08/04/14 21:12:31 +iscmxp+
>>805 観察においては、観察する主体を想起する必要は無い。
自我を観察する観照は、無我にして起きるものじゃ。
主体の無い観察という行為を考えるのは、それ自体が普通の人間には難しいかもしれぬ。
しかし、修行によって観察が無意識に為される時、無我の観察が出来るのじゃ。
それまで修行あるのみじゃ。
>>801 おぬしは自分が沢山のものを欲しがっていると思っている。
実は沢山のものを欲しがってはいない。
本当に欲しいのは孤独からの解放じゃ。
孤独から逃げる為に、人々の注目と称賛と愛情を追いかける。
しかし、それが手に入っても孤独は消えない。
それ故に次から次へと注目と称賛と愛情をさらに追い続ける。
孤独は常にそこにあり、観察すれば消えていくだけのものと知るが良かろう。
自分が個人であり、個体であると言う認識から、孤独は起こる。
孤独から恐怖が起こる。恐怖から逃避が起こる。逃避から注目と称賛と愛情への執着が起こる。注目と称賛と愛情への執着から、それらを求める行いが起こる。求めても得られぬから苦しみが起こる。
これは観察の一例に過ぎない。
このように自分自身の心を観察し、苦しみが生まれ、起こってくるプロセスの全体を観察するがいい。
自分が全体を離れた個人であり、個体であるという認識が消えれば孤独が消える。孤独が消えれば逃避が消える。
逃避が消えれば注目と称賛と愛情への執着が消える。注目と称賛と愛情への執着が消えれば、それらを求める行いが消える。
求める行いが消えれば、求めても得られぬ苦しみが消えるじゃろう。