一念に至るまで相続する。凡心なれば千変万化するが、
変わらず相続する信心なれば、全く仏心と言わねばならない。
すなわち、仏の真実心が私の上に毎時毎刹那働いている姿こそ、信心の相続せる姿ということ。
信一念は相続心であるのだから、たのむ一念は過去の一体験に閉じ込めるべきものではないことは
明らかである。正しく今、たのむ一念が発動していて、私の妄念中に現れ、
救済の作業を為し続ける。我執に逃げよう、楽に逃げようとする自性煩悩に活動する仏心、その姿を信心と言うのならば、
「いつも初事の聴聞」と「今は身にもあまりぬるかな」は矛盾しない。
また「過去の体験」を主体とせず、現に活動している仏心が主体であるから、
「妄念妄執」を主としようとはかる煩悩心との間に常に緊張関係が生じる。
どこまでも自身の手柄を求めようとする我執を虚偽と、
判断し、常に我執に対し慚愧を促すのは、全く仏心が相続し働いているからに他ならない。
~つづく~カモ
473:神も仏も名無しさん
08/05/23 21:42:59 9DmFnQg9
>>454
>体験の主体は「私」以外にない。その私は出離の縁なき、虚妄の私。
>虚妄の私が、虚妄の私を沙汰しても、虚妄の判断。何処にも真実はありません。
これは、自力の世界のみを考えた場合ですね。
他力の信心得るとは、「虚妄の私が、虚妄の私を沙汰」するだけではない世界に出るということです。
>煩悩具足の凡愚の心・体験を指しているのではないのではないでしょうか。
信の巻をよくお読み頂くと、他力の信を得たる「煩悩具足の凡愚の心」で頂く歓びと、解られると思います。
>>472
>すなわち、仏の真実心が私の上に毎時毎刹那働いている姿こそ、信心の相続せる姿ということ。
その通りですね。そしてこれが比喩や想像でなく、現実であるからこそ、
凡夫の心に、身に余る歓喜が常に溢れかえる、ということです。
歓喜とは、仏の真実心が私の上にはたらいてくださるからこそ湧き出でるものです。
それを体得しようとせずに、あくまでも自分の思考という小さな枠の中で、
阿弥陀仏の本願を理解しようとするのは、他力を旨とする浄土真宗の教えにそぐわないことです。
474:298
08/05/23 22:05:46 STvue26S
>>472
>悩みと言えば、自力の信を旨としながら、他力の信を決定したと
>主張して憚らない人が大勢いると言う事です。
なぜ、そんなことに悩むのですか。
真実信心いただきたくて、探し歩いたけれども、会ったどの人も偽物と感じられ、
失望されたということなのでしょうか。
自身が信心いただいているなら、悩むというよりも、
なんとか弥陀の本願海に引き入れてあげたい、と思うような気がします。
如来からは、常行大悲の益もいただけるのですから。
この宇宙をも超えて、はたらき続けてくださる無碍光が、
472様も、救ってくださるはずです。
南无阿彌陀佛
475:神も仏も名無しさん
08/05/23 23:17:01 FNPHG8s3
>473
出ません。出離の縁無き衆生は、死ぬまで出離の縁無き衆生であることには変わり無いからです。
出たと思い、内省している当体が、妄念だからです。
凡夫はその出たと思った妄念に執着せられて、それを根本的価値観として生きようとします。
それは仏心によって、どこまでも否定せられ、変えられていくものです。
もはや、迷いしか生み出す事のなかった、
争いしか生んでこなかった私の築き上げた価値観には用事は無い。
即ち、弥陀の救済欲求のみが妄念を働き場所として、働いている。
簡単に言えば、若不生者の誓いを主体に生き死んでいくのか、
自分の体験(弥陀をたのむにしてもそうです)を主体とするのかで、
他力の捉え方も変わってくるのです。戯論の寂滅をはかるなら、根本に帰れと言うことです。
476:神も仏も名無しさん
08/05/23 23:32:42 FNPHG8s3
>474
一刻も早く人々を救済したいなら、こんな所で近況報告を書き込みしてる暇などないはずでは?
あなたは書き込んでいる内容と実際に行っている活動との間に矛盾を感じないのでしょうか?
もしくは不可思議だから、というカードを使えば、矛盾を封殺可能と考えておられるのでしょうか?
前にも書きましたが、体験主義者はやっかいです。自身の体験が真実なのですから、
自身の考え、発する言葉も全て真実(信心)からあらわれ出たものと考えている。
必然、お聖教も自分の考えにあった箇所だけピックアップする。
そうすれば、矛盾は起きませんよね、当たり前です。
そのような態度でお聖教を開いても、意味はない。
ただ自分に合うものだけをチョイスすればいいのですから。
選択易業ではなく、選択易行です。浄土往生の一大事、凡夫に選択権などありません。
477:神も仏も名無しさん
08/05/23 23:57:07 FNPHG8s3
>473
もう一つ。自力の世界とか他力の世界とか言われますが、
何処にそんな世界が存在しているのでしょうか?
私が生きているのは此処です。パラレルワールドがあったとしても、
現に私が生きているのは、今、此処しかない。
妄念によって、都合のよい世界、概念を構築する必要は無いでしょう。
近代教学者と言われる方々は、新しい概念を構築するのにやっきだったのでは?
(よく読んでいるわけではないので不遜ではありますが)と、
その感化を受けた方々のお話を聞かせて頂くと思ってしまいます。
確かに、鎌倉時代、室町時代の概念や表現を現代にそのまま持ってくることは、
教線拡大と言う事を考えたら、採用できないでしょう。
しかし、世界と言う言葉ひとつを取っても、さまざまな概念が含まれています。
必然、その言葉を使用し、主張する事には、曖昧さがつきまとう。
世界と言う言葉を自己主張の武器として使う前に、それが意味している事が、何なのか?説明が必要です。
如何なる意味にて「世界」と言う言葉を使用したのか?
478:298
08/05/24 00:27:56 eWhZf75f
>>476
476様は、あくまでも私のことを問題にしているようですね。
しかし、476様のご心配をよそに、私は、弥陀に感謝し、よろこんでおります。
阿弥陀如来は、もはや既にすべてをご計画のはず。
私があせる必要など、毛頭ないと思っております。
「新しい概念を構築」「教線拡大」いろいろな道が、あるものです。
私は、釈尊の示してくださった道が、今に至るまで伝わってきていると思っているのですから、
もし「近代」にあらたに現れたものがあるのなら、それが方便でない限り、
教えを曲げてしまうことになると思っております。
当流には、弥陀をたのむことのみ。
概念がどうであろうと、それは浄土往生の助けにもならなければ障りにもならぬ、
と私は思います。
凡夫の妄念といいながら、概念を検討してゆくのが、おもしろいところですね。
何を考えても、所詮は凡夫。六字の救いを信じ、六字にたよるばかりです。
南无阿彌陀佛
479:298
08/05/24 00:33:45 eWhZf75f
>>473
他力の世界を知るまでは、どこをどう見ても、他力と思っても、それすら自力。
なにもかもが自力だったと知らされるまで、他力はわからないものですね。
凡夫には、わけがわかりませんが、
弥陀によって、作り変えられてしまう。
作り変えられたのかどうかさえわかりませんが、
私の場合は、信前と信後を考えれば、
自分の心が変わったと感じます。
本当に本当に、不可思議なことです。
南无阿彌陀佛
480:神も仏も名無しさん
08/05/24 00:44:04 tYCVG64Q
>478
心配などしていませんよ。そんな余裕は無いです。それより、自力執心を離れるのが肝要。
さらに苦毒がインフルエンスされないように(といっても、あなたはし続けるでしょうが)
処置するだけです。面倒くさいですが。
481:298
08/05/24 00:56:57 eWhZf75f
>>480
心配なされていないなら、私の何を問題としているのですか?
「自力執心を離れる」というのは、480様が、480様の自力執心から離れるということを
おっしゃっているのですか?
自力執心から離れようとするのは、聖道と思いますが、
もちろん、聖なる道は、果てしなく尊いものであると思います。
480様は、480様の意図は理解されているのでしょうか?
面倒な気持ちもまた、厭離されねばならぬものでしょう。
もちろん、処置するには主体性が必要です。
何事があろうとも、何事にも惑わされない、強い道であると思います。
真宗は、何事に惑わされても、惑わされない弥陀がいらっしゃるが故に、
弱いままで強いのです。
惑わされる凡夫が、凡夫のままで六字を抱き、
六字によって往生します。
南无阿彌陀佛
482:神も仏も名無しさん
08/05/24 11:14:50 tYCVG64Q
>481
あなたの問題は前々から、他の方々によっても明らかにされてきたでしょう。
第一点は、次第相承の善知識の固定化。たのみ方を教える事が出来るのは、
そうした伝承を受けた限定された者とし、それを称して、善知識と為す点。
善知識が限定されるから、「たのみ方」もまた必然的に限定されたものになる。
その限定されたたのみ方を心得、体験した本人もまた、
特別な限定された存在として認識される。必然的末路です。
それは、弥陀の願心の他に自力を運ぶ事をあらわしています。
何故なら、たのみ方を心得た特別な自分というはからい心が、
弥陀の真実心以外に存在するからです。
これは一心欠けたる者と言わねばなりません。
南無阿弥陀仏をいくら喜んでも、どんなに有難い心が起こっても
凡夫のはからいに根拠する信心なのですから、
浄土往生の因足りえず、仏智疑惑の故に、胎生の果を受けると言う事です。